(昭和31年1月11日、井の頭公園の池でテグスを使って密漁していた都立石神井高校3年の男子生徒が警官に捕らえられ、これを助けようとした同級生4人が警官を殴って逃走、追い掛けた警官はピストルを威嚇発射しようとして、一人の尻から腹に貫通させ重体としたという。
ここ数年の水抜き作業「かいぼり」で多くの外来魚が駆除される以前には、密かに夜釣りを試みるバス釣り師もいたとかいなかったとかいう井の頭公園の池。94年当時の密漁の状況はどうだったのだろうか・・・。)
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赤ピンの先が、井の頭公園の池のあたり。
もう少し寄ってみる。位置関係を見ていただければと。
この事件、遺体を司法解剖した結果、死因は不明なのだった。解剖を担当された杏林大の佐藤喜宣教授が強調しておられるから、そこは疑いようがないと。
とするとこれは、死体損壊、死体遺棄事件ではあっても、殺人事件とまでは言い切れない気がするのだが、なぜか、20世紀の我が国における未解決"殺人事件"の代表的なものの一つとして認知されているのだった。
損壊や遺棄の状況からして、こういった場合は殺人事件として捜査本部を立てるものなんだよ、ということなのだろうか。
よくわからないが、とりあえず以下に要点のようなものを並べてみた。(間違いがあるかもしれず、後で訂正したり付け加えたりするかもしれません。あまり信じないように読んでいただければと)
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■ 事件発覚
1994年(平成6年)4月23日(土曜日)の午前11時ごろ、東京都三鷹市の井の頭恩賜公園の池のほとりに設置されたごみ箱から、切断された人間の足首が出てきた。
発見したのは、公園の女性清掃員Tさん(当時59)。この日は同僚の清掃員らと10人程度でゴミ箱のごみを集め、園内の収集所で分別作業をしていた。
Tさんはネコやカラスに餌をやる習慣があったようで、同僚の男性清掃員が気を利かせて、回収されたゴミの中から、うっすらとピンク色の肉のようなものが透けて見えている袋を選り分けておいてくれた。
袋の中身について、Tさんは当初、「スーパーで売っている魚の切り身(豚肉とも伝えられる)でも入っているのか」と思った。
「(選り分けておいてくれた男性清掃員は)ネコの餌にでも、と思ったようですが、おそらく彼が前もって選り分けてくれていなかったら、生ゴミとして他のゴミの中に埋もれたままになっていたでしょうね。ゴミとしてはきれいすぎて、少しヘンだなと思ったけれど、臭いもなかったし、不審な感じはありませんでした」(Tさん談)
Tさんはネコかカラスの餌にしようと、袋を開けようとしたが、結び目があまりに固く開けることができなかった。
そこでTさんの同僚が近くに落ちていた竹串を手に取り、ビニールを破くようにして中身を改めた。その瞬間、竹串を手にした同僚は「人間だぁー!」と声を上げ袋を放り出した。
Tさんが慌てて中身を確かめると、人間の白い足首だった。女の人の足のようにきれいだと感じたという。
「人の足首がある」・・・Tさんらは公園内で売店を営んでいる夫婦にこのことを話し、売店の夫婦らも現物を見に来た。
売店の主人が警察に通報、三鷹署と警視庁捜査一課が捜査員を現場に派遣。捨てられていたのは人間の左足首であると分かり、殺人、死体遺棄事件として捜査を始めた。
捜査により、池の周囲にある複数のゴミ箱から、次々と袋入りの切断遺体が発見された。
発見された遺体の断片は、全部で27個。それらは人体の「両手足」と、「右胸の一部」のみであり、全部を合わせても体全体の三分の一程度、重さ20kg程度にしかならず、頭部と、胴体の大部分は見つからなかった。
(発見された遺体の断片については「33個」とするものもある。また、袋の数は「24個」とするものもあり、「27個」とするものもある。司法解剖を担当した杏林大の佐藤教授によると、「遺体は半透明のビニール袋に梱包されていて、全部で27袋ありました」。遺体が見つかったゴミ箱の数は、「7個」とするものもあり、「14個」とするものもある。)
(井の頭公園の池の周囲には、この画像のように遊歩道が整備されている。池の周りを一周するとその距離約1.6km。現在は撤去されているものの、事件当時はこの遊歩道のそばにゴミ箱が点々と設置されており、そのうちの7個<一説には14個>のゴミ箱から、切断された遺体が出てきたという)
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■ 特異な遺体処理
切断された遺体の断片には、以下のような特異さが見られた。
● 各断片のサイズが揃えられていた。
多くのバラバラ殺人では、切断しやすい関節の部分で切るのが一般的だが、この事件の場合は関節を無視して切断されており、各断片は計ったように「ほぼ22cm」の長さに揃えられていた。
筋肉や皮膚を削ぐことで、太さも揃えられていた。(太さは20cm以下に揃えられていた)
「これは捨てる場所を限定した遺体の処理の仕方だなと思いましたね」「井の頭公園のゴミ箱は円筒型ではなく、中が見えない郵便ポスト型で、入口の大きさは20cm×30cmです。犯人はあらかじめ遺体を公園のゴミ箱に棄てるつもりで、ゴミ箱の入口の大きさに合わせて、遺体を切断していったにちがいありません」(解剖医談)
(犯人は、このゴミ箱の投入口のサイズに合わせて遺体を切断したのだろうか)
● 切断面に残る刃型を分析した結果、切断に使用されたのは市販されている普通のノコギリ(手ノコ)と判明した。(電動ノコギリではない)
● 手ノコのあて方は一定しなかった。
「いきなり乱暴に手ノコをあてているところがあるかと思うと、鋭利な刃物で肉を切って骨を露出させてから慎重に切断している個所がある。
また骨のいちばん下まですっきり切っているところもあれば、途中まで切ってポキンと折っている個所がある。
骨を折るのは、処理をしながら"学習"したということも考えられますが、少なくとも3パターンくらいは明らかに異なった切断方法がみられるんです」(解剖医談)
● 両手の指紋は鋭利な刃物で削ぎ落とされ、掌紋にも傷がつけられていた。
● 血液がすべて抜かれていた。
「文字通り、血は一滴も残っていませんでした。おそらく搾りあげるようにして抜いたと思うのですが」「それぞれの部分の両端の切断面には水切りの網がはめられていて、血液がすべて抜かれていたのです。水を溜めて、もみ洗いをしたのでしょう」(解剖医談)
● 入念に洗われた形跡があった。
遺体はとてもきれいで、手掛かりになるような付着物は採取できなかった。
● 以上のような処理を施されたうえで、「東京都推奨炭カルパック」と印刷された半透明のゴミ袋に入れられ、同じ袋で二重に包むという特殊な方法で梱包されていた。
「梱包の方法も特異でした。お漬物やキムチなどにおいの強い食材を包むやり方で、まず半透明のビニール袋に中身を包んで、それを結び目でひっくり返して、もう一度同じ袋で包んでいたのです」(解剖医談)
「ゴミ袋は、一枚で二度包むという調理人や釣り人などの魚を扱う人が、内容物の水やにおいを外に漏らさないための方法で包まれていた。結び方もほどけにくいように何度も結んで、その結び目を団子状に重ねていた」(元警視庁関係者談)
(ウィキペディアには、「袋は、小さい穴のある水切り用の黒い袋と半透明の袋の二重になっており、漁師らが使う特殊な方法できつめに結ばれていた」)
(東京都推奨の炭酸カルシウム混入ゴミ袋。実際に用いられたのは、このようなものであったのだろうか)
● 死因は不明だった。
「毒物による中毒死の場合、骨髄からその証拠を見つけることができるが、そうした物質は発見できなかった」(解剖医談)
この事件については「交通事故の隠蔽では?」との説もあるが、交通事故を思わせる傷もそれらの断片にはなかった。
ただ一か所だけ生活反応がある傷があり、それは「胸郭に属する軟部組織、肋骨の一部に付着している筋肉組織に、ほんのわずかな出血があった。でもそれは打撲されるような場所ではないし、肋骨が折れているわけでもない。結局、なぜそこに出血が起きたのかを特定することはできませんでした」(解剖医談)
● 死亡時刻の推定も困難だった。
頭部や胴体が見つからず、両手足と右胸の一部の血抜きされた断片が見つかったのみで、そこからわかったのは、「筋肉の腐敗や残っている硬直の程度から判断して、『この遺体はそんなに古いものではない』ということくらい」だった。(解剖医談)
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■ 身元判明
発見から3日後の4月26日(火)、遺体は井の頭公園近くに住む一級建築士の川村誠一さん(当時35)であると判明した。
川村さんについては、4月21日(木)の夜に帰宅せず連絡も取れなくなっているとして、4月22日(金)の夕方から妻によって行方不明の捜索願が出されていた。
そこで、4月23日(土)に井の頭公園で発見された遺体の断片と、川村さんのDNA型を照合したところ、一致したという。
「血液を抜いたのは、被害者の身元の判明を遅らせるためでしょう。しかし、DNA鑑定は毛髪や骨髄などからでもできますから、近々の行方不明者と照合し、数日後に身元が判明しました」(解剖医談)
「おそらく体内に血液が残っていると、被害者の血液型が判明したり、DNA鑑定が可能になると思ったのではないでしょうか。でもそれは素人考えなんですね。たとえば、血液がなくても、骨髄や筋肉の組織、つまり核を持っている細胞が残っていれば、そうした鑑定はできてしまうんです」(解剖医談)
身元の特定はDNA型によった他、「遺体に残っていたわずかな真皮から採った指紋が、川村さんの所持品の指紋と一致した」「傷つけられた掌紋の一部が、自宅に残されていた本人の掌紋と一致した」など、「わずかに残った指紋によった」という情報や、「傷つけられた掌紋の一部によった」という二通りの情報がある。
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■ 被害者情報
● 氏名: 川村誠一さん(当時35)・・・眼鏡着用のふっくらとした温和そうな顔立ち、本人の顔写真は画像グーグルで出ます。
● 住所: 武蔵野市吉祥寺南町1丁目。
井の頭公園の池の東端から北に150mほど離れたあたり
(遺体が発見された井の頭公園の池周辺と被害者の自宅は近い)
● 職業: 一級建築士(港区新橋の建築事務所に事件の約2年前から勤務、事件の直前に積算部の主任に昇進したばかりだった。
新橋の事務所に勤める以前は、新宿区高田馬場の設計事務所に10年間勤務していた。「思い出に残る仕事がしたい」とのことで、新橋の事務所に転職したのだという)
積算の仕事
● 家族: 妻(当時35)と、息子(当時3)あり。妻とは小学校時代から参加していたボーイスカウトのリーダー会で知り合って結婚。
妻は事件発覚当時は妊娠中であり、約5か月後の9月25日に次男を出産した。妻と息子たちは事件後、井の頭公園が見えない場所に引っ越した。
● 住居: 先の吉祥寺南町1の住所に、自ら設計した二世帯住宅を建て(事件当時新築)、そこに妻と息子、川村誠一さんの両親とで暮らしていた。
新居での生活が始まって1年足らずで事件に巻き込まれた。
(二世帯住宅といっても、内部の各世帯が何を共用し、どの程度独立しているかによって様々なタイプがあると思うが、川村さんのそれがどういったタイプだったかまでは伝わっていない)
二世帯住宅
川村さんと二世帯住宅で共に暮らしていた父親の誠蔵さんは、「風化させたくない」との思いから、事件の約10か月後(1995年2月、誠蔵さん67歳の時)、息子の思い出や事件のことを綴った手記『心事の軌跡』を、他の遺族の反対を押し切り、出版社まで立ち上げて自費出版した。
捜査が一向に進展しない焦りを、「ちょうど帆船が凪(なぎ)に遭ったように、立ち往生」と表現し、最後は、通夜の日に仏壇の前で川村さんと"会話"を交わし、号泣する場面で締めくくっている。
「解決のめどがついてから発刊するつもりでいましたが、捜査の方が長期化する様相を呈してきましたので、尻切れトンボのような形態のまま出版せざるを得ませんでした」と、「あとがき」でその思いを述べている。
誠蔵さんは事件解決を見ることなく、1997年(平成9年)に他界した。
● 川村さん略歴:
1958年東京生まれ。武蔵野市立第三小学校 → 武蔵野市立第三中学校 → 都立秋川高校定時制 → 東洋大学工学部建築学科 → 新宿区高田馬場の設計事務所に就職(10年勤める) → 思い出に残る仕事がしたいと、港区新橋にある建築事務所に転職し、2年勤務(殺害される直前に積算部の主任に昇進したばかりだった)。
● 川村さんを知る人々の談話:
「温厚な性格で、どちらかというとおとなしかった。目立つ存在ではなかったが、信頼されるタイプなので、いつも彼の周りには人が集まっていたというイメージがある」(高校時代の友人談)
「写真撮影が好きで芸術家タイプだった。友人の世話を焼く面倒見のいい奴だった」(高校時代の友人談)
「夫婦仲がとても良くて、派手な生活は好まずに地道な暮らしぶりでした。ご主人は優しそうで、奥さんはきれいな人でした。友人の出入りがたくさんあって、いつもいろいろな人たちが遊びにきていました」(結婚当時に住んでいたアパートの住人談)
「本当にまじめで、間違っても恨みをかうような人ではなかった。平穏に生きていた人間をあんな無残なやり方で・・・。本当に無念だったろう」(高田馬場時代の元上司談)
「気さくな性格で恨まれる人ではなかった。駅で別れて二度と会えなくなった現実が今も信じられない。会食に同席した同僚とは十年以上、事件の話をしなかった」(高田馬場時代の元上司談)
上の二つの元上司の談話は、この事件の公訴時効が完成した2009年、元上司が70歳の時に取材に応じて語られたもの。
この高田馬場時代の元上司(というか、いくつかの記事のニュアンスからは設計事務所の所長その人かと思われる)は、川村さんの父・誠蔵さん(東京大学卒)が運営していた学習塾の元塾生。高校時代にその塾に通い、大学時代にはその塾で講師を務めた。
その縁から、元上司は誠蔵さん夫婦と長年の親交があり、長男の誠一さんの成長も子供のころから見守り、就職の世話もしたという。
「特に変わった様子はなく、楽しい酒でした。川村さんは飲むと顔がすぐに赤くなるので、この夜も赤かったようですが、酔った様子はなかった」(川村さんが消息を絶つ直前に川村さんの昇進祝いの宴席でともに酒を飲んだ高田馬場の設計事務所時代の元同僚談)
「夫は明るい人で、小さなことは気に留めない温厚な性格でした。人に恨まれるということは考えられません」(妻談)
「どんなに遅くなって帰ってきても必ずシャワーを浴びて寝る人だった」(妻談)
「外泊したことのない主人」(妻談)
「事件の心あたりは・・・まったくありません。夫婦仲も良かったし、トラブルもなかった。(中略)ただひとつだけ、警察の方から、主人が寄り道をするところがあったのではないか、ということを訊かれました。会社の人に送ってもらったときに、途中でクルマを降りたことが二、三回あったそうなんです。それは私の全然知らないことでした。場所は高井戸のほうらしいのですが。それも頻繁にあったわけではなく、警察でも、それから先の足取りはわからなかったようです・・・」(妻談)