近代的な聖徳太子研究を推進した初期の立役者が、久米邦武と津田左右吉であることについては、おそらく異論はないでしょう。二人とも非難されて職を辞するに至っていますが、久米の辞職は「神道ハ祭天ノ古俗」論文事件によるものです。信頼できない資料を切り捨てた久米の『上宮太子実録』(1904年)は、太子は黒駒に乗って空を飛んだといった伝承を否定し、確実と思われた資料のみによって、太子を明治期日本の手本となるような、外交に巧みな政治家として位置づけようとするものでした。
その『上宮太子実録』の再刊を久米に依頼したのは、聖徳太子顕彰の運動をしていた上宮教会であり、本書は『聖徳太子実録』という名で1919年に再刊されました。つまり、久米は文献批判に基づく聖徳太子研究のせいで迫害されたのではないのです。
一方、津田左右吉を激しく攻撃して告発し、著作の発禁にまで追い込んだ者たちの多くは、強烈な聖徳太子礼讃者でした。私は、聖徳太子に関する津田の個々の説については反対であることが多いものの、津田が創設した研究室で学んだ身であって、その幅広い学識と自らの学説を貫き通した気概を尊敬してきましたので、10年ほど前からこの迫害事件について調べるようになりました。
そこで驚いたのは、津田の古典研究を非難攻撃したのは、神道系の国家主義者でも、軍国主義と結びついていた法華信仰系の国家主義者でもなく、和歌の革新団体から出発した親鸞讃仰グループであって、親鸞が尊崇していた聖徳太子を絶讃する超国家主義者たちであったことです。
彼らは、近代の西洋文明を取り入れなければならない日本の状況と、伝統文化を守りたいという願望の間で悩み、理想的な手本を聖徳太子のうちに見いだしていました。つまり、海外文化を自主的に取り入れつつ中国と対等の外交をし、三経義疏では中国の学僧たちの解釈に基づきながら時には堂々と反論して超絶的天才ならでは深遠な解釈を示した、とするのです。海外文化を取り入れつつ、伝統文化を守った(和歌も詠むなど)点では、明治天皇も同じことになりますので、彼らは明治天皇と聖徳太子のイメージを重ねつつ、自己流の聖徳太子研究に励み、また明治天皇御製の和歌をひたすら誦することをもって修行としていました。
そうした彼らにとって、聖徳太子関連の文献を批判的に検討して太子の事跡を疑うような研究は、日本そのものを否定する試みのように見えたのです。そのグループの指導者であった三井甲之については、「親鸞を讃仰した超国家主義者たち(一)--原理日本社の三井甲之の思想--」(『駒沢短大仏教論集』8号、2002年10月)、有力な理論家の一人であって「世間虚仮、唯仏是真」という太子の言葉を変えて「国際的世間虚仮、唯日本是真」と主張した木村卯之については、「親鸞を讃仰した超国家主義者たち(二)--木村卯之の道元・親鸞比較論--」(『駒澤短期大学研究紀要』34号、2006年3月)を発表しました。
また、この二人から大きな影響を受け、津田攻撃の文章を書きまくって「不敬罪」で告発した蓑田胸喜とその仲間については、「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』40号、2007年5月)で簡単に紹介しておきました。
蓑田が昭和14年に刊行した小冊子、『津田左右吉氏の大逆思想』では、6点をあげて津田説は反国家的なものだと非難していますが、その第5点は「津田氏の日本精神東洋文化抹殺論」、最後の第6点が「津田氏の聖徳太子十七条憲法・三経義疏擬作論」です。蓑田は、『日本書紀』の聖徳太子関連記述を疑う津田のことを、「悪魔的虚無主義の無比凶逆思想家」などと言って非難しています。彼らにとって、津田の説がどれほど危険な思想と思われたかが分かりますね。
彼らの活動の結果、検事局が津田を出版法違反で起訴して裁判となり、津田は早稲田大学を自ら辞職するに至っています。上代史に関する津田の著作は発行禁止となりました。
しかし、津田は、実際には明治人らしいナショナリストであって、天皇を深く敬愛していました。ただ、軍国主義風な天皇観や、東洋は文化的に一体であって日本はその盟主なのだなどといった主張には強く反発しており、『日本書紀』をそのまま信じて狂信的な主張をする者たちについては、彼らこそが日本の伝統を歪曲するもの、日本を滅ぼすものとして、強い危機感を持っていたのです。
蓑田は、狙いをつけた進歩的な学者たちを次々に攻撃して大学から追いやり、津田についても著作の発禁にまで追い込むことに成功しましたが、やがて仲間の間でも孤立するようになって活動から離れ、敗戦後に自殺しています。蓑田などの登場の背景を論じた書物のうち、入手しやすいものとしては、片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ、2007年)などがあります。
こうした聖徳太子絶讃派による戦前の聖徳太子研究については、参考にすべき指摘も少しはあるものの、全体としては思い込みが先行していて学術的論証になっていない場合がほとんどです。また、国文学を学んだ三井甲之や真宗の僧侶であって龍谷大学で教えた井上右近などを除けば、彼らは西洋の学問を本業としていた者が多く、仏教や中国思想については素人であって、当時の東アジアにおける国際状況の考察なども不十分であったため、今日の学問レベルからすれば、ほとんど使えません。同じ戦前からの礼讃派であっても、東大で日本仏教史を教えた花山信勝の研究は、偏見が強くて問題があるものの、文献学的な調査の部分に限って言えばさすがに厳密であって、今日でもほとんどそのまま使えますので、そこは大きな違いです。
そのような太子研究を含む戦前の国家主義を反省し、史実としての聖徳太子と信仰の対象とされた聖徳太子の違いを区別しようとした代表が、広島文理大学の小倉豊文です。津田が示した方向をさらに進めて詳細な検討を行った小倉の研究は、まさに画期的でした。長年の研究成果をすべて戦災で焼かれ、広島原爆で被爆した身に鞭打ってまとめられた小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸社、1963年。増訂版は、1971年)は、今日では訂正されるべき記述をかなり含んでいるものの、太子を研究する者すべてが読まねばならない誠実な研究であり、感動の名著です。
一方、その津田や小倉を受け継いで文献批判を推し進めたと称する大山誠一氏の研究は、『日本書紀』などの記述をすべて信じて太子を超絶的天才と絶讃する戦前の超国家主義者たちの主張を裏返しにしたような面があり、片端から「陰謀」「捏造」だとして否定し、儒仏道と唐の政治情勢に通じていた道慈の述作によるとするばかりで論証が不十分であるのが実状です。つまり、超国家主義的な太子礼讃者たちと太子実在否定論の大山氏とは、評価の基準が違うだけで、論じ方自体はかなり似ているのです。
近代以来の聖徳太子の意義付けというのは、現代の我々の聖徳太子観に大きな影響を与えているため、このブログでは、太子に関する伝承を疑う立場の研究だけでなく、この津田左右吉迫害事件を中心として、様々な系統の聖徳太子礼讃者たちの言説についても注意を払っていきます。