ソフトベンダーTAKERU・MSXや同人を支えてくれた影のヒーロー武尊
ソフトベンダーTAKERU。それは1986年4月から11年に渡って展開された、世界にも類を見ないパソコンソフトの自動販売機です。
パソコン通信ですら珍しかった時代、コンピュータネットワークを駆使したTAKERUは極めて野心的な試みでした。しかし商業的には大成することなく、某番組では「黒歴史」とまで断罪されてしまいます。それでもなおTAKERUが日本のパソコン文化に多大な貢献をしたことを僕は疑いません。
輝かしい栄光には至らずも、決してあきらめることなくレトロPCやMSXを支えてくれた影のヒーロー武尊。今回はMSXユーザーが体験したTAKERUのいた時代を綴ります。
❶最悪のファーストコンタクト
TAKERU設置の最初期店舗で、貴重な2代目『SV-2100』を体験できました
ザナドゥ発売で沸き8bitパソコン全盛期だった1986年の初夏、僕は入部した中学のパソコンクラブで無駄話に明け暮れていました。そんな折、情報通のX1くんが「駅前のラオックスにパソコンゲームの自動販売機が出来たらしいぞ」と教えてくれたのです。面白そうなので悪友FM7くんも誘って行ってみたのがTAKERUとの出会いでした。前回投稿のザナドゥ特集と同時期のお話です.
僕😊「5・3.5インチフロッピーディスクだけじゃなくMSXのROMやテープゲームも扱ってるんだ。」
X1くん😉「パソコン通信でデーターを取り寄せてるのか、やるじゃない(ニコ!)」
まずゲームの機種を選択し、メニュー画面からタイトルを検索すると画面写真つきでソフトを紹介してくれます。物珍しさで色々いじくって販売タイトルを見たのですが、MSXのラインナップは型遅れの品が多く、それほど安くもなかったので食指が動きませんでした。この時期僕は既に秋葉原の中古ショップでゲームを購入するようになっていて、半額以下、時には千円ほどで購入できることも珍しくなかったのです。
FM7くん🤔「まあ物は試しだ。ちょうど『A列車で行こう』が欲しかったし。」
当然ながら料金は先払い、するとフロッピーディスクがTAKERUの下から出てきました。これを画面の指示に従ってドライブに投入するのです。
FM7くん🤨「なんだ、パッケージに入って出てくるんじゃないのか。」
X1くん😒「アホ!データーを通信回線でダウンロードしてから書き込むって書いてあるやろ。」
データのコピーが始まると、画面に写った爆弾の導火線がゆっくりと短くなっていきます。しかしこれがムチャクチャ長いのでした。終了するまで移動するわけにもいかず、TAKERUの前でパソコン少年が突っ立っている様は罰ゲームのような有様。家電を買いに来たオバチャンなんかにジロジロと見られたりするんですよ。初期型TAKERUのモデムの通信速度は1200bpsで、一説によるとソフトによっては20分以上かかるものもあったそうです。導火線が爆弾まで辿り着く前に、僕達の堪忍袋の尾がキレる方が先でした。
ラベルを手書きしなければならなかったのでコピー品臭かったです。
僕😵「いくら何でも遅すぎるよ、テープ版のレリクスじゃあるまいし。」
FM7くん☹️「え?まさかこのちゃちな紙箱がパッケージなのか…」
X1くん😁「FDのラベルもねえのか。マニュアルはガビガビのドットインパクトプリンター印刷ときたもんだ。」
更に初期型は故障が多く、途中で動作が止まってしまうこともしばしば。店員さんが忙しいときはそのまま待ちぼうけです。僕も後年アレスタ2を購入した時、マニュアルの印刷途中でプリンターが詰まってグシャグシャになり、そのまま閉店時間になって泣き寝入りした苦い記憶があります。この時は相当腹が立って
😠「ブラザー工業は新機種のプリンター出す前にTAKERUのプリンターを改良してくれ。」
と手紙を出したら、お詫びの葉書と割引券が贈られてきました。担当の方ありがとうございました😅
小一時間かかってようやく完成した一式を見てX1くん曰く
🤣「ケケケまるで公式のコピー品や。コ〇ーツールでピーコしたのと変わんねえじゃんか。マニュアルなんか特にインチキ臭いし。」
僕😟「これで定価7800円が6600円かあ。1割引きなら秋葉の中古ショップで買った方がいいね。」
これにはFM7くんもご立腹。彼は親戚にソフトメーカーの社長がいて、パソコン仲間が無法にコピーしまくっていることを嘆いていていました。それ故正規品を新品で購入することをポリシーにしていたのです。
FM7くん😠「あばよTAKERU、短い付き合いだったな。」
僕達はまさかその後10年間もの長い付き合いになるとは思いもしなかったのです。
ここにガムを詰めたバカがいやがりました。店員さんが泣いてましたよ。
僕もこのタイプは見たことがありません。
❷タケル伝説という伝説
サンヨーくん😵「うわあ、やられた!MSXFANに騙された」
サンヨーくんは何故か無意味にコナミを嫌っていて、MSX仲間でも有名なクソゲー、アワワ個性的なゲームの収集家でした。そんな彼が手を出したのはTAKERUのオリジナルソフト「タケル伝説」。
初期のTAKERUはラインナップの貧弱さが不人気の一因で、特にオリジナルのソフトが不足していました。そんな中でブラザー工業はMSX用として4タイトルのオリジナルソフトを供給しています。ちなみに「イエローサブマリン」と「キャノンターボ」は天使たちの午後で有名なジャストが関わっているとか。
キャノンターボ
ジャスト(JAST)開発(E.L.S)
ブラザー工業(TAKERU)1987年発売¥2500
四季を駆け巡る近未来のストリート・ファイトです!!(説明書にそう書いてあるそうです💦)
敵車両を砲弾で破壊しまくるバイオレンスレースゲーム。
イエローサブマリン
ブラザー工業(TAKERU)1987年発売¥2500
昔懐かしの1画面固定のシューティング。面白そうですがメガロム全盛の1987年発売ではちょっと厳しいかも💦
この中でタイトル画面が一番派手で面白そうなのが「タケル伝説」。僕はポニー発売ということもあってハナから警戒していたのですが、サンヨーくんは「ザナックや忍者プリンセスは面白かっただろ!」と購入を決意。ところが実際にプレイしてみると、とんでもないシロモノだったのでした。
サンヨーくん😡「コレ、以前ポニーが発売していたジャッキーチェンのプロテクターと同じじゃないか!」
「どんなプログラムにも手を抜かないポニー」の広告に「嘘つけ!」とみんなで突っ込んでました。
プロテクターは1985年発売のポニーお得意の版権もので、正直あまり話題にもなららなかった作品です。それをまさか2年後に新作として発売するとは思いもよりませんでした。違いはキャラクターが書き換えになって、面クリア時の「アチョー」という人工音声が「冗談じゃないよ」という吹き出しに変更されているだけ。おまけになんだかプロテクターより動作がもっさりしている始末。ご想像の通りポニーファンのサンヨーくんはプロテクターを既に購入済みでした。
『時と共に何処かに埋もれてしまいそうな、だけども面白くてそれでは惜しいソフトを復活させたもの』という記述が大人の事情を感じさせます。
この後瞬くサンヨーくんはMSXFAN不振に陥りました。
サンヨーくん🥴「『冗談じゃないよ』って言いたいのはこっちだよ。」
そうとボヤく彼に、僕はニヤニヤしながら購入したログインの広告を見せました。
僕😁「タケル伝説がランキング5位に入ってるよ、お仲間は多かったみたいだね。5本買うと1本おまけらしいから挑戦してみたら?」
サンヨーくん😖「駄菓子屋じゃあるまいし、もうごめんだよ。」
そこに現れたX1くん
😁「TAKERUはラインナップを揃えるのに相当苦戦してるみたいやな。ここにザインの「シオン」の広告が載ってるやろ、噂ではコレ発売中止になったらしいで。藁をも掴む思いだったんやろな。」
実際にコピー中のトラブルなので作動しないケースなども多く、武尊の初期段階には相当な苦労があったと思います。
このような感じでTAKERUの前途は多難に見えました。僕もこの頃は時代のあだ花になってすぐに消えていく存在だと高をくくっていたのでした。
一部で有名な最初期のTAKERUのCM。初代機の映像で、何故かザインソフトのトリトーンが使われています。あの中毒性のあるBGMがツボですね。
TAKERUの名誉のために付け加えておくと、シンキングラビット製作のマデリーンのような傑作AVGもTAKERUオリジナルとして発売されていました。宗教改革時代の東欧を舞台とした硬派な内容で、3,200円という良心的な価格でボリュームも十分です。僕はX1くんの家で攻略しました。しかし残念なことにコマンド入力式のAVGは役目を終えようしていたことも事実でした。
「COSMO聖士LEAZA」はTAKERUオリジナルとして「TAKERU ORIGINALSOFT」名義で発売されました。高田明美先生のイラストが素敵ですね。
レトロPCゲームファンにとってもっとも有名なTAKERUオリジナルが1989年発売のアルガーナ。
YMCATが開発を担当、古代祐三先生が作曲という豪華な作りでX1くんはX1版の完成度を絶賛していましたね。BGMは聞きまくりましたが同時期のイースにも劣らない完成度だと思います。
後期のTAKERUのキラーコンテンツとなったソーサリアン用追加シナリオ。MSXユーザーとして超絶羨ましかったです。
MSXユーザーとして外せないのがソーサリアンのMSX移植。「伝説のRPGついにMSXの世界へ」のコピーが涙を誘います。
開発の方が当時の経緯を詳しく解説してくれました。
❸素晴らしきツクール達
僕が実際にTAKERUでソフトを購入するようになったのは一連のツクールがMSXマガジンで発表されるようになった1988年頃からでした。アスキーゲームツクールの歴史はログイン誌の『アドベンチャーゲームツクール』『ヨコスカウォーズ』などが源流になり現在も続く長寿シリーズです。TAKERUで最も売れたのはRPG作成ツールの『まみりん』で作者はログインの編集長として有名な高橋ピョン太氏。ただ僕はそちらの方面に詳しくないのでMSXにだけ話を限定しますね。
僕がMSXを入手した1985年から3年ほどが経ち、自分なりに頑張ってみたのですがプログラムの腕は一向に上達しませんでした。MSXでのゲーム制作をほとんど諦めていた時期になります。そこに登場したのが驚異的な完成度を持つ縦スクロールシューティング用ツクール吉田工務店でした。
少ないパーツで各面の特色を出せることを知ったのも吉田工務店のおかげです。
吉田工務店は現在から考えれば原始的なツールですが、当時の水準として市販ゲームに近い縦スクロールシューティングを制作することが出来ました。吉田工務店が他のツクールシリーズに比べて取っつきやすかったのは、一からゲームを完成させなくても「サンプル品」のゲームの1ステージ目を改造する所から始められることにありました。
実際にサンプルゲームの改造をはじめて見ると、ゲームの仕組みやコツなどが理解できて「おお!俺ゲーム創ってるよ!」という気分に浸れたものです。非力なMSXというパソコンでまともに遊べるゲームを制作できるユーザーは、マシン語を理解し、絵心があり、サウンドも出来るという一部の天才に限られていました。
しかしこういったツクールの登場でMSXの創作活動の敷居が一気に下がり、多くのクリエイターの卵達が全国で生れていくことになります。僕はこの流れこそ家庭用ゲーム機にはないMSXの魅力だと感じていました。
ツクールは色々なジャンルのものが発売されましたが、とりあえず完成しなくても触れることでそのジャンルのゲームの仕組みや市販用ゲームの完成度の高さを窺い知れるようになりました。この点はその後の大きな財産になったと感謝しています。
皮肉なことにMSXのツクール文化が成熟し始めた1990年あたりからMSXの市販ゲームが縮小傾向になり、MSX自体も斜陽の時代を迎えていきます。そのさなかMSXのツクールの最高傑作「RPGコンストラクションツール Dante」が発表されました。
当時のゲーム少年の共通の野望、それは
「ドラクエかイース創りてえ!」
だったと思います。それを一気にかなえてくれる夢のツールがDanteでした。1990年発売のDanteはドラクエⅢを再現できるほどの自由度を誇り、イースタイプの作成ツールだったDante2は市販品であるMSX版イースⅠより完成度が高いプログラムで度肝を抜かれました。その完成作品が次々とTAKERUで供給されることによって、刺激を受けたユーザーの創作意欲はさらに高まっていきます。
「自分の創ったゲームが全国のユーザーに購入してもらえる!」
これはMSXユーザーにとって究極の夢とも言えるものでした。それはMSX末期に花開いた同人ブームに続いていくのです。
音楽を専門家に依頼して制作した人も多かったとか。
❹黄昏のPCゲーム・MSXユーザ最後の砦
壁一面にゲームが飾られている様は何時見ても心が躍りました
「チッ、またMSXコーナーが小さくなってやがる。」
行きつけのパソコンショップで僕は思わず舌打ちした。かつて隆盛を誇ったパソコンゲームコーナーは縮小の一途をたどっていた。
8bit御三家と呼ばれたPC-8800・X1・FM-7は見る影もなく、PC-6001のソフトが忘れ去られたように「その他のPC」の棚に佇んでいた。MSXは辛うじて売り場を死守していたが、ディスクステーションと光栄のソフトだけが目立つ。家庭用ゲームが全盛を迎え、パソコンゲームは明らかな衰退期に入っていた。
皮肉にもユーザーがTAKERUが着目し始めたのはソフトの流通が少なくなったことが要因だった。ついには市販ソフトの供給が絶たれてた後も、MSXユーザーは独自の同人文化を創り上げ生き延びを図った。それは政府が降伏しても諦めることなく、地下で戦い続けるゲリラ兵を連想させた。
しかし同人ソフトは「コミケ」や「パソケット」といった即売会に行かねば購入することが出来ない。まだアングラ臭の強かった同人を正規の流通であるTAKERUで販売することはゲームの歴史上革命的な出来事であり一つの奇跡といえた。
そのためTAKERUはMSXソフト購入の最後の砦とも呼ばれていたのだ。しかし同人の取り扱いは消費単価を下げることとなり、それは武尊のビジネスモデルの破綻をも意味していた。
パンフレットを見ると同人は明らかに単価が低かった。特にMSXはその傾向が強く1000円を切るものも少なくない。表にある某ソフトはDISK枚数6枚で1500円である。何でも制作側が「ロイヤリティはいらないから安く売って欲しい」と申告するケースもあったという。ユーザーパワーのMSXらしく多くのユーザーに遊んでほしいという心意気なのだろうが、TAKERU側にメリットはほとんどないだろう。それにもかかわらず武尊は同人専門の担当者を付け、その育成に力を入れてくれたのだ。
同人育成は草の根創作活動の下支えになり、将来のプロ活動への登竜門的役割も同時に果たしていた。確かにそれは理想的な環境と言えたが、ビジネスとして成立するかはまた別の話だ。ビジネスを越えた熱量を抱く存在を僕は過去に知っていた。その結末とTAKERUの通った道はあまりにも酷似している。
あの悲しみを2度と味わいたくないと思った筈なのに、どうしてもTAKERUに引き寄せられる「何か」があった。同人ソフトの書き込み時間、あるアニメの一場面を唐突に思い出した。
「滅びゆく者の為に…」
黄昏の帝国の兵士が出撃前に語ったセリフ。僕は納得した、TAKERUという物語を最後まで見届けたいのだ。そしてそれは愛してやまなかったパソコンゲームの時代の一つの区切りになるだろう。武尊という楽園の終焉は目前なのだから・・・
❺皆を繋ぐTAKERUわあるど
PCゲーム自動販売機として始まったTAKERUでしたが、同人を扱うようになってからコミニティとしての役割を担う様になってきました。会報誌が開設され、その活動は次第に熱を帯びていきます。投稿欄には熱いコメントやイラストが寄せられていました。
ネットの無かった時代、オタクコミニティを形成していたのは雑誌が中心でした。僕はこの時期あるゲームサークルに所属していて、コミケなどで同人ソフト販売などを手伝ったりしましたが、まだサークル同士が販売会場で連帯する雰囲気ではなかったように思います。あの場はあまりに忙しすぎました。
それを繋げる役割を担ったのは黎明期のパソコン通信やパソコン雑誌だったわけですが、ゲームソフトの供給側であるTAKERUが作り上げたコミニティは極めて稀有な例でした。
投稿プログラム、ソーサリアンMSX移植、戦国ソーサリアンシナリオコンテスト、フリーソフトウェア100選…それはもはやファンサービスやビジネスの域を超えていたように思います。当時のTAKERUの客層は10代の少年が中心だったそうですから、その購買力はたかが知れていたでしょう。何故TAKERU事業部がそこまでの熱意をもって取り組んでくれたのかは今になっても解りません。ただ、僕はその足跡をどうしても残しておきたかったのです。
1995年10月版「おうちでTAKERU」。自宅でTAKERUの販売品を見ることが出来るソフト。X68k・MSX・PC-98・FM TOWNSなどの懐かしいゲームを閲覧することが出来ます。TAKERUで購入した経験のある方に是非見て頂きたいです。
❻TAKERUよ永遠に…最終日の一コマ
ネット時代の足音の聞こえるようになった1996年の暮れ、その日は突然やってきた。何の前触れもなしに僅か一枚のチラシでの終了宣言だった。かつての仲間達の愛機は8bit機から16bit機になり、ほんの少し大人になっていたが、パソコン少年としての心根は変わっていなかった。
アルバイトながらゲーム作製の世界に足を踏み入れていたX1君が寂しそうに呟いた。
「X68000用の『電脳倶楽部』には世話になったな。」
富士通と南野陽子に忠誠を誓ったはずのFM7君はエロゲーの沼にハマり、宿敵だったはずの国民機を所有していた。
「宝魔ハンターライムは名作だったのになあ。やっぱり時代の流れなんだろうか。」
プロとしての目線でX1君が冷静に解説してくれた。
「もうゲームの媒体がCDになるのも時間の問題やろ。それにパソコンゲーム自体が根本的に変革する時代が迫ってるんや。」
それはオンラインゲームを指すことを後に知るのだが、そこにTAKERUの居場所がないことは無知な僕にも何となく理解できた。
それは古き良き時代を冷酷に淘汰してきた、パソコンやゲームの進化を体験してきた僕らが皆歩んできた道だからだ。仕方がない、それは納得したはずだ。しかし何か違和感があった。
TAKERUのパソコンゲームやMSXに対する貢献は疑いようがない。11年間のTAKERUの歴史にはそれだけの重みがあった。しかしMSXマガジンやMSXFANが書籍として形が残ることによってユーザーに長く記憶されるのに対して、TAKERUはその消滅と共に忘れ去られていくことだろう。それがたまらなく悲しいことに気がついたのだ。
僕がMSXFANの休刊時と違っていたのは、就職活動を経て少しだけ大人になっていたことだ。残酷な現実を突きつけられながら、その中でTAKERUのスタッフの方々が精一杯の理想を僕らに提供してくれたこと。その苦闘の日々の偉大さを僅かながら理解できるようになっていた。TAKERUの撤去の日、僕はパソコンショップに急いだ。
10年間パソコン売り場の象徴であったTAKERUは、静かに最後の時を迎えていた。営業の方が打ち合わせをしている際、僕は自分が出来る最高の感謝の意である空手の十時を切り、深々と頭を下げた。
「押忍・今までありがとうございました。」
営業の方はあっけにとられたようだが、僕の真剣な眼差しを見てすべてを理解してくれたように微笑んだ。
「こちらこそ長い間、武尊をありがとうございました。」
マジで凄すぎますよ!
❼ただ栄光の為でなく…兄弟のその後
TAKERUと言う一つの物語は終焉を迎えたが、ブラザー工業は当然その後も存続し続けた。当時日本は経済崩壊の直後にあり、バブルの飽食を貪った企業の多くが破滅の時を迎えようとしていた。失われた30年の到来である。
グローバル化と合理化を徹底した海外企業の前に、日本の旧体質な企業はなすすべもなく敗北していく運命にあった。
その中でブラザー工業はミシンからプリンターへと主力商品を移しつつ安定した業績を残し、現在では紙レス化の時代に対応した企業戦略によって更なる改革に挑んでいるという。積極的なM&Aや海外展開によって、海外売上比率は全体の8割を超えている優良企業であると伝え聞いた。それは一つの奇跡とも言えた。
昨今イノベーションと言う言葉が安易に使われるようになった。しかしイノベーションとは安易な技術革新のことではない。未来に向けて種をまき、粘り強く育てることによってもたらされる結果に他ならない。それはまさにソフトベンダー武尊が11年間で体現した歴史そのものであるのではないだろうか。
あれから長い時が流れた。TAKERUが遠い忘却の彼方へと押しやられていた頃、ブラザー工業は2022年5月11日に決算発表、過去最高益を発表した。TAKERUの営業終了から25年、かつてお世話になったユーザーの一人としてこの栄光に僕は喝采を叫び、拳を突き上げた。
「ヘイブラザー、あんた最高だぜ!」
❽TAKERU、君のことは忘れない
今回は途中で文体が変わってしまって申し訳ありません。何度か書き直してみたのですが、どうしてもTAKERUが終焉に向かう寂寞感を表現できなかったのです。
元々この投稿は2022年にTAKERUがNHKの番組「これがわが社の黒歴史」で特集された際に、自分がお世話になった体験をTwitterで発信したことをまとめた物です。その際には多くのいいね、そしてTAKERUの体験談や情報を頂きました。
僕はネットでは政治的発言を控えていますが、名古屋市民の為にTAKERU時代のように御活躍されることを祈っています。
地方の方、同人制作をされていた方、ツクールを扱っていた方など使用機種を問わず誰もがTAKERUに感謝の意をコメントしていました。色々調べてみるとTAKERUの歴史は新規ビジネスと言うよりも、パソコンやゲーム文化の可能性を模索し続けていたという印象を受けます。この点は一時代を築いたMSXFANやマイコンBASICマガジンなどに通じる物があるのではないかと思います。
残念なことに僕のXアカウントが凍結されてしまったので、もう一度その足跡を残しておきたかったのです。前述しましたがTAKERUは雑誌のように形の残る媒体ではないので、人々の記憶に残りにくいと思います。しかし昨今TAKERUのイベントなどが開催されるなど、改めてその功績が見直されていることを嬉しく思います。
最後にソフトベンダー武尊とそれに関わった全ての人たちに心よりの感謝し、この投稿を〆させていただきます。
TAKERU、みんな君のことは忘れないよ!
サイボーグMSX
追加記事 開発陣インタビュー
1988年3月のインタビュー記事。武尊の開発リーダーだった安友雄一氏などが登場しています。

