幻想郷が再起動を始め、慣れない筋肉の塊は油を少しずつ得始め。やっと刻が音のない楔を再び打ち始めたのだと教えられたのは。
あの件があってから人間の時間感覚でいえばひと月ほどのことであった。
人間達からは随分なことをやってくれたと言われたが。そうでもしなければ全てが終わり、私をまた最後の一人にするだけの意味のない虚構となり果てていたのだから。
少しは感謝はしてもらってもいいだろう。激流が一気に流れ込むのと、少しはどこかに留まって量を調整して流すのでは堰の破壊の酷さも随分と変わるのだ。
激流ほど元あった形を忘れさせるものもなく。事実を知るための苦労をさせるものはない。事実を全て汚濁で洗い流しそこには最初から何もなかったかのように更地を残す。
だったら、もう新しいモノを作った方が早いじゃないかと。口々に愚衆は騒ぎ立て事実を模した虚構をそこに作り満足気に去っていく。
不都合な事実を残し疵を刻み続けるよりも、己の気持ちの良い虚構を作りずっと正しい道を歩んでいると。滅びへのなだらかな轍を追う方が心は穏やかなのだ。
―たとえばそれは。私をどう見ているかと、愚衆に問いかけた時の答えのように。
永い眠りの後この場所から出られるようになって、まず最初にしたことは幻想郷という世界を知る事だった。あまりにも永い間の不変は。世界の変化を許すには十分な時間が経っていた。
誤解されないために言うが、私は変化を許さないつもりではない。変化はどうしても起きてしまうし、変化させなければ他の神たちが取り決めした古の約束を壊すことになるだろう。
力を使えば可能にするとは言っても、徒にその能力を使えば永遠に全てを死よりも恐ろしい状態にすることになる。
そうすれば、やっと得られた久方ぶりの僅かな安寧も手放すことになる。
私の力を喉から手が出る程欲しがっている連中の、渇望する世界を。私が創り上げてしまってはならない。昔から私の能力を欲する連中は数多あれど。
その力は拒絶に基づく以上は、私が自ら求めなければ得ることができない。
私が望んで与えなければ、永久に。
幻想郷を巡って変動を始めた情報を得てはいるが、私が危惧したビッグデータの大量放出はまだ起きていないようだった。
過去にも外の世界から情報が流れてきている異変があったことと、外の世界を知る人間が幻想郷に来ていたため。緩やかではあるがその情報を受け入れる準備ができていたのだろう。
それでも、ビッグデータの量は肥大化しており。押し寄せた時にこの世界の住人たちが耐えきれるかは、私にも分からない。
それを無にすることは、できないのだ。目を瞑っていても雑音と言う名の嘘が脳と記憶を犯し。
耳をふさいでも今度は目隠しした瞼をこじ開けて、悍ましい偽物の映像が吐瀉物を見せつけるように傷をつける。自らが経験したわけでもないのに、あたかも自分が経験したかのように誤認知し。
無力に憤り、杞憂に怯え。精神が侵され、躰が壊れ、やがて手の付けられない怪物を生み出すのだと。
「……でね、あれだけ私が言ったのに、結局自分の前で見ないと皆信じないから不思議」
そうして怪物が生み出されたとき。私はそれを止めることはできないだろう。生まれてしまっては、できることは不変しかない。死ぬことは変化。殺すことも変化。
生まれる前に止めることはできても。生まれてしまった以上は無力なのだ。
「偽物の情報は本当だと思い込むくせに、どうして事実を見に行こうともせず嘘だと決めつけるのか」
偽物の美しく意味のない映像が永久に映し出される壁。これくらい美しかったと彼女は言い張るが、実際の自然はもう少しくすんでいたような気がする。
本物の自然が美しくないとは決して思わないけど、触れられない自然を誇張して華美に彩るのは違うんじゃないかと。
幻想郷の情報収集が落ち着いて、浅間浄穢山の神域に戻ってきて。得た情報整理の会議の中ささやかな愚痴を彼女は言う。
愚痴とは言っても、私たちが解放されたその後に生まれた化石の怪物のことを誰も信じてくれなかったことに少々不満を抱いているようだった。
「しょうがないよ、あのとき貴方まだ記憶が混濁してた時期だったでしょう?不安定な状態だったし」
並みの人間が一生生きていても得られない情報を毎日浴び続けたのであれば。とうに崩壊してもおかしくない状態で、ある程度の自我と偽の記憶がせめぎ合って精神が崩壊してもおかしくはなかった。
「それは、そうだけど……」
最近は安定して故郷で楽しんだ狩りなども一緒にしたいと私におねだりするが。勝手に他人の山に狩りで入って何を言われるか分からない。
あの山の神に言えば大丈夫!と豪語していても、そんな簡単に山の恵みを譲って貰えるとも思えない。
私の気遣いの言葉に多少は不満は癒されたようだが。それでも昔は自分の言う事で国や人間を動かせた力を持つ彼女にとって、幻想郷で受けた仕打ちは不服なのだ。
不服そうな顔。それを見るだけで、満たされる心と。軋み出す罅が、同時に起きた。水がいつか石を穿つように。心が液体なら、固体に勝る時も来るだろう。
「結局言ってたことも信じて貰えたし、あの妖怪も救われたんだから無駄じゃなかったんだよ」
「あの子はどうなるの?」
「今は幻想郷が楽しいって言ってるし放っておけばいいんじゃない」
怪物の成れの果ては今は落ち着いて幻想郷を見て記憶の再構築をしているようだった。
この山で生まれた以上はここにいても良いとは言ったけど、もうこんな真実嫌!と言われ暫くは戻ってくる気配がない。
相当グロテスクな情報を生まれたての時に見せられ、彼女のような能力を持たない以上は何も隠されてない偽物を大量に口をこじ開けられて飲まされたのだ。
この聖域が生み出した以上、戻ってきたいならいつでも戻ってきてよいとは言ってやったが。
変な勧誘を受けてしまうことも多い幻想郷、次会う時にまた変な事を言い出したら今度こそ手を打たなければなるまい。
「そっかぁ……じゃあ、本当に今は私と貴方しかここにいないのね」
自然と狩りを愛する子だけど、元々人好きで賑やかなものも好む彼女故に。あの元怪物がいればそれはそれで楽しいと思ってるのだろうか。
貴方と私しかここにいない。それは、待ち望んでいたことでもあり。心の奥底では恐れていたことでもあった。彼女が昔に戻って私の前にいるという事が、どんなに待ち遠しかったか。それを拒絶するなんてありえないと、思って居ても。
あの元怪物の存在と後始末の騒ぎ。そこからの幻想郷を知るための情報収集の日々は、向き合うための時間を削いでくれた分私が彼女と向き合う時間を遠ざけた。
偽りの自然を映し出す四季の回廊が終わりを見せると、次は無機質な通路の壁だけの回廊となる。新規とはいっても、彼女の故郷を模したため色々な部屋も用意してある。
祭壇も部屋だけど、あれは神と信仰者たちや来訪者が見える公的な場と言える。だからそれ以外は神が籠る時の私室と呼ぶべきだろう。
神社だって、そこを管理する人間の居住空間があるのだから。人間には見えない神の居住空間があってもおかしくはない。
特に、彼女は狩りを通じて色んなものを持ち帰って来ることも多いため。部屋の中は鹿の剝製やら骨で作った道具で埋め尽くされている。そして興味を持って持ち帰った色々なものたち。
そんな部分も、穢れを嫌うあの連中に嫌悪感を示されて洗脳される一因になったと彼女は知っているだろうか。
彼女の部屋も彼女が洗脳されて以来、四六時中仕事をさせられていたので開けられることはなかったが。
今は大分幻想郷から持ち帰ってきたモノが増え始め、狩りの道具も日に日に増えて行っているようだ。
私を狩りに行かせなさい!と無言の主張をしているようで。
そろそろ許さないと今度は私を的にして鹿狩りの練習させてとおねだりをしてきそうだから、そろそろ許すべきなのだろうか。
今日集めた幻想郷で興味を持ったモノを整理したいだろうと、彼女が部屋に入ったのを見て私も祭壇に戻ろうかと背を向ける。
彼女は私と違い元々は神ではなく、高貴な身分の神でない者であった以上。その生活習慣になるべく近い状態で過ごしてほしい。だから寝室もそこには用意してあった。
眠る神もいるが、私は不変の神。封印されていてもそれは眠るということではなく、指をくわえて彼女をただ見るだけだったというだけだ。
ただ、指をくわえて何もせずに―
「待って」
―何もせずにいた、何もできなかった私を。貴方はどう思っていたの?
「……もう少し話がしたい」
手を掴まれればもう罅割れかけの石は何もできない。一度亀裂を入れられれば割れるしかない。その衝撃を、加えられるのは貴方だけだ。
貴方だけだから、変わってしまわないように、衝撃から逃げ続けていたのに。
「狩りの許可だったら私が明日山の神たちに交渉しに行くから、大丈夫よ」
「そんなのどうだっていいの。私は話がしたいだけ」
強引に手を引かれ彼女の部屋へと連れ込まれた。漂う獣の匂いや生臭さ。その匂いを、久方ぶりに嗅いだ気がする。かつては草や風の匂いと一緒に隣で嗅いだ懐かしい匂い。
無味無臭の虚構では決して味わえない、事実という懐かしい思い出がそこに戻ってきた。
「座って」
座って欲しいと言われれば座るまでである。鹿の毛皮で作った敷物を指さす彼女に従いそこに腰掛けると、彼女はすぐに私の隣に座り躰を密着させてきた。
もう逃げられないのだと思い黙っていると。すぐに彼女は私の仮面をぐいと引っ張り、その痛みに私は軽い悲鳴を上げる。
石の女神とはいえ、痛みは感じにくいだけで痛みと言う感覚は持っているのだ。矢が刺されば傷ができないだけで衝撃は来るし、その辺りは埴輪のような無機物とは異なる。
「何故そんなお面着けてるの?私が洗脳される前は着けてなかったじゃない」
彼女が第一声に放った私への衝撃は。どこか的外れだが別の的には突き刺さる矢であった。
遠回しに変な仮面、と言われたのは分かっているし。散々幻想郷の連中にもお前のその恰好変だと言われていたので、顔を出している幻想郷の周囲からはそういう目で見られているのだろう。
祭壇でないと力が弱まるため心を読んだりはできなくなるが、その方が幸せなのかもしれない。
昔から神々にもあの連中にも人間にも酷い言葉を浴びせられ続けたのだから。今更何を言われても揺らぐ事も傷つく事もないだろうが。
彼女に言われるのはやはり堪えるというか、ほんのひとかけらだけ。脆い私の部分へ疵が入った。彼女にしかつけることの出来ない、僅かな疵が。亡国の王女とは思えないお転婆なその行動が。
本当に戻って来てくれたのだと言う気持ちに変換され。
罅割れた記憶たちが繋がろうと、可視出来ない粒子が結び合おうとしている。
「……この仮面のことよね」
指さすと、彼女はうんうんと頷いて笑った。悪気はないのだろう。本当に、後悔はないと言い最後に封印されるその沈む悔恨の際に。私の姿を捉えた彼女の中で、私はこの仮面を付けてなかった。
混濁する膨大な偽りの記憶に侵されても昔の私の姿を。きちんと覚えていてくれたのか。その記憶にはきっと、私は醜いのだという情報も入っていたはずなのに。
「変かしら」
「変じゃないけど。邪魔じゃないかなって最近ずっと思ってて」
また貴方の翼とかを鹿の角と間違えて撃ったら嫌だし、と付け加えられる。もうここは違う世界なのだから、無闇に矢を射ると人間や妖怪を殺しかねないので控えるようにと注意したばかりなのに。
「……もしかして月の連中につけられたの?外れないの?」
私に対して洗脳と言う作戦は通じない。洗脳は元ある思考を変えることになるため、私の拒絶の力を使えばそれを防ぐことができた。
ならば私の不変の何かを封じるためにつけられたのか。あの時よりもっと酷い事をされたのかと表情が曇る。私自身は酷いことはされなかった。
私に下手に何かをすれば、私の力が消えてしまうことをあの連中は恐れた。だから私ではなく、彼女を人質にして私を封じた。
彼女がいる限り私はあの連中に対し何も攻撃できないし、彼女が存在し続ける為には私は自分の力で穢れを浄化し彼女を壊さないようにするしかない。力を使わないと言う拒絶を、させないために。
封印と言ってもこの神域内は元々神の場所の為、躰を動かし動くことはできた。
力を及ぼす範囲がこの場所だけでしかできないという事。また、好都合にも外部で誰かが浅間浄穢山に侵入を拒む装置を置いたおかげで、それを邪魔されることもなかった。
「違うよ。これは私が自分で着けているだけ」
貴方に永い間酷い事をしたのは、私の方で。何もできなかったのも、私の方だった。貴方を維持するだけで、解放はできなかったのだから。
「え……自分で着けたの?」
もうちょっと趣味の良い仮面なら私が作ったのにと言われると辛いが。この仮面は私が作らなければ、ならなかった。
不変の力を石に込め仮面を作ったのは。私の素顔を偽る為であった。顔と言うのは本来笑ったり泣いたりと変化がするものであり、その個を特定するための事実の情報であった。例えば顔が割れると不利益を被る事例など、いくらでもあるだろう。
私の力で作ったこの仮面を付ければ、何も見えない。姿も形も何も見えない情報となるのだ。
顔の見えない存在であれば。それは私と言う情報も隠され、彼女の蛇に飲み込まれただの意味のない情報と吐き捨てられる。
顔の見えない悪意も善意も、偽りも。彼女の蛇のフィルタリングで無意味な粒子に変化するからだ。私と言う情報の出どころを消してしまえば、それは衆愚の情報に誤認識される。
あの月の民が現れた際に、この仮面の力を消さないと私の力が発動できないためただの石の仮面に戻したが。今でもやろうと思えば、彼女の前から意味のない情報と化すこともできる。
ずっと洗脳されていた彼女の前に仮面の姿で現れたこともあったが。私と言う情報を隠して彼女に話しかけたとしても、彼女が私と分からないのであれば処理すべき無駄な情報として終わる。
洗脳を解除することができない私は。そうすることでしか、彼女を見守る術はなかった。彼女を見ることはできるという事。それだけで。
大量の情報を飲み込んでしまった彼女に、私と言う揺さぶりをかけたら壊れてしまうかもしれないから。
外部から私は醜いと言う偽りの情報を流し続ければ、より彼女は私を私と認識できなくなるから。
「だから取り外すこともできる。心配しないで」
そう言って仮面を取って見せると。彼女は―ユイマンは、顔を柔らかく綻ばせ私の両頬を手で包んだ。
「よかった……!阿梨夜、本当に……」
虚構映像ではないのよね?と念押しされ。手を添え返しそうだよと、事実を返した。まだまだ記憶の混濁は続いているようだけど。私に触れているという事実がきっと彼女を取り戻してくれるだろう。
仮面の事実を彼女は知らないし。知ったらきっと、私と言う情報を害あるものと処理し続けてしまったことを悔やむかもしれないから言わないでおこう。
「仮面がない方が顔が良く見えるし、今度から外して幻想郷に行きましょうよ」
「ユイマンの言う通りそうしたいんだけどね……」
だったらなんで今もつけているのかというと。うっかり仮面を取らずに人間たちの前に現れてしまったため今更外すと面倒だなあ、と思っており。
姿を変えると信仰や色々なところから何かしら言われそうなのでしばらくはこのままでよいだろう。
「神の姿ってあまり変えるなって言われてるから」
「ふーん……阿梨夜がそう言うならいいけど」
でも二人きりの時は外してね、と言うと。ユイマンは私の顔から手を離し躰をしなだれかける。私の手に指を絡め私の硬い躰の形を確かめるように肩を摺り寄せた。
私はその指に自分の指を更に絡めると。空いている手の方で彼女の顔を寄せて顔を覗き込んだ。その応答に、ユイマンは満足したのか。優しく笑いながら私の素顔を見つめた。
「今夜は沢山話しましょう。昔のちゃんとした記憶、思い出したいし……阿梨夜に何があったのかも知っておきたい」
私の事なんて聞かなくてもいいのに。貴方を守れなかった、それだけだったのに。
「……うん、沢山話しましょう」
やっぱり、貴方は。私を傷付けないけれども、疵付けてくれるのね。
終わり
これからAI関連の勉強沢山していかないとだめそうです。
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