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後醍醐天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『後醍醐天皇』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
後醍醐天皇
ごだいごてんのう
一二八八 - 一三三九
一三一八―三九在位。正応元年(一二八八)十一月二日後宇多天皇の第二皇子として誕生。母は藤原忠継の女談天門院忠子。諱は尊治。延慶元年(一三〇八)九月十九日、持明院統の花園天皇の皇太子となり、文保二年(一三一八)二月二十六日践祚、同三月二十九日即位。元亨元年(一三二一)十二月後宇多法皇の院政を廃し記録所を再興した。吉田定房・万里小路宣房・北畠親房をはじめ、日野資朝・同俊基らを登用して天皇親政を実現した。天皇は諸政の刷新に努めたが、その実をあげるためには、鎌倉幕府の存在が障害となった。そこで、倒幕の計画を練るために、無礼講や朱子学の講書会を開いて同志を糾合した。しかし、この計画は事前に漏れ、正中元年(一三二四)九月、六波羅軍の急襲によって土岐頼兼・多治見国長らは殺された(正中の変)。天皇は、こののちも倒幕の意志を変えず、あるいは尊雲法親王(護良親王)を天台座主とし、あるいは南都北嶺に行幸して、畿内の大社寺の僧兵らを味方に引き入れようとした。すなわち、嘉暦元年(一三二六)の夏には中宮藤原禧子の安産を祈る修法に仮託して関東調伏の祈祷を延暦寺などで行わせ、元徳元年(一三二九)正月には、春日社・東大寺・興福寺などに行幸した。さらに、日野資朝らに命じて、山伏姿に変装して諸国を巡行させ、各地の政情や武士たちの動きを調査させた。花園上皇は、『誡太子書』に「乱ノ勢萌スコト已ニ久シ」(原漢文)と記しているが、この表現は、後醍醐天皇側と鎌倉幕府との対立が顕在化しつつあったことの証左である。元徳三年四月、吉田定房の密告によって天皇の計画を知った鎌倉幕府は、ただちに長崎高貞らを上洛させ、日野俊基や円観・文観らを逮捕した。同年八月、天皇は、辛うじて京都を脱出して笠置に布陣し、近隣の土豪・野伏らに参陣を呼びかけた。しかしながら、この時も鎌倉幕府の大軍によって笠置は旬日を経ずして陥落し、楠木正成の河内赤坂城も幕府軍の蹂躙するところとなった。天皇は捕えられ、翌元弘二年(北朝正慶元、一三三二)三月隠岐へと流刑された(元弘の乱)。隠岐の配所に従ったのは、才色兼備をうたわれた阿野廉子や千種忠顕らであった。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えたが、同年十一月ごろから、吉野で護良親王が、河内千早城で正成が再挙すると、諸国の反幕府運動が急速に展開した。悪党が諸国で蜂起し、幕府の支配機構が麻痺させられていったのである。かかる戦局の転換に乗じて、元弘三年閏二月、天皇は隠岐を脱出して伯耆名和湊の長者名和長年の助けをうけて船上山にたて籠もり、朝敵追討の宣旨を諸国に発した。幕府の将として西上していた足利高氏(尊氏)は四月下旬に天皇に応じて反幕府の旗幟を鮮明にし、五月七日には赤松氏と協力して六波羅軍を壊滅させた。東国においても、五月八日新田義貞が上野生品神社に挙兵し、長駆して鎌倉を攻略、二十一日には鎌倉幕府を倒壊させた。六月五日天皇は京都に還幸し、公家一統の政治を行うこととし、まず持明院統の後伏見・花園両上皇の所領を、ついで公家・寺社の所領を安堵し、討幕の功労者への除目を行なった。天皇は、みずから後醍醐と名乗ったように、延喜・天暦の世、すなわち醍醐・村上両天皇の治世を理想の時代として追慕し、律令国家最盛時に匹敵する政治を実現させようとした。「朕ノ新儀ハ、未来ノ先例タルヘシ」との発言は、天皇の覇気と自負の端的な表現であった。天皇は、その絶対的権威を示すために、土地の領有はすべて綸旨によってのみ確認されるものであり、綸旨によらない土地の安堵は認められないという個別安堵法を公布した。この法令は、土地領有についての前代からの慣習を根底からくつがえすものであっただけに、諸国武士の猛烈な反撥を招くこととなった。このため、天皇も当法の適用は北条氏関係の所領に限定し、当知行安堵については諸国平均安堵法へと変更せざるをえなくなったのである。朝令暮改は恩賞の不公平さとともに建武政府の自壊を招く根本原因であった。天皇は、記録所・恩賞方・武者所・雑訴決断所などの中央諸機関を整備充実させるとともに、地方行政機関として各地に国司と守護を併置させて各地域の治安維持にあたらせた。天皇は奥羽の地を重視し、元弘三年十月陸奥守北畠顕家を多賀城へ派遣した。顕家に義良親王を奉じて下向させ、東北の統治にあたらせようとしたのである。これが奥州将軍府である。同将軍府では、翌年正月式評定衆・引付・政所・侍所・寺社奉行・安堵奉行などの職制が定められ、旧幕府官僚にまじって、在地の有力武将がそれに任命されている。元弘四年正月二十九日、年号を建武と改めた天皇は、その絶対性を誇示するために大内裏の造営を発表した。しかし、戦乱の疲弊が残っている時点で、莫大な経費を必要とする造営の強行は、費用を賦課された諸国の武士や、その負担を転嫁された地方農民のはげしい反対をうけた。この間、天皇は諸国一・二宮の本家職・領家職を停廃し、諸国の関所を停止し、建武元年(一三三四)五月には徳政令を出したが十分な効果はあがらなかった。同五月から八月にかけての若狭太良荘の農民訴状や、八月の『二条河原落書』などは全国各地の庶民たちの声であり、建武政府に対する痛烈な批判であった。建武二年六月に露顕した西園寺公宗らの反後醍醐運動は、天皇暗殺の謀議を含むものであり、同年七月には、北条時行が信州において建武政府に対して公然と反旗をひるがえしている(中先代の乱)。時行軍は鎌倉を攻撃して足利直義軍を破った。八月、足利尊氏は直義を救援するために京都を出発した。尊氏は、直義とともに時行軍を破り鎌倉を奪回したが帰京せず、十一月には新田義貞誅伐を名目に反建武政府の立場を明確にした。建武三年正月から六月にかけて、京中合戦、尊氏の西走、湊川の戦などが続いたが、後醍醐天皇方の敗色は日々濃厚となり、天皇はこの間二度までも山門(延暦寺)へ行幸した。十月、足利尊氏の強請により、山門より京都へ帰るにあたって天皇は、恒良・尊良両親王とともに、新田義貞を越前へ下向させた。十一月、天皇は光明天皇へ神器を渡し、十二月には吉野へ潜幸して南朝を樹立した(南北朝分裂)。以後、吉野において京都回復を企てたが、延元二年(北朝建武四、一三三七)三月には越前金ヶ崎城が陥ち、翌三年五月には北畠顕家が石津で敗死し、同閏七月には新田義貞が越前藤島で戦死するなど南朝の勢力は急速におとろえていった。この頽勢を挽回するために天皇は、北畠顕信を鎮守府将軍として、親房とともに義良親王を奉じて陸奥へ下向させようとしたが、伊勢から東国へ航行中、暴風雨にまきこまれて遭難し計画は失敗した。義良親王は同四年(北朝暦応二)三月に、吉野に帰り皇太子となった。同八月十五日、天皇は義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌十六日、朝敵討滅・京都奪回を遺言にして病没した。五十二歳。天皇は『建武年中行事』『日中行事』などを撰述し、『李花集』『新葉和歌集』などに心境を托した和歌を残している。陵墓は、奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵である。
[参考文献]
『大日本史料』六ノ五 暦応二年八月十六日条、田中義成『南北朝時代史』(『講談社学術文庫』)、村田正志『増補南北朝史論』(『村田正志著作集』一)、佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社『日本の歴史』九)、佐藤和彦『南北朝内乱史論』、黒田俊雄「建武政権の所領安堵政策」(『日本中世の国家と宗教』所収)、飯倉晴武「後醍醐天皇と綸旨」(豊田武先生古稀記念会編『(豊田武博士古稀記念)日本中世の政治と文化』所収)
(佐藤 和彦)

塔尾陵(とうのおのみささぎ)

奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾、如意輪寺内にある。治世の年号を取って延元陵ともいう。天皇の葬儀の日を伝えないが、延元四年(北朝暦応二、一三三九)八月天皇は病が重くなると、いろいろ言い遺した後に「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望ント思フ」といって左右の手に『法華経』五巻と剣を持って同月十六日崩じたので「円丘ヲ高ク築テ、北向ニ奉〓葬」と『太平記』に述べている。同書はその場所を蔵王堂の東北とするが、実際は『吉野拾遺』に記載するように「如意輪寺の御堂のうしろ」の山にあたる。現在円丘は北面し、直径約二二メートル、高さ約四メートルである。当時の陵は堂塔もしくは平地に葬って墳丘を造らなかったが、円丘を営んだことは、陵の形式変遷上特記すべきことである。中世以前の陵は、近世に入ってほとんど荒廃するに至ったが、当陵には山陵守護の家が定まっており、代々奉仕してきたので、陵の威厳を保ってきた。たずねるものも多く、桜花や南朝の悲運を詠じた詩歌も多い。天保六年(一八三五)に四十二代遊行上人が円丘周囲の石柵を寄進している。なお参道の傍らに長慶天皇皇子世泰親王の墓がある。
[参考文献]
『大日本史料』六ノ五 延元四年八月十六日条、上野竹次郎『山陵』下
(中村 一郎)

所領

延慶元年(一三〇八)閏八月後宇多上皇から讃岐国・越前国・因幡国・八条院領・安楽寿院・歓喜光院・智恵光院・蓮華心院・万里小路殿・亀山殿などを(『後宇多院譲状案』)、元亨二年(一三二二)六月六勝寺を(『皇代暦』)譲られた。ただし、嫡子後二条天皇崩御のため弟に伝えるが、一期ののちは後二条天皇皇子邦良親王にすべて譲与せよとの留保条件がついていた。そのほか室町院領の半分、七条院領の半分、最勝光院も伝領。正中元年(一三二四)六月上皇崩御ののち、大覚寺統の所領はすべて後醍醐天皇が管領した。また昭慶門院領は、後醍醐天皇と皇子世良親王(帥親王)領に分かれた。天皇は元弘三年(一三三三)六月隠岐島から京都に還ると、長講堂領・法金剛院領などを後伏見上皇に、室町院領半分を花園上皇に保証した。しかし天皇所領の諸国の一宮・二宮を荘園制から解放した。そして北条氏家督の所領を「供御料所」にあてたり、朝用分の新設などを実施したが、所領は激減した。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、八代国治『国史叢説』、中村直勝『吉野朝史』(『中村直勝著作集』三)、同『南朝の研究』(同)
(奥野 高広)


世界大百科事典
後醍醐天皇
ごだいごてんのう
1288-1339(正応1-延元4・暦応2)

第96代に数えられる天皇。在位1318-39年。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院藤原忠子。1302年(乾元1)親王宣下。諱(いみな)は尊治(たかはる)。04年(嘉元2)大宰帥となり,帥宮(そちのみや)といわれた。当時,皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していたが,大覚寺統の後宇多は第1皇子である後二条天皇の子邦良に皇位を伝えようとし,尊治は邦良幼少時の中継ぎとして08年(延慶1)持明院統の花園天皇の皇太子に立った。尊治は儀式典礼に関心深く,学問・和歌など諸道に意欲的である一方,一生の間に20人前後の女性に40人近い子女を産ませたように,絶倫な精力の持主であった。18年に即位して以後,宋学への傾倒は著しく,21年(元亨1)親政開始後,強烈な個性をその政治に発揮する。それは著書《建武年中行事》《建武日中行事》等に結実する朝儀復興にとどまらず,綸旨(りんじ)に万能の力を与え,官位と家格の関係の固定化を打破して日野資朝,日野俊基らを登用したように,みずからの意志で貴族を位置づけ,寺社の神人・寄人に対する支配を排除しようとするきわめて専制的な意図を秘めており,親政機関の記録所の動きも活発であった。生前にみずからの諡号(しごう)を〈後醍醐〉と決めたように,延喜・天暦の治がそのよりどころだったが,後醍醐の政策は単なる復古ではなく,むしろ宋の君主独裁政治を目ざしたものとみられている。

皇位を左右する鎌倉幕府が否定さるべき存在となるのは当然で,24年(正中1)腹心の貴族,僧侶,美濃源氏等を無礼講の場に集めて練った討幕計画(正中の変)の失敗後も,後醍醐は討幕を断念しなかった。26年(嘉暦1)皇太子邦良の死後,幕府は後伏見天皇の皇子量仁(光厳天皇)を皇太子としたので,後醍醐の地位はさらに危くなり,30年(元徳2)以降,後醍醐は再び討幕に向かって動き出す。しかし,南都北嶺に皇子を入れ,みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに,関所停止令を発して商工民をひきつけ,悪党を組織して討幕に驀進(ばくしん)する後醍醐に,近臣吉田定房,北畠親房は危惧を抱き,31年(元弘1)計画は幕府にもれ,後醍醐は笠置で挙兵したが捕らわれて隠岐に流された(元弘の乱)。この失敗にもめげず,出家を拒否し元弘の元号を使いつづける後醍醐は,護良親王,楠木正成の軍事行動に呼応して33年隠岐を脱出,名和長年に擁せられ,船上山から諸国に挙兵を呼びかけ,足利高(尊)氏らの内応を得て,ついに幕府を滅ぼし,建武新政を開始した。〈朕の新儀は未来の先例〉という言葉のとおり,その政治は著しく専制的で,武将・貴族たちの強い反発を招き,新政は36年(延元1・建武3)には瓦解する。しかし後醍醐はなおも吉野に南朝をひらき,北朝を奉ずる足利氏の幕府に対抗,京を回復する夢を抱きつづけたが,相次ぐ南軍の敗報のなかで39年吉野で死んだ。後醍醐を最後として,天皇は全国的な政治の実権から離れることとなる。
→南北朝時代
[網野 善彦]

[索引語]
尊治 光厳天皇(上皇)
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44. あいぜんみょうおうほう【愛染明王法】
国史大辞典
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日本歴史地名大系
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49. あおだにばいりん【青谷梅林】京都府:城陽市/市辺村
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日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
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豊明節会(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新嘗祭の翌日の辰日、および大嘗祭においては午日に、天皇が出御して行われる公儀の宴会。荷田在満『大嘗会儀式具釈』に「豊明トハ宴会ヲ云、古クハ宴会豊楽等ノ字ヲ直ニトヨノアカリト訓ズ、大嘗新嘗ノ後ニハ必宴会アリ、仍テ大嘗ノ豊明、新嘗ノ豊明ナドトハイヘド
文官分限令・文官懲戒令(日本大百科全書)
1899年(明治32)3月に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣の手で公布された、一般文官の身分および職分の保障に関する規定と、懲戒に関する規定。前者では、官吏の身分保障、免官、休職、降任、休職中の俸給、復職などについての原則が規定され、官吏の身分
太上天皇(国史大辞典・日本国語大辞典)
譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
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