「私、今まではずっと諦めてたんです。かすみに勝てなくて、自分に何も自信が持てなかった。でも、海藤先輩のことは諦めたくなかったんです。私の名前を呼んでくれた、海藤先輩のことは」
「今日はありがとうございます!」
「気にしないで、僕も受験が終わって合格発表まではやることも無かったから」
2月も終わりを迎える頃、僕は芳澤さんに呼び出されて学校の体育館へと足を運んでいた。芳澤さんはこれまでトレードマークだった赤くて大きなリボンから、黒いリボンへと変わっている。たまに眼鏡を掛けるようになったことも相まって、これまでの彼女を知る人を驚かせているみたいだ。今日も彼女は眼鏡を掛けていた。
「かすみでいた時は、眼鏡を掛けたりしなかったんです。それはすみれの方だったから……」
でも、それじゃダメだと思ったから、自分が自分であることを受け止めようと思ったのだと、彼女が顔を上げて告げた。その表情は、まだ強張っているものの、強い意志を秘めているものだ。
「その、変ですかね……?」
「ううん、似合ってると思うよ」
「え、へへ……、ありがとうございます」
僕の言葉に、芳澤さんは嬉しそうにはにかむと頭を下げた。彼女が僕を呼び出したのは話がしたかったからなのだろうか、彼女は制服姿ではなくジャージを羽織っている。ちょうど練習前だったのか。
「あと、その今日来てもらったのは海藤先輩にまた私の演技を見てもらいたくて……」
「僕に……?」
それが本題だったのか、芳澤さんは僕の目を見つめてコクリと頷いた。そして眼鏡を外すとジャージのポケットへとしまう。
「夏に海藤先輩から聞いたあの言葉が、ずっと頭から離れないんです。自分がすみれであることを選んだ今、あれから私の演技がどう変わったのか海藤先輩に見て欲しいんです」
夏、というと僕と鈴井さんが体育館で練習していた芳澤さんと出くわした時のことだろう。あの時、僕は一人で練習していた彼女の繊細で、見る者に緊張感を与えるような張り詰めた演技が心に残ったと言った。思えば、それは一人でいる時は芳澤さんがかすみとしてではなく、すみれとして演技が出来ていた瞬間なんじゃないだろうか。
そう考えれば、あの頃から彼女は芳澤かすみで居続けることを選ばないと、自分自身で思い始めていたのかもしれない。そう思うのは僕の勝手な願望でしかないのだけど。
「分かった。ただ、技術的なアドバイスなんかは出来ないよ?」
「良いんです。海藤先輩がどう感じたかを聞かせて欲しいんです」
そう言って芳澤さんは羽織っていたジャージを脱ぎ捨て、レオタード姿になって体育館の中央へと駆けていく。床に落ちた彼女のジャージをそのままにするのもどうかと思ったので、丁寧に畳んで抱えると、俯いて目を閉じた状態で集中している彼女をじっと見つめる。見ていてくれと言われた以上、どんな細かな動きであっても見逃さないように。
そして芳澤さんはゆっくりと動き始める。僕と彼女以外誰もいない体育館で、彼女は自分だけが聞こえる音楽に合わせて床の上を躍動する。指先の動き一つにまで自身の意識を張り詰めているような繊細さで、けれど床上を跳ぶその姿は重さを感じさせない軽やかさを備えていた。
「……綺麗だ」
気付けば、僕の口からはそんな言葉が漏れていた。夏に見た彼女の演技とも違う、繊細さと軽快さが融け合ったようなその演技は、きっと今の彼女だからこそ出来るものなんだろう。
彼女の動きに目を奪われていると、あっという間に感じるほどの時間で演技は終わった。額に汗を浮かべた彼女が、やり切ったような表情でこちらへと駆け寄って来る。
「どうでしたか!?」
「うん、凄く綺麗だった。繊細で、張り詰めていて、だけどそれだけじゃない。柔らかくて、軽やかだった」
まるで夏の時に見た二回の演技が融合したみたいだ、と告げれば芳澤さんは照れたように笑って頷いた。
「私、ずっとかすみになろうと思ってました。仕草や言葉遣いだけじゃなく、演技まで。引っ込み思案で、いつもかすみの陰に隠れていた私が。……そして、そんな私がかすみの命を奪ってしまった。だから、かすみにならなきゃって、かすみの分までやらなきゃって」
だけど、と芳澤さんは顔を上げた。
「私はどこまで行ってもすみれなんです。でも、私の中にはかすみだっている。すみれだけじゃない。私はかすみのことだって抱えて、頑張るって決めたんです」
「うん……、凄く良いと思う。芳澤さんがやりたい演技が、きっと出来てると思うよ」
「それは海藤先輩のお陰です」
「僕の?」
「はい。海藤先輩が私を真っ直ぐ見つめてくれたから。……私の名前を呼んでくれたから」
演技の後だから少し火照っている、というには些か顔の赤みが強く思えるのは、きっと勘違いじゃないんだろう。流石にバレンタインのこともあって、今の彼女の言葉を誤解する余地は無かった。僕の頭の中では、何を言うべきかが纏まらないまま言葉がぐるぐると渦巻いている。
「……芳澤さん、僕は」
「ま、待ってください!」
けれどそのまま何も言わない訳にはいかないと口を開けば、それより先に芳澤さんが止めた。
「その、今ここで答えを聞くのは良くない、と言いますか……」
「良くない?」
僕としては仮にも告白されておいて、ずっとこうやって待たせ続けている方が良くないと思うのだけど。その考えが僕の顔に出ていたのか、芳澤さんはアタフタと両手を顔の前でパタパタと振る。
「そ、その! もう少しだけ心の準備が欲しいんです! 今ここで聞いたら、色々と立ち直れなくなるかもしれないので……」
「えっと……、うん、分かった。それじゃあ今は止めておくね」
「はい、ありがとうございます」
僕の言葉を聞いた芳澤さんは、そう言うとホッとしたように胸を撫で下ろす。そうして少し落ち着いたところで、僕の手の中に彼女のジャージがあるのに気付いたのか、また彼女の顔が火がついたように真っ赤になった。
「す、すみません!」
「え? ああ、大丈夫。床に放っておくのも良くないと思ったから。ごめんね、勝手に」
「いえいえ! 私の方こそ汚いものを」
「汚くなんかないよ」
ジャージをそっと差し出せば、芳澤さんは慌てた手つきでそれを受け取って羽織った。演技をするときは、それに集中していてジャージを脱ぎ捨てたことも忘れていたんだろう。しばらく、少しぎこちない沈黙が僕と芳澤さんの間に漂う。確かに異性のジャージを勝手に拾うのは良くなかったな、と自省していると、少し落ち着いたのか芳澤さんが再び眼鏡を掛けて僕を見上げていた。
「……その、もう少ししたら卒業式があるじゃないですか」
「そうだね。もう3月だし、一か月も無いや」
「その卒業式の時に、答えを聞かせて頂いても良いですか……? 私、待ってます。海藤先輩に名前を呼んでもらえるのを」
「……うん、分かった」
今年の卒業式は例年よりも暖かい日だった。教頭から新校長へと持ち上がる形で就任した先生が、緊張感を僅かに滲ませながら卒業生に祝辞を述べ、卒業証書を手渡していく。秀尽学園にとっては今年は激動の一年になったと言って良い。鴨志田先生のスキャンダルを発端とする怪盗団騒動の始まりの地として、世間から常に好奇の視線に晒され続けた。それでも、後任として就任した新たな生徒会長の送辞は心強いものだった。
「今日で最後かぁ」
三学期が始まってからはあまり授業も無く、何ならしばらくは登校もろくに出来ていなかったのだけど、改めて卒業だと思うと感慨深さを感じる。
卒業式が終わり、教室で担任やクラスメイトと挨拶を交わした後はなんとなくすぐに帰る気にもなれないまま、僕は教室でぼんやりと窓から外を眺めていた。
校門のところを見れば、何人かの卒業生が集まって写真なんかを撮っていたりもする。男子生徒の中にはネクタイをしていない人も何人か見える。そういえば秀尽はブレザーだから、こういうときにはネクタイを渡すのが文化になっているらしい。かくいう僕も、何人かの女子生徒からそういった申し出を受けたのだけど、あいにくと先約があったから申し訳ないと思いつつ断っていた。
「卒業式が14日というのは、ロマンチックかもね」
そんなことを独り言ちていると、ポケットの中のスマホがメッセージの着信を知らせて震えた。着信画面を見れば、僕が先ほど送ったメッセージに対する返事。どうやら向こうは体育館にいるらしい。
「それじゃ、答えを出しに行こうか」
そう呟くと、僕は教室を出て廊下を歩く。今日で最後だと思うと、見慣れたはずのこの光景もいつもと違って見えた。
「僕の認知がいつもと違うから、なのかな」
認知訶学というものを知ってから、自分の認知に注意を向けることが増えた気がする。自分は今目の前にあるものをどう捉えていて、それをどう感じているのか。強く意識するようになったのは、やはり彼女のことを知ってからだと思う。
校内にいる人間ももう疎らで、体育館なんかは卒業式が終わると椅子の片付けで1,2年生が駆り出され、それが終われば部活動も無いため生徒どころか教師の気配も無かった。そんな中、僕は体育館の扉に手を掛けると、ゆっくりと開いて行く。
「お待たせ」
「ご卒業おめてとうございます。海藤先輩」
彼女は、ここでいつも会うときのようなジャージ姿ではなくて制服姿だった。それもそうか、流石に今日という日まで新体操の練習を学校でしたりはしないだろう。彼女の視線が、僕の首元で一瞬止まり、ついと逸らされる。その意味は、僕にも分かった。
「……芳澤さん」
「そ、その! ありがとうございます!」
僕が口を開いた瞬間、芳澤さんが被せるように声を上げた。
「海藤先輩にはずっと助けてもらって……」
「そんなことないよ……それより」
「そ、それに! 先輩のお陰で新体操の方も少しずつ調子が良くなってきてるんです!」
僕が何かを言おうとすれば、それを遮るように芳澤さんが言葉を発する。そんなやり取りが二、三回は続いただろうか、芳澤さんは何かを言おうと口を開くけれど、何も思い浮かばないのか、何度か口をパクパクとさせると閉じてしまった。
「……もう、話しても大丈夫かな?」
「ぅ……、その、すみません。怖くなっちゃったんです……。答えを聞いたら、もうこれまでみたいに話したり出来なくなるんじゃないかって……」
慌ただしく左右に視線を行き来させる芳澤さんは、胸の前で組んだ手を小さく震わせていた。これも、僕がずっと答えを出さないままでいたせいだと思うと申し訳なく思う。
「芳澤さんはずっと頑張ってた。芳澤かすみとして生きていたときも、ずっと芳澤すみれのことを忘れてなかった。芳澤さんは自分のことを卑下するけれど、僕は君が強い人だと思うよ」
強いからこそ、迷いながらも新体操に向き合い続けることが出来たのだと思うから。
右手で首に巻いたネクタイを解きながら、左手では固く組まれた芳澤さんの手を取る。
「同情や義務感じゃない、そんな芳澤さんだからこそ、僕は支えたいと思ったんだ」
そして彼女の手が開いたところに、僕は自分のネクタイを握らせた。その意味は言わずとも伝わると思うけれど、何度も勇気を出して心の内を明かしてくれた彼女に対して、僕が自分の気持ちを言葉にしないのはそれこそ不誠実だ。
「芳澤すみれさん、僕と付き合ってくれますか?」
「ぇ……」
僕の言葉と、手に乗せられたネクタイ。その意味を反芻して理解しようとしているように、彼女の視線が僕の目とネクタイとを行き来する。そして何往復目かの後、彼女の顔がボッと音を立てるような勢いで赤く染まった。
「そそ、その、ここここれって……!?」
「うん、これが僕の気持ちだよ、芳澤さん」
僕が頷けば、彼女は呆けたような顔になったかと思うと、見る見るうちに目を潤ませていった。
「ごめん、泣かせるつもりは無かったんだけど」
「ち、違うんです! う、嬉しくて!」
それからしばらくの間、彼女が落ち着くまで待つことになった。まだ少し鼻を鳴らしているものの、涙はおさまったらしい彼女が、耳まで赤く染めながら俯いている。
「私、今まではずっと諦めてたんです。かすみに勝てなくて、自分に何も自信が持てなかった。でも、海藤先輩のことは諦めたくなかったんです。私の名前を呼んでくれた、海藤先輩のことは」
「うん、ありがとう」
「その、これからも名前を呼んでくれますか……?」
「僕で良ければ、何度でも呼ぶよ。すみれ」
「っ~! はい、よろしくお願いします!」
「あ、先輩! 来てくれたんですね!」
「もちろんだよ。インターハイ優勝、おめでとう」
「ありがとうございます! 審査員の先生にも、コーチにも褒めてもらいました!」
「うん、実力が発揮出来た演技だったと僕も思うよ」
「はい! ……そ、それでですね」
「ん? どうかした?」
「えっと、今日の私の演技は、先輩から見てどうでしたか? 繊細で張り詰めた演技がずっと心に残ってると言われたのを覚えてて……。それは越えられたのかなって……気になってたり……」
「……今日の演技は今まで僕が見てきた中でも一番心に残ったよ、すみれ」
「っ!? はい! 先輩にそう言ってもらえるのが何よりも嬉しいです!」