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なぜ人はカルトに惹かれるのか②

『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』 (法蔵館・2020/5/15・瓜生崇著)のつづきです。以下、そのまま転載します。親鸞会を脱会の切っ掛けになった部分です。

 

そして決定打になったのが次の一冊、西田公昭著『マインド・コントロールとは何か』だった。この本は「親鸞会がマインド・コントロールして若者を勧誘している」という指摘をする誹謗サイトに、反論する必要性から購入したものだった。私自身が、十年以上大学での勧誘に関わってきたこともあり、私たちがマインド・コントロールなどしているわけがないだろう、何寝ぼけたことを言っているんだ、というくらいの思いで読み始めた。勧誘をしている側にその自覚がないのに、マインド・コントロールなど成立するわけがない、反論など造作心ないことだと無邪気に思い込んでいた。

 そんな態度で読み始めたが、三分の一ほど読んだところで、体中から冷や汗が止まらなくなった。ページをめくる手に汗でべっとりしていたのを今も覚えている。隣のデスクの人から「瓜生講師、なんか体調悪いんですか?」と話しかけられた。そのときの思いを言葉で表現するのは難しいのだが、自分の立っているところが根底から崩されるような感覚であった。とにかくページを読み進むにつれ、滝のように冷や汗が流れたのだ。

 どうしてこんな衝撃を受けたのか。この『マインド・コントロールとは何か』という本は、主に「統一教会(世界基督教統一神霊協会、現世界平和統一家庭連合)が、信者にどのような心理的影響を与えて、信仰をコントロールするのかを述べているのだが、当時の私自身も「統一教会」という多くの批判を浴びている教団に、今さらどうして優秀な若者が入るのだろうか、と疑問を持っていた。最初からわかっていたら絶対に入らないような宗教に、どうして彼らは入信して自分の人生を捧げてしまったのか。

 その問いに、西田は勧誘や育成の過程で使われる様々な心理学的なテクニックを説明し、徐々に信者に「ビリーフ(我々が個人的に保有する知識や信念)」が形成されていく過程を、詳細に論じている。それがどうして衝撃だったか。統一教会が使っている心理学的なテクニックが、私たちが親鷺会で使っていた勧誘・育成手法と恐ろしく似ていたからだ。 つまりは親鸞会で勧誘活動を続けていた私たちは、統一教会に類似したマインド・コントロール的な手法を使っていたにもかかわらず、そうと気づいていなかっただけだったのだ。

 これはとても重大なことで、統一教会が使っているのと同様々手法を使って勧誘していたということは、入信する過程において統一教会信者に起きている心理的変化と、同じことが私にも起きているのではないか、と判断できる。わかりやすく言えば、統一教会の信者は「最初から気づいていたら、絶対に入らなかっただろう非合理な信仰を、マインド・コントロール的なテクニックを用いられて真実だと思い込まされた」と私は思っていたが、「実は自分の信仰もそうなのではないか」と思ったのだ。

 私か「親鸞会での教えは間違いのない真実である」と思っていた信念は、自分が考えて選び取ったのではなく、こうした心理的なテクニックによって、さしたる根拠もないまま思い込んでいただけだったのではないか。私はマインド・コントロールのテクニックは、人を騙そうという悪意の上にしか成立しないと思っていたのだが、実際にはそのテクニックによって信念や信仰を得た人間が、自分かされた同にやり方で布教することで、自覚も背意もないままでマインド・コントロールの伝播が行われる。だからマインド・コントロールをしているという自覚も、されているという自覚も生じないのである。

 「マインド・コントロール」というと、ものすごくおどろおどろしい、オウムが薬物を使って信者に神秘体験をさせたようなものを想像してしまうのだが(私もそう思っていた)、そういうものではない。それは例えば勧誘対象に対して手取り足取り大学のことを教えたり、手作りの食事をごちそうしたり、毎回話の感想を書かせたり、たくさん褒めたり、合宿で寝食を共にしたり、なるべく多くの時間を信者と一緒に過ごすようにしたり、みんなの前で決意表明をさせたり……。こんなありきたりで当たり前のことで、人間の信念がそう簡単にひっくり返るものか、としか思えないようなことが、マインド・コントロールのテクニックの正体なのだ。だからやっているほうも受けているほうもその自覚は少しもない。そしてこの本は、こうした私たちがごく日常で受けている心理的な力を、一つの明確な方向性を持って不断にかつ連続的に与え続けることで、さしたる根拠のない非合理な教理が、いつしか真実として認識されてしまうことを示していた。

 「マインド・コントロール」というと、あたかも信者が「思考停止」してしまい、何も考えずに教理を盲信しているかのように思われがちであるが、これは半分正しいし半分間違っている。詳しくは第三章で触れるが、統一教会にしてもオウム真理教にしても、私が脱会後にこうした団体の信者や元信者に会ったときの印象を言えば、普通の人たちよりもずっと人生や自分の存在意義や、宗教的真実について考えてきた人たちなのである。そして入信後心それぞれが真剣に信仰について考えてきたので、思考が停止していると言われても本人たちはピッとこないだろう。この場合の「思考停止」というのは、「教祖や教団は真実である」ということが思考の前提となり、その前提を疑うことができないことを言うのであって、思考そのものが奪われてしまうのではない。

 

…『マインド・コントロールとは何か』を読んでわかったのは、私が思っていた「親鸞会での教えは間違いのない真実である」ということが、実は自分が考えて選び取った信念ではなく、例えば統一協会の信者が文鮮明王再臨のメシアと仰いだりするのと、その信念の形成のプロセスは変わらないのではないかということだった。簡潔に言うと、「私はひょっとしてマインド・コントロールされていたのではないか」という疑問が湧き上がってきたのだ。 今までずっと、なんて「真実の教団」なのにこんなに矛盾に満ちているのだろうとか、どうして高森会長はこんなに贅沢なのだろうかとか、なんてこんな嘘つき勧誘をしているのだ。(以上)

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