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先生じゃなく記者として・・・福島の子どもたちに伝えたいこと

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私が記者の仕事に就いたのは2006年の春。「たまたま」記者になっただけでしたが、今も福島で記者の仕事を続けています。

「福島の人間として、福島のいまを伝えたい」

ことばにするのは簡単ですが、そんな生やさしいものではありませんでした。

その取材は誰のために?何のために?この11年間、常に頭から離れず、常に問い続けています。

業務委託の民間通報員

福島生まれ、福島育ちの私。もともと学校の先生を目指していました。中学生の頃からの夢でした。

大学を卒業後は、福島県内の4つの中学校で教壇に立ち、バスケットボール部を指導して東北大会に出場したこともあります。生徒たちが優秀だったのです。

1998年8月 バスケ東北大会

しかし肝心の教員採用試験は毎年、不合格でした。

講師の仕事も毎年ありつけるわけではありませんでした。30歳を過ぎて夢をあきらめかけていたときにたまたま紹介されたのが、NHK。南相馬報道室の「民間通報員」になりました。

「民間通報員」、聞き慣れないことばですが、地域の身近なニュースを取材する仕事です。原稿も書くしカメラも自分で回します。契約は業務委託。ニュースを放送に出し続けなければ、生活が成り立ちません。

プロサーファーを目指す男性、相撲部屋の夏合宿、伝統の相馬野馬追。土日祝日関係なくネタを探し回っていました。

2007年7月 相馬野馬追

このときは記者という仕事をいつまで続けていくのか、自分でも分からずにいました。

2011年 取材者として5年目のとき

NHKの仕事を始めて5年目の2011年には学校や子どもたちを取材することが増えていました。

1月。浪江町の名物「なみえ焼きそば」をPRする地元の小中学生たちのご当地アイドルを取材して、全国向けのニュースで放送。

当時、私はスタジオで解説し、東京のアナウンサーに「自分たちが生まれ育った町を好きになることが、本当の町おこしにつながるのではないかと思いました」と取材の感想を伝えていました。

2月。高校生たちの就職活動が厳しいと聞いていたので少しでもヒントになればと、就職活動に力を入れる高校の取り組みに密着し、特集で放送。

生徒の希望する進路を実現していくためには、常に新しい情報を集めて指導方法を改善していく取り組みが必要だと訴えました。

そして3月。60年の歴史に幕を閉じる川内村の高校の卒業式を取材。これまでの卒業生や地元の人たちも加わって、学校の最後を惜しむ姿を放送し、映像として残しました。そして3月11日…。

「間一髪」だった

2011年3月11日。その日は南相馬市で事件の取材をしていました。
取材はまったく進展せず、車の中でパンをかじっていたときです。

突然の揺れ。1分…2分…。収まるどころかどんどん激しくなっていく。

カメラを持って電柱が揺れる様子、店のガラスが割れる様子、いわゆる「揺れ雑感」の映像を撮っていました。撮りながら自分で何を思っていたのか、はっきり覚えてはいません。

その後、海を見下ろすことができる高台の公園を目指しました。
(もちろんこれは明らかに間違った行動です)

海岸まで数百mの交差点。道路脇には消防団の詰め所があり、男性が1人で立っていました。その姿を横目に交差点を曲がり進んでいくと、目の前に飛び込んできたのは数百m先の海水浴場の松林を飲み込もうとする黒い壁。慌てて車をUターンさせます。間一髪でした。

2011年3月11日 橋本記者撮影 正面に見えるのは原町火力発電所

10秒か数秒か違っていれば、私は命を落としていたでしょう。 その時、たまたまいた場所が高台だったので助かっただけです。しかし来た道を戻ると反対側でも猛然と濁流が流れていました。

反対側の交差点もがれきの山に

さっき曲がった交差点の信号機の電気は消え、がれきに埋もれていました。消防団の詰め所も、どこにあるのかさえ分かりませんでした。

コートを差し出すことしかできなかった

高台には1時間ほどいたでしょうか。安全な道路に出られる場所を探して藪の中を進むと、中年の夫婦と出会いました。

眼下には泥やがれきが流れ込んだ家。男性は片足がはだしで、女性は上着を着ていませんでした。あの日、福島県の沿岸部の浜通りでは、珍しく雪が降っていました。

私は女性に着ていたコートを差し出して「気をつけて」と声をかけ、市役所を目指しました。

そのとき着ていたコート

記者なら、その夫婦にインタビューするべきだったと思いますが、当時の私にはできませんでした。

たった今、命からがら…そんな2人に「取材」することはできず、「気をつけて」と言うのが精一杯でした。

南相馬市役所にたどりついても、誰に何を聞いても明確な情報がありません。自分の目で見たことを、原稿にするしかありません。

当時の原稿より
「火力発電所のある北泉海岸では住宅の2階付近まである高さの津波が押し寄せ、周辺の住宅数棟が海水に飲み込まれました。地元の住民は高台にある道路などに避難しています」

市役所のロビーに貼り出される被害状況をメモに取って、公衆電話で局内へ伝えました。それしかできませんでした。

当時の原稿
「沿岸部にある福島県新地町役場によりますと、沿岸にはある5つの地区には500世帯余りあるということですが、その多くが津波で流されたと言うことです。しかし、現場に近づくことができないため、詳しい状況は分かっていないということです。津波は海岸から1キロほど離れた役場まで押し寄せたということです。新地町では市内全域に避難指示を出すとともに町内の3つの小学校と役場の3階を避難所に開放しているということです」

そのときの原稿をいま読み返すと、局内の混乱ぶりがうかがえます。
「沿岸にはある5つの地区」と誤字があるし、町なのに「市内全域に避難勧告」となっているし。

行政もNHK局内も混乱のきわみでした。

思わず撮影した「親子の手」

3月12日。南相馬市の小高区で被害が大きいと聞いて、取材に向かいました。海岸まで開けた平地を通る国道の脇には、流されてきた車が転がり、がれきが散乱。とにかく、その場から見えるものを撮影していました。

商業高校で自衛隊ヘリが海岸地区から救助した人を降ろしていると聞き、取材に向かいました。

2011年3月12日 救助の自衛隊ヘリ

グラウンドでヘリの誘導をしているのは地元の消防隊員。近づいて話しかけると、隊員は泣いていました。

「助けようと胸まで泥につかって活動したが、助けられなかった。何のために訓練してきたのか…」

私は何も言うことができません。カメラを向けることもできませんでした。

自衛隊ヘリは海岸とグラウンドを何度も往復して、住民を次々に降ろしていきます。

中年の男性がヘリから降り立つと、数人の女性が舞い上がる砂埃の中を走って近づき、抱き合います。

「助かったんだよ」

家族だったのでしょう。男性も女性も涙を流していました。

聞けば男性の自宅は海岸からすぐ近い集落にありましたが、津波で壊滅。神社や墓地がある高台に逃げた住民たちは、壊れた神社の木材などでたき火をたいて夜を明かしたと言います。

津波による被害、その様子がようやく少しずつ自分にも理解できました。

家族の車へ向かって歩く男性。娘は家族の絆を確かめるように、自分の子どもの手をグッと力強くつなぎながら歩いていきました。

強く握られた親子の手

その手に、私は自然にカメラのレンズを向けていました。

「絶望的な映像ばかりが送られてくる中で唯一の救いの映像だった」

当時の映像編集デスクのことばがなぜか印象に残っています。

原発が爆発 突然の撤収連絡

3月12日午後3時36分。福島第一原発1号機で水素爆発が起きました。

私はちょうどそのころ、南相馬市内の避難所で中継を出すため取材していました。

すると中継車の無線で「車内で待機するように」という連絡。

しばらく待っていると、技術スタッフが私の乗る車の横へやってきます。

「福島局に撤収します。車列から離れないように」

理由は分からず、その場にいた全員が、福島局へ一斉に引き上げました。

原発が爆発するというこれまで経験したことがない事態に直面し、放射性物質が漏れ出た状況やどれくらい漏れたかなど、詳しい情報は何も分かりません。みんなどうすればいいか分からなかったのです。

現場に出て被害状況を取材する、被災者に必要な情報を伝える。真っ先にやらなければならないと思っていたことができなくなってしまいました。

震災後、福島局にも東京や全国各地の放送局から記者やカメラマンが何人も応援に入ってきました。しかし福島第一原発は12日の1号機に続いて14日には3号機も爆発。原発周辺には避難指示が出されます。

誰もが現場に行けず、座るスペースもない局内で、ただひたすらつながりにくい電話で取材をするしかありませんでした。

取材に出かけたとしても風向きが悪いと撤収させられ、何もしないで帰ってくる。毎日、毎日、自分は何をやっているのだろう?そればかり考えていました。

何を今さら…震災17日後に見た現場

現場へ戻りたい。デスクに何度も頼み、ようやく現場の取材に出たのは、震災から17日後の3月28日でした。

南相馬市の中心部は原発から30キロ圏内で、屋内待避の指示が出ています。

そのため、向かったのは相馬市の沿岸部。漁業の取材で何度も足を運んでいた港町でした。しかし現場に着くと、いつもの道がありません。

2011年3月28日 相馬市松川漁港

何度もお邪魔した水産会社の工場もない。

漁港から南へ細長く続く集落が、家が一軒もない。

隣の新地町へ向かうと、駅には「く」の字に折れ曲がった列車と、地面から剥がれたレール。周りにはがれきがうずたかく積まれたままです。

2011年3月28日 JR新地駅

発災から2週間以上もたって、ようやく書いた現場取材の原稿。その最後はこうしめくくられていました。

「復旧活動が進むにつれて、福島県の沿岸部でも津波が残した爪痕の深さが次第に明らかになってきています」

何を今さら…。

言い訳のようなコメントですが、それ以外にことばが見つからなかったのです。

「寄り添う」って何だろう

震災発生から2年間は、原発事故による被害や影響などに関わる取材が中心でした。

「宮城と岩手は津波の被害が伝えられるのに、福島は原発事故ばかり」

仮設住宅で被災者に話を聞いていると、そんなことばをかけられることも何度もありました。

津波の遺族の声もきちんと伝えなければ。

私が初めて遺族の取材をしたのは、2013年3月でした。南相馬市で津波で亡くなった当時小学4年生の女の子の父親に、小学校から卒業証書が贈られたときです。

学校を通じて父親と連絡をとり、卒業式の前日、彼が避難生活を送る家を訪ねました。

玄関先で挨拶し、撮影の了解をもらってカメラを回しながら廊下を進んでいきます。

息をのみました。8畳ほどの和室二間を開放した部屋の中心に、大きな祭壇がありました。

そこには6人の遺影と遺骨が並んでいました。その父親は、7人家族のうちの6人、家族全員を亡くしていました。

農家で働き者の両親。学生時代に知り合った妻。志望する大学へ合格し入学を控えていた長男。工業高等専門学校で頑張っていた次男。そして9歳で亡くなった末っ子の長女。

なぜ取材を受けてくれたのか、彼はその理由を教えてくれました。

娘はたった9年しか生きられなかった。娘の存在を知る人は少ない。娘は確かに生きていた、その証を残してあげたい。

娘の「生きた証」を世の中に残したい。そのためだけに、彼は、その一回だけ、取材を受けることを決めたというのです。

父親は、他の子どもたちに気を遣わせないようにと卒業式には参加せず、すべての児童が下校した後で学校を訪れました。長女が受け取るはずだった卒業証書を教室で受けとりました。

机に他の家族の写真を並べ、娘の成長を楽しみにしていた家族全員で見守ります。

「小学校の全課程を終了したことを証する」

娘に手渡された卒業証書

「・・・・・・おめでとう」

父親はそう言いながら、号泣していました。取材していた私も。

リポートを放送後、何度か彼の家を訪れ、時にはプロ野球中継を見ながら深夜まで酒を酌み交わしたこともありました。放送への感謝のことばもいただきました。

一方で買い物をしているときに知らない人から「テレビで見た」とか「大変ですね」などと声をかけられるようになり困っている、と言われたこともありました。

被災地・被災者に「寄り添う」ということばがよく使われます。

私は放送を通じて多くの人たちが彼のような立場の人たちに思いを寄せ、そのメッセージが届けば、ほんの少しでも気持ちの支えになるのではないかと、勝手に思っていました。

でも彼は自分自身への同情や共感を求めていたわけではなかったのかもしれません。

大きな災害が起きると、亡くなった人と遺族のことがニュースで伝えられます。命の大切さを伝える。失われた命を無駄にしない。被災者に寄り添う。

取材をするときに本当に必要なのは何なのだろう。今も考え続けていますが、はっきりした答えを出せずにいます。

そして私は取材を取りやめた

こんな出来事もありました。2019年の秋、ある女性を取材した時のことです。女性は、震災当時は南相馬市に住む小学5年生。津波で父親を亡くしていました。

彼女のことを初めて知ったのは2012年の秋。震災の前に防災の取材でお世話になった、南相馬市の沿岸地区の行政区長が彼女の大叔父で、「親戚の娘のために力を貸して欲しい」といわれたのです。

聞けば彼女は漁師だった父を亡くし、家も流されてしまって形見も何もない。震災の前の年に漁の安全を願う作文を書いて海上保安部のコンテストで入賞した、その表彰状を再発行してほしいという話でした。

私は福島海上保安部や宮城県の第二管区海上保安本部に問い合わせ、表彰状が再発行できることを確認。大叔父から承った事情を話して、彼女に届けるようお願いしました。

ただ私も記者です。取材したい…。大叔父を通じて彼女と彼女の母親に気持ちを聞いてもらいました。

しかしそれはかないませんでした。自分が彼女の母親の立場だったら、同じように難色を示したかもしれません。

それから7年後の2019年。県外での勤務などを経て再び福島局に戻ってきた私は、一度も会うことがなかった彼女のことを考えていました。

「もうすぐ成人式を迎える年齢だったはず・・・」

被災した直後は何も話さなかった人が、時間がたって当時のことを語り始める。当時は幼かった子どもが震災の経験を振り返る。震災から8年、9年ともなると、そんなニュースも伝えられるようになっていました。

母親に連絡をとり、彼女と初めて電話で話すと、意外にもあっさりと面会に応じてくれました。私のことを覚えているとは思わなかったので、電話であのことも聞いてみました。

「海上保安部の表彰状は届きましたか?」

「いいえ」

・・・届いていない?なぜ?

電話のあと、慌てて第二管区海上保安本部に問い合わせると、当時の経緯を覚えている職員が残っていて、話はすぐに通じました。どうやら彼女の住所が正確に分からず、届けることができなかったようでした。

(私がきちんと伝えていなかったのが悪かったのです)

再度、制作をお願いして、現在の彼女の住所に郵送で届けてもらうことにしました。

11月末。

面会の待ち合わせ場所に現れたのは、20歳になった凛とした瞳の女性でした。彼女がアルバイトを終えた後で、すでにあたりは暗くなっていたため、話をしたのは短い時間でしたが、亡くなった父親への思いや家族の思い、たくさんのことを教えてくれました。

怒ると怖いけれど、オンとオフがはっきりしていた…私も父のようになりたい。
震災のあと、母に誕生日プレゼントを渡したとき、震災後、初めて笑ってくれた。将来は人を笑顔にする仕事につきたいと思った。

その後も何度か取材を重ね、年末も押し迫ったある日、彼女の母親も同席で成人式の日のロケの相談をしました。当日は何時に美容室を予約しているのか。会場まではどうやって行くのか。父親の写真は・・・。

すると、母親が不安げな表情で彼女にことばをかけました。

「本当にいいの?嫌ならはっきり言わないと橋本さん困るよ?」

えっ、どういうことだろう?
詳しい理由を聞いて、私は改めて思い知らされました。彼女たちが、目には見えない苦しみを抱え続けていることを。

3月が近づくと父が夢に現れて心が落ち着かないこと。
同級生に肉親を亡くした友人がおらず、友人との距離を置いた時期があったこと。
20歳になった今、通っている専門学校では被災者であることを周囲に打ち明けていないこと。

「自分でもなぜかは分からない」

彼女はそう話していました。

成人式が目の前に迫った2020年の年明け、取材の断りの連絡を受けました。

無理強いすることはできないと分かってはいても、取材をあきらめきれず、なんとか「説得」しようとする私。すると母親がひと言。

「伝えてもらわなくていいんです。私たちは家族のことを一日も忘れることはありませんから」

わたしはそれ以上、何も言うことができませんでした。取材は取りやめました。

「節目」って何だろう

去年の3月11日。震災10年の節目。メディアは特番を組んで、東日本大震災について手厚く伝えていました。

私はその日、南相馬市の沿岸で、祈りをささげる女性の姿を取材していました。

10年前の津波で、成人式を迎えたばかりの長男を亡くした彼女。「私の人生のすべてだった」といいます。

それでも彼女は芯の強い人でした。震災の5年後には新地町に移り住み、自分の手でカフェを開いたのです。これまで私の取材にも何度も応えてくれました。

ただそんな彼女にも、震災10年のタイミングでの取材は一度、断られていました。

「ようやく落ち着いてきたところだから目立ちたくない。静かにカフェを続けられればそれでいい」

彼女は10年かけてそこまで来た。簡単なことではありません。やっとの思いで、新しい暮らし、落ち着いた暮らしを取り戻した。それは決してメディアを通して、他人に伝えるためにやっているわけではないのです。

ところが3月10日、彼女から連絡がありました。

「明日、自宅跡地に行きますから、良かったらどうぞ」

「でも…いいんですか?」

「今まで応援してくれたのに、これで終わりにしてはいけないと思った」

3月11日午後2時46分。地震の発生時刻に合わせて南相馬市の自宅跡地で祈る姿を、少し離れたところから撮影させていただきました。

2021年3月11日 午後2時46分に祈る女性

震災の節目だから伝えなくちゃ、3月11日だから伝えなくちゃ。

でも被災した人たち、そこで暮らす人たちは、その後も生活が続いています。一面だけが切り取られて伝わることがないようにしたい。そんなことを心がけています。

福島の姿を伝えたい

私は福島で生まれ育ちました。

そもそも福島はどんな所だったのか思い出してみると、「フルーツ王国」を名乗ってはいるけれど、モモ、ナシ、リンゴ、全国有数の生産量ではあっても全国一ではありません。

若いころ旅行先で出会った人と話すと
「どこから来た?」
「福島です」
「どこ?」
「仙台の南です」
「ああ、その辺ね」

その程度といってはなんですが、その程度だったと思います。

それが震災と原発事故によって福島は世界に名が知られるようになった。なってしまいました。

全国ニュースで、海外メディアで福島が伝えられるときのキーワードは「原発事故」や「放射線」

そのイメージが強くなってしまいました。

ただ私にとっての福島は「毎日が穏やか」な場所でした。

南相馬報道室で民間通報員として働いていたときに年に数回、足を運んでいたのが「双葉バラ園」です。

双葉バラ園

原発が立地する双葉町にあった、全国でも有数の美しいバラ園の社長の奥様はいつも電話で「橋本さん、そろそろ見ごろよ」と取材のお誘いをして下さいました。

漁港に取材にいけば、浜の女性が水揚げしたばかりの「シラウオ」をひとつかみ、袋に入れて「持ってけ!」と渡してくれる。それが私にとっての福島でした。

バラ園がある地域は原発事故で避難指示を受けて、今も自由に立ち入りできません。

震災から2年後の2014年、私はNHKの中途採用試験を受験して、40歳で「民間通報員」から、職員の「記者」になりました。

当時考えていた理由はいたってシンプル。地元の人間として福島の姿を伝えたいと思ったから、それだけでした。

等身大の自分でいいんだよ

県内の中学校で臨時教員として働いていたのはもう四半世紀も前のことですが、もともと教員を目指した者として特に気になるのはやはり子どもたちです。

原発事故には、さまざまな被害の形があります。長期の避難生活、なりわいの喪失、家族や友人との別れ。それでも多くの人は置かれた状況の中で生活を再建しようとしています。

ただ子どもたちは自分の意思では住む場所も何も決められない、大人について行くしかない弱い存在です。

震災当時、幼かった子どもたちにとって、避難生活が長くなるにつれて避難先は避難先でなく、そこが自分の居場所となっていきます。県外へ移住することを決めた家庭もあり、自分の意思とは関係なく別れを経験した子どもたちも少なくありません。

それでも子どもたちを取材すると、みんな口々に「復興の役に立ちたい」とか「地元を盛り上げたい」などと話し、私もそれを前向きなことばとしてニュースで伝えていました。

しかし事故を起こした原発に立地する大熊町の小学生の男の子を取材するうちに、私の考えは少しずつ変わっていきました。

彼は原発事故が起きたときは小学2年生。私が最初に彼に会ったのは、6年生の春でした。当時の大熊町は、町役場も学校も、県内の会津若松市に避難していました。

彼も家族で会津若松市に避難し、そこで町の学校に通い、ふるさとの友達と一緒に楽しそうに学校生活を送っていました。

会津若松市にある大熊町仮校舎での授業

楽しそう、そう見えました。

ところが卒業後は会津若松市の中学校に進むといいます。大熊町への「帰還」ができるのかどうか、当時は見通しが立っておらず、この先も会津若松市に住み続けるなら、市内の高校に進学するなら、市内の中学校で勉強した方がいい。家族の判断でした。

中学校の入試説明会を終えたあと、カメラが回る前で彼は母親に自分の本当の気持ちを打ち明けました。

男の子「本音言うと小学2年生からやり直して、学校もそのまま大熊中に行って、そのあと3年間も仲良くやりたかった」

母親「 大熊町の土地に戻りたい?」

男の子「うん」

母親「何十年かかっても?」

男の子「うん」

母親「それは初めて聞きました」

子どもたちは避難生活に苦労しながら自分を育ててくれる親の背中を見続けてきました。言いたくても言えない。そういうこともたくさんあったでしょう。

子どもなりに悲しさや寂しさを飲み込んで、元気な顔を見せているのかもしれない。大人が少しでも喜んでくれることを考えて、「復興の役に立ちたい」と話していたのかもしれない。

子ども自身が土地や家を失ったりなりわいを失ったりするのではなくても、子どもたちは紛れもなく原発事故の被災者だと、そのときはっきりと思いました。

おととしの春、私は高校三年生になった彼と再会しました。

高校球児として甲子園を目指す姿。自分の将来、ふるさとの町との関わりに悩む姿。

18歳の少年の、ありのままの姿を伝えたいと思い、再び取材をお願いしました。

もちろんふるさとは大切にして欲しいものですが、子どもたちの人生は子どもたち自身のもの。1回しかない人生を自分のために生きてほしい。

彼の取材をもとに去年3月に書いた記事には、「等身大の自分でいいんだよ」という私からのメッセージも記しました。

ふるさと背負わなくても~福島 大熊町の少年の10年(2020年6月放送)

記事の掲載から数日後、ちょっとうれしい出来事がありました。
NHK福島放送局に1枚の絵はがきが届いたのです。

差出人の名前はありませんが、文面から、きっと福島出身の若者なのだろうと思います。

絵はがきの裏側は菜の花でした

届いた手紙より
「電車の中で読みました。何度も読みました。大学は神奈川県にある学部を選び、すっかりこちらの生活に慣れてしまいました。ニュースでまだまだ苦しんでいられる人を見ると自分はこれで良いのか心が苦しくなるばかりです。天気予報で福島方面に太陽のマークが出ているとホッとします。『自分のために生きて欲しい』背中を押された気持ちでこれを書いています」

伝えるのは誰のため?何のため?その答えを、一つ、教えてもらえたような気がしました。

現在、取材を担当しているのは、事故を起こした原発が立地する大熊町。今も町の6割は避難指示が出ています。

取材する内容は、必ずしも地元の方々にとってうれしい内容ばかりではありません。

この春には6割のうち、ほんの一部で避難指示が解除され、本格的な復興がようやく始まります。月並みな言い方ですが「課題は山積み」です。

またことしも3月11日がやってきて、被災地に注目が集まります。

「放送を通じて復興に貢献する」

口で言うのは簡単ですが、町にとって、町の人たちにとって「山積みの課題」は、これから何十年もかけて超えていかなければならないものなのです。

福島県の人間として、福島の今を伝えたい。生やさしいことではありませんが、東日本大震災と原発事故の取材はこれからもずっと続いていく、いや、続けていかなければならないと思います。

たとえインタビューできなかったり、取材を断られたり、テレビ受けすることばを聞き出せなかったりしたとしても。

私は福島の記者として、誰のために、何のために取材するのか、伝えるのか。常に問い続けていきたいと思います。

 

橋本 央隆 福島放送局記者

女性に差し出したコートはその後、郵送で戻ってきました。

福島県福島市出身
大学卒業後4年間は福島県内で中学校講師
2006年からNHK南相馬報道室の民間通報員
2013年中途採用でNHK記者となる
2021年11月から福島県いわき市のいわき支局に勤務

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