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ロシアとロシア語を愛するあまりウクライナを避けようとしていた私が、現地の取材で見た戦争のリアル

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ことし2月、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から1年がたったころ、私のスマホにメッセージが届いた。

「あなたのためにウクライナのアクセサリーとハーブティーを買ったの。届けるにはどうしたらいい?」

彼女はウクライナ人で、去年3月、私が隣国のモルドバでの取材中に知り合った。同世代ということもあって、今もときどき近況を報告してくれる。

彼女と初めて会ったとき、私たちはロシア語で話していた。

でも今は互いに英語しか使わない。

ロシア語について、ウクライナでの取材中に目にした貼り紙の言葉が忘れられない。

ロシア語は使いません。ロシア語は「血の匂い」がする言葉だから。

学生時代に多くの時間をかけて学んで、あれほど好きだったロシア語を使うのが、私は今も少し怖い。

不思議の国に近づきたくて

ロシア語が好きだったといっても別にロシア文学のファンじゃない。何しろドストエフスキーすら読んだことがない。「それでもロシア語の学習者?」とか言われそうだ。

きっかけは単純に、「あの記号みたいな不思議な文字が読めるようになって、不思議な国をもっと知りたい」という好奇心だった。

幼いころ、新潟にあったロシア文化を紹介するテーマパークでロシアの民族舞踊を見た。小学生のころは故郷の長野で開かれたオリンピックで、ロシアの人たちを間近に見た。

よく紹介される「ヨーロッパの文化」とは少し違うみたいだ。この不思議な文字はなんだろう。地図を見ると日本の隣にあるのに、なんでこんなに謎に包まれてるんだろう。

そんな不思議な隣国に近づきたくて大学ではロシア語を専攻し、1年間モスクワ近郊の地方都市に留学した。

ロシア留学中に

日本人はほとんどいない街で、一人暮らしのおばあさんのアパートにホームステイした。英語は通じない。ソ連時代からタイムスリップしてきたようなおばあさんは、マクドナルドも、スーパーのジュースやチョコレート菓子も「体に悪いから」と禁止。

おばあさんが畑で収穫した野菜で作ったスープ、果物で煮出したジュースなどが毎日食卓に並んだ。

私が友人と出かけて帰りが少しでも遅くなると、「どこにいるの?」と携帯が鳴り止まない。

ときどきおせっかいで人間くさい、そんなロシアの人たちが私は大好きになった。

ロシアのことを伝える仕事がしたいから記者に

ロシアの人も好きだが、私はロシア語そのものが好きだった。これまで英語とロシア語のほかに、趣味で3か国語(ポーランド語、スペイン語、中国語)をかじったことがあるが、ロシア語は格段に難しい。そして、響きが本当に美しいと思う。

Rが左右逆だったり顔文字みたいだったり、暗号のような文字を読める特別感もある。

学生時代のノート

ロシア語の文法で難しいのは「語尾の変化」で、簡単には説明できないけどとにかく動詞も形容詞も名詞も、組み合わせによって単語の終わりが変化する。

たとえばナターシャ(Наташа)さんという女性の名前。

「私はナターシャに電話する」はЯ позвоню Наташе.
(ヤー パズバニュー ナターシェ)

「これはナターシャからの手紙だ」は、Это письмо от Наташи.
(エタ ピシモー アット ナターシ)

「私はナターシャを愛している」は、Я люблю Наташу.
(ヤー リュブリュー ナターシュ)

固有名詞でもこんな風に変わる。

ちなみに「愛している」も、「はナターシャを愛している」だと、Он любит Наташу.(オン リュービット ナターシュ)となる。

なんか難しいでしょう?

そしてロシアには親日家が多い。日本食が好きとか、アニメが好きとか。

私は今オーストラリアのシドニー支局で勤務しているが、ここと同様、ロシアも、日本人の私に親切な人が多かった。

あたたかい人の多い国。魅力的な言語の国。そしてすばらしい文化のある国。

NHKの記者になったのも、ロシアを伝える仕事をしたいと思ったからだ。

テレビの映像を直視できなかった

そのロシアが去年2月24日、ウクライナに軍事侵攻を始めた。

寒々しい景色のウクライナの住宅街に激しい攻撃が行われるニュースを、私は遠く離れたオーストラリアの、夏の日差しの下で見ていた。

オーストラリア・シドニー

テレビは連日、軍事侵攻のニュースを伝えた。
オーストラリア人の同僚は、
「戦争だ」
「ミドリ、ロシアはなぜこんなことをするんだ」
と聞いてきた。

私は何をしたかというと、テレビを遠ざけた。

ロシアが何をしているのか直視したくなかったし、遠く離れたロシアのことなんて何も理解できないと思った。「遠い国での出来事」だと思って、気持ちに蓋をしようとしていた。

そんな私に、ウクライナ周辺国の取材に入ってほしいと、上司から連絡が来た。

「最終的な行き先も期間もわからないが、まずはルーマニアに向かってほしい。そこでモルドバ行きの車の運転手と合流してほしい」
「青木さんが持っている専門性を最大限に発揮できる機会だと理解してほしい」

関係ないふりをしようとしていた私だったが、シドニーから中東経由でモルドバに向かうまでの40時間、途中の黒海周辺だったと思うけど上空から見えた雪化粧をした山脈、明るいオーストラリアとは別世界の景色が見えたとき、ようやく心の準備ができた。

私が知っているロシア語やロシアの知識を、思う存分、発揮してこよう。

そして3月から4月にかけて、モルドバとルーマニアで、ウクライナから避難してきた人たちの取材にあたった。

SNSでロシアの友人から「ブロック」

ウクライナと陸続きのモルドバには、避難の計画を立てる間もなく、とにかく子どもを守ろうとウクライナから逃げてきた、20代から30代の女性が多かった。

モルドバに逃げてきたウクライナの人たちへの取材

かつてソビエトの一部だったモルドバには、今もロシア語を話せる人が少なくない。避難してきた人の中にも、ロシア語を話せるウクライナ東部や南部の人たちがたくさんいた。

モルドバに入ってすぐ、私は学生時代に学んだロシア語がどんどん自分の中で生き返ってくるのがわかった。シドニー支局での2年間、忘れかけていたロシア語が自然に口から出てきた。

一緒に取材にあたったカメラマンも上司もロシア語はわからないので、インタビューしている相手の話す内容からレストランのメニューまで、なんでも私に聞いてきた。不謹慎だけどそのときは、そんな自分がちょっと得意だった。

故郷の街で何が起きましたか?
避難する中で何を見てきましたか?
あなたの夫はどこで何をしていますか?
子どものことをどう思っていますか?

悲惨な境遇を聞いているのに、私には通訳なしでウクライナの彼女たちと話ができることへの、どこか高揚感があったと思う。

今思うと「戦争」が起きていることを、私はまだ心で完全に受け止め切れていなかった。

次の取材地のルーマニアに入り、首都ブカレストで大きな看板を見つけた。ウクライナの国旗とともに、「Russia, stop the war!」(ロシア、戦争を止めよ)と書かれていた。

ブカレストの看板

私はこの看板をスマホで撮影して、その日の取材が終わったあと、「私はウクライナの隣国ルーマニアで取材をしている」と自分の友だちに向けて送った。

世界中の友人たちに知らせたかった。私の安全を気遣い、応援してくれるメッセージがたくさん返ってきた。

でも留学時代のロシア人の友人からのコメントが、私の思考を停止させた。

「戦争を始めたのは、ロシアではない」

彼女は日本が大好きで日本語を勉強し、いつも私に笑顔で接してくれていた同世代の女友達だった。

何年も連絡していなかった彼女の近況を知りたいのと、写真へのコメントについての意見も聞きたいと思って彼女のSNSにアクセスすると、私はブロックされていた。

ショックだった。

現地に取材に来ていることや、言葉が通じることに高揚していた自分だったが、あんなに好きだったロシアの友人たちが遠くなっていく。

友人に拒絶されたという事実が、すぐそこで戦争が起きていること、そして戦争によって「分断」が起きていることを、あらためて実感させた。

大好きな友人と会える日は来るのか

連絡したいロシアの友人はたくさんいた。でも私は彼らから見たら「西側のジャーナリスト」だから、私と連絡をとることで、身に危険が及ぶ可能性がある。

私は留学時代にいちばん仲が良かった親友に、悩んだあげくこんな感じのメッセージを送った。

「元気?今、出張でルーマニアに来てるよ。ヨーロッパで起きていることのニュースを書いている」

すぐに返事が来た。

「元気にしてるよ。生活は落ち着いている。仕事も順調だし、息子はもうすぐ小学校にあがる。ミドリはルーマニアにいるんだね。大変な時期に、簡単ではないテーマでの仕事、きっと大変だね」

彼女の配慮が行間から読み取れて、涙が出そうになった。

大好きな友人と会うことができる日は、そう近くには訪れないだろうと感じた。

4月中旬、ウクライナに入った。「戦地」に入ることに、日本の家族や友人たちは心配した。私も不安はあった。ミサイルが飛んでくる可能性はある。そうしたら死んでもおかしくない。

何よりロシアにとって「敵」であるウクライナに入ることで、私はすべてのロシア人を自分の敵に回してしまうような気がしていた。

ルーマニアの看板の写真に返信した友人だけでなく、いちばん仲が良かった留学時代の親友まで失ってしまうことが怖かった。

でもモルドバやルーマニアで話を聞いた女性たちが、帰りたくても帰れない故郷、彼女たちが愛してやまないウクライナは今、どんな状態なのか。

苦しんでいる人たちの思いを聞いてきたから、現状をしっかり伝える使命があると思った。

(後編に続きます。記事はこちらからご覧ください)

 

青木緑 シドニー支局長

長野市出身。2010年に入局して北海道、サハリン、新潟などで勤務。これまでの人生の3分の2を“雪国"で過ごしてきたが、2020年からはシドニー支局で南半球の住人に。
学生時代「遠く感じるロシアを近い国にしたい」と記者を志したが、多くの日本人が観光や留学でおとずれ、日本にとって「近い国」だと思っていたオーストラリアも、実は知らないことがたくさんあると、日豪の戦争の歴史を取材したときに感じる。
ロシア楽器以外のもう1つの趣味は、シドニーでのロックダウン生活中に始めたランニングで、今年マラソン初完走。

青木記者はこんな取材をしてきた

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