社の中には音が無い。世界は深く広がる黒の中に身動き一つせずじっと停滞して、時折流れ着く情報の残滓を蛇が呑み込む湿った音が聞こえることならある。それ以外の間はずっと、社は永遠の命を抱えて死んでいる。
階段の軋む音で静寂は破られた。本を読んでいた私の視界の端で、呼吸の音さえなく黙って何某かの書類を広げていた女神が初めて服の擦れる音を立ててそちらを振り返る。つられて視線を遣った先で、蛇姫は重そうな荷物を抱えて一歩ずつ慎重に確かめながら階段を下る。
「阿梨夜、ちょっと守矢神社に行ってくるから。」
「はいはい、気を付けて…その荷物は?」
「知らない。豊姫から塵塚怪王様に、だって。ついでに持って行くわ。」
「そう…ニナ、ちょっと手が離せないから手伝ってあげて。」
「何してるの、それ?」
階下に一度荷物を置き、弓と矢筒を取りに再び上へと戻るユイマンのことは放り出したままで、阿梨夜の手元が気になって覗き込む。机の上は小さい文字がびっしりと敷き詰められた大量の紙で埋め尽くされ、所々にカードくらいの大きさの白紙も混じっていた。しかし、その中央にでんと置かれた虹色の石が一際私の目を引いた。白く光るその石の横に両手をついたまま、阿梨夜は頑なに動かずにいた。
「ミチマタ様がまたお祭りをやりたいんですって。それに私達の力が必要だとかで、龍珠に魔力を覚えさせる必要がある?とか…詳しいことは私も知らないけど。だから手が離せないの、文字通り。」
「…ふーん。」
彼女が視線だけを私の方へ寄越すのに呼応して、石の纏う光もふわりと揺れる。よくは分からないがまあ奇怪な儀式で忙しいのだという理解にしておこう。聖域の支配を企む上位存在に魔力を抜かれたりしなければ良いのだが。
丁度そこへユイマンが戻ってきたので、床に置かれたトランクケースほどの大きさの箱を持ち上げようとしたのを遮られる。
「こっちで良いよ、それは重いから。じゃあね阿梨夜、行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃい。」
弓と矢筒を手渡される。初めて握るので変に緊張した。ここは触っても怪我しない場所だろうか。途中で取り落とさないように持ち方を試行錯誤していたので言葉を発する余裕は無かったが、挨拶代わりに視線だけは阿梨夜の方へと遣った。簡単な挨拶を済ませて再び彼女が石へと視線を戻した時、再び手元の光が揺れた。どうしても気になって眺めている所を玄関からユイマンに急かされ、私は駆け足に社を後にした。
ピラミッドの外に出ると番人の道祖神がいる。外に出たのは初めてのことでは無かったが、彼女とまともに話したことはまだ無かった。ユイマンはやたら威勢の良い挨拶で彼女を思い切り驚かし、暫くの間楽しそうに談笑していた。知らない単語と知らない名前の羅列を、私は横で黙って聞いていた。ユイマンがずっと箱を抱えたままで、ずり落ちてくるのを何度も重そうに直すので、一度置いたら良いんじゃないの、とだけ口を挟んだ。ピラミッドの番人は何が気になるのか話している間じゅうずっと横目に私の方を眺めていたが、居心地悪かったし何の用だと問う勇気も無かったので、気付いていないふりをして弓を弄って誤魔化した。
番人と別れ洞窟の外に出てからも、猿や山姥や何の生物だかも分からない謎の妖怪に散々絡まれながら、ウバメの元に辿り着いたのは社を出てから既に数時間が経過した後だった。その間一言も喋らずにいるのは退屈だったけれど、化石の森にいる間だって話し相手は一人もいないし、社に行ったところで寡黙の権化たる阿梨夜が何か面白い話をしてくれるはずもない。ずっと黙っているのは慣れていたから、恐らくそれが性に合わないのであろうユイマンが誰かと話して楽しそうにしているだけで、何でも良いか、と思った。
相変わらず無駄に元気な挨拶と大きな謎の箱を寛大に受け止め、ウバメもまた聖域の住人達と同じように穏やかな調子でユイマンの止まることを知らない世間話に相槌を打っていた。少しして、ここまで来るのに感覚が麻痺していただろうが恐らくは一時間近くしてから、漸く話題が尽きたところでウバメは一瞬こちらを気にかけるような様子を見せると徐に手招きをした。
「…おいで、ニナ。久しぶりだね。変わりなかったかい。」
取り敢えず招かれるままに従うが、改まって挨拶されても何を言えば良いのかよく分からない。私が黙っているので彼女の問いにはユイマンが代わりに応えた。いつの間にか荷物の箱の上にちょこんと座ったままで。
「阿梨夜の所にいて変わる筈ないわ。」
「それもそうだ。」
「貴方も変わってない。」
「そりゃあ二日に一回会ってちゃあね。今日も守矢かい。」
「うん。神奈子に呼ばれた。珍しく真面目な用事みたいだけど。」
「それじゃここでいつまでも喋ってる訳にゃあいかないね。」
「んー、良いんじゃない、何でも。諏訪子だっていつも遅いし。」
「あんたよりも?」
「うん、私よりも。」
「そりゃあ何かしらを疑うな。巫女も大変だろう。」
「阿梨夜の巫女してる方がよっぽど大変だと思うけど。何考えてるか分からなくて。」
「あの方は良いんだ、何かうるさく言ってくる訳でもなけりゃ、かと言って引きこもって何もしない訳でもない。干渉しないでおいてくれるが、何かあれば最低限私らの住む場所だけは守ってくれる。これ以上望んじゃ罰当たりだ。」
「巫女も神様も大変なのね。」
「あんたも少しは責任感ってもんをだね。」
「そろそろ行くわ、神奈子が待ってる。」
「今さっき遅れても良いなんて言ったばっかりだろあんたは!」
ウバメが説教の構えに入ったのを目敏く察知し、ユイマンは私の手から弓と矢筒を奪い取ると軽い足取りで聖域の外へと躊躇なく踏み出す。
「じゃあね、ウバメ。ニナもお手伝いありがとう。」
「またイワナガ様が心配して出てくる前には帰ってくるんだよ。気を付けて。」
ウバメに背中を見送られ、目が眩むほど白い光の中へとユイマンは姿を消した。さて、と吐息を零しウバメは足元に転がされた大きな箱の蓋を引きずって開ける。中には厳重に梱包された石像が二体入っていた。
「手伝ってくれるかい。片方はそこの木の下に。」
「なあに、これ?」
「月の都が寄越した道祖神だ。これで今までより視覚的に明確に聖域の内と外を分けることで山姥と外の妖怪双方の意識の中の“境界”を明確化して、それが最終的には外からの穢れの流入を低減することになるらしいよ。」
穏やかな調子で告げ、彼女は石像の一方を片手で軽々と持ち上げると少し離れた場所に置きに行く。真似してもう一方を持ち上げた。一体だけでも片手なんてとんでもない。落としてしまわぬように両手でしかと抱え込み、それでもごく短い距離を移動させるのに何度か地面に置いて持ち直した。山姥というのは凄いのだな、と思うと同時に、これを二体同時に一人でここまで持ってきた王女がいたことを思い出して少し寒気がした。
木の根の間に石像をぴたりと固定してくれそうな隙間があったので、どうにか持ち上げてその場所に安置した。頭上を見上げてみる。石像の上までぎっしりと葉を茂らせた梢が伸びて、きっと雨風にもある程度強いだろう。道祖神が置かれたことで、確かに私の心の中にも境界が引かれたような気がした。そうか、この子が立っている場所より向こうは今から“外”なのか。ワニかサメか、とにかく何某かの海洋生物を模したような奇妙な道祖神は、太陽の照りつける明るい“外”の世界をじっと見つめていた。
戻ってきたウバメは安置された石像を見るなり満足げに礼を述べ、大袈裟なくらいに褒めてくれた。山姥でもこんなに気が良くて接しやすいのだから、うちの阿梨夜は相当な変わり者なのだろうな、と改めて思う。あれにもユイマンのような友人がいるのだから巡り合わせというのは不思議なものだ。ぼんやりと思案していた所へウバメが告げた。
「ニナは行かないのかい。」
「…どこに?」
「ユイマンと一緒に行っても楽しいんじゃないかい。外のことなんか一つも知らない身でこんな事を言うのも何だがね、あの子が言うにはここより外の方が楽しいと。」
「…私は。」
「知らないから怖いだけさ。」
ぽつりと呟いた彼女の言葉は私に向けられたものである以上に、彼女自身に向けられたもののようだった。言い聞かせるように彼女は続けた。
「知ることを恐れちゃいけないんだ。知る努力をしなきゃならない。じゃなきゃ全部が怖いままだ…本当はね。」
「でも、噂だけじゃない、自分の目で見たものだって本当のことかどうか分からないのに。」
「そうさ。関わる相手によって世界の見え方なんて一切変わる。そうでなくても、聖域から一歩外に出れば今まで信じてきた世界は逆さまにひっくり返るだろうね。それが怖いから私はずっとここにいる。結界化が無けりゃ外になんか出るもんか。私はそれでも十二分に良いと思ってるし…でも、ちょいと勿体ない生き方かもしれないとも思ってる。ニナ、良いかい、あんたはまだ若い。まだ色んな可能性を持ってるんだ。潰しちまうにはまだ早い。何でもやってみて、誰とでも話してみて、どんな場所にでも飛び込んでごらん。それを怖がっちゃならないよ、私らみたいに草臥れた生き物にならないように。怖いと思ったその先に、無理やりにでも一歩踏み込んでごらん。もしもそれで傷付いて、やっぱり聖域の中で暮らすことを望んだとしても、その時はいつでも戻っておいで。私も、イワナガ様も…聖域はそういう生き物を誰であれ拒みやしない。でも、少なくとも今はまだ…聖域はあんたの居場所じゃない。」
諭すように優しく告げた、彼女の言うことは分からないでもなかったが、同時に理解したくないとも思った。彼女の言うことはきっとどうしようもなく真実で、それでもそれを受け入れることさえまだ怖かった。私が抱えた恐怖心を私自身で否定するのが怖かった。私の内に私の知らない“可能性”が眠っているのが事実なら、それを掘り起こして今までの私とは別の私になることがたまらなく恐ろしい、そのことだって紛れもない事実だ。
ふと見下ろした私の足元に、その時黒い羽根が一枚ふわりと舞い降りた。風上を見遣る。一羽の鴉が先程設置したばかりの道祖神の頭上に止まり、じっとウバメの方を見つめていた。物言いたげな瞳に向けてウバメは問う。
「…どこだい。」
鴉は翼を拡げ一つ大きく振りしだくと、山頂の方へ向けてやや西へと飛び去った。ウバメは小さく吐息を零す。
「…偽天棚か。悪いねニナ、ちょいと行かないと。」
「どうかしたの?」
「あれは大天狗の所の遣いだよ。時たま呼ばれるんだ。普段なら行きやしないんだがね…偉そうに講釈垂れた後だ。良い歳こいても冒険の一つだってしても良いさね。」
彼女は一瞬躊躇するように傍らの道祖神を振り返り、それでも軽々と“境界”を踏み越えた。
「…それじゃあね、気を付けて帰るんだよ。」
白く柔らかい光を背負い、彼女は優しく微笑んだ。そうして夏の熱気の向こう側へと姿を消した。それを見送って、彼女の姿が見えなくなってから遅れて気付く。追いかけても良かったのか、と。何となく誰かに禁止された気でいたけれど、止める者も咎める者もいないのだ。その事を理解してなお、見えない線を超えて行く勇気はまだ持ち合わせていなかった。踵を返す。夜のように暗い聖域の森の景色が心地よい。これで良いのだ。ここで引き返したとて私を意気地無しと責める者もまたいない。胸中に隠した本音はいつしか本音ではなくなっていた。私もあの向こう側に行ってみたい。自分の目で外の景色を見てみたい。それをしないのは私が弱いから、私が臆病だから。知りたくなかった真実を眼前にまざまざと突きつけられる。それでも、心のどこかで気付かせて貰って良かったとも思うのだ。
悶々と考え事をしていたので、ピラミッドの入口を間違えかけて引き返す。出かける時も戻ってくる時も、少なくとも私は必ず北の入口を使う。迷宮の中で迷子になっては大変だから。何度か中を歩き回って既に全ての通路の構造は把握していたけれど、まあ歩き慣れた道が一番だろうと思ってそういう風に勝手に決めていた。
青い扉の方に回らねばと思って踵を返した所で番人の道祖神と鉢合わせた。彼女は先程ユイマンに向けていたのと全く同じ、穏やかな視線をこちらへ向ける。
「お帰り。それ、綺麗だね。」
指さされた先、自分の左の胸の辺りを目で追うが、彼女が何を示しているのかは分からない。番人はそっとこちらへ手を差し伸べ、衣服の裾に隠れた小さな宝石の飾りを持ち上げた。
「真珠?」
「…ああ、そう。阿梨夜がつけてくれたの。」
「そうなんだ。素敵だなと思って、ずっと気になってたの。それだけ。さっきはごめんね。」
まくし立てるように言い残し、彼女はその場を離れようとした。咄嗟にその背を呼び止める。
「…ねえ。」
何故呼んだのかは自分でも分からない。不思議そうに私の顔を眺める彼女の視線が痛くて、強引に捻り出した問いはあまりに幼稚なものだった。
「…今日はどこから帰れば良いと思う?」
それでも、彼女は笑って赤の扉を指で示した。
「情熱的な欲望を持った貴方は…そうね、南の入口が良いんじゃない?」
「…ありがとう。」
「こちらこそ。また道案内させて。ずっとここにいるのも暇だから。」
丁度出掛ける所だったのだろうか、一言だけ告げると彼女は今度こそ洞窟の出口の方へと去って行った。赤の扉の方へと回り込む。悪くない景色だ。目が痛くなるほど赤い廊下の先へ、スカートの裾を広げて飛び込んだ。北の扉に入ろうとしていたことなどすっかり忘れて。通路に充満する夏の香り。今までは気付かなかったけれど、きっとユイマンが出掛ける度に持ち帰ってきていたものだろうな、と思う。無機質な空間の中、そこに漂う夏風だけは“本物”だった。
化石の森の一番底に、勝手に自宅にしている大きな木の洞がある。そちらに帰っても良かったが、無意識のうちに森を抜けて阿梨夜の社に戻ってきてしまっていたので、挨拶も無しに上がり込む。いつ訪れても阿梨夜は大抵本を読んでいるか化石を磨いているか、時折眠っていることもあるが、とにかくずっと一人で真剣な顔をしているので邪魔しないように私からもあまり話しかけない。ところが、その日は珍しく私の帰りを待っていたらしく、阿梨夜の方から声をかけてきた。
「…あら、お帰りなさい、丁度良かった。」
有無を言わさず手を取られ、小さな石を握らされる。出掛ける前に見た、机の上で阿梨夜が真剣に睨みつけていたのと同じ石だった。それは私の手が触れた途端に淡い赤色の光を発した。
「…うん、大丈夫そうね。それ、暫く持っててくれる?」
「握ってれば良いの?」
「そう。手を離さないでおいてくれれば何でも。そのうち勝手に光が消えるから。」
二階の部屋に下がろうと思っていたが、阿梨夜の方は丁度ひと仕事終えたのか石を手渡したきり満足げに座椅子に腰を下ろし、何をするでもなくぼんやりとこちらを眺めていたので、私もその隣に座り込んだ。阿梨夜が座椅子をもう一つこちらへ押してくれようとしたが断った。変に座面が柔らかいのは好きではない。
「何なの、この石?」
「龍珠っていうの。天界の魔力が入った珍しい石。ミチマタ様が預けてくれたのよ。」
「そのミチマタ様っていうのは誰?」
「地上の…市場の神様でね、私ともちょっと縁があって。」
その縁と言うのは変化を嫌う阿梨夜の元にこんな得体の知れない石を持ち込んで握らせる程のものなのか。訝しく思ったが阿梨夜の友人を悪く言うのも気が引けて黙っておいた。
「ふーん。月の石とかじゃないなら何でも良いわ。」
「別に良いじゃないの、月の石でも。」
「だって月人なんか嫌いだもの。嫌な奴なんでしょ。」
「そういう…地上を見下すような人もいるけどねえ。嫌な奴なのはお互い様よ。」
そう言えば、阿梨夜は昔月の民と共に暮らすことを拒絶したとか何とか言ったか。阿梨夜が言うにはそれで彼女らのプライドを深く傷付けた阿梨夜が悪い、らしいが、嫌なものを嫌だと言って何が悪いのか私にはよく分からない。
「慇懃無礼って言葉があるのよ。ユイマンから聞いたわ。あんまり優しすぎるとかえって誰も得しないものよ。」
「あら、優しいって?私が?」
「優しいんじゃない?阿梨夜は。ユイマンもね。」
「それが面と向かって言えるニナも優しい子よ。」
彼女は右の翼を反対の手で引き寄せ腹の前に回すと膝掛けのようにその上に投げ出す。ただでさえ涼しい聖域の、更に地下の最も深い場所なので、夏の盛りであろうと少なくとも暑くはない。阿梨夜は少々寒がりすぎると思うが。
会話は一度そこで途切れた。普段ならその辺りに置いてある本に手を伸ばしている頃合だが、今日に限っては阿梨夜は何故か落ち着かない様子で自分の翼の先と私の顔を交互に見つめていた。互いに手持ち無沙汰なままで沈黙に場を委ねる。ややあって阿梨夜の方から徐に話を切り出した。
「…外ではどんな話をしてきたの?」
一体どんな言いにくい用かと思ったら、溜めに溜めて聞くことがそれか。肩透かしを食らい思わず失笑を零す。彼女は不満げに眉を顰め問うた。
「…良いでしょ、世間話したって。」
「世間話。阿梨夜に一番似合わない言葉かもね。」
「だからたまにはと思ったのに。」
「そうね、ごめんね。」
「後はね…ニナ、珍しく疲れてそうだったから。何かあった?」
不意に核心を突かれ思わず口篭る。他人には興味が無いものとばかり思っていたが、まさかそんなことまで見透かしていたとは。普段通りに振舞っていたつもりだった、と言うより私達の間に“普段通り”が存在するほど親密になったとさえあまり思っていなかったのに。
「…ニナ。何か凄く失礼なこと考えてない?」
「あ、読まないでよ。そうか、勝手に読んだのね?阿梨夜も随分良く見てるものだと思って一瞬感心しちゃった。」
「そんなこと無いわよ。出掛ける前より声のトーンが低い。それに、私が何か言うといつもは鵜呑みにするのに、今日はたまに一人で納得行かないみたいな顔してる。」
図星を突かれ再び黙らされる。僅かに目を細め彼女は続けた。
「私の考えすぎなら良いんだけど。もし話して楽になることなら…ね。あんまり一人で考えずに。」
それを阿梨夜が言うのか、と咄嗟に思う。それから、ああ、こういう所だろうな、と。今日はどうも何を言われても素直に受け取る気にはなれない。さっき外でウバメに言われたことが関係あるのかはよく分からないが。
「…私ね、聖域の外に行ってみたいの。」
自棄になってすっぱりと告げてみる。特に根拠は無いが咎められるだろうな、と何となく考えていた。意外にも、阿梨夜は穏やかな調子で頷いた。
「良いんじゃない。行ってみたら。」
「…聖域の外には何があるの?」
「聖域の中に無くて外にあるものなんてそう多くないわ。だから聖域と変わらない。寧ろ山姥がいないのがかえって怖かったかもね、この前久しぶりに外を歩いた時は。何にせよ実際に見てみれば分かるわよ。」
「…怖いの。」
「分からない物は怖いわ、誰だって。」
ウバメが言ったのと同じ言葉を阿梨夜も繰り返した。
「私だってとても話しかけようと思う見た目はしてないでしょう。自分で言うのもなんだけど…でも知ってるから怖くない。そうじゃない?」
「そうやって外のことが分かったら、怖くなくなったら、私もユイマンみたいに沢山外に遊びに行くようになるのかな。それも怖いの。自分の世界が変わるのが怖い。」
「ユイマンは居るべき場所に戻れただけよ。断言は出来ないけど、貴方の居るべき場所もきっとここじゃない。別の物に変わるんじゃないの。あくまで元に戻るだけ。貴方の場合はまだ生まれたばかりで、何が“元”なのかも分からないかもしれないけれど。だからそれも、知らないから怖いだけ。」
でも、それでも。何か反論しようとして、急に何を言おうとしていたのか忘れてしまったかのように言葉に詰まる。必死に返答を探す私の背中に、阿梨夜は片手を回しそっと引き寄せた。
「疑うことは良いことよ。でも、それじゃ何にもならないこともある。貴方はただ、自分の心を守る為に疑っているだけ。世界に正解は無いけれど…自分の足で歩いた場所というのはその人にとって正解のうちの一つになる。最後の最後に信じられる砦になる。不安を乗り越えた先に一歩でも多く足跡を残すこと、それが一番手っ取り早く、未来の不安を消す方法なのよ。」
告げて彼女は私の掌から握っていた龍珠を取り出す。石の光はいつの間にか消えていた。
「よし、ユイマンには今朝貰ったから…これ、ミチマタ様に返しに行かない?」
「…今から?」
「今から。外に。大丈夫、二人でなら怖くないわよ。」
「阿梨夜が行けば良いんでしょ。」
「でもねえ、私も外に行くのなんて二回目か三回目だし、一人じゃ色々と不安なのよね。ニナが一緒に来てくれたら心強いんだけど。」
思ってもいないことを、いや、思っていたとして口が裂けても言わないことを。乗せられているのは火を見るよりも明らかだったが、曲がりなりにも阿梨夜がそう言ってくれたのだから、それだけで少し安心できた。彼女は問うた。
「…外に行きたいって言ってたのは貴方の本心?ユイマンか誰かに言わされてる?」
「まさか。行きたい。私の意思で行きたいの。」
「だったら嘘ついちゃダメよ。自分につく嘘はね、他人につくのより取り返しがつかないから。」
静かに告げ、彼女は石を片手に席を立つと机の上に広げられたままだった書類を借り物らしいバインダーにまとめていく。そうして荷物を抱えると、未だ立ち上がれずにいる私の手を取り軽く引いた。阿梨夜に誘われるなんて初めてのことだった。何となく面白いな、と思ったら自然と気が軽くなって、気付けば促されるままに、私は社の外へと飛び出していた。
聖域の森の外れの所で、丁度外から帰ってきたウバメに出くわした。阿梨夜は小さく頭を下げかけて、ウバメが視線だけでそれを制するので肩を竦め告げた。
「…お帰りなさい。大天狗の所?」
「そう。当ててあげようか、イワナガ様も市場だね。」
「当たり。ミチマタ様の所だけど。」
「多分同じ用だよ。来月の市場の話。ユイマンも今守矢にいるそうだけど、同じ話じゃないかねえ。」
「多分ね。アビリティカードに使う魔力、渡して来た?」
「ああ、今さっき。ネムノに乗せられてねえ。まあ、正直な所、ほんの少しくらいは楽しみにしてる。」
「良かった。貴方がそう言ってくれるなら私も少し楽しみかもね。」
僅かに相好を崩し、阿梨夜は無言の別れを告げると踵を返す。ウバメもまた自分の縄張りへ戻ろうとして、去り際にぽんと私の背を半ば叩くように押した。
「…行ってらっしゃい。」
一言だけ言い残すと、夜のように深い闇の向こうへと彼女は姿を消した。その背を見送り振り返る。阿梨夜は“境界”の向こう側で黙って私を待っていた。足元の道祖神は相変わらず外の世界を見つめたまま動かない。彼はもう動くことが出来ないのだ。いつか遠い未来、あのピラミッドの番人のように自由な身体を手に入れたとしても、どこで何を見て誰と遊んでも、最後にはこの場所を護り続けなければならないのだ。そういう風に彼は生まれてしまった。少なくとも私は彼とは違う。それは幸せなことなのかもしれないし、或いは不幸なことなのかもしれないが、それは自分で生きてみなければ決められないことだ。
踏みしめた境界の向こう側の大地は陽光に照らされて熱いくらいに温かい。世界を白が包み込み、目が痛くなって思わず瞼を下ろした。赤く染まった視界がふっと翳る。ゆっくりと目を開けた先で、広げた阿梨夜の大きな翼が太陽の光を遮った。徐々に極彩色の世界に目が慣れてくる。雑多な情報の塊だった色と形と光の羅列が徐々に意味を持ち始める。木々の音も風の香りも空の色も聖域と同じ。それでも何か、私の五感では感じられない何かが決定的に違う。情報の渦に呑まれかけ、目眩に耐えて阿梨夜の身体に身を預けた。彼女は黙ったまま、私の肩を優しく抱き寄せた。
山頂まで、気が遠くなるほどの時間歩いた。飛んで行けばすぐだっただろうが、先に阿梨夜が歩いて行こうと言って、私もそれが良いと言った。足元の獣道にはたくさん石が転がって、阿梨夜は珍しいのを見つける度に拾い上げて蘊蓄を述べた。麓では見ない花も沢山咲いていたので気になってそれについても聞いてみたが、彼女は花のことは妹の方が詳しいんだと言って笑った。少し困ったようなその表情は触れてくれるなと告げていたから、それきり花の話をするのはやめた。既に周囲は珍しい石と知らない妖怪と見たことのない動物に溢れ、花に頼らなくても話題には事欠かなかったから。それで、日が傾いて空が緋色からやがて緑に染まるまでの長い長い時間を私達は歩き続けた。
山頂に辿り着く頃には気の早い星々がまだ少し青の残った空に僅かずつ姿を現し始めていた。砂利を踏み締める二人分の足音に呼応するように、岩場の上に佇んでいた人影がこちらを振り返る。彼女は夜闇の中にぼんやりと美しい虹を纏っていた。
「…イワナガ様。ユイマン王女なら地底に出かけられましたよ。」
「地底に?またどうして?」
「ハニヤスビメ様にお会いしたいと言って聞かなくて、ヤサカ様と一緒に。」
「そうですか、ハニヤスビメ様は今は地底におられるのですか。元気にしておられますか。」
言いつつ阿梨夜は虹の女神の元へと歩み寄り、小さく膝を折って挨拶を述べる。それを制するように女神が軽く阿梨夜の肩を抱き寄せるので、失礼しますと彼女は弾みをつけて岩場の上へと跳び乗った。それから私の方へ向けて小さく手招きした。話の邪魔をしないように黙ってそれに従った。
「ええ、それはそれは。元気が過ぎて向こうの醜女に散々追い回されているとかで。」
「…私よりお変わり無いようで何よりです。」
「まったくですよ。」
「しかしね、ユイマンのことも気になりますが、ミチマタ様に用事なのですよ。これをお返しに上がりまして。」
「…あら、わざわざ申し訳ない。明日取りに伺おうと思っていましたのに。」
「良いんです。この子をね、ミチマタ様に会わせてやりたくて。」
告げて阿梨夜が軽く身を引くので、互いが互いの瞳を身を乗り出して覗き込む。女神は切れ長の目を優しく細め告げた。
「…初めまして、私は天弓千亦。市場のプレゼンターです。」
「…ニナ。渡里ニナ。」
「素敵なお召し物ね、ニナ。とても可愛らしいわ。この子が前に仰った…?」
「ええ、化石の森の。」
「どおりで。龍珠と同じ魔力の匂いがすると思いました。」
受け取った龍珠を掌の上で無造作に転がしながら千亦は告げる。
「分かるものですか。」
「分かりますとも。幻想郷においては龍の存在こそが究極の真実であって拠り所なのですから。だからそういう願掛けの意味も込めて…消えゆく真実を歴史に刻み込めるように、そういう意味も込めて幻想郷の住人の魔力を龍珠に託しているという側面もある。アビリティカードにはこれから先、単なる娯楽の枠を超えた、そういった存在になって行って欲しいと思っています。私の勝手な願いですが…だから助かりました、ご協力頂けて。」
「…いえ、有難いお話です。私達のような者にとっては特に。」
「聖域の中も外も変わりあるものですか。」
ぽつりと告げた言葉と共に、吐き出した吐息は天へと昇って消えた。そこへ、背後から砂利を踏む音が微かに響く。振り返った先に一匹の狐が舞い降りた。彼女は千亦へ向けて小さく一瞥を遣ると、挨拶のつもりか一度大きく長い尾を回して告げた。
「…イワナガ様。少しよろしいですか。飯綱丸様がお呼びです。」
「良いですよ。それじゃ、ミチマタ様、すみませんが。」
「はいはい、暗いですからお気を付けて。」
「…ニナはここで待ってて。」
告げて私の額に優しく口付け、阿梨夜は遣いの狐とともにその場を後にした。二人の背中を見送り、それが見えなくなってから、何となく気になって千亦へ向けて問う。
「…化け狐?」
「管狐。化けるのは苦手なんですって。」
「狐なのに?」
「色々いるのよ、狐にも。化けるのが得意なのとか、唆すのが得意なのとか、尻尾が九個に割れてるのとか。」
「あ、それは本で見たわ。あと、狐が長く生きると天狗になるんでしょう?」
「そう言うこともあるわね。」
「妖怪の山にいるのは烏天狗なんだっけ?後は真神の化身も。」
「そうね。外の妖怪のことなのによく知ってるわね。ニナも外にはよく遊びに来るの?」
「ううん、初めて。でも本で見るから知ってるわ。ピラミッドには色んな情報も流れてくるし…でも、それは穢れた情報だから信じちゃダメなんだって。それで阿梨夜とユイマンが色んな本をくれるの。」
「良いわねえ。私も最近忙しくしてて、本なんてご無沙汰で…羨ましいわ。今度の市場が終わったらゆっくり本を読む時間でも作ろうかしら。」
告げた彼女の横顔は話を合わせているという風では明らかになくて、神でも“真実”を求めるものか、と思う。真実とされ流布された情報の波は、時に残酷に牙を剥くこともあるというのに。
「でも、これも本で見たんだけど、蜃は虚構の都市を作る龍なんだって。私が作るものは全部嘘なんだって。」
「それもそう言われることも…いや、そうね、妖怪だもの、そう言われちゃあね。」
一瞬慰めようとしてくれていたのだと思う。それでも諦めて頷いてくれたことが今は何より有難かった。阿梨夜もユイマンも豊姫も、神となると何かと話が通じないことが多い種族である、と私は勝手に思っているが、少なくとも彼女は妖怪の心に寄り添う術を知っている。「そんなことはない」、薄っぺらな同情を盾に私の心を否定するその言葉は、私にとっては時折どんな暴言よりも深く私を傷付ける。
「でも、千亦は龍が究極の真実なんだってさっき言ったでしょ?」
「この世界が…幻想郷が龍神様のお膝元にある限りはそうだと思ってるわ。だからそれで良いじゃない。ニナだって龍なんだから。ニナが自分の目で見て真実だと思ったものを作れば良い。それが後から真実になることだってある。この世界には嘘みたいな真実だって沢山あるのよ。」
告げて千亦は徐に天へ向けて高々と掌を掲げる。天蓋の遥か先に浮かぶ満月を掴み取ろうとするかのように。
「…良いもの、見せてあげる。」
彼女が掲げた右手にぐっと力を込めた途端、満月は心臓の鼓動の如く光の波を放ち、太陽よりも強く眩しく輝き始める。星の灯りを掻き消し、やがて世界を丸呑みにせんばかりに肥大した月の周りには極彩色の虹が架かった。月虹の下に美しい紺色の瞳を輝かせ千亦は問う。
「…真珠みたいで綺麗でしょ?」
咄嗟に恐ろしいと思った、視界全てを覆い隠して妖しく輝く月に畏怖の感情を抱いたのが、真珠のようと言われた途端に嘘のように消えていく。そうか、世界は、分からないから怖いんだ。虹の女神は続けた。
「私も特別力が強い神という訳ではないけれど…満月の夜だけはこの空全部が私のものになる。私だけのキャンバスになる。夜空全部が私の色…素敵でしょ?貴方も泳いで良いのよ。好きな場所を好きなように。恐れないで。貴方の見た真実で世界を染め上げて。貴方にはその力がある。」
促されるままに瞼を下ろし力を込める。本で見た真実を思い起こしながら。虹の尾は天に昇って龍と成る。虹の麓には市が立つ。次に目を開けた時、辺りには荒唐無稽な幻想が広がっていた。月の周りを泳ぐ巨大な龍。月明かりがその姿を暈とともに地上へ投影し、ブロッケンの怪物の周りで人々が屋台を立て祭囃子に身を委ねる。やがて地上までもが彩雲のように揺らいで虹色に染まる。虹の神に見せでもしたら指をさして笑われかねないようなまとまりのない滅茶苦茶な幻に、しかし千亦は満足げに目を細めただけだった。
月の下に呼び起こされた、一夜限りの幻の市場。雑踏は決して私を顧みることなど無かったが、それでも彼らは私の新たな旅路を祝福しているようだった。
ウバメの生みの親でお馴染み鳥山石燕的には蜃とはハマグリのことらしいですが、虹龍洞のオタクとしては龍であってくれた方が都合が良いのでまあそういう説もあるよね〜という態度で突っ走ります。二次創作というのは人力ハルシネーションのことですから。書きたい物を書け。
結局使いませんでしたが、書く以上はスペカの元ネタも全部調べました。途中で影響されて氣付いちゃう所でした。危なかった。今作のExがやたらと難しいのも、クリア者を選別して選りすぐりのシューターを尖兵として囲いこもうとする月の都の陰謀とされています。マジだよ。