201.第6章「平成の東映」
第9節 東映のイベント事業 ①「映像事業部」誕生と初期事業
2024年度、東映の催事部門はおよそ118億円の売上と12.7億円の利益がありました。
「事業推進部」を中心とする催事部門は、これまで長年にわたり東映の経営を支えてきました。
今節では、東映における催事部門の歴史を振り返ります。
① 東映における催事事業の始まり「東映芸能(株)」
1962年、テレビが普及し始めた影響と第二東映事業で大幅に制作本数が膨れ上がった反動で、東映京都撮影所娯楽時代劇映画の制作は一気に減少しました。
1962年8月、東映は明治座にて、大物時代劇スターたちが主演する「東映歌舞伎」を旗揚げ、ここから東映の催事事業が始まります。
東映社長の大川博は、「東映歌舞伎」の成功を受け、1965年10月、「東映芸能株式会社」を創設、大人から子供まで東映所属俳優の芸能活動をまとめてマネージメントするために「東映児童演劇研修所」も吸収させました。
「東映芸能」は、演劇だけでなく様々なイベントや音楽事業に乗り出します。
「東映歌舞伎」が終了した後は、「東映劇団」を立ち上げたり、子供劇団による東映テレビアニメを題材にしたショーを開催、藤純子歌う『緋牡丹博徒』自主製作レコードを発売すると大ヒットしました。
1971年4月、MBSが製作し「東映東京制作所」が生田スタジオにて制作した『仮面ライダー』(1971/4/3~1973/2/10)が始まり、大ヒット。ロケ撮影時にタイアップで行った「仮面ライダーショー」が評判を呼び、制作スタッフによる無料の番組宣伝キャンペーンとして拡大して行きます。
11月、「テレビ企画営業部」部長の渡辺亮徳(よしのり)が「東映芸能」を兼務することになり専務に就任しました。
12月、渡辺は、関東支社時代の部下相原芳男を「東映芸能」に異動させます。
翌1972年1月、「東映芸能」は神田共立講堂にて有料にて「仮面ライダーショー」興行を開催、以降「キャラクターショー」として本格的に始動を開始しました。
渡辺から「キャラクターショー」の営業拡大を命じられ販売方法を研究した相原は、試行錯誤を繰り返しながら、ショーを制作し有料で販売する代理店制度を全国に組織します。
「キャラクターショー」は全国で人気を集め、1973年には「アルプスの少女ハイジショー」、1975年には「秘密戦隊ゴレンジャーショー」と大ヒットショーも誕生しました。
相原率いる「キャラクターショー」は、「東映歌舞伎」に代わる「東映芸能」の事業の柱に成長しました。
1977年8月、「東映芸能」は「東映ビデオ」と合併し「東映芸能ビデオ株式会社」となります。
1978年10月22日、「東映芸能ビデオ」が中心となり東京撮影所も参加して、商工会議所100周年記念「全国郷土祭」を実施しました。
② 岡田茂による新規事業開発「宣伝部・関連事業室」
1971年8月に代表取締役社長に就任した岡田茂は、新規事業開発を進めるため、1972年3月、「宣伝部(取締役池田静雄部長)宣伝開発課」を設けます。
6月には全社の機構改革を行い、事業部制を導入。これに伴い「宣伝部・宣伝開発課」は「渉外業務課」を統合して、「宣伝部・関連事業室(池田静雄部長兼室長)」となりました。
東映での「関連事業室」は、1964年9月、事業の多角化を目指した大川博社長が「京都撮影所」に設立したのが始まりです。
映画制作の減少をカバーするために、これまで本業で培った技術や人脈を活用してこれまでになかった新たな事業を生み出すことを目指した「京都撮影所関連事業室」は、PR映画、CM映画、録音、美術等所技術に関する業務等の受注、映画製作機械、設備及び衣装の賃貸、その他本業に関連する新規事業の開発を手がけました。
「宣伝部・関連事業室」は、映画の宣伝で培ってきた人脈とノウハウを活用し、催事や演劇、レコード制作販売、PR映画の企画制作などにチャレンジ。部署として制作機能がない為、代理業形式で、企画面にタッチし、制作は外注するやり方で取り組みます。
まずは1972年8月5日、軽井沢花火大会での三越主催のショー「軽井沢ソン・エ・ルミエール」を制作しました。
以降、三越の開店行事のショーや三越劇場での企画制作などを手がけます。
レコードの制作では、梶芽衣子の『怨み節』が大ヒットし、写真集も販売しました。
③ 岡田茂による新規事業開発「全国事業所・関連事業室」
この成功を受け、岡田は1973年2月に「テレビ事業部テレビ関連事業室」、9月に「京都撮影所事業部」、関東、関西、中部、九州、北海道の各支社に「関連事業室」、11月に「東京撮影所事業部」を設置します。
それぞれが催事や出版などの事業に乗り出しました。
「宣伝部・関連事業室」は旅行代理店「トラベル日本」と提携し、俳優を使ったツアー企画を実施します。
1974年9月、「京都撮影所事業部」は俳優養成事業に乗り出し、所内に「東映芸術学院」を設立しました。
1975年11月には「東映太秦映画村」をオープンします。
1975年10月、「関西支社関連事業室」は、大阪東映会館1階に「東映プレイガイド」を開設。「東映シネ・ショップ」を併設しました。
翌年に宝くじ販売の免許が下り、販売を始めると売り上げに大きく貢献します。
1977年6月11日、「京都撮影所事業部」は「開発事業室」となり、その下に「開発課・技術事業課・美術事業課・芸能課・テレビ事業課・管理課」の6つの課を設置、「関西支社関連事業室」は「関連事業部」となりました。
④ 岡田茂による新規事業開発「宣伝事業部」「俳優センター」
1977年8月1日に「宣伝部・関連事業室」は独立、「宣伝事業部(池田静雄部長)」となり、新たに「俳優センター(取締役渡辺亮徳部長)」を独立の部として設置しました。
「宣伝事業部」には、レコード・出版、映画関係版権業務を行う「制作課」、演劇の企画制作公演、各種ショー、催事を担当する「演劇課」、PR映画やCMの制作などを受け持つ「開発事業課」などが設けられます。
⑤ 「映像事業部」新発足
1978年3月1日、映像関連事業の拡大を目指した岡田は、「宣伝事業部」と「営業部関連事業課」を合わせて本社に「映像事業部(池田静雄部長)」を設置、ここに各支社の関連事業を統合し関連事業の全国体制を整備しました。
「本社映像事業部」は、従来の宣伝事業部の事業を担当する「制作課」、自主興行など各支社の事業を総括する「映像営業課」、PR映画等各種映像の制作受注、カレンダーなど販売商品関係業務他事業開発を行う「開発事業課」と「管理課」の4つの課で構成されます。
関東、中部、九州、北海道各支社の「関連事業室」は「映像事業室」となり、「関西支社」では従来の「関連事業部」を「映像事業部」に改め、映像事業の管理・連絡を行う「映像業務課」と自主興行、PR映画・CM制作の受注、催事演劇等の受注、ビデオ事業、シネショップ、商品販売等を担当する「映像事業課」を置きました。
映像事業部当初の主な事業
〇 「シネショップ」事業
大阪梅田、京都四条大宮、和歌山と「関西支社映像事業部」が始めた「東映シネショップ」は、『宇宙戦艦ヤマト』から始まったアニメブームや角川ブームにのり、関西から北九州小倉、新宿ルミネ、ソニービルと全国に拡大して行きます。
「東映シネショップ」は、アニメファンなどを集め、1978年10月には15店舗まで拡大しました。
〇 アニメイベントと物品販売事業
「映像事業部」は、アニメブームに乗り、アニメイベントと物品販売を結合した企画に取り組みます。
昨年発足した「東映アニメーションファンクラブ」は、4万人まで会員が増加し、多くのアニメファンが集まりました。
その後全国各地で、アニメイベントを実施し多くのファンを集めます。
〇 「支社映像事業」多彩な催事展開
各支社の映像事業担当者は、アニメイベントを中心に様々な催事や自主興行を展開しました。
〇 東映スターカレンダー販売事業
「映像事業部」は、これまで宣伝部が担当してきた東映スターカレンダーの製作販売を行います。
その後、東映スターカレンダーは、2024年まで続きました。
〇 「東映まんがまつり」自主興行
全国各支社の「映像事業部」は、全国の市民会館や公民館などで人気の「東映まんがまつり」の自主興行を数多く開催しました。
会場の近くにある幼稚園や小学校を調べ、映像事業部員が分担して平日の登下校時に校門の前に立ち、子供たちに入場割引券を配る地道な作業を行います。
子供映画の自主興行は、映像事業部初期の主要な催事でした。
⑥ 本社内に「総合SP開発センター」新設
1978年10月1日、東映は子供向け諸事業のシステム化を目指し、本社内に新たな部署として「総合SP開発センター」を設置します。
また、全国各支社の「映像事業室」を「映像事業部」に昇格させました。
「総合SP開発センター」部長には、取締役テレビ事業部長兼テレビ版兼営業部長兼俳優センター事業部長・営業部長・企画部長の渡辺亮徳が就任しました。
「総合SP開発センター」はアニメ商品開発販売などをてがけます。
⑦ 「映像事業部」に「SP開発部」と「東映芸能ビデオ・キャラクターショー」部門を統合
1980年3月1日、「本社映像事業部」に「総合SP開発センター・SP開発部」を統合し、「SP事業室」を新設。また、「東映芸能ビデオ」で相原芳男が担当してきた「キャラクターショー」部門が、相原以下スタッフともども「映像事業部」に異動し、「芸能事業室」となりました。
そして従来の「制作課・映像営業課・開発事業課・管理課」が、業務内容を整理した上で「制作事業室・PR事業室・管理室」として室に格上げされます。
「キャラクターショー」も加わり、全国の「映像事業部」は春からGWにかけてアニメを中心に多彩なイベントを展開しました。
夏休みには、「宣伝部」と協力し全国でアニメイベントを実施。「キャラクターショー」を始め様々なイベントを開催します。
アニメ作品の劇場パンフや商品販売も好調に推移しました。
これ以降、「映像事業部」は全国で様々な催事を展開し大きく売り上げを拡大して行きます。
⑧ 「東映俳優センター」の躍進
「映像事業部」が創設された1978年3月、池田が「映像事業部長」に就任したことから、1977年8月1日に誕生した「俳優センター」の事業部長・営業部長・企画部長が池田から渡辺亮徳に代わり、渡辺は「テレビ事業部長」と兼務で「俳優センター」3部長となります。
この時、あわせて渡辺の部下である「テレビ企画営業第一部」次長草薙修平が兼務で「俳優センター営業部」次長に配属されました。
片岡千恵蔵を始め、渡瀬恒彦、梅宮辰夫などの東映スターが所属し、草薙の指揮の下、「俳優センター」は躍進して行きます。
1981年6月、草薙は「俳優センター営業部」部長に昇進しました。
⑨ アニメグッズショップ「アニメポリス・ペロ」誕生
1977年8月に劇場公開された『宇宙戦艦ヤマト』から始まったアニメブームは、翌1978年の松本零士原作『宇宙海賊キャプテンハーロック』『銀河鉄道999』で大きく拡大します。
1977年3月、みのり書房がアニメ雑誌第1号『月刊OUT』を創刊すると、続いて1978年5月に徳間書店のアニメ月刊誌『アニメージュ』がスタートしました。
1978年にアニメショップを開店したラポートが、その年12月にアニメ雑誌『MANIFIC(マニフィック)』を出版。1979年5月に『アニメック』とタイトルを変え「ガンダム人気」を盛り上げます。
これらアニメ専門誌のと共にアニメファンは全国に広がりました。
劇場で売られたオリジナルグッズは飛ぶように売れ、「東映アニメーションファンクラブ」は瞬く間に会員数が増大。「映像事業部」が開催したアニメイベントには熱心なファンが数多く集まります。
東映「テレビ版兼営業部」は、吉祥寺に東映ファンシーショップ「あいどる」をオープンしました。
大阪東映会館1階で「東映シネ・ショップ」を展開する「関西支社映像事業部」は、この動きを捉え、1980年7月12日、大阪東映会館3階に大型アニメグッズショップ「アニメポリス・ペロ」を開店しました。
「アニメポリス・ペロ」は、店内で原画展や声優トークショーなどを定期的に開催し多くのアニメファンを集め、オープン以来連日にぎわいました。
1980年10月、アニメグッズの好調を受け、「本社映像事業部」に物販を専門に担当する「商品営業室」が新設されます。
⑩ アニメグッズショップ「アニメポリス・ペロ」全国拡大
アニメ催事の盛況ではじまった1981年。前年に大阪東映会館3階に誕生した「アニメポリス・ペロ」は全国に店舗を拡大しました。
1981年3月14日、好調な大阪店に続き、「北海道支社映像事業部」が「北海道支社」内に「アニメポリス・ペロ」札幌店をオープンします。
1981年4月には直営館の「高知東映」が館内スペースを使い「アニメポリス・ペロ」高知店を開店しました。
東映直営3店舗に加え、1981年1月31日松山店、3月15日徳山店、3月25日徳島店、4月25日高松店とフランチャイズ店が5店舗誕生した「アニメポリス・ペロ」は、アニメブームに乗り、各地で好調な売り上げを上げます。
1981年7月11日には、「九州支社」内に福岡店と直営館店舗第2号として「和歌山東映」内の和歌山店が続きました。
1981年8月15日、「関東支社」管内第1号店として静岡東映内に静岡店がオープンします。
1981年10月8日、都内で初めてのペロ店として池袋東武百貨店7階に「関東支社映像事業部」が東京店を出店しました。
1981年11月8日、直営館第4号店として「豊橋東映」内に豊橋店を、11月22日に「仙台東映」内に第5号店仙台店が開店します。
1981年の年末12月26日には北九州市の「小倉東映」のリニューアルに伴い小倉店が誕生。
この年「アニメポリス・ペロ」は、新たに東映直営店舗として札幌店、滝川店、仙台店、東京店、横浜店、静岡店、豊橋店、高知店、福岡店、小倉店の10店舗とフランチャイズ店の松山店、徳山店、徳島店、高松店の4店舗、計14の店舗がオープンしました。
1983年3月、「アニメック」の営業部長だった高橋豊が独立して池袋にアニメショップ「アニメイト」を立ち上げ、10月にはアニメ商品製作会社「ムービック」を創設します。
ここから「アニメイト」は、アニメファンの拡大と共に全国及び海外に店舗を拡大して行きました。
日本のアニメブーム初期に貢献した「アニメポリス・ペロ」は、各店舗様々な理由で順次閉店していきます。
そして2000年5月に第1号店である大阪店の閉店で幕を下ろしました。
⑪ 「アニメフィルムマラソン」全国展開
1980年7月、「アニメポリス・ペロ」大阪店の店長で「関西支社映像事業部」部長代理の山家靖郎は、アニメージュ主催の「アニメグランプリ」を視察します。
そこでアニメファンの声を活かしたイベントの成功を見た山家は、1981年大阪北区のサンケイホールにて「アニメフィルムマラソン」という名称で声優トークショーを交えたアニメ映画上映イベントを開催しました。
事前に「アニメポリス・ペロ」にて見たいアニメ映画のアンケートを取り、ベスト10位に選ばれた作品をすべて上映した「アニメフィルムマラソン」は多くのアニメファンを集め、毎年恒例の「ペロ」主催イベントとなります。
回を重ねた1989年には各支社に声がけし、東京、大阪、名古屋、福岡でホールを借り、「各支社映像事業部」主催にて実施しました。
その後名古屋でも「中部支社映像事業部」恒例のアニメイベントとして定着します。
「アニメフィルムマラソン」は、大阪が1995年、名古屋では1999年まで続きました。
⑫ 東映ミュージックスクール
1965年に発足した「東映芸能」は「東映ビデオ」と合併した後、1980年3月に芸能部門が「映像事業部」に移管され、「映像事業部芸能事業室」となります。
発足時、1958年に「東京撮影所」に創設された「東映児童演劇研修所」を吸収した「東映芸能」は、1965年12月、「東映歌謡音楽教室」を新宿東映内に立ち上げます。
ここからコーラスグループ「ヤングフレッシュ」が誕生し、アニメや特撮の主題歌を数多く担当。アニメ・CMソング界の女王前川陽子や女優児島美ゆきなども一時参加していました。
ーヤング・フレッシュ 主な作品ー
・1967年フジテレビ『悟空の大冒険』オープニング「悟空の大冒険マーチ」・エンディング「悟空が好き好き」
・1967年関西テレビ『仮面の忍者 赤影』主題歌「忍者マーチ」
・1968年NET『河童の三平 妖怪大作戦』主題歌「妖怪大作戦」
・1970年朝日放送『ふしぎなメルモ』オープニング「ふしぎなメルモ」
・1975年NET『一休さん』オープニング「とんちんかんちん一休さん」
「映像事業部芸能事業室」は、1980年6月、「東映歌謡教室」から代わった「東映ミュージックスクール」にてアニメ歌手養成部門を立ち上げます。
平均16歳のコーラスグループ「東映アニメーションコール」を組織し、アニメ作品のコーラスで活躍しました。
「東映ミュージックスクール」は、提携校として大阪、名古屋、福岡に分校を作ります。
その後、「東映ミュージックスクール大阪校」を引き継いだ「関西支社映像事業部」は、都島から梅田にある「大東洋」地下のダンス教室「スタジオダンシン」に場所を移し、毎週日曜日に教室を開講しました。
そこで大阪でもコーラスグループ「東映アニメーションコール」を結成。その中から「どんぐり隊」という名称でアニメソングを歌うチームを作り、子供向けイベントなどに起用します。
1985年6月15日、「関西支社映像事業部」は「京都撮影所・東映俳優養成所」と提携し「東映俳優養成所大阪校」を創設しました。
それにともない「東映ミュージックスクール大阪校」は「東映俳優養成所大阪校歌手科」となります。
コーラスグループ「どんぐり隊」は活動の場を広げ、1987年7月公開の東映映画『恐怖のヤッちゃん』(金子修介監督)にも出演。その他関西各地のイベントで活躍しました。
三波豊和と「どんぐり隊」
1978年に誕生した「映像事業部」は、劇場物販、自主興行、キャラクターショーとともに、劇場などの空スペースを活用した「シネショップ」「アニメポリス・ペロ」など店舗事業を全国で展開し、順調に売り上げを拡大して行きます。


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