改めてぼっち・ざ・ろっく記事の振り返り、吉田恵里香氏が実際に発言したこと、発言していないこと
Xの投稿はあっという間に流れて何がなんだかわからなくなるのが毎回のことなので、情報をまとめておこうと思います。
9月17日、KAIYOUに8月16日開催のアニメイベント「ANIME FANTASISTA JAPAN 2025」で行われた吉田恵里香氏のトークショーの記事が掲載されました。
『ぼっち・ざ・ろっく!』『虎に翼』の脚本家 吉田恵里香が語る、アニメと表現の“加害性”https://t.co/aeKppQuqXJ
— KAI-YOU(カイユウ) (@KAI_YOU_ed) September 14, 2025
覇権を狙うため『ぼざろ』から排除したノイズとは?──最新作『前橋ウィッチーズ』まで、吉田さんが独自の哲学を明かしたトークショーの模様をレポート🗣️ pic.twitter.com/k4LQUqapay
「『ぼっち・ざ・ろっく!』『虎に翼』の脚本家 吉田恵里香が語る、アニメと表現の“加害性”」
と記事には題されています。
しかしまず第一に、記事を読めばわかりますが、記事の中のイベントの引用において脚本家・吉田恵里香氏は一度も「加害性」という単語を口にしていません。
イベントの中で発言したのにそこを引用しなかった、でも記事のトップの見出しにはした、ということはまずありえないので、「吉田恵里香が語る、アニメと表現の“加害性”」という大見出しはKAIYOU編集部が「要約」としてつけたのでしょう。執筆担当記者ですらないと思います。こういうものは編集部がつける。言ってないことを大見出しにする、それも相当に攻撃的な単語を、というのはかなり乱暴な手法ですが、そうして「騒ぎにしてなんぼ」というところがあるわけです。
これはイベントの登壇者で吉田恵里香氏のトークパートナーをつとめた小黒祐一郎氏のタイムラインで、記事と実際のイベントの印象の違いを書いた投稿がありましたが、削除されています。実際のイベントでは小黒祐一郎氏の進行も含め、攻撃的ではなく抑制的にお話をされていたという内容でしたが、ほとんど拡散されないまま消えてしまった。記事に対する賛否双方の罵詈雑言の投げつけあいは数千規模でシェアされているというのに。
記事の中で話題になったのは、『ぼっち・ざ・ろっく!』に関する部分がほとんどで、それ以外、『虎に翼』や『前橋ウィッチーズ』『生理のおじさんとその娘』の部分はSNSではほぼスルーされてます。
「『ぼっち・ざ・ろっく!』が覇権を狙うために排除したノイズ」と題された章で吉田氏は
「原作ではひとりちゃん(※主人公の後藤ひとり)が水風呂に入るシーンで裸になっているんですが、アニメでは水着にしてもらいました。ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです」
「原作がまず素晴らしく、原作サイドもとても協力的で、監督含めスタッフも音楽チームも本気で動いてるし、けろりらさん(※キャラクターデザイン/総作画監督)もすごく良い絵を描いてくれている。制作の段階からこれなら覇権が取れるって思える作品なのに、そうしたノイズがあると多くの人に見てもらえなくなってしまいます」
という発言をしており、主にこの部分が論争になったわけです。
というのもここだけ読むと原作では全裸のきわどいシーンが描かれているのを修正したように思えますが、実際には原作のシーンというのも四コマの小さなコマで、主人公がわざと風邪をひいて休むために氷風呂に入るという他愛もないギャグシーンです。プライベートゾーン、局部は原作でもうまく隠されています。
まず第一に、ここで明確にしておく必要があるのは
脚本家が誰であろうと、意識が高かろうと低かろうと、フェミニストであろうとなかろうと、今のテレビ放送アニメの規制基準で女性の乳首など局部が描かれることはほとんどない。ついでに言えば原作でも描かれていない
ということです。今期は『ぬきたし』という稀代の問題作アニメが放送されており、サブタイトルの「ドスケベ条例」「夕勃ち」「性人式」「体イク祭」という文字列を見ただけで内容は推して知っていただけると思いますが、吉田氏の言う「そういうのが売り」のアニメですら局部をモロに描いたりはできないのです。他のアニメにしても「謎の光」という言葉があるくらい修正は普通のことになっており、どう転んだって「ぼっちざろっく」の入浴シーンがきわどいエロアニメにはなりようがない規制の中で最初から作られています。
「原作の無修正性的搾取ポルノシーンをフェミニスト脚本家ならではの鋭いジェンダー感覚で水着に変更して作品を救い、そのおかげで世界的にヒットした」みたいな話では全然ないし、吉田恵里香氏もそんなことは言っていないわけです。
イベントの流れとして、『虎に翼』の吉田恵里香氏を呼んでアニメの話をすればフェミニズムとアニメ表現の話をせざるをえないし、トークパートナーの小黒祐一郎氏も気をつかいながら話しています。
こういう場でトークショーとして壇上に上がったプロの脚本家が「あの大ヒット作ぼっち・ざ・ろっくでは何か覚えていることありますか?」的に話をふられて「いや特にないッスね」「最初から規制あるんで」とはなかなか言えない。「強いていえば…」と何かあげざるをえないのです。それが目の前に来てくれたトークショー観客への儀礼です。
『ぼっち・ざ・ろっく』に対する個人的な感想を書けば、吉田恵里香氏の言う通り、原作の少女漫画的な細い線を、アニメ版のシンプルで強い線に整理したけろりら氏のキャラクターデザインが卓越していると思います。もともとアニメでは動かす関係で線を整理せざるをえないのですが、その整理の手腕が見事で、物語にスピード感とスタイリッシュさを生んでいる。またこの「線の整理」によって二次創作がしやすくなりファンダムの投稿を生んだともいえ、まさにアニメ版の神がかった名ブラッシュアップと言えるでしょう。
「覇権をめざすためにノイズを…」という吉田恵里香氏の発言も、完全にわからないわけではありません。ただ、よりシンプル化されたデザインの中で、原作ファンから放送当時「入浴シーンが性的に規制された」という声はほとんどなかった。実際原作でもそんなに性的なシーンではないわけですから。
端的に言えば「確かに肌の露出を減らしたとは言えるが、それって今の日本のテレビアニメとしてごくごく平均的な自主規制であり、特別に吉田恵里香氏が批判も賞賛も受けるほど突出しているわけではない」と言えます。
「加害性」という吉田恵里香氏の言ってない言葉の見出しへの挿入もそうですが、「吉田恵里香氏が性表現に対して革新的な自主規制を行い、それがぼっち・ざ・ろっく大ヒットにつながった」という記事を書く側のストーリーが前に出てしまい、それが賛否を読んだ面が強い。
あのワンシーンに限って言えば、入浴をスクール水着のシーンにしたことで性的表現をおさえた、かどうかはやや疑問です。別に肩まで水に浸かったシーンだけ描いておけばスクール水着より露出は少なくて済むし、ふろ上がりに冷風を浴びてむりやり凍えるシーンもバスタオルを巻けばいい話だから。バスタオルよりスクール水着の方が体のラインは出るし、むしろスクール水着を着たことで入浴する主人公のお尻を後ろから描くという、全裸なら絶対に放送できない(そして原作にもない)シーンが挿入されており、むしろ性的表現としては強まっているという見方もできます。
というかフェミニストとして認知される吉田恵里香がこう言っていなければ「自宅で入浴する時に水着を着るなんて女性のリアルじゃない、女子高生に強引にスクール水着を着せて規制をくぐり性的搾取をしている!!」と誰かが糾弾した時に乗っかってくる人はたくさんいると思います。そういう程度の「どっちにも取れるシーン」として上手くバランスを取っているし、吉田恵里香氏も実はバランス重視の脚本家です。
実際、アニメの『ぼっち・ざ・ろっく』の中に性的表現はいくらでもあります。
第11話、学園祭で主人公ぼっちちゃんたちがメイド喫茶をやるシーン。その可愛さに「ビジュアル方面で売り出すのもありか」とバンド仲間の目はお金色に輝き、あれこれと妄想した末に「ぼっちちゃんでお金儲けしないで!」と怒られる。まさにバンドにおける性的搾取のパロディシーンにしつつ、そのビジュアルを流すサービスシーンにもなっている「どっちにも取れる」シーンなわけです。もちろんここの脚本も吉田恵里香氏です。
上記の入浴シーンにも言えることですが、現状の学生に増えている膝まであるタイプではなく、旧式の露出の高いスクール水着をあえて描いているともいえます。
これらの表現は、「性的搾取」を問題視する人々に一切不問にされています。赤いきつねのCMでうどんを食べている表情が赤らんでいることすら問題とするのに。
『ぼっち・ざ・ろっく』に限りません。中学生と大学生が交際するセーラームーンはいいのか悪いのか?入浴シーンでのヌードや善逸くんのセクハラがある鬼滅の刃は性的搾取なのか?さらに激烈な性描写があるエヴァンゲリオンは配信サービスも含めて「ゾーニング」されるべきなのか?これらについて、フェミニスト、あるいはポリティカルコレクトを重視する人たちは、ある時は「もちろんそれらも問題視している人たちがいる、そんなことも知らないのか」と反論し、またある時は「これは問題ではない、そんなこともわからないのか」と擁護し、また別の人たちは完全に沈黙する、というバラバラな対応を取っています。単にバラバラであるだけではなく、バラバラであることを指摘されただけでも非常に彼らは怒り、攻撃的になります。
「どの表現が問題なのか」「どういう表現ならいいのか」という基準の議論を彼らは極端に嫌います。最終的に彼らが求めているのは確かな基準ではなく「何をゾーニングするか、我々の政治的代表者に自由に決定させろ」という権力獲得の運動だからです。
表現規制というと「規制する権力」を誰もがイメージしますが、実は「自分たちの味方は規制しない権力」「ゾーニングするかどうかを作家の党派性で決定できる権力」でもあるわけです。そしてそこを掌握してしまえば、今や世界興収800億円というハリウッド超大作級のヒットを生み出した日本のアニメ産業に対して隠然たる影響力を持つことができる。これは左派だけではなく、宗教右派と左派が明らかに連携して狙う動きでもあります。
そして今、吉田恵里香氏は、そうした人たちから「意識の高い作家」としてシンボリックに支持されている脚本家でもあります。
個人的に言えば、前述したように吉田恵里香氏の書く脚本、作品には上述したように性的な表現も含まれていますし、バランス感覚に配慮したエンターテインメントが作れる作家だと思っています。
しかしながら近年の吉田恵里香氏は、脚本家として作品に参加する過程においては柔軟にエンターテイメント作品として仕上げる一方で、インタビューではやや誇張気味に「搾取は許さない」と言った発言を支持者から暗に求められ、それに答える中で乖離が生まれているという印象です。
『前橋ウィッチーズ』についてのこのインタビューでもそうなのですが、
『たとえば“10代の女の子が走る際に胸が過剰に揺れる”といった描写も、私個人としてはあまりやりたくはない。だから走るシーンが入る時は、自分の考えを脚本の打ち合わせで伝えます。それが正しい間違っているという話ではありません。細かいことかもしれませんが、どんなことでもきちんと話し合える現場は、結果的に作品のクオリティがあがると思っています。』
という発言をしています。この発言自体は吉田恵里香氏のクリエイターとしてのコンセプトを説明したもので、本人の「それが正しい間違っているという話ではありません」という言葉の通りだと思います。
「そもそも女児向けアニメにパンチラとか胸揺れとか他の作品にもそんなにないですよね、プリキュアとかもう20年くらい女児の胸が揺れたことないですけど、なんで突然『差別表現まみれの女児アニメ界に大改革者あらわる』みたいな記事にされてるんでしょうか」とは言いません。記事というのはつねに「これまでの保守的な朝ドラにはなかった~」みたいな煽りで書かれるものなのです。
『不必要なお尻なめからのズームなども本作には描かれていません』というのもジャンルによっては当たり前の話で、なんというか他も含めて吉田恵里香氏のインタビュー記事全般に言えることなのですが、「この鉄火丼には牛肉が入っていません、これは正しいとか違っているとかの話ではなく、私がシェフと話し合って、これは鉄火丼なのだから牛肉を使うのはやめようと議論しました」みたいな内容を大意識改革のように記事としてピックアップされているのですが、「いやまあ、そのへんの寿司屋でも鉄火丼に牛肉入ってないですよね普通」という気持ちになります。
しかしそれはいい。牛肉を入れるも入れないもシェフの勝手であり、これは正しいとか間違っているとかの話ではなく、作り手の自由の話なのだ…と思って聞いていると、なぜか「牛肉は搾取ですから」みたいな話が突然ぶちこまれるのが吉田恵里香氏のインタビュー記事の困ったところです。
えっ、「これは正しいとか間違っているとかの話ではない」のではなかったの?
いったいキャラクターの胸が揺れるかどうかは「正しいか間違っているかの問題ではなく、作品のコンセプト」にすぎないのか、それとも「搾取」であり、「やるならゾーニングすべき」なのか、率直に言って吉田恵里香氏のインタビューの中では混乱しています。後者のように搾取でありゾーニングでやるべきであるというなら、それこそ上記のように鬼滅の刃からエヴァンゲリオンまで多くの作品が影響を受ける「倫理ラインの変更」を吉田恵里香氏は求めていることになる。そして吉田恵里香氏に関する記事の見出しも、あたかも吉田恵里香氏が新しい倫理観を打ち出し、業界のコードを変革することを賞賛するようなニュアンスをにおわせている。しかしそこに対して反論や疑問が来ると、突然前者の発言を引用して「吉田恵里香氏は正しいとか間違っているとかの話はしていないと言っているのが読めないのか、これは単に自作のコンセプトについて話しているのだ」とラインが変更される、という、そもそもの引用元のインタビューが混乱しているのだからSNS上の議論が混乱しないわけがないという展開になっています。
インタビューというのは聞き書きなのだから吉田恵里香氏を責めても仕方がない、ということは言えると思いますが、率直に言って吉田恵里香氏の発言全般について「声をあげる宣言モード」と「反論や炎上を警戒する防御モード」の落差が大きすぎるんですね。
たとえば上記のインタビューの中で
「でも本当は、その時、その瞬間に絶対言わないといけないことってあるんですよ。世の中が善くなってほしいし、戦争は嫌だし、虐殺も嫌だし、あらゆる差別も蔑視も、誰かが嗜虐心を満たす的になるのを見るのも嫌です。自分を肯定するためにも、サボらずに声を上げ続ける自分でいたいなと。」
という高らかな宣言をされていて、これはとても立派なことだと思いますが、具体的に「何が虐殺なのか」を一切言ってないんですね。これだけ読んで「ああ、虐殺というのはガザ地区での犠牲者のことだな、吉田さんは声を上げてくれているんだ」と思う人は多いと思うのですが、実際彼女の発言で「パレスチナ」「イスラエル」「ガザ」を検索すると具体的な言及はほとんど見つからない。しいて探せば「恒久的な停戦を心から望みます」という投稿だけですが、これはほとんど日本政府でも言ってるレベルのことです。どちらが虐殺しているのか、そもそも虐殺という言葉も使っていない。「停戦」という、あたかも対等な戦争がそこにあるかのような言及のみです。
それだって言及しているのだから立派だとは言えます。洋画界隈でポリティカルコレクトやフェミニズムに言及している意識の高いプロの書き手の中には、この数万人の死者を見てもパレスチナのパの字も書いたことがないという人が少なくないのですから。しかし、「でも本当は、その時、その瞬間に絶対言わないといけないことってあるんですよ。世の中が善くなってほしいし、戦争は嫌だし、虐殺も嫌だし、あらゆる差別も蔑視も、誰かが嗜虐心を満たす的になるのを見るのも嫌です。自分を肯定するためにも、サボらずに声を上げ続ける自分でいたいなと。」という高らかな宣言と、実際に上げた声の少なさ、小ささに落差は感じます。
トランスジェンダーについても同様です。以前にも書きましたが、『虎に翼』で最も激しい非難が集まったのはトランスジェンダーについての描写でした。吉田恵里香氏の投稿には400近い罵倒に近い非難が、それもほとんどが女性のアカウントから寄せられました。
しかし、「あらゆる差別も蔑視も、誰かが嗜虐心を満たす的になるのを見るのも嫌です。自分を肯定するためにも、サボらずに声を上げ続ける自分でいたいなと」と語る吉田恵里香氏は、この巨大で明白なトランスジェンダーに対する攻撃に対して今にいたるまで一切の言及をしていません。
今回、吉田恵里香氏についていくつかのメディアが「アニメ・ドラマの改革者」としてピックアップする記事を書いていますが、どのメディアもこの事件について一切吉田恵里香氏に質問を投げかけていません。
おそらく今後、大手新聞社やテレビもふくめて吉田恵里香氏にフォーカスを当てることが増えると思いますが、たぶんどの新聞社も放送局もこのことについて聞かないと思います。
まさしく「透明化」され、「なかったこと」になっている事案です。
理由はわかります。ハリウッド映画のポリティカルコレクトを賞賛する書き手の何人かがイスラエルに対して一切の批判をしたがらないのと同様、トランスジェンダーに言及して女性支持層を失いたくないという書き手は極めて多い。それどころか活動家すら沈黙しはじめているくらいです。そりゃ「少女アニメで胸が揺れる描写がないように配慮しました」みたいな、プリキュアでは20年も前からとっくに実現してるようなことを今初めてやったかのように言っている方が女性支持は固められるでしょう。でも「あらゆる差別に声を上げる」って、SNSで支持されそうなことは大きな声で言い、支持されないことは小さな声で言う、あるいは沈黙することなんでしょうか?
なんだか吉田恵里香氏に対する批判のニュアンスが強くなってしまいましたが、作家として、脚本家としては高い能力を持った人だと思っています。(虎に翼の後半などはあまりにも作劇が粗かったと思いますが)しかし、インタビューなどの発言であまりにも吉田恵里香氏が危うく感じるのは
「正しさの根拠がネットの言説・あるいはアクティビストの言説のほぼ丸写し、口真似に近く、多面的に自分の中で固められているとは思えない」
ということなんですね。『虎に翼』でのトランスジェンダー描写への対応などまさに典型ですが、自分の中ではっきりと「さまざまな議論の上で、それでも自分はマイノリティ、トランスジェンダーの側に立つと決めた」という意志が固まっていたのであれば、あれだけの猛烈な攻撃に対してなんらかの意思表示ができたはずだし、しなければならなかったと思います。しかしおそらく、そうではなかった。アクティビストの言説に忠実にそのまま描写し、SNSで女性から非難が殺到すると沈黙してしまう、という経緯は、自分の中で意見が固まっていなかったから、あるいは今も固まっていないので沈黙しているとしか思えない。『虎に翼』で男性弁護士が同性愛者であることを思わせる告白をした回で「あれは友情やヒューマニズムではないか」と考察した視聴者の意見に対して「私は同性愛の透明化に抗う」というステイトメントを出した対応との落差があまりにも極端なわけです。
たいへん申し訳ないですけど、このへんの吉田恵里香氏について、「確固たる信念で差別に抗っている」とはとても思えない。単にネットの風にあおられてある時は大声で宣言し、反発が来ると沈黙してしまっているように見える。
その最たるものが「滋賀医大事件での大阪高裁裁判長罷免署名」だったと思います。
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