「ゾウの糞ってどれくらいでかいの?」
立花さんのことばで一番覚えているのはこれ。
当時大学の農学部生だった私は、研究室の関係で上野動物園でゾウの糞を洗うというバイトをしていた。
確か野生のゾウが植物の種をどれだけ遠くまで運ぶかを検証するべく、ゾウが木の実を食べた後、何時間後に糞に種が出てくるかを調べるという研究だったような・・・。
それでゾウの糞に入っている種を見つけ出すため、糞をひたすらシャワーで洗い出すというバイトだった。
それを立花ゼミのブログに書いたら、次に会ったとき立花さんから質問攻めに遭った。
「ゾウの糞ってどれくらいでかいの?」
「糞には何が入ってるの?」
「においはするの?」
他にもゾウの糞についてあれこれ聞かれた気がするけど、実は詳しく覚えてない。とにかく食いつき具合がすごくて、この人ホントになんでも知りたがるおじさんなんだなと思ったことを覚えている。
生涯に書いた本が100冊以上にのぼるジャーナリストの立花隆さんは、1年前の4月30日に亡くなった。
“知りたがりおじさん“のゼミで学んで、後にNHKのディレクターになった私たち2人の人生に、立花さんはとんでもないものを残していった。
「立花隆」ってスゴイの?
当時大学生だった私、(NHKディレクター・戸松あかり)にとって、おじさんたちにはこちらから教えを乞うのが通常スタイルだった。20歳の小娘の話を全身で興味をもって聞いてくれるおじさんにはあまり出くわしたことがなかったので、印象に残ったのだと思う。
東京大学の特任教授になった立花隆さんが始めたゼミ(通称・立花ゼミ)に参加したのは、まったくの成り行きだった。
仲のいい友達が4人、すでに立花ゼミに参加していろいろ楽しそうに活動していた。友達の話題に取り残されたくない、かつ一緒にワイワイやりたいという気持ちで、途中から参加した。
父親に立花ゼミに入ったと言ったら「立花隆はすごい。ロッキード事件のとき、あの人だけは書いて闘ったんだ」と何度も言ってたけど、生まれる前のことですごさがイマイチわからなかった。
ジブリの「耳をすませば」の父親の声の人と言われた方がピンとくるレベルだった。
でも立花さんの仕事場、通称・猫ビルに初めて入ったとき、どこもかしこも見渡す限り本棚で、その辺の机も本まみれな様子を見て(というか本しか見た記憶が無い)「あ、この人ほんとにぶっ飛んでるすごい人(※褒めことば)なのかも知れない」と、ちょっと思った。
ゆる~いゼミだけど
立花ゼミは当時、「すっごいわかりにくい科学の最先端分野をゼミ生が取材して、わかりすくウェブで伝えよう」という活動をしていた。
日本では世間の人たちの科学への関心が低いことを、立花さんは問題視していた。
サイエンスの世界はいわば通年でオリンピックを開催をしているようなものです。日本の選手たちは、そのオリンピックでそこそこいい成績を上げているのに応援団がほとんどゼロなので、選手たちの士気もいまひとつという状況が続いています。(中略)日本のサイエンスを活性化するために何より必要なのは、サイエンス・メディアの復興です。(立花ゼミのサイト「SCI」の趣旨説明より)
最先端の科学の現場を取材してウェブで公開する。そうした動きが社会に広がることを、立花ゼミは目指していた。
そんな壮大な目的を持っていたゼミだけど、活動はゼミ生の自主性にある程度任されたゆる~い感じで、立花さんは全然厳しくなかった。
でも1回だけ注意された。
「ここに取材に行こうと思います」みたいな資料をまとめて報告をしていたとき、「そんなこと報告するより、並んでる研究室に片っ端からどんどん訪ねていくくらいしなよ」と言われた。フットワークの重さへのダメ出し。知りたいと思う気持ちに突き動かされて生きる立花さんにとっては考えられないことだったんだろう。
なりゆきで入ったゼミだったけど、そのうち取材という活動に興味をもつようになった。何より、知らないことが次々にわかるということがよかった。
“ノリで入ってすみません…”
「飽きっぽいから研究者人生は無理だ~」と思っていた自分には、ネタがどんどん変わるマスコミの仕事はちょうどいいと思った。
立花さんを取材していたNHKディレクターのロケを間近で見たこともあって、NHKのディレクターを志望して採用されて、入局した。
いざNHKに入ったら上司や先輩にすごい聞かれた。
「で、何やりたいの?」
「何を伝えたいの?」
周りのディレクターたちは大学時代に映画をめっちゃ見てたり、学生時代にドキュメンタリー番組をケーブルテレビで作ってたり、作りたい番組も「ドラマ」とか「にっぽん紀行」とか、ちゃんと決まっていた。
それにくらべて私は、
いや、別に伝えたいこととかないし、知らないことを知れるのが面白そうだなーと思って入っただけなんですけど・・・
などと曖昧にごまかすばかり。
「なんとなくノリで公共放送に入ってすみません・・・」と、コンプレックスを感じながら数年を過ごした。
頭の中、見せてください!
5年後、番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」の制作班に所属となった。
第一線で活躍するプロに密着する番組だった。
「すごい人」に密着するプレッシャーは結構大きくて、ビビりの私は超重要な「声かけ」※シーンでは撮影前に現場のトイレに駆け込むのがお約束、くらいには追い込まれた。
(※「声かけ」とはディレクターが取材相手にタイミングを見計らって質問を投げかけること)
でも仕事はおもしろかった。今同じ空間にいるこの人と自分とは、同じ人類だけど考えていることが全然違う…と思いきや、全然違う人生なのに根底で思っていることは同じだったりする。何を考えてるのか知りたいと思えてくる。
その人の頭をパカっと開けて脳内を見られたらいいんだけど、そういうわけにもいかないから、その人のことばとか行動とか表情を追っていく中で、生き様を感じ取っていく。
「プロフェッショナル」のロケ期間はだいたい1ヶ月半(もっと長いこともある)で、ほんとにいつもその人のことしか考えんくらいだった。
朝、その人が出勤する時間にあわせて職場の前で待ち伏せることから始まり、とりあえずしばらく様子見で1日中つきまとう。
だんだんその人の1日の流れとか通常の状態がわかってきて、そのうち
「今日は疲れてるな」とか、
「考え込んでるな」とか、
いつもと違う雰囲気のとき(その人の中で何か起こってるとき)がちょっとだけわかるようになってくる。
私のやってることって?
毎日ただ本人を追いかけるだけでもよくわからないから、他にもその人を知るためにいろいろやった。
例えば「年表作り」
・その人の生まれた時からこれまでの人生の出来事
・小学校入学から転職
・ご家族事情
・人生の転機と思えそうなタイミング
・当時のインタビューで答えた印象的なことば(著名人の場合)
などを、そのときの主な社会情勢と並列で一覧表にしてみる。SNS発信してる人は過去をさかのぼってチェックして、印象発言を記録する。
専門図書館で記事収集
それから大宅壮一文庫という雑誌の専門図書館があるのだけど、そこに行って取材相手の名前を検索して、載っている雑誌記事を軒並みコピー。(新聞情報はネットで検索できる時代ですが、図書館に眠っている雑誌の情報は、意外にもめちゃめちゃディープです)
あんまり意味ないかもという情報まで調べるうちに、
「この人10年前からこんなこと言い出したな。なんでだろ?」とか、「あ、子どもが生まれた直後にこんなことがあったんだな」とか、
その人の今に影響を与えている何かが見えてきたりする。
家族訪問と写真探し
両親や配偶者の方など、家族や親族にもできるだけ会いにいく。家族から見て印象深かった出来事や、転機となったころの家での様子とかを細かく聞く。
さらに昔のことを知る+伝えるために昔の写真を撮影させてもらうのだけど、ご本人がOKならアルバムをまるごと借りて、そこから使用させていただく写真を探す。(大学時代は結構はっちゃけてたんだな~とか、意外な側面が見えたりする)
とにかく電話
ロケが終わって編集期間に入っても、「このときこの人なんでこんなことしたんだっけ?」とか新たな疑問が出てくるので、取材相手には毎日のように電話する。
上で紹介した外科医の笠原先生は、あまりに私が電話してくるので、毎日夕方、
「今日はなんか聞きたいことありませんか~」
とあちらから電話をかけてくれるようになった。(その節は先生、お忙しい中すみません)
そんなこんなで番組を作っていく日々の中で、ときどき「自分がやってること、普通にストーカーだわ…」と思いつつ(※あくまで個人の感想です)、この番組を作るうえで大事なのは、「この人を知りたい」という気持ちの大きさじゃないかと思うようになった。
私が知りたい、誰かが知りたい
その後大阪に異動して、作る番組はいろいろ変わっていった。
マイノリティーの世界を当事者目線で発信する「バリバラ」、地元愛あふれる人(=ロコ)が知るとっておき情報を教えてもらう「ロコだけが知っている」。
番組によってカルチャーは全然違うし常識も違うし、なぜか使う用語もときどき違う。前いた部署との違いを実感して、外国に留学した学生のごとくカルチャーショックを受けることもめちゃめちゃあった。
でも「なんでドラマには障害の当事者の俳優があんまり出ないんだろう?」とか、「青森の『トド寝文化』って何それ?」とか、自分の知りたいという思いを原動力に、知らないことを根掘り葉掘り調べたり聞いたりして発掘していく過程を面白がるというのは、どの番組でも共通して大事なことのように私には思えた。
ある山のふもとの温泉が月曜日だけ白く濁る、「その秘密は山奥にある」と聞いて、2時間ひたすら雪山を登ったこともあった。
実際、今担当している「ロコだけが知っている」という番組で一緒に仕事する放送作家の人も、取材したネタを説明していると、
「なんでこうなの?」
「この町ではなんでこれが流行ってるの?」
「この人はなんでこれにハマったの?」
と、どんどん質問してくる。
テレビでは演出の工夫はもちろん大事だけど、前提としてみんなが知らないことを伝えることがエンタメ番組でも大事なんだと、日々実感している。
思い返せば立花さんも、学生のころの私には「すごい知りたがりのおじさん」のように見えた。
「知の巨人」と言われるほど天を突き抜けてるぐらいだから、その「知りたがり」度はもちろん私なんか足元にも及ばないけど、「知らないことを知りたい」という思いだけで番組を作る人間がたまにいてもいいかもしれないと、今はなんとなく思っている。
自分が知りたいことって、他にも知りたい誰かがきっといるんじゃないかと思うので。
今回このnoteを書いているうちに一つ思ったことがある。
ゼミ生のよしみで頼み込んで立花さんにプロフェッショナルに出演してもらうんだった・・・。
あの人の脳みその中身を知っていく過程は、ハンパなくおもしろい体験だったに違いない。
あの凄腕取材者を逆取材するのは、ものすごく緊張してきっとトイレに駆け込んでしまうだろうけど。
(ここまで執筆は戸松あかりディレクター)
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頭でっかちな僕と、ニコニコした「知の巨人」
現役生より2年遅れて大学に入学した私(近藤伸郎)は、「知識」と「世界」に飢えていた。
長い浪人時代にため込んだ(ルサンチマン的な)エネルギーが解放されたような気分で、とにかく「意識の高い」感じの授業を取りまくり、何でも吸収してやろうと息巻く頭でっかちな学生だった(完全にキャパオーバーだったが)。
「立花隆」といえば、「宇宙からの帰還」。
宇宙空間という極限状態を経験した人間には何が起こるのか? ある者は地球の神秘に驚愕して熱烈な宗教者になったり、別の者は精神病になってしまったり。そんな宇宙飛行士の内的体験を膨大な取材と独自の切り口で描き出した名著だ。
その著者が近くにいるというのだ。「知の巨人」とは、どんな人物なのだろう?私はゼミの門を叩いた。
ゼミの名前は「見聞伝」。コンセプトはその名のとおり見て、聞いて、伝えること。
基本的に学生が自分たちの興味のある事を自由に取材し、ネットに記事として公開する活動をしていた。ゼミには私同様、「とにかく何かやってやろう」と目をギラギラさせた学生たちが集まっていた(と、少なくとも私には見えた)。
初めて会った立花さんはずっとニコニコしていた。叱ることもほとんどない。
「東大生はバカになったか」なんて本を出されているぐらいだからたいそう偉そうにしているのかと思ったら、私たち学生の話を一生懸命聞いてくれた。
イメージとのあまりのギャップに、当時日記代わりに付けていたブログに「思っていたよりも優しそうなおっちゃん」と記したほどだった。
初めての取材の相手は…
繰り返しになるがゼミは自由だった。「立花隆」の名前を使って、何を取材してもいいし誰に会いに行ってもいい。取材依頼のメールに関してだけは「きみたち学生は失礼なことが多いからね」と、事前に先輩や秘書の方にチェックされたけど。
私の初めての取材相手は、あの若松孝二監督だった。
当時公開されたばかりの映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」をゼミ生たちと見に行って衝撃を受けた。
なぜ社会正義を志したはずの若者たちが仲間を、友を、兄弟を、妻を殺害するまで突き進んだのか。そもそも当時の学生たちはなぜあれほどまで“体制”に立ち向かったのか。
どこに吐き出していいか分からないモヤモヤを抱えていた当時の私は、何より当時の学生たちのエネルギーに憧れ、あの時代の空気を知りたくなった。一介の学生に過ぎなかった私が「立花隆ゼミ」を名乗って取材を申し込むと、監督は依頼を快諾してくれた。
そしてこの初めての取材が、私がディレクターを志すきっかけになった。
…と素直に言えたらよかったけど、それほどきれいな話でもなかった。
正直に言うと初めての取材については、あまり記憶がない。というのもその取材の直前に当時の恋人に別れを切り出された私は、人生初の大失恋に半ば自暴自棄になっていた。
実際、若松孝二さんの事務所で撮った写真には失恋のあまり坊主頭になった自分が映っている。
それでも、いや、その経験のおかげか、私は虚無感を埋めるかのように取材に没頭した。(後で知った話だが、立花さんも過去に1000回ラブレターを書くほどの大恋愛に失敗し、一度は筆を折ったらしい)
若松監督を始め全共闘世代のさまざまな党派の関係者、現役の学生活動家、さらに運動を“鎮圧”する側だった元警察官僚など、立場の異なる10人以上の方にインタビューを行った。
ひたすら関係書籍を読み、インタビューを準備し、録音したものを起こして整理する作業の繰り返し。今の学生たちへのアンケートも実施するなどして、ついに文化祭で学生主催のシンポジウムを開催するに至った。
立花さんは、なぜ学生が40年も昔の出来事にそれほど関心を持つのか不思議だったようだが、それでも全力でつきあってくれた。
他の仕事や執筆も忙しい中、文化祭当日には自ら原稿を寄せてくださり、わざわざシンポジウムのためのオリジナル講演も実施してくれた。
その文化祭の前夜にゼミ生みんなで立花隆事務所(猫ビル)に泊まり込んで、先生と一緒に配付資料の原稿を書いたことは、今も強烈な思い出として残っている。
思えば学生時代に自分の興味関心や好きなことを自由に調べて、それを発表する場が与えられていたことは大変なぜいたくだったし、立花さんが受け止めてくださったからこそ成り立っていたと思う。
先生、見てください!
大学卒業後、私はNHKのディレクターになった。初任地が広島局に決まったとき、真っ先に思ったのが立花さんのことだった。立花さんが晩年に力を入れていた一つが「戦争」で、実際、立花さんは広島局の番組にも度々出演されていた。
赴任後、「どうしても核と平和の問題を取材したい」と取り組んだ番組を、「先生」に見てもらいたいと、番組のDVDを立花さんに送った。
結果は酷評。
さらに、
あなたは人をバカにしているようなところがあるから気を付けた方がいい。テレビマンはチームプレーなのだから。
と叱られた。
ふだんほとんど叱ることのなかった先生のおそらく「愛のムチ」だったのだろう(私が頭でっかちなことをよく分かっていらっしゃる…)。
1年後の2015年、被爆70年という節目の年に、私は再び戦争番組に挑んだ。
原爆が投下された翌日に広島中央放送局(NHK広島放送局の前身)の生き残った局員が、ラジオ放送を再開する姿を描いた番組「焦土の放送局~ラジオ放送を再開せよ~」を制作した。
とにかく隅から隅まで関係資料を集め、すべてを洗い出す。文献は可能な限り集める。時系列の表にしてみる。当時の局員が約24時間後に原爆の被害の第一報を報じる前に、どんな行動をしたのか。地図上に逐一プロットしてみる。そして証言と照らし合わせる。
地道な地道な作業の繰り返し。
それはあのゼミでの日々と同じだった。
ああ立花さんもきっとこうやって仕事をしていたんだな。
番組は最初はローカル放送だったが、思わぬ反響を呼んで全国放送になった。
放送後、電話がかかってきた。
自分も知らない話だった、良かったよ
立花さんだった。事前に告知はしていなかったけど、目にとまったのだという。
教え子というだけでなく、プロとして、同じ取材者として見てくれた。
気持ちが舞い上がった。それが立花さんとの最後の会話だった。
“二十歳前後の君たちへ”
話はちょっとさかのぼって2010年。ゼミの最後の授業で立花さんは突然、「二十歳前後の君たちに言い残さないといけないことがある」と話し始めた。
そのころの立花さんはちょうど70歳を迎え、がんを患って3年。「人生の残り時間」という表現をよく口にしていた。
70歳という節目を迎え自分の死が見えてきたところで、そこから50年前の二十歳の頃を思い返したのだと思う。
立花さんは自分の人生の「残り時間」で取り組みたい仕事について話しながら、いくつかのことばを引用した。その一つが19世紀のフランスの詩人、マラルメの詩で、私たちにエールを送るものだった。
「私は船尾にいるが、君たちは船首にいて、これから荒波を切り開いていく」
そして、もう一つが、宇宙で事故を起こしたアポロ13号の管制官だったジーン・クランツのことば。
“Let’s everybody keep cool. Let’s solve the problem."
(「みんな落ち着いて、目の前の問題に当たろう」)
お尻に火が付いていても目の前のことを落ち着いてしっかりやるしかない。それが立花さんからのメッセージだった。
新たな道へ
立花ゼミを「卒業」してから10年。私はNHKで働きながらある決断をした。
それは仕事と並行して大学院に通って“社会人学生”をすること。専攻した分野はAI(人工知能)。学部時代は文系だったのに、ひょんなことから理系の分野を歩むことになった。
「日本初のAI専科」の大学院を偶然取材したことがきっかけで、その後、自分がその大学院に入ることになった。
これってやっぱり立花さんに導かれてしまったのかもしれない。
「面白いと思うことに何でも突き進む」
立花さんに出会えたことが、私の人生に豊かさを与えてくれたのだとも思う。
立花さんが田中角栄研究を世に出したのが34歳だから、今の私と同じ年。改めて「知の巨人」の大きさに圧倒させられる。
その知とは世界に対する向き合い方であり、そして一つひとつの仕事に裏打ちされたものでもあるはずだ。
「目の前のことをしっかりやれ」
立花さんのことばが、今また胸によみがえってくる。
近藤伸郎ディレクター
大阪府出身。大学時代、学生運動に興味を持ち、立花隆ゼミ「見聞伝」で「全共闘企画」に関わる。2013年入局後、広島局、岡山局を経て東京に。取材がきっかけでAI(人工知能)に興味を持ち、AI専科の大学院に働きながら通って3月に修了した。最近は1歳の娘の子育てを頑張る日々。
戸松あかりディレクター
ディレクター12年目。青森→東京→大阪と渡り歩いて現在は「ロコだけが知っている」を担当。ユーチューバーのHIKAKINさんに密着ロケ中にお腹にいた子どもが今は3歳。
「プロフェッショナル」で取材した親御さんたちから取材で子育て術を聞いたレア経験をもちながら実際の子育てにはなかなか生かせず試行錯誤で仕事と両立中。
最近一番がんばったのは「突然色が白く変わる温泉」の決定的瞬間をアップで撮るため45度の温泉に30分つかり続けたこと。
【編集】
「取材ノート」編集部 杉本宙矢