朴一さん『在日という病』を読む(5)2025/09/07

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/09/01/9800016 の続きです。

名前・国籍・言葉

 朴一さんは著書の最後の方で、次のように結んでおられますが、私には大きな疑問があります。

考えてみれば、在日コリアンという出自や国籍の違いをめぐる葛藤は、私が在日韓国人としてこの国に受けた瞬間から生み出された問題だった。 なかでも名前の問題(日本名を使うか、民族名を使うか)、国籍の問題(韓国・朝鮮籍のまま生きるか、日本籍を取得するか)、言語の問題(母語と母国語の乖離)などは、私のアイデンティティ形成に良かれ悪しかれ大きな影響を与えてきた。 思い起こせば、外国人への「同化」圧力が強い日本で生きていくため、名前や国籍の問題で思い悩んだ頃からの、私の「当事者研究」は始まっていたのかもしれない。 (192頁)

 朴さんは在日の当事者として、「名前」と「国籍」と「言語」の問題でご自分のアイデンティティに影響を受けたとおっしゃいます。

 ところで在日の「名前」について、民族名を使うのか日本名を使うのかは本人自らの判断で選択すべきことで、周囲がこうすべきだなどと言うことはできません。 また「国籍」もご自分で判断してくださいとしか言いようがないもので、第三者が介在できるものではありません。 そして「言葉」は、在日はほぼ100%日本語ができますので、問題というのは本国の言葉を使えるかどうかということでしょう。 本人が民族性を持とうと決意したのなら本国の言葉をしゃべれるように勉強するだろうし、反対に民族性なんか要らないと思えば言葉を覚えないでしょう。 どうするかはご自分で決めてくださいとするしかありません。 以上「名前」「国籍」「言葉」は本人が選択すべきことで、周囲がとやかく言うことではないということです。

 つまり「名前」も「国籍」も「言葉」も、在日それぞれ個々人が主体的に判断して選択せねばならない問題です。 本名(民族名)を使おうが通名(日本名)を使おうが、韓国・朝鮮籍を維持しようが捨てて帰化しようが、本国の言葉を知っていようが分からないままでいようが、それは本人が決めることです。 周囲の人たちがすべきことは、本人のその選択を尊重することです。

 ところで朴さんは、「外国人への『同化』圧力が強い日本で生きていくため」と言い出してきたことにビックリします。 国民国家という枠組みの中で、外国人が社会生活するためにはその国の言葉を理解してその文化や価値観に「同化」することが要求されるのは世界各国共通で、日本だけのことではないでしょう。 外国人が「同化」を拒否し、わが本国ではそうではないと押し通すことは摩擦・衝突を生じさせるだけです。 しかし、朴さんは著書で「同化」そのものが悪いことのように論じておられるので、大きな違和感を持ちます。

 繰り返しますが、外国人は完全に同化して日本人のように生きるのか、あるいは外国人としての民族性を保つのか、それは本人が自ら決めることです。 外国人には法律やルールを守っている限り、他人である日本人が干渉することはありません。 日本はその外国人の主体的な判断を尊重しつつも、周囲の社会との間に摩擦・衝突が起きないように「同化」を期待し指導するのみです。 従って日本にとっては、〝外国人に納得してもらえる「同化」とは何か”が課題になるべきものです。 「同化」をどこまでも拒否して摩擦・衝突を繰り返す外国人には、残念ながら排除するしかありません。

外国人労働者をとにかく受け入れればよいというものではない。 受け入れる以上は、彼らが日本に来てよかったと思えるような、受け入れをめぐるインフラ整備や対応が必要ではないだろうか。 日本に暮らす外国籍住民が「在日という病」と思わない社会、日本が外国人にとって希望のある社会になってほしいものである。 本書が、日本の今後の外国人受け入れ政策を考えていくための一助になれば幸せである。 (194頁)

 「在日という病」は本の題名になっているものですが、その「病」というのは朴さんが言うには前述したように「名前」「国籍」「言葉」の三つです。 これは何十年も昔から在日韓国・朝鮮人に限って言われてきた「病」ですが、当然のことながら当事者自身が主体的に判断・選択するべきものです。 そして日本に対しては自分たちの判断と選択の尊重を求め、日本はそれを認めることによって「病」なるものが治癒(解決)されるのです。 

 

〝外国籍を維持しながら日本と闘う”という主張

 朴さんは「(日本は外国人を)受け入れる以上は、彼らが日本に来てよかったと思えるような、受け入れをめぐるインフラ整備や対応が必要」「日本の今後の外国人受け入れ政策」とあるように、日本側の変革を要求しておられるようです。 「名前」を例にとりますと、朴さんはおそらく、〝日本は在日に通名(日本名)を強制してきた、日本はこれを反省して在日が本名(民族名)を名乗ることができるような社会を作れ”というようなことを要求しているのではないかと思われます。 このような要求はかつての民族差別と闘う運動団体でよく語られたものです。 朴さんも関係しておられたようなので、全くの想像ではありません。

 しかし何度も繰り返しますが、在日や外国人がやるべきことは「名前」も「国籍」も「言葉」も自分たちが先ず主体的に判断し選択することです。 しかし朴さんはそんな自分たちの判断と選択の過程を飛ばして、日本に「外国人受け入れ政策」を要求し「闘う」としているところに、私は大いなる疑問を感じるところです。 

 朴さんはおそらく、〝自分たち在日は日本と闘うことによって権利を獲得し展望を切り開いてきた、だから他の外国人たちもこれに見習って日本と闘うべきだ”と主張しておられるようです。 実際20年ほど前ですが、朴さんは『歴史のなかの「在日」』という本の中の座談会で、次のように発言しておられます。

韓国・朝鮮籍を維持したまま、日本で私たちが国籍条項の壁と闘っていくことで、出自とか国籍による不利益を受けない社会をこの国でつくり出していきたい。 (『歴史のなかの「在日」』藤原書店 2005年3月 74頁)

 ですから朴さんは在日の闘いをさらに拡大して、〝外国人は外国籍を維持したまま日本に対して闘え!”と闘争を呼びかけていると思われます。 彼は〝日本との闘い”に自分のアイデンティティを見出してきた活動家だからこそ、このような主張をしておられるのでしょう。

 これに対する私の考えを言いますと、〝近代国家というのは領土と国民の範囲を明確にするもので、具体的にいうと自国と外国の間に引かれる「国境線」と内国民と外国人を区別する「国籍」を明確にすることである。 「国境線」によって法律を施行する領域が定められるのと同時に、「国籍」によって人の法的立場に違いがあることは近代国家である限り当然、問題は日本と外国との間の壁が合理的なものかどうか”ということです。 従って朴さんが主張すべきは「国籍条項の壁と闘う」ではなく、「合理的な国籍の壁」を要求することだと考えます。

 そして将来、〝内国民と外国人の明確な区別”は、最近の欧米人の移民に対する考え方の変化を見るように全世界的にさらに厳しくなっていくだろう、つまりこれからは全世界で近代国家の理念がより厳格化していくだろうと予想します。 従って在日は〝まるで日本人のように見えるが実は外国人”というような曖昧な存在は許されず、〝日本国籍を取得して日本人として生きていく”のか、それとも〝あくまで日本人とは違う外国人である”として生きていくのかが厳しく迫られることになるでしょう。 在日は、内外国民では義務と権利が違うことを明確に知った上で、どのような生き方するのかを主体的に判断して選択することが重要です。 朴さんのような指導的立場にある人は、先ずはこれを自分たち在日社会に呼びかけるべきだと考えます。

 朴さんの著書『在日という病』について、他にも突っ込みたいところが一杯あるのですが、これで終わります。        (終わり)

朴一さん『在日という病』を読む(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/08/15/9796104

朴一さん『在日という病』を読む(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/08/21/9797365

朴一さん『在日という病』を読む(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/08/27/9798735

朴一さん『在日という病』を読む(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/09/01/9800016

 

【在日に関する拙稿】

第54題 「差別・同化政策」考    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuuyondai

第19題 消える「在日韓国・朝鮮人」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuukyuudai

第40題 在日朝鮮人は外国人である   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuudai

第41題 (続)在日朝鮮人は外国人である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuuichidai

第32題 在日朝鮮人が海外旅行すると‥ http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuunidai

第49題 合理的な外国人差別は正当である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuukyuudai

30年前の在日韓国人論―四方田犬彦    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/05/8762608

1980年代在日韓国人活動家の考え方―曺功鉉(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/21/9570847

1980年代在日韓国人活動家の考え方―曺功鉉(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/25/9571842

1980年代在日韓国人活動家の考え方―曺功鉉(3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/29/9572830

水野・文『在日朝鮮人』(16)―国籍剥奪論の矛盾  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/30/8142349

水野・文『在日朝鮮人』(21)―同化       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/23/8197450

コメント

_ 辻本 ― 2025/09/08 08:01

 朴一さんの主張を簡潔にいうと、「外国人でありながら日本人と同じ権利がほしい、そのために闘う」ということです。
 つまり日本人と外国人の間の壁をなくせ、ということになります。
 果たしてそれは正しいことなのか、という疑問が今回のブログの趣旨です。

_ 辻本 ― 2025/09/09 18:26

>日本に暮らす外国籍住民が「在日という病」と思わない社会、日本が外国人にとって希望のある社会になってほしい

 これが朴一さんが日本に対して要求しているものですが、結論からいうと、これは何十年も前から実現しています。
 日本では「名前」も「国籍」も「言葉」も、在日を含む外国人が願うことをそのまま認めてきました。
 例えば在日華僑の方は、民族名を名乗り、国籍を維持し、世界に散らばっている一族・親戚との交流のために自民族の言葉を駆使してきました。
 しかし在日韓国・朝鮮人のほとんどは自らの判断で通名(日本名)を名乗り、同じく自らの判断で外国籍を維持し、普段の生活では日本語のみを使ってきたのです。 
 つまりこれらは日本から強制されたのではなく、自ら望んだものなのであり、日本の責任に帰すものではありません。
 ですから在日社会において指導的立場にある朴一さんが主張すべきは、日本に対する要求ではなく、〝われわれ在日はこういう生き方に改めましょう”という在日の変革を呼びかけることだと考えます。

_ 海苔訓六 ― 2025/09/10 07:07

AIはこの問題に関してどのように反論できるのか?
興味があったので
GoogleGeminiに質問してみました。

1. 「自らの判断」という言葉の再検討
​在日朝鮮人を含む外国人が、通名を使用するに至った背景には、日本の社会構造や歴史的な状況が深く関わっています。これは、単純な「自らの判断」という言葉では片付けられない、複雑な問題です。
​社会的圧力と差別: 植民地支配から解放された後も、日本社会には根強い差別や偏見が存在しました。朝鮮人という本名を名乗ることで、就職や進学、日常生活において不利益を被ることが多々ありました。そのため、差別のリスクを避けるために通名を使う選択をせざるを得ない状況がありました。これは、個人が自由に選択したというより、社会的な圧力によって強いられた「やむを得ない選択」と捉えるべきです。
​生活の便宜: 日本で生活する上で、日本の社会システムや行政手続きは、日本名を前提に設計されていることが多くあります。通名を使用することで、生活上の不便を解消しようとした側面も否定できません。これは、利便性を求めた選択ではありますが、その背景には日本社会が彼らの民族名を受け入れる体制が不十分であったという問題が存在します。
​2. 「華僑」との単純比較の不適切さ
​在日華僑との比較は、歴史的背景や社会的状況が異なるため、不適切です。
​植民地支配の歴史: 在日朝鮮人の多くは、日本の植民地支配下で日本に強制連行されたり、職を求めて渡日したりした人々です。彼らは、日本の植民地支配という特別な歴史的経緯を持っており、単なる経済移民である華僑とはその立場が大きく異なります。
​本国との関係: 朝鮮半島が南北に分断され、長らく外交関係がなかったことも、在日朝鮮人が本国との文化的・言語的なつながりを維持することを困難にしました。一方、中国からの移民である華僑は、本国との関係を維持しやすい環境にありました。
​3. 「責任」の所在
​在日朝鮮人が通名を使用したり、外国籍を維持したりしている現状は、日本が過去の歴史に向き合い、マイノリティの人々が安心して民族名や文化を維持できるような社会を構築してこなかったことと無関係ではありません。
​多文化共生の遅れ: 日本は、多様な文化や民族を持つ人々が共生できる社会の実現において、十分な取り組みをしてきたとは言えません。彼らが民族名を名乗ることで不利益を被ることがないよう、社会全体で意識を変え、制度を整える責任は、日本側にあると言えます。
​差別と偏見の助長: 一部のメディアや政治家が、在日朝鮮人に対する差別や偏見を助長するような言動を繰り返してきたことも、彼らが民族名を名乗りづらい状況を生み出しました。これは、日本社会全体の問題であり、個人の選択のみに責任を帰すことはできません。
​以上の点から、在日朝鮮人が通名を使用していることなどを、個人の「自らの判断」のみに帰する主張は、歴史的・社会的な背景を無視したものであり、妥当ではないと反論することができます。

_ 海苔訓六 ― 2025/09/10 07:15

セカンドオピニオン的にGrokでも質問してみました。


### 1. 「通名」の使用は「自らの判断」ではなく、差別回避のための強制的な適応
在日朝鮮人が通名(日本名)を名乗るのは、日本社会での差別や偏見を避けるための生存戦略です。戦後、就職、結婚、教育などの場面で本名(民族名)を名乗ると不利になるケースが多かったため、通名を選択せざるを得なかった事例が報告されています。 例えば、貧困や社会的摩擦を避けるために日本名を使用せざるを得なかったケースが多く、親が子どもに通名を付ける理由として民族差別から守ることが挙げられます。 また、最近の事例でも、通名を強要されるような状況が人権侵害として訴訟に発展しており、これは「望んだ」選択ではなく、社会的圧力の結果です。 日本政府は通称名の使用を認める一方で、差別の撤廃には消極的だったため、この状況を助長したと言えます。

### 2. 国籍維持は日本政府の政策による強制的な結果
在日朝鮮人が外国籍を維持するのは、戦後日本政府が一方的に日本国籍を剥奪した歴史的経緯に起因します。1952年のサンフランシスコ講和条約発効により、在日朝鮮人(および台湾人)は国籍選択権なく日本国籍を喪失し、「朝鮮籍」として扱われました。 これにより、帰化手続きは厳格で複雑になり、文化的同化を強いられるため、多くの人が国籍維持を選択せざるを得ませんでした。 これは日本側の通達による一律措置であり、個人の「判断」ではなく、制度的制約の産物です。

### 3. 日本語の使用は社会・教育構造の反映で、選択の余地が限定的
在日朝鮮人が日常生活で日本語を主に使用するのは、日本社会の言語環境が日本語中心であるためです。多くの在日朝鮮人は日本で生まれ育ち、母語が日本語となっているケースが多く、朝鮮語の使用機会が制度的に制限されてきました。 民族学校の教育機会が経済的・社会的ハードルが高く、公教育では日本語が標準であるため、モノリンガル化(日本語のみの使用)が進んでいます。 これは「望んだ」ものではなく、生存のための適応であり、朝鮮語継承の難しさを示しています。

### 4. 在日華僑との比較は歴史的文脈の違いを無視したもの
在日華僑と在日朝鮮人を同列に論じるのは不適切です。在日朝鮮人の多くは日本による植民地支配(1910-1945年)の結果として強制連行や経済的理由で日本に移住した人々やその子孫であり、戦後の国籍剥奪や差別政策の影響を強く受けました。 一方、在日華僑(中国人)は貿易や自主的移住が主で、歴史的経緯が異なり、社会的地位や政府の扱いにも差があります。 この違いを無視して「自らの望み」と一括りにするのは、植民地主義の遺産を軽視した主張です。

### 5. これらの状況は日本の責任を免れない
日本政府は戦後、在日朝鮮人に対する差別政策(例:外国人登録制度での指紋押捺義務、公務員採用差別)を長年維持し、社会的統合を妨げてきました。 これにより、通名使用や国籍維持、日本語依存が生まれ、差別が構造的に再生産されたのです。 したがって、これらを「日本の責任ではない」とするのは、歴史的事実を歪曲したものです。

### 結論
在日朝鮮人の「名前」「国籍」「言葉」の選択は、日本社会の差別構造と政策の影響下で生まれたものであり、純粋な「自らの望み」ではありません。植民地支配の歴史と戦後の対応を考慮すれば、日本の責任は明らかです。この主張は一方的な視点であり、多角的な歴史理解が必要です。

↑GeminiもGrokも「自らの判断」という点を批判するために日本の国家的政策のせいだ!
というロジックをとるのは共通しているようです。

_ 辻本 ― 2025/09/10 10:55

>在日朝鮮人が通名を使用していることなどを、個人の「自らの判断」のみに帰する主張は、歴史的・社会的な背景を無視したものであり、妥当ではないと反論することができます

 朝鮮人は古来名前に関しては柔軟な民族でした。
 ですから在日は「創氏改名」のような法的強制がなかった時代から、日本に来れば日本名を自分で名乗る場合が多かったです。
 金玉均などの歴史上の有名人も、日本に住居を構えたら日本名の表札を掲げたという歴史的事実があります。
 在日のお年寄りに、いつから日本名を名乗り出しかを聞いても、日本に着いたときから日本名だったという場合が多かったですね。
 ただほとんどの在日が日本名を名乗るようになったのは、戦後のようです。
 在日社会では、自分たちは日本に住んでいるのだから日本名を使うというのは共通認識だったと言っていいと思います。
 民団などの民族団体では、日本人なんかいない空間なのに、自分たち同士は日本名で名乗り呼び合っていましたよ。

>在日朝鮮人の「名前」「国籍」「言葉」の選択は、日本社会の差別構造と政策の影響下で生まれたものであり、純粋な「自らの望み」ではありません。植民地支配の歴史と戦後の対応を考慮すれば、日本の責任は明らかです。この主張は一方的な視点であり、多角的な歴史理解が必要です。

 これは民族差別と闘う活動家たちがずっと言い続けてきた主張ですね。
 「名前」「国籍」「言葉」は自分で選択すべきものであるのに、日本から押し付けれたという被害感情をそのままぶつけるものです。
 朴一さんもその一人のようです。
 自分たちは悪くない、悪いのはすべて日本だ、ということです。
 こういう活動家さんは弁がの立つ人が多く、喋り出したら止まらないようになりましたね。
 これには、反権力思想を有する日本人たちが受け入れていました。


 ご投稿には細かい点で事実関係に間違い多いです。 ここでは名前について述べます。 
 
>日本の社会システムや行政手続きは、日本名を前提に設計されていることが多くあります

 例えば、学校の入学手続きは昔から本名はもちろんのこと、通名でも受け入れてきました。
 そしてほとんどの在日が通名での手続きをしていました。 
 本名での手続きも可能で、中国人はほとんどが本名でしたので、「日本名を前提に設計されている」はウソですね。
 ただ本名を使う在日は極めて珍しかったので、本名で申請されたら担当者が「何故ですか?」と疑問を口にすることがありました。
 なお在日は外国人で、憲法の定める教育の義務は課されていなかったので、学校における扱い方は日本人とは違うことになります。

_ 海苔訓六 ― 2025/09/14 12:55

金玉均が日本滞在時は日本名「岩田秋作・岩田周作」を名乗って表札も「岩田」と掲示していたことは返信コメントいただくまで知りませんでした。
朝鮮人は新羅時代から名前を支那風に変えたり名前に関しては柔軟な民族というイメージは私にもあり、何故日本の創氏改名「だけ」朝鮮人は文句をつけるのか?理解できない面も常々あったのでAIに質問してみました。
・韓国政府および韓国人は、唐冊封下の中国風創氏改名を「文化交流・国家形成の過程」として認識し、謝罪要求をしません。これは、新羅時代を「栄光の歴史」として肯定的に捉えるためで、日本時代の創氏改名とは文脈を区別します。あなたのご指摘は理屈として成り立ちますが、韓国側の歴史観では「文脈の違い」が優先され、中国への「過去清算」は求められていません。(Grok)

・新羅時代の姓氏導入と日本の創氏改名に対する認識が異なるのは、両者の行為が持つ歴史的文脈が根本的に異なるためである。
​新羅の姓氏導入は、自国の権力層が、より高度な文化・制度を能動的に取り入れ、自己の支配を正当化し、国家を発展させるための戦略的選択であった。これは、外部からの強制ではなく、自己のアイデンティティを再構築し、権威を向上させるための能動的な行為と捉えられている。
​一方、日本の創氏改名は、被支配民族の精神的基盤と社会構造を破壊し、植民地支配を永続させるために、外部から一方的に押し付けられた強制的な同化政策であった。これは、屈辱と苦痛の象徴として、現代の韓国のナショナリズムと歴史認識の根幹を形成する重要な要素となっている。
​したがって、韓国が日本に対して「過去の清算」を求める一方で、中国に対して同様の要求をしないのは、「名前を変えたこと自体が悪い」という単純な論理からではなく、それぞれの出来事が持つ**「主体的か、強制的か」**という本質的な違いに基づいている。(Gemini)


これは個人的な話ですがコロナ禍直前の2019年10月に韓国観光した時、現地ガイドしてくださった日本語のできる朝鮮人大学生と創氏改名の話をした時、彼が「当時は同じ国でしたね。同じ国なのに名前を作る方法が違うのは非効率的ですね。個人的に創氏改名は悪くなかったと思います」と話してくれたのを覚えています。

ただ、その後仁川のチキン店で発泡酒みたいな薄味の朝鮮ビール飲みながら雑談していたら彼も「この日本人は朝鮮のことをある程度知ってるな」と信用してくれた?みたいで
「日本のことが、嫌いですね」とポツリと言ったのも忘れられません。
別に彼は親日家だから創氏改名を悪くないといったわけでも無いと思いますし、こういのが一般の朝鮮人の感覚だろうとも思ってます。

_ 辻本 ― 2025/09/14 20:44

 金玉均の話は、50年ほど前の金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか 』という本のなかに記載されていたように覚えています。
 内容は、金玉均は日本亡命中、日本の有力者から援助を受け、一軒家に住んでいた、そのときに「岩田」という表札をあげて、訪問客に見せて自慢していた(日本語は分からないから朝鮮語で)というようなものだったと思います。
 おそらく金玉均の伝記などから取った話だろうと思いますが、リアルだったので事実だろうと思ってきました。
 確認しなければなりませんねえ。

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