新井淳一の先を読む
2011年6月1日 ほどほどと一所懸命
ほどほどの努力ではほどほどの幸せもつかめない。一生懸命頑張って、一生懸命働いて、豊かで一番の国を作りましょう
(自民党衆議院議員 小泉進次郎)
29歳の若手代議士小泉さんが昨年の参院選の自民党CMの中で訴えた新しい国づくりの一節である。後に「政治家頼みでは今までと何も変わらない。皆さん、今、必要なのは皆さんの参加です」と続く。民放ではほとんど流れずインターネット中心だっただけに、聞きもらした方も多かっただろうが、私は当時これを聞いて、内向き世代といわれる若者の一人の率直な発言に拍手を送った記憶がある。
ポイントは「ほどほどの努力ではほどほどの幸せもつかめない」という時代認識である。過去の日本にはたしかに、ほどほどの努力でもほどほどの幸せを得られた時代はあった。それどころかほどほど以上の幸せにありつけた時代さえあった。1960年代の高度成長期、一生懸命働いた人は当然のこと、ほどほどの人もそれなりに満足した。80年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」のときも、同様である。
以来、環境は一変、現在まで「失われた20年」という、未来の歴史書に記されるこの間の出来事は今回の大震災以外何もないような、長い沈滞の時が続く。にもかかわらず政治家も国民も「ほどほどの努力で幸せが」という思い込みを捨てていない。日本は本当にこれでよいのか、というのが小泉さんの言いたかったことなのだろう。それから1年、日本は原発事故で一段と窮地に追い込まれている。いまこの若者に同じ機会を与えたら、「ほどほど」なんて言っている暇はないと言うのではないか。
昨年、このCMと同じタイミングで菅首相が言い出した「最小不幸社会の実現」というキャッチフレーズがある。古き良き時代はもう来ないという意味で「ほどほど論」と一脈通じるが、菅首相のそれは不幸の配分を小さく抑え、しかもなるべく平等にという意味で、分配に重点がある。小泉提案は「ほどほどでは日本が発展できない」が基本だから、成長による問題解決に軸足を残しており、似て非なるものだ。原発事故によるエネルギー供給不安の長期化で、ただでさえ低い潜在成長力の一段の低下が予想される。成長による問題解決が難しくなったが、それでも日本という国は経済の賑わいを欠いては存在が成り立たない。分配だけでコト足りるはずはない。
毎日鏡を見る者は昨日の吾と今日の吾と同じと思へり。今日の吾と明日の吾とも同じと思へり。十年経って始めて吾の大に異なると悟る
(夏目漱石 漱石文明論集(三好行雄編) 岩波文庫)
国民の大多数がほどほどの努力では国が亡びる(あるいは浮かび上がれない)と信じていた時代といったら、近代日本ではいつのことか。明治、大正、昭和、平成。衆目の一致するのは明治維新と戦後復興の2つだろう。追加するなら70年代の石油危機後の数年間ではないか。計3回である。
では、2010年代の日本はどうなのか。難問を解決して国家を浮上させる難しさという点では、これからの10年は過去3回に匹敵する。人口減少、高齢化、エネルギー不安、財政悪化、むしろ過去に比べより困難さは増しているかもしれない。
エネルギーの安定供給。「ほどほど」では矛盾が広がるばかりだ。基本計画では2030年の総発電量に占める原発の比率を50%(09年度は30%)に高める予定だったが、今回の事故で白紙に。だが原発に代わる太陽光や風力はコストと効率の面で難点がある。火力増強で総発電量は確保できても二酸化炭素の排出量とコスト高の問題が残る。
原発事故が時期を早める日本の貿易収支の赤字転落問題。これまでも数年先には現実化との見方があったが、震災による生産拠点の海外移転、部品ネットワークの崩壊、石油、石炭など化石燃料の輸入増大などがそれを加速、早ければ今年、赤字の予測もある。赤字転落になれば国債消化で外国依存度が高まり、金利の急変や円の暴落など予想外の波乱も起きる可能性も強まる。
社会保障と絡んだ財政再建も決断が待たれる課題だ。社会保障費は10年度に105兆円となった。給付を減らさないと高齢者の増加で今後年間3兆~4兆円の増加が想定される。先行き立ちいかないのは目に見える。増税か給付削減かそれとも相互のバランスか、1日でも早く結論を出すべきだ。
元々、日本の財政は税収を上回る支出続きで、国債発行残高は国内総生産(GDP)の約2倍。家計にたとえると年収300万円の世帯が700万円を支出し、ローンの残高が7000万円に相当する。社会保障の問題を抜きにしても財政に余裕はない。
「国は得意分野で亡びる」というのは歴史の定説だ。武力で立とうとする国は武力で滅び、お金で世界を支配しようとした国はお金で亡びる。不吉な話を言うわけではないが、安全と安心で世界をリードしていたはずの日本が原発事故で世界に不安を与えている。これが滅びの兆候とならないという保証はない。
ほどほどの努力が幸せにつながった時代の特色は、人口が増え続けていたことである。若年労働者の存在も大きい。高度成長のパイの増加の半分は労働人口増で説明できる。それがこれからは人口減と少子高齢化だ。60年代初めに20代後半だった平均年齢は今や45歳。何もしなければではもちろん「ほどほど」でも経済は縮小する。
2010年代、日本経済は国民の一所懸命が続いても漱石がいう「昨日の吾と今日の吾は同じ」状況が続く恐れも多い。しかし、「ほどほど」を上回る毎日の努力が途切れなく続くなら、10年後、異なる日本もありうる。「みなさんはこれぐらいの努力でいいですよ、あとは政府がやりますから」。政府はこの見慣れた「ほどほど」政策をやめないといけない。本来は20年前に終わるべきだったのだ。
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(日本経済研究センター 会長)
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