2021年11月、私は9年ぶりに仙台局に戻ってきました。担当するのは「震災アンケート」。
NHKは東日本大震災の発生直後から、被災者を対象にした大規模アンケートを続けています。ことしもおよそ250人にご協力いただき、手紙形式でこの1年の暮らしや今の思いを聞かせてもらっています。
そこには被災地で暮らす一人ひとりの本音がつづられています。
あまりの被害の大きさから、死者数・行方不明者数など、数字で語られることが多い東日本大震災。ですが、
「数字じゃなくて人なんだ」
これが私が取材に向き合う原点です。
「なぜ止められなかったのか」
私は今回手紙をいただいた、津波で長男を亡くした石巻市の阿部信さんに会いにいきました。
この11年ほぼ毎日、かつて暮らしていた地域や海が一望できる日和山に通っているといいます。阿部さんはこの場所に来ると、とても落ち着くというと話し、長男や犠牲になった人たちに祈りをささげているそうです。
阿部さんが今でも悔やんでいることは、日和山へ避難する時にすれ違った幼稚園バスのこと。そのとき阿部さんはバスに向かって引き返すように必死で合図を送ったものの、伝わりませんでした。バスは津波にのみ込まれ、乗っていた園児たちが犠牲になりました。
「なぜ止めることができなかったのか。救えた命だったのではないか」
「自分のような思いは、この先、誰もしてほしくない」
阿部さんは日和山で出会う人、出会う人に話しかけ「地震が起きたら逃げる。そして戻らない」ということを伝え続けています。
一人ひとりに聞かないと分からない
NHKが震災直後から続けている被災者の方々へのアンケート。
最初は、震災発生から1週間後、各地の避難所で行いました。その後、2週間、1か月、3か月、半年、1年…
刻々と状況が変化するたびに、現状や今後の生活の見通し、復興に望むことなどを聞き続けてきました。
あまりに広範囲に被害が出て、死者・行方不明者も甚大な東日本大震災。津波や原発事故によって、もともと住んでいた地域を離れざるを得なくなった人も多く、年々被災した人たちの生活が見えづらくなっていきました。
復興の実像は、一人ひとりに聞かないと分からない。そんな思いで毎年、続けてきました。
これが現実に起きていることなのか
きっかけは震災直後の経験です。2011年3月11日、私は午前中に行われた公立中学校の卒業式の原稿を書き終え、担当していた宮城県警察本部の1階にいました。
突然、携帯電話から緊急地震速報のブザーが鳴り響きます。同時に激しい揺れ。地響きが聞こえ、電球が次々に落下。いまにも天井が落ちてくるのではと感じました。
すぐに警察本部の記者クラブに詰めて、災害対策本部に各地から伝えられる110番通報や無線の情報を入手し、一つ一つ原稿にしていきました。
「仙台市宮城野区岡田地区で、中学生くらいの子どもが津波に巻き込まれている」
「仙台港の南防波堤で、警察官と住民およそ20人が取り残されている」
「亘理町の海岸沿いの防波堤では、警察官と住民およそ10人が取り残されている」
「石巻市の内海橋付近で、行方不明者が多数出ている」
入ってくるのはどれも不確定な断片情報ばかりで、どこにどれだけ被害が出ているか、全体像はいっこうに見えません。
その後も古い警察署の崩壊や土砂崩れの生き埋め情報、スーパーでの釣り天井の落下など、入ってくるのは地震の被害です。
今振り返ると、すべてが押し流されてしまった津波の被害情報が入ってくるにはタイムラグがあったのです。
夜になると、津波の被害情報が次々と入ってきました。
「仙台市若林区荒浜1丁目から2丁目にかけて、おぼれて死亡したとみられる遺体が多数見つかった」
原稿を書いていても被害の大きさに実感がわきませんでした。
その後も津波被害の断片情報が次々ともたらされます。
南三陸町の警察署の浸水、石油コンビナートで火災、JR仙石線で脱線、屋上に避難した人からの救助要請。
これは現実に起きていることなのか。信じられない、どうか助かってほしい。
必死でした。一晩中書き続けていたことを覚えています。何本の原稿を書いたか、後日、数えたところ24時間で90本近くに上っていました。
ようやく起きたことを実感したのは夜が明けてヘリが上空から撮影した、水に沈んだ街の映像を見たときです。
数字じゃなくて人なんだ
全国から応援の記者たちが各地の現場に駆けつけてくれましたが、私はその後も県警本部で被害の原稿を書き続けました。
「3月12日午後1時現在 宮城県内では129人が死亡」
「3月13日午前9時現在 宮城県内では244人が死亡」
続々と増え続ける死者数。私は現場に行けない葛藤を抱きつつ、それぞれの役割があるんだと自分を無理やり納得させて、各地の死者と行方不明者の数を書き続けました。
衝撃だったのは1月13日、当時の県警本部長が対策本部会議で語ったことでした。
「(死者数が)ほぼ1万人単位に及ぶのは間違いない」
絶望感しかありませんでした。同時に報道機関で働くものとして、無力さを感じました。あまりに被害が甚大で、感覚がまひしていたような気がします。
※2022年2月時点で、宮城県内の死者は9544人、行方不明は1213人。(警察庁調べ)
その後実際に現場に出て被災地の現状を目の当たりにしたり、被災者の話を直接聞いたりするうちに、一人ひとりの人生の重みを痛感させられました。
「ただ、数字を伝えるだけじゃダメだ」
「数字じゃなくて人なんだ」
強く感じたことです。
たった1人だけでも
「数字じゃない」
そう意識したことは、県警担当を離れて県庁担当になってからもありました。
取材の中心は被災した自治体の復興計画です。なかでも津波で被害を受けた漁港をどう復旧するかに注目が集まり、私も議論の行方を追っていました。
震災前から後継者不足に悩まされてきた宮城県の基幹産業の漁業。
県は震災前にあった142の漁港すべてを復旧させると莫大な費用がかかるため、数を絞り込んで復旧させる方針を示しました。
漁業者からは反対の声があがりました。漁業を生業にしている人は職場と住居が近く、港が失われると生活にかかわる可能性がある、と。
さらに「特区」として民間資本も積極的に入れようとする宮城県と、これまでの生活を守りたい漁協側との間で駆け引きは続きました。
そして震災から1年後、私は取材で石巻市南部の蛤浜漁港を訪れました。そこは集約化によって、復旧しないことになった漁港です。
この漁港を使っていた男性は、隣の漁港で漁師を続けることにしたそうです。
「愛着のある港が復旧しないのはがっかりするが…私1人のために直してくれとは言えない」
復興計画作りに奔走する県の取材に時間を取られ、被災地に足を運ぶ機会が減っていた当時の私の胸に刺さることばでした。たった1人だけでも、その港にも被災者はいるのです。
復旧の道しるべとなる計画は必要でしょう。ただそこに暮らす人たちの声はきちんと県に届いているのか。机上の空論になっていないのか。
震災で傷ついた人が今度は行政からも見捨てられ、漁業をあきらめざるをえなくなるなんてことがあっては本末転倒です。
私自身、現場の声を自分はきちんと聞いて、ニュースを出していたのかとジレンマを感じました。
漁港集約はその後、漁業者の反発に配慮した形で、結局すべての漁港の復旧に落ち着きました。計画策定の段階で、県の調整不足が指摘されました。
「帰ってこなければよかった」
2012年夏、私は東京の社会部に異動し、警視庁担当になりました。捜査1課担当として事件の取材に追われましたが、震災から6年目の2017年に、自ら希望して被災者アンケートを担当しました。
4年半ぶりの被災地取材でした。まず訪れたのは石巻市の半島部にある雄勝地区です。津波の大きな被害を受けて、震災から6年が経とうとしていてもなお、防潮堤の建設や宅地の造成などのため、あちらこちらで重機が稼働していました。
まだこの段階なのか…
雄勝地区は震災後、人口は4分の1へと激減。集団移転先として整備された高台の団地も家はまばらでさみしい印象でした。
アンケートを寄せてくれた女性は、みんな戻ってくると思って高台の集落に自宅を再建しました。しかしもともと32世帯あったうち、当時戻ってきたのは8世帯だけ。いずれも高齢者ばかりです。
「6年経てばある程度町並みは完成すると思っていたが、一部が出来ているだけでとても寂しいです。買い物や交通も不便で、今後年を取って車を運転できなかったことを考えると不安で、帰ってこなければよかったと思います。過疎と高齢化が進むばかりで、いずれ町はなくなってしまうのではないかと思う」
女性の話を聞くとこれが思い描いていた復興なのかと、率直に感じました。
雄勝地区は平成の大合併で石巻市と合併した場所ですが、震災前から人口が減少し、過疎化が目立っていました。震災から6年たっても工事が続いている状態では、若い人たちが戻ってこられないのは当然という気がします。
未曾有の災害からの復旧という難しいミッションですが、そもそも工事の長期化による人口減少は想定されていたのでしょうか。目先のことだけではなく、この先、将来住み続ける人たちを思い描いて作られていたのでしょうか。
私が担当した震災6年の年のアンケートで地域の復興状況について尋ねたところ、「進んでいる実感がもてない」が26%、「想定よりも遅れている」が36%と、合わせて6割に達していました。
防潮堤の工事はそれからさらに5年経った2022年の今もなお続いています。戻ってきた人たちが安心して暮らせる場所になってほしいと思う一方で、実態に合わせた計画を進めてほしいと願わずにはいられません。
「ありがとうの声を聞くだけで」
2021年秋。私は異動で再び仙台局に戻ってきました。そこでは被災した人たちの前向きな姿も目にしました。
きっかけはNHKが震災の翌月から10年以上続けている、毎月11日の月命日の取材。遺族の思いや今取り組んでいることを紹介しています。
年が明けた1月11日の月命日に取材させていただいたのが、語り部として活動を始めた内海牧子さんでした。
内海さんは同居していた義理の娘の貴子さんを津波で亡くしました。貴子さんは一人娘の美夢さんを学校まで迎えに行く途中で津波に巻き込まれたとみられています。
「もっと生きたかったはず。『助けて』という暇もなくなったと思うとすごくつらいよね」
内海さんは美夢さんの成長を見届けることができなかった貴子さんの無念の思いを、涙ながらに話しました。
貴子さんが亡くなった後、内海さんは母親に代わって孫の美夢さんを育てました。その美夢さんは、おととしから保育士として東京で働いています。
自分と同じ保育士の道を選んだ孫のことを内海さんが誇らしげに話す姿がとても印象に残っています。そして「保育士になった姿を貴子さんに一番見せてあげたかった」ということばも。
元の場所に自宅を再建した内海さんは今、地域のひとり暮らしのお年寄りや経済的に苦しい家庭の支援を続けています。毎週、知り合いの農家から野菜の提供を受けて、無償で配布しています。
身近な人にいま自分ができることをすることが、震災直後に自宅の片づけを手伝ってくれたボランティアや自衛隊の人たちへの恩返しだと考えています。
「『助けてもらってありがとう』という声を1人2人から聞くだけで、恩返ししているといったらおこがましいんだけれど、そういう気持ちがありますね。高齢者の見守りは、続けていきたい。それが災害の時のお礼、恩返しがそれでいいじゃない」
11年前のあの日、被災地では大切な人や家を失った方々の悲しみが広がっていて、伝える私たちも苦しい思いでした。
あれから11年、もちろんみんなが同じではありませんが、他人のために力強く生きる内海さんの姿が頼もしく見えました。
復興は一人ひとりの生活の積み重ね
久しぶりに被災地に戻って感じたのは、街並みは変わっても抱える問題は変わらないということでした。被災した方からは「復興」ということばがあまり聞こえてこないと感じます。
震災10年を目指して住宅の再建は進められ、災害公営住宅もすべて完成。新たなまちもひととおり完成したようにみえます。
ただ被災者一人ひとりに取材すると、コミュニティが失われ災害公営住宅の中で高齢者が孤立していたり、亡くした家族のことを引きずっていたりする人が多いのも事実です。そしてコロナ禍は孤立に拍車をかけています。
そんななかでことしもNHKの「被災地からの手紙」におよそ250人の声を寄せていただきました。
津波のおそろしさ、すぐに逃げることなど命を守るための教訓を伝えたいという声をたくさんいただきました。
被災地の景色は変わり、震災を知らない世代も増えています。NHKが風化を止められるなどとおこがましいことは言えません。被災した一人ひとり置かれている状況も事情も異なります。
それを忘れずに一人ひとりに寄り添って取材していく。
復興は数字じゃなくて、そこで暮らす人の生活で、その先に復興がある。
そのことを忘れず伝え続けていくことが、私にできることではないかと強く感じています。
仙台放送局 記者 鈴木 隆平
2008年から2012年まで仙台放送局に勤務し、報道局社会部などを経て、2021年11月から再び仙台放送局勤務。