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聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「聖徳太子」という呼称を用いた最初は、歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船

2022年05月24日 | 論文・研究書紹介
 前々回の記事で触れたように、「聖徳太子」という呼称を用いた最初は、奈良時代後半に石上宅嗣とともに「文人の首」と称され、歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船(722-785)と思われます。

 このことについては、真宗大谷派教学研究所での講演、

石井公成「聖徳太子といかに向き合うか―小倉豊文の太子研究を手がかりとして―」
(『教化研究』166号、2020年7月。こちら

で語っておきました。ただ、題名が題名だけに、この講演録はあまり読まれておらず、淡海三船の件は広く知られていないようです。

 聖徳太子の従来のイメージに縛られずに客観的に研究するため、生前に呼ばれていた名によって呼ぼうとして文献に見えない「厩戸王」という呼称を仮に想定した小倉豊文については、尊敬しているため、このブログでも小倉コーナーを特設してあるのですが、こちら)。

 さて、『釈日本紀』の「私記」によれば、神武天皇などの漢字諡号を定めたのは淡海三船だと「師」が説いたと記しています。この点は学界でも認められており、通説になっています。また、現存文献における「聖徳太子」の語の初出は、751年に記された漢詩集、『懐風藻』の序であることは良く知られており、この『懐風藻』は三船の編纂によることもほぼ通説になっています。

 その三船は、鑑真とともに来日した弟子の思託と仲が良かったのですが、思託は日本で天台宗と戒律を広めようとしており、聖徳太子は天台大師智顗の師である南岳慧思の生まれ変わりだと主張していました。思託の『鑑真和尚東征伝』に基づいて真人元開(淡海三船)が書いた『法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝』(779年)には「聖徳太子」とあり、ここでは南岳慧思後身説も見えています。

 それ以前から、三船は自作の漢詩でも「聖徳太子」という言葉を使っていました。それは、神護景雲元(767年)に、称徳天皇に従って法隆寺東院を訪れた際の漢詩、「五言。扈従聖徳宮寺一首。高野天皇在祚」の序に「聖徳太子」と見えており、ここで既に太子は南岳慧思の生まれ変わりと述べています。

 つまり、「聖徳太子」という言葉は、奈良朝半ばすぎには南岳慧思の生まれ変わり説と結び付いた形で用いられていたのです。思託が来日したのは753年ですので、「聖徳太子」の語はそれ以前から用いられていたことになりますが、『日本書紀』では太子のことを「東宮聖徳」と呼び、また「上宮太子」と呼んでいるのですから、これを結びつければ、「聖徳太子」という語ができあがることになります。

 三船は、『大乗起信論』の注釈で知られる新羅の還俗僧、元暁を尊敬し、自らも『起信論』の注釈を書いて中国に送っています。このため、新羅から元暁の孫である薛仲業が外交使節としてやって来ると、元暁には会えなかったが孫に会うことが出来たと喜んで大いに歓待したのです。

 このことは、薛仲業が帰国した後、元暁を讃えて新羅の高仙寺に建てられた「響幢和上塔碑」に記されており、元暁の評価があがる一因となったようです。この碑は、割れた一部が現存しています。

 三船は御船王と呼ばれた皇族でありながら臣籍降下して僧となり、還俗して学者となった人物です。このことから考えると、三船は自分と同様に居士であって経論の注釈を著した聖徳太子と元暁を尊崇していたと思われます。

 その三船が歴代の天皇諡号を定めたのですから、厩戸皇子について「聖徳太子」という尊称を創り出しても不思議はありませんし、それ以前から寺院などで「聖徳太子」という呼称が用いられていたとしても、広めて定着させたのは三船だと見て間違いないでしょう。
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