3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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院政期 八条院領と長講堂領についての閑話

次の3D製作の対象として後白河法皇の院御所・法住寺殿を取り上げてみようと思っていますが、その前に院政期の白河、鳥羽両上皇、そして後白河法皇の権力の基盤ともなった院の御領(荘園)について後白河法皇を中心にお話してみたいと思います。

何故ならば、なぜ、後白河法皇は白河、鳥羽両上皇に比べ独裁権力を発揮できなかったのか?また武士の台頭をなぜ許したのか?それから何故南北朝に皇統が分裂したのか?また室町幕府は何故あれほど幕府体制が不安定だったのか?それらの疑問符について、今回のタイトルである「八条院領と長講堂領」が遠因として絡んでくるのでは・・・と管理人は個人的に思っているからです。

まず八条院領の解説から入ります。
同領は中世の荘園公領制下における院家領荘園群の一つ。鳥羽上皇の院御所・鳥羽殿東殿の仏堂の後身の安楽寿院領を中心に鳥羽院領とその皇后・美福門院領を相続した娘の八条院暲子内親王の所領を起源とします。安楽寿院領のほか、歓喜光院領、蓮華心院領などの御願寺領を含む全国220ヵ所以上にのぼったそうです。これらの所領は八条院→春華門院昇子内親王→順徳天皇→後高倉院→安嘉門院→亀山院→後宇多院→昭慶門院憙子内親王→そして南朝で有名な後醍醐天皇に伝わり、いわゆる大覚寺統の主要な経済基盤となりました。
その鳥羽法皇と美福門院の肖像画がありますので紹介します。
鳥羽法皇
鳥羽法皇です。当時、院政の頂点にいました。そしてその后の美福門院です。
美福門院
一説には保元の乱を影で操っていたとも、また自分を呪祖したと半ば言いがかりで待賢門院を出家に追い込むなど、ちょっと悪女の感じですね。でもとても美女で鳥羽法皇に愛されたそうです。

一方の長講堂領は、やはり院家領荘園群の一つ。長講堂は後白河上皇の院御所である六条殿内に建立された持仏堂を起源とします。法華長講弥陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)の略称で、現在も京都市下京区本塩竈町の六条通沿いに法灯を伝えています。そして、後白河院は莫大な荘園を長講堂に寄進し長講堂領が確立します。後白河院は長講堂とその所領を寵姫の丹後局所生の宣陽門院覲子内親王に譲りました。全国42ヵ国89ヵ所に及ぶ長講堂の膨大な荘園は後白河上皇の院政の財政基盤となりましたが、承久の乱(後鳥羽天皇による鎌倉幕府倒幕の乱)が失敗に終わった後は、幕府の管理下に押収され、後深草天皇→伏見天皇→後伏見天皇→花園天皇→光厳天皇→崇光天皇→後小松天皇といわゆる北朝の持明院統に伝領されました。

以上ざっと説明しましたが、本来、荘園は律令体制下の国家としてはないのが建前です。それが天皇を譲位し個人の自由な立場になったとき全国の受領層から土地の寄進を受け院政の基盤の下地となりました。いわゆる院政は律令外の独裁権力だったんです。ですからNHKで放映されてる「平清盛」でも盛んに「王家の犬にはならない」と叫んでますが、律令外の権力だったからそう言っているのだと思います。

さて、両方の院領を比べた時、鳥羽上皇→八条院へと伝領した八条院領の方が圧倒的に荘園の数が多いのに気づきます。院政時、白河そして鳥羽法皇が圧倒的な独裁権力を行使できたのもこの膨大な領地の裏づけがあったからだと思います。建築史で、この時期の上皇方が建てられた御所と寺院をミックスした建築群を院家建築と名づけていますが、白河の地の法勝寺や白河北殿・南殿そして六勝寺、鳥羽離宮と多くの造寺造仏を行なっています。

ところが一方の後白河院の方はそれほど建立はしていません。それこそ院の拠点でもあった法住寺ぐらいです。どっちかというと台頭してきた清盛や源頼朝との政争に忙殺された一生ともとれます。なぜ、そうだったかというと、冒頭にも言った院領の少なさです。ざっと八条院領の三分の一です。これが起因して造寺造仏も清盛・頼朝との確執にも十分に対抗できなかった・・・もし八条院領ほどあったら、多分、院政時代はもうしばらく続いていたと思います。いや戦国時代がもっと違った形になっていたかもしれません。

それではその後白河院の肖像です。
後白河天皇
とても気品のある顔立ちですね。生まれながらの公達といった風情があります。

さて、後白河院の財政基盤が弱かった面について説明しましたが、では膨大な八条院領はどうなったかと申しますと、その財力もあって相伝した後醍醐天皇によって鎌倉幕府の北条氏は滅ぼされてしまいます。尊氏の反乱によって建武の新政は潰えてしまいますが、その八条院領は一部押収されながらも南朝の財政基盤となり、南北朝がしばらく並立する時代を生みました。

後白河院の長講堂領を相伝した北朝は財政基盤も弱く、いわば足利幕府の影に隠れ支えられる立場でした。自ら南朝に挑む余力はなく、幕府に押収された長講堂領も幕府を潤すほどの余財はなく、結果、足利幕府自体の自領が少なかった故か、戦国の終わりまで徳川幕府のような絶対的な権力は持てませんでした。歴史にifは禁物ですが、もし、北朝が、足利幕府が八条院領を相伝・押収していたら室町幕府ももっと権力基盤を強固にし、南北朝も生じず戦国時代もなかったかも・・・とひとり妄想にふけってます。

歴史の裏にはその時々の経済的背景と絶世の美女あり・・・とは、あまりにも陳腐な感慨ですかね・・・
浅き夢みし男の閑話でした。


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Re: お礼 * by 梅のコージ
M.K さま、

コメントありがとうございます。
少しでも参考になれば幸いです。

また、今後も、当ブログに起こしください。


> 八条院領と長講堂領がわからなくていろいろみてまわっていました。
> このページが一番わかりやすかったです。
> やっと理解することができました。
> ありがとうございました。


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* by Gくん
こんにちは!

本記事、興味深く拝見いたしました。

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Re: お礼

M.K さま、

コメントありがとうございます。
少しでも参考になれば幸いです。

また、今後も、当ブログに起こしください。


> 八条院領と長講堂領がわからなくていろいろみてまわっていました。
> このページが一番わかりやすかったです。
> やっと理解することができました。
> ありがとうございました。

2012-12-25 * 梅のコージ [ 編集 ]

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2012-12-25 * [ 編集 ]

こんにちは!

本記事、興味深く拝見いたしました。
2012-06-09 * Gくん [ 編集 ]