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RADWIMPS 野田洋次郎の覚悟 戦後80年 自分にできることは…

「わかった気になるな。すぐ手の届く答えにすがるな」

ロックバンドRADWIMPSのボーカル、野田洋次郎さんが記したことばです。

野田さんは戦後80年という節目になったことしの8月6日に、被爆地・広島で行われた平和記念式典で祈りをささげました。

20年以上、音楽を通じメッセージを発信するなかで、「生きること」そして「理不尽に奪われる命」について、考え続けてきたという野田さんが広島を訪れて感じたものとはー。

(おはよう日本 アナウンサー 岡崎太希・ディレクター 岡勇之介)

8月6日のヒロシマで感じた「希望」

「それはひとつ間違いない希望だなっていうのは感じます」

8月6日にこのことばを紡いだのはRADWIMPSのボーカル、野田洋次郎さん。

朝7時過ぎ、野田さんの姿は広島にありました。80年前のこの日も暑い日だったろうと思いをはせるこの時間、平和公園に野田さんがやってきました。

野田さんが、原爆が投下されたこの日に、広島を訪れたのは初めてだといいます。

過去最多となる120の国と地域の大使などを含むおよそ5万5000人が参列した平和記念式典。そこには、手に花を抱えた制服をきた学生や若者など多くの人が集まっていました。

そしてむかえた8時15分。野田さんも多くの人たちとともに平和への祈りをささげていました。

野田洋次郎さん
「特別なんだなっていうのはすごく思いました。ここに今日いる人たちは、この日の意味をそれぞれに感じながら過ごしているのがわかりました。この市内の空気も初めて味わった気がするし。やっぱり学生の子たち、式典も含めて、これだけあふれかえっていて。それはひとつ間違いない希望だなっていうのは感じます。この日に来たから何か急激に変わるかっていうのは、それはないと思う。でもこの日ここを訪れたことで、これはもう変えられない過去だし、事実だし。自分にとって特別な場所になったし。自分にとってこの原爆の日っていうのが、ひとつ自分の重しとして乗っかったっていうのはあるので」

ひとつひとつの言葉を考えながら、ゆっくりと絞り出すように話をする野田さん。

撮影を終えた2日後に、私たちのもとに思いもよらなかったものが野田さんから送られてきました。

取材の場で語り切れなかった思いがあると、広島で感じた気持ちをしたためた10ページにおよぶ日記を、送ってきてくれたのです。

日記に込められた野田さんの思い

送られてきた日記には、この言葉が添えられていました。

「この旅の、記録と想いです。ほぼインタビューでは何も話せなかったなと思い、せめて文章で自分の中にあった気持ちを共有したいと思いました。ノートに書く時間はあまり取れず、かわりにメモを残しました。旅から帰って、いくつか加えた文と併せて。想いの断片をお渡しします」

そして、8月6日について日記にはこのように書かれていました。

8月6日、午前8時15分。
この時間に、この地で黙とうを捧げることができた。
この事実が、自分にとって一番意義深いことだった。

平和の灯を、はじめて目にした。
「地球から核がなくなった時、はじめてその平和の炎は消される」とのこと。
美しいなと思ったと同時に、その日までの道のりの遠さにどこか悲しさを覚えた。
少しでもそこに近づけるように何ができるのだろう。何ができるんだろう。

広島へ行く 決意の背景には

今回、野田さんとともに広島へいくことになったのは、私が広島放送局にいたときの縁がきっかけとなっています。

それから数年が経過した、ことしの春、野田さんサイドから、「戦後80年のことし8月に広島へいきたいのですが、ともにいきませんか」と声をかけられたのです。

なぜ、野田さんは広島へ行くことを決意したのか。そこには、20年におよぶ創作活動の背景にある「生と死」が大きくかかわっています。

野田洋次郎さん
「作詞するうえで、10代から人間の生と死について自分なりに関心があって。戦争ってものは切っても切れないものがあった」

その「生と死」を深く考えるひとつのきっかけとなったのが、2011年の東日本大震災です。初めて目の当たりにした「理不尽な死」に、自分が「なんのために生きているのか」を考えるようになったといいます。

何か自分にできることはあるのか、模索する野田さんは、震災の発生後、毎年のように3月11日に楽曲を発表してきました。

野田洋次郎さん
「自分が初めて目の当たりにした、直面した災害だった。もちろん東京と福島っていう距離があったんですけど。それでもちゃんとあそこまで自分事として味わったことがなかったですし、日々世界が、世の中が日本が終わってしまうのかもしれないっていうような恐怖感だったりとか。あの眠れない日々だったりとか。あと、もちろん音楽の無力さだったりとか。そんなものも、こてんぱんに味わいましたし。無力さもそうですけど。でもこの生かされてる命でじゃあ何ができるのかなってほんとに限られてるし、やることはすごい明確になったし、あと本当に語弊なく言えばそういう経験を生かす以外に方法はないなと思ったんですよね。幸せであるにほんと越したことはないし、幸せでいたいんですけど、自分自身の体験としては、そういうとてつもないマイナスから人間のエネルギーって発揮されてきた気がするし、そういう歴史な気がするので。自分から見た何かメッセージを伝えられるんだとすればその役割は本当に小さな役割かもしれないですけど。何か果たしたいなっていう気持ちにはなります」

「3度許すまじ」 被爆者との対談で受け取ったもの

80年前の原爆の投下がなにをもたらしたのか、自分なりに理解したい。

今回の取材にひとりの被爆者が協力してくれました。

梶矢文昭さん、86歳です。

6歳のとき、爆心地から1.8キロの場所で被ばくし、3歳年上の姉を亡くし、母親もガラスが全身に刺さる大けがを負いました。証言者として、さまざまな場所で自身の体験を語っています。

梶矢さんとの対談で印象的だったのが、野田さんの聞く姿勢でした。野田さんは、みずから梶矢さんに次々に質問をしていったのです。

野田さん
「何が起きたかって分かるんですか?何が起きたかとかその瞬間分かるんですか?」

梶矢さん
「分からん。分からんけれども。朝の掃除をしていて、玄関を雑巾で拭きよったんだがな、なんとなく窓ごしに外を見ていて、突然ピカーだな。これはすごかった。ピカーときてね、木の葉っぱが熱線に溶けるのを見たよ。それから次の瞬間が、今度はドーンだな。そしたらもう家がいっぺんに潰れてきて、真っ暗けの中で縮こまっとったよ。ただ同じ場所にいた友達、2年生は柱の下敷きで死んどる。私の姉は3年生だったが、同じ場所にいて柱の下敷きでやっぱり死んどる。私はたまたま玄関だった」

特に野田さんが心を揺さぶられたというのが、終戦後、梶矢さんが被爆者として差別や偏見を受け続けたことでした。

野田さん
「それはしばらくやっぱり続くんですか。そういう目で見られたりとか。原爆の被害にあっている人だよというような」

梶矢さん
「結構嫌われたよ。敬遠されたよ。私がやっぱり若いとき、まあ20歳くらいか。結婚悩んだよ。やっぱりいわゆる通常の子どもが生まれないだろう、原爆を受けた者とは結婚しないほうがいいというふうなうわさも広がって、私被爆者とすればそりゃつらかったよ」

1時間を超える対談のなかで、野田さんには、梶矢さんに聞きたいことがありました。それは自分自身が向き合い続けた問いです。

野田さん
「運命みたいなことを考えることはありますか」

梶矢さん
「それはある」

野田さん
「なんで自分が生かされたんだろうと考えましたか」

梶矢さん
「それは大きくなって、やっぱり考えるな。たくさんの人が死んどる。亡くなった。同じ場所にいて、二年生の友達が即死しとる。姉も死んどる。周りにもいっぱい死んだ人がおる。なんで自分は生き残ったんだろうか。それは考えるけれども、わからん。
今頃になってね、やっぱり生き残されたんだから、あの原爆の中、1.8キロの中で生き残されたんだから、自分が何かできることがあれば、平和のためにというのはちょっと大きくなるけれども、やはり核を使わせない、使っちゃいけない。
広島の人は、三度許すまじということを原爆の後に盛んに言った。今生き残されてるものとしてね、やっぱりあの原爆の後、多くの広島市民が、三度許すまじ。三度目を許しちゃいけんのだ。と声を上げたんだということは伝えていきたいと思ってる。三度許すまじ。三度許すまじと言いよったと覚えとってくれ」

野田さん
「もちろんです刻みました。ありがとうございます」

梶矢さんの描いた絵

核兵器がいかに多くの命と日常をうばい、生き残った人々にも苦痛を与え続けたのか。野田さんは、日記に核兵器についても思いをつづっていました。

なぜあれだけの苦しみを経てもなお、人を殺める武器を持つ。殺戮できる凶器を持つ。

そんな問いにすら僕はまだ明確な答えがない。
脆く、弱い。
吹き消されそうなほどか弱い自分の正義が、虚しくなる。
でも諦めたくはない、そう思う。

世代を超えて記憶をつなぐ 被爆ピアノと野田さん

野田さんが必ず行きたいと言っていた場所があります。それは、“被爆ピアノ”です。爆風に耐え、原爆の記憶と共に旋律を奏で続けています。

野田さんも実際にピアノに触れ、優しいメロディーを奏でていました。

野田さんの日記には、被爆ピアノとのエピソードも書いてありました。

「被曝したピアノを見学、そのピアノを管理し調律も行っている矢川さんという方にお話を聞いた。実際のピアノも少し試奏させてもらった。白鍵はたくさんの人に弾かれたことで茶色く、黄色くくすんでいた。それが愛しいなと思った。歴史だけが出せる色。たくさんの人がこのピアノを弾いてきたのだ。その時の気持ちを想像する。昭和10年ごろに作られたピアノとのことで現在約90歳。チューニングはやはりピタリと正確というわけにはいかず、どうしても狂ってはいるが嫌な響きはまったくない。人間と一緒。90年経ってまったくの正調なわけがない。ガタがきて、ヨレるのが普通。そんな音色が心地よかった。音の滲み。戦争、原爆をくぐりぬけ、ちゃんと今も鳴り続けている。その事実だけで充分だと思った。そして僕らの命よりもずっとずっと長く、存在し、この先も人の手によって演奏され続けてほしいと思った」

わかった気になるな たどりついた思い

2日間におよぶ広島訪問が終わるとき、わたしたちはあらためて、野田さんの思いをたずねました。

返ってきたこたえは、ここがスタートラインだという思いでした。

野田洋次郎さん
「すべての争いごとを止められるかっていったら、僕はどこか現実主義者だから、この2025年にすべてを止められるとも思っていなくて。だから未来に対してなにかヒントを残せるんじゃないかっていう希望はまだ持っていて。重しが、少しずつ増えていく感じ。梶矢さんに言われた『がんばれよ』っていう一言だったりとか。その重しをみんなで少しずつ共有していくしかないのかなという気はしていて。あっという間に僕らは忘れていっちゃうし。悲しいくらい忘れるんですよね。大事だと思ったことも。だからことあるごとにその重しをちょっとずつこう自分のなかに蓄えて、とどめておかなきゃいけないんだなって改めて思ったし。そういう意味で、こういう日がとっても大事だなと思う。自分にとってこの原爆の日っていうのが、ひとつ自分の重しとして乗っかったっていうのはあるので。今日をスタートに自分が発信できることと、考えられること、伝えられることってなんだろう」

すべてのインタビューが終わった後、空港へ向かう車のなかで、私は「今回、広島を訪れたことが野田さんの音楽人生においてどのような意義があるのか」と質問を投げかけました。

野田さんは「安易な出口は考えたくないんですよ」と答えましたが、このときは、その真意がくみ取れませんでした。

この2日後に手元に届いた日記を読んで野田さんの気持ちに触れることができました。

今回、岡崎さんたちの質問に僕はほぼ何一つまともに答えられなかった。とても無力だなと思った。でも、安易な言葉に落とし込むことを自分の本心がすごく嫌った。それだけはよくわかった。

まだ言葉にするな、わかった気になるな、すぐ手の届く答えにすがるな。そう自分が自分に言っている気がした。

やはり、テレビというメディアで語るには僕は役不足だった。取材を申し込んでもらってとても申し訳ないなと思ったが、自分はこういう人間であり、こんな人間に取材を依頼した岡崎さんたちにも少しは責任があるよと、若干開き直ってみたりする(すいません)。

ただ、この機会を僕にくれて、この日に広島に連れてきてくれて、心からありがとうございました。

野田さんのことばに、私はハッとさせられました。

「わかった気になるな」

これは、戦争体験をした先人が年々少なくなるなかで、これからの時代を生きる私たちが、知る努力を続けることに終わりはないということを示しているように思いました。

そして、その知る努力をし続けることこそが平和への第一歩なのだと感じます。

(8月14日 おはよう日本で放送)

おはよう日本 アナウンサー
岡崎太希
2010年入局
福島局・宮崎局・岐阜局・広島局を経て、現所属。
「安易なことば」に頼らず、考え続けることの大切さを野田さんから教わりました。
おはよう日本 ディレクター
岡勇之介
2019年入局
札幌局・函館局を経て、現所属。
RADWIMPSのライブツアーの始まりは広島の地で。
野田さんにとって、広島が大切な場所なんだと感じます。

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