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マグナ・カルタ制定に見るイングランド王権の特性

 

 

「マグナ・カルタ」と言えば、1215年にイングランドはプランタジネット朝の王ジョンが、戦時における諸侯への課税などに対する貴族たちの要求を受け入れたものとして有名である。では、これをもって「マグナ・カルタの制定は、中世西欧世界においてイングランドの王権が相対的に弱かったことを示している」と解釈する、つまり、イングランド=議会制民主主義発祥の地として、これを「人民の要求を権力者が呑んで法に従う」仕組みの嚆矢と捉え、それは王権の抑制を意味するから王権が弱体であったことと同義である、とみなすは妥当かということである。

 

もちろん強大・弱体というのは相対的なものだが(それを言ったらそもそも「絶対」王政など中華皇帝に比べれば全く絶対的ではない)、それでも同時代の西欧(ヨーロッパの大陸側)に比べれば、答えは明らかに否であり、むしろ逆に相対的に強大だったがゆえに、このような王権抑制の方法が採られたとみるべきだろう。

 

まずマグナ・カルタ制定の背景から考えてみると、動画内でも触れられているが、当時のプランタジネット朝というのは、ノルマン・コンクエストによって生まれたノルマン朝の後継王朝という位置づけである(ノルマン朝の王族が海難事後で大量に死亡したため、遠縁から王を招いて成立したのがリチャード1世やジョンで有名な同王朝。ちなみに「ノルマンコンクエスト」をタグにしようとしたら受付不可で弾かれたんだが、もうgooちゃんたら妄想力豊かなんだから、と言っておこうw)。

 

このノルマン・コンクエストとは、北フランスのノルマンディー公国=バイキング勢力が、ドーバー海峡を渡ってイングランドのハロルド王を破って成立した王朝であり、要は外来勢力による征服王朝であった(単なる武力侵略ではなく相続問題なのだが、詳細はここでは省く)。つまり武力でイングランドを制圧した結果として、諸侯を抑え込むことが相対的に容易だったわけだが、その象徴がノルマンディー公ウィリアム改めイングランド王となったウィリアム1世が行った、「ドゥームズデイ・ブック」と呼ばれる大規模な検地だろう(「審判の日」とみまがうぐらいにデイ規模で徹底的な検知というニュアンス)。

 

検地と聞いても、日本で言えば秀吉が行ったものが印象的なくらいであまりその重要性がピンときづらいかもしれないが(ちなみにこれはこれで中世→近世における重層的権力構造から一元的権力構造への移行という事態があまり理解できてないことになるが)、これは同時代のカペー朝(現フランス)や神聖(現ドイツやオーストリアなど)においては、諸侯がインムニタス=不輸不入権と呼ばれる特権を持っており、領主裁判権などと合わせて高い自立性を保持していたことを比較対象として想起するとよい。

 

あえて極端な言い方をすれば、フランスやドイツの諸侯たちは個人事業主として独立採算制で自由にやっているし、王と並ぶくらいの広大な領地も持っていたりするから、何となれば王にしばしば反抗すらするのに対し、イングランドの諸侯はフランチャイズの店長のようなもので、確かに後の官僚や常備軍のようなサラリーマン的ではないという意味で自立した存在ではあるけれども、常に本社の介入に怯えながら、いざ査察を受けると「死刑死刑死刑教育教育教育」となって潰される・・・というのと似ている。

 

このように説明してくると、多層的権力構造が特徴的な中世でも、イングランドとフランス・ドイツ地方では大きく事情が異なることがわかると思うが、それがマグナ・カルタの話とどう結びつくかというと、端的に言えば「強大な王権に抗するには、どのような手法でやるのが効果的か」ということだ。例えば、脆弱なフランス王家(カペー家)に対してなら、ブルゴーニュ家などはわざわざ王に法の制定と遵守を要求するまでもなく勝手気ままに振舞うことができるが、イングランドでそれは厳しい(まあとはいえ反乱や反抗も起きているのであくまで相対的な話という点は注意が必要)。ゆえに、武力を背景にしつつも、諸侯の連名で王に新たな規範の設定と遵守を承諾させる、という形で王権を縛ればよい、という発想になる。

 

ただ、お互いに自己利益を最大化することが目的の妥協の産物であったため、曖昧な文言を残したり、それを自己に都合のよいように解釈したりしたことは動画で触れられている通りであり、何となればジョンの次の王であるヘンリ3世については、「あれはジョンと諸侯の個人的な契約だからノーカン!」と某ハンチョウのように言ってそれを無視した政治を行おうとし、その結果がフランス系貴族シモン・ド・モンフォールの乱につながってくる次第だ。要は、マグナ・カルタの制定=その後のイングランド王がそれに則った統治を行った、という解釈すら成り立たないと言えるのである(ちなみに前述の反乱で勝利したシモンは議会の設置を王に認めさせている点で王権の抑制に再度成功したが、最終的にシモンが敗死して揺り戻しが起こったため、マグナ・カルタ制定→議会設置という具合に単線的に王権の抑制と議会制民主主義の萌芽という具合にならない点も注意が必要である)。

 

マグナ・カルタ制定とその影響はこのように理解することができるし、ゆえにその制定は、イングランド王権の弱体さではなく、むしろ中世西欧世界における王権の相対的な強大さをこそ表していると評価できるということだ。

 

それがわかれば、マグナ・カルタに民衆の権利保障が含まれないのはもちろん、(基本的)人権など端から考慮しているわけもない、というのはむしろ必然として理解されるだろう(堅苦しく言えば、マグナ・カルタにそんな立法意思は微塵もないのだから)。というより、そのように解釈したくなるような「現在から過去の逆算」というバイアスにこそ注意を払うべきなのである(※)。

 

よって、なるほどエドワード1世時の議会を、後の範型として「モデルパーラメント」と呼ぶのは結構だが、同時代人には全くそのような観念は無く、後代の人々が勝手にそう呼び始めたのと同じことで、あくまでマグナ・カルタは王と諸侯たちの権力の綱引きゲームの結果としての妥協の産物であり、かつその背景は(リチャード1世の長期不在やジョンの度重なる失政があったとはいえ)イングランドの王権が相対的に強大であったことを正しく理解しておく必要がある、と言えるだろう。

 

 

ちなみにこれは「日本人と無宗教」などにも同じことが言える。日本人の8割強が無宗教を自認しているのが特徴的だと知って、しばしば「日本人は元々から特定宗教に帰属意識を持っていない」などと、おそらく神仏習合を背景にした決めつけをする向きが見られる。しかしそのような理解は、江戸時代における異端撲滅のための宗門人別改帳で全員が何らかの仏教宗派に強制登録されていたことを無視しているし、もっと言えば戦後の1952年時点に行われた新聞のアンケート調査でさえ、「信仰アリ」と答えた人間の割合が全体の半数を超えるといったデータを知らないものと思われる



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