「あれは……」
大学の試験も目前に迫ったある日、参考書を返却するために訪れた図書室で、良く知る人影を見掛けた。
その人は椅子にじっと座っていて、文庫本に視線を落としている。それを邪魔するのも良くないと思い、僕は彼女から少し離れたところに腰を下ろす。せっかくだから少しここで勉強していこう。もしタイミングがあえば向こうが落ち着いたところで挨拶くらいはしても良いだろう。
「……こんなところかな」
キリの良いところまで進められたと時計を確認すると、もう最終下校時刻も間近だった。挨拶くらいでも、と思っていたが、自分の方が集中していて周りのことを気にしていなかった。もう彼女も帰ってしまっただろうかと座っていた方へと目を向ければ、相手も僕に気付いていたのかこちらを見つめていた。
「や、久しぶり、かな? 蓮」
「ん」
声を掛ければ、蓮は頷いて席を立ったかと思うと、僕の隣にやって来た。
「もう帰る?」
「そろそろ図書室も閉まるからね」
「なら一緒に」
「それじゃ片付けるよ」
机の上に広げていた参考書を鞄にしまっていると、蓮がじっと僕の鞄の中を覗き込んでいることに気付いた。
「どうかした?」
「大学の過去問」
「ああ、気になる?」
「うん」
鞄から大学の過去問を抜き取るとパラパラと捲る蓮。蓮にとっては来年とまだ先の話だけど、それでも気になるものなんだろうか。
「徹はどこの大学に行くのかと思って」
「僕が?」
「離れたところだと大変だから」
そう言って意味ありげな視線を送って来る蓮に、どう返したものか迷った末に僕は何も言わずに鞄を持って席を立つ。蓮はそれを見て楽しそうに笑うと僕に参考書を返してくれた。
「来年は勉強を教えてもらう」
「僕が今年合格できるとも限らないけど?」
「だったら来年は一緒に勉強して同級生になれる。どっちにしても損は無い」
「それはどうなんだろう……」
自分としてはあんまり嬉しくないんだけど。校門を出て駅へと向かう道すがら、蓮と他愛の無い話が続く。保護観察期間が終われば一度地元に帰ること、杏や竜司もそれぞれにやることを決め始めたこと。最近ようやく佐倉さんにコーヒーの合格点をもらい、今はカレーの練習をしていること。
「そっか、春には一度地元に戻るんだね」
「夏休みにはまたこっちに戻って来るつもり。惣治郎もバイトを欲しがってた」
「看板娘だね」
静かな空気が流れるルブランと蓮は相性が良いと思う。本を読むのも好きだし、あそこでゆったりと読書をして読んだ本について蓮と話す、なんてイベントがあるのなら通う客も一気に増えるんじゃないだろうか。
「そうなったら徹も通ってくれる?」
僕がふと口にしたことに反応して、蓮はそう返す。それと共に、左手が少し引っ張られる感覚。視線を向ければ、蓮が指先で僕の袖口をついと引っ張っていた。
「そうだね、通うと思うよ。最近は本の感想会も出来てないしね。あれから読んだ本も増えたし、蓮の感想もまた聞きたいな」
「私も。店に来てくれたらご馳走する」
「楽しみにしてるよ。……それで、これは?」
そう言いながら、僕は蓮に摘ままれたままの袖を指差せば、蓮はそっと僕から目を逸らした。
「蓮?」
「……」
「もうすぐ駅に着くけど」
何を言っても反応しませんとばかりに蓮は目を合わせようとはせず、袖を摘まんだ手には徐々に力が入っていく。
「手を握るのはダメだから、今はこれで我慢する」
「……待たせてるのはごめんね」
「ん、大丈夫。待つのは皆で決めた」
「皆……?」
「停戦協定。あと、恨みっこナシ」
いつの間にそんなものが結ばれていたんだろうか。というよりそんなものがあるのだとしたら、今こうして蓮と二人で帰っているのはあまり良くないことなんじゃないだろうか。
「大丈夫。これはセーフ」
僕の懸念を見抜いたように、蓮は小さく微笑んだ。そのまま鼻歌でも歌い出さんばかりの上機嫌さだ。そのまま四軒茶屋駅で降り、気が付けばルブランまで蓮を送り届けていた。
「どうせならコーヒーでも飲んで行く?」
「そうだね、せっかくここまで来たんだし」
蓮に誘われるがままにルブランの入り口を開ければ、いつもの鈴の音が鳴ってカウンターの奥に座って新聞を読んでいた佐倉さんが顔を上げた。
「ただいま」
「お邪魔します」
「おう、そろそろ受験じゃねえのかい?」
僕の顔を見ると佐倉さんは笑みを浮かべながら新聞を畳むと、エプロンを腰に巻き付けた。BGMの代わりにつけられているテレビでは、ニュースでちょうど大学受験についての話が流れているところだ。
「そうですね。今日も学校で勉強してきたところです」
「ま、お前さんならヘマはしねえだろうけどな。コーヒー淹れてやるから座りな」
「ありがとうございます」
佐倉さんに進められるままに椅子に座れば、程なくしてコーヒーの良い香りが店内に充満し始める。蓮は荷物を置いてくると言って二階へと上がって行ってしまった。
「最近はアイツも落ち着いてるか」
「そうですね。怪盗団ももう終わりだと言っていましたし。上手くやっていると思いますよ」
「なるほどな。それを聞いて安心したよ」
サイフォンがお湯を吸い上げるコポコポという音を背景に、佐倉さんと僕は静かな会話を続ける。
「双葉も春から秀尽に通うって言ってくれた。出来れば、お前さんがいてくれたらと思ったがな」
「流石に留年は出来ませんねぇ」
「はっ、そりゃそうだ」
佐倉さんは笑ってサイフォンを火から外した。双葉さんの話は、蓮からも聞いていた。かつては心に深い傷を負い、部屋に閉じこもっていた彼女だが、春から一歩踏み出すことを決めたと。佐倉さんとしては少しでも知り合いが近くに居れば、という親心があるのだろう。
「蓮は地元に帰るようですが、坂本君や高巻さん、それに同級生には芳澤さんもいますから。孤立するようなことは無いと思いますよ?」
「ああ、本当に良い友達に恵まれたよ、双葉は。アイツも、わざわざ地元に帰るってな。女の子を放り出すような……」
佐倉さんはそこから先を口にすることはせず、しかしどこか不機嫌そうな顔で黙ってカップにコーヒーを注ぐと僕の方に差し出してくる。それを受け取りながら、そういえばこうして佐倉さんと二人っきりで話したことが以前もあったっけと思い出す。その時はまだ蓮がこっちに来たばかりの頃だ。それを思い出すと、僕は思わず口から笑みが零れた。
「なんだよ、急に笑いやがって」
「いえ、そういえば佐倉さんと以前話したときは、丸っきり違うこと言ってましたね」
「あん?」
「知らねえし、知るつもりも無え。よその事情に首を突っ込むのは厄介事にしかならねえからな。でしたっけ?」
僕の言葉に、過去に自分が言ったことを思い出したのか、佐倉さんは少しムスッとしたようにますます口角を下げた。
「よく覚えてやがるな」
「記憶力にはそれなりに自信がありますから」
「ったく、そんならちゃんと責任は取ってやれよ?」
反撃をするようにニヤリと口の端を上げた佐倉さんにそう言われ、僕は思わず言葉に詰まる。
「気付かれてましたか」
「そりゃ、ずーっとアイツがお前さんの袖を摘まんでんだもんよ。可愛いもんじゃねえか」
そういえば僕はもう慣れてしまって気にしていなかったけれど、蓮に袖口を摘ままれたままだった。ルブランに入った時に離したはずだけど、佐倉さんは目敏く見ていたらしい。
「確かあの真面目そうな子もだったか。モテモテだな? 俺の若い時には及ばねえがよ」
「佐倉さんはモテたんでしょうね」
「俺を口説いてどうするよ。……自分の気持ちに素直になりゃ良いんだ」
「今までそういうことは考えたことも無かったんですけどね」
「なら良い経験だ。受験と同じ、自分で勉強して進んで行くしか無えよ」
「そうですね。僕もそう思います」
僕の答えに、佐倉さんは楽しそうに笑うと、エプロンを腰から外した。
「そんじゃ、俺は先に帰る」
「あ、それじゃあお代を……」
「構わねえよ。受験が終わったらまた通ってくれ」
佐倉さんはそう言いながら店の入り口まで来たかと思うと、何かを思い出したように立ち止まった。
「これは独り言だけどよ。アイツは良い女だぜ?」
「アドバイスとして心に留めておきますね」
「おう、鍵は掛けとけよ!」
最後の言葉は少し大きめで、僕では無く蓮に向けられたものだと分かった。そういえば、佐倉さんと話し込んでいたけれど蓮が下りてくる気配は無かった。ずっと部屋に居たんだろうか。そう思って佐倉さんがお店を出て行った後、自分の座っていた椅子へと戻れば、階段の所から蓮が顔を出す。普段と変わらない表情だったけれど、耳の先が少し赤くなっていた。
「聞こえてた?」
「……別に」
今年の卒業式は例年よりも暖かい日だった。教頭から新校長へと持ち上がる形で就任した先生が、緊張感を僅かに滲ませながら卒業生に祝辞を述べ、卒業証書を手渡していく。秀尽学園にとっては今年は激動の一年になったと言って良い。鴨志田先生のスキャンダルを発端とする怪盗団騒動の始まりの地として、世間から常に好奇の視線に晒され続けた。それでも、後任として就任した新たな生徒会長の送辞は心強いものだった。
「今日で最後かぁ」
三学期が始まってからはあまり授業も無く、何ならしばらくは登校もろくに出来ていなかったのだけど、改めて卒業だと思うと感慨深さを感じる。
卒業式が終わり、教室で担任やクラスメイトと挨拶を交わした後はなんとなくすぐに帰る気にもなれないまま、僕は教室でぼんやりと窓から外を眺めていた。
校門のところを見れば、何人かの卒業生が集まって写真なんかを撮っていたりもする。男子生徒の中にはネクタイをしていない人も何人か見える。そういえば秀尽はブレザーだから、こういうときにはネクタイを渡すのが文化になっているらしい。かくいう僕も、何人かの女子生徒からそういった申し出を受けたのだけど、あいにくと先約があったから申し訳ないと思いつつ断っていた。
「卒業式が14日というのは、ロマンチックかもね」
もう校内に残っている人間もまばらだ。僕も友達や同級生と挨拶は既に終えて、荷物を纏めてしまっている。がらんとした教室に残っているのは僕だけになっていた。
「ここに居た」
そんな言葉と共に教室に入ってきたのは、少し癖毛掛かった黒髪に、眼鏡の奥に同じ色の瞳が隠れている女の子。
「一応、メッセージは入れたつもりだったんだけど」
「竜司や杏を振り切るのに苦労した」
蓮はそう言いながら、僕の隣の席に腰掛ける。そして何を思っているのか、頬杖をついて僕をじっと見つめた。
「どうしたの?」
「もし徹が同級生だったら、こんな感じに見えるのかと思ってた」
「蓮が同級生か、だとしたらどうなってたかな」
初日の案内は僕が担当することは無かっただろう。そうすると、蓮と最初に顔を合わせるのは転校初日の午後。もしかしたら生徒会にも入っていないかもしれないから、蓮の噂を聞いて先入観を持っていたかもしれない。蓮が怪盗団だなんて全く気が付かないまま、一人の同級生として日常を送っていたことだってあり得る。
「今と変わらないと思う」
僕の考えとは裏腹に、蓮はそう言い切った。
「徹は優しい。私がこっちに来た時からずっと。噂を聞いていても、それに惑わされたりしない」
だから同じように自分を気に掛けて、同じように鴨志田から皆を守ろうとしていた。蓮はそう言って笑う。
「そして、私は同じように徹のことを好きになってる」
「……嬉しいけど、少し気恥ずかしいね」
「今更。私はもう恥ずかしくない」
蓮はそう言いながら椅子を持ち上げて僕の横にピタリと寄り添う。眼鏡の奥の黒い瞳と視線がぶつかった。
「もし同級生だったら、一緒に修学旅行に行けた」
「そうだね。今年も引率補助をお願いされたけど、真に任せちゃったし」
「水着を見せようと思ってた」
「そういえば、夏休みに真と一緒に撮った写真を送ってくれたね」
「む、こんな時に他の女の子の名前を出すのは良くない」
「あー……確かにそうだね、ごめん」
不機嫌そうに蓮が口を尖らせる。今のは自分でも少し無神経だったかもしれない。これから話そうとしていることを考えれば猶更。
「謝るだけ?」
僕の言葉を聞いた蓮が、そう言ってこちらを横目に見つつこてんと首を傾げた。眼鏡を掛けている蓮は見るからに文学少女、といった様相なのだけど、けれど仕草はどこか妖艶だ。本人がそれを自覚しているのかは分からないけれど。
「……それだけじゃないよ。答えを出したんだから」
「聞かせてくれる?」
今日、僕がこの場に蓮を呼び出した理由については彼女も当然分かっている。けれど、それを言い出すのは僕からじゃないとダメだ。一か月前は彼女が言ってくれたのだから、今度は僕の方から言うのが順番だ。
「蓮のことが好きだよ」
「…………ん」
僕がそう言えば、蓮は僕から目を逸らし、両手で口を覆って俯いた。その横顔は髪に隠れてしまっているけれど、隙間から覗く耳が真っ赤に染まっている。
「自分にとって正しいと思うことを貫く蓮を、僕は尊敬してる。だけどそれ以上に、本の感想会をしたり、ルブランでコーヒーを飲みながら話したり、静かだけど気が付いたら横にいるような、そんな君が好きだ」
「……急にずるい」
蓮はそう言うと、身体を傾けて僕の肩に頭を預ける。その手は僕のブレザーをぎゅっと握っていた。
「最初に好きになったのは私の方。誰も味方じゃないと思ってた。誤解されて、責められて、周りが皆白い目で見てきた。そんな中でたった一人だけ、惑わされずに真っ直ぐ見てくれた。ずっと守ってくれた。好きにならない訳が無い」
「蓮は怪盗団のリーダーとして皆から頼りにされていただろうね。実際に蓮は強い。だけど、誰か一人くらい、寄りかかれる人がいても良いと思うよ。それが僕なら、嬉しい」
「徹じゃないとイヤ」
グリグリと肩に頭を押し付けてくる蓮。まるで猫みたいだ、なんて思いながら、僕はついその頭に左手を置いていた。そして彼女の柔らかい髪の毛を優しく撫でつけてみれば、満足そうに蓮がため息を吐いた。
「徹は誰にでも優しい。でも、今日からは私が一番」
「そうだね、蓮が一番だよ」
「ん、嬉しい」
そのまま、蓮は立ち上がっても僕の右腕にピッタリとくっ付いたままだった。それを引き離すことも出来ないまま、周囲から冷やかすような視線やそれこそ冷やかしのような言葉を同級生から掛けられながら、気が付けばルブランまで来ていた。
蓮に引っ張られるまま扉を開ければ、いつものように佐倉さんは新聞を読んでいた。
「いらっしゃ……へぇ、なるほどね」
お店に入ってきた僕達を見るなり、佐倉さんは面白いものを見たとばかりに笑うと、エプロンを外して立ち上がる。
「ちょうど店じまいだ。鍵は掛けとけよ」
「分かった」
そして蓮にそう告げると、僕の肩にポンと手を置いた。
「今日卒業式だったんだってな。卒業おめでとさん」
「ありがとうございます」
「信用してるが、あんまり羽目を外すんじゃねえぞ?」
「分かってます。大事にします」
「へっ、良い返事だ」
佐倉さんはそれだけ言うと、片手を上げてお店を出て行ってしまった。それを見届けた蓮が入り口の看板をCLOSEDに引っくり返し、こちらへと戻って来る。
「二階に行こう」
そう言って案内されたのは、クリスマスイブに蓮を抱えて上ったルブランの二階、簡素なベッドとソファがある屋根裏部屋だ。
促されるままにソファに座ると、蓮も隣に座ってまた僕の方に身体を預けてくる。片時も離れるつもりは無いと言わんばかりに、蓮の左手が僕の右手をぎゅっと握り締めていた。
「そういえば、言葉は貰ったけど、折角のホワイトデーだから言葉以外も欲しい」
「もちろんお返しは用意してるよ」
蓮の言葉に、僕が鞄に手を伸ばそうとすると、そうじゃないと止められた。その視線は僕の胸元に注がれている。そういえばと思い出す。想いを伝えるのに、ネクタイを渡すなんて文化もあったっけ。
「これで良ければ」
「待って。私が外す」
僕がネクタイを解こうとすれば、蓮はそれを制止する。そして僕のネクタイをそっと手に取る。
「解き方、分かる?」
「多分。それに、これは口実」
「口実?」
蓮の言葉を繰り返した直後、彼女がグイっとネクタイを引っ張った。それを予想しているわけも無く、僕の身体は引っ張られるままに前に傾く。
「……不意打ちだね」
「ん。怪盗だから、奪ってみた。でも次は奪われたい、かも」
「お待たせ」
「皆はもう寝ちゃったかな?」
「うん、こっそり抜けてきた」
「疲れてるだろうに、大丈夫?」
「流石に疲れてる。仙台、札幌、沖縄と来て次は京都。でも、折角会えたから」
「……そうだね。もう夜だしあんまり遠くに行くのも何だから、少し座って話そうか」
「どうせ調査してるなら、徹も一緒に来てくれたら良いのに」
「僕は認知世界には入れないからね、蓮を直接助けたりは出来ないよ。それに、明智くんから目を離すなって言われてるし」
「む……」
「ごめんね。だから今は蓮のことを一番に考えてるよ」
「ん、なら許す。甘やかして」
「蓮は皆のリーダーとして頑張ってるからね、それくらいならお安い御用だよ」
「お安いなら、もう一つワガママを言いたい」
「僕に出来ることなら叶えられるように頑張るよ」
「……ん」
「あー……、でもここで?」
「次は奪われたいって言った」
「……分かったよ。それじゃ、目を閉じてくれる?」