人生の節目においては、大変難しい判断を迫られることがあります。また、それほど重大なことでなくても、公私に関する諸々の問題について、難しい判断を迫られることがあります。このような難しい判断について、たいていの場合、自分の好きなものを選んで進めばよい場合もあります。そして、そのようなシンプルな方法で、道が切り拓かれることもあります。
しかし、問題の性質によっては、自分が好きなものを選んだために、自分にとって受け入れがたい結果が生じることもあります。誰でも、このような経験がありますから、自分の直感や嗜好だけでなく、人のアドバイスに耳を傾けるようなことを学ぶようになります。しかし、それでもなお、物事がうまく運ばないこともあり、どうにも判断に迷うこともあるのではないでしょうか。
聖書は、物事を判断する際には、主なる神様に判断を仰ぎなさいということを語っています。
箴言 3:5
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
その理由は、神様は全能者であり、人は全能ではないからではないかと思います。人はすべてを見通すことはできませんが、神様にはそれができるからではないかと思います。そこで、神様の判断を実際にどのように知ればよいかというと、それは何よりも聖書を読み、そして祈るということを繰り返す中で、主の啓示を受けるということになるのではないかと思わされます。具体的には、そうしている中で、あるとき心の中に特定の方向性が示されることがあるかもしれませんし、周りの信者の方や、もしくは未信者の方を通して、みこころが示されることも少なくないのではないかと思います。
しかしながら、ひたすら聖書を読み、祈っていても、主の導きをまったく感じることができないということもあるかもしれません。その理由は、神様が何かを示していても、人の側で感知できない、神様が何らかの理由で沈黙されておられるなど、いくつか理由は考えられます。しかし、何らかの判断を下さなければいけないときに、このように暗中模索の状況がひたすら続けば、困り果ててしまうこともあるかもしれません。かつて私も、そのような状況にはまり、ある信仰の先輩の方に相談したところ、上の箴言3章5節の次の節を読むように言われました。
箴言 3:6
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
つまり、何らかの問題をめぐって、いずれかの判断を下さなければならないにも関わらず、どうしてよいか分からない場合は、とりあえず主に全てを委ねつつ、自分の思う方向へ進めばよいということなのではないかと思いました。主に真心から寄り頼んでいれば、軌道修正や方向転換を含め、主がその道を整えてくださるということなのではないかと思いました。
聖書は、主に従って歩む人は、苦い「罪」に陥ることから守られるということを約束しています。その根拠は、イエス様が、私たちの「罪」を滅ぼすために、すでに十字架の上で血を流して死んでくださったからです。ですから、もしこのイエス様による「罪の贖い」を信じて、心に受け入れるのであれば、本当に自分の「罪」が赦されます。そして、イエス様に従って歩む限り、「罪」に陥る危険からも守られます。
したがって、問題は、どのような判断を下すかということよりも、イエス様に従って歩んでいるかどうかということになるのではないかと思います。もちろん、この主に従って歩むことも、少なくとも私の場合は、自力ではまったく不可能です。ですから、そこも主に委ねるしかないと思っています。
ローマ人への手紙 8:10‐14
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
ガラテヤ人への手紙 5:16
私は言います。御霊によって歩みなさい。






