気になったので、少し調べると物凄くややこしい
一般に言われている皇室の御料は、持明院統の長講堂領と大覚寺統の八条院領であるが
これ以外にも幾つかあるらしい
とりあえず、長講堂領と八条院領
持明院統の伝領は、長講堂領(180ヶ所の荘園)
大覚寺統の伝領は、八条院領(220ヶ所の荘園)
長講堂領は、宣陽門院没後、その猶子となった後深草天皇に伝えられる。
天皇が幼少の為、父後嵯峨院が実質的に所有。
1267年に後嵯峨院が出家するに先立ち、長講堂領の一切の権利を後深草院に譲渡する。
以後、長講堂領は持明院統の伝領となる。
後嵯峨院が崩じた1272年の時点では、長講堂領は後深草天皇の所有であったが
八条院領の方は、安嘉門院の所有となっている。
1283年に安嘉門院が相続人も無いままに亡くなる。
亀山院は鎌倉に使者を送り、幕府は亀山院の意向を受けて八条院領を亀山院の手に入れる。
以後、八条院領は大覚寺統の伝領となる。
ちなみに持明院統の伝領は、長堂院領以外にも
播磨国衙、法金剛院領、熱田社領、因幡国衙などがある。
この2つの皇室御料のほかに
もう1つ大きな皇室御料がある。
これが室町院領
室町院へ相承されたもので100余ヶ所と規模が大きい所領である。
室町院領は、宗尊親王に相続されるべきものだったらしいが
宗尊親王が薨去した為、その娘に受け継ぐことになり
所領を管理していた後宇多院が所領を管轄することになる。
ただ、元々は宗尊親王の弟にあたる伏見院へ渡されることになっていたらしいので
これに異議を伏見院が幕府に申し立て、室町院領は持明院統と大覚寺統で折半することになる。
ただし、後宇多院は、約束を守らず三か所を持明院統へ譲っただけらしいが
後に幕府に改めて折半と言われて追加で譲っているみたいである。
この他に大きい所領として七条院領がある。
これは四辻親王家が有していた所領で38箇所の荘園を有する。
この七条院領は、弘安三年に21箇所を分割して後宇多天皇に譲進され
残り、17箇所も正応二年(1289)に後宇多院に譲進され、全て後宇多院の所有となり
これも大覚寺統の伝領となる。
これらの結果
持明院統は長講堂領を中枢とし、法金剛院領、室町院領半分など約250ヶ所を伝領
大覚寺統は七条院領、八条院領、室町院領半分などの約380ヶ所を伝領
となる。
大覚寺統と比較すると持明院統は貧乏です。
あと大覚寺統が持明院統と違い幾つかに分裂できたのは、この富裕力にあったようです。
室町院領が折半となり、持明院統に譲られなかった場合、この格差は広がったことになります。
幕府が、あくまでも折半に拘ったのは、大覚寺統に皇室の富が集中するのを嫌ったためでもあるでしょう
というか、『両統迭立』の最大の理由はこれかもしれません
両統の伝領合わせて約630ヶ所の所領が、1つの皇統に集中することは
地天の君がそれだけの財力を所持することを意味します。
これは非常に危険です。
2つに分裂させ、対立させることで皇室の力を分散させるのが
幕府の方針だったのでしょう
ちなみに持明院統に譲られた室町院領の所領が、花園院に所領となります。
花園院の崩御の後、直仁親王に譲られ
直仁親王の薨去の後、伏見宮栄仁親王に譲られます。
当時、伏見宮栄仁親王は、父崇光院から伝領した所領を悉く没収されており
これにより、宮家は存続することが可能となる。
で
大覚寺統の分裂は、財産の分裂を伴ったはずで
少なくとも常盤井宮家と木寺宮家はの2つは所領を有していはずです。
これを少し調べますと
まず、中核の八条院領を見ると
安楽寿院領48ヶ所、八条院庁領79ヶ所
歓喜光院領26ヶ所、蓮華心院領15ヶ所、真如院領10ヶ所
弘誓寺領8ヶ所、智恵光院領5ヶ所、禅林寺今熊野社領3ヶ所などの御願寺社領などに分かれる。
このうち、御願寺社領などが恒明親王に伝領され
庁領のみが、後宇多天皇に伝領される。
ただし、亀山院の没後、安楽寿院領以外の所領は後宇多天皇が回収
この八条院領は、邦良親王に譲ることを条件に後醍醐天皇に譲られる。
結果、常盤井宮家は、安楽寿院領を有することになる。
この他に後宇多院は七条院領と室町院領半分を有している。
これも後醍醐天皇に譲られた可能性はあるが
少なくとも室町院領に関しては、永嘉門院の猶子となった邦良親王が相続しているのではないかと思う。
後宇多院は、孫の邦良親王を大覚寺統の正嫡と定めて御料を譲与したとする。
中核の八条院領は後醍醐天皇に渡っているはずなので
多分、室町院領は邦良親王に譲られたのではないか
ただし、七条院領は、後醍醐天皇に渡っているかもしれない
多分、室町院領の半分が木寺宮家の所領ではないかと思う