▼私の元投稿先 小池Facebook
※写真の説明等は下記のURLの方で若干説明していますのでご参考に
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僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
★地球を何周も続ける幸せなバイクとオーナーの話
先日、5月に旅立ってしまった大学時代のバイク仲間を偲んで近場の神奈川県の真鶴半島までバイクの不当ともいえる高速道路料金体系是正の為に裁判闘争に打って出たRH(ライディングハイ連絡会)の昔の仲間でツーリングに行きました。
その日、大学の後輩でもある佐藤氏がGSX400F(インパルス)で駆けつけてくれました。
このちょっと前に明学大バイクサークル関係で亡くなった仲間を偲んで集まった時に「えっ、真鶴ツーリングには大津弁護士も参加予定なんですか?懐かしいなぁ~。久しぶりに会いたいなぁ~」と彼が言っていたこともあったのかもしれません。
彼は何台もバイクを所有していますが、このGSX400Fは彼が17歳の高校時代の1983年に新車購入したものですから、40年以上も彼が相棒というか殆ど分身のように大切にしている1台です。
大切にしているといってもガレージで飾っているわけではなく、取材仕事に使うこともあれば、サーキットに持ち込んだり、ツーリングや峠を攻めてみたりと「使ってなんぼ、乗って、走ってなんぼ」を実践してきました。
それは、かつてあるバイク雑誌に掲載された記事中にもこんな風に書かれていました。
「もちろん、ここで評価されるのは佐藤さんの普段の整備だろう。写真に映っているコンディションでもお判りとは思うが、レースをやっていたこともあってマシンの大半の部分に手を入れられる佐藤さんのGSX400Fは非常にきれいだ。右に佐藤さんに長寿の秘訣を書いてもらったが、毎日乗って、日々バイクのコンディションに気をつけてということが何よりバイクを長持ちさせ、大事にすることのようだ。佐藤さんは何度も転倒するほどワインディングを走り込んだり、サーキット走行までこのGSX400Fでこなしている。また、仕事のために風雨の中でもバイクに乗り続けている。決してバイクをかわいがりしているわけではない。」と記されていました。
集合場所の海老名SAに現れた彼のGSXを見て「あれ?カラーリング変えたの?」と思いました。
僕の中では随分と長いこと青の全塗装のイメージでしたが、今回は落ち着いたシルバーで登場しました。サイドカバーのインパルスのデカールもしっかり再現されていました。(実はエンジンを400Fから400FSインパルスに積み替えていたことも、雑誌に掲載された年表で思い出したというより改めて認識した次第です)
実は僕の引っ越し中の荷物整理をしていたら彼に関連する上記の雑誌コピーが出てきたのです。
掲載誌は処分してしまいましたので掲載誌の年度や月号までは不明ですが、掲載された年表によれば1993年頃と思われます。
掲載誌は正統派バイク雑誌「ライダースクラブ」(以下「RC」と略す)です。
ここに《地球7周ぶんの幸せ 28万kmを走ったGSX400Fとそのオーナー》というタイトルで6ページに渡って紹介されていました。
これが彼がGSX400F購入から10年時のカウントです。
それから既に30年以上が経過していますから現在は何十万kmになったかは今回の真鶴ツーリングで聞き逃しましたが更に走行距離は延びているはずです。
★『鈴鹿4H耐久』レースに2年連続で予選通過した明学大の佐藤選手
RCの記事には彼の年表が整理され掲載されていました。
1984年(18歳)の欄には《大学の井戸端会議と言う名のバイクサークル〈高速の料金値下げ運動で有名なライディング・ハイのルーツ〉に入部。レース活動を開始。》とありました。
「井戸端会議」名がRC誌上に出ていたなんて名誉なことです(笑)。大学名は誤植で「学院」が抜けていました(笑)
RC誌掲載の年表によれば、1987年にはFZR400Rで鈴鹿四耐予選に出るも転倒とありました。
翌1988年には今度はCBR400Rで鈴鹿四耐で予選落ち。
続く1989年も前年のマシンで四耐予選に臨むも、2分36秒で予選落ち。決勝通過タイムまで僅か0.3秒までには迫ってきた様子。
そして1990年にはCBR400RRで鈴鹿四耐予選で2分32秒を叩き出し2H耐久戦に出場。
彼はこの前には「MRC」(明治学院大学レーシングクラブ)を結成していて、僕のうろ覚えな記憶ではセカンドライダーは街乗りではGPz1100Fを転がしていたN君だったと思います。
遂に鈴鹿四耐決勝に出馬したのが1991年、25歳の時。VFR400Rで予選タイム2分30秒で決勝進出するも土砂降りの雨の中、電装系トラブルでリタイヤ。
僕も大雨の中、佐藤氏の応援で鈴鹿の観客席の中にいた記憶があるので、それはこの年のことだったのかも。
この頃、彼は鈴鹿の地元チーム「ヨシハル」(?)って名前だったような気がするけれど、鈴鹿サーキットの全スタンドの椅子設置を請け負っていた地元有力企業のチームにスカウトされていたかいないかの頃だったかな?(記憶曖昧ですが…)
鈴鹿四耐の決勝を完走したのが1992年、26歳の年。
『ウノ・ゼネラル・レーシングチーム』メンバーとしてVFR400Rで予選ウェット路面で2分46秒で予選通過。
資金力もあったようで、彼の乗るマシンも着る革ツナギやヘルメットも典型的な「モリワキカラー」の青と黄色のツートーンで、マシンも名門「モリワキ」から提供されていた気がします。
彼のフォームは綺麗だったので、その頃、レーシングチームスポンサー関係のガソリンスタンドで配布されていたパンフに彼のライディングシーンがカラー写真で掲載されていた記憶があります
恐らくは企業活動の一環とか社会的貢献として鈴鹿でのバイクレースのサポートをアピールしたパンフレットだったんだと思います。
彼の鈴鹿でのリザルト等は引っ越し等で紛失してしまいましたが、サーキットの平均速度は135~136kmくらいの数字が記されていたような曖昧な記憶があります。
僕などは「へぇ~、僕のバイクと同じ排気量の400ccのバイクで、あのテクニカルなコースで、シケイン通過で減速もあるのに、平均速で130kmってのは考えられないよな。裏のストレートやメインストレートじゃ全開で180や200Kmくらいは出ているんだろうな」と思ったものです。
それにしても当時は鈴鹿四時間耐久レースは“ノービスライダーの祭典”とか甲子園のようでもありましたから、よく冗談で「鈴鹿四時間耐久の決勝に出るって、東大に合格するより難しくない?」みたいな会話があったと思います。エントリー数や出場者のレベルの高さから決勝進出はそれくらいの難関とか狭き門だったんだと思います。その意味では、知り合いというか後輩がその難関に挑戦して決勝のスターティンググリッドに立ったということは他人事でも誇らしい気がします。
余談ですが、炎天下のスタート前に彼がバイクに跨って腕組みして、その傍らにはパラソルを手にしたチームのレーシングクイーン嬢たちが寄り添うシーンの写真を拝見したことがあります(笑)
レースには無縁な僕には、まるで映画『汚れた英雄』のような眩しい風景でした(笑)
★1987年、鈴鹿四耐挑戦直前の写真が出てきました♪
夜の白金キャンパスの学生会館(グリーンホール)前の風景です。展示マシンはFZ400Rのようです。
井戸端会議もお得意の「立て看板」にはどうやら「鈴鹿4耐エイド!井戸端マンガ市」と書いてあるようです。
佐藤くんを中心とした明学生でレース活動をやっていましたので、練習走行といっても東京から鈴鹿まで遠征を繰り返すわけで、往復のガソリン代や交通費、練習用レースタイヤの費用などなど、とにかくレースにはお金がかかります。
頑張っている仲間の為に、単純にカンパするのも有りですが、「井戸端会議の連中は、通学問題だけではなくて、レース活動もしているんだよ」と広く学友たちにアピールすることも大事なので、例え雀の涙のような金額しか集められなくても気は心、遠征資金の多少の足しにでもなればとの思いで、僕もアパートにあった250冊くらいの漫画の単行本等を提供した記憶があります。みんなで自宅から漫画本等を持ち寄ったと思います。
それを1冊10円~100円くらいで叩き売りして、せいぜい1万円前後にしかならなかったような気もしますが大切なのは額じゃなくて心意気だからいいのです(笑)
よく写真を見ると、5月に亡くなった『井戸端会議』二代目総長の上木(鬼太郎)の姿も当然ですがいました。
掲示板にはご丁寧にも革ツナギまで吊るして展示してあります(笑)サインボードや予備パーツなども散乱しています(笑)
マシンに跨っているのは第一ライダーの若かりし頃の佐藤君です。
僕のGベストに縫いつけてあったパッチに「MEIJ|GAKU ・RC」というのがありました。MFJにこんな名称で佐藤くんたちは登録して鈴鹿を目指していたんだと思います。(余談ですが、その上に縫いつけてある『ワイルド7』のバッチは当時ミリタリーショップを経営していた僕のお友達の八百さんが望月三起也先生に許可を頂いて市販していたものです)
このように随分と昔のことなので、僕はてっきり「佐藤は2年連続で鈴鹿四耐決勝完走」とばかり思っていましたが、RC掲載の彼の年表で「2年連続で鈴鹿四耐決勝進出、2年目で初完走」だったんですね(苦笑)。
失礼しました。敗者復活的な2時間耐久出場のことなど僕はすっかり忘れていました(笑)
佐藤氏が入学当時「先輩、箱根に走りに行きません?」というニコニコ顔での誘いに、「こいつバイク俺より上手そうだよな。でも、上りなら馬力だけなら数字は俺のGPzの方が上だし、マフラーもヨシムラサイクロンに変えたばかりだからそんなに引き離されることもなく済むかな」と思って箱根スカイラインに出かけました。
ところが一瞬にして彼の姿は僕の視界から消え去り、気がつくと山ふたつ先くらいを上がっていく点のような彼の姿かかすかなエンジン音がしたような記憶があります。
どうにか大観山に到着すると「あれ?先輩のバイク調子でも悪いんですか?ちょっと貸してください」といって、僕のGPz400でけたたましく下っていって、暫くして戻ってきて開口一番、嬉しそうに「先輩、このバイク調子いいですよ。乗りやすいし、僕のより速いし」と…。
圧倒的な腕の差やセンスってのを入学早々の彼に思い知らされた一コマでした(笑)
仕事でも彼のGSXと僕のGPzはよく一緒に出撃していました。
ある時、御殿場のゴルフ場からある著名人のベントレーを尾行する仕事がありました。
東名を東京方面に向かいながら「首都高で都内で降りて寄り道するか?それとも千葉の自宅に素直に帰るか?まぁ、こっちも満タンで御殿場を出たからガソリンに余裕はあるか」と思っていたら、気がつくと横浜横須賀道路を僕らバイク2台はベントレーを追って160kmくらいで巡行していました。ベントレーとの距離は尾行がバレたくないので500mとか1kmくらいとかターゲットの車が視認できる距離までわざと開けていました。
160km巡行でもじりじりと引き離されてきた気がして「もう俺の腕では限界!御殿場からノンストップで走ってきて神経もすり減ってきたし、ここは横の若手の佐藤にとりあえず先行してもらって…」と隣のバイクを見ると、佐藤氏はタンク上に伏せて、ハンドル上のスピードメーター付近で何やらしきりにジェットヘルの頭を細かく動かしていました。
「何してるんだろう?」と思いましたが、指で前方を指して「先に行ってくれ」と合図すると意味もわかったのか頷いて170kmか180Kmくらいまで加速していきました。
後で「あの時、メーター周りに顔を突っ込んで何してたの?」と質問すると「小池さんのはカウルあるからいいですけど、僕のバイクはカウルもないので、風圧も食らうし、息を吸うのにあまり風のこなそうな吸いやすい場所ってあるのかなと思ってコチョコチョ探してたんですよ。見られちゃいました?」と笑っていました。
へたれな僕には限界域のスピードでも、彼にとっては涼しい顔で遊んでいられる状態なんだと、この時もポテンシャルの差を思い知らされました(笑)
そういったことは、彼とバイクで一緒に尾行をしていると、幾度となく経験してきました。例えば信号を左折して僕やターゲットの視界から消えた彼のバイクが一瞬の後に左折した路地から再び僕の前に飛び出してきたりとかね。
「Uターン、すごく速くない?」と僕が言うと「あれは路地でアクセルターンして戻ってきたんですよ」と笑っていました。そんな技は当然ですが僕にはありましぇ~ん。手強い後輩というか、バイクに関しても頼りになる後輩でした。
埃だらけのGPz750turbo改と、フルカウルのアマゾネスカラーの1000刀は佐藤夫婦の愛車です。
北海道から青森に1100刀のAと3台で降りてきて、十和田湖で井戸端会議の仲間と10台ほどで合流した時でしょうから2000年の夏だったかな。僕は東北6県を野宿旅で廻って十和田湖で合流しました。
★とっても義理堅い佐藤くん
2001年7月21日に開催された“横浜ケンタウロス”の恒例行事サマーパーティーには佐藤君が明学大の後輩たちを引き連れて参加してくれたこともありました。
この時は“井戸端と愉快な仲間達”のような枠で10名くらいが参加してくれました。現在、様々なバイク雑誌で活躍されているライターのY田氏の姿もあります。佐藤君とはGSX1100S「刀」繋がりの大の仲良しでした。
場所は御殿場のやまぼうしキャンプ場で、この年の開催テーマは「蘖(ひこばえ)」で、全国からクラブ員等250名が集まりました。
まだ族長・飯田繁男も元気な時代で、当時ボスは60歳くらいだったかなぁ~。
快く記念撮影に応じていただきました。感謝。
そんなご縁や恩義もあってか、ケンタウロスのボスが「国替え」された時の“送る会”朝のバイク葬送パレードの際は義理堅い佐藤氏もモリワキカラーのGPz750turboで馳せ参じてくれました。
僕は「飯田繁男を送る会」の実行委員もしていたので当日はカメラを手に記録係をしていたので、パレードスタート直後の左折時の佐藤氏の写真がありました。
僕との写真はゴール後の赤レンガ倉庫を望むホテル駐車場です。
◎WEB 『Mr.Bike』ニュース(2022年11月28日付) レポート:小池延幸
ヨコハマで100台のバイクが哀悼の咆哮をした日。変わらないのがケンタウロス流
https://mr-bike.jp/mb/archives/34432
★一方、当時は僕の周囲では佐藤君たちとは別に鈴鹿を目指している方もおられました。
RH(ライディングハイ連絡会)関係では、当時、仲間のO弁護士さんも鈴鹿4耐に挑戦していましたが、セカンドライダーに恵まれなかったのか、明学大の佐藤くんのようには決勝までは行きつけなかったと記憶しています。
この「LEM RACING」とチーム名のあるMFJのパッチは、大津弁護士が命名したチームのものです。
レースには今も昔もまったく無縁な僕ですから場所が富士か筑波かの見分けもつきませんが、FZ400Rで練習にでも来た青ツナギ作業服姿の弁護士さんのセッティング中の姿をトランポから佐藤君と5月に亡くなった仲間が笑顔で見つめている写真が出てきました。
マシンはSP忠男さんに世話になったFZ400Rのようです。
その時の写真とはゼッケン番号が違うので別の場所、別の日だと思いますが1985年8月10日の日付で、そのバイクに跨らせてもらっている僕の写真もありました(笑)。サーキットには無縁な僕ですから、物珍しさで皆と一緒にサーキット見物についていったんだと思います。
(この項、続くかも)
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★追記1
僕がそのバイク乗りの弁護士さんと出会った頃は、まだ「ホークⅡ」に乗られていました。
僕は彼のエッセイを『ミスターバイク』誌の人気企画「男のジャーナル」で読んで、名前と事務所名と所有バイクのことだけはプロフィール欄でしっかり記憶していました。
そして、『ベストバイク』誌上で始まっていた高すぎるバイクの高速道路料金問題で、その時の記憶からその弁護士事務所にコンタクトを取りました。
その弁護士さんと出会った夜に港区西新橋にあった法律事務所を出て、夜の首都高を霞が関辺りから3号目黒線で戸越出口まで走ったような記憶がありますが、ホークⅡ相手に僕の腕ではZ400FXでも苦杯を舐めされました(笑)
どうやら僕はバイク乗りとしてのセンスは無さそうです(笑)免許取得者の平均以下どころではなかったのかも知れません。
でも、そのバイク弁護士さんは後に鈴鹿を意識してGSX400Rに乗り換えていましたし、鈴鹿用にSP忠男で購入したFZ400Rを用意していた記憶があります。そのレース用マシンは当時荏原に間借りしていたRH(ライディングハイ連絡会)の事務所のガレージ部に置かれていました。
一方、そのセカンドライダーだったと思われるYは街中ではRZ350やRG250ガンマといった2ストマシンばかりに乗っていたので、僕が乗っていたようなカワサキの4スト四気筒マシンにも当時はあまり興味がなかった気もします。
明け方、街中の緩やかな上り坂の左コーナーで僕の400FXを右後方からYがご自慢のRZ350で抜こうとして、そのまま派手に転倒して、僕の目の前に彼がコロコロと転がってきて危うく轢くところでした。大迷惑な奴です。いくら俺が下手で遅くても、その遅いオレを抜こうとして転倒しているようではその腕前も大したものです(笑)。
そういえば彼の鶴見のアパートの畳の上に、交通事故の慰謝料で買った中古のTZ250かなんかレーサーみたいなものがオブジェとして置かれていて、畳の上に置かれたそのマシンに跨ってご満悦だった記憶があります。今となっては懐かしい笑い話のひとつですかね。
※(この項、まだ続くかも)
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★追記2
書いていると、色々と思い出すことがある。
僕達、明治学院大・2輪通学者『井戸端会議』というバイクサークルというかバイク集団からは佐藤君という努力型の鈴鹿四時間耐久決勝完走レーサーを生んだのですが、上記の「ライダースクラブ」誌以外でも彼の記事がありました。
「新 我ら、10万kmクラブ」という連載で取り上げてもらったようです。
この「我ら、10万kmクラブ」というタイトルは「別冊モーターサイクリスト」誌の名物人気連載としてバイク界では広く知られていると思います。
書き手は松島健二さんです。松島さんといえば「ライダースクラブ」誌を立ち上げた編集長ですが、後に「別冊モーターサイクリスト」誌に移られて活躍されました。
その松島氏は“横浜ケンタウロス”の最初期メンバーとしても知られています。
道理で佐藤夫婦が“ケンタ”の松島さんとも既知の仲で年賀状のやりとりをしているので不思議に思ったら過去に松島氏から取材を受けていたという経緯があったんですね。
「新 我ら、10万kmクラブ」とも違う雑誌の別企画だったと思うけれど、佐藤家のガレージライフ取材で、僕や「井戸端会議」キャンプ隊長のAや、ハーレーY子嬢でお邪魔した時の雑誌のコピーも出てきたなぁ。
※注)この思い出しページはまだ続くかも…。
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★追記3
明学大『井戸端会議』佐藤くんによる鈴鹿四耐チャレンジへのカンパ活動の一環として実施した「井戸端古本市」のチラシが出てきました(笑)
2枚とも僕(小池)の字体ではないので、今年亡くなった上木くんと誰かの手によるチラシっぽい気がします。
鈴鹿四耐チャレンジの初期は東京目黒区育ちの佐藤君の高校時代からの地元の友人で体育会系大学の■田くんでした。思いだしましたぁ~(笑)。当時は彼ともよく会ったことありましたぁ~(笑)
彼はローソンレプリカに乗って伊豆や箱根を佐藤君と走りまわっていたと思います。
※)この思い出しページまだ続くかも…
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★追記4
1984年1月号の『ベストバイク』(以下BBと略す)です。
この号のBBジャーナルにて高すぎるバイクの高速料金体系の是正を意図して「バイク差別と闘うライディングハイ連絡会」(以下RH連絡会と略す)の結成報告がされ、即座に読売新聞の社会面に大きくスクープ記事が出ました。
このRH連絡会の結成日はBB誌の記事にもあるように1983年11月18日とあります。
読売新聞の記事は同年11月21日でした。
それに先立つといってもRH結成前日の11月17日に明治学院大『井戸端会議』とバイク乗り弁事士・大津氏とBB誌ライターの3者で話し合いが持たれました。
明学大メンバーには僕(小池)と先日亡くなった上木の顔も当然ながらありました。
その時の討論イベントのビラ(フライヤー)のコピーも出てきました。
会場の風景写真も1枚出てきました。大津弁事士、牧園ライター、明学大のバイク&音楽仲間たちの顔があります。この会場写真は後に毎日新聞から発行されていた『The Bike』誌のインタビュー記事でも使用されました。
さて、BB誌の記事が出て、暫くしてから部屋の電話がなりました。
顔見知りの他大学のYでした。
僕は夜学生なので昼間は会社員として働いてもいましたし、夜は大学にも顔を出しますし、職場では労働組合の活動もありましたし、大学では社会科学系サークルの部長、そして「井戸端会議」として大学側とバイクの通学権を巡って駐輪場の確保などを求めて交渉中と忙しい日々を送っていたので、Yのことなどすっかり忘れていました(笑)
Yが電話をかけてきた用件というのは、「俺、今、バイクで車とぶつかって入院しているんだけど、ベストバイクを読んでいたら、マルパー(小池のニックネーム)が出ていてビックリしたんだけど、なんで?それで病院の廊下にある公衆電話のところまでなんとか来て電話したわけ」という旨の電話でした。
考えてみると、RH結成の下準備もあって忙しかったので、他大学(といっても明学大がJR目黒駅が最寄りの駅とすれば、Yが通っていたR大はお隣の五反田駅が最寄りだったような気もしますが、僕はYの大学や活動には興味もないので彼のR大には1度も足を踏み入れたこともありませんでしたが…)のYのことなどすっかり忘れていましたが、気がついてみたら確かに暫く顔も見てないし、彼の噂話も近況も誰からも聞いてはいませんでした。
どうやら車とバイクの右直事故で大怪我をして、彼の電話での話では「カタヤマなんとか病院とかいう、プロのレーサーなどが入院する有名な病院」に随分と長いこと入院していたようでした。
彼の事故話も入院話も新左翼系セクトの連中からも耳にしてはいませんでした。
基本的に彼は僕に用事があっても、僕は彼に用事がないというのが昔からの凡その関係性でした。
僕がBB誌に登場してRH連絡会の事務局長になったことも「なんで君がバイク雑誌に出ているの?どうして?」といったまったく事情も何も知らない調子だったので、BB誌で何号か前から連続的に高速道路料金でキャンペーンを張ってきたのもYはまったく気がついていなかったか、興味や関心がなかったのかと思いました。
今になって振り返って考えてみると、Yが僕の姿を見たBB誌1月号の巻頭特集は「新春バリバリ大放談」と称して、Yの大好きなマンガ『あいつとララバイ』と『バリバリ伝説』の両作者である楠みちはるさんとしげの秀一さんが登場していました。両作品とも「少年マガジン」連載作品ですからここがBB誌が講談社系のバイク雑誌という強味でもありました。
恐らくですが、Yはたまたま入院中に、大好きな漫画家さんの対談(鼎談?)企画に釣られてBB誌をGFにでも頼んで買ってきてもらったらそこに僕の姿があったので驚いて入院先の病院から僕のアパートに電話をしてきたんだろうと思います。
崇高で孤高な「革命家」気取りのYからしたら、下世話な料金問題や通学問題などに明け暮れる僕達のことなど小馬鹿にしていたのかもしれません。
Yがセクトの幹部に「マルパー(小池)は、学園主義者で大学という地域に固執してサークルや民主化闘争みたいなことに明け暮れているが、あれは大衆運動に溶解していくだけだ」みたいな異議を申し立てしていた風な噂も当時耳にしていたような気もしましたが、そんな批判は僕は気にも留めてもいませんでした(笑)
逆にセクトの機関紙のようなものに「井戸端会議」のコラムやバイクネタのスペースも貰っていたくらいで、セクト幹部からは面白がられていた気がします(笑)
BB誌が連続的に高速道路問題でキャンペーンを張っている姿に「これは何か近々アクションがあるな」と思って僕は注視していました。
よく読み込めば、これを仕掛けている人物は、横浜ケンタウロスと組んで「ミスターバイク」誌で横浜新道の2人乗り禁止規制の撤廃に奔走した面子でもありました。
大津弁護士に関しては「ミスターバイク」誌でのコラムや論文などで気になっていたので、所属事務所名をおぼえていたこともあり手紙を出したら、すぐに「今日、会えるか?」と会社に電話がありました。
Yはバイク事故で入院中だったようですが、僕が大学の通学問題で『井戸端会議』を結成して、ツーリング等も含めて活動していた時も興味がなかったのか、バイクでもなかったのか今になって思うと初期の『井戸端会議』の場では顔を見た記憶がありません。そもそも他大学の生徒ですし、僕以外の明学大のバイクメンバーとの接点もなかったように思います。
※注)この思い出しページはまだ続くのかも…
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★追記5
本人から電話をもらったことで初めて顔見知りYがバイク事故入院中と知った僕ですが、彼の話を聞いていると事故の示談で相手側と揉めていて随分と旗色が悪そうで弁護士でも紹介して欲しそうな話だったので、バイク雑誌では知られた存在であった大津弁護士をYに紹介して、優秀な弁護士でもあったので無事に示談も無事成立し、相手側から慰謝料も取ってもらいました。
40年も昔の話ですし、僕は当事者でもないので慰謝料の額が500万円だったのか250万円だったかは記憶もありませんが、学生だったYにしてはかなりの大金だったと思います。額の記憶に自信はないけど500万円くらいだったのかもな。
後年、その大金の使い道を僕と先日亡くなった上木とでYに冗談半分で質したことがありました。
例えば慰謝料の半分の250万円で中古のTZ250を購入したとすれば「聞いた?こいつさぁ~乗りもしないレーサーを買って部屋の置物か飾りにしちゃってさぁ~、あとの残り半分の金は(ファミレスとかでご飯食べて)全部ウンコにしちゃったんだってよぁ~。こいつほんとバカだぜ。『全部ウンコになっちゃいましただぁ~』だってよ。面白すぎて腹痛いわ。息苦しくて死ぬわ」と大笑いしたものでした(笑)
そんなことさえも今となっては懐かしい思い出だなぁ~。
結局、僕個人は慰謝料で購入した中古のTZが走る姿は残念ながら拝見しておりません。
鶴見区の交番前のアパートの畳部屋だったと思うけれど、室内に置かれたレーサーに彼が跨って「これね、ここのスイッチを押すとね…凄いでしょ?」と、そもそもレーサーにも興味もないし、メカ音痴の僕に向かって何やらバッテリーで駆動する可変な機構を自慢していました。
彼がハンドル周りのスイッチを入れると微かに「ウィ~ン、ウィ~ン」と音がしていた気がしますが、そんなことを繰り返してバッテリーでも尽きてしまったのか作動しなくなって飽きてしまったようでした(笑)
中古購入当初からアパート室内のオブジェと化していた中古TZですが、その後の末路は1年くらい前に聞いた話ではYの知人実家で野ざらし状態で苔むしているとかいないとからしいです。
引っ越し等で部屋に置いておけなくなったのかもしれません。結婚したYが早稲田大学の大隈講堂近くのアパートに住んでいた頃は、二階の部屋だったと思うし、狭そうな階段だった印象もあり室内にTZを持ち込めない段階で実家暮らしの知人にお願いして一軒家の庭の隅に置かせてもらったのかもしれません。
全ては懐かしい笑い話です。
※注)この思い出しページはまだ続くかも…
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★追記6
僕はバイクに関しては遅れてきた1人で、初めての免許取得は田舎から上京して1979年に芝浦で働きはじめてから中型免許を品川教習所に通って取得しています。
僕はローンで25万円くらいで購入した中古のZ400FXが最初のバイクですが、Yと何時どんな場所で知り合ったのか最初の出会いの記憶はないのですが、気がつけば彼はRZ350に乗っていました。
RZ350って1981年発売でしょうし、彼のは新車っぽかった綺麗な印象があります。Yの過去のバイク車歴のことは実は知らないのです。
RZ350以前のバイクのことは学生時代には彼から聞いた記憶はありません。
そういえば、この時代は池沢さとしの「街道レーサーGO!」って少年ジャンプ掲載の漫画で“青い流れ星”とかいう主人公がRZ350で活躍していた内容だった気がするのでその影響で買ったのかなぁ?(苦笑)
そもそもYの通っていた大学は分離キャンパスとかで1~2年時は埼玉県の熊谷にキャンパスがあったそうで、田舎から上京した僕には当時は熊谷の位置も距離感もイメージさえありませんでした。
Yはよく、自分は昔はCRS連合の「スペクター」にいたと話していました。どの地域の支部なのかまでは僕はおぼえていません。「ナンパぺクター」とも表現していました。そのCRSかスペクターの1員として「ZERO」に呼ばれたとかなんとかで大井ふ頭の集会で逮捕されたか補導されたとか学生時代に話していました。
でも学生時代にYから「こいつ昔の暴走族時代の仲間な」とバイク乗りとか友人っぽいのを紹介されたことはありませんでした。
RH連絡会としては、1名でも多くの原告団を求めて活動していたので、「昔の暴走族仲間だけど、こいつら全員原告に加わってくれるからよ」と紹介してくれれば少しでも助かったと思うけれど、そんな話はなかったなぁ~。
明学大の「井戸端会議」にも元「ブラッ■■■■■■」って直管マフラーぶった切りの仲間Eはいたしね(笑)
Yが参加していたとされる大井埠頭の集会が1977年9月17日の有名な大井埠頭乱闘事件のことなのかも僕にはわかりません。
Yのブログ(パンセ?)を読んでいて不思議に思うのは、僕が知らないだけとか、僕の記憶がないだけとか、僕が完全に忘れているだけなのかもしれませんが、初めて聞くような話がやたら多いことに驚かされます。
例えば、鶴見のアパート暮らしの時にお隣に仲良しのK応大生でZ400FX乗りがいたみたいな話があった気がしますが、僕には初耳でした。
僕と同じバイクに乗ってる奴がYの友人にいれば紹介してくれても好いものをという気がします。
まして、原告団集めに奔走していた私たちですから、同じアパートに他大学であってもバイク乗りがいて話ができる関係なら、せめて原告団に参加してもらうとか、各種のRH連絡会の集会や集団走行イベントに誘うなり、そのFX乗りを起点にK応大でも仲間集めに協力してくれるような方向性の取り組みや提案があってもしかるべきだと思うのですが、少なくともYから「俺と同じアパートにK応大生でマルパーと同じFX乗りがいてさ、原告団に参加してもらおうと思うんだけど…」みたいな報告を受けた記憶が僕にはないのです。忘れているだけなのかなぁ~。
そういった意味ではYのパンセでは「バイク乗りの従兄弟」ってのも登場しますが、彼の親戚縁者でバイク乗りの方を学生時代に紹介されたり、そんな存在に触れて「こんど、従兄弟もバイクに乗ってるから話を持ちかけてみるよ」といった話題を僕は記憶していないんだよね。聞き逃したり、1人1人の原告の顔や名前までは把握できていなかったと思うけれど、集団走行やバイクデモのような勝負時のイベントの動員力として「俺の従兄弟も連れてきたぜい」なんて心強いアピールの記憶はないんだよね。いつも同棲中の小柄な女性とは一緒に顔を出していてのは記憶しているけどさ。
僕のような田舎から上京した組とは違って、Yは東京とは馴染の深い生活を子供の頃から送っていたようなのに、不思議と昔からの友達ってのを紹介してくれたケースの記憶が僕にはないんだよね。
例えば明学大「井戸端会議」では、亡くなった上木君は練馬育ちだから高校時代からのバイク仲間のHやIやYとかも明学生でもないけれど僕らは仲間として受けいれて大切な「井戸端会議」メンバーとしていつも一緒に遊んでいました。
鈴鹿四時間耐久レースを完走しきった佐藤君にしても目黒区出身で、子供の頃は野球少年としてリトルリーグで活躍していたようですし、地元にバイク乗りに限らず様々な業種の幼馴染や友達がいるのを僕はよく知っています。東京出身の子達って、東京が地元で故郷だから友達の数には圧倒的に恵まれていた印象がありますし、そういった方たちの力も僕らは借りて活動を大きくしていました。でも不思議とYの場合はGFだけしか紹介してくれなかったよなぁ~。
まぁ、全ては懐かしい昔話だな。みんな楽しかったね。
※このページ、まだ続くかも?
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★追記7
そういえば、生前の“横浜ケンタウロス”のボスから、いつだったか忘れましたが、こんな件で電話があったことがありました。
ボスからは時々「おう、小池、元気でやってるか?そうかそうか、たまには顔出せや」みたいな電話は貰ってはいました。
でも、その時に聞かれたのは「お主…2チャン?…2チャンネルとかそんなのをやってるか?」という問いかけでした。
僕も職業柄「2ちゃんねる」という匿名掲示板の存在は知ってはいましたが、匿名の世界には用事もないので閲覧したりする機会もありませんでした。
まして投稿することなどの行為は現在に至るまで一度もありません。
なので、ボスの問いに「僕は“2ちゃんねる”というサイトには一切かかわっていませんが、何かありましたか?」と切り返すと「そうか、それならいい…」とその話題はそこで終わりました。
僕もその電話は「今のボスの電話って、なんだったんだろう?」と怪訝に思っていました。
今になって色々と考えてみると、もしかして「2ちゃんねる」の世界で、ある人物が自らのことをいかにも横浜ケンタウロスの関係者のように吹聴したり装っていたとします。
そして、その人物が僕(小池)との関係に触れていたりすれば、その偽物ケンタウロスが僕の関係者と疑われる可能性はあります。
もしかすると、そんな「2ちゃんねる」上の投稿を目にした本物のケンタウロス関係者が、問題の投稿主を僕(小池)本人と勘違いして疑いが生じた可能性があります。
そうなれば、メンバーからはボスに「何やら小池と思われる奴が組織のことで適当なことを抜かしていますが…」と報告が上がるでしょうし、それでボスが確認のために僕に直電してきた理由も納得が出来ます。
今になってはボスも不在ですし、そんなささいな一件などボスも忘れているでしょうし、その後は問いかけはなかったので僕の疑いは晴れていたとは思いますしね。
僕は「2ちゃんねる」の住民ではないのですが、もう何年前か忘れたけれど、かなり前に慌てた様子でYから電話がありました。
その内容は「今ね、質の悪い連中に地元でちょっと絡まれていてさ、バイク関係なんだけど、君(小池)に迷惑はかからないとは思うんだけど、ちょっと身辺とか変な奴がいないか暫く気をつけてね」という穏やかでない内容だったので「ちょっと待てよ。それ何の話なんだよ。災いがかかるだと?俺が何かやったのか?そんな覚えないぞ。そもそも知り合いでもない誰が俺のヤサとか電話番号とかわかるんだよ。ところでお前さ、何やらかしたんだよ。こっちだって家族がいるし生活があるし、お前が何かやらかしたことで、関係ないこっちが身辺に気をつけてくれよなんて、ふざけんじゃねえぞ。何だって?今もお前の会社の前のラーメン屋にハイエースで来た人相の悪そうな奴らが何人かで様子をうかがっているから会社から出られないだと?それってお前の思い込みで、ラーメン屋に食事に来ただけのその辺の工務店の兄ちゃんたちじゃなくて?明らかに怪しいって?そんなら警察呼べよ。お前の身辺に危険があるなら警察に頼めよ。その為の警察だろ」といった旨のことを言い返したと思います。
その時、彼から話を聞いていて「これは“2ちゃんねる”とかの掲示板で何かこいつが書き込んで遊んでやがるな」と初めて気がつきました。
そこで「君さ、その“2ちゃんねる”とかで不用意に発言したり、そのネットの世界というか俺にはよくわからない世界だけどそこに安易に深くかかわらない方がいいと思うよ」と苦言を呈すると「俺、そんなことしてないよ。1回だって“2ちゃん”にカキコミなんてしてないよ。信じてくれよ。アッチの連中が勝手に絡んでくるだけでさ」と言い訳してはいましたが、「こいつ、酔っぱらって気が大きくなった拍子に得意げに何か書き込んで誰かの反感をかったな」と僕は直感的には感じました。
なんとなく彼のブログでかなりの酒飲みだとは知っていましたし、逆に僕は1年間通してアルコールの類を口にするのは正月とか特別な数回程度という生活です。下戸というわけではありませんが、酒にかなり弱い類です。
とにかく、僕は何もしたおぼえがないのに、突然電話してきて「悪いけど、身辺気をつけてね」では、たまったものではありません。大迷惑で、そんなこと言われて日は一日不愉快でなりませんでした。
てめぇがやらかした不始末なら、てめぇで自分のケツくらい拭けよという話です(笑)
もしかすると僕の名前でも出して相手側に虚勢でも張ったのかと思いました。
それこそ大迷惑な話です。
それだけではありませんが、他にも色々と彼とはありまして、もう随分と前から彼とは絶縁というか絶交状態ですし、最近も本年5月末に亡くなった大学時代の友人を偲んでの昔の仲間というかRH連絡会有志で舞鶴半島にツーリングを兼ねて出かけた際に彼からも参加を願う連絡がありましたが、丁重にお断りしたので大層と憤慨されておられました。
とはいえ、気心のしれた仲間内での小規模な飯会的な集まりですし、亡くなった仲間を偲んで気持ちよく集まり、お互い穏やかに過ごしたいだけなので、僕の判断で彼の参加はお断りして、当日に連絡のあった経緯も含めて皆にも報告もさせてもらいましたが、誰からも僕の判断への異議は出ませんでした。
「いいんじゃない。マルパー(小池)の判断で」ということでした。
その時の様子は簡単には下記に記してあります。
▼仲間の死が40年も昔のバイク仲間と引き合わせてくれました。2025年7月22日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e10050014.html
さてと、明日(13日)はやや雨模様で天候も不安定っぽいけれど神奈川県内で創設61年目となるMC『KENTAUROS』の恒例のサマーパーティー開催が先程決行とアナウンスがあったので、参加費も事前に振り込んであるので、本日(12日)の『ミスターバイクBG』10月号等を携えてボスの霊前報告だけでも顔を出してこようと思っています。
ちょうど同誌での僕の連載も20回目という節目ですし、ケンタウロスの昔から変わらぬ溜り場というかアジトのような横浜中華街のジャズ喫茶『ミントンハウス』の風景も掲載されたドイツで刊行された写真集「TOKYO JAZZ JOINT 」待望の日本語版が先日刊行されたばかりなのでそんな資料も持参しながら諸々とボスの霊前にて報告してくるつもりです。
朝から雷雨だったら危険だからバイク参加はパスかな?(笑)
まぁ、振り返ってみれば色々と昔は楽しかったよ。
※この振り返りページ、まだ続くのかも…
≪ご参考までに≫
横浜の老舗MC「ケンタウロス」とは劇画『ケンタウロスの伝説』等にも“600マイルブレンド”のシーンとしても登場するなど何かと昔から所縁の深いジャズ喫茶『ミントンハウス』の最近の話題を投稿してみました。
▼単車倶楽部 ~みんなのライダースVOICE!~
小池延幸 2025年9月11日付
https://www.facebook.com/koike.nobuyuki.92/posts/pfbid035oTZFq4PHcA9JmX2eoBXdCgAERMufVdmDnobbSr52v6rZfW1fhetK4H2uPLXie8wl
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★追記8
2019年の春、明学大『井戸端会議』の後継バイクサークル『H&L』メンバーR君を急性の病で失いました。
恐らく1番ショックを受けたのはRを弟のように可愛がっていたし、仕事も一緒だったUだと思います。
R君とのお別れの会は各地から『井戸端会議』周辺の明学生OBやR君と交友関係のあった皆さんが60名くらいは集まってくれたと思います。
挨拶に立った呼びかけ役のUは突然のようなR君の死に悔しくて涙で声が詰まって喋れないくらいで、仲間達に崩れ落ちそうな身体を支えられながらの挨拶でした。
そのUが、僕に「あのさ、マルパーさんだけには言っておくけど、一応Yにも今日の集まりのことは連絡だけはしたのよ。ところがよ、あの野郎、何を勘違いしたのか、Rが死んでコッチは辛くて辛くてしょうがねぇのに『ねぇねぇ、誰と誰が来るの?』とか久々に連絡もらって嬉しかったのか妙に調子こきやがって、頭にきたから『お前なんか来なくていい!来るな!』って腹立って電話切っちゃたのよ」と言うので「それでいいんじゃない。Yは相変わらずだな。俺も絶交してるしさ」というやりとりがありました。
どうやらYは親友の死で打ちのめされながらも幹事として連絡役をかって出て奔走していたUの気持ちを察するよりも、電話をもらった嬉しさのあまり興奮してハイになっていたとしか思えない話でした。
これ以前からも僕とUの間ではYに関して長電話でお互いの見解を突き合わせて「まぁ、Yの変貌や現状はそうゆうことなんだろうな」という意見や判断の一致をみていました。
だから、その後もYがブログ(パンセ?)上ではUと血盟の同士とか盟友として連絡を取り合っていたような発言というのは僕には少し解せない気がしてなりません。
そのUが自宅で息を引き取った際、すぐに奥さんから僕と『井戸端会議』のHには悲痛な「先程、主人が息を引き取りました」旨の連絡が入りましたし、それを受けて葬儀日程が決まった段階で僕もSNSで日時や斎場の情報をアップした記憶があります。
YにはUの葬儀日程の情報を誰も連絡はしていないはずなので、恐らく彼は僕のFacebook上から斎場を把握して弔電を送ってきたものと思われます。
僕に対する的外れで事実誤認だらけの批判にいちいち目くじらを立てる気もしないので「どうぞ気が済むまでご存分、ご自由に」なのですが、そんなに深い心の友だったのなら、葬儀にはRH連絡会の二代目事務局長S氏も参列していましたし、僕とS氏は普通に接することは出来ていますし、RH連絡会の中で僕がそんなに浮いているとも思えないのですけどね。Uを偲んでの舞鶴ツーリングでも二代目事務局長のS氏とも弁護士さんともみんな仲良く笑顔で再会を約しているんですけどね。
後輩Rの死を悼んで明学関係者が集まった時の簡易報告は下記にあります。
この時も幹事から一応は連絡をもらったものの電話中にそのチャラチャラと浮ついた態度から反感をかって「お前は来なくていい」とばかりに出席を断れたのがYです。
▼友よ 安らかに 眠れ
2019年4月30日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e8432476.html
今回、その時の幹事役のUまでをも病気で失ったのですが、葬儀と際に喪主様から僕は「マルパーさん、写真をお願いします」と頼まれたりもしましたし、撮影データーは後日、その後の“偲ぶ会”の写真も合わせて喪主様にお届けしました。
実はUの病状も家族同士で食事をした際に本人から聞いていました。亡くなる約1年前のことでした。
その時点ではとても重い病気を患っている風にも見えない相変わらずの颯爽とした格好良さと元気さで、僕も「あいつのことだからこれなら大丈夫かな」と安心した次第です。その時にUから「マルパーさんならコレ要るかなと思ってさ…」と昔の「ミスターバイク」誌のバックナンバーを段ボール1箱譲り受けました。
Yの記述では、大層と僕がUから嫌われているような感じも受けましたが、僕とUとは明学大『井戸端会議』サークルの立ち上げから、RH連絡会の準備段階から一緒にやってきた者同士ですから色々と細かい行き違いやお互いの時々の事情はあったにせよその関係性や絶対的な信頼感には揺るがないものがあったと僕は思っています。
まぁ、「まったくマルパーさんにも困ったもんだよな」くらいは常に皆に思われていたのも事実ではありますし、僕の気まぐれぶりに皆が毎回毎回振り回されてもいましたから、反感というほどではないとは思いますが皆に大迷惑をかけ続けてきたとは自覚して反省くらいはしてますけどね(苦笑)
※この振り返りページ、まだ続くのかも…
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★追記9
とあるブログ状のサイトの本年7月5日の記述で「天網恢恢、疎にして漏らさず(老子)」というものがありました。
その言葉の意味は「悪事を働いた者は、一時的には隠れていても、必ず天罰を受ける。網の目が粗くとも、天は決して見逃さない。」という教えだそうです。
これは僕への批判なのかなとは思いました。
その後の記述として「先日、40年以上前からのつきあいの今は私とは遠く離れた地に住む人と近況連絡の電話で話をしている時、この言を口にされた。天の道を説く老子の言葉だ。今も大昔と変わらぬ電話口の声の人は私の11才上の人だ。今は二輪を降りているが、元
二輪乗り。昔、苦楽を共にした仲だ。その人の子も含めて、私の妻も交じえての深いつながりの人だった。ここでも論語と対となる老子が出て来たかと、ふと懐かし
い思いがした。先日亡くなった友も、老子についても私にいろいろ熱く語っていたのを今思い出す。」と続いていました。
書き手のブログ主が「40年以上前からのつきあいのある」誰と近況連絡の電話で話をしたのかは僕にはわかりません。
でも、僕の知り合いにも、1959年生まれの僕より10歳年上で、40年程前からの知り合いで、弁護士のお子さんがいて、現在はバイクを降りている知り合いがいます。
もしかして、その方のことなのかと思いました。
そこで先日の大学時代の仲間を偲んでの舞鶴ツーリングで弁護士先生にお会いした時に「ところで、最近、Yと電話で話なんかしました?なんかソレっぽいことを彼が最近ブログで匂わせていたので…」と質問してみると「なんで俺がアイツと電話で話なんかしなくちゃいけないんだ。そもそも俺がアイツを首にしたんだぞ」と憤慨して、解雇した理由の幾つかを皆の前で話してくれました。
どうやら僕の勘違いで、渓流詩人さんが「40年以上前からのつきあいのある」方に近況報告をした相手は僕の知っている弁護士さんではなかったようです。
その弁護士さんからすれば、Yとは電話連絡など取っていないと申しておりましたので…。
実は学生時代に、僕はその弁護士さんに「マルパーよ、俺のところ(=弁護士事務所)で(秘書として)働かないか?」と誘われてことがありました。
でも僕は「Oさんとは、バイク乗りの仲間としてこれからもいたいので、弁護士と秘書という上下関係というか雇用関係になってしまうと、これまでの友達のような感じではいられなくなる気がしますので、お誘いは本当にありがたいのですが、お断りさせてください」と返事をした覚えがあります。
このページ、まだ続くかも?
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★追記10
僕は今、ある人物にかけてあげたい言葉があります。
それは「今、君の周りに昔の仲間や友達はいますか?」
という静かな問いです。
もし、今、貴方の周りに昔からのバイク遊び仲間等がいないのならば、その原因を胸に手をあてて一度考えてみて欲しいと思います。
毒ばかりあたりかまわず吐き散らしていたら、そんな風になってしまうのではないでしょうか?
身の丈に合った内容というか、実際に自らの行為(ツーリング等)を書いているだけならそんなに他人から非難されることもないと僕は思います。
現在僕らは仕事もあれば家族との生活等々もあり、学生時代のように自由に使える時間もなく、まして毎日たむろしていたような明学大学生会館の部室(サークルBOX)やRH連絡会の事務所があるわけでもないので、昔のように日常的に顔を合わす機会はありません。
皮肉なことにこの年齢になってきて「誰かの葬式とかないと改めて顔を合わさない現実ってのもちょっと悲しいよな」という言葉を学生時代からの仲間達と交わす始末です。
旧交を温め合う機会が仲間の死に伴う「偲ぶ会」的な集まりになってしまっています。
それでも、悲しいことではあるけれど、そんなことがあれば皆自主的に動いてくれます。
本年6月2日のUの告別式にしても、斎場に着いたら受付等の一切合切を明学大のHを筆頭に朝早くからご遺族の下で仕切っていてくれました。
不思議だったのは、君がどうやってUの告別式に弔電を送れたのかということです。
どなたか昔の仲間から葬儀日程の情報が届いたのでしょうか?
僕は訃報を5月28日当日に奥様からのショートメールで知り、詳細がわかった段階で30日に仲間達に向けて情報発信をしました。
▼小池のFacebook
2025年5月30日付
訃報と葬儀・告別式のお知らせ
https://www.facebook.com/koike.nobuyuki.92/posts/pfbid0ZPcGnhnwyj9LqUx16NyHT3vfTzMxK1zEGMqAusp2LAmEDYP6yUQdrD87pSes7RtNl
君は僕の発信以外の別ルートから葬儀の詳細を聞きつけて弔電を送ってくれたのでしょうか?
現段階で僕の把握している範囲では「告別式の時間や場所をあいつにも教えておいたよ」という仲間には出会っていません。
そもそも君の電話番号や、まして偽名「■崎■」でのフェイスブック登録の所在を知っているような人間は「井戸端会議」関係者では亡くなった仲間を覗けば僕くらいしか連絡ルートはないと思います。
ネット世界にはまったく疎い僕ですから、フェイスブックは実名で登録するものとばかり信じていて僕は「小池延幸」という本名で通しているので、最初「■崎■」という漢字3文字の名前のような人物(プロフィール写真はハリウッド映画主演の子役写真でした)が頻繁に僕のサイトを覗きに来ているのでずっと彼とは気がつかず「誰なんだろう?」と不審に思っていたくらいです。
本年6月28日にも、明学大「井戸端会議」系のOBで亡くなった友を偲んで集まりました。
勿論ですが、この集まりにも君への声かけはしていませんし、僕はお呼びする気もありませんでしたが、君が参加を希望しているのではないかとか、場所や開催日時を他人を使ってどうも聞き出そうとしているのではないかという話は僕にも伝わってきてはいました。
僕のような小心者には呼ばれてもいないor歓迎されてもいないような場に出向く勇気はありません。
▼小池のフェイスブック 2025年7月6日付
https://www.facebook.com/koike.nobuyuki.92/posts/pfbid0TzHU61pSeZdyZaATk3ei6c5Uxbkgyaj12MV5kNrZFe3npWYd7F95b1QCmCs1J9xrl
そういえば、僕達明学大「井戸端会議」は夜学生が中心でしたが、お隣のようなR大の君は昼間部の学生だったと思います。
夜間部の僕達は、僕にしても昼間は芝浦で会社員をしていましたし、他のメンバーもアルバイトであっても何らかの仕事を持って働いていました。
でも、学生時代に君がアルバイトをしていたような話は僕の記憶の範囲ではないんですよね。
まぁ、熊谷キャンパス時代の君の学生生活など見たことないので僕が知らないだけかもしれませんし、40年の昔のことなので僕がすっかり忘れているだけなのかもしれませんが、少なくとも僕の記憶にはアルバイトで汗を流しているイメージはなかったなぁ。
このページ、まだ続くかも?
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★追記11
話は変わりますが、とあるブログ(パンセ?)で、マスメディアで働く誰かのことを何度か「売文屋」呼ばわりしている記述があった気がします。
それはそれで僕のような大半のフリーライターなんて実体的にはそんなものですし、ジャーナリズムなりジャーナリストを心掛けたとしても現実はなかなか自分の意に沿った記事など数多のフリーライターが書かせてもらっているとは思えない厳しい現実があるので「売文屋」と言われても構わないのです。
ところが、その見下した「売文屋」の僕に昔、電話してきた奴がいます。
「あのさ、俺の知り合いの高校生(注:中学生と言ったかも…かなり昔のことなので記憶が曖昧ですいません)で、九州の子なんだけど、凄く速いレーサーなのよ。君の雑誌で取り上げてくれないかな?」という旨の内容でした。
こういったネタというのかプランというのは、長いこと週刊誌の取材記者をしていれば過去に仕事をしたことのある方や芸能事務所の方からお願い的な連絡は貰うことはあります。でも、直電前に普通はFAXやメール等でプレスリリースを貰うことが大半というか一般的です。
「親しき仲にも礼儀あり」という言葉がありますが、電話1本で「俺の知り合いで凄い奴がいるんだけど、雑誌に載せてよ」的な軽いというか雑なお願いには僕としては「随分とコッチの雑誌も軽く見られたもんだな。そりゃ、大した雑誌じゃないのはわかるけどさ、それでもなんだかなぁ~。ちょっと失礼だよな。」といった気分でした。
いきなりの電話での要請というか依頼ですから、そもそも具体的な資料もないのです。昔のようにバイクのレースや活躍するレーサーの話が週刊誌にも掲載されていたようなバイクブームの時代とは違います。僕の記憶で思い起こしても最近本誌でバイクレースの記事が掲載された記憶がないのです。ましてどうもプロではないアマチュアの方ですし、どんな成績なのかもわかりませんし、どれくらい地元の九州で人気になっていて、地元メディアで取り上げられているのかも電話してきた主の話ではわからないので「その少年の記事はうちでは無理だと思うよ」とお断りしました。
電話を切ったあとで、もしかしてこれは彼が「俺の学生時代の仲間で東京で週刊誌の記者をしている奴がいるから、電話して雑誌に載せてもらえるように電話でもしておくよ」と安請け合いした手前から電話してきたのかなぁ~とも思いました。
この頁、続くのかも…
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★追記12
僕は25歳の頃から約40年間、フリーランスとして週刊誌の取材記者経験があります。
僕がその業界に入るきっかけはRH連絡会が関係しています。
夜間部の大学に学籍を置きながら会社員をしていましたが、裁判闘争の準備で明け暮れるあまり、睡眠時間さえ満足にとれなくなり、アパートに帰る時間さえない日も続出していました。
夜中にRH連絡会の事務所や大学の学生会館から職場にバイクで向かい、ロッカー室の床の寝袋にくるまって数時間仮眠して仕事なんて日も度々ありました。
危険を伴う仕事なので、寝不足では職場の仲間に迷惑をかけますし、怪我もしたくないので、19歳からアルバイトで入った会社を辞めて、バイク用ヘルメットの下請け工場のアルバイトを経て、当時は西麻布にあった求人誌編集部の原稿運びのアルバイトをしていました。
版下屋さんに原稿を運んだり、版下を引き上げてきたり、凸版印刷に運んだり、時には「写真失敗したから、編集部のキャノンAE-1って君使えるかな?キャノンの一眼レフなら持ってるからなんとなくわかるって。そりゃいいや。急ぎで六本木のこの店に行って写真撮ってきてくれないかな。事情はオーナーに電話しておくから」と野暮用を頼まれたり、「この巻頭の2ページだけど頼んでいた奴の原稿が間に合わなくて、タイトルは僕が今から書くから、タイトルに合わせて記事は君が埋めるって明日までならできる?」とピンチヒッターに起用されたり、挙句に連載のコラム記事まで貰っていました。原稿運びバイク屋がすっかり編集部のお手伝い役になっていました。これが1986年の春のことでした。
その頃、貧乏なRH連絡会は古書業者と編集プロダクションと同居させてもらっていました。
その編プロの代表Nさんは新聞社でグラフ氏誌や週刊誌畑を歩いてこられましたが、1983年に独立して月刊誌「ぺ■■■・ク■■■■■」を創刊し、翌年自らの編プロを設立されていました。
たまたま僕はNさんが創刊されたその月刊誌の読者でもありました。
RH事務所内でリースしていたワープロ機のお隣の席がNさんだったので、ビラなどが出来上がるとN編集長に「こんなことやっているんですよ」と渡していました。
ある時、Nさんから「君、これだけ書けるなら何か仕事でも紹介しようか?そういえば、新たに創刊予定の雑誌があってスタッフを欲しがっていたはずだよ」と声をかけてもらいました。
前述したように、その頃はバイクで「週刊求人ニュース」の原稿運びをしながら、同誌のバラエティーページで「マルパー君のお江戸めぐり!」というコラム等を担当していました。
Nさんが紹介してくれたのは講談社系のスコラ社が新たにモノマガジンのような情報誌アクセル(仮)の創刊準備話でした。
ただし条件として撮影時の移動用に大型バイク免許や普通自動車免許が必要だったのでパスさせてもらいました。実は内心ではカタログ誌的なものにはあまり興味もなかった気もします。
次に出た話が創刊間もない写真週刊誌スタッフでした。
具体的なことは不明なので、アポ入れしてT編集長に面接してもらい、「タレントの尾行ってバイクで可能ですか?」と初めて僕に要求されている仕事内容を知りました。
この辺の僕が写真週刊誌のスタッフに採用されていく経緯をYのブログ(パンセ?)上で、何度か記述があったように思われます。
でも、僕が彼から写真誌の仕事を譲ってもらったような記憶が少なくとも僕にはないのです。
最近の2025年9月13日付のYの記事(?)の文中でも「私は学生の頃、某有名ジャーナルの元編集長からの斡
旋で、当時販売部数が飛躍的に伸びていた写真週刊誌に新たに参入する大手出版社編集部に就職を紹介された。だが、私は人の不幸やスキャンダルを執拗に追って暴
いて曝して晒す為に売文をしたくない、と折角の元編
集長の紹介だったが、辞退した。私への紹介斡旋の話を某編集室においてたまたま横で聴いていた私と同組織に属していた当時の学生仲間が、「今の○○(私)への話、私にいただけませんか」と私の辞退直後にその場で直に申
し入れて、その編集部に正社員として就職し、永年勤
続したようだ。」とありましたが、そもそも正社員とかの募集でもなんでもなく、あくまでフリーの記者募集でしたし、記者経験のない学生風情を最初からフリーとはいえ専属の記者採用するはずもなく、実績のない僕は最初は「特派記者」という肩書で、フルタイムではなく、スポットで仕事があったら呼ばれる感じで、暫くは求人誌の編集部にもお世話になっていました。
そして写真週刊誌の仕事を1本1本こなしていく過程で、戦力として認められ、2年後にはフルタイムの「契約記者」として採用されましたが、待遇は不安定なフリーの身であることに変わりはなく、Yが書いているような「正社員として就職し」という下りは実態とはまったく違う内容です。
それに僕は面接して初めて仕事内容がバイクによる尾行と僕も紹介者の方も知った次第です。
写真週刊誌というものは秘密のヴェールに覆われた部分も多いし、マスコミとの接触というか取材を受ける機会はRH連絡会の初代事務局長として多かったとはいえ、その世界に飛び込んでみないことにはわからないことだらけでした。
そんな最初の仕事の様子は、たまたま1985年8月頃のある日のシーンだったような気もしますが、週刊プレイボーイ誌の巻頭グラビアに僕とGPz400の姿があります。
▼単車倶楽部 ~みんなのライダースVOICE!~
小池延幸 2024年3月28日付投稿
自分探しの旅?まさかの終活か?(笑)
https://www.facebook.com/groups/2055223358044398/?multi_permalinks=3768765200023530&hoisted_section_header_type=recently_seen
この稼業は、基本的なバイクの腕前と、冷静な判断力も要求されますが、何よりも大切なのは時間や約束厳守です。取材はチームで動くことの方が多いので、決められた時間から一緒に動きださないと失敗する原因ともなります。
実は僕のよく知る人物は学生時代から時間にかなりルーズでした。
僕らの学生時代は携帯もない時代ですから約束した時間に相手が来なくてもひたすらその場で待ち続けるしかない場合もありました。アパートの部屋に黒電話さえ引いていない友達の方が多かったかもしれません。
僕のよく知る人物とお昼に渋谷で待ち合わせして、そいつが「ごめんごめんだす、二度寝してしまったどす」とやってきたのは夕方だったという笑えない話を聞いたことがあります。
僕たちは夜間部の学生なのでバイトや仕事をしていたので、遅刻とかは何かと不味いのはわかっているのでシビアに捉えていますが、仮にアルバイトもせずにダラダラと過ごしている生活だとしたら、生活態度からしてだらしなくて遅刻が常態化していても不思議ではなかったかもしれません。
実際、その人物の口癖は「自国帝国主義打倒」に引っ掛けて「時刻定刻主義打倒」と抜かしていたくらいでした。
そのギャグのセンスは認めますが、約束事が安心して出来ない相手というのは一緒に何かやろうとした際にはかなり厄介な存在です。
とても彼に務まるほどフリーの週刊誌記者の仕事や世界は甘くはないのです。
バイクサークル後輩のSがフリーの記者として同じ仕事に就き見事に成長し現在も活躍しているのは彼自身が地道にサーキットで練習を積み、自力で鈴鹿四時間耐久の決勝戦の切符を自ら手にしたくらいの奴だからです。
目的に向かっての根性や努力を継続して欠かさなかったからだと思います。
交通事故の慰謝料なのか示談金なのかも忘れましたが、臨時の大金で中古レーサーを購入して、畳の上のオブジェとして飾っていたどこかの方とはレースに対する姿勢は大違いでした。
そういえば、弁護士さんの練習走行(スポーツ走行?)で富士スピードウェイだったと思いますが見学で僕もついていった際に、折角サーキットまで来たのに弁護士と違って走ろうともしないYに「なんで?ここまで時間も使ってわざわざ練習に来たのにさ」と僕は不思議でしたが、
彼は「今日はちょっと…」と言葉を濁してコースへは入らずにいた時があったように思います。
「なんで走らないの?」とその時に強く思ったので、記憶に残っているのかもしれません。
気分や体調がすぐれなかったのかもしれませんし、レインタイヤの用意が出来ていなくて路面がウェットだっただけだったのかも知れません。
でも体調が原因なら、そういったこともレーサーとしては大切な調整のひとつなんでしょうしね。
咥えて、Yは過去のツーリングや渓流釣りの記録を丹念に大学ノートに書き留めてデーター化していたような自慢話がブログ(?)の過去記事であったようにも思います。
それだけの細かい性格なら、間違いなくサーキットやレーサーの準備の記録も克明に書き留めて保存してあるんじゃないのかなぁとふと思いました。
とにかく、Yがそのポリシーからも断ったような低俗な仕事を僕がさもしく横からかすめとったような話にはかなり腹が立ったのは事実です。
しかも過去数回は書かれた気がします(笑)
誤字脱字等や日本語表記の過ちはご勘弁ください。
思い浮かんだことをパパパッと流して書いているだけなので…。
この頁、続くかも…
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★追記13
◎鈴鹿8H取材?
以前、彼のブログ(パンセ?)で、RH連絡会の活動の一環で1985年の鈴鹿8時間耐久レース会場に月刊誌の取材で出かけたみたいな話があったような気がします。
忙しいので、何時のどの記述かまでは検索はしていませんが凡そそんな内容だったと思います。
具体的には1985年10月号の『月刊PLAYBOY 日本語版』10月号(集英社)にカラー8ページで掲載されたRH連絡会と月刊PB誌とのコラボ企画に僕達RHのお馴染みの仲間が8~9人(だったと思うけど…)でアンケート集めのアルバイトとして参加したことを彼は言っているのだと思います。
この掲載記事の一部は写メしてあるので下にスクロールしていただければご覧になれるかとは思います。
簡単に申せば、当時はバイク料金は29人乗りのマイクロバスと同一料金だったので、「このサイズのマイクロバスとオートバイが同じ料金なんてちょっと変だよね」と納得できない問題点を“可視化”させてみるというユニークな企画でした。
そんな月刊PB誌からの提案に僕らも乗っかっただけで、現地ではアルバイトとしてアンケート集めをしただけです。
とはいえ、月刊誌の切り口の面白さなど、マイクロバスのチャーター代や横断幕の製作など取材経費は随分とかかっていたと思いますし、発信力や影響力もあったとは思いますが、彼のブログ(パンセ?)だと、参加していた1人としても実態以上に本当に凄いことをやってのけた的な印象を受けました。
この時の僕らはそもそも取材というほどの立派なものではなくて、月刊誌記事のお手伝い(アンケート集めアルバイト)だったのです。
確かにお小遣いを貰って、タダで鈴鹿までバスで往復してもらって、バイク高速道路料金のアピールにもなって、お得感はありましたけどね。
時々、彼の記述を読んでいると「ちょっと大袈裟かなぁ~。盛りすぎ?」と感じる時があります。
※この頁、まだ続くかも…。
………………………………………………………
★追記14
◎今思うと、あの頃から少し違和感を感じていたんだよな…。
随分と昔のことなので、それがいつ頃のことだったかも忘れた話で恐縮なのですが…。
ある時、彼から電話を貰ったことがありました。
内容は「ラジオライフという雑誌に、俺がブログで書いたベレー帽の正しい被り方の記事を丸ごと盗用されて腹が立つ」みたいな彼の話でした。
僕の記憶も既に曖昧なので、彼があげつらった雑誌名は「ラジオライフ」だったと思います。僕もそういった名称の無線関係雑誌があることくらいは知っていましたが、ミリタリーベレーの被り方解説の記事まで掲載しているかどうかも知りませんでしたし、彼の電話で僕がわざわざ散財して当該の雑誌を購入することもなかったと思います。
その頃、彼が法律事務所にまだ在籍中だったのか、それとも既に東京を離れて西の方へ越していたのかも記憶は定かではありません。
でも、彼が法律事務所で働いていたことは知っていたので「君がブログで書いたことを丸ごとパクっているとそこまでいうのなら、泣き寝入りが嫌だというのなら、その出版社を訴えるなりすればいいんじゃないの?訴える前にも相手編集部やライターが特定できるならばそいつと話し合って次号で謝罪文でも掲載してもらうとかさ。それに君なら弁護士とかにも伝手はあるでしょ?マスコミを使って無断盗用記事を明らかにする方法もあるんじゃないの?」みたいなアドバイスしたような気もします。
その後、彼から出版社を訴えたとか、話し合って和解したとかの続報はなかったと思います。
また別の機会に電話を彼からもらいました。
この件も電話があった時期も、問題として彼があげつらった雑誌名も、それがどんなジャンルの雑誌だったのかも申し訳ないことに僕には既に記憶はありません。
彼が怒っていた内容は、うろおぼえで申し訳ないのですが「俺が撮影して、ブログにアップした夜景が、ある雑誌の夜景とそっくりで、あれは明らかに俺のブログの写真を見た真似したものだ」みたいな電話内容だったと思います。
その時「どれどれ…どんな写真を真似されたって?」と思って、もしかすると僕は彼のブログにアップされた夜景写真を拝見したような気はします。
僕の薄~い記憶では、例えば峠の駐車場から見下ろした都市(町?)の夜景写真だったような気がします。
彼が車で夜の峠に出かけたのかバイクで出かけたのかは記憶はありません。
もしバイクで出かけていたのなら、バイク乗りなら愛車と夜景風景を絡めて撮影することが多そうな気もしますが、その辺の絵柄の記憶も僕には残っていません。
場所的には彼の住んでいる場所の近くだったんだと思います。
少なくとも神戸の六甲山とか、北海道の函館山とか、熱海とか、俗に“百万ドルの夜景”と呼ばれるような観光スポットに彼が出かけて撮影したものではなかったと思います。そんな有名撮影スポットなら、これまで数多の観光客やプロカメラマンが撮影してきたと思いますので、それを今更「俺の真似を断りもなくしやがって」といくらなんでも毒づくことはないでしょうからね。
多分、彼の地元にある峠で撮影した夜景写真を何らかの媒体(バイク雑誌?旅行雑誌?情報誌?etc…)が、撮影橋よなのか、撮影方法で真似したと怒っていたんだと思います。
その話を聞いて、彼にもフリーとはいえ雑誌関係の仕事をしている僕としては「夜景写真なんてどの写真も似たり寄ったりな気もするし、問題があるというのなら、彼が撮影し、彼のブログにアップした写真を、彼になんの断りもなくコピペして雑誌に無断で掲載したというのなら、それは問題だけどさ…でもトリミングしていても同一写真かどうかなんて白黒つきそうだし、地元の彼だけが知っている峠の夜景の素晴らしさにその雑誌の人がわざわざその場所を訪れて同じポイントで撮影したのだろうか?それでもその夜景風景や場所は公共的というか、誰でも市民がそこに行けば享受できる風景なんだろうし…彼だけが知っている貴重な地元情報と主張したところでそれの何が問題なのだろうか?」と僕は不思議に思いました。
僕は仕事柄、一眼レフカメラを使用していますし望遠レンズもよく使います。プロカメラマンというわけではなく、“写真も(一応は)撮れるライター”のような立ち位置ですからちょっと昔のニコンD500を何台も愛用していますが半ば素人カメラマンの僕にとっては必要にして十分なカメラだと思っています(笑)
バイクツーリングでも僕も女房もD500をそれぞれのバイクに積んで出かけています。
それなので、例えば望遠レンズの圧縮効果というのも知っています。
時々、彼のブログで東京のビル群と富士山の写真を見かけますが、実際には肉眼では東京から富士山はあんなに大きくは見えませんよね。
でも彼が一眼レフのような本格的なカメラを使っている印象はないといえばないので写真撮影に関する知識は薄いのかなと思っています。
その意味では、彼が地元の超極秘スポットで撮影した夜景写真にしても、そのまま雑誌での使用に耐えうる出来の写真かと考えると少し怪しい気もします。
話はまったく変わりますが、彼が渓流釣りをしているのはなんとなく知っていました。
ある時、彼から「俺、釣り雑誌に写真が出てるんだ。そうなんだよ、今さ書店に並んでいる■■■■って釣り専門誌を探して見てみてよ」といった感じの電話だったと思います。
これも、何年くらい前の話だったかとか、その釣り雑誌(今となっては本当に釣り専門誌だったのか、アウトドア系雑誌だったのか、旅系情報誌だったのかの記憶もないのが現実ですが…)を「どんな記事だろう」と書店で立ち読みまではしたんだと思います。
ところが、なかなか彼の顔写真とかには行きつきませんでした。
僕にはまったく知識はありませんが、「フライ」とか渓流釣りのイメージだったので、釣りの達人らしくてっきり大自然の緑の中で沢登りでもしながらまだ殆ど人が立ち入ったことのないような場所で大物でも狙った記事が大きく出ているものと思っていました。
結局、行きついたページは、今の僕の超アバウトな記憶では、見開き2ページで、どこかの管理釣り場というのか、長方形の釣り堀のようにしか僕には見えない施設を紹介したページでした。
その左ページの下だったか、せいぜい3~4cm四方の顔写真が彼だったような気がします。
彼の紹介も、たまたま釣り堀に来ていたお客さんか常連さんという扱いだったと思います。
東京方面でも奥多摩まで行けば管理釣場であっても実際の清流を利用して、僕のような釣りはまったくの未経験者でも釣り竿も餌もレンタルして渓流釣り気分を自然の中で楽しめる場所があるのは知っていますし、過去に何度もレジャーとしてそういった岩がゴロゴロしたようなニジマス釣り場は利用しています。
でも残念なことに彼が出ていたのは「釣り堀?写真だけだと、水…濁ってない?流れもなさそうだし…ヤマメやイワナ釣りじゃなくて…ヘラブナ釣りではないにしてもここでどんな魚が釣れるのだろう?これなら僕が行く奥多摩の日原鍾乳洞へ通じる道沿いの管理釣場の方が百倍魅力的な気がするなぁ~」と思いました。
わざわざ大騒ぎして「俺、釣り雑誌で取り上げられたから見て見て!」風に電話してきた割には「なんだかなぁ~」というのが僕の記憶です。
僕は大自然の中でフライフィッシング中の彼の全身像を勝手に想像していました。
今、ふと思ったのですが、その時の雑誌に掲載された釣り堀の客としての彼の上半身写真がもしかするとブログのプロフィール写真なんじゃないかと思えてきました。
雑誌の隅っこにあった写真は顔が写っていなかったので、最初に彼と気がつかず、あとになって写真のキャプションで「お客さんの吉□□さん」で判明したような気もします。
まぁ、かなり昔のことで、彼が取り上げられた記事のコピーも残っていないので全ては66歳半惚け小池爺のいいかげんな話ですが(笑)
誤字脱字の類はご容赦を
※この頁、まだ続くのかも?
………………………………………………………
★追記15
単なる昔語りの笑い話ですよぉ~(苦笑)
◎革命的警戒心の欠如?(笑)
交番横の道路標識に向かってパンパンパン!
彼がGFと暮らしていた鶴見区のアパートに遊びに行った時のことです。
彼のアパートと道路を隔てた反対側に派出所がありました。無人交番だったのか、常に警察官が詰めていたのかまでの記憶までは僕にはありません。
(でも、1980年代前半の時代は無人交番の数は少なかったようにも思えますね)
彼が僕に「実はこんな面白いことをやってるのよ」みたいにニヤニヤ顔で見せてくれた姿は、アパートの台所か玄関脇かどこかの窓を少しだけ開けて、そこから交番脇の道路標識を的にしてエアガンを1発だけ発射していました。
多分、命中させたのでしょうし、アパートの窓からBB弾が飛び出ていく程度の隙間からは射撃している彼しか着弾は見えなかったでしょうし、金属の道路標識に命中した「パシッ!」とか「カンッ!」といった小さな音が聞こえたかどうかの記憶も今となってはありません。
正直、僕は彼の行為に呆れました。
恐らく彼は少しだけ開けた窓から視線の角度を変えて交番前に警察官が立っているかどうかの確認くらいはした上でのことでしょうが、もしかしたら彼が射的ごっこしている瞬間に外から自転車の警官が戻ってくるかもしれませんし、彼のアパート前の歩道を徒歩や自転車の通行人が横切る可能性やその人に命中させて怪我をさせる可能性もないとはいえませんし、僕に見せたのは1発だけですが、恐らく過去に何回かは試した遊びだとも思います。
交番勤務の警察官にしても横に立つ道路標識に複数の微かな丸い窪みを発見して「なんだろう?」と思う時が来るかもしれません。(まぁ、無改造のエアガンのパワーでは、道路越しの標識を凹ませるだけの威力などないと彼は知っているのかもしれませんが…)
でも、こんな密かな愉しみをしていて、運悪くバレてしまったとしたら新左翼系の活動家である彼としては権力の介入を招く格好の材料となってしまいマイナスなことしかないと僕は思いました。
もしかしたらその時に僕は彼に「こんなこと止めなよ。見つかったらヤバいよ」と注意したのかもしれません。
日頃「革命が…」みたいな小難しいことを並べる彼ですが、本質はよく彼が口にしていたジョークの「共産趣味者」(共産主義者のもじり?)みたいな子かなとも思いました。
まぁ、僕など更にミーハーなタイプなので、彼のように「立派な」革命家では今も昔もこの先もないので偉そうなことは言えませんけどね(笑)。
なんといっても、そのセクトに於いて彼は僕より先輩だそうで、僕の加入ら反対した旨の記述も過去のブログ(パンセ?)で見かけた気がします(笑)。
僕は運動に大衆性がなければ意味がないと考えていましたから、「学生先駆性論」みたいな思い上がりや独りよがりの活動や大衆的基盤に支えられないような運動には否定的でした。
ある時、彼がガリ版刷りだと思いますが、超分厚い彼の革命理論の論文集みたいのを「どうだ」とばかりに自慢気に1冊くれたことがありました。
R大のサークル「社研」名義のパンフだったような気もします。
僕は一行も読む気もしなくて、そのままにしておいたと思います。
「アルバイトをしている風でもないし、ヒマだからこんなのセッセッと書いていたのか?自己満足?でも、これだけ立派な革命の指導書みたいのがあるのなら、さぞかし彼のR大では明学よりも革命前夜的状況にあるんだろうな。ご立派な理論だけで革命が成るなら楽なもんだわ…」と思ったような気がします。
いくらご立派なことを並べたてても、同じ大学に通う身近な仲間がついてきてくれなかったり、そもそも一緒に活動してくれる仲間がいなければ無意味な気がします。
1大学のセクトのキャップ(責任者)でもあったはずの彼が、僕の大学にちょくちょく遊びに来ているヒマなどあったのだろうかと少し不思議な気はします。
話は変わりますが、彼の本年9月1日のブログで「北海道へ」というタイトルで「かなり古き東京の友は北海道へ。何だよ。銀ヘルでなく白じゃんか」とか「俺が指揮してる梯団でトラメでコールを任せた奴」との記述がありました。
昔は「銀ヘル(メット)」だったというのでしょうから、彼と同じセクトに属する同志だったという意味だと思います。
顔写真もありませんし、彼の話が本当だとしても、僕には心当たりがありません。
「銀ヘル」被った活動家で、バイク乗りなんて、当時の明学大や「井戸端会議」、RH連絡会に参加していたR大の奴に心当たりがないのです。
R大を卒業してから、本格的にバイク免許を取得した方であるならば僕の記憶にはないので、もしかすると大卒後に乗り出した方なのかもしれません。
「俺が指揮している梯団で」ともありましたが、彼は一度、東大・早稲田・明治・中央・明学・R大の「首●共●」かなんかの学生デモ指揮中に逮捕された話は僕も当時耳にしていますからそれは事実だと思いますから、その時に拡声器(トランジスタメガホン)でコールを担当されていたのが毎年のように北海道へツーリングに出かけておられる方なんでしょうね。
「銀ヘル」なんて明学とR大くらいしかメンバーいなかったと思いますから、その意味でもR大の子かなとは思いますが、残念ながら心当たりはありません。
R大出身の彼の親友っぽい方は自転車の方にハマっている気もしたので…。
あ~、デモ指揮で彼が逮捕された時の嘘か誠かわからない後日談的な笑い話もひとつ思い出しました(笑)
とにかく当時の彼は「歩く笑い袋」というニックネームがついたくらいに、皆に愛されていたというか面白がられていた人気キャラでした。
それが…、それなのに…、二十年…いや、三十年は彼とは直接会ったことはないと思いますが、ちょっと僕には今の彼がよくわからなくなっています。
最期に彼と会ったとすれば、彼と彼女が早稲田大の近くのコーポみたいな場所に住んでいて、僕の職場が文京区音羽にあったので、3kmくらいと近かったし、編集部からの帰りにバイクで寄ったのが最期だったのかも。
僕はビックバイククルージン誌から頼まれてカワサキ専門の新雑誌(仮称『西風』で準備していましたが、『KAWASAKI MIND』名で創刊準備ゼロ号を発刊しました)を編集・ライター・カメラマン兼で手伝っていたので、週刊誌編集部~千駄ヶ谷のバイク雑誌編集部への移動コース上に早稲田(鶴巻町あたり?)の彼のアパートに寄ったのかも。
当時、僕は900NinjaにデビルGG管をつけていましたが、彼がバイクを仮に1台くらい所有していたにしても乗っていなかったような気もします。彼のアパートでバイクを見せてもらった記憶はないですね。もしかしてシートを被っていたのかもしれませんが…。
当時の彼は「居合」に夢中で、彼の部屋で何振りかの日本刀を見た気がします。
話を「北海道通信」で登場したR大OBと思われる方の話に戻すと…
R大でRH連絡会に顔を出していたのは彼とGFさんの2人だけという印象で、その小柄なGFさんが、50cc原付にしては大柄な車体だったホンダのMBX50(だったと思いますが…)に、なんとか両爪先が地面に届くギリギリのちょっと辛そう感じで頑張って提訴行動で東京地裁に来ていたのだけは記憶にあります。
普段は彼女は車の免許があったので、四輪車で何かとサポートしてくれていたと思います。でも彼女のバイク姿って、MBX50の1回だけくらいしか記憶ないんだよなぁ。250~400ccの中型バイクの仲間が圧倒的だったので、排気量の差から一緒に高速道路とかの移動も出来ませんから、普段は彼女は彼のバイクと一緒にいたんでしょうね。
その意味では、彼が過去に何回か書いていた気がしますが、本州とも違う東京からかなり外れたような場所を旅している時に眼下をGFがバイクで偶然にも通り過ぎたような話があったと思います。
まるで彼の大好きな映画『彼のオートバイ、彼女の島』にでも出てきそうな素敵なシーンというべきか、それとも片岡義男さんの小説の中のようなエピソードのような印象を受けました。
学生時代の彼と彼女を知る者としては、にわかには信じがたい2人のエピソードではありました。
彼と彼女はR大の熊谷キャンパス時代からお付き合いがあったようにも思えますが、失礼ながら彼女が自立した女性ライダーとして単独でロングツーリングをしていたイメージは僕にはないのです。
それにまだ僕も彼とは絶交もしていない時期に「彼女も自動二輪の免許を取得して俺のバイクで練習してるのよ」みたいな報告を彼から受けた記憶がないのです。
かなり小柄な印象の彼女だったので車の免許はお持ちだったので学科免除ですから小型自動二輪なら取得は容易だったと思いますし、中型自動二輪だと体格的にはかなり苦労されたかとは思いますが、そういった取得に関する苦労話も聞いたことはありません。
彼と彼女とはもう25年間くらいは会ったことはないので、その空白の期間に彼女もバイク免許を取得されたのかもしれませんが少なくとも僕は報告を受けていないと思います。
そんな素敵な出来事なら「良かったじゃん。これで彼女(奥さん)と高速道路とかも使ってツーリング行けるじゃん」とか祝福したでしょうしね。
僕の女房がVTRから現在のゼファーχに乗り換えたのは2019年10月でした。彼が四国かどこかのショップでゼファーχを購入したのとどっちが先だったのかは忘れてしまいました。
ある時、電話してきた彼が「マルパーの奥さんのゼファーもハンドルの角度を変えた方がいいよ。緩めて少し回すと、グリップの両端が下がって、前から見るとセパハンみたいで格好いいからさ。俺はそうやってるのよ」と聞いてもいないことを言ってきました。
余計なお世話にも程があります。
女房はノーマル状態で満足していますし、ハンドルの位置等は好みもあれば、体格によることもあるし、彼のようにレーサー出身(?)と違って、そもそも我が女房は“セパハン”なんて言葉も知らないし、それに興味もないと思います。教習所の車両のようなポジションの方が本人も安心して違和感がない様子ですのでね。
我が家のバイクのハンドルにあれこれ指図するなら一言言わせてもらいますが、「君のゼファーについてるマフラーって、ちょっと長すぎる気もするし、角度も僕の好みじゃないな。俺なら別の集合管を探すな」ってね(笑)
※この頁、まだ続くかも?
誤字脱字の類はご容赦を
※長いあとがき?
僕はモデルガンとか買ってもらえるほど裕福な家庭で育ったわけではないので、小学生の頃は神社の境内で「銀玉鉄砲」か巻玉火薬を使った玩具のピストルで戦争ごっこをして同級生たちと遊んでいた程度でした。
それでも中学生の頃になると、漫画『ワイルド7』の影響か戦争映画やスパイ映画などの影響なのか同級生でも金属製のモデルガン(ワルサーP38を見せてくれた友達はいました…)を持っている子も何人かいたような気がします。
学生になって、帰宅途中の目黒通りの権之助坂下りにあった深夜書店で手にしたのが『コンバットマガジン』誌でした。
たまたま初めて手にした月刊誌でしたが、そこにペイントボール弾と小型ガスボンベを使用したアメリカでのサバイバルゲームの紹介と、それをそのままの状態の遊びとしては法律的問題もあって輸入できない事情もわかりました。
でも、日本にあるエアーソフトガンという玩具で6ミリBB弾で撃ち合って遊べることは出来るし、実際に名古屋には「Ninja」というサバイバルゲームチームが存在することもその雑誌で知りました。
「これは童心に戻って楽しめそうだな」と思って、マルゼン(といったメーカー名だったような記憶が…)の「KG-9」とかいうサブマシンガンタイプのエアーコッキング式の銃と、メーカー名は忘れましたが「サイドアーム」(という言葉も専門誌で初めて知りました…ルガーP08という拳銃タイプのエアガンも購入したと思います。
まだBB弾を1発1発、銃弾状のカートリッジの頭に埋め込んでいて時代でした。
こういった遊びにレスポンスよく反応するのが大崎警察署の裏手にあるらしいR大の彼でした。
彼が漫画『ワイルド7』好きで単行本を揃えていることや部屋にモデルガンがあったことくらいの印象は僕にもあったと思います。
早速、彼に声をかけて、大井埠頭のまだ葦の原っぱのような場所へバイク(Z400FXとRZ350)で出かけた記憶があります。といってもやたら広い原っぱで、お互いが用心してジッと動かないものですから撃ち合いになるはずもなく、たまたま居合わせた地元と思われる小学生か中学生か子供2人も巻き込んで2対2で遊んだような記憶もあります。
それが、やがて僕が大学内でバイクサークル『井戸端会議』とは別にサバイバルゲームクラブの設立となります。
“戦争ごっこ”を遊びにしてよいものかとも思いましたが、世間の目はともかくとして面白い遊びなら飛びつくミーハーなところは僕の悪い点です(苦笑)。
大学で子供の遊びのようなサバイバルゲームクラブ設立なんて珍しさもあってか、受験シーズンに複数の雑誌から取材を受けました。
大学選びの雑誌で「こんなユニークなサークルがあるよ」的なグラビアページに迷彩服の上下にゴーグル、フェイス・プロテクター姿はインパクトがあったはずです。
まだまだサバイバルゲームの存在が専門誌以外ではそんなに知られていない頃ですからね。
少なくとも2誌には取り上げられた記憶がありますが、どこかで掲載誌を処分してしまったのか手許に雑誌コピーも残っていません。
機会があったら国会図書館で「週刊朝日」だったとは思うので見開きカラーページを探してみるつもりです。
大学のヘボン館前辺りの道で夜中にストロボを背後と前から焚いて撮影した記憶があります。
その時の本人だけのバストアップ切り抜き写真を彼がブログで使用していたのは見かけたことがあります。
彼はベレー帽にイギリス軍の迷彩服姿でサブマシンガンのような形の銃(ソフトエアーガン?)を持って格好良く写っていたと思います。
もう1冊は「ウイニング別冊 86進学年鑑」(教育新聞社)なのですが、表紙だけは見つかったのですが…中身というか掲載ページが見つからない!(笑)残念。

※最初に明学のサバイバルゲームサークルを各大学の異色サークル的な切り口で取り上げてくれた受験雑誌だったと思うのでずか、
表紙だけは見つかったのですが中身の紹介記事ページは紛失(笑)

明学内で僕が趣味的に作っていたサバゲのミニコミの創刊号の表紙です。何号かは出していました。

学内で僕が出していたサバゲの最初のルールブックでした。
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★追記16
懐かしい思い出の笑い話でぇ~す(苦笑)
◎カサブランカダンディな彼
古い学内用のチラシが出てきました。
1985年8月4日の新聞記事や同日の海老名SA内で横断幕を広げての原告団募集の広報活動報告や秋の史上初のバイクデモの予告等をしています。
書いたのは字体からして僕です。
急ぎの報告なので、写真や新聞記事の切り貼りした簡易なものです(笑)
そこにビラ撒き広報活動に参加したメンバーの集合写真がありました。
関東RH連絡会によるビラ撒き広報活動なので、事務局長の僕もいれば、先日のU追悼ツーリング参加の関東事務局長(後の二代目事務局長)、東京支部長の住職(故人)、埼玉支部長、千葉支部長の姿もあれば、他界してしまった明学メンバーや「井戸端会議」の仲間の顔もあります。
先日の追悼舞鶴ツーリング参加者が少なくとも4名(不鮮明なコピーなので5名目もいるかな)はいます。
その真ん中にパナマ帽とサングラス姿という粋な姿で、右手に水鉄砲なのか掌に入りそうなサイズのピストル状の玩具を手にポーズを決めている彼がします。
他のメンバーの大半はバイクでやってきたのかバイク姿ですが、彼は弁護士さんのレース用ハイエースロングかなにかに同乗でもしてきたのか普段着姿です。
とにかく楽しそうで微笑ましい姿です。
心からビラ撒き活動を満喫している雰囲気が写真からも伝わってきます。このキャラですから当時は皆に愛されていたと思います。皆のマスコット的な人気者でした。
明学(MG)大で鈴鹿四耐に挑戦し始めた頃の「井戸端会議」ビラ1枚が新たに出てきました。
この文字は先日他界したUかもしれません。
慣れていない素人っぽさが好感を持てます。
まだ個人情報保護なんて発想も希薄な時代なので、MFJのライセンスのコピーもありました(笑)
でも、「俺たちの仲間のこいつらがレースに出るから応援してくれ」という熱い気持ちは伝わってきます。
彼らより本格的にレースに取り組んでいたかもしれないR大の彼なら、タテカン職人でもあり、ビラ作りなどもお手の物ですし、加えてイラストも上手ですから、自慢のTZと絡めた写真と絡めてR大学内でこんな風なビラとか配布していても不思議じゃないのかもしれませんが、僕の手許には資料はありません。
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★追記17
懐かしい思い出話です。
◎取材とあって「はいポーズ」♪
写真週刊誌『FRIDAY』1985年10月11日号です。
同年9月20日に東京地裁で開かれたRH連絡会による“バイクの高速料金返還訴訟”の第1回口頭弁論当日に日比谷公園で撮影した1枚です。
カメラマンは当時CB750Fのエンジンを降ろして部屋で磨きあげることを趣味にしていた後藤さん、記者は後に芸能レポーターに転向する小泉さんだったかと思います。
おそらくカメラマンが「それでは、皆さん、お手元のヘルメットを手に“裁判頑張るぞぉ~”とか元気よく気勢をあげてもらえますか?」といった調子で“画(え)作り”をお願いしたのでしょうか、僕などはヘルメットを高く突き出している風で写っています。
その僕の傍らに彼がいます。
彼は大事そうにヘルメットを持っています。
これは彼の自慢のオリジナルペイントのヘルメットなので、その丁寧な持ち方からすると、もしかするとそのヘルメットをきちんと見せたかったのかもしれません。
いやいやこれはRH連絡会の裁判闘争の取材であって、君のオリジナルヘルメットの取材とは違うんだけどね(笑)
僕などは黒と赤のマジックでシンプソンヘルメットに乱暴に書き殴っただけですが、彼は凝っていました。
僕はやったことはありませんが、塗装をサンドペーパ―で削って剥がしたり、デザインを起こしたり、必要な色の塗料を用意したり、塗って乾かしたり、クリアーを噴いて磨いたりと大変な時間と手間がかかる作業だと思います。
彼は手先はとても器用な奴だったのと、アルバイトをしている風もなかったので凝ったことをやるような時間はたくさんあったんだと思います。
あれ?
彼はスニーカーのような靴なので、この日はバイクでは参加していないのかもな。
僕は踵のあるレッドウイングのワークブーツをバイク乗車用に流用していましたが、5万円近い大枚を叩いて横浜ケンタウロスのショップで
購入した記憶があります(笑)

※掲載写真の別サービスカット

※本誌掲載写真のプリントです。僕には彼が訴えたいのは、オリジナルペイントのヘルメットに思えました。裁判開始の中で気勢をあげている活動家にはとても見えません(笑)「このヘルメットどうですか?結構といい線いってません?」風に見えました。
………………………………………………………
★追記18
懐かしい思い出話です。
◎「おたく」止まりと、「考現学」視点との差?
投稿の日付も忘れてしまいましたが、ちょっと前に彼がブログ(パンセ?)で森伸之著の『東京女子高制服図鑑』(弓立社/1985年)を取り上げていた気がします。
それで思い出したことがあります。
この書籍が世に出た後で彼が悔しそうに言っていたことがありました。
「先を越されてしまって悔しかった」的な内容でした。
彼のR大での親友にAという人物がいたような気がします。僕も1回くらいは面識があったような気がします。
A氏のバイク姿での記憶はありません。
そのA氏が女子高の制服を集めて箪笥にしまっているという話でした。(入手方法までは僕にはわかりませんが…)
「あいつ凄いんだぜ。部屋の中の箪笥には制服がいっぱいあってさ」みたいな話でした。
僕には彼の言う「凄さ」がさっぱり理解できませんでしたが…。
どうやらAもしくは彼らも『東京女子高制服図鑑』的な企画の何かを考えていたのかもしれません。
個々の趣味や性癖的なことをとやかくいう権利も僕にはないので、確かに国学院大の森伸之氏より先にR大の仲間で出版という形に持ち込めれば大ヒットしたかもしれない企画です。実際に森氏の著作はシリーズ化したような気がします。
それに僕のよく知るR大の彼は可愛らしい女の子のイラストを描くのも得意だったはずなので、実際に画も準備していたのかもしれません。
ただし彼の親友のA氏は制服フェチではなかったとは思います。後にデザイン関係の仕事に就かれたような印象がありますので。
企画面では遜色なかったにしても、現代都市民俗学的な研究アプローチからR大グループよりも一足先に『東京女子高制服図鑑』に漕ぎつけた森氏の勝利だったんだと思います。
※この頁、まだ続くかも?
………………………………………………………
★追記19
懐かしい思い出話です。
◎彼の単発バイトをひとつ思い出しました。
RH連絡会は『BEST BIKE』(以下BB誌と略す)とライターM氏に何かとお世話になっていました。
BB誌は親会社は講談社ですが、ベストバイク社という子会社から出していた雑誌です。
ベストバイク社は音羽通りでも親会社がある護国寺側とは逆方向の江戸川橋側に建っていました。
当時は年に1冊はヘルメットやブーツやウェア類をまとめたバイクグッズカタログ的なムック本を出版していました。
彼はM氏の声がけで、そのカタログ本を手伝っていた記憶があります。手伝いといっても、恐らく“切り貼り”がメインだったと思います。年鑑ですから、バイク用品の総掲載数がモノを言います。かなり細かい仕事です。
「また徹夜になりましたどえす」とか、編集部の近くの店でMさんにカツ丼を奢ってもらったとか申しておりました。
まぁ、写真やキャプションの“切り貼り”作業による版下作りであっても立派な編集業です。
普通はこういったアルバイトから、雑誌編集業界に入っていく例も多いのですが、彼はあまり興味はなかったのかもしれません。
雑誌業界に興味があったならラッキーな話なんですけどね。
※この頁まだ続くかも?
………………………………………………………
★追記20
懐かしいような思い出話です。
◎何かと話を盛りすぎる傾向のありそうな彼…
サービス精神が旺盛なのか、それとも昔の出来事なので記憶が曖昧なのかもしれないが(ソレは僕も同様なんだけどね…)時々、彼のブログ(?)の内容に「そうだったっけ?」というのが時々ある…いや、かなりの頻度で遭遇する。
例えば、某ブログ(?)で、2023年12月31日付の「千鳥走行~オートバイの集団走行方法~」という回がありました。
そこにRH連絡会が実現した“日本初のバイクデモ”の話題がありました。
彼は「参加した一般ライダー500名のバイクは数十台のてい団ごとに区切って明治公園から都内を走行した。私は第2てい団の引率を担当した」と記していました。
500名!?つまりバイク500台!?
いやいや、そんなに多くなかったはずだと思いますよ。
ハッキリ申せば、警察への集会やデモ申請を行った責任者の僕だって今より40年も前になる1985年10月13日(土)の正確な人数だっておぼえている筈はありませんけどね(笑)
そこで翌日の「毎日新聞」のコラム雑記帳を参考にすると、そこには「オートバイ百五十台が結集」と記されています。注意しなければならないのは、デモや集会の参加人数(参加台数?)には、「主催者発表」もあれば「警察調べ」の数字もあったり、マスコミ発表もあったりしてまちまちな数字がよく登場します。
でも、僕が東京都公安委員会に提出した「集会 集団示威運動 許可申請書」には、僕の下手糞な子供っぽい字で【参加予定人員】を「集会三百人 デモ百六十人(宣伝車三台 オートバイ百五十台)で届けていました。
バイク雑誌やビラ等で不特定多数のライダーに呼びかけてはいたので、事前に参加人数を正確に計ることは不可能でしたし、もしかすると明治公園(現在は新国立競技場になっているエリアです)に200名近い方が様子を見に来たかもしれませんが、「500」という数字はいくらなんでも盛りすぎかなという気は僕でもします。
申請書を読むと、総責任者は僕で、副責任者は弁護士さん、明学大『井戸端会議』リーダーのU、RH連絡会関東事務局長(後に二代目事務職長)のS氏の名前がありました。
僕は毎日新聞の写真にもありますが第1梯団の先頭(先導)です。
第2梯団の先導が彼だったのか誰だったのかは記憶はありませんが、このバイクデモには、千葉支部、埼玉支部、東京支部、神奈川支部といった各支部長クラスが参加していたはずですし、バイクデモの実現を目指して苦労されてきた「茂木モータース」と「二輪を考える会」メンバーも参加されていましたし、過去の集団走行で先導を務めてきたメンバー達もいたでしょうし、彼に第二梯団の「引率」を任せていたのかは申し訳ないことに僕には記憶がないのです。もしかすると車に乗っての引率って意味なのかなぁ?
その梯団ですが、僕の記憶では1梯団50台による計3梯団かなとも思いました。デモ申請書に宣伝車3台とあるのは、警察との話し合いの際に条件として「各梯団に1台ずつ先導車両(街宣車)をつける」というものがあった気がします。
彼はブログで「数十台のてい団」としていましたが、仮にバイク20~30台で1梯団を編成したとすると、150台のバイクでも5~7梯団になりますし、ました彼のいう「500台」となる梯団数が増えすぎて、各梯団にリーダーやサブリーダーを配置するだけでも大変です。
新聞掲載の小さな写真からは1梯団の正確な数はよくわかりませんが、40台強はいそうな気もしました。
このように、彼のブログ記事は僕から見ても「少し大袈裟すぎない?サバ読んでない?フカしてない?」とか思ってしまうことが多々あります。
でも、思い違いや勘違い、思い込みってのは誰でもありますから、可能な限り調べて慎重に書けばいいし、そのように務めるなり、不明や曖昧な点は断定せずに濁して書けばいいと思うのにね。
元活動家だというのなら、適当なことを並べて信用を失うよりも、あまり誇張せずに可能な限り事実に沿った内容を心掛けるべきだと小心者の僕などは思うのですが…。
補足しておきますが、バイクによるデモ申請はずっと警察に拒否されてきました。
僕と弁護士の2人で警視庁本庁で警視正とこのデモ申請を巡って話し合いが持たれました。
それでも警察側が「認められない」と言い切ったので、僕は「独り言」(あくまで独り言ですヨ。愚痴っぽい内容ですが独り言のつもりだったのですが、どうも静かな会議室では相手に聞こえてしまったらしいのですが…)として「えっ、デモ…やっぱりダメなんだ…ってことは、高速料金の裁判も抱えているのに、今度はバイクデモを巡っての裁判まで抱えちゃうのか?ただでさえ忙しいのに、また裁判がひとつ増えるわけ?たまんねぇな。しかもさ、デモといえば日本国憲法21条の表現の自由じゃん…ってことは、一審でどっちが勝っても負けても憲法論争だから最高裁まで絶対に行くから長引くよなぁ~。あ~面倒くせぇ~」といった内容のことをブツブツと小さな声でつぶやいていたようです。
そうすると警視正の方が「貴様、警察を脅すつもりかっ!」とお怒りになったので「えっ、脅してなんていませんよ。またひとつ裁判が増えるんだなと思って嘆いていただけですよ。バイクデモの裁判になったら貴方にも出てもらうことになるかもしれませんのでよろしくお願いしますね」とお答えしておきました。
で、何故か結局、この日のうちに日本初のバイクでもは実行可能になりました。あとは警視庁から四谷署で実務的な打ち合わせの必要もあり僕が出向いて、公園を借りるには東京都の管轄ですから参加予定人数に合わせてスペースを借りなければならないので都庁にも行ったのかなぁ~、でも細かいことは忘れた(笑)
日本初のバイクデモに向け都内や明学大内で配布していたビラも出てきました。字体も文は書いているのは僕ですね。
※この頁まだ続くのかも?
誤字脱字、変換ミスの類はご容赦を
………………………………………………………
★追記21
懐かしいようなたんなる思い出話です。
◎僕に対しても大物ぶりをアピール?
彼からまだ年に1回くらいは電話がかかってきていた頃の話です。
でも、それが何年前(20~30年前??)のことで何の用件だったかの記憶はまったくありません(笑)
僕は報道という仕事柄30歳くらいには携帯電話を個人で契約していたと思います。
でも、あの頃の携帯って電波の受信状態が不安定だと通話中によく通話が途切れてしまい、慌てて相手にかけ直すことってありましたよね。
その日も彼からの電話だったと思います。僕が彼に電話するって用事は昔も今もありませんからね。
僕は自宅北側の部屋(書斎)で携帯にて会話を受けていたと思います。
とりとめのない彼の長話になっていたと思います。
と、そこで突然電話が切れました。
バッテリー切れでもないし、どちらかの受信状態の影響かなくらいの判断でした。
恐らくすぐにかけ直してきたのは彼です。
その時再開した会話は大雑把にはこんな内容だったと思います。
彼「今のわかった?」
俺「何が?電話が切れたこと?俺の方の電波が悪かったのかな」
彼「違う、違う、マルパーは相変わらず甘いな」
僕「どっちかの電波の状態が悪かったんじゃないの?」
彼「“こうあん”だよ、こ・う・あ・ん!」
僕「“こうあん”って公安警察のこと?」
彼「そう、その公安の仕業だよ」
僕「?????その公安がさ、なんで電話が切れたことと関係してるの?」
彼「今の俺たちの会話もずっと盗聴されていて、あまりにくだらない話が続いていたので、アイツらもこっちのバカな話につきあわされて嫌気がさしたのか、あれは『盗聴してるぜ』って意思表示なんだよ」
僕「は?盗聴?」
彼「俺の電話っていつでもこんな感じよ。よくあるのよ。会話の途中で切られちゃうのってさ。おい、今も聞いてるんだろ、いい加減にしろや、この公安野郎」
僕「…………。」
僕は彼が日本の警察から日常的に監視対象になっているほどの重要人物なり国家にとって危険人物であるとは思ってもいませんし、過去にも彼がそんな立場であったとも思ってもいません。
もしかすると、彼自らが会話の途中で電話を切って、それからかけ直してきたのかとも考えたくらいです。
自分が今も公安警察に監視されているだけの人物であるという演出のためにね。
そんなことを僕に対しても仕掛けたりするとすれば、他の知り合いにも似たようなことをやっている可能性もあったのかしれません。偶然の受信状態の悪さで会話が途切れてしまった際などに、相手にそんな風に伝えれば素直で無垢な相手は彼を信じてしまうのかもしれません。
まさか、彼自身が「私は今も変わらず公安にマークされ続け、電話の盗聴をされている」と信じているとも思えなかったので、僕への大物アピールだったのかなぁ。
それとも、たまたま受信状態の問題で途切れたのを利用して彼特有のジョークとして僕をからかっただけなのに生真面目な性格の僕が「えっ!?盗聴されてたの?」とビックリして彼の話を真実と受け止めてしまったのかな
ぁ?(笑)
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※この追記はまだ続くかも…。秋は何かと忙しいので不定期ですが(苦笑)
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★追記22
懐かしいようなたんなる思い出話です。
◎彼は僕らの圧倒的な人気者でした。
大昔、僕が明学大で立ち上げたサバイバルゲームクラブのミニコミ誌の1ページが出てきました。
これが何年に発行したミニコミの第何号なのかも表紙や奥付も紛失していて申し訳ないことに今となってはわかりませんが、余興として僕が東京マルイ製の初の電動エアソフトガン「FA-MAS」を持ち込んで物珍しさから皆で多摩川に向けて試し打ちをして遊んだ記憶があるので1991年以降のことだとは思います。
撮影場所は二子玉川の河川敷で明学大「井戸端会議」の古参メンバーと後継サークルの「H&L」メンバーでBBQをやった時は思われます。
そこに居合の試合帰りの彼が日本刀を下げて合流したような記述です。
既に旅立ってしまった仲間のUやRの姿もあります。
鈴鹿四耐決勝完走のSの背中もあります。
三々五々で15~20名くらいは集まったような気もします。
「TZ250で国際A級レーサーを目指し」とあるのは、書き手の僕の半ばジョークだと思います(笑)
その意味でも映画『ハスラー2』の影響か、ビリヤードでハスラーとしてアメリカに渡るなんて夢をGFに熱く語っていたなんて噂を耳にした僕が触れているのも同様に半分ジョークだと思います。
気取り屋さんの彼なので、バーの片隅に置いてあるピアノにグラスを手におもむろに近寄って、素敵なレディをはべらして1曲弾いてみたくてキーボードの練習をしている風な噂も僕が聞きつけていた節も僕の記述からは窺えます。
昔の彼は「眠い・疲れた・お腹へった」の3ワードで仲間内では語られていた様子も思いだしました。
彼に頼んだ原稿がまったく仕上がっていないことへの皮肉も書いてありますね(笑)
まぁ、僕のような暇人と違って居合、ビリヤード、ピアノの練習と彼は何かとお稽古事で忙しかったのでしょう。
あっ、彼が近所の神社で居合の朝稽古中に雪だるまを切った時の事件というか笑い話を思い出したなぁ~。
彼は昔はそんな風に皆を楽しませてくれるナイスな奴だったんだけどね。
そういえば昔『山口さんちのツトム君』ってNHK『みんなのうた』からヒットした歌があったけれど「吉本さんちのツトム君/このごろ少し変よ/どうしたのかナ」と皆不思議なんだけどさ。
誤字脱字、変換ミスの類はご容赦を
※この追記はまだ続くかも…。秋は何かと忙しいので不定期ですが(苦笑)
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★追記23
懐かしいようなたんなる思い出話です。
◎僕が「コイツ、何を考えていやがるんだよっ!」と思ったひとつ
本年5月末に僕らは大学時代のバイク仲間をまた1人病気で失いました。
その時に彼との思い出話で、バイク雑誌の「悪ライダーコンテスト」的な企画に明学大「井戸端会議」メンバーで各自コスプレして、大学から獲得した駐輪場ガレージ内で写真を撮って遊んだ時のことを書きました。
その時に海賊っぽい真似をした写真を下記に投稿しました。
▼タイトル「あの頃、僕らはバカでした(笑)」
2025年6月3日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e10029645.html
暫くして、Yのブログ(パンセ?)に何処かで見た写真の一部がアップされているのに気がつきました。
現在はバツが悪くなったのか消去されている投稿です。
それは亡くなった友人の上半身をカットしたもので、ブログ(パンセ?)には亡くなった友人の下半身だけがアップされていました。
Yは亡くなった友を親友以上の仲…血盟の同志でしたっけ?…とよく書いています。
その彼の写真を、しかも亡くなったばかりの写真を切る必要が僕にはどうしても理解できませんでした。
何故、彼がそんなトリミングをしたのか理由はブログ(パンセ?)を読んでいてわかりました。
僕がブログで「奥のGSX250E?っぽいのは誰のだろう?」と書いたことへのアンサーでした。
彼は、それが「美研のK村」のバイクだと自慢気に指摘し、 K村のタイヤの減り方を「乗り士」だかなんだかよくわからない造語を使用して褒めていました。
あのさ、僕が言いたかったことは友人が亡くなったことで「あいつとは色々とバカなことやって遊んだなぁ~。それも全て今となっては懐かしい思い出だよな」という思いと、「こんなこと一緒にやってさ、俺たちってバカだったよな。でもバカなことも真剣にやるのが明学の井戸端流だよな」という話を表現したかったのであって、写真に映りこんでいたガンメタの“ザリ”(GSX250E)が誰の愛車かなんて大きな問題ではないのです。
わかるよね?
それなのに、君は永眠したばかりの彼の写真をトリミングして使用していたよね?
ど~ゆう無神経さなの?
お酒で酔っぱらっていて判断力も自制心もなかったの?
そんなことだからR君とのお別れの会でも亡くなった親友から参加を断られたんじゃなかったの?
しかもオマケがあってね。
ブログ(パンセ?)で書いた君は気がついていないけれど、あのガンメタ車はK村君のバイクじゃないよ。
君の勘違いか思い違いだと思うよ。
撮影時、彼は既に卒業して在籍していないのです。
それに彼のバイクは角目ライトのヤマハXZ400にハーフカウルを付けたものでした。色はガンメタだったけどね。
だから、明学生でもない君よりも、少なくとも僕の方が部員のことは詳しいと思うから、あまり適当なことというか、いい加減なことを言わない方がいいと思うんだけどな。
ここに1枚の集合写真があります。
通学問題から結成された「井戸端会議」の初のツーリングで三浦半島を目指した際に鎌倉街道あたりの交番前で「トイレ貸してぇ~」とお願いした時の1枚です。
君の指摘した「美研」メンバーも複数参加しています。
「美研」メンバーは最初っから「井戸端会議」と一緒ですから僕が彼のバイクを知らないとは思えません。彼は一緒に正門前でビラ撒きに参加してくれました。
その頃、他大学(R大)のセクトのキャップだった君は僕のそんな活動に批判的だったんですよね?
もう1枚の写真は「井戸端会議」部員募集のために新入生歓迎シーズン用にプロモみたいのを作ろうと、皆で品川埠頭か大井埠頭にビデオ撮影に出かけた時の1枚です。
その先頭がXZ400の「美研」のK村です。
そういえば、僕がアップした写真も使っていましたよね。
僕は君のブログ(パンセ?)を見て、「あれ?この写真、どこかで見たことあったな」と思いました。
▼上木君と彼の愛車「鬼太郎号」(GSX250L)
2025年6月4日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e10030244.html
この写真は、Yが亡くなった友人の写真をトリミングした別カットです。
こんなことをやって僕らは仲良く遊んでいました。
居合、ビリヤード、ピアノと色々と多忙だったかもしれないYは、この明学大での撮影会には参加していなかったようです。
誤字脱字、変換ミスの類はご容赦を
※この追記はまだ続くかも…。秋は何かと忙しいので不定期ですが(苦笑)
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★追記24
僕にとっての懐かしい思い出話です。
◎彼の一瞬の160km⁉
彼の9月15日付のブログ(パンセ?)に《東関メーター振り切り(1982)》なんてキャプション付で仲間の車を追い抜くRZ350(かなり近づきすぎて危ない気もするが…車の仲間を驚かせようという悪戯心だったのか、まさかハイスピードでややコントロールを失ってしまい不用意に車に寄ってしまいヘルメットの中の本人は実は真っ青だったとか?)の勇姿がありました。
過去にも何度か登場した写真ですが、メーター振り切りなんて本当に180kmも出ていたのかとその日一緒に成田方面から東関東道を東京へと走っていた僕などは思っちゃうのだけれど、本人がそう言うんだから間違いないかな(笑)
でも「高速道路で走っているマルパー(小池)の肩にハエが必死でしがみついていた」と皆に笑われるくらいに直線でも遅い僕ですが、僕の中での彼の走行イメージは“一瞬の160km”で、持続的にハイスピードを維持していた印象が薄いのです。
ある時、RH連絡会の仲間と中央高速で「次の休憩場所まで競争しようぜ」みたいな軽~い遊びをしたことがあって、ガンマ250で逃げる彼を僕のGPz400で追い回して抜き去ったことがあります。
まぁ、軽い余興なので彼が本気を出していなかったんだと思います。なんといってもRH連絡会内でもバイクの下手さや遅さは下から数えた方が早いのが僕の立場です(笑)
その時の彼の悔しそうな言い訳は「キャブの調子が…」でした(笑)
この話はまた改めて詳しく…かな?(笑)
▼ライディングという乗車方法
https://ameblo.jp/kelucafe/image-12930235405-15673810553.html
この日の写真が出てきました。
三里塚現地「◎△〇団結小屋」付近でしょうか。
写真に映っている6人中、僕も含めた4名は間違いなく明学生(夜間部2名、昼間部1名)です。
現地で彼のRZ350と僕のZ400FXが仲良く並んでいます。僕は現地の方から「◎□△(団結小屋)の暴走族」と呼ばれていたそうです(笑)

※東関東自動車道を彼のRZ350とツーリング中ですが、僕はメーター振り切りRZ350男を110kmくらいでゆるくゆるく追っていたかも(笑)
「走り屋」(乗り士?)さんの彼はバイクに荷物を積むのは好きではないと思われるのに、よく見るとタンクに黒いゴムバンド状のものやタンクバッグが見えます。
タンクバッグ取付用のゴムベルトだと思われます。
実はこのタンクバッグは僕のFXから外して彼に貸したものでしょうね。
彼から見たら僕のFXは純正の鍵付FRP製サイドケース(箱)を備えたツーリング仕様車です。
ツーリング慣れしていないのか、それとも荷物を積むのが嫌なのか彼はゴムバンド等の荷紐も用意していなかったので僕はサイドケースも装備しているので収納力はあるバイクなのでタンクバッグを貸したんだと思います。
写真にあるRZ350上のタンクバッグは、以下の動画チャンネル内でも写真として登場しますのでお時間のある時にでもご確認ください。
▼コロツーちゃんねる
CORONA☆TOURING BAG for BIKERS☆
【第12回】コロナツーリングバッグの歴史⑦CORIN 光輪モータースが販売した偽物の画像を入手!そしてコロナ産業は倒産へ。
https://www.youtube.com/watch?v=XC1NZiIE8tw
ちなみにタンクバッグメーカー『コロナ産業プロダクツ』社長、戸塚氏とは顔見知りで、現在発売中の『ミスターバイクBG』10月号の僕の不定期連載は同社工房への訪問記です。その際の写真を社長さんに流行りのアレで3Dっぽく作ってもらいました(笑)
この日、なんの用事で三里塚現地に出向いていたのか記憶はありませんが、このほのぼのムードは「援農」(※外から三里塚に来た支援者が、闘争の為に日々の農作業が手薄になる反対派農家へ手伝いに出かけること)だと思います。
農作業の手伝いをするならGパンとかではなく作業ズボンとか着替えも必要だと思いますから常識的に考えれば荷物は増えますよね。
▼北総台地 2023年6月23日付
https://ameblo.jp/kelucafe/entry-12931818235.html
そういえば、上記の彼のブログ(パンセ?)に「半年間の毎日、現闘として生活した。毎朝5時起きで夕暮れまで農作業に精魂傾けた。援農というニワカの農作業支援
であっても必死に働いた。金銭的報酬などは無い。毎朝
納豆飯が食えるだけだ。」とありました。
僕は初めて彼が“現闘”と呼ばれる「現地闘争本部員」経験者だったと知りました。
しかも半年間も大学に通わずに常駐していたなんて学生活動家として考えたら筋金入りの活動家です。
僕の中での“現闘”という言葉の解釈は成田空港建設に反対する三里塚現地で、各セクトが建てた闘争拠点(団結小屋)に常駐している職業的革命家(職革)のことを指します。革命党の為に身を捧げて働く方々です。彼らの生活
時間にルーズだった印象しかない彼が、三里塚現地で半年間も規則正しく寝起きして生活態度を鍛えあげていたとは驚きの事実でした。
そういえば、下記で「この羽の縞々は俺が塗った」と豪語していたので、それが“現闘”時代だったんでしょうね。1979年では、僕は彼と違うセクトの団結小屋経由で“援農”に入っていたので顔を合わせてはいなかったのかもです。
1981年頃の三里塚現地の団結小屋(≒支援セクト数)の数は20以上、常駐する“現闘”数は200人以上という証言も僕の手持ち資料にありました。
▼たたかう農業の感慨風車~北総台地1979年秋~
2024年9月25日付
https://ameblo.jp/kelucafe/entry-12931796257.html
彼は“現闘”生活を振り返って「毎朝納豆飯が食えるだけだ」と語っていましたが、僕などは“援農”でお手伝いすると晩ご飯はお腹いっぱい食べさせてもらっていた記憶があるんだけどなぁ~。さすがパートタイム支援の僕と、半年間常駐“現闘”経験者の彼とは姿勢や覚悟が違いますね。
彼が半年間も現地で寝起きして闘争と農作業手伝いに明け暮れていたなんてブログ(パンセ?)を読んで初めて知ったのですが、現地には公安の目もあるのでバイクは持ち込んでいなかったんでしょうね。
もし彼が現地の道に詳しければ、僕などが“現闘”や党幹部から頼まれてバイクで夜間の偵察や警戒任務に時に就くことはなかったと思いますしね。
バイクの腕は彼の方が格段に上なのは認めますので、僕に特命が下るのも不思議な話でした。
※彼の“現闘”経験話が出たので、ドキュメンタリー『三里塚に生きる』の冒頭で現闘歴二十数年の方のインタビューがあったり、『三里塚のイカロス』では現闘の中でも1981年から25年間も三里塚現地責任者を務めた元「中核派」(革命的共産主義者同盟)の方のインタビューがあったのを思い出してDVDを見直して当時の団結小屋や現闘員の概数を調べてみました。
恐らく彼は1979年頃に現地に入って常駐したとすればそんなに数の差もないとは思います。
僕も1978年当時の団結小屋の位置を記した簡易地図を持っていたのですが紛失してしまっていたので(笑)
話はまったく変わりますが、「井戸端会議」仲間のS君がY田君と組んで鈴鹿四耐にチャレンジすべく練習に明け暮れている頃の写真がまた1枚出てきました。
RC誌の彼の特集記事掲載の表では、まだまだ予選突破が出来ず四苦八苦していた初期の頃の写真だと思います。
でもこういった地道な努力が後に決勝2年連続進出という結果に結びついたのも事実です。
そういえば、彼も鈴鹿四耐目指していたのか、それとも「これさ、昨年全日本選手権で活躍していた□○△選手のマシンを買ったのよ」風なことで交通事故慰謝料(示談金?)で手に入れたTZ250を自慢していた気がするので、“四耐”ではなくて本格的なロードレースに挑戦していたのかな。
RH連絡会当時の彼のバイクはRG250ガンマでした。
これの保安部品等を外したり、テーピングしてスポーツ走行とかもやっていたのかなぁ。
彼にはいつもサインボードを掲げて見守ってくれていたGFがいたはずなので、ツーリングや釣りの記録を大学ノートに記録しているような彼の性格だと、サーキット走行日の気象条件やラップタイムの計測記録などもサーキットでの風景写真も含めて残っていると思うんだけどね。
※彼とはいつも一緒だったんですけどね。相棒みたいなものでね。
誤字脱字、変換ミスの類はご容赦を
※この追記はまだ続くかも…。秋は何かと忙しいので不定期ですが(苦笑)
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★追記25
僕にとっての懐かしい思い出話です。
◎やっぱり盛りすぎな気がする彼の話
彼は2024年1月24日付「ハイスクールメモリーズ ~恋は命がけ(チェリーボーイズ)」ブログ(パンセ)で「私は300名の部隊のデモ指揮をした。戦闘的デモ。」と書いていた記憶があります。
また2024年8月28日付「偶然の重なり」でも「この弁護士は東大時代に何と私と同じ首都圏学生共闘会議にいた事。(中略)さらには、別事務所の弁護士で長く一緒にある案件で仕事をした同級生の別大学出身の弁護士がいたが、その人も実は大学時代に私と同組織であった事。
私が学生時代にデモ指揮した300名の梯団の中にいた者だった。」とも書いていました。
彼が言うところの「首都圏学生共闘会議」とは、恐らく東大・早稲田大・明治大・中央大・明学大・立正大の6大学の社会科学系サークルや自治会系新聞会を中心とした通称「首都共闘」と呼ばれていた集団のことだと思います。これに予備校に通う浪人生達の「浪共闘」なども稀に一緒にデモをしていたような気がします。
慶応大の黒ヘルともパイプは途中まであった気がしますが、ポシャった記憶があります。
僕は夜間部の学生であり、「首都共闘」へは明学大の昼間部の「社研」「新聞会」の知り合いが参加はしていましたが微妙な距離感はあった気がしました。
それなので何回かという程度は「首都共闘」のデモに参加した経験はありますが、彼のように1大学を背負って会議等に参加するような立場でもありませんでした。
その彼が「私が学生時代にデモ指揮した300名の梯団」とか「私は300名の部隊のデモ指揮をした。戦闘的デモ」と書いていました。
僕の心象風景としては「首都共闘」の隊列はMAX70~80名のイメージなのです。学生運動など後退局面にあった1980年代初頭ですから、セクトでもないのに百名近い隊列とそこに気脈を通じる複数の大学生が集まっているだけでも珍しい存在ではあったと思います。
仮に80名としても横4列デモで縦20段の梯団が組めるのですから、そこそこ1集団としては存在感はあったと思います。
いやいや仮に60名としても横4列×15段ですから立派なものですよ。当時としてはね。
それが「300名」となると、もはや大セクト様の動員力に匹敵します。
彼が文字入力ミスで「0」(ゼロ)を余分につけてしまったのか、酩酊して気が大きくなって思わず「水増し」して書いてしまったのかは知りませんが、「300」という数字には僕などは「まぢ?そんなに首都共闘って人数いたっけ?対外務省戦で、地下鉄駅構内から地上に駆けあがろうとして階段で機動隊の壁に阻まれた時は明学は20~30人の最大動員をかけた気がするけれど、あの時だって首都共闘全体で300なんて数字はとてもとてもなはずだよな…当時の正確な記憶なんて既にない僕が勝手に今になって数字を妄想したとしてもせいぜい100とか120か?」という感想です。
何度も彼が「300」という数字を挙げているので間違いや勘違いや思い込みではないんでしょうしね。
「伍長」クラスだと思っていたら、まさかの「三百人将」へ大出世だったとはね。おみそれしました。
僕の通っていた中学校は1学年(5クラスで)225名程度だったので、300名の指揮官ってなかなかのものだよね。
その頃は日本からKCIAに拉致され軍事政権下で獄中で命さえ風前の灯だった金大中の救出署名などを「首都共闘」もやっていたと思いますし、明学大では「首都共闘」参加メンバーを中心に「金大中を救え!」と学生会館前でハンガーストライキも実施していました。
また各大学に「原理研究会」というサークル名で浸透しつつあった「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)との衝突もあり、明学大などはミッション系大学で学長が敬虔なクリスチャンだったので大学当局も「原理研究会」の活動には警戒感を持っていたと思います。
そんな明学では1980年5月末には「原理研究会」による強引な学生勧誘方法を巡って連日対話集会が青空の下で朝から夜まで続いていました。
僕もそんな輪の中にいました。
※写真は1980年5月30日か31日の明学大キャンパスの学生会館(グリーンホール)前の集会風景です。
「原理研究会」と一般学生間で3日間連続で自然発生的な対話集会が一日中行われていました。
さて、彼の「300名のデモ隊列を指揮した」みたいな話ですが、僕は彼のようには「首都共闘」に深くは関わっていないので、彼らのデモに毎回参加もしていませんでしたから彼のデモ指揮姿を拝見したことはありません。
でも「300名」はさすがに盛りすぎな人数かなとは思いました。
「首都共闘」では動員数が多かった印象は明学大です。10~20名は動員可能だった印象です。
彼のR大はそれと比べると随分と少なかったとは思います。4~5名だったのかもしれません。デモに参加するような彼の大学の仲間の顔が思い浮かばないのです。
動員数の少ない大学のキャップ(責任者)に、300名の他大学生を預けるのってもケース的に少ないと思います。
彼のデモ指揮する姿は僕は拝見しておりませんが、後日「あいつに初めてデモ指揮をやらせたんだけど、舞い上がってしまって…」みたいな困ったような話を耳にした気がします。どうやら皆に大迷惑をかけてしまった可能性があったのではないでしょうか。
こういった行為を当時の僕らは「跳ね上がり」と批判することがありました。
「そんなことやる必要もないのに…そんなこと無理してやる状況でも情勢でもないし、そんな決戦的攻防の日でもないのにさぁ~」みたいな冷めた周囲の反応だったような薄~い記憶があります。
まぁ、初めてのデモ指揮という大役に彼が大ハッスルし過ぎた可能性でもあったのかもしれません。
本当に300人のデモ隊を任されたのなら、本人がよくおぼえているでしょうし、評価されれば以降もデモ指揮を何度も任されたことでしょうしね。
ちなみに僕はデモ指揮なんて大役は学生時代に一度も任されたことも打診されたこともありません(笑)。
せいぜい、都内や三里塚で明学大の「旗持ち」はしていた記憶はあります。
デモ指揮なんてのは皆からの人望や信頼の厚い傑出したリーダーの役目ですからね。いわば行動隊長みたいなものでしょうか。
「デモ指揮」なんて経験や冷静さが求められてますし、デモの梯団の前でホイッスルを咥えて直接の指揮をする人間だけではなく、本当の指揮官は梯団の歩みに合わせて歩道を移動しながら全体に目を配っているものです。
その辺の役割は「首都共闘」でも中心的というかベテランの活動家であった明大と中大の3人くらいが担っていた印象ですが、歩道を歩いているだけで彼らが公安の私服に逮捕されたりテロられることもあったと思います。

※この写真は当時といっても1980年代前半に明治大であった学生集会の様子です。
文部省通達により各大学でサークル管理が進行していたので、明学大のサークル団体としても関心のあるテーマだったので
情報収集等で顔を出したっけ?
僕の役目なんて「フロント右」みたいな損な役回りで、デモ隊の最前列の右側(車道側=機動隊側)は何回もやらされたなぁ~(笑)
デモ指揮に「マルパーさ、今日のフロント頼むね。あっ、そこじゃなくて右、右、車道側お願いね」と指示されれば泣く泣くその位置につかざるを得ません(笑)
デモ指揮さんに見つからないように後ろの方に隠れていても、屈強そうな奴らで先頭から3段か4段は固めたいとなれば「お~い、MG(明学)どこにいる?MGからも前列の方に何人か出して」とか声がかかります(泣)。
なので、フロントメンバーは大概いつも似通った顔ぶれになります(笑)
お互い「お前も毎度毎度大変だよな」といった表情で苦笑いをします。
当時の僕は肉体労働をしていたので今よりも頑丈そうに見えたんだと思います。M65フィールドジャケットや、アメ横の「中田商店」で買ってきた西独の防寒フードパーカーとか着ていたので戦闘的だと勘違いされたのか?(笑)
デモ指揮の「わぁ~しょいっ!」の声で、密集したスクラムデモに切り替わるのですが、その瞬間から機動隊がジュラルミンの盾で「圧縮」というかゴツゴツと盾で押しまくってくるので、最前列の右側などは前から斜めから、真横や上からも盾でゴツンゴツンされてセクトと違ってヘルメットなんて被っていない僕らは痛いだけでした(笑)
夜の霞が関周辺のデモなんてのは僕にとっては恐怖そのもので、夜の官庁街なんて通行人など皆無のようなものですから人目がありません。
そんな場所でデモ指揮が抗議行動として「座り込み」など命じようなら大変でした。
デモで眼鏡を失くさないに眼鏡用のゴムベルトをつけてはいても、無抵抗の座り込みをしている僕に私服刑事が寄ってきて眼鏡を奪うと、ニヤニヤ顔でその眼鏡を目の前で踏みつぶすのです。
それで、「なんだよ、俺の私物を取り上げて踏みつぶすんかて器物破損だろ」と怒って反応すれば公務執行妨害で逮捕となります。これを僕はある一か月で3回やられました。眼鏡を3つも失えば経済的打撃もあるので、そういったことが彼らの狙いだったんだと思います。
報道カメラや通行人の目があれば、あまり無茶なことは彼らもやれませんが、衆人監視がない場所ではやりたい放題なのです(笑)
眼鏡を潰されが機動隊に1人1人ゴボウ抜きされるまでの時間を座り込んだままでボコボコと蹴られようとも小突かれようともひたすらジッと我慢の子でしたね(笑)
でも、そんな痛い経験を不思議と彼と共有していた思い出がないんだよね。
明学大の仲間とは「今日はやられたなぁ~。また眼鏡を私服に潰されちゃったよ。ホントまいっちゃうよな」と会話を交わした気はしますが、どうもデモの場で彼とは遭遇してなかったのか、僕が忘れてしまっただけなのかなぁ。
あれ?
彼がブログ(パンセ?)で書いてる「私は300名の部隊のデモ指揮をした。戦闘的デモ。」が「1981年6月7日の日比谷野音での反戦集会には宇崎竜童が来て」とあるけど、この日付の記憶は僕にはまったくないのですが、日比谷野音で竜童組のライブがあった時に、僕はステージ前で会場警備役で、熱くなった聴衆がステージに押し寄せてきたり、よじ登ろうとしたら防ぐ役をしていた記憶があります。ライブ前に楽屋に行って出演者に「僕らがステージ前は警備しますので」と一言挨拶に行ったような記憶がありますが、彼がデモ指揮していた姿の記憶までは申し訳ないことに正直ありません。
他人がその時に何をしてたかなんておぼえてないんだよね。自分のことでもステージ前の警備の記憶だけで、同じ日にデモがあったことさえおぼえてないのです(笑)
彼にとっては一世一代の300名のデモ指揮という晴れ舞台だから克明に記憶しているんだと思います。
誤字脱字、変換ミスの類は寛大なるお気持ちで願います
※この頁、不連続で続くのかも?
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★追記26
僕にとっての懐かしい思い出話です。
◎“タテカン職人”の彼が手伝ってくれました。
彼は好い奴でした。
明学大の後輩たちが鈴鹿四耐に1987年から予選にエントリーを開始した時に、わざわざ他大学の方なのに、こんな「立て看板」(タテカン)を書いてくれました。
この「ゲバ字」っぽいのは彼だとしか思えません。
少なくとも明学生の書いた素人っぽい文字ではありません。さすが職人級。
他大学まで足を運んでタテカンを書いてる人物なんて都内の大学を見渡しても彼くらいなんじゃないのかな。
彼が率先して書いてくれたのか、誰かが彼に頼んで書いてもらったのかの記憶は今となってはありませ~ん。

※雨の中でレインタイヤに履き替えているのかな?
無造作に紙袋に投げ込んであった昔の写真の中から、新たに鈴鹿四耐に挑戦していた頃の明学大チームの写真が出てきました。
S君の相棒のY田君が短パン姿でサポートしているので真夏なんだと思います。
エントリーしては転倒や電気系トラブルで予選落ちという失敗の繰り返しで鈴鹿四耐の決勝を石油メーカー(ガソリンスタンドのチェーン店?)というスポンサードを受けて完走しきったのですから立派なものです。
RC誌掲載のS君のバイク歴年表を見ても予選落ちタイム(予選通過タイムも)も記されていますし、記事本文中にも愛車の部品交換やメンテナンス等の記録も細かく残していたことに触れていました。
恐らく、鈴鹿四耐に挑戦していたはずの“あの方”も練習走行であっても詳細なデーターは残していたと思われます。
そういえば、話題が鈴鹿かS君の及んだ時に電話で「あ~、Sもある時から急に速くなったよね。なんでだろうね」と僕に語っていました。
上から目線でした。
失礼な話です。
同様に鈴鹿四耐を目指していたというのなら、決勝のスタート地点に立ってもいない奴が、実際に走り切った相手に対してその偉そうな言い方はどうかと思いました。
鈴鹿四耐のことなどまるで他人事のように聞こえました。
普通は「俺もSよりも走り込んで何度も挑戦したんだけど、腕不足なのか好いタイムを叩き出せなくて決勝まで行けなかったから、本当にSは凄いよな。友達としても自慢だよな」じゃないの?
しかもSは僕の直接の後輩ですし、仕事上でも同僚でライバルなんですから「お前に可愛い後輩のことをそんなに軽く言われたくもないね」という心境でした。
僕はある時、S君にサーキットの練習方法で質問したことがあります。
すると「イメージトレーニングもしています。鈴鹿のコース動画を何度も何度も記憶するまで見ておぼえて、尚且つ自分で走りに行って、時間があれば目を閉じてコースを思い浮かべながらベッドの上で寝る時もイメージトレーニングしてるんですよ」と笑っていました。
S君はRC編集部にもよく出入りしていましたから、八代選手などとも面識はあったようですし、何かヒントを戴いていたかもしれません。鈴鹿決勝後だとは思いますが、ライディングパーティーに参加してネモケンさんの後部座席後でサーキットを走りながら解説をしてもらったり、とにかく様々な場所で見えない努力は重ねていたと思います。
誰かさんとは大違いだったかもね?(苦笑)
僕は彼ではないので、当時の彼が鈴鹿を射程に入れて毎日何をして過ごしていたかも知りません。
S君からは報告もあるので「それじゃあ、鈴鹿まで応援にでも行くか」と出かけたことはありますけどね。
だから彼がエントリーして予選を走ったのか、そのタイムも含めて僕はまったく耳にしていないのです。
荏原にあったRH連絡会事務所の入口です。
弁護士さんがSP忠男にオーダーしたFZ400です。
工具箱が開いていますが、この時に誰が作業していたのかは人物像がないのでわかりません。
でも、パンク修理さえ出来なさそうなくらい整備おんちな僕は、このバイクには触ったことはありません。
触っていいのはオーナーか…彼でしょうか?
TZ250なんて市販レーサーをお持ちの方ですから本来が街乗り用のFZの整備など朝飯前だったとか?
何かと多忙な弁護士さんが整備に来ておられるよりは、彼が触っていた可能性はありえますね。
まさか、イジり過ぎて、わけわかんなくなって、何故かマシンの調子が悪くなって、壊してしまったとか、とうとう動かなくなったなんて笑い話はお願いですからどうかやめて欲しいところです。
もし鈴鹿に出ようと思ったら、2ストRGガンマでスポーツ走行で練習していても、本番用(予選用)の4ストマルチのFZ400で練習した方が効率が良さそうな気もするのですが…。
彼はサーキットへはサインボードを出してくれるクルーとしてGFを伴っていた筈なので(トランポの運転手は彼女だったはずです…)、ラップタイムの計測や革ツナギ姿でFZを押している写真なども残っているような気はするのですが…。
誤字脱字、変換ミスの類は寛大なるお気持ちで願います
※この頁、不連続で続くのかも?
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追記27
◎新しいお友達(MC同志)がたくさん出来て好かったですね。
新しいお友達とは末長く良好な関係が続くことを心から祈ります。
このMA-1似のジャンパーはバイク用というよりは普段着です。
作冬に試作でODと紺の2色10着ほど、ごく身内メンバーにのみ販売したMA-1タイプの改良型の第2次試作品が“闇の住民”から昨日1着届きました。
今回は試作品のみフロントに2か所刺繍が追加されましたがこれがそのまま市販されるわけではないそうです。
君は横浜にも住んでいましたし、大の横浜好きだそうで「I♡YOKOHAMA」的なジャンパーも特注されたそうですが、僕のジャンパーにも「YOKOHAMA」って入っています。
ちょっといいでしょ?
まぁ、僕は横浜にも住んだことはないので「似非横浜ファン」と君に笑われてしまうとは思いますが不思議と横浜在住のバイク仲間は多いようです。
この試作品も横浜のメンバーから特別に「是非、奥さん用にいかがです」と譲ってもらった1着です。
それにかれこれ40年間くらいは顔を出しているジャズ喫茶『ミントンハウス』50周年では色々とマスコミ向けの宣伝のお手伝いもさせていただきました。
横浜で僕が知ってるお店なんて“ミントン”くらいしかありませんが、馴染みや拠点なんて1軒あれば困ることはありません。
それに「ジャズ」のことを業界人でもないのに「ず~じゃ」なぁ~んてひっくり返して得意げに表現するのって僕の界隈には1人としていませんけどね(笑)
君のMC内ではブームなのかな?
▼第2次試作品MA-1タイプ・クラブジャンパー届く♪
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e10073363.html
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★追記28
僕にとっての懐かしい思い出話です。
◎彼はいつだって真剣でした。
彼がベトナム戦っぽい米軍っぽい服装なので、僕らがサバイバルゲームを始めた頃の1枚かもしれません。
橋があるので河川敷で遊んだと思われます。
もしかすると埼玉県大宮の「サープラス レオパルド」(現在はミリタリーショップから刀剣を扱うお店になったようですが…)って清水店長のミリタリーショップ主催のサバゲ大会に何回かお世話になっていたのでその頃なのかもしれませんね。
入間川の釘無橋付近に皆で出かけた記憶があります。
写真を観察すると股下までびしょ濡れのご様子で、指で「ほら、ここまで浸かっちゃったんたぜ」とアピールしているようにも見えます。
サバゲにはルールもありますから、内輪だけの遊びなら問題ないけれど、対外戦や大会なら主催者により「ゲームフィールドのエリア設定」は安全上のこともあってされることも普通です。
子供たちが川に入って流されて事故になっても大変ですし、ゲームエリア外を迂回して敵陣を襲撃するのはルール違反ですしね。
この時、彼がなんでこんなに濡れているのか理由は忘れましたが、恐らく水際を姿を隠しながら進んだんでしょうね。ご苦労さまです。
僕もサバゲ経験はありますが、ブーツや靴下が濡れるのはその日の後のゲームで気分的に滅入るのでうっかり水溜まりに落ちたようなケースを除けば、自ら進んで川の中を進むような根性はなかったなぁ~(笑)
その後、海外で傭兵になられたとかの風聞もあった彼だけにサバゲ初期時代から実戦を想定した訓練を自らに課していた可能性もありますよね。
「常在戦場け精神さすがだと思います。
いやぁ~、サバゲで「相手が油断して警戒などしていない水の中を行ってくれないか」なんて要求を彼にしていなかったと思うんだけどなぁ~。忘れた(笑)
誤字脱字、変換ミスの類は寛大なるお気持ちで願います
※この頁、不連続ながら続くのかも?
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★追記29
僕にとっての懐かしい思い出話です。
◎現代の武士(もののふ)!当世二輪剣士!
かなり昔の話ですが、多摩川河川敷“にこたま”(二子玉川)での「井戸端会議」OBによるBBQ会です。
試合帰りと言っていたような気もするけれど彼がその日何処から来たのかは当人ではないのでわかりません。
彼が車やバイクで来たような気もしないから電車かな。
BBQってこともあって皆はラフな服装だけど、1人だけスーツ姿で浮いているから休日出勤の帰りとかの可能性もあったのかな。僕は剣術の世界は素人だからわからないのですが、試合や稽古だと袴や胴着みたいのも一緒に持ち歩くのかなぁ。
彼の刀が真剣なのか模擬刀の類なのか記憶はありませんが、なんとなく真剣だったから彼は抜いてみせたのかなぁ?
もっとも僕らはバイクサークルなので、申し訳ないことに居合や日本刀に殆どの連中が興味もなくて彼が刀を抜いても殆ど関心を示してなかったかもなぁ~。
ちょっと場違いだったのかも?
BBQ会に日本刀までは必要じゃないし、集まりは夜になるまでやっていたから、一旦帰宅して大切な刀は部屋に置いてから着替えてGF連れて遊びに来ても好かったかもね。
法律的なことは僕は疎いけれど、不特定多数が遊んでいる多摩川河川敷で日本刀のようなものを抜いてみせるのも心得やマナー的にはどうなんだろうな。
その程度はきっと問題ないんだろうな。知らんけど。
仮に仲間から「試しに抜いて見せてよ」と頼まれても「それは刀剣愛好家としての拙者としてはちと無理でござるよ」とか断れるだろうしね。
知らない人は「まさか真剣?」と怖がるかもしれないしね。「居合道」なのか「剣の道」を嗜むような方から見たら、公衆の場で自慢気に抜いてみせる行為ってどうなんだろうな。
BBQの写真の中には先に逝ってしまった仲間が2人もいるよ。あの頃がなんとも懐かしいね。
あっ、「井戸端会議」最初期メンバーの1人である飛ばし屋の魔◆◆ちゃんが左腕をギブスで固めているってことは事故った時だな。
ヤマハのFZ250フェーザーでも潰した時だったりしてな(笑)。
誤字脱字、変換ミスの類は寛大なるお気持ちで願います
※この頁、不連続ながら続くのかも?
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追記30
僕にとっての懐かしい思い出話です。
◎亡くなった親友を疑う最低なお武士様?
彼の下記ブログ(パンセ?)を読んでいて、かなりむかついています。
▼タイトル「プラモデル」2025年7月12日付
https://ameblo.jp/kelucafe/entry-12931819879.html
そこに、こんな文章があった。
≪バイクのプラモ作りは学生の時に仲間内で一時ハマっ
た。かなり丁寧にリアルに仕上げた。一番笑えたのは、私と2個上の先輩が作った「学生運動シリーズ」だった。
タミヤの1/35戦争シリーズの人体モデルを使って魔改
造して、塗装もリアルに仕上げたものだ。某セクト上層部からは「趣味的だ」と痛烈な批判を受けたが、お構い無しで作り続けた(笑「10.8羽田」「1968神田カルチェラタン」「エンプラ闘争」「10.21新宿」「防衛庁突撃」
「東大安田砦攻防」「78三里塚管制塔占拠」等々、ジオ
ラマ含めてくっそリアルに再現したモデルを作った。セクトもあらゆるセクトを網羅した。特に中核派などくそリアルだし、ブントも青解もべ平連も四トロも黒ヘルノンセクトも超リアルだ。セクトごとに着る物の特徴があった傾向性まで再現して。見た人皆が「何これ?」と細部までリアルなので驚きながら笑っていた。」と。
ここまではまだいい。
「なんだ?R大の学生戦線ってヒマなのか?闘争も活動もしないで、趣味的なジオラマ作りに夢中だったとはね。道理でR大って明学と違って盛り上がってないはずだわ。1大学の1セクトの責任者がこの程度かよ…」とブログを読んで当時の事情を初めて知りました。
勿論、当時、彼の口からこんなプラモデル遊びや作品の写真も見せてもらったことはありませんので、本当の話かどうかは僕にはわかりません。
問題はこれに続く以下の下りです。
≪私の部屋に遊びに来た時、その作品を実際に観た先日
亡くなった学生時代のバイク仲間の友はめちゃくちゃ面白がって、「これ、企画持ち込みでメーカーに働きかけるから貸してくれ」と人体模型のみ全部持って行った(笑
さすがにまだ学生運動の残り香があった社会世相の時
代だからか、企画持ち込みはどのメーカーでも採用さ
れなかったようだ。友は先日亡くなったが、多分まだその時のガクセーウンドシリーズプラモの私が作った作を持っていたかも知れない。私の公道用革ツナギやブー
ツだけでなく事後のTZレーサーも彼のとこに行ったし。
ただし、「え?」と思う事がその後あった。プラモデルメーカー各社から、「なつかしシリーズ」とか何とか称して、昭和の街の風景や人たちをモデリングしたシリーズが相次いで発売されたのだ。それまでにそうしたシリーズは存在しなかった。もしかすると、先日亡くなった友人が持ち込んだ企画が形を変えてメーカー発案として製品化されたのでは、と私は踏んでいる。あまりにもタイミングがジャスト過ぎるからだ。≫だって?
なんだこれ。
お前、正気か?
これを読むと、君が学生時代に作った大切な凄い出来のプラモデル製品を親友が商売のために企業に売り込むために持ち去ったような言い方だよな?
これは事実なのか?
仮にあいつが君から借りたにしても、売り込みに失敗した段階で返してもらえば良かったんじゃない?
君と彼とは血盟の同志なんだろ。
「製品化が無理だったら、アレは僕の大切な作品だから返してね」と言える関係だろ?
君がこれを書いてブログ(パンセ?)にアップしたのは日付的にも彼の訃報後のことだよな。
亡くなった親友への手向けの言葉がこれって僕には到底信じられられないんですけど。
彼が亡くなる前に彼と僕の夫婦4人で練馬のファミレスで食事したけどさ、君が押しつけたままで庭の隅で朽ちて苔が生しているTZの話は出たよ。
あの不動TZ250って君が引っ越しの関係で置いておけなくなって一軒家暮らしの彼の庭にお願いして置いてもらったんじやないの?
それを「私の公道用革ツナギやブーツだけでなく事後のTZレーサーも彼のとこに行ったし」ってなんなんですか?
まさか、彼が欲しがっていたからTZとかあげたつもりですか?
もう勘弁してよ。
この時のブログ(パンセ?)の後段は、渋谷道玄坂の国本さんの「ウエスタンアームズ」の話ですが、僕は君と違ってモデルガン畑出身ではないので、サバゲを始めてから知ったお店です。
でも、割と造形が気に入って、サイドアームはずっとWA製の「コンバットコマンダー」を使用していたし、メインアームも初期のWA製ガスガン「AR-7」にドットサイト(レッドポイント?)を載せて購入していました。WA製品は4~5丁は本店で買いました。
だからといって僕は国本さんと会話なんて交わしたことはないけれど、君はいつも「マルパーは知らないだろうけど、国本さんってその世界じゃ凄い人なんだよ」とは言っていました。西部劇みたいな早撃ちの世界のことだと思います。
でも、君のブログにあるようなホップアップシステムのアイデアを国本さんに提供したとかいう話はブログが初耳でした。
▼タイトル「行ってみたい場所」2020年12月4日付
https://ameblo.jp/kelucafe/entry-12931759736.html
「ツーリングマップル」は僕も購入しています。
以前、君から電話で「R大のAのこと知ってるよね?Aがさ、ツーリングマップルを作ってるの知ってた?知らないよね。マルパーもバイクで走っていて面白い情報があったら彼に教えてやってよ」というのがありました。
その時、ツーリングマップル編集部に「この施設は廃止になったので来年度版からは削除しておいた方が無難だと思います」と1つくらいはメールした記憶があります。
その「いにしえの我が戦闘部隊の隊員だった男」A氏と君は40年くらい前に「女子高制服図鑑なるものを作って印税生活を二人で目論んだ」んですね。
てっきりA氏だけの女子高生制服趣味だとばかり思っていましたが、真剣に出版化を2人で進めていたんですね。
「かなり取材も進んでいたのに。ただし、Mよりもうちらの図解のほうが緻密でイラストの女の子も可愛かった。
我々は二人とも女の子描きだったからだ」だそうです。
R大の学生戦線ってやっぱりヒマだったんですか?
プラモデルで学生運動のジオラマ制作はするし、女子高生制服図鑑の出版を計画するとか、今なら学生ベンチャーみたいなものですね。その先駆性はあったんですね。
まぁ、明学も明治の仲間と組んでレコードのカッティングマシンを手に入れ、亡くなった君の親友も明大のU美君とレコード自主制作の事務所も立ち上げてインディーズバンドを世に出していたのは君も知ってるよね?
「のちに俺のかみさんとなった子の白百合女子高の制服は研究のために解体されたが」とあったので、R大の彼女の出身高校を初めて知りました。
さて、「ツーリングマップル」のA氏ですが、彼のFBを拝見したら君と「友達」にはなっていなかったなぁ。
まぁ、今も仲良く付き合っているとは思いますが最近の彼はバイクツーリングよりもサイクリングなのかな?
誤字脱字、変換ミスの類は寛大なるお気持ちで願います
※この頁、不連続ながら続くのかも?
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★追記31
彼の身長に関する問い合わせがありましたが、他人の身長の数字までの正確な記憶はありません(笑)
昭和34年(1959年生)である当時の僕が168センチ(今は歳とって少し縮んで167センチかな…)で、その僕よりも彼は若干身長は高かったと思いますよ。
例えば170~171センチくらいはあったのかなぁ。
まぁ、その数字も適当で曖昧ではありますが、昔は175センチもあれば「君って背が高いねぇ」という印象ですから、そこまではなかったような気はします。
少なくとも168センチの僕より彼が小柄だった印象はないです。
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★追記32
僕にとっての懐かしい思い出話です。今回は笑い話かな。
◎ 【渋谷アルバン爆買事件】 彼はお坊ちゃんだったんですね。
学生時代も社会人になってからも僕は彼のご実家のことなど知りませんでした。
まして会社経営者のご子息だったなんてことも知りませんでした。
友達になるのや、友達でいることに相手の家がどんなのかなんて関係ないですからね。
彼が東京を離れると決まった頃の電話だったかもしれません。
彼は「その業種では西日本でも1、2を争う業績かな。車の架装業といえばマルパーでもわかるかな。ほら特殊車両ってあるでしょ?ゴミ収集車とかさ。新明和工業って聞いたことない?そ~ゆうのと同じような会社をオヤジがやってるのよ」みたいなことを電話で話してくれました。
社長の息子ということで、学生時代にアルバイトをしている風でもないのに何故か遊び金には恵まれたリッチな子である理由も合点がいきました。
まぁ、交通事故の解決で僕が紹介してあげた弁護士さんのおかげで臨時の大金も得てはいましたけどね。
社会人になってからも、六本木のキャバクラだかカラオケだか忘れてしまったけれどよく遊んでる風なことを僕に電話で羽振りの良さを自慢していました。
「マルパーは最近どうよ。何してるの」風でしたね。
僕は「六本木?俺は仕事で六本木の歩道にはよくいるけどね、店なんて(貧乏だから)入ったこともないけどね」と返しておきました。
内心「こいつ…元活動家気取りのくせに、六本木でチャラチャラ遊んでいることをわざわざ自慢してくるって随分と変わったもんだな。どうせ弁護士同伴で金は弁護士が払っていると思うけどな」と想像していました。
学生時代の出来事に戻りますが、ある時、彼と渋谷の大盛堂書店の地下にあった『アルバン』(そんな名称だったと思うのですが…)という老舗のミリタリーショップに行ったことがあります。
その際、彼は陳列ケースにあったイギリス軍がベレー帽につける実物記章を買いました。
店員に「ここにあるの全部ください」と言って購入したので僕は驚きました。
実物軍装品を扱う専門店なので、決して安いものでもありませんし、記章1個の価格が幾らだったかの正確な記憶は40年以上前のことなので忘れてしまいましたが、1個1万円から1万2~3千円はしたような気がします。
それをガラスの陳列ケースに並んでいた全部ですから、それが5個だったのか10個くらいだったかも忘れてしまいましたが、とにかく今なら“大人買い”みたいなことを目の前で見せてくれました。
僕は「自分がつけるだけなら1個でいいだろうし、彼女の分にしても2個あれば足りるだろうし…」と不思議に思って本人に聞いてみました。
すると返ってきた返事が「だって、あそこに(バッジが)残っていたら他の人が買っちゃうじゃん。そんなの嫌だからさ」みたいな子供みたいな内容でした。
他の人なんかには買わせたくない。だから店に置いてあるだけ全部僕が買った…みたいな理由でした。
総額で10万円まではいかなかったとは思いますが、当時の学生としてはリッチな買い物だったと思いました。
彼は明学大にサバイバルゲームクラブ『グリーンパルチザン』があったので、自分の拠点R大で「ブルーベレー小隊」を組織して、その隊員に記章を配布してお揃いのベレー帽にお揃いの記章をつけた部隊を構想していたようで、その為に“大人買い”したようでもありました。
でも、大学でサバゲやっていて、彼が率いたその精鋭達とは遭遇したことはなかったなぁ~。
徳や人間的魅力ではなく「これあげるから仲良しになってよ。サバゲチームに入ってよ」みたいな「物」で仲間を釣るってのは、漫画やドラマで見るような人望のないお金持ちの子がやる手法のひとつなのかなぁ?
世の中には、気がつくと自然に周りに人が集まっているリーダーってのがいるからね。
この渋谷アルバンでも目撃談は、すぐに明学のU(物故)に「聞いてよ聞いてよ、Yとミリタリーショップに買い物に行ったらさぁ~。それがもう面白すぎというか驚きでさぁ~」という笑い話をしたのも覚えています。
僕がアルバンに同行した目的は、RH連絡会の仲間に西独製の兵・下士官用ジャックブーツをバイク用に流用していたI氏(物故)がいて、サバゲ用にジャックブーツが欲しくて当時は実物中古が8000円~1万円で入手可能だったと思うので希望のサイズや履き心地を確かめに同行したのかもな。
とにかく毎回僕らに笑いを提供してくれる人気者でした。
誤字脱字、変換ミスの類は寛大なるお気持ちで願います
※この頁、不連続ながら続くのかも?
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★追記33
僕の懐かしいような思いで話です…。
◎彼は記憶違いや勘違いや思い込みが多いのかなぁ~。僕も似たり寄ったりではありますが(苦笑)
僕も1959年(昭和34年)生まれの齢66のよぼよぼ爺なので、物忘れもあれば、勘違いや記憶間違い、混同等は日常茶飯事なので自戒を込めて申せば他人様のことなど言える筋合いではまったくないのですが…。
▼タイトル「ドカン」2025年9月28日
https://ameblo.jp/kelucafe/entry-12934257039.html
こんなブログ記事を見かけました。
「土管?」
あ~「物価がドカンと跳ね上がる」って時に使う物事の大きな変化の様を表す「ドカン」をロングツーリングや弾丸ツーリングの意味で用いているんですね。
(ロングツーリングに)「ドカンと行く」って意味なんだろうなぁ~。
気になったのは「80年代の昔はシンヤがドカンの魔王みたいに走り抜け弾丸男の代表だった。」に続く「中央東名ぐるりと700km超を給油以外ノンストップ走り抜け、なんてやってた。」の記述でした。
「シンヤ」とは『ミスターバイク』誌で活躍されていたバトルスーツでも有名な佐藤信哉さんのことだと思います。ブログの読者全員がひと昔前のバイク乗りであるならば「シンヤ」でも通じますが、バイク界に馴染みのない一般の方もブログ読者として対象とするなら少々不親切な気もしました。自分は当然のこととしてわかっていても、他人はそうとも限りませんしね。
気になったのは引用した後段の「中央東名ぐるりと700km超を給油以外ノンストップ走り抜け、なんてやってた。」の箇所でした。
コレって「シンヤ」さんのやられたことのように読めましたが、僕の頭に浮かんだ記事は『ミスターバイク』1983年1月号の巻頭カラー3ページを埋めていた≪東京→名古屋→東京 中央高速全面開通で…「疾走る魂 横浜ケンタウロスが案内する1周750㎞の大サーキット」≫の方でした。
同号にはモノクロページでも≪横浜ケンタウロス アンコ―さん 750㎞サーキット5時間18分で走破!?俺の記録を破れるか!!横浜→東京→名古屋→横浜≫という記事もありました。
このコースを走られた方は、通称「アンコー」こと笹沼さんですが、2015年10月3日に享年62歳で“国替え”されました。
彼が佐藤信哉さんとアンコーさんを混同したのかどうかは僕にはわかりませんが、信哉さんには『ミスターバイク』誌上でドイツのアウトバーンで300km/hを達成報告記事がありましたよね。GSX系を使用したのかなぁ?
時期的には1989年11月号くらいだったような気がしますが僕の記憶も曖昧です(笑)
一方、ケンタウロスさんにも通称“公道300km/hビデオ”と呼ばれる作品があります。
『KENYAUROS VISION HIGH』1stLAPで、SHOPで購入したVHSを僕も持っています。
その中でアンコーさんがヤマハOW-01が疾走しています。当時、ミスターバイク誌の広告でも見かけたビデオ作品でした。
お二人とも公道で300km/hに挑戦されていたことがあったので、「ドカン」記事ブログ主も両者のチャレンジを混同されてしまっているのかもしれません。
でも僕なら「中央東名」ではなくて「中央高速~東名高速」とか書かれた方が読者さんに対して親切かなぁとは思いました。
売文屋から文士様には余計なお世話でしょうけどね(笑)
そういえば、当時の『ミスターバイク』誌の広告では貴方も愛用されたという有名なクロスチャンバーも紹介されていました。
1983年4月号の広告だと思います。
この時期「商品広告、あるいは商品を通じての生活提案」とまるで西武グループのような粋なキャッチコピーを展開していた横浜の小さなバイク屋さんの第二弾広告でした。
君がRH連絡会で知り合った「ベストバイク」誌ライターM氏の取材にでもくっついてだったのか駒場辺りの柳沢雄造さんの店に連れていってもらった風な話は当時耳にはしていました。まさかそんなに足繫く通ってチャンバーを贈呈されるまでに懇意になっていたとはブログで読むまで知りませんでした。
僕なんて世界GPを片山敬済さんと転戦されたという柳沢雄造さんなんて凄いメカニックの方なんてバイク雑誌で写真で見たことのある方でしたもん。
君の交通事故入院話は電話があるまで知りませんでしたが、その入院期間中に明学大「井戸端会議」がベストバイク誌のライターMさんや弁護士さんとRH連絡会を通じて知り合いになっていたことで、その後の君の人生に広がりが生まれたとしたらとても好かったと思っています。
僕が昔のMB誌のコピー資料を持っているのは、飯田繁男氏が「国替え」された際に娘さんから「小池さん。パパの出てた新聞や雑誌記事とかあったら読んでみたいな…」と言われていたので、雑誌専門の図書館「大宅文庫」や永田町にある国立国会図書館で横浜ケンタウロス関連記事を検索して閲覧複写していたおかげです。
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★追記34
僕の独り言
僕は彼の免許が大型自動二輪免許なのか、普通自動二輪免許(昔のいわゆる“中型”免許)なのか知りませんし興味もありません。
でも学生時代やRH連絡会時代に彼の口から「実はナナハン免許も昔はあったんだけどさぁ~」みたいな皆の関心を引くであろう話の記憶は僕にはないです。
そんな面白い話を耳にすれば、「えっ⁉今は俺らと同じ“中免”だよね?それじゃ、なんで“ナナハン免許”を失っちゃったわけ?なんか理由があるんでしょ?飲酒?一発取り消しのスビード違反?」と何か隠された武勇伝でもあるんじゃないのかと間違いなく彼を質問攻めにしたと思うんだよねぇ~。
彼が高校時代、CRS連合の暴走族メンバーで、大井埠頭に派遣されて補導経験がある風な話は聞いていたので「あっ、よくわかんないけど、ナナハン免許があったのに暴走族やってて集会で捕まった時なんかに免許を取り上げられたとかなの?」と興味をもって彼に質問を浴びせていると思うんだよね。
「ナナハン免許を持っていた」なんて自慢できただろうし、皆の尊敬も集められたと思うよね。
自己顕示欲が強そうな彼のことだから「俺はマルパーみたいな自転車から中免とったみたいな下手っぴいと違って元々ナナハンライダーなの!」と自慢したと思うんだけどね。
まだ明学大『井戸端会議』周辺では、限定解除というのか警察試験場の1発試験とやらで根性と努力で合格していたのは鈴鹿四耐に挑戦していたS君たち7名くらいしかいなかった時代だったと思います。S藤、Y田、S村、N村、A葉、S嫁、Y樫あたりかな。
免許制度が変わって教習所でも大型自動二輪免許が取得できるようになって、1997年に戸田のレインボーモータースクールで僕は大型免許を貰いました。
教官に「その腕で『20年くらい400に乗ってました』なんてよく言えるな」とからかわれながらね(笑)
免許取得後1年は違反点数も厳しいとか卒業時に教習所で訓示されたので、そのままZRX(400cc)に乗り続け、大型バイクを購入したりは翌1998年でした。
5月に亡くなった大学時代のバイク仲間Uも僕と同じで制度が変更になって以降の大型免許だと思います。「俺、免許とってW(ダブル)買っちゃったぁ~。マルパーさんはV-MAXにするとかって話も最初は聞いたけど、実は狙っていたZRX1100を後輩のBがマルパーさんに内緒で先に買っちゃって同じ車種は嫌だと怒って結局900Ninjaになったって聞きましたよ。マルパーさん、アンタ相変わらずカワサキだねぇ」とお互い無邪気に喜んでいたと思います。
ですから、教習所で免許を貰おうが、1発試験で堂々と取得しようが、大型自動二輪免許を手にしたら連絡くらいあっても不思議ではなかったけれど、彼からのそんな報告はなかったなぁ~。
絶交してから以降は連絡もほぼ途絶えていますから免許取得の連絡も当然ありませんしね。
なので最初に書いたように彼の免許の種類は正直なところ僕はまったく知らないのです。
ただし彼から「俺も大型免許を取得したですよ。今度、どこかでバイクで会おうぜ」的な連絡を受けていないのもまた事実です。
まぁ、仲違いしているので、仮に免許を手にしたとしてもそんな連絡もないとは思います。
井戸端会議でもOB層は、制度変更のおかげなのか、O沢、H、Yジ、F平、S倉や亡くなったRも気がつけば皆ちゃっかりと大型免許を手にいれていたしねぇ~(笑)
仲間内なので、誰かが大型免許通いを始めたり、取得すれば「ねぇねぇ、何、買うの?」と自然と噂や連絡が飛び交うものですよね。
もしかすると彼は教習所で大型免許が取得できるようになった時代にバイクに興味を失っていたり、シートを被ったままのバイクはあっても実質降りていたりしてさほどの必要性も感じずタイミングを逸した可能性もあるのかなぁ~。
彼が大型免許を持っているなら、『MC8』ってクラブの集まりの際に彼は代表格なんだろうから仲間の大型バイクを「ちょっとかしてよ、乗ってみたいから」とかいってかりて、集合場所の駐車場で軽く走ってみて感触を楽しんでいる写メでも機会があるごとにブログにアップすれば「あ~、こんな場所で借りて乗ってるんだから免許持ってるじゃない」と騒動は1発で納まるだろうに、それをしないってのは免許はあっても常に話題の中心にいたいんだろうな。
無視されたり、忘れられてしまうのが彼には一番辛いのかもな。
今や無名の僕なんかよりも有名人だもんな。
明学大の「井戸端会議」連中に「そういえばYって何してるの?田舎に戻ったとは聞いているけれど…」と聞かれると「バイク関連のネット上の世界では、すごい有名人になったらしいよ。今や俺なんかよりも百倍も千倍も有名らしいよ」と答えるようにしています。
誤字脱字、変換ミスの類は寛大なるお気持ちで願います
※この頁、不連続ながら続くのかも?
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★追記35
僕の懐かしいような思い出し話みたいな…
◎自分をイメージしたモデル?
その「XSR700」については過去に彼から電話があった際に話題として登場しています。
その時、多分こんな内容の話を彼はしていたと思います。
「自分でも信じられないんだけどさ、ヤマハの欧州の人からメールがあってさ『貴方のブログでも刀剣関連の記事をよく拝見させて勉強させてもらっています。』みたいな話でさ、その開発責任者の人が手がけた新型バイクに俺のブログから学ばせてもらったことが反映してるってのよ。信じられないでしょ?俺の方こそ夢みたいな話で今でも信じられないんだよ。でも、それをブログで書いたらネット民が『そんなの嘘だ、嘘だ』って騒ぐのよ。嘘って言われてもさぁ~本当の話だから困っちゃうんだけどさ」みたいな言い分でした。大意としてはね。いちいち電話の会話のひとつひとつまで僕が覚えているわけないし、録音なんてしていないので大体こんな感じだったってだけの話として受け止めておいてくださいね。
その時、僕の頭の中ではこんなことを考えていたのかも…。
「ヤマハがXなんとか(XSR700)という日本刀をイメージしたバイクをYのイメージで作ったって?スズキの『KATANA』みたいなコンセプト?そういえばカワサキの『Z1-R』も本当かどうか知らんけど日本刀をイメージしてデザインしたとかって話をどこかのバイク雑誌で読んだことがあったけどな。でもさ、ちょっと待てよ。こいつの話って過去にベレー帽の被り方で『ラジオライフ』にブログ内容をパクられたとか、峠からの夜景写真のアイデアをどこかの雑誌に盗まれたとか言っては文句こいて電話してきてたよなぁ~。でも、あの話っていまいち『本当なの?』とか思ったし、ちょっと違和感を感じたんだよな。俺も雑誌の記者稼業だから初対面で会っても短時間で『この情報源は信用できる相手なのか?話に矛盾はないか?』とか考えるしなぁ。習性的に最初は疑ってかからないとヤバいからね」とは感じていました。
恐らくですが、そのヤマハの開発責任者の方から「私も刀剣には興味があるので貴方のブログを拝見させてもらって色々と刺激されたり学んだりさせてもらっています」的なメールやコメントくらいはあったんだと思います。
ブログとか書いていて、稀に著名な方からコメントくらいいただく可能性がないとは言えませんので。
でも純心なのか無邪気さなのか、割と有頂天になってしまいがちだった気がする彼のことですから、それが大人の社交辞令的な挨拶であっても、受け手の彼が過大に解釈してしまう可能性がないとは言えません。
例えば「貴方の刀剣に関する見識の深さにはいつも驚かされるとともに勉強させてもらっています。いつも楽しく読ませていただいております」的な褒め言葉の後の何回かのメール、電話、ライン等のやりとりの過程で、それが彼の中では「ヤマハが俺のブログ記事内容をバイク開発のヒントや参考にしている」にまで膨らんでいって、いつの間にか「私をモデルにしたバイク」みたいな頂点にまで解釈が達してしまったような気はしています。
アートや工業製品にしても「日本刀」から様々なインスピレーションを受けることはあると思います。
だからといって彼個人の持つ個性からバイクが開発されるところまでのことはないとは思います。
もしかすると同じ流派に属する刀剣仲間なのかなぁ?
ヤマハ側の方には罪もないとは思いますが、メーカーの然るべき立場の方が仮に優しい言葉をかけたとしても、普通なら社交辞令と受け止めて流してしまうことも、本人が勘違いして大いに舞い上がって興奮しまくってしまうこともあるのかなぁ。
1個人の纏うオーラにインスパイヤされてバイクメーカーが製品化したもので僕が思い浮かべられるものとしたらヤマハ『鼓動MT-01』です。
これは能楽師囃子方である人間国宝(重要無形文化財総合指定保持者)大倉正之助さんの放つ大鼓のビートにヤマハが共鳴したものと思われます。
下記の『単車倶楽部』読者投稿サイトでも触れましたが、
2000年8月8日に前代未聞の『翁附五流五番能』が催されました。能楽堂正面玄関にコンセプトモデル『鼓動MT-01』やV-MAXが展示され、場内の茶室もヤマハの社外デザインチームである『GKダイナミクス』がメタリックに設えていました。
当日のプログラムには編集工学研究所所長である松岡正剛さんが≪人機官能 人機打魂 能とモーターサイクルと大倉正之助≫というテキストを寄せられ、『GKダイナミクス』石山篤さんは≪大倉正之助と鼓動 ヤマハ「鼓動MT-01」に込めたデザインのこころ≫という一文を寄せていました。
松岡正剛さんも石山篤さんもとても残念なことに既に鬼籍に入られていまいました。
石山さんのお姿も、大倉正之助さん主宰の世界中のライダーと一緒にバイクで旅をする『グルーバル・ライダース・ミーティング』による東京都庁舎でのライブの際にもお見かけしたことがあります。大倉さんのヘルメットにSF的な『八咫烏』(ヤタガラス)デザインを施されたのもGKダイナミクスだと思います。
▼単車倶楽部 ~みんなのライダースVOICE!~
2025年8月29日付 小池延幸
1984年の東本昌平さんの「人機一体」的な表紙画と1989年の“機械じかけのイヴ”。
https://www.facebook.com/groups/tansyaclub/posts/4226098374290208/
▼大倉正之助
https://shonosukeokura.wordpress.com/
▼一般財団法人令和文化蔵
https://www.reiwabunka-gura.org/
▼編集工学研究所(松岡正剛事務所)
https://www.eel.co.jp/

※能のプログラムですがヤマハバイクで埋め尽くされていました

※当時、僕はこの五流五番能のことでバイク雑誌2誌に投稿や寄稿していました。
実は同能会はヤマハが全面的にバックアップしていました。当時の長谷川社長も朝から夜まで12時間の耐久能をご覧になられ閉演後のロビーで挨拶をされていた写真を後日秘書室を通じて郵送した記憶があります。
僕は朝早くから飯田橋にある宝生能楽堂で開場前から並んでいました。真後ろから何処かで聞き覚えのある特徴ある声がしたので振り返ると世界GPが活躍された片山敬済さんと僕とはバイク繋がりで面識のある秘書さんでした(笑)その秘書さんにも「小池さん、片山とケンタのボスの写真も撮っておいてネ」と打ち上げでお願いされました(笑)
実はYも知らないような気もしますが、僕はRH連絡会時代に片山敬済さんの個人事務所『MOTO』の社員募集に応募して、最終試験までは呼ばれていますが、しっかり採用不合格しています(笑)
最終選考は片山さん、根本社長、ホストで小説『ウィンディー』でも知られる泉優二さんの前でのフリーミーティング形式で進行役を僕はその場で頼まれました(笑)。その時、合格されたのが後にエイ出版の幹部になられたSさんです。
世界GP500が鈴鹿に来た年だと思いますが、駆け出しの記者として鈴鹿で取材していて片山さんと擦れ違ったら、まだ顔をおぼえていてくれたのか「フライデーしないでねぇ~」と笑いながら声をかけていただきました(笑)
人間国宝、大倉正之助さんとヤマハ『鼓動MT-01』の話題から脱線しましたが、大倉さんクラスならばこうやってメーカーがその方の芸に触発されてバイクという形が誕生される例はあるという証です。
ヤマハと大倉さんの芸がシンクロしたわけです。
翻って、広島の彼とヤマハ『XSR700』の関連性ですが、これはメーカーが公式にHP等で記してくれないことには証拠もないというか…にわかには信じ難いというそんなところでしょうか。
まぁ、彼の“8コマ”というMCメンバーは信じ切ってリーダーについていっているんだとは思います。
彼にしてみれば「自分でも信じらないんだけど本当なんだよ」ということなので本当のことなんだと思います(笑)。
僕が常々不思議に思っていることがひとつあります。
彼は刀剣やナイフについてかなり詳しいんだと思います。
僕はナイフにも興味がないので、持っているナイフといっても釣り道具さんで千円ちょっとで買ったような「冒険倶楽部ワイルドボーイ」ってのをキャンプ用に1本と大先輩の形見分けでお預かりしている1本くらいのものです(笑)まぁ、“十徳ナイフ”というかビクトリノックスも1本ありましたね(笑)でもそんなものです。
僕は興味のないジャンルなのではありますが刀剣専門誌やナイフ専門誌ってのも存在すると思います。
彼くらいの知識とコレクションと文才があれば、ナイフ専門誌等から取材や原稿依頼とかが来ても不思議ではないようにも思えますが、不思議と彼が刀剣関係専門誌で連載を持たされている風な話は聞いたことないですよね。
フライフィッシングにも一時期は相当に凝っていたようにも思えますので、紀行文的に釣果や仕掛けや風景写真も絡めて彼なら出来ると思うんですけどね。
彼のブログ記事でヤマハの開発陣がインスピレーションを掻き立てられるくらいですから、ナイフや刀剣雑誌の編集者のアンテナにも届いているとは思うんだけどね。
その意味では、彼は毎日のようにバイクの乗り方や走り方の指南もされているので、バイク雑誌だってコンタクトとってきても不思議じゃないと思うんだけどアレって珍理論なのか?
僕は深く考えずに乗っている下手っぴいなので彼のブログを読んでもまったく理解できないんだよね。
2年に1回くらいというか、忘れた頃にサイドスタンド出忘れやエンストのショックでバランス失ってあえなく「立ちゴケ」を繰り返しているという間抜けというか彼から見ればそもそもが適正失格者なのでね(笑)
そんな僕でも、「XSR700」モデルとなった彼にひとつ自慢できる小さなものがあるとすれば「小池死なずにギターに名前を残す」かな(笑)
岐阜県に『ヤイリギター』というアコギメーカーがあります。国内外の有名アーティストも数多く使用しているメーカーなのでアコギギター好きの方なら耳にしたことのあるメーカーだと思います。
創業70周年企画「トラベルギター名称募集」があり、運よく僕が同社の新作ギターの命名者に選ばれました。
僕は「お散歩に“てくてく歩いて”気軽に連れていけるようなギター」という発想で『TEKTEK』を強引に「テクテク」と読ませて最優秀賞をいただきご褒美にシリアルナンバー「0001」号を社長さんのサイン入りで拝領いたしました。
有名老舗メーカー市販ギターの名前にかかわれるなんて僕には一生に一度の大事件でした(笑)
もう嬉しくて有頂天で20回くらいブログで投稿して自慢しまくったと思います(笑)
きっと彼も「XSR700」開発に貢献できて僕と同じくらいに自慢したかったのだと思います。その気持ちはわかります。

※サウンドホール奥が見えやすいように弦ははずしました(笑)
▼最優秀賞受賞の歓び続き編♪(^.^)
2010年1月16日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e1952690.html
▼末代までの語り草か?(笑)
2010年1月22日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e1959819.html
▼今日も今日とて宣伝だぁ~♪ヽ(^o^)丿
2010年2月1日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e1970919.html
▼ヤイリギター
https://www.yairi.co.jp/
▼ヤイリギター/トラベルギター TR-01
https://yairi.co.jp/topics/detail_39_1.html
誤字脱字、変換ミスの類は寛大なるお気持ちで願います
※この頁、不連続ながら続くのかも?
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RC誌で取り上げられた佐藤氏(大学のサークルの先輩後輩の関係もあるので、ついつい昔の癖で“佐藤君”と呼んでしまいます。もう僕なんかよりも立派な方だから佐藤氏なのですがごめんなさあ~い。

RC誌に掲載された鈴鹿四時間決勝を疾走する佐藤君の雄姿。カラーでないのが残念ですが、マシンもツナギもヘルメットも青と黄色のモリワキカラーのモリワキマシンを与えられていたはずです。革ツナギの腕にもゼネラル石油の名前がありますが、スポンサーというかチームは石油会社でしたね。

RC誌に掲載されていた佐藤君の鈴鹿4時間への挑戦の記録です。1年毎に徐々に決勝へと近づいていく努力の様がわかります。

このパッチは後輩たちに貰った「明学大レーシングクラブ」のものです。

鈴鹿四耐に挑戦する仲間のために資金稼ぎ(まったく大した額ではなかったけれど)部屋に会った漫画の単行本を叩き売りして、ガソリン代の足しにでもしてくれと大学の学生会館前で「井戸端マンガ市」を決行(笑)黒のTシャツを肩まで腕まくりした姿は5月に旅立ったあいつの姿だと思います。

横浜ケンタウロスの恒例サマーキャンプに佐藤君が明学関係の仲間を連れて参加してくれた時もありました。ボスと記念撮影です。迷彩Tシャツ姿が鈴鹿四耐決勝を2年連続で駆けた「井戸端会議」最速の佐藤氏

カメラマンを佐藤くんに交代してもらって小池もちゃっかりと写真に納まらせてもらってます。この年は僕はバイク雑誌の取材でケンタウロスのサマーパーティーにお邪魔していました。

この2台が佐藤夫婦の愛車。北海道ツーリングから青森に上陸して、十和田湖で仲間と合流した時なので埃だらけ(笑)なかなか存在しないフルカウルの刀です。しかも排気量がAMA用なのか1000ccで、1100刀よりもフレームも短いとか?かなりレアなマシンは佐藤嫁の愛機です。

レーサーの点検中の大津弁護士の傍らには、5月に旅立ってしまった上木君もいます。佐藤くんの姿もあります。

このMFJのパッチは、RHの大津弁護士のチームのものです。

サーキットに物見遊山というか見学にやってきたとしか思えない場違いな私です。

モリワキカラーのGPz750ターボも佐藤氏の愛機です。横浜ケンタウロスのボスを送る葬送パレードのスタート直後の1枚です。

佐藤君のGPz750ターボの横で

当時は品川区荏原にあったRHの事務所の土間というかガレージで整備中の大津弁護士のチームのFZR

サーキットでスポーツ走行(練習?)の若かりし頃のまだ少年の面影の佐藤君。

これもサーキット練習の明学大チームなのですが、革ツナギが佐藤君とも違う気がしますがヘルメットで顔が見えないしね、レーサーを押している方がもしかして佐藤くん?(自信ないけど…誰と誰?)
と思ったけれど、左側の革ツナギ姿は■田君だ。彼は佐藤君とは昔からの仲良しで、当時はローソンレプリカに乗ってた印象があります。体育会系の面白い青年でした。

「鈴鹿四耐」応援の井戸端古本市ですが、みんな売り物の漫画に真剣に読み入ってるし(笑)5月に亡くなった上木の姿もあるし、手前にはレース参戦中の佐藤くんの姿もあるし。今はなくなつてしまった学生会館グリーンホール前の風景です。生協食堂の看板が見えます。僕らの部室はこの二階の生協食堂前の一等地にありました。しかも学内1の広さを誇った自慢の部室でした。東京タワーの夜景も国道1号線も眼下に見えたしね(笑)

北海道ツーリングの帰りの佐藤夫婦と毎年北海道に渡っている井戸端キャンプ隊長のAと、偶然にも十和田湖畔で小池900Ninjaが出くわしたところ。「なんか、遠くからヤバそうな複数の音が近づいてくるなぁ~」と思っていたらお馴染みの顔でした(笑)
連絡も取り合っていないし、待ち合わせ時間も場所も決めてもいなかったのに、「あらららら」という感じの遭遇でした。元々、亡くなった漁野が北海道の北の果てみたいな交差点で擦れ違ったのがAで、話してみたらお互い同じ大学だったので、そのまま学校に「新しい部員を北海道から連れてきましたぁ」と帰ってきたそうです。北海道で新たな部員を見つけた漁野の功績でした。

ガレージ内にMC「井戸端会議」のカンバンも吊るしてあるのが見える

佐藤くんのGPz750ターボ改と、奥様の珍しいフルカウル1000刀の雄姿も

この号に登場していた僕の姿に「なんで、君が雑誌に出ているの?」とYは驚いてバイク事故での入院先から電話をしてきました。

もしかするとYは「バリバリ伝説」「あいつとララバイ」の漫画家が新春企画で登場していた号を買ったら、そこに僕が出ていて
「なんで?どうしたの?何があったの?何が起きているの?」と思ったのではないでしょうか?

咥え煙草の僕もいますが、これが1983年11月18日の夜に撮影されたRH結成会議の写真です。
当然Yはそんな会議の存在も知る由もなく入院中でした。彼が知るのは、この雑誌が発売されからてのことでした。

Yが入院先で、この写真に驚いて廊下の端の公衆電話までひょこひょこ行って電話してきたようです。

BB誌の記事にもあったRH結成前夜に明学大で開催されたミーティングのビラの一部です。

RH連絡会結成前夜に大学で開催された討論イベント写真です。僕や亡くなった上木の姿や明学大の
バイク仲間たちの顔は揃っていますが、当然ですが他大学(お隣の駅のR大のYは「井戸端会議」メンバー
でもなく、そもそもバイク事故で入院していたらしく(僕も知りませんでした)この場には姿などあるはずもありません

RH連絡会の発足が1983年11月18日ですが、その前日の17日の夜には明治学院大のバイク仲間で討論イベントが催されていた時のビラ
(フライヤー)です。明学大はRH結成前夜から動きだしていました。
このビラは僕(小池)の手書きによるものです。

その討論イベント用のチラシにあった、僕と先日亡くなった仲間の学生証の写しです(笑)実名上等で堂々と名乗りをあげて活動していました。

セクトの機関紙っぽい新聞にもニカラグアの内戦レポートや日米安保問題と並んで「井戸端会議」のツーリング写真?

これも新左翼系の新聞に載せてもらっていたかも(笑)

大学でのバイク通学問題は「ミスターバイク」誌に僕(小池)も投稿してコラム記事にしてもらいました。
ミスターバイクのコラムは1983年の12月号あたりの掲載だと思います。
東京新聞や夕刊紙かスポーツ新聞等でもこの問題は取り上げてもらったと思います。

明学大のバイク通学問題はBB誌でも取り上げてもらいました。

毎日新聞社の「ザバイク」誌にもRH連絡会はお世話になりましたが、その対談記事でも明学大の井戸端会議のミーテイング写真が使用されていました。

読売新聞のスッパ抜きとなったRH連絡会の結成報告記事ですが、明学大「井戸端会議」がこの問題でミーテイングを持ったのはこの記事の
4日前の事だったかなぁ?

講談社『ベストバイク』誌での連続企画に注目していた僕はかねてからマークしていた大津弁護士にコンタクトし、「明学大のバイク集団としても是非高速料金問題をお手伝いさせてください。当方は仲良しツーリングサークルというよりは戦闘的バイク集団です」とアピールしたかも(笑)

R君を偲んで明学大の仲間を中心に集まった会。Yの参加は幹事を怒らせてしまったことでなくなりました。

U君を偲んでの明学大「井戸端会議」系の集まりに、Yは参加したかったのか人伝に場所や日時を遺族から聞き出そうとしていていた可能性が
ありましたが、明学生に限定した集まりだったので、遺族と面識のない方への情報提供はご遺族側から丁寧にお断りしたようにも
感じました。
昔のRH連絡会仲間でのツーリング参加は僕の判断である方の参加申し込みはお断りさせていただきました。
それは小池の一存なのか?それとも弁護士や第二代事務局長などのRH全体の総意による参加お断りなのかと
お怒りの様子でしたが、そもそも既にRH連絡会なんて組織は解散して存在しませんしね。
彼はどの時代を今も生きているのだろうかと少々驚きましたし、僕は彼からきついお叱りもありがたく頂きました。

月刊プレイボーイに掲載された「スズカ宣言(アピール)」というカラー8ページ記事の部分です。
僕らは取材で乗りこんだというよりは、鈴鹿現地でのアンケート回収アルバイト約でした。

RH連絡会の提訴日の東京地裁構内ですが、当時R大の学生でYの男友達のバイク乗りがRHに参加していた記憶が
ないんだよね。僕が細かいことは忘れているだけという可能性も高いけれど、この時もYのGFが参加していただけかな。
実際、R大学内でのYの活動や交友関係は僕はまったくといってよいほどに知らないから、知らないだけなんだとは
思います。Yの古い仲間の北海道通信に出てくる元活動家の友達って誰なんだろうな。

このムック本を準備している時は週刊誌の仕事をこなしながら、それが終わると朝までバイク雑誌の
編集部別室にこもって仕事して、朝帰りという二重生活をしていたので、その移動の途中でYの早稲田大近くの
アパートに寄らせてもらったのかな。僕は正社員でもなんでもないフリーなので、支障が出ない範囲で仕事の
掛け持ちはOKだったしね。Yは僕が大手出版社の社員と勘違いしていたみたいだけど、どこの週刊誌も
記者やカメラマンはフリーが基本なんだけどね。業界の事情を知らないだけか、わざと「正社員」なんて美味しい
話を僕に譲ったと言いたいのかなぁ?(笑)
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※私は下記にてフェイスブックもやってます♪
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▼私の最近のバイクメディア関連露出例
【2025年度】
★『ミスターバイクBG』1月号(P136~137)《不定期連載・小池が往く》(その16)掲載
★『VIBES』3月号(Vol.377)ばいぶず民風(P116~P118)掲載
★『ミスターバイクBG』3月号(P140~141)《不定期連載・小池が往く》(その17)掲載
★『単車倶楽部』4月号(P82中段)イチオシ!ライダースカフェVOICE掲載
★『ライダースクラブ』5月号(P108下段)RIDERS VOICE掲載
★『カワサキバイクマガジン』5月号(P93)掲載
★『ミスターバイクBG』6月号(P142)BG解放区(ミントンハウスとバイクチーム)
★『ミスターバイクBG』7月号(P74~76) 《不定期連載・小池が往く》(その18)掲載
★『ミスターバイクBG』8月号(P142~143) 《不定期連載・小池が往く》(その19)掲載
★『ミスターバイクBG』10月号(P142~143) 《不定期連載・小池が往く》(その20)掲載
【2024年度】
◎YouTube「コロツーちゃんねる」登場。(1月10日付)
【第9回】コロナツーリングバッグの歴史⑥光輪モータース(上野バイク街)がコロナの偽物を販売!?コロナ産業と訴訟!?
https://www.youtube.com/watch?v=oxmucgKa4Pw
◎YouTube「コロツーちゃんねる」登場。(1月3日付)
【第7回】コロナツーリングバッグの歴史⑤コロナガールズの正体とは!?そして、世界的大スターがコロナを愛用してた!?
https://www.youtube.com/watch?v=eG0VFlTlRgQ
★『ミスターバイクBG』2月号(P142~143《不定期連載・小池が往く》(その7)掲載
◎YouTube『コロツーちゃんねる』登場(1月19日付)
【第12回】コロナツーリングバッグの歴史⑦CORIN 光12輪モータースが販売した偽物の画像を入手!そしてコロナ産業は倒産へ
https://www.youtube.com/watch?v=XC1NZiIE8tw

★『ミスターバイクBG』3月号(P140~141)《不定期連載・小池が往く》(その8)掲載
★『単車倶楽部』4月号(P14&P31)掲載 Voiceスペシャル!青春バイク
◎コロナツーリングバッグ 3月10日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid02NueiKxNsmhMcdiCdjogS47EmtXQ5an5KeK9Pc78FH84eJHpxFqk47MJTEXdAvL8Kl&id=100061846298063
★『ミスターバイクBG』4月号(P142~143)
《不定期連載・小池が往く》(その9)掲載
◎コロナツーリングバッグ 3月27日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0rxTP4rNxi2hpz7ymNdvpM4WcW1VXXcJp5vFrhdgXHyCMcpBDY9W2HgTaDXe2vBNul&id=100061846298063
◎コロナツーリングバッグ 3月31日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0e34J15wsbKvpbG6Y74WCewLWhunAZXWP8pSqZJCc2jT1oUXAayWedUn9o6Jk2JSjl&id=100061846298063
◎YouTube『コロツーちゃんねる』紹介(4月2日付) 3分40秒頃
【第25回】コロナツーリングバッグの長所や短所、カスタム等々を、イレブンライダーさんと語り合う。
https://www.youtube.com/watch?v=bMdMZvSmeN4
◎コロナツーリングバッグ 4月4日付 ※資料提供
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0wwDDZ4J5iKGqvtPPSQRmbJbsMhEG33btKPdpdomrNJxjCTBemmTVko8rbJnRaVfjl&id=100061846298063
★『ミスターバイクBG』5月号(P140~141)《不定期連載・小池が往く》(その10)掲載
◎コロナツーリングバッグ 4月22日付 ※資料提供
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid034ajrDtqUr8Mo8BP83KQreNLUyZTY2w5yyGsbs7BSY7ipj7n3SZvYMxWD16X4vdF1l&id=100061846298063
◎コロナツーリングバッグ 5月2日付 ※資料提供
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid02QvD6YhEWqCuMVQsKwkiAQwLbZUWwNEQGVWpcaKZzFrtrgzraopcehrZm9jeJL9E8l&id=100061846298063
◎コロナツーリングバッグ Corona Touring Bag 動画登場
2024年5月4日付
https://www.facebook.com/100061846298063/videos/765937185716149

★『ミスターバイクBG』6月号(P144)《不定期連載・小池が往く》(その11)掲載
★『ミスターバイクBG』8月号(P64~65)《不定期連載・小池が往く》(その13)掲載
★『ミスターバイクBG』9月号(P136~137)《不定期連載・小池が往く》(その14)掲載
★『ミスターバイクBG』11月号(P136~137)《不定期連載・小池が往く》(その15)掲載
【2023年度】
★『ミスターバイクBG』2月号(P146~147)《不定期連載・小池が往く》(その2)掲載
★『ミスターバイクBG』3月号(P150~151)《不定期連載・小池が往く》(その3)掲載
★『ミスターバイクBG』4月号(P142~143)《不定期連載・小池が往く》(その4)掲載
★『単車倶楽部』5月号(P85/中段)掲載 あなたの聖地巡礼ツーリングVOICE
★『ミスターバイクBG』11月号(P140~141)《不定期連載・小池が往く》(その5)掲載
★『ミスターバイクBG』12月号(P142~143)《不定期連載・小池が往く》(その6)掲載
◎コロナツーリングバッグ 11月28日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid029mXPwkqqRf3uxWmqyPmk8XSitvPG3CVyPqErfrBcCwuGFAU3wszkGYQ1CqGRrxfWl&id=100061846298063
【2022年度】
◎コロナツーリングバッグ公式ウェブサイト 「コロナ通信」3月30日付
https://coronasangyo.ocnk.net/news-detail/221
★『オートバイ』2022年8月号(P159)旅レポート掲載
★『オートバイ』2022年9月号(P151)旅レポート掲載
★『RIDE』2022年9月号「百騎百景」(P78)掲載
★『RIDE』2022年10月号「from Readers」(P81)掲載
★『ミスターバイクBG』10月号(P152)BG解放区掲載

★『単車倶楽部』2022年11月号・創刊5周年記念号(P26~27)「愛車物語~君が愛車である理由」登場
★『モーターサイクリスト』11月号(P128)上段写真掲載
★『RIDE』2022年11月号「from Readers」(P80)上段掲載
★『ミスターバイクBG』11月号(P177)≪不定期連載 小池が往く≫開始
★『オートバイ』2022年12月号(P144)旅レポート掲載
★『RIDE』2022年12月号「from Readers」(P80下段~81上段)掲載

◎WEB 『Mr.Bike』ニュース(2022年11月28日付) レポート:小池延幸
ヨコハマで100台のバイクが哀悼の咆哮をした日。変わらないのがケンタウロス流
https://mr-bike.jp/mb/archives/34432

◎ミスター・バイクby東京エディターズ 11月28日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid02sPrKJbZKb88LMcfpRpRoCLcipa5uVXHrg2cwAuHg3uzKzZCG8jjMtF7HENUXXz4el&id=100031771256575
【2021年度】
★『単車倶楽部』2021年4月号(P94上段)投稿掲載
◎『ストリートバイカーズ』オフィシャルサイト 2021年5月12日付
https://sutobai.com/blog/15495/
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1546406972222411&id=175003892696066
【2020年度】
★『Motorcyclist』2020年1月号(P158上段)投稿掲載
※2020年の年賀状が『RIDERS CLUB』3月号(P123)、『BikeJIN』(培倶人)3月号(P136)、『オートバイ』3月号(P137)、『RIDE』3月号(P79)、
『タンデムスタイル』3月号(P89)、『ヤングマシン』3月号(P111)、『カワサキバイクマガジン』3月号(P142)、『ミスターバイクBG』3月号(P213)計8誌掲載
◎『ストリートバイカーズ』オフィシャルサイト 2020年4月29日付
long-tour-タンクバッグ3xl-with-カワサキ-ゼファー-χ
http://sutobai.com/blog/13877/
◎『シック・デザイン』オフィシャルサイト 2020年7月28日付
マスカレードページにゼファーχアップ
http://www.chicdesign.co.jp/topics/masquerade/mq06_cyoko/mq06_cyoko.html
★『単車倶楽部』2020年10月号(P21上段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2020年11月号(P95下段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2020年12月号(P54下段)投稿掲載
【2019年度】
★『単車倶楽部』2019年1月号 みんなのライダースVOICE 投稿掲載 P29上段
★『単車倶楽部』2019年1月号 みんなのライダースVOICE特別版 投稿掲載 P39中段
※2019年の年賀状が『タンデムスタイル』3月号(P71)、『単車倶楽部』3月号(P87)、『BikeJIN』(培倶人)3月号(P123)、『カワサキバイクマガジン』3月号(P140)、『オートバイ』3月号(P145)、『RIDE』3月号(P79)、『ミスターバイクBG』3月号(P152)計7誌掲載
★『単車倶楽部』2019年4月号 特集/ツーリングの楽しいコト100
P19下段 投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年4月号 P182~183投稿掲載
★『タンデムスタイル』2019年5月号(P61上段)投稿掲載
★『ライダースクラブ』2019年5月号(P179)投稿掲載
★『BikeJIN』2019年5月号(P164下段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2019年6月号(P62下段)投稿掲載
★『タンデムスタイル』2019年6月号(P71中段)投稿掲載
★『ライダースクラブ』2019年6月号(P139)投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年6月号(P183上段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2019年7月号(P56上段/P66下段)投稿掲載
★オートバイ別冊付録『RIDE』2019年7月号(P77上段)投稿掲載
★『カワサキバイクマガジン』2019年7月号(P99下段)投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年7月号(P182下段)「小池劇場」として掲載
★『単車倶楽部』2019年8月号(P14下段)投稿掲載&同号P24、P26にも誌面登場
★『オートバイ』2019年8月号(P161左下)「ツーのさかな」投稿掲載
★『ガールズバイカー』2019年8月号(P101下段)投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年8月号(P182上段)「小池劇場」掲載
★『モーターサイクリストCLASSIC』2019年8月号(P118~119下段)投稿掲載
★『モトツーリング』2019年9月号(P118)下段投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年9月号(P183)「小池劇場」掲載
★『ガールズバイカー』2019年10月号(P95左上)投稿掲載
★オートバイ別冊付録『RIDE』2019年10月号(P78中段)投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年10月号(P183上段)「小池劇場」掲載
★『タンデムスタイル』2019年11月号(P62上段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2019年11月号(P62中段)投稿掲載
★『オートバイ』2019年11月号(P179右)「たびのきろく旅ログ」投稿掲載
★オートバイ別冊付録『RIDE』2019年11月号(P78~79)投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年11月号(P182上段)「小池劇場」掲載
★『単車倶楽部』2019年12月号(P58上段右)投稿掲載
★『オートバイ』2019年12月号(P163右)「たびのきろく旅ログ」投稿掲載
★オートバイ別冊付録『RIDE』2019年12月号(P80~81)投稿掲載
【2018年度】
※2018年の年賀状が『オートバイ』『カワサキバイクマガジン』『ロードライダー』『Bike JIN』(培倶人) 『ヤングマシン』『ミスターバイクBG』『バイカーズステーション』『OutRider』8誌の3~4月号の読者ページに掲載

★『単車倶楽部』Vol.4(2018年5月号 月刊化第1号 P94~P97寄稿掲載
★『道楽』No.23(2018年4月16日発売最終号)特集『道楽キャンプ 愛すべき残党達よ!』P23下段にトピック登場
★『単車倶楽部』2018年6月号 キャンプツーリング特集P25寄稿掲載
★『単車倶楽部』2018年7月号 読者投稿みんなの伊豆VOICE P25
★『MCクラシック』誌 Vol.05(2018年6月号)P139~140 読者の声TALKS投稿掲載
★『ガールズバイカー』2018年8月号 P26 最下段にVTR女房チョコさん登場
★隔月誌『昭和40年男』S40ニュース採用 2018年7月14日付
タメ年が作った「コンテナハウス」に憧れる!
https://www.s40otoko.com/archives/49403
★『単車倶楽部』2018年9月号 みんなのライダースVOICE 投稿掲載P33下段
★『単車倶楽部』2018年10月号 みんなのライダースVOICE 投稿掲載P63上段
★『エンシュージアスト』創刊第2号 2018年8月25日発行 寄稿掲載 P54下段
【2017年度】
★『道楽』No.16(2017年2月16日発売号)P100 「みちコラム」寄稿
★『カワサキバイクマガジン』vol.127(2017年9月号) P113投稿再掲
★『R★B』(レッドバロンマガジン)vol.24(2017年秋号)P22
「走れ!プロフェッショナル」特写記事掲載