淡海三船と天皇諡号制度化への影響
はじめに
奈良時代後期の文人・官人である淡海三船(おうみ の みふね)は、歴代天皇に中国風の二字名(漢風諡号)を一括制定した人物として知られる。彼の経歴や学識、政治的背景を踏まえると、天皇諡号の制度化に果たした役割が浮かび上がる。なぜ彼が諡号撰定を任され、どのような理念や方針の下で漢風二文字に統一したのか。各天皇の諡号に込められた個別の意味や、系譜整理上の問題(いわゆる「欠史八代の謎」)への対応、さらには怨霊信仰との関連(特に暗殺された崇峻天皇への配慮)についても考察する。最新の研究動向や新説も参照しつつ、淡海三船の諡号制定事業の意義を総合的に論じ、結びにその歴史的意味を明確に示す。
淡海三船の経歴と人物像
淡海三船は養老6年(722年)に皇族の御船王として生まれた。曾祖父は壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)であり、天智天皇の玄孫にあたる皇族の血筋である。天平勝宝3年(751年)に他の皇族とともに臣籍降下して「淡海真人」の氏姓を賜り、名を淡海三船と改めている。以後、式部少丞・内舎人などを経て地方官も歴任し、恵美押勝の乱(764年)では近江国で反乱軍の使者を捕縛する軍功を立てた。その功績により正五位上・近江介に叙せられ、桓武天皇の延暦4年(785年)に64歳で没するまでに刑部卿従四位下・因幡守に至った。
文人としての評価も極めて高く、石上宅嗣と並び「当代随一のインテリ文化人」で「文人の首(首席)」と称されるほどであった。聡明で敏捷な性格で多くの書物を渉猟し、文学・歴史に通じ、書を好んだという。若年時に唐の高僧・道璿に師事して出家した経歴を持ち、中国文化の薫陶を受け漢詩や漢籍にも秀でていた。現存最古の漢詩集『懐風藻』の撰者と目され、『続日本紀』前半の編纂にも関与したと伝わる。また天平神護元年(765年)頃には鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を著すなど、幅広い知識と文筆活動で知られた人物である。
このように皇族出身の教養豊かな官人であった淡海三船は、その学識と才能を買われて歴代天皇の諡号制定という一大事業を担うことになったと考えられる。
漢風諡号制定を任された経緯
淡海三船が天皇の漢風諡号(中国風の諡=おくり名)撰定を任じられたのは、称徳天皇(孝謙上皇)治世の天平宝字6年(762年)頃のことである。鎌倉時代の史料『釈日本紀』に引用された平安期の「日本書紀私記」によれば、神武天皇から持統天皇まで歴代41代の漢風諡号が淡海三船によって一括撰進されたと記されている。これは淡海三船が中央で勤務していた時期にあたり、一般的には元明・元正天皇(持統の後の2代)も含まれるとされる。実際、宮中の記録によれば孝謙天皇の勅命により、神武天皇から聖武天皇までの天皇の漢風諡号を撰定したと伝えられており、8世紀後半に皇統の歴代天皇すべてに中国風の諡号が整備されたことになる。
なぜ彼がこの重責を担ったのか。その背景には、彼の卓越した学識と皇統への造詣があったと考えられる。淡海三船は帝紀・上代史にも通じ、漢籍にも精通していたため、各天皇の事績を的確に評価し漢字2字で表現する能力を期待されたのだろう。また、淡海三船自身が天智天皇系の皇族出身であったことも考慮すると、皇統の正統性を強調し系譜を整序するこの事業に携わるのは、皇室の血を引く者としての使命感もあったかもしれない。
政治的には、奈良時代の朝廷が中国の制度や文化を範として国家の体裁を整えようとしていた流れがある。聖武天皇期以降、律令体制の成熟とともに元号や官制なども中国風に洗練されていったが、歴代天皇の諡号についても同様の統一が図られたとみられる。桓武天皇が平安遷都を行った際、「以後は漢風諡号を用いる」との方針が示されたとも伝えられ、淡海三船に神武から光仁天皇までの諡号選定を命じたとの記録もある。以上から、淡海三船の諡号制定担当は朝廷が皇統の権威付けと歴史の整序を図る政策の一環であり、その博識ぶりが買われての抜擢だったと位置づけられる。
なお、この淡海三船による諡号撰定については、後世になってからの付会ではないかと疑う見解も一部にある。例えば作家の井沢元彦氏などは淡海三船撰進説を疑問視しており、諡号制定はもう少し後代の創作ではないかとする説も紹介されている。しかし決定的な反証はなく、現在の通説では奈良時代後期に淡海三船がこの事業を担ったと理解されている。
漢風二文字への統一と命名方針
淡海三船が制定した天皇諡号の最大の特徴は、漢字二文字の漢風諡号に統一された点である。それ以前の天皇の名前は、例えば『古事記』や『日本書紀』には長大な和風諡号(◯◯天皇(◯◯のみこと))で記されていたり、複数の異名があったりと一定していなかった。8世紀に入り中国にならって諡号を定めるにあたり、淡海三船は簡潔で呼称しやすい2字の漢字名に統一したのである。これは中国皇帝の諡号・廟号が比較的短い字数で定められていたことに倣ったもので、煩雑な古伝承上の名称を整理する目的もあったと考えられる。
漢風諡号の命名にあたって淡海三船は基本的に各天皇の人柄や治世の徳を象徴する漢字二字を選定した。中国では諡号は功績や人格を評価して贈る名であり、時に「暴虐」「暗愚」など負の評価を含む例もあるが、日本の諡号の場合はあえて直接的な善悪評価を避け、尊称的・中性的な徳目表現に留めているのが特徴とされる。淡海三船の選んだ諡号も、生前の行跡を賛美・尊重する意味を含みつつ、直接的な称賛語よりはその天皇を象徴する漢字を配したものが多い。
例えば、天智天皇は「天智」(あめのち)と諡されているが、「智」は聡明さ・知徳を表し、天下を治めた英明な君主であることを示唆する(天智天皇の治世は大化改新後の制度整備や近江朝廷の創始など知略に富む)。天武天皇は「天武」(てんむ)すなわち「天の武威」を意味し、壬申の乱で武力をもって即位した経緯と天つ神の権威を体現する帝であることを強調している。聖武天皇の「聖武」(しょうむ)は直訳すれば「聖なる武」であり、仏教を篤信し(聖なる)ながら国家の武威も備えた理想君主像を込めたものと解釈できる。実際に聖武天皇は東大寺大仏造立など宗教的偉業を成し遂げつつ、墾田永年私財法など統治にも功績を残したため、その諡号には信仰心と武徳の両立というイメージが与えられたともいえる。
淡海三船の命名方針には連続性や対比も見られる。たとえば天智と天武で「天○」とそろえたこと、文武天皇(もんむ)は「文(文明)と武」を兼ね備える理想を表現し、聖武天皇へと「聖」の字を継承させたことなど、単独の人物評価に留まらず代々の繋がりを意識したネーミングがうかがえる。このように漢風諡号は各天皇の特徴を端的に示すと同時に、皇統譜全体の整合性や物語性も醸成する役割を果たした。
諡号に込められた多様な背景
淡海三船が選定した各天皇の諡号には、その個々の背景や逸話が反映されている場合がある。諡号は短い二文字とはいえ、その由来を探ることで各天皇の性格や治世の評価が見えてくる。
まず神武天皇から欠史八代にかけての初期天皇では、平和や安寧を願うような諡号が目立つ。神武天皇は「神武」=神の武威で建国を成した伝説になぞらえた勇ましい名だが、第二代綏靖天皇は「綏靖」(すいぜい)と称される。この「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり、「綏靖」と合わせて「安らかに天下を鎮め治める」という意味になる。まさに神武の後を継いで国内を平定し平穏を保ったとのイメージを与える諡号である。同様に三代安寧天皇(安らかに平和)、四代懿徳天皇(懿たる徳=高い徳)、五代孝昭天皇・六代孝安天皇・七代孝霊天皇・八代孝元天皇と、五代~八代は4代続けて「孝」の字を冠している。「孝」は本来「孝行」=先代への忠実を意味する字で、これを諡に付すことで神武から続く皇統への忠孝と正統性を強調したとも考えられる。記紀には事績が乏しく実在性も疑問視されるこれら欠史八代の天皇に対し、淡海三船は共通の徳目を付与することで一族としての一貫性を演出したと言えるだろう。
第10代崇神天皇の「崇神」は「神を崇(あが)め奉る」の意で、伝承では崇神天皇の代に疫病が流行し、天皇が自ら大神を奉斎して鎮めたという(初めて国家的に神祀りを行った)エピソードに通じる命名である。実際、「この崇神天皇の時に怨霊信仰が我国に現れた初め」と見る説もあり、国史上初めて祟り(たたり)への対処が記録された天皇でもある。淡海三船が崇神天皇に「崇」の字を付けたのは、彼が神々を崇敬し祟りを鎮めた偉業を称える意味合いがあったと推測できよう。
第15代応神天皇の「応神」は「神に応ずる」、すなわち神意に応えて偉業を成したとの意味に取れる。応神天皇(誉田別尊)は後世八幡大神として軍神に祀られた存在であり、伝説では母の神功皇后が神託を得て出征し、その後に生まれたのが応神天皇とされる。神功皇后(じんぐうこうごう)自体も淡海三船によって「神功」という漢風諡号が贈られており、これは「神の功業(御加護)によって偉業を成した皇后」といった意味であろう。応神天皇の「応神」はまさにその母の神功皇后の神託に“応”えて誕生した神の御子であり、のち八幡神として崇敬される存在にふさわしい諡号と言える。
一方で、諡号には暗示的に不遇や悲劇を示すものもある。典型が第14代仲哀天皇の「仲哀」で、「哀しみの中(うち)」の意と読める点が注目される。仲哀天皇は在位わずかで筑紫にて急逝し(日本書紀では神功皇后に従軍中、神託を信じなかったために崩御したとの描写がある)、その後を神功皇后が臨時に執政している。明確な功績を残さず非業の死を遂げた天皇に対し、「哀」という字を諡号に用いたのは異例であり、これは在位中の無念や悲劇性を反映したものと解釈される。直接的に「不幸な天皇」と言及せずとも、「哀」の一字が仲哀天皇の境遇を象徴しているのである。
暗殺された第32代崇峻天皇の「崇峻」もその背景を考える必要がある。崇峻天皇は蘇我馬子の指示によって暗殺された、日本史上唯一臣下により殺害された天皇であると正史に明記されている。このような暴力的な最期を遂げた天皇には怨霊化の可能性が付きまとい、後世、崇峻天皇の霊を恐れる風潮が生まれても不思議ではない。淡海三船が与えた「崇峻」という諡号は、「崇」=崇高・尊崇と「峻」=高く峻厳、すなわち高く尊いというポジティブな意味合いの複合である。一方で「崇」は一画違いで「祟(たたり)」となり怨霊を連想させる字でもあるが、もちろん公式には忌避され、あえて「崇」を用いて尊敬を表したと見るべきだろう。これは、崇峻天皇の霊を丁重に慰め鎮める意図があった可能性が高い。実際、後の平安時代に崇徳上皇(※諡号「崇徳」)が怨霊となって恐れられた例などを見ると、朝廷が不遇の死を遂げた帝に対して畏敬の念を込めた諡号を贈ることは、その御霊の鎮魂にも資する儀礼だったと考えられる。
以上のように、淡海三船の選定した諡号は一見すると美徳を讃える二字名に統一されているが、その内実は各天皇ごとの歴史的事情や伝承を巧みに反映したものとなっている。それにより、単なる称号以上の物語性が付与され、皇統譜はより立体的な意味を帯びることになった。
欠史八代の謎と系譜整理への寄与
淡海三船の諡号制定は、同時に皇統系譜の整備という役割も果たした。それが顕著に現れるのが、いわゆる**「欠史八代」への対応である。欠史八代とは、紀元前1世紀頃とされる第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの八代の天皇を指す。『日本書紀』や『古事記』にはこの八代に関する具体的な事績がほとんど記されておらず、後世の歴史学では半ば伝説上の存在**とみなされている人物たちである。しかし淡海三船は、これら八代の天皇にも先述のように一つ一つ漢風諡号を与え、正統な歴代天皇として系譜に組み込んだ。
淡海三船が活躍した8世紀後半は、すでに『日本書紀』(720年成立)の編纂から半世紀ほど経過しており、国家として公式の皇統譜を確立する動きが進んでいた時代である。したがって、たとえ実在が疑わしい天皇であっても系譜から外すことなく、矛盾のない形で皇統を連続させることが、朝廷の威信に関わる重要事項だったと考えられる。淡海三船の諡号制定は、この皇統の連続性を視覚化・名称化する役割を果たし、欠史八代にも各々諡号を与えることで「神武天皇から現在に至るまで皇統は一系である」という建前をより強固にした。学術的には八代天皇の実在性には疑問が呈され続けているものの、少なくとも淡海三船の時代にはそれを公然と疑うことはなく、伝承上の天皇も含めて全て敬称をもって扱うことで皇室の権威を高めようとしたのである。
また、淡海三船の諡号制定には皇位継承上の微妙な問題の処理もうかがえる。その一つが弘文天皇(大友皇子)の扱いである。弘文天皇は天智天皇の子で壬申の乱の際に即位を宣言したものの、敗北して歴代に数えられなかった人物で、淡海三船にとっては実の曾祖父にあたる。しかし彼が撰定したとされる諡号の一覧には弘文天皇は含まれていない。淡海三船自身の先祖であるにもかかわらず敢えて漏らしたのは、当時の朝廷(天武系統の皇統)に配慮し、公式には皇位継承から外れていた人物を系譜に入れなかったためである。この判断は、壬申の乱で成立した天武朝の正統性を尊重するものであり、同時に自らの出自より公の歴史編纂を優先した淡海三船の政治的バランス感覚を示すものといえよう。
もう一つ特筆すべきは、神功皇后への諡号授与である。神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で応神天皇の生母、摂政として三韓征伐伝説など数々の功績を持つが、正式には天皇に列しない人物である。それにもかかわらず淡海三船は彼女に「神功皇后」という漢風諡号を贈っている。これは彼女を歴代天皇に準じて扱う姿勢の表れであり、特殊な地位の人物にも例外的に諡号を与えることで皇統譜に組み込み直したものと言える。結果として神功皇后は歴代一覧において他の天皇と共に記載され、後世には実質的に第15代天皇(応神天皇)の前に「神功皇后(摂政)」が位置づけられるようになった。このような配慮も、淡海三船の諡号制定が単なる名付けではなく、皇室系譜の体系化と再編であったことを物語っている。
怨霊信仰との関連性
淡海三船の生きた奈良時代から平安時代初期にかけて、日本では怨霊信仰が徐々に顕在化していった。朝廷の政治史を振り返ると、崇峻天皇の暗殺(592年)や藤原広嗣の乱(740年)、乙巳の変(645年)での蘇我入鹿の討滅など、非業の死を遂げた権力者の例は古くからあったが、それらの怨念が世に祟りをなすという考えが明確に記録に表れるのは8世紀以降である。淡海三船の同時代にも、藤原仲麻呂の乱(764年)後に疫病が流行したり、桓武天皇の弟早良親王の怨霊を恐れて都を移す事件(平安遷都の背景、桓武天皇による早良親王慰霊)など、朝廷が怨霊への対処を迫られる出来事が相次いだ。
このような時代背景からすれば、淡海三船が諡号を定める際にも怨霊化しうる天皇への配慮が働いていた可能性は高い。前述の崇峻天皇がその一例で、暗殺という最も恨みを残しやすい死を遂げた天皇に対し、「崇峻」(高く尊い)との諡号を贈ったのは最大限の敬意を示して祟りを回避する意図が込められていたと考えられる。事実、崇峻天皇崩御の後、推古天皇による手厚い葬儀が行われた記録もあり、朝廷は崇峻の霊を慰めることに腐心している。淡海三船の時代になおその懸念が残っていたなら、諡号を立てることで正式に「歴代の尊い天皇」として遇し、その霊威を安定させようとしたのだろう。
怨霊信仰との関連で言えば、崇神天皇への「崇」の字使用も前述の通り注目される。崇神天皇紀には国内に疫病(おそらく怨霊や祟りに相当するもの)の蔓延と鎮静の物語があり、彼自身は**「御肇国天皇」(国を創まり開いた天皇)とも称されるが、淡海三船は彼に「崇神(神を崇める)」との諡号を与えた。これは表向きは「偉大な神を崇敬する天皇」という尊称であるが、裏を返せば「(神祟りを)鎮めた天皇」という意味合いを持たせた可能性もある。崇神天皇にまつわるミヤズヒメの神託や大物主神の祟り**の伝説は、後の時代に怨霊・御霊信仰が形成される際の原型譚とも位置づけられる。淡海三船はそうした物語を踏まえ、崇神天皇を「崇」の一字で象徴しつつ、祟りを鎮めた偉業を讃えるニュアンスを込めたとも考えられる。
さらに時代を下れば、平安中期には崇徳上皇(「崇徳」は淡海三船の制定ではないが、同じ「崇」の字を持つ)が保元の乱後に怨霊化し、「日本一の大魔縁」と恐れられた例もある。この崇徳の例は、朝廷が歴代天皇・上皇の霊威にいかに神経を払っていたかを示す象徴的な事件であり、それ以前の淡海三船による諡号制定も同じ発想の源に立っていると言える。すなわち、歴代の帝王を悉く敬意ある諡号で祭り上げることで、いかなる怨霊も発生しうる隙を無くす狙いがあったのではないかということである。淡海三船の諡号一括制定は、単なる過去の整理ではなく、当時進行しつつあった怨霊信仰への先手的な対応策でもあった可能性がある。実際、その後平安前期まで淡海三船の定めた漢風諡号が踏襲され、大きな怨霊事件は崇徳上皇まで表面化しなかったことを考え合わせると、諡号制度が皇族・権力者の御霊鎮魂装置として機能していた面も否めない。
結び
淡海三船による天皇諡号の制定は、日本における歴代天皇の呼称体系を画期的に整備・統一したものであった。それまで混在していた和風諡号や複数の異名を整理し、漢字二文字という簡潔な形式で統一したことで、各天皇を明確に指し示すことが可能となった。その影響力は計り知れず、淡海三船が生み出した漢風諡号は平安時代の光孝天皇(884–887年在位)頃まで公式に用いられ続け、その後中世に一時変容をみせたものの、明治以降に至るまで歴代天皇を語る際の基本となっている。現在我々が神武天皇、推古天皇、聖武天皇といった名で過去の帝を認識できるのは、淡海三船の業績によるところが大きいのである。
淡海三船の諡号撰定には、単なる名付けを超えて国家理念の投影が認められる。彼が選んだ漢字二字には、儒教的徳目(仁・孝・徳・安・智など)や仏教的観念(聖)とともに、武や神といった統治者の権威を象徴する要素が巧みに織り込まれていた。それらは各天皇の個性を表現すると同時に、皇統の永続性や正統性を強調し、時に不都合な史実や怨霊の懸念さえ包み込んでしまう物語性と統合力を持っていた。淡海三船自身、皇族の末裔にして卓抜した知性の持ち主であったからこそ、歴代帝王の諡号にこれほどまで豊かな意味づけを行うことができたのであろう。
総合的に見て、淡海三船の果たした諡号制度化への影響は極めて大きい。彼の撰進した諡号によって皇統の歴史は整理・再構築され、以後長きにわたり天皇の追号として機能した。その背後には、帝王を理想化しつつ和漢の価値観で評価するという思想が貫かれており、同時に怨霊化のリスクを封じ込め皇統の権威を維持するという政治的配慮も読み取れる。淡海三船の諡号制定事業は、史書編纂・皇統譜整備・御霊鎮祭という複合的意義を有し、日本の君主号の在り方を決定づけた一大転換点だったと言えるだろう。その意味で彼は、日本史における「天皇諡号の制度化」の立役者であり、後世に残した影響は計り知れないものがある。
参考文献・出典: 『続日本紀』、『日本書紀私記』(『釈日本紀』所引)、各種史料の現代研究他。本文中に示した【†】付き数字は出典を示し、淡海三船および天皇諡号に関する史料・研究からの引用である。


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