[過程主義は純心、結果主義は邪悪なのか]
筆者は武曲・貪狼ですから紫府簾系なわけです。
やっぱり、結果主義の傾向はあるよな、というのは感じます。
というよりも、
筆者は
過程が好きということが一回もないです。
何かの分野が好きとかが無いのです。
ゲームが好きとか、運動が好きとか、勉強が好きとか無いです。
さらに言えば、RPGが好きとか、アクションが好きとか、シミュレーションが好きとか、そういうのもないです。
ただ単に分野それぞれに「それはそうなだけ」という認識でしかないです。
でも、その上で、その情報を駆使して上手く行った時。
「あれ、こいつ、この属性に対して耐性がない。」
とか
「あれ、こいつ、この状態異常効くの?」
とか
成果が大量に得られる時に、ニヤつくタイプです。
成果の情報を俯瞰して、大量に成果が得られそうなところとかを突けると喜ぶタイプ。
アクションゲームそのものが好きでスーパープレイにどんどん挑戦するとか、
そういうのは無いのです。
後、筆者自身の感覚として、結果主義というのは、
結果に対しての駒の配置を考えることに長けているとも言えると思います。
戦略シミュレーションの武将の配置とかは、
どの武将がどの成果を出しているかという、成果(結果)に対しての配置。
SRPGで誰を出撃させればいいとかいうのも、
敵の戦力から対応関係で、これを出撃させればいいよ、と考えたりする。
シミュレーションのプレイ経験は少ないのですが、それでも攻略をすぐに考え付くのはそこらへんだと思います。
筆者がコマンドRPGが得意なのも、
「こいつにはこれをやらせて、あいつにはあれをやらせて」
という、
それぞれのキャラの仕事をマネージメントするのが得意だからだと思います。
結果主義というと、自分が結果のために頑張るだけと思いがちですが、
「この配置で本当に成果が出ているのか?」
という成果の効率を考えて、配置や仕事の割り当てを調整する力もある。
結果主義と言っても、自分を優先するか、全体のマネージメントを優先するか、
それは個人によって性格が違いますよね。
紫微斗数で言えば、
七殺星の人と
武曲星の人では、性格が違ったりするのと同じで。
※七殺星の人が絶対にこういう性格とか、
武曲星の人が絶対にああいう性格とかを言いたいのではないです。
結果主義と言っても、結果主義の中でも
個人の利に即断で動くタイプもいれば、結果に対してどういう配置になっているか、
人を率いたり、マネージメントにその性質が出てくるタイプもいる。
それこそ、紫府簾系なんて星が8つあるわけですから、
性格のパターンも色々あるわけで、
そのどれもが紫府簾系で結果主義の傾向に含まれるなら、
結果主義というのもそれだけ性格の幅があるということです。
それこそ、筆者の福徳宮が廉貞・破軍という話をしましたが、
廉貞・破軍だって紫府簾系です。
でも、武曲・天府みたいな真面目で面倒見がいい組み合わせとかも紫府簾系です。
(ただ、武曲・天府は福徳宮が貪狼ですけどね)
何が言いたいかというと、
実際に廉貞・破軍が廉貞・破軍の性格をしているかどうかとか、
武曲・天府の人が武曲・天府の性格をしているかどうかとか、
そういうのはどうでも良くて、
もしも、廉貞・破軍のような性格の人がいたり、
武曲・天府のような人がいた場合、
そういった人も結果主義には含まれますよね、ということが重要なんです。
もしも、そういう性格の人が居た場合、
「ああ、確かにそういった性格でも結果主義には含まれるよな」
という話で、性格のパターンを考えてみるきっかけとしてイメージしてみてくださいということです。
世の中では、
過程主義は純粋な夢追い人で善として描かれ、
結果主義はこち亀の両さんが失敗する時みたいな描かれ方をしたりします。
でも、結果主義というのは、
そんな画一化された性格では無く、結果主義の中でも幅があるんだよ、ということです。
自分の勝ちを優先して、ピンポイントに動く人もいれば、
周りの仕事を結果に向かってマネージメントしたりする人間もいる。
そして、
創作というものに関しても、
本当にお金さえ手に入ればいいという結果を考えて、粗製乱造するような人間もいるでしょう。
でも、仕上がりという[結果]を重視して、良いものを作るのに貪欲な人もいる。
そういった人が作った物は、本当に邪悪な作品なのか?
という話になってくる。
後は、創作物というのは給料とか決まった報酬では無い。
作品の出来で報酬が変動する。
だからこそ、全然売れないリスクもあるけど、結果次第ではとてつもない報酬を得られることもある。
そこにチャレンジし続けて、稼いではまた挑戦してを繰り返す。
高額報酬を得られる依頼もこなせるほど実力もつけ、
さらに依頼料とも関係ないチャレンジの作品を作ったりする人とかはどうなのか?
それに全体を指揮して、それぞれの箇所に適切な人材を配置して、作品を作り上げる人もいたりする。
オーケストラやバンドとかでも指揮する側に回る人や
ゲームを作る時に、自分でなんでもかんでもやるのではなく、
それぞれの専門家に依頼して、総合的にまとめて作品を作る人とかはどうなのか?
結果主義の製作者は絶対に悪とは言い切れないのではありませんか?
[過程主義神話に一石を投じる]
では、今度は
過程主義者は絶対に綺麗なのか?
そちらのテーマを考えてみましょう。
過程主義というのは、その分野自体が好きでどんどん探求してあれこれするタイプです。
理科の授業とかでも、自分で覚えてあれこれしてみるのが好きなタイプ。
これを覚えたらこうなるではなく、勉強してあれこれ出力するのが好き。
創作とかでも、作る過程や技術の本を読んだりして、自分で出力することが好き。
メトロイドヴァニアでの例えを思い出してほしいのですが、
過程主義者は、好きでのめりこんであれこれ研究するから、
一般的なテクニックを突破したものを編み出したりすることがある。
それと同じで、創作とかでも他の人間より詳しくなっている可能性もある。
でもそこで、
他の人間の甘い部分とかを指摘して、
「お前は本当にその分野が好きなのか!」
と、心をえぐるように攻撃したりする。
もしも、そこで指差されたり、攻撃されている人が
結果主義の組み立て方の人の場合だったら、
「お前は(結果のために)全体を管理したり、仕切ったりするのが好きなだけで、
その分野を本当に好きなのか?」
とか、さらに性格の細かい部分をえぐるような内容になってきたりする。
でも考えてみて欲しいのですが、
結果主義で良いものを仕上げようとしている人だって、
その分野に関しての情熱はあるじゃないですか。
何でそれだけで好きじゃないということになるのでしょうか?
仮に過程主義者と同じような心のアプローチではなくとも、
その分野に対しての
[本気度]は無いと言い切れるのですか?
[好き]とか[夢]とか[情熱]とか、世間一般で綺麗と思われている言葉、
それを
自分から持ち出して他人を斬る人間、
そういう人間というのは
外から見れば
「お前、自分が綺麗な側だと自覚して、
それにかこつけて相手の人格を攻撃したいだけだろうが。
本当は自分と違うタイプが嫌いで、でもそのまま攻撃したら悪者になるから
大義名分として[好き]と[夢]とかを持ち出しているだけだろうが。
後、世の中で綺麗と思われている側だと自分から言い張っているその
あざとさ、何にも綺麗じゃないぞ。」
という風に見えていますよ。
それと、もう一つ考えないといけないのは、
過程主義者が作り出すものは絶対的に結果主義者より勝っているのか?
という問題があります。
過程主義者というのは、マニアですから、
自分が研究したことの粋(すい)を集めてあれこれ機能を付けることはできます。
ですが、その機能は製作者の自己満足の可能性があります。
凄い機能で作られた椅子が、椅子として座りやすいとは限らない。
凄い機能で作られたベッドが、ベッドとして寝やすいとは限らない。
凄い機能で作られた家電が、家電として使いやすいとは限らない。
生活家電とかでも、機能がごちゃごちゃ付いていても、
本当に使いやすいとは限らない物もたくさんありますよね。
ゲームとかでも、ただ単に勉強したプログラムの技術とかを並べても、
それがゲームの設計として面白いかは別問題だったりします。
単純に機能を並べまくったけど、全然ステージになっていないステージ設計とか。
ちゃんとプレイヤーから見た時にステージになっているのかい?
というのが抜け落ちている可能性もある。
例えば、上の動画とかは、最初に上ルート、下ルートを作っていますよね。
これによって、「今日は上ルートでやろうかな」とか、ステージとして何度も楽しめる。
これはちゃんとステージを作ろうとしている例です。
でも、パーツを並べる技術を身につけただけの人は、
そこまで考えきるとは限らないんですよ。
よりたくさんの演出技術、プログラミングであれこれ並べても、
ただ単に自分の技術の品評会になって、「ゲームとしてそれは面白いの?」とかが
抜け落ちたものになる可能性もある。
では、優劣をもってして「お前は本当にその分野が好きなのか?」と斬りつけたのなら、
そういった技巧に走った独りよがりで、
質としてはレベルが高くないのものを作った時に、
「お前こそ、[好き]という社会的に美徳と思われているキャラクターのために
打算的にやっているだけじゃねえの?」
と言っていいということですよね。
となってきます。
勝った側は、えぐっていいんでしょ。
相手の質の低さを見つけて、それを口実に人格まで叩いていいのなら、
お前の弱点が見つかった時、お前の人格まで叩いていいんだよな、となってきます。
やり始めたのはそっちじゃん、という話ですから。
つまり、
自分が振り回したものは、いつか自分に跳ね返ってくるよ。
ということです。
芥川龍之介の[羅生門]の理論が跳ね返ってくる。
そして、そういうのをルールにしてしまうと、勝った側が自慢するための
威張れる椅子を手に入れるために相手を打ち負かすゲームと化していってしまう。
あいつより上になって、威張れる側になってやろうという
威張るためのゲームになる。
「上であることを自慢してやろうと始めたのはお前じゃん。」
という話ですから。
そういうゲームと化すよ、ということです。
「え?何々、相手より上だったら、[好き]とか[夢]とか
社会的に綺麗な意味を振りかざして優越感に浸れるの?」
と、みんな群がり始めてくる。
じゃあ、何が
解決策なのかというと、
物事のアプローチは自分のやり方だけが全てでは無い。
ということを知る(相手を理解する)ことです。
例えば、
[空手]をやっている人と
[合気道]をやっている人がいます。
そこで[合気道]をやっている人が
「空手なんて相手を制するまでに痛めつけないといけない乱暴なものだ。
合気道だったら、ここでこうやってもっと痛めつけないで制することができるのに、
そんなものをやっている奴なんて、暴力的で攻撃的な奴だ。
わざわざ痛めつける必要が出てくるものを選んで学んでいるのだから。」
と言ったとしましょう。
これは正しいでしょうか?
合気道だって、それを行使する時に
「正当防衛だろ、じゃあ合法的に技を行使できるチャンスじゃん。
ほれほれほれ。」
と、相手をねじり上げたりすることにサディズムを抱くようなら、
そいつだって十分にゲスな心はあるじゃないですか。
「いや、合気道はそういう精神には至らないように教えからして・・・」
とか言っても、
「じゃあ、空手はケンカを売れとか教えているの?」
という話になってきます。
つまり技術とかいう以前に、
そいつの心が「正当防衛を振るえるチャ~ンス」と思っているようなら、
そいつの心はゲスなんです。
どの武術を学んだかではなく、心がそうだったら、行動がそちらに傾いていくのですから。
逆に、空手とかでも
「正当防衛というのは、その状況下で攻撃が行使されても認可されるからこそ、
それが行使される状況があることを喜んだら、
それだけ正当防衛で傷つけられる人がいるから悲しい事。
それに自分が制することに失敗したら、相手がさらにひどい加害者になって
報復の連鎖へと拡大していく事にもなる。
そんな状況を自分から喜んで望むものではない。」
と考えて、日ごろから人間が出来ているような立ち回りをする人なら、
それは別に悪人でもなんでもないじゃないですか。
むしろ、技術にかこつけて、相手を貶めてやろうとして突っかかっていくなら、
「攻撃に積極性を持っているのはどっち?」
となってきます。
そうやって因縁を吹っかけていること自体が、ハンティングの精神じゃねえの?
自分から攻撃を始めて相手を狩ろうとしていないか?
ということです。
何より、「お前のやっていることは悪の技だ」
とかレッテルを貼って打ち負かしにかかって、
人間的に問題が無い人だった場合、その相手の心はどうなりますか?
そして、
事実の重みは?
潰す必要のないものを潰して世界を狭くしてしまった責任はどうなるの?
となってきます。
じゃあ、これの解決策は何なのかというと、
「武術というものに対するプロセスが違うだけ」
と自覚して、必要以上に相手に踏み込まないことです。
「あなたのやり方はそうなんですね。
私のやり方はこうなんです。」
と、同じ武術というものを認めた上で、自分はこういうやり方だよ、
という形で留めておけばいい。
そこで中身のあるものを自分が展開していれば、
相手に邪心があっても、その中身と向かい合って
自分がやっていることのスケールの小ささに気付いて、変わり始めてきます。
「あなたのやっていることはこうなんですね」
と
先に相手を理解してやって、
そこに自分の考えを理解してもらうんです。
ついでだから言っておきますと、
ビジネスで交渉する場合も相手のタイプを調べておいて
相手を尊重し、
相手のタイプに合わせた交渉をするということが重要です。
忙しい人にダラダラ説明しても
「忙しいことがわからんのか、帰れ」
と言われます。
(工場とかで、指示を飛ばしまくっているところに、
長ったらしいものを持っていっても邪魔に思われるだけです。
時間を割いてもらったのなら、さっと説明できないといけない)
逆にじっくり知って判断したい人には簡素な説明をしても
「それだけですか、こちらはしっかりした中身のものを判断して決める組織です。
それを調べずに薄っぺらいものを持ってくるとは、そういったもので引っかかる相手を手あたり次第探しているように感じます。
お引き取り下さい」
となります。
相手を調べておくということが重要になりますし、
相手に沿って説明を組み立てることが大切なんです。
例えば、筆者もこうやって攻略サイトを運営しているわけですが
「色々な作品を扱っているようですが、
私の作品を扱っていないようでは、視野が広いとは言えないようですね。」
とか言ってくる相手がいれば、水をぶっかけて
「帰れ」
と追い返しますよ。
なぜ、筆者が怒ったかわかりますか?
「視野が広いとは言えない」
と言っている時点で、
「俺の眼は節穴だと言いたいのか?
つまり、俺は作品をしっかり選んだり、色々と広く調査して判断していない、
ただ、適当に作品に群がっているだけの運営をしているサイト運営者と言いたいのか?」
となってくるからです。
人のことを勝手に断定せずに、なぜその人はそのやり方をやっているのか、
その人に聞いてみたりして、相手の展開を許した上で自分の見解を述べる。
「そちらはそう考えているんですか。
私はこう考えています。」
という形に持っていけば、方向性が違っても離れて終わりになるだけなんです。
逆にその人自身にとって納得いかない定義を勝手に外から押し付けたりすれば、
相手からは怒りが返ってきて当たり前なんです。
ましてや、そこで言うだけ言って、責任を取らずに逃げ出したりしたら、
人としては終わっていくだけです。
それで、今回、何で[その分野が好き]とか[夢]とか
純粋に取り組むイメージのワードを例に出したかと言いますと、
かつて、リアルでそういった言葉が引き金で大きな事件が起きたことがあるからです。
[参考ページ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%8C%BA%E7%9F%AD%E5%A4%A7%E7%94%9F%E5%88%87%E6%96%AD%E9%81%BA%E4%BD%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6
※ネットでも、「夢が無いね」というワードを検索するだけで
この事件が出てきます。
筆者とかは、こういうものを知っているというのもありますから、
創作物で主人公サイドを夢や好きなものがある側で
それを振りかざしてライバルキャラとかをえぐって正義を振りかざしているのを見ても、
「そういう言葉って
言っている側が思っている程度では済まないほど、人を傷つける言葉だぞ。
キャラクターを借りて平気で振り回しているけど、痛みを気遣える側からしたら
ドン引きするぐらい気持ち悪い振る舞いだぞ。」
という感想が真っ先に浮かびます。
筆者は結果主義側の視点の人間ですから、
その人間の視点から言わせてもらいますと、
[好き]とか[夢]とかを振りかざして、相手を否定するような言葉をぶつける人間というのは、
「お前、自分が青春時代の適合者であることを自覚して、
相手が魂においての不適合者であることを追い込んでやろうというサディズムがあるだろ」
という風にしか見えませんよ。
心の底で
「イエ~イ、私、適合者側、
お前、不適合者側。
お前は邪悪な心で物事に接している側。
私は清らかな心で接している側。
何、私は正しい心なんだからそれを振りかざして何が悪いの?
ヒャ~ッヒャッヒャッ」
という気持ちでやってんだろ、お前。
という風にしか感じないです。
「お前、本当はそいつを縄で縛りつけて、ひざまずくようにして、
そのひざまずいているところに、後ろから心臓を思いっきり槍で突き刺したいだけだろうが。」
という風にしか映りません。
なぜなら、そういった
「[好き]や[夢]などの心が欠けている」
という言葉をぶつけられた人の心はどうなのか、という
[結果]を考えるからです。
・いじめをしている人は「ふざけていました」と言う。
・虐待をしている人は「躾(しつけ)をしていました」と言う。
・後輩をいびっている人は「特訓していました」と言う。
世の中、「いじめをしていました」とか、ストレートに言う人間なんかいないんですよ。
相手の心をえぐるのも同じ。
「正しいと思っていることを主張していました」
と言うんですよ。
ついでだから言っておきますが、10代から20代くらいに
青春時代くさく生きれなかったらアウトなのかといったら、
「そうではない」
と言っておきます。
例えば、筆者は
西洋占星術(星座占い)では、
太陽星座=さそり座
水星星座=てんびん座
太陽星座と水星星座の関係というのは、
思考の傾向に反映されると言われます。
そもそも水星というのは太陽からそれほど離れないため、
星座が太陽星座の前後1つまでしか範囲がありません。
例えば、筆者は太陽星座がさそり座ですから、
水星星座の範囲はてんびん座・さそり座・いて座の範囲までしかないです。
その中でも水星星座が太陽星座より前な人は
手段先行型と言われます。
手段先行型というのは、目標よりも
体験してみて、その後から目標が定まってくるタイプ。
例えば、サッカーをやるとして、
フォワードやってみました。
ミッドフィルダーやってみました。
ディフェンダーやってみました。
キーパーやってみました。
それぞれの経験した上で
「今、このチームの状況だったら、
こういったポジションについて、こういったテクニックを身につけたらいいのでは?」
という立ち回り。
手段で色々体験してみて、そこから最後に目標が出てくる。
こういったタイプというのは、経験の蓄積が出来てから立ち回りが定まってきますから、
晩成型になりがちなんです。
逆に、太陽さそり座、水星いて座とかは目標先行型。
目標を定めて、それに必要なものを学んでいくタイプ。
「自分は敵を抜き去りまくるドリブラーになってやる」
と決めたら、それに必要な事を調べて、ずっと努力していくタイプ。
目標先行型というのは、目標を定めてそれを成就させて、
それを語り継いでいったりするからピークが前に来やすい。
(創作みたいに、次から次へ目標が出来る場合は、ピークの期間は長くなるでしょうけど)
思考のタイプによって、ピークがどこに来やすいのかも違ったりするんです。
※興味がある人は
[太陽星座 水星星座]とかで調べられてみてください。
筆者のタイプを調べたいのなら、
[太陽蠍座 水星天秤座]とかで検索されてみてください。
[水星天秤座]だけでも結構出てきますが。
(断っておきますが、占い通りに実際の人間がそういう性格をしているかというよりも、
手段先行型とか、目的先行型とかタイプを分けて考えてみることがあったりしましたか?
というのが今回の話の重要な部分です)
特に筆者は、命無の武曲・貪狼で紫府簾系=結果主義。
さらに太陽さそり座、水星てんびん座だから、手段先行型。
色々と体験して、その結果の知識を利用して
マネージメントに回る方向性になりやすいタイプなんです。
しかも、九星気学では、
本命星は生まれた年がわかるから黙っておきますが、
傾斜宮は
乾宮傾斜(けんきゅうけいしゃ)です。
宿曜占星術だと27宿だと
虚宿です。
どれも、
中年運、後年運タイプだと言われます。
紫微斗数の武曲・貪狼もそうです。
ホロスコープの太陽さそり座・水星てんびん座も手段先行型だから後になって形になってくる。
思春期くささに騒いでるのは、テレビなどのメディアや
オタク文化とかであって、
それが全てでは無いという見方があったりする業界とかもあるから、オタク文化とかが振り回しがちな事を全てだと思い込む必要はないんですよ。
だから、思春期~就職の流れで上手く行かなかったからと言って、
それだけで人生の価値が決まるわけではないというのは、知っておいていいと思いますよ。
そして、
自分のタイプを知ることが重要です。
また、自分のタイプというのが存在するということは、他の人は他のタイプだったりする。
みんながみんな同じタイプで、ただ単に出力10や出力8とかの差があるのではなく、
タイプ自体が違う事だってあるんだよ、ということ。
だから、
相手が何者なのかをちゃんと知ってみること。
説明というのは、相手の主観に付け足す形でこちらの考えを理解してもらう。
世の中というのは、そういったものであるからこそ、
鞘に納めておくセンスというのも問われます。
そこで勝手に振り回す奴というのは、いつか自分も斬られるだけです。
[過程主義の性質を紫微斗数を参考に考えてみる]
さて、説教臭い話はその程度にして、
紫微斗数を利用しての性格タイプの幅を考える回。
今回は過程主義側を見ていきましょうか。
まず、天機星です。
天機星の解説で注目なのは8:20あたりからの
本来は天機星は社長に向かないけど、社長になりたがる人がいる
という話です。
結果主義と過程主義の性質を思い出してほしいのですが、
結果主義というのは、結果に着目して物事を考えるので、
それぞれの割り振りも成果がどの程度出ているかを考えて配置を考えたりするという話をしました。
どいつがどれだけ仕事ができているかな、と結果(成果)の度合いを考えながら
配置を考えるのは結果主義の方が向いています。
過程主義というのは、過程を突き詰めて色々なテクニックを編み出しますから、
局所的なクオリティを向上させるのは、過程主義の方が得意なんです。
ですから、結果主義者が配置を考えていっている時に
「この部分の仕事効率はこれが限界だしなあ」
と悩んでいたとしたら
「いや、そこはこういうやらせ方をすれば、もっと効率を上げることができますよ」
とアドバイスしたりするのが、過程主義。
過程主義というのは、過程の中身をどこまででも探求するから、
局所的な改善ができたりする。
例えば、農地をこれだけの面積とか決めている時に、
「この面積だと、これだけしか収穫できないなあ」
という時に、農業というジャンル自体を過程主義的にマニアックに研究している場合、
「いや、こういったやり方なら、もっと収穫を確保できますよ」
と改善策を言ったりすることができる。
天機星とかはチェックや改善とかが本来は得意。
筆者みたいな結果主義的に効率配分を考えるチェックでは無く、
その割り振られている仕事の効率を過程主義的な知恵で向上させることができるのではないのか?
という方向性でのチェックが天機星は得意なんだろうと思います。
ところが、天機星の動画の説明にあったように、
天機星自身が野心を持ったりすることがある。
なぜかと言ったのなら、チェックしてアドバイスしている時に
「そんなことも思いつかねえの、こいつ」みたいな感情が湧くことがあるから。
「こいつがそれで上に立てるんだったら、
俺が上に立てばもっと凄いことが出来るんじゃねえの?」
という感覚になっていくということじゃないでしょうか。
ですが、アクションゲームのステージ設計で説明したことを思い出してほしいのですが、
技術をふんだんに盛り込んでも、
ステージとして成り立つような設計を考えずに、ただ技術を振り回しただけのステージは、ステージとして面白いとは限らない。
ステージたりえてない可能性がある、という話をしました。
凄い技術で作った生活家電が、生活家電として使いやすいとは限らない。
とか、そういうパターンですね。
過程主義だから、知識マニアではあるけど、
その知識を振り回して出力しているだけで結果として、どう仕上がっているかを見ることが抜け落ちていると、
知識はあっても大成するとは限らないという事です。
ですから、
過程主義者が「自分は過程主義者なんだ」と自覚して、
そのメリットを活かせる範囲に収まれば活躍していくのでしょうけど、
そこを超えた野心を持つと
「世の中、あなたが思っているほど、知識だけでなんでもかんでも解決するわけじゃないんだよ。」
というのが跳ね返ってくる危険性がある。
過程主義者だからと言ってピュアな心で探求しているだけとは限らず、
野心を持ったりするパターンとかもあったりするということです。
※天機星の人が必ずしもそういう人といいわけではありません。
占いですから、絶対に全て当てはまるというわけではないです。
※それに占いだけで考えても、命宮に天機星が入っていても、
他の星とのバランスで、野心家なのか、穏やかなのかも違ったりします。
※今回の主旨は、占いが本当に当てはまるかどうかということよりも、
「占いとか関係なしに、仮にそういった性格の人がいた場合、
それも過程主義の人のパターンの一つには含まれるよね。
じゃあ、過程主義といっても、単純に綺麗な心で、人格者で、物事に打ち込んでいる人間とは限らず、
過程主義の中でも色々なパターンが考えられるということを知ってください」
というのが狙いです。
お次は[太陽星]。
太陽星は、別に性格の部分で書くことはあまり無いのですが、
紫微斗数の解説がふんだんに盛り込まれている動画なので貼っておきます。
性格に関しては過程主義の中でも突撃型の性格という感じでしょうか。
※命術というのは、生年月日に配られたタロットだと例えましたが、
別にタロットの意味が超常的に存在しているとかではなく、
タロットから意味を読みとる(リーディングする)という考え方。
それに[星座占い]も、星座が実在しているわけでは無いですよね。
星座占いは実在の星に星座を割り当てているから、
星の方は実在という先入観がありますが、実際は星座を割り当ててリーディングしているだけです。
紫微斗数は、全てが実在の星に割り当てられているのではなく、
虚星もあったりするよ、ということです。
その次は[太陰星]。
お姫様の星。
お姫様と言っても、西洋のプリンセスとかでは無く、
東洋の宮中の王家の娘。
宮中とか女官とか、そういった人間関係でのお姫様(王様の娘)。
従っている振りをするけど、実は相手を値踏みしたり、
「本当はこうなんだけどな」
「こいつの考えはこうなんだろうな」
とか、心にあるけど、表では繕ってそれを見せない。
機月系だから過程主義的な思考パターンで、
「こうだけどな」
と思っていたりする部分はある。
こういったのも、素直に過程主義で純粋に努力して、というタイプでは無く、
心では色々なものが渦巻いている感じですね。
組み合わせとかも、
天機・太陰とかは他人の言うことをきかない。
天機星のところで説明しましたけど、
天機星は過程主義的に頭が良くて、局所的な部分にどんどんアドバイスできるから、
「こいつがやるより、自分がやったほうがもっと上手く行くんじゃねえの?」
と野心を持ったりすることがある。
それに加えて、太陰星は縦に対して従う振りするけど、実は従っていない。
横のつながりを重視して、自分と同調するタイプと付き合う。
この2つが組み合わされば、自分と同調するタイプばっかりと
付き合う傾向になってくるのは想像できますよね。
太陽・太陰とかは、お日様とお月様ですから、
過程主義的に頑張って太陽的な明るさを持っていると思いきや
月が持つ、陰(かげ)の方向性の心を持ってますから、
これも素直に過程主義で頑張るとかいう心のタイプでは無いですね。
表で頑張っているけど、意見をされたら陰の部分が渦巻くから、
人の言うことをきかないという感じじゃないでしょうか。
天同・太陰は、天同星は同調するけど、
その時に同調できるかどうかでアクションが起きていくから、
しっかり相手と向き合うかどうかというと、そこまででもない。
同調できる状態が好きなだけで、それを見計らって動いている感じ。
そこに太陰星の広く横に見定める感じがあるので、
広い輪の中で、同調できる箇所を色々と関わっていく感じでしょうか。
相手の役に立とうと向き合うのは天相星の方と言われたりします。
天同星は機月系。
天相星は紫府簾系です。
ちなみに
筆者は、奴僕宮(ぬぼくきゅう)が天同・太陰です。
子(ね)の天同・太陰なので、輝きが一番強いのが入っています。
奴僕宮というのは、目下の人間やペットとの相性、
それに芸能の場合とかはファン層とかの相性とかも指すことがあります。
※奴僕宮は流派によっては、交友宮とも言われます。
交友宮の方が、言葉の響き的にわかりやすいかもしれません。
天同星=川、
太陰星=海なので、
広くみんなを受け入れるタイプと言う事でしょうか。
狭く、特定の分野だけというよりは、広く扱っていますよね。
ついでだから言っておきますが、奴僕宮が子(ね)ということは、
筆者は
命宮は未(ひつじ)です。
https://www.hoshiyomitaka.com/blog/cat23/post-28.php
最後は、巨門星。
機月系(過程主義)の一番きわどい部分を象徴している星かもしれません。
過程主義的にマニアックと言うことは、
それと対比して、いくらでも文句を言おうと思えば言えてしまうという事なんですね。
過程主義だから健気かというとそうとは限らず、
過程主義的に突き詰めることが多いから文句が多くなるということもあったりするんですよ。
ちなみに、8:15あたりから、巨門星と貪狼星の考え方の比較がありますが、
筆者は貪狼星ですから、結果が良ければ良くて、
そのための手段は別にどれでも良くて、そこに至れればいいというタイプなんです。
こうやって占いの話を持ってきているのも、
コミュニケーションの質が上がるなら、別に垣根なんて関係ないじゃんという考え方なんです。
今までは、過程主義的にひたむきに頑張るのが善・光・正義。
結果主義は、悪・闇・邪悪。
みたいな考え方が強かったけど、そのコミュニケーションレベルで物事は本当に進歩したの?
現場では違うと感じている人も結構いるのではないの?
そこが改善して前に進むなら、別に他のところから引っ張ってきてもいいじゃん。
今の人材配置、リソースの在り方の質が向上するんだったら、
それを投入すればいいじゃないか、という視点で考えるタイプだということです。
(そういう変化を過程主義的にこだわりを持っている側は嫌うかもしれませんけどね)
今回の話はこんな感じです。
繰り返し釘を刺しておきますが、
紫微斗数でその星の人が本当にその性格をしているかということよりも、
紫微斗数とか関係なく、そういう性格の人がいた場合、
そういったのは結果主義や過程主義に含まれて行くよね。
ということ。
結果主義や過程主義と言っても、
その中身の性格のパターンというのはたくさんあって、
世間が印象で考えているような単純なものじゃないということ。
そして、相手は自分の主観の延長上でその物事に取り組んでいるわけでは無く、
相手の感性で動いています。
「こいつ、こういうことをやって馬鹿だな」
とか思っても、じゃあ、その人は
「はい、あなたから見て馬鹿なことやります」
と意図的にやろうとしているのですか?
その人も、その自覚まで持ってやっているんですか?
そうではないですよね。
その上で、相手は相手の性質として、取り柄があるんですよ。
だから、相手を断じるような話し方では無く、
相手を認めた上で考えてもらうような話し方じゃないと、
相手は物事をちゃんと聞いてくれないし、
「ああ、こいつは心の底でこちらに敬意を持っていないし、馬鹿にしているんだろうな」
と思って、どこかではしごを外してきたりします。
今度はこの教えが正しいっぽいからそれに群がって、ひたすら流行りを振り回す側になるとかではない。
違いを[知る]ことが重要なんです。
人のタイプというのは色々あるということを実際に肌で感じてわかっていくことが重要なんです。
一つの偉い考えにみんな群がって、それを振りかざせばいいという話では無いです。
リアルの交渉とかは、相手の分析は自分でやらないといけない。
どの人にはどういうやり方が適切なプレゼンや説明かというのも、
自分で考えていけるようになっていかないということなんです。
もし、自分にこだわりがあって、「こうなのに」と思っても、
「それは、あなたがそうなだけ」
相手もそうとは限らないのです。
逆に他人が何かを振り回していても、自分も同じになる必要はないのです。
もちろん、学んでみて効果がありそうと思うものは吸収していいでしょうけど、
タイプまで同じになる必要はないです。
「そいつは、そうなだけ」
です。
人を知るというのは、「こうだろうな」と解釈で片付けるだけでなく、
色々なタイプ、違いがあるというところまでわかって、
人との違いを理解して立ち回りを考えて行けるようになっていくことなんです。
人間って脳みそがあって、思考ができて、言葉を発するから、
ただ単にそれぞれの人間が、思考と言葉を発しているだけ。
みんな人間で、ただ思考や言葉を発している共通の生き物なだけ、と捉えたりしがちですが、
実は考え方の根っこやアプローチの仕方自体、全然違っていたりする。
それを別に一つに統一しなくても、それぞれ特性があって、
それを理解して関係を作っていったりする。
そういう視点というのも、ちゃんと考えてみる必要があるんじゃないんでしょうか、ということです。
そこから言うと、
個性という言葉があまりに陳腐なんですよ。
個性という言葉を聞いて、何を想像します?
例えば、サラリーマンになるより、スポーツ選手やアーティストになるとか。
大衆が言っていることに対して何か逆張りで言えば個性的とか。
そういう認識自体、没個性的じゃないですか。
日本人が認識している[個性]というものが没個性的なテンプレによる認識なのに、
そういった認識のまま「もっと個性的に」とか「個性を大切に」とか言っても、
そうやって
煽っている人達は
個性を見抜いて育てることはできるのですか?
そういう人達って、言われた側がテンプレ的な個性を演じれば、それで満足するじゃないですか。
「認めたり、見抜くのはあんたらの方だろうが」
ということがわかってない。
何より、個性、個性というのなら、
本当は[性格診断]的な文化がもっと発達し、血の通(かよ)った分類をし、
ただ単にベルトコンベア的に分類するのではなく、それぞれのタイプを心を込めて素晴らしいと認めて、
その人が自分の特性を有益なものと自覚して社会で活躍して行けるように
[診断]の文化の方が向上していかないといけない。
個性、個性というのなら
個性を認める力の方が、文化的に向上していかなくてどうするんだよ、という話です。
だから、個性なんて、
特性を認めればいい話なんです。
そして、それは奇抜である必要なんかない。
真面目て堅実というのも特性の一つ。
任された仕事をしっかりやり遂げるとかも、重要なことだったりするのですから。
ただ単に[違い]ではなく、特性として讃えていくこと。
そういう風にお互いの特性を活かすことを考えれば、個性なんて誰にだってあります。
特別抜き出て、平均より上の何かで栄光を掴むことだけが個性的とか、そんなのではない。
将来の進路をどうするのかとかも、一度きりの人生だからやりたいことをやる
とか言ったりするけど、特性を認めてあげれば、
自然と「自分はこれをやってみたい」とその人自身が答えを出すようになる。
上辺の綺麗さを振り回しても、それは個性らしくやっているぜという自己陶酔とかだったりして、
本当は何もわかっていなかったりする。
逆に上辺だけのもので特別さを追いかけていると、
そういうのを振り回すことが本当に個性的で特別で、人間において他者よりも進んでいると勘違いして
他者のことを勝手に自分の物差しだけで見て、踏みにじるような人間になる。
筆者からすれば、そういった人間の方がよっぽど
「できそこない」だと思いますけどね。
どれだけ努力していても、努力の果てにそういった振る舞いにたどり着くなら
筆者は[つまらない人間]という風にしか見てないです。
結局、[特性]の世界を知らないまま、
[特性]を認めていく世界があることを知らないまま生きているのですから。
相手の特性を認めてみて、そこに自分の特性を説明して
理解してもらうということがない世界なのですから。
筆者は、自分を特別だと思ってふんぞり返る人間よりは、
自分の特性を活かしているだけという人の方を大切にしたいですね。
[過程主義者への警告]
ここからまた、お説教臭い話です。
結果主義、過程主義、どちらが人間的に上とかは無いのですが、
結果主義の視点から言わせてもらいますと、
作品を創るとかの行為において、過程主義的に作ったものを承認してもらうための手段と考えている人。
[創作が好き]
A:作品を創る行為が好き=良い作品を仕上げるのが好き。
B:作品を創る行為が好き=作品を形にする技術を身につけて、形にしてそれを認められるのが好き。
AかBか、で言ったら、
Bのタイプの人。
その中でも、承認、賞賛しか頭に無いような人。
作るための技術で形にして、驚いてもらったり、賞賛されることがメイン。
どういう作品を仕上げるかではなく、賞賛の獲得の方がメインに来てしまっている人。
そういう人というのは承認ゲームをやってしまっているから、
承認のために取り繕い、承認のために点数稼ぎしたりする。
承認以外に目が無く、承認が来たら眼をキラキラさせ、
承認されなかったら黒い感情が渦巻く。
承認ばっかり追いかけて、まい進している人。
そこに過程主義的な学習・探求が加わってきて、
自分が出力したものを承認されたいと思って、物事を大きく宣伝したり、
まったく承認が得られないから点数稼ぎ的な要素。
大衆が簡単になびいてくれるような要素で、数字を確保したりしようとする。
そこばっかり見ていると、どんどん
排他的になるんです。
「うわあ、あなたはこんなことができるようになったんですね」
という過程主義を積み重ねて表現したものやそれを発信している自分を認めて欲しい。
過程主義者同士での同調。
過程主義者がもう一人いる時に、その過程主義者が
この人に対して、過程主義的にここまでやっているんだ、という理解や同調。
評価する側にも過程主義であってほしい。
その過程主義の同調・共感を求める。
そこでの承認欲求が強くなっていくと、
「過程主義じゃない奴は知らねえ」と、自分に同調してくる人間なのかどうか。
そこでふるいにかけて判断するようになってくる。
簡単に言うと、認めてくれる人しか付き合わなくなる。
「こんなこともできるんですよ」と作品を認めてもらえることと
自分を認めてもらうことが一体化しているので、
その作品の本質的な出来がどうなのかよりも、出力した自分が認められるからどうかを第一に選ぶ。
でも、途中でも話したように
凄い機能で作られた椅子が、椅子として座りやすいとは限らない。
凄い機能で作られたベッドが、ベッドとして寝やすいとは限らない。
凄い機能で作られた家電が、家電として使いやすいとは限らない。
出来として良いものなのかは別問題なんです。
そこで、賞賛してくれるかどうかがだけで人を選んでいると、
「本当にここはおかしい箇所じゃないんですか?」
と指摘してくれているような意見でも、
「賞賛してくれなかった奴の言っていることがそうなだけ」
と排除してしまう。
意見の中身よりも、賞賛してくれたかどうかを見る。
賞賛を獲得するための手段が前に来てしまっているから。
何を指摘しているかという内容よりも、
過程主義的なテンションで生きている自分に対して、
同調を示してくれたかどうか、自分の過程主義の輪に対して、
そいつの方が合わせて入って来てくれるかどうか。
同調の輪に合わせて入る人間であるか、そこが重要。
その人間が何を言っているかじゃない。
自分にとってはそれが重要だから。
と、そこでふるいにかけてシャットアウトする。
「うるさい。
同調しない奴が何を外でガタガタ言ってんだ。」
と、人としてカウントしない。
過程主義的にやっている自分を認めてくれるかどうか。
過程主義を損ねること無く認める人間としか付き合わない。
過程主義的[夢追い人]及び[夢追い人]を賞賛する人以外の声は、全てシャットアウトする。
聞きたい声しか聞かないようになっていく。
過程主義者が傲慢になって排他的になると、
本から学ぶことは出来ても、人から学ぶことができなくなってくるのです。
本から学んで出力できるようになった自分への賞賛を求めるから。
自分への賞賛・承認・同調・共感ばかりが優先され、
賞賛してくれる人間じゃなかったら、途端に興味を失い、排除する。
人が何を教えてくれているかではない。
本を使って、出力できるようになった自分が褒められていればそれでいい。
だから結果を語ってくれる人から知識や発想を吸収することができなくなる。
自分に都合のいい人間しか相手にしない。
過程主義的に頑張っている自分や
過程主義的に出力した物を賞賛してくれる人間のみ厚遇し、
過程主義的に頑張ってそうな人間(同業者)とは意気揚々と接したりするけど、
その賞賛や共感の世界の外から物事を言う人間には、
侮蔑・冷笑を向ける。
結果的にそれが、自分の勉強したいことだけ勉強して、
その出力を褒める人間しか認めなくなり、
自分の勉強の仕方に偏りがあったことを気付かせてくれている人間を排斥して
誰も自分の間違いを指摘してくれない空間を作り出して、自ら
[裸の王様]になっていきます。
[自慢したがりと陰口気質は表裏一体]
ただ、タチが悪いのは、それでバランスが傾いても、
大衆の足元を見て釣れる要素や誇大なキャッチコピーとかで
ある程度、人の流れを補填したりもできる。
でも、それを繰り返していても、本質的な事は前に進むのか?
[引っかかってくれる人]の分母を増やし続けて発展しているように感じるけど、
質に関しては無反省なままじゃないですか。
それに加えて厄介なのは、世界を全て承認レースで考えるので、
他者も承認の度合いで考えて分析する。
「ふ~ん、ああいうことをすれば承認されるんだ」
「何?あんなもので承認されるの、ずるい奴」
「この程度で承認されるのなら、自分がこうすればもっと承認されるのでは?」
とか、常に計算を続けている。
そういったものの根っこは
[陰口]気質につながってきます。
まず、陰口(かげぐち)的な思考で捉え、心の中で
「あいつはああなんだな」
とリストアップする。
当然、自慢して承認を得るには、勝てるだけの情報が揃わないといけない。
だから、なんでもかんでも噛みつきはしないけど、
「勝てる」という感覚が湧いてきたら、一気に本性を見せる。
そういうタイプの人間が振り回す[自慢]は、陰口気質から来る見下しの中でも
「これならいけるぞ」
と勝算が出来たものの裏返しなだけになってくる。
でも、それを繰り返して相手を斬ったり、賞賛されることに味を占めると、
どんどんそのタイプに凝り固まっていってしまう。
「その程度で認められている気でいますけど、
自分はこれだけできるんですよ。」
とか
「どうせ、あなたのやっていることって、この程度じゃないですか」
とか。
人より凄くないといけないと思って、どんどん他人を下に見ようとしてしまう。
他人と同じだと承認されませんから。
だから、他人より上であろうとしたり、相手を下に位置づけようとする。
これの何がいけないのかと言いますと、
相手を下に考えようとする点なんです。
空手と合気道の例えのところで説明しましたが、
合気道をやっている人が空手を野蛮だと指差しても、
精神性が絶対にそうだと決まっているわけでは無い。
本当に人間が出来ているというのは、
相手の良いところも認めた上で、自分のやり方も説明する。
そして、相手を悪く捉えて上だと言い張っても、
それが本質的に違った時に自分に跳ね返ってきます。
承認欲求マシーンで過程主義というタイプの人が、
「いや、それ違いますよ」
と指摘されても、
素直に認めきると思いますか?
自分は上に立つことが出来るという自負を持っていて、
見下したり、自慢したりする人間は、
それでもまだ、相手が悪いと言い続けようとします。
都合が悪い部分を禁止したり、人格攻撃し始めたりします。
ですから、クリエイターとかでも、
一見、丁寧でおだやかなように見えても、
自慢ばっかりしたり、シニカルに悪口を作品にしたためることが多かったり、
本当に間違いを指摘された時に、その場から逃げて別の場所で悪口をばら撒いたりする人というのは、
根っこは陰口気質だよ、と疑ったほうが良いです。
特に、過程主義の承認欲求マシーンタイプだと、自分を認めてくれるかどうかの方が
仕事の中身より前に来ていますので、共感してくれない相手だと距離を置こうとします。
別に
他人に迷惑をかけないでやっているのなら、
好き勝手に過程主義を追求されても
構わないのですが、
問題なのは、承認欲求型というのは、それが
他者批判や誇張とかと連結しているという点なんです。
そういう人間が、自分が不利になったら逃げ込んで遠距離攻撃ばかりするのは、
実は自分が蹴落とす生き方してきましたよ、ということを示しているだけなんです。
何より、ぶっちゃけのぶっちゃけの本質として、その中身はどうなの?
中身の説明から逃げているのなら、何の説得力もないです。
でも、過程主義というのは、過程主義的に出力したものを認めて欲しかったりするから、
中身と向き合う事よりも、同調してくれない怒りや逃避が優先される。
和気あいあいとしているところに、外からポーンと過程主義の人が批判されたのなら被害者側になりますけど、
承認欲求が暴走している人だと、人を低レベル扱いして自分のものを自慢して高く見せようとする(自分から噛みつく)くせに、
跳ね返ってきたら、逃げて逆恨みするから厄介なんです。
じゃあ、そいつが他人を傷つけるのを放っておくのか?
これから先もそれを繰り返すことを推奨するのか?
と言ったら、
筆者は認める気はないですよ。
どれだけそいつに創作の技術があろうとも、
どれだけ他人の足元を見て、承認をかき集めて牙城を築き上げたとしても、
心は行動の鏡であり、心と行動をセットに考えた意味での、
[心がブサイク]という認識しかないです。
世の中、
自分の力を誇示しているからといって、正々堂々な人間とは限らず、
常に相手を下に見ていて、自分が上であるアピールをしてやろうと思っていたりする人間もいる。
日ごろから陰口のリストアップのような感情をストックし続け、
でも、勝てなかったらメンツが潰れるので、穏やかな人間アピールをし、
「これだったら勝てる」
というところだけ討って出て、自慢してイキり散らし、
都合が悪くなったら逃げ出して悪口を言う、そういう人間もいます。
※断っておきますが、過程主義者の人がみんな性格が悪いなんて言う気はないです。
結果主義も、結果のためになりふり構わない人間がいるけど、全ての人間がそうではないように、
過程主義も、そういった人間もいたりするけど、全ての人間がそうではない。
紫微斗数とかでも天機星や巨門星だから、
絶対に善とか悪とか決まっているわけでは無い、輝度や副星にもよります。
それに空手と合気道の例でもあったように、
分野そのものが善か悪か決まっているわけでは無い。
重要なのは、物事をどう認識して行動に反映しているかです。
※根本的な話として、
人を下げて、自分を上げるという物事の組み立て方は、絶対に自分に跳ね返ってきます。
なぜかと言うと、もしも間違った認識で相手を下げてしまった場合、
「本質的な部分でそれは違うのではないのですか?」と相手が打ち破ってきた場合、
今度は自分が下がってしまうからです。
相手を下げようとすると、
相手は押し返そうとして上げてきます。
そうすると、絶対に自分が下がってしまうのです。
見識が浅かったということで今度は自分が下がってしまう。
両方勝つということがない。
絶対にどちらかが下がってしまう。
そうやって屍の山を築いてやろうとしていると、
自分に跳ね返ってきたときに、相手は容赦してくれません。
絶対に覚えておいたほうがいいのは、
相手が憎んだり、注意してくれている内の方が、まだ人間として扱ってくれているんだよ。
という点です。
もしも、本質的な勘違いをして攻撃していた場合、
「それは違うんじゃないんですか?」
と言ってくれている内の方がまだいいよ。
ということです。
相手に言うことをやめて、当人に言うことよりも、
広く一般に意見を拡散して、関係を断ち切ってきたほうが、
生涯、受けるダメージは大きくなります。
それで相手側も、主張を変えずに声を大きくしたり、
従う人間を増やしたところで、
根本的な部分は改善されずに、情報が両方並んでいる状態になれば、
結果的に、大衆から追い詰められることになる。
内輪で守り抜いたところで、本質は何も変わらない。
ですから、「あいつのやっていることなんて、ああなんですよ、こうなんですよ。」
と承認欲求マシーンが指差して、自分は強いと思って石を投げつけているような状態。
そういった人間が間違いを指摘されて
「ムキー、私の方が正しいったら正しい。
承認欲求でかき集めた大衆に聞いてもらって、お前なんか潰してやる」
とさらに振り回してくる。
そういった人間に対して、まだ指摘してくれている内の方がありがたい。
ということを本人はわかってないんですよ。
そこで、
「私は強い、私にはコミュニティがあって、そこでお前を吊るし上げて意見を正当化してやる」
というのに対して、
相手が感情で怒ってくれている内の方がまだ人として見てくれているんです。
本当に進むところまで進むと、相手にわかってもらおうとなんかせずに、
「このテーマにおいては、あなたのような考えはおかしいと思うことを、
こちらはこちらなりに発信し続けますので、
そちらがこちらを吊るし上げてくるのをやめてくれなんて思うこと自体を諦めました。
あなたを人として扱うこと自体を諦めました。」
と、相手も覚悟を決めてきますよ。
頭が良ければなんだって正しいわけでもなく、
承認欲求のテクニックで人をかき集めれば、それで本質が覆るわけでもない。
個人の頭の良さと、チェス盤をひっくり返して考えきるセンスというのは
別物だったりするということです。
(チェス盤をひっくり返す=チェス盤を180度回転させて、相手はどう指そうとしていたか考えてみるという事)
相手はどういう意図で駒を進めてきて、どうしようとしているのか考えてみなさいということ。
チェス盤をひっくり返して説明するということは、相手側がどう指そうとしているかの意図を読み取って、
そこに沿って説明を組み立てるという事です。
人というのは、全ての人間から好かれることはできません。
例えば、
「ずるいことをしてしまえ」という人間と
「ずるいことはいけない」と考えている人間。
どちらからも嫌われないようにするというのは無理です。
手あたり次第嫌われまくっても気にするなとは言いませんが、
人は嫌われる相手には嫌われないといけない部分があります。
この相手には嫌われてもいいな。
それだけのことを考えているような奴だという場合は、嫌われても「どうぞ」という覚悟を持たないといけないこともあります。
人間というのは、いつまでも自分をなんとかしてくれようと、かまってくれるわけじゃありません。
嫌われてもいいという判断をしたなら、
その相手に対して人として接するということ自体への拒絶が始まります。