彼は我が子を乗せて、一心不乱に車を走らせていた。
自宅の福岡を深夜出発してかれこれ14時間以上運転し、ようやく目的地のある山梨県に入った。走行距離はすでに1000キロを超え、疲労も限界に近い。
だが、つてをたどってようやく見つけたのだ。一刻も早くたどり着かなければならない。
「これでやっと、お別れができるね」
運ばれたのは新たに家族に加わるはずだった小さな命。せめて安らかに埋葬したい。ただそのささやかな行為までが遠かった。
「亡くなった家族や仲間を、安心して葬れる場所がない」
こうした事態に直面している人たちがいると私が知ったのは4年前。海外特派員にあこがれて記者になった私は、24歳のときにある人と出会い、以来ずっと「お墓」について考え続けている。
遠くの国に憧れて
少し昔の話をさせて欲しい。私は小さいころから、遠い、知らない国に憧れていた。
小学1年生のとき、クリスマスに大好きなおばあちゃんがくれた、お気に入りのカラー写真つきの百科事典。「Good afternoon」「ニーハオ」など、世界各国のあいさつが並ぶページの中で、ひときわ異彩を放つ文字があった。
「السلام عليكم」
これは文字なの?!
砂漠をバックに白い布をかぶって微笑む、異国情緒あふれる少年の写真の脇に「アッサラーム・アレイコム」というふりがながあった。どうやら文字列は右から読むようだ。この不思議な文字から目が離せなかった、これがアラビア語との出会いだった。
私は外国語研究を専門とする大学に入学し、アラビア語を専攻することにした。お世辞にも優秀な学生とは言えなかったが新しい文化に触れるのは本当に新鮮で、若さの勢いに任せて紛争が続く「パレスチナ自治区」にも留学した。
私が留学したのは比較的安全な場所だったが、車で30分も行けば衝突が激しくなり、日常生活と「死」が隣り合わせのエリアだった。イスラエルの占領に不満を募らせたパレスチナ人がイスラエル人に石を投げ、暴力の応酬になり次々と射殺される。そんなニュースがあふれていた。
そうした終わらない紛争の中でも子どもたちは毎朝学校に通い、大人たちは仕事に行き、友達とお茶を飲んで笑い合い家族団らんを大切に暮らしていた。
アラビア語が開いてくれた世界。その光景は、記者になる私の原点となった。
海外取材がしたいのに…
4年前の春、NHKの記者になって1か月がたった日のこと。わたしは人事担当の上司に手渡された紙を一目見て、がっかりしてしまった。
「配属:大分放送局」
NHKの記者は入局後、研修期間を終えると地方の放送局に配属される。そこで3年から5年ほど、警察や行政の取材などを積み重ねて、取材のイロハを学ぶ。
「まずは夢を叶えるための修行だ。頑張ろう」
頭では納得したつもりだったが、慣れない土地で突発的に起きる事件や事故に追われる毎日を送っていると、次第に心の曇りは大きくなった。
「海外取材はいつ行けるのだろう…」
そんな私の気持ちを察してくれたのか、先輩の女性記者が「そういえば別府にモスクがあるよ。行ってみる?」と誘ってくれた。
先輩に連れられて辿り着いたのは、別府市の国道沿いにある5階建ての、どこにでもありそうな灰色の雑居ビルだった。想像していたあのドーム状の建物ではなかった。
それでも中に入って階段を上ると、学校の教室より一回りほど大きな部屋に、真っ赤なじゅうたんがきれいに敷き詰められ、エキゾチックな雰囲気が漂う。そこに50人ほどの男性が肩がくっつくくらいの距離に立って並んで、礼拝をしている。
「こんにちは、ようこそいらっしゃいました」
キョロキョロしていると、流ちょうな日本語で話しかけられた。浅黒い肌に大きな黒い瞳。男性は濃くたくましいひげを切りそろえ、スーツを着ていた。
モスクの代表を務めるカーン・ムハンマド・タヒル・アッバースさん。この人こそ、私をお墓取材に引き込んだ張本人である。
出会い
السلام عليكم، إسمي ناتسومي أومورو.
أنا أشتغل كصحافية بفرع أويتا لهيئة الإذاعة و التلفزيون اليابانية
(はじめまして、私の名前は大室奈津美です。NHK大分放送局で記者として働いています)
イスラム教徒にとって大切な言語であるアラビア語で挨拶するとカーンさんの表情が明るくなり、会話が弾んだ。
それからわたしは仕事の合間にたびたびモスクを訪ね、カーンさんと話をするようになった。
カーンさんは54歳、パキスタン出身で34歳の時に九州大学の大学院にIT工学を学ぶため留学。その後、立命館アジア太平洋大学で教職を得て別府にやってきた。
同じパキスタン出身の妻とともに3人の子どもを育てている。子どもたちは全員日本の高校や大学に通っていて、みな日本語が流ちょうだ。カーンさんも日本在住歴は21年、今は日本語でのコミュニケーションにほとんど不自由はないという。
13年前に日本国籍も取得し、日本に永住しようと別府の海が見える場所に家も購入した。
(カーンさん)
私は海が大好きです。パキスタンの私の生まれた街には海がないんです。別府にはこんなに綺麗な海があります。人もとっても優しい
大学教授でありながら気さくな人柄のカーンさんのもとには、さまざまな人が集まる。日本の友人もたくさんいた。わたしが東京の出身で大分で1人暮らしをしていると言うと、心配して会うたびに声をかけてくれた。
「ごはんはちゃんと食べてますか?」
「東京の家には最近、帰りましたか?」
ときどきモスクの仲間が作るカレーを振る舞ってくれたりもした。
カーンさんの紹介で、地元のムスリムの催しを取材させてもらうこともあった。
次から次にふってくる業務に、何もかも投げ出したくなるようなことも多い中、カーンさんに会ってことばを交わしたり食事をしたりすることは、私の癒やしにもなっていた。
「お墓がない」と言われても…
出会って数ヶ月。その日は取材のお礼を兼ねてモスクを訪れた。カーンさんはいつものように笑顔でチャイを入れてくれたが、しばらくして神妙な表情でこう切り出した。
この前は取材をしてくれて、ありがとうございました。でもね、じつはもっと取材をしてほしいことがあるんですよ
少々緊張して身構えたが、出てきた言葉は予想外だった。
実は私たち、お墓がなくて困ってるんです。このことを日本の人たちに伝えて下さい
お墓…?
イスラム教では誰かが亡くなったとき、遺体をそのまま土に埋める“土葬”をしなければならないという。諸説あるが聖典「コーラン」に「死後の復活」に関する記述があり、蘇るときに肉体が必要ということらしい。
ただ日本では土葬できる場所が限られ、特に西日本にはほとんどないというのだ。
日本に住んでいて、一番心配なことです
カーンさんのことばに正直、まったくピンと来なかった。
「お墓がない」はニュースなの?
ことばの壁とか食事の問題とか、外国に暮らしていたら困ることはたくさんあるはずだ。
カーンさんはまだ50代。特に体に悪いところはないみたいだし、日本に一緒に暮らすご家族もみなさんもいたって元気だ。モスクに通う人たちは留学生を中心に若い世代が多いし、今すぐお墓が必要な人がいるとは思えない。
そのときは「ちょっと考えてみますね」と言うのが精一杯で、上司のデスクからは「気になるなら取材してみたら?」とも言われたが、日々の忙しさにかまけてそのまま数ヶ月放置してしまった。
お墓について何も知らなかった
ようやくお墓について調べ始めると、知らないことばかりだった。
まず日本では99.9%以上が火葬だが、土葬が法律で禁じられているわけではないこと。
「墓地、埋葬等に関する法律」では「埋葬とは、死体を土中に葬ることをいう」とされ、土葬も想定されてはいる。自治体の許可を受ければ可能だが、自治体によっては条例で土葬を禁じているところもある。
そもそも日本で土葬の歴史は古く、埋葬文化の専門家によれば少なくとも縄文時代には土葬が行われていたという。昭和に入っても山間部を中心に行われていた地域があった。
実際いくつかの地域では土葬の風習が今も残っていて、厚生労働省の最新の調査では令和元年度に土葬された人は119人となっている。
しかしイスラム教徒の土葬を広く受け入れている墓地は極めて少ない。過去の新聞記事をあさり、全国各地のモスクに問い合わせて調べたが、わかった場所は10か所未満で、神戸市より西にはなかった。
じゃあ九州とかで亡くなったイスラム教徒はどうするの?
外国籍の人の場合、遺体に腐敗防止の処理をしたうえで母国に空輸することもあるらしいが、費用は高額だ。アフガニスタンに遺体を輸送するのに200万円もかかったケースもあったという。そのため多くのイスラム教徒はやむなく車で、関東や関西の墓地まで遺体を運ぶのだという。
九州から関東まで、車で遺体を運ぶ…?そんなことある?
その人は我が子を運んだ
私はカーンさんから紹介されて、福岡市に住むイスラム教徒の男性を訪れた。
男性はカーンさんと同じパキスタンの出身で、18年前に来日した。13年前、妻が妊娠したが妊娠7ヶ月の時に流産してしまい、待望の我が子を抱き上げることはできなかった。
けれど大変なのはそこからだった。例え胎児でもイスラムの教えでは土葬しなければならない。
そのときのことを男性は簡単な日本語と英語を交えて話してくれた。
どこに埋めてあげたらいいか、全くわからなかった。車でね、こっちから、山口、広島、岡山、大阪、京都、名古屋、すごい遠いね、大変ね
わが子を亡くしたこれ以上ないつらい状況の中で、探しても探しても見つからない埋葬場所。昔の友人のつてでようやく見つかったのは、1000キロあまり離れた山梨県の墓地だった。
飛行機や新幹線で遺体を運ぶわけにもいかず、仲間と交代で夜通し運転して、山梨県の墓地に辿り着くまで15時間かかったという。
わたしは1年ほど前に祖母を亡くしたときのことを思い出した。
ずっと一緒の家で暮らし、私は祖母に甘えてばかりだった。90歳になっても、自分の服を毎日自分で洗濯するくらい元気だったが、ある朝、くも膜下出血で突然倒れてそのまま帰らぬ人となった。
家族は悲しみに暮れたが、今思えばお通夜、お葬式、火葬と順に進んでいく中で徐々に祖母の死に向き合うことができ、最後は感謝の気持ちを持って祖母を送り出すことができたと思う。お骨は実家の近所にある先祖代々のお墓に入った。
もし亡くなってから祖母のお墓を探しにいくなんてことになったら、きちんとお別れができただろうか。
生まれてくるはずだった家族を失った男性。それだけ遠いとお墓参りも大変だろう。そう思って問いかけると男性は力なく首を振りながらつぶやいた。
12年間、一度も行けていません。もう少し近くにお墓があれば…
男性の顔を見て、私は“お墓問題”を伝えようと決めた。
大切な人にしてあげられる最後のことだから
そのころカーンさんは「もう自分たちで土葬できる墓地を作るしかない」と決意し、動き始めていた。
どうすればお墓を作れるのか。大まかにいうと、以下のような手順が必要らしい。
1.自治体の条例に基づいて墓地を建設できる土地を確保する
2.近くの住民に計画を周知する
第一の関門だが、実はカーンさんは以前から地元の市役所に相談に行って、土葬ができる場所を一緒に探して欲しいと訴えていた。
この日も改めて役場を訪れたが…。
(市役所の担当課)
1つの宗教だけを取り上げてっていうのはなかなか行政としては難しいんです。庁内の関係課と話し合いながらアドバイスはしていきたいと思いますが…。
あてが外れ、カーンさんは「これからどうしましょうかね」とうなだれて役所から出てきた。その姿を見て思わず当初から気になっていた疑問が口をついて出た。
あの、土葬のお墓はすごく大変ですよね。火葬はどうしてもダメなんですか?
カーンさんはわたしの目をまっすぐ見て、ゆっくりと言った。
わたしたちの考え方では、亡くなった人を焼いてしまうのは、とても悪いことなんです。火葬はあなたたちのやり方ですが、私たちは、私たちのやり方でしたいんです
でも、どうしてそんなに頑張れるのですか。
埋葬は、誰かが亡くなったときに、その人のためにしてあげられる最後のことじゃないですか。そのあとは、どんなに大切な人であっても、もう何もできません。最後のことだから、ちゃんとしてあげたいんです。どんなに頑張っても作ります。
あ、私たちとおんなじなんだ。
イスラム教徒の人たちは遠くの国から来た、違う考え方を持つ人たち。そう思っていたけど、「大切な人の最期を見送りたい」という思いは私たちと何も変わらない。
こうした取材結果を「イスラム教徒のお墓がない」という6分ほどの企画にまとめて大分県域のニュースで放送すると、朝の全国ニュースでも放送が決まった。
「おはよう日本」の番組には、早朝の時間帯に全国の地方局で制作した企画を放送する枠がある。地方の若手記者にとっては、自分の取材した企画が“全国に伝える価値があるよ”と太鼓判を押してもらったようなものだ。
“お墓づくり”を追う取材が、前に進み始めた。
これはニュース!でも地域の声は…
取材を始めて数ヶ月。土地探しは難航すると思われたが、カーンさんはつてをたどって隣町の山奥に墓地を作れそうな土地を見つけ購入してきた。
その土地は別荘地として開発される予定だった広大な土地の一部で、近くには住宅も川もなく、町の条例で定められた条件を満たしている。
環境は静かそのもので、高速道路のインターチェンジから近いというアクセスの良さも、九州全域から困っているムスリムを受け入れたいというカーンさんの希望にぴったりだった。
「九州で初めてのイスラム教徒の墓地ができる」
これって聞いたことのないニュースじゃない?
よし、原稿を書くぞ、と気合いが入ったものの、事はそう簡単ではなかった。
墓地の予定地から3キロ離れた集落の人たちが“土葬の墓地を作らないでほしい”と訴えたのだ。
一体なぜ?
話を聞こうと訪れたのは、山あいの集落。くねくねとした山道を車で登っていくと、ひらけた土地にはきれいな田んぼが連なっていた。道沿いには牛舎も見える。農業や畜産業が盛んな地域のようだ。
地元の人たちからまず飛び出したのは、「土葬による水質への影響が心配だ」「ため池の水が悪くなったら困る。何かあってからでは遅い」という声だった。地元ではこの水を農業用水として田んぼに引いたり、家畜に与える飲み水に使ったりしているという。
さらに「近くで土葬していると知られたら、牛が売れなくなる」といった農業への風評被害を懸念する声も出た。確かに、突然この土地にやってきた人から「土葬の墓地を作りたい」と言われたらそれは戸惑うだろうし、住民たちが生業への影響などが心配になるのもわかる。
カーンさんもただ手をこまねいていたわけではなかった。「地元の人の理解を得なければ、墓地は作れない」と考え、集落をたびたび訪れていた。
墓地の周りをコンクリートで囲うなど対策を万全に講じる予定であることや、万が一何か問題が起きたらすぐに埋葬をやめることなどを繰り返し説明していた。
“生活に影響が出るかもしれない”という地元の人たちの意見と、やっとの思いで見つけた土地に念願の墓地を作りたいカーンさんの思い。お互いの心情や立場は分かりつつも、私はどのように表現すればいいのか非常に迷った。
私は双方のインタビューを盛り込んで“お墓問題”の第2弾を作り、再び6分間ほどの企画として放送した。たくさんの人にこの話について考えてもらって、少しでも状況がよくなればという思いだけだった。
“郷に入っては郷に従え”
集落の人たちの不安は強かった。約半年後、町議会に対して墓地の開設に反対する陳情書が出された。そこにはなじみのない土葬の墓地が作られることへの抵抗感も示されていた。
「地区とイスラム教に深い関係性がない状況下で、日本の文化になじんでいるとは言いがたい土葬墓地を開設する理由が見いだせない」という。
取材中、「郷に入っては郷に従え」ということばを何度も聞いた。
確かに異国の地で、生活のすべてを自分の国にいたときと同様に行うことは難しいかもしれない。一方で自分の納得できる方法で身近な人の最期を見送りたいというのは、人としてとても普遍的で根源的な感情であるとも思う。
陳情書が出されたことで町役場や町議会を巻き込んで議論が巻き起こると、一時はほかの新聞社やテレビ局も取材に集まり、問題に注目が集まった時期もあった。しかしそれはほんの一瞬。
その後、状況は膠着状態となり、カーンさんの“お墓づくり”は停滞。私の取材も当初の勢いを失っていった。
この取材テーマは注目されにくいのかな。もしかしたら大半の人はイスラム教徒のお墓のことなんて関心がないんじゃないか。
そんな疑念が頭をよぎることもあった。
埋葬するということ
そんな思いを大きく変えたのは取材を始めて2年ほどたったある日。休日に私が友人と食事でおしゃべりに花を咲かせていると携帯電話が鳴った。カーンさんからだ。
元気ですか?お休みの日に電話して、すみません
急にどうしたのだろう?
実は仲間が亡くなって、これから土葬するんです
福岡市に住む70代のイスラム教徒の日本人男性が、昨夜、亡くなったのだという。
亡くなったイスラム教徒を土葬する。それは2年間取材を続けてきても実際に見たことは一度もない光景だ。そう、「お墓がない」のだから。
とすると一体どこで?
カーンさんによると場所は山奥にあるキリスト教の修道院だそうだ。敷地内に修道士を埋葬するスペースがあり、ふだんは外部の人の受け入れは行っていないが、急を要するということで今回は正式に埋葬されるまでの間に限って特別にムスリムの土葬を許可してくれたのだという。
これを逃せば土葬に立ち会える機会はもう無いかもしない。取材に行かないという選択肢はない。
でもご遺族は見ず知らずのわたしが突然埋葬の場に訪れ、しかもカメラを回そうとするなんて、どう思うだろうか。カーンさんに問いかけると、「遺族には私から事情を伝えて、理解してもらいます。来られるならぜひお願いします」という返事だった。
友人に事情を話して別れると、小型のデジタルカメラと雨ガッパを引っつかんで出た。
2月の冷たい雨の日だった。
車で1人向かった先は、大分市から1時間はかかる山奥。山の上とあって、大分市内よりもさらに雨が激しく、風が強い。辿り着いたのは平らな原っぱのような、広場のような場所で、すでに何人かいた。
車を降りて近寄っていくと、40代ほどに見える夫婦と20代ほどの青年、小学生くらいの男の子、それに高齢の女性がたたずんでいる。彼らの前には白い木でできた、2メートルほどの長方形の棺が置かれていた。胸に緊張が走った。
あいさつをしているとカーンさんがやってきた。心なしか顔が疲れていた。仲間の訃報があったのは昨日の深夜。そこからほとんど寝ずに急いでお墓の確保に動いたのだという。その周りには仲間のムスリムの男性たち数人。みな雨で肩がびっしょり濡れていた。
そのとき、ガガガと重機が動く大きな音がした。見ると原っぱの遠くの方で、パワーショベルが穴を掘っている。
「今から、あの穴に棺を埋めます」
一行は原っぱの片隅に棺を運び、男性陣が、棺の底に長いひもを何本か渡した。その左右を引っ張ってつるし、穴の底にゆっくりとおろしていく。そして上からスコップで土をかぶせていった。
遺族は黙って、その様子をじっと見つめていた。
初めて見る光景に、わたしはただじっと息をのんでカメラを回し続けた。
やがて棺は土に埋まり、見えなくなった。カーンさんと仲間たち、そしてご遺族が穴を取り囲むように立ち、目を閉じて頭を垂れた。
そのお祈りは1分ほど続いただろうか。みなゆっくりとそれぞれ目を開けて、埋葬は終わった。
亡くなった男性の娘だという女性に声をかけた。
埋葬ができて、本当によかったです。お墓が見つからなかったらどうしようかと、とても不安だったので。亡くなった父も、喜んでいると思います
彼女の中では家族が亡くなった悲しみと同じくらい、故人をきちんと葬ることができたという安堵の気持ちが大きいようだった。その様子を見て、自分の中で何かがストンと落ちていく感覚があった。
私たちと同じように、日本に暮らすムスリムの人たちもいつか亡くなる。それは10年、20年先かもしれないし、今日か明日かもしれない。
その日に、無事に家族や仲間が眠ることができる場所があるのか、みんな不安を抱えている。
“死”がやってきてからでは遅いのだ。
これは多くの人から注目を集めるニュースではないかもしれない。もっと話題を集める取材テーマが世の中にはたくさんあるかもしれない。
でもせめてわたしだけでもこの人たちの悩みに寄り添って、向き合って、その声を伝えていく。
もう、ぶれない。
これは、私たちの問題なんだ
その後も取材を進めて聞こえてきたのは、全国のムスリムたちの悲痛な思いだった。富山や新潟、鹿児島など、「うちも墓地を作る土地を探しているんだ」という声が次々あがった。
こうした声はますます広がっても不思議ではない。早稲田大学の店田廣文名誉教授の推計によれば、日本に暮らすムスリムの数は2019年末の時点で23万人。これは10年前の約2倍で、主な理由としてはやはり外国人留学生や技能実習生が増加しているという。
一方で土葬の墓地を新たに作ることができたというケースも見つかった。広島県の三原市では、地元のムスリムの団体が仏教の宗教法人が経営していた墓地の一角を買い取り、そこの住職に頼んで自治体に土葬もできるよう許可を出してもらったという。
さらに1キロほど先の集落の住民への説明も住職が代行し、家を1軒1軒回って理解を求めてくれたおかげで、これまで大きな反対の声は上がっていないそうだ。
ただこのような動きは稀で、多くの地域ではムスリムたちの努力や運だけに任されているのが現状だ。
問題はムスリムだけにとどまらない。今や日本で暮らす外国人が約290万人となり、サービス業から一次産業に至るまで外国人の労働力抜きで今の私たちの生活は成り立たない。にもかかわらずお墓という足下の問題は遠いこととされ、これまで放置されてきてしまった。
私自身、そのことに気がつかなかったひとりだったのだ。
遠い国の話ではなく
結果的に“お墓問題”はとても多くの人に伝える機会に恵まれた。
一度は挑戦してみたいと思っていた「クローズアップ現代+」で特集できたり、「NHKワールド」という英語のチャンネルで、遠く知らない国の人にも届けられたり。
お墓に入れない… 日本で最期を迎える外国人たち - NHK クローズアップ現代+(2021年7月21日放送)
一方で肝心の大分での“お墓づくり”は、今も解決に至っていない。カーンさんが大分に購入した土地での墓地開設の計画は宙に浮いたままだ。
「場所にはこだわっていません。どこでもいいから、お墓が必要なんです」
町にそう訴え、あきらめずに代替案を模索し続けている。新しい土地を探して購入し、一から手続きを行うのは、金銭面や労力を考えると現実的ではないからだ。
カーンさんは去年6月、大分からはるばる霞ヶ関の厚生労働省を訪れ、全国の墓地を管轄する担当者に陳情書を提出した。
内容は「全国の都道府県の公営墓地に、土葬ができる区画を1か所ずつでも設けてほしい」というもの。
「イスラム教徒だけでなく、ほかの宗教や文化を守っている人のためにも役立つことだと思います」
日本語で自らの思いを国に伝えていた。
陳情を終えたカーンさんはこう話してくれた。
今までは誰も知らなかったんですよ。でも確かにこの問題があります。私たちだけの問題ではありません。イスラム教以外の他のいろいろな文化とか、それを守っている人たちの問題でもあります。だから、私も頑張ります。頑張ります…
それから半年以上がたった今も、国の動きは残念ながら見えていない。けれど深刻さは刻一刻と増しつつある。
どうすれば誰もが納得するかたちで、ムスリムの人たちが安心して埋葬できる場所を確保できるのだろうか?
この問いは現在進行形だ。
この国が、この社会が多様化し、世界に開かれていく中で、これから全国各地どこでも同じような問題が起きてくるのではないかと思う。ときに文化と文化がぶつかるかもしれない。
そこに答えを出すのは難しい。
けれど難しいからといって、応えなくて良いということにはならない。
これはどこか遠くの知らない国の話ではなく、私たちの足下で起きている現実なのだから。
大室 奈津美 大分放送局記者
2017年入局、東京都出身。行政担当として、大分県や湯のまち・別府市が抱える課題を取材しながら、“お墓問題”を追い続ける。印象に残っている取材は、ひきこもりの息子を持つ母親へのインタビューや、太平洋戦争時に墜落した戦闘機の残骸を探す男性の特集。取材相手が本音を打ち明けたくなる記者を目指したい。大分で好きな景色は、国道10号線から望む青い別府湾と、四季折々の美しい姿を見せる“くじゅう連山”。お気に入りの温泉は、肌なじみの良い飴色の“モール泉”。
【大室記者の取材はこちら】
来日30年で顕在化 日系ブラジル人の墓問題 - クローズアップ現代+(2021年7月21日放送)