2月も半ばになると、ついに大学受験も大詰めだ。試験を目前に控えて自主学習に来る学生の緊張感も増していく日々の中、今日は特に別種の緊張感が漂っているような気がした。
その緊張感は他学年でも同様に広がっている。学年問わず、今日という日は特に男子にとってはとてもソワソワしてしまう日なんだと思う。
「バレンタインだものね」
普段なら朝から自習室に向かう勤勉な学生か、僕くらいしかいないような時間帯。けれども今日は心なしか登校している生徒の数が多い気がする中庭を見下ろして、僕はしみじみと呟いた。世の男子学生一般と同様に、僕ももちろん貰えたら嬉しいとは思うのだけど、それ以上に受験勉強に追い詰められていたのでそんな場合では無かった。普段から勉強は欠かしていないとはいえ、ここ一か月はバタバタして勉強どころでは無かったものだから、流石に後れを取り戻すのに必死だった。
この時間ならまだ誰も来ていないだろうと、僕は半ば自室扱いしてしまっている生徒会室で参考書を広げていた。既に生徒会としての仕事は終わって引継ぎも完了しているのだけど、朝の誰もいない時間だけ、という条件で自習室として使わせてもらっている。
丸喜先生の認知世界を出た後、僕は拍子抜けするほどあっさりと平穏な、けれど忙しい受験生としての生活に戻っていたのだった。
「ん、朝から来客かな?」
そうしてノートにペンを走らせていると、生徒会室の扉がノックされる音。入室を促してみれば、扉の前に立っていたのは意外な人物だった。
「おはよう、鈴井さん。朝早いね、朝練かな?」
「お、おはよう! えっと……、朝練、とかでは無いんだけど……」
おずおず、といった様子で生徒会室に足を踏み入れるのは、視線をあちこちへと泳がせている鈴井さんだった。最近はどんどんと復調してきており、放課後はバレー部の練習にも積極的に参加するようになっていると聞いた。今日は朝練にも顔を出そうとこんな時間に来たのだと思ったのだけど、僕の予想は外れたらしい。
「その、下駄箱見たら海藤さんももう来てたみたいだったから」
「これでも受験生だからね、最近はサボってたから後れを取り戻そうと思って」
「海藤さんがサボり? 意外かも」
僕の言葉に鈴井さんはそう言って笑いながら対面に腰掛ける。
「コーヒーでも淹れようか? インスタントで申し訳ないけど」
「う、ううん! 今日はちょっと用事があって来ただけだから……!」
「用事……」
今日という日の用事というと、大方の予想はつく。ということは僕がこの部屋にいるのはあまり良くないんじゃないだろうか。
「あー、だとすると僕は退散した方が良いかな?」
「え? どうして?」
「ん?」
違っただろうか。今の生徒会メンバーの誰かに渡すものがあるからここに来たのだと思ったのだけど。僕がそう伝えれば、鈴井さんは俯いて大きく深呼吸を始める。
「だ、大丈夫……、頑張れ私! ……海藤さん!」
「うん、なんだろう?」
「その、今日は何の日かって分かります……?」
「バレンタインだよね。珍しく朝早く登校してソワソワしている人も多いし」
「そ、そう……! それで、ですね。海藤さんはもう誰かから貰ったりなんか、しましたか?」
「僕? 生憎と誰からも貰えてないね」
クラスメイトの女子はありがたいことに毎年僕含めて男子に配ってくれているけれど、今年は受験ということもあってそんな場合じゃないだろうとも思う。
僕の答えを聞いた鈴井さんは、両手をぐっと握り締めると、足下に置いたバッグをゴソゴソと漁る。
「こ、これ、どうぞ!」
目的の物を見つけたのか、その言葉と共に僕に向かって勢いよく突き出されえた両手に携えられていたのは可愛らしくラッピングされた包み。その中身が何なのかは、流石に分かった。
「ありがとう、鈴井さん。嬉しいよ」
鈴井さんから貰えるとは思いもしていなかった。春の一件を考えれば、持ち直しているとはいえまだ男性に対する忌避感があっただろうし、それを乗り越えられていることは素直に喜ばしいものだと思う。
「一応、今日は海藤さん以外には渡す気は無いというか、その、……そういう、ことです!」
そして僕にチョコを渡した鈴井さんは、耳の先まで真っ赤にしながらそう捲し立てたかと思うと、頭を勢いよく一度下げてバタバタと生徒会室を出て行ってしまった。彼女の言葉と、その様子は今受け取ったものが示す意味が僕の思っているよりも重たいことを示していた。
「……ホワイトデーはどうすべきなんだろうか」
その後、勉強をしようにもあまり集中が出来ないまま教室で午前を過ごすことになった僕。昼休みになったし、食堂にでも行こうかと教室を出たところで扉のところで待ち構えている蓮と高巻さん、奥村さんに出くわした。
「あ、出てきた!」
僕の姿を見た高巻さんがその言葉と共に蓮と奥村さんを引っ張ってこちらへと駆け寄ってくる。
「副会長、ハッピーバレンタイン」
「ハッピーバレンタイン。もう副会長じゃなくなったけどね」
「海藤君も学校来てたんだね。受験勉強、順調?」
「なんとかね。奥村さんも忙しかったと思うけど、大丈夫?」
「うん。私の方も何とか」
高巻さんと奥村さんの二人とそうやって少し雑談を交わす。丸喜先生の一件が終わってから、そういえばあまりこうして話すことは無かった。聞けば、来春から蓮が保護観察期間を終えて地元に戻るということで、思い出作りをしていたらしい。
「ということで、お世話になったから私達からもどうぞ!」
その言葉と共に高巻さんから渡されたのは高級感のある紙袋に入ったチョコレート。有名ブランドのものだ。
「私と春からです!」
「海藤君にはお父様のことでも助けてもらったから。これで恩返し出来た訳でも無いけど……」
「僕がやりたくてやったことだからそこまで気にしないで良いのに。でもありがとう、嬉しいよ」
「それじゃ、私達の用は済んだから後はリーダーから!」
高巻さんはそう言うと二人の後ろにいた蓮の背中を押すと、楽しそうに笑いながら廊下を歩いて行ってしまう。後に残されたのは僕と蓮の二人。幸い、教室にはあまり人は残っていないので人の目は少ないけれど、それでも蓮は居心地が悪そうにソワソワとしている。
「ここじゃ何だし、場所を移そうか?」
「……そうする」
他学年の教室となると気まずいだろうと提案すれば、蓮はこくりと頷いた。屋上だと他にも似たような用事の人がいそうだと思ったので、僕達が来たのはあまり人が来ない使われていない教室。
「懐かしいね。鴨志田先生の件のとき、君達にも鍵を渡したっけ」
「しばらくはアジトとして使わせてもらった。あの時はとても助かった」
教室に入れば、狙い通り中には誰もいない。二人になると蓮も先程よりは緊張が解けた様子で話せるようになっていた。それでもまだどこかソワソワとした様子だったけれど。
「徹は今日は他にチョコを貰った?」
少しの間が空いてから蓮はそう口にする。つい先ほど高巻さんと奥村さんから貰った、という答えが適していないということは流石に理解できる。
「今朝鈴井さんから貰ったよ」
「……納得。徹なら他にももっと貰ってると思ったけど」
「生憎とそんなにモテた経験は今まで無いかな」
「…………本当?」
「なんで疑われてるんだろうか」
ジト目で僕を睨みつける蓮だったけれど、諦めたようにため息を吐くと、小さな包みを僕に差し出してくる。
「多分、今日はもっとたくさん受け取ることになると思うけど、負けるつもりは無い」
蓮はそう言うと、包みを受け取った僕の手を握る。
「怪盗団はもう終わり、でもオタカラはまだ残ってる」
「……オタカラ?」
「そう。ライバルは多いけど、負けるつもりは無い。あなたのハートを頂く」
その言葉と共に、眼鏡の奥で蓮の目が妖しく光った。
「まさか蓮からもそう思われてるとは夢にも思わなかったよ」
「徹は鈍感」
僕の言葉を聞いた蓮は胡乱な目つきで僕をじいっと見上げた。鈍感、と言われて否定はできない。真のこともあるし。
「でも、そんな徹を好きになったのは私。選んで欲しいけど、思うだけじゃない。選ばせてみせる」
蓮はそう言ってニヤリと笑みを浮かべた。
怪盗団のリーダーというのも納得させられるような蓮からチョコを受け取り、今日はもう勉強どころじゃないかもしれないなんて思いながら放課後を迎えた僕は、少し頭を冷やしてから帰ろうと中庭の自販機まで来ていた。
「あれ、海藤先輩?」
「芳澤さん、奇遇だね。これから練習?」
「いえ、今日はコーチのところで練習のつもりだったので」
鞄を肩に掛けた芳澤さんは自販機にお金を入れて缶コーヒーを購入して僕に手渡してくれる。
「どうぞ」
「ありがとう、お金を……」
「気にしないでください。お礼というには細やかですけど、これくらいはさせてください」
そう言われて固辞するのもどうかと思ったので、僕はそれを受け取る。温かい缶が手の中でじんわりとその熱を伝えてくれた。
自分もスポーツドリンクを購入した芳澤さんは、時折チラチラと僕の方へと視線を向けるものの何を言うでもなくペットボトルに口を付けていた。
「そういえば、リボン変えたんだね」
このまま黙っているのもどうかと思ったので、僕は空白を埋める意味でもそう口にした。芳澤かすみとして生きていた頃は赤いリボンだった彼女は、今は黒のリボンに変わっている。
「形だけでも、変わろうと思ったんです。私はすみれ。海藤先輩が呼んでくれたから」
「……うん、良いと思う」
「はい! ありがとうございます!」
リボンに手を添えた芳澤さんは、そう言ってはにかんだ。それから何かを思い出したようにハッとした顔になると、肩に掛けた鞄を漁る。
「そうだ! 先輩に会えたら渡そうと思っていたんです、これを」
「これは……」
芳澤さんに渡されたのは簡素ながらも丁寧にラッピングされた包み。それを受け取れば、芳澤さんは僕と目線を合わせないまま、俯いていた。
「その、今日はバレンタインなので。他にもたくさん貰ってるかもしれないですけど……本命、のつもりです」
「ありがとう。うん、ちゃんと答えは出すよ」
「はい、選んでもらえたらとても嬉しい、です。私を見て、私の名前を呼んでくれた先輩に」
「今日一日で色んな人から貰ったんじゃない?」
「……よく分かったね、真」
芳澤さんからチョコを受け取った後、教室に戻ればそこには真だけが残っていた。というより、真に呼び出されたから教室に戻ってきたのだ。
「分かるわよ、前にも言ったじゃない」
「確かに言った通りになったよ」
そう返せば、真はクスクスと笑う。
「あなたからようやく一本取れたわね」
「真には敵わないかもね」
「それじゃ、悩みを深くしちゃうかもしれないけれど、私からも」
そう言って真はラッピングされた袋を僕へと差し出す。それを受け取れば、真は少し顔を赤らめながらも嬉しそうに笑った。
「私も負けないように、心を籠めて手作りしたの」
「……嬉しいよ、本当に」
嬉しい、嬉しいのだけど、一か月後をどう迎えるかを考えると悩みは尽きない。そんな考えが顔に出ていたのか、真は笑みを浮かべたまま、僕の口に人差し指を当てた。
「徹の心のままに選んで。私も含めて皆、本気だから」
「…………うん、そうするよ。きちんと考えて答えを出すようにする」
「ん、待ってるわ」
僕の言葉を聞いて満足したように真は頷いた。
「ところで、真のチョコは今開けても良いかな?」
「えぇっ!?」
僕がそう言えば、真は先ほどまでの余裕を感じさせる笑みはどこへやら。今度は顔を真っ赤にさせて挙動不審に陥ってしまった。
「最初に食べるのは真のチョコにしようと思って」
「え、ぅ~~~っ! そ、そういうこと言うのやっぱりズルいと思うの!」
そう文句を言われてしまったものの、真は僕を止めようとはしなかった。
「久しぶりね、あまり心配はしていないけれど受験の方は大丈夫かしら?」
「ええ、なんとか、といったところですけど」
学校を出た後、僕のスマホに着信があったのは真と別れた直後だった。電話の相手に教えられた集合場所に向かえば、そこには以前贈ったマフラーを首に巻いた冴さんが待っていた。
「獅童の立件は進んでいるわ。明智君の協力のお陰でね。多分、これが最後の仕事になると思う」
「最後、ですか?」
冴さんの言葉に引っ掛かりを覚えた僕がその言葉を繰り返せば、彼女は真剣な表情で僕を見つめた。
「この一年、あなたと一緒に精神暴走事件を追い掛ける中で自分の原点をもう一度見つめ直した。私がやりたいこと、私がなりたかった姿を。それに、あの夢の世界で父にも会ったわ。私がかつて憧れたのは、誰かに寄り添って救う父の姿。それを叶えるために、出直そうかと思ったの」
冴さんは獅童の件が片付けば、検察を辞して弁護士事務所を開くつもりだと語った。誰かを救えるように、自分が正しいと思ったことを貫けるように。
「そう思えたのもあなたのお陰よ、ありがとう」
「僕の方が冴さんに助けられてばかりでしたけどね」
お礼を言われても、僕が冴さんにしてあげられたことなんか何も無い。冴さんなら自分で気付いて、踏み出せたと思う。そう伝えても、冴さんは小さく首を横に振った。
「あなたがそう思っていても、私が勝手に感謝するだけよ。私の切り札、あなたはその言葉を最後まで裏切らなかった」
「頼りない切り札だったかもしれませんね」
「まさか、最高の相棒よ。そのお礼、というわけでも無いけれどこれを」
冴さんはそう言って僕に紙袋を手渡してくれる。
「クリスマスは何も用意出来なかったけれど、今日はね。受け取ってくれるかしら?」
「ええ、もちろん。嬉しいです」
そう言って受け取れば、冴さんは鼻先をマフラーに埋めて何かを呟く。生憎とその言葉は聞こえなかったけれど。
「ありがとう。あなたのことだから他にもたくさん受け取ってるかもしれないわね」
「ありがたいことに、今年は色んな人から貰えました」
「だと思った。私のについてはお返しは気にしないで良いわ。マフラーも貰ったし」
「そんな訳にはいきませんよ。きちんとホワイトデーには何かお返しします」
「そう……、それじゃ楽しみにしてるわね」
「期待に応えられるかどうかは分かりませんけどね」
「大丈夫よ、あなたはいつも期待以上だから。待っているわね、徹」
僕の言葉に、冴さんはクスリと笑ってそう答えた。そういえば、冴さんに名前で呼ばれるのは初めてかもしれない。