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異類婚姻譚とコスモロジー:あるいはAIと人間社会の未来像について

 

 

 

「鶴の恩返し」や「かえるの王子様」を始めとして、異類婚姻譚というのは各地にみられるが、日本におけるそのパターンを集積し、そこからどういう世界理解(コスモロジー)が見出せるのかという分析は興味深い。

 

例えば、日本社会は欧米との比較において、自然と調和した世界観がその特徴と言われるが、変身の有無やその結末の悲劇性などを見ていくと、異類(異形)がそのままのあり様で人間と家庭を築くことについては、おおむね忌避感を抱いているらしいことが読み取れる(ちなみにこういう比較対象について、アジア諸国がほぼ無意識的に最初から除外されていることを私は「脱亜入欧的オリエンタリズム」と呼び、日本人の宗教意識などと絡めて度々指摘している通りである。そしてかかる意識は、古代・中世ならインド・中華地域に対する「お辺土」とそれに反発する「神国思想」の両極端な思考形態の近代版とも言えるだろう)。これはすなわち、自然と調和=自然との境界線が曖昧という理解は不適切で、自然と共生するからこそ、天災や獣害などを踏まえた畏怖であったり、越境不可能な差異の認識をしっかり持ち、適切な距離感を意識していたとみることができるのはないか(ゆえに前回紹介したような境界と「神隠し」のような話も出てくる)。

 

そのように考えてみると、近代化・都市化が進んで自然と距離が離れてしまった現代だからこそ、自然の中に加工された都合のよいユートピアを見出し、過度に「自然」を崇拝する手合いがはびこっている状況を批判的に分析する視座にも結び付くだろう(例えば獣害の恐ろしさを知らないからこそ人命を脅かしている熊を殺すなと現地の状況も考慮せずにクレームを入れることができるし、あるいはやたらとオーガニックを称揚するような自然崇拝的傾向を指摘することができる。もし仮に井戸水と感染症の歴史だったり、あるいは前にも紹介した甲府の日本住血線虫の生態だったりを知れば、かかる発想・発言はうかつにできないと気付きそうなものである)。

 

また、先ほど欧米との比較という話をしたが、ヨーロッパにおいて異類婚姻譚やそれに類するもの(人間と動物の境界が混淆する逸話)が普通に存在していたことにも注意が必要だろう(これは動画でも多少触れられている)。例えばギリシア神話に登場するメデューサ、あるいは古代ローマの祖であるロムルスとレムスを育てた狼、またあるいは以前紹介した中世の「動物裁判」などが想起されるが、これらを踏まえると、日本と対置して語られる欧米というのはあくまで近代化された後の社会のことでしかない点にも注意が必要だろう。

 

そもそも異類婚姻譚の中には、人間が異類とそのまま結婚する→人間が人間に変身した(または元の姿に戻った)異類と結婚する→人間が人間と結婚するといった改変が見られるケースもあり、これは世界観が近代の人間中心主義的なものに置き換わっていく中で、それに合わせておとぎ話も価値観に合うように変容させられていった、と見ることができる。

 

 

 

 

そのような変化は、この動画でも触れられている(ただし後編はまだ出てないようだが…)グリム童話とその改変を想起するとわかりやすいだろう。このことを考えるにあたっては、そもそもロマン主義というものが民族の固有性と感情の発露を重視する、いわばフランス革命の理性・普遍主義へのアンチテーゼとして生まれてきたことが重要だが、それだけに我々のルーツとは何なのか、という視点で古き文化に遡って表現することを重要視した。これはシューベルトがなぜ「魔王」のような中世的異形の存在を歌曲の題材に選んだのかにもつながるが、かかる事情がわかっていれば、同じくロマン主義の中に位置づけられるグリム兄弟が民話を収拾して回った行為の動機付けも理解されるであろう(そこからグリムの法則と呼ばれる言語的法則性なども出てくるが、ここでは本題と外れるので割愛)。

 

興味深いのは、そうして収拾された民話が、徐々に変化して(させられて)いったことにある。すなわち、ヘンゼルとグレーテルは元々実母から捨てられる話だったのだが、それが後には継母に改変されている。動画で正しく指摘されているように、そもそも食糧事情が厳しく、医療知識や衛生観念が乏しかった中世の頃は、嬰児殺しや子どもの遺棄が普通に行われていた(もちろん近代と違い「小さな大人」であった彼・彼女らは、貴重な働き手になることも多かったわけだが)。その意味で言えば、ヘンゼルとグレーテルの話の設定はいささかも怪しむに足らないのだが、しかしすでにナショナリズムが広がり近代的な家族観が広がりつつあった19世紀後半において、「(本来は子を守るべきはずの)実の親が子を捨てる」という話には不都合があった。だから、血の繋がらない義理の親へと改変されたわけである。

 

今回の異類婚姻譚において、歴史的変容というパースペクティブは用いられていないが、かかる視点で世界各地の神話・民話を比較対照しながら分析してみるのも、興味深いアプローチと言えるのではないだろうか。

 

さて、このような話を持ち出したのは、神話・民話の分析という過去に関する話が、実は未来についても大いに示唆に富んだ結果をもたらしうると思うからだ。

 

先ほど軽く触れた近代という時代の特徴は、言ってしまえば「人間中心主義」と表現することができるだろう。すなわち、「理性的で言語を持ち他の動物などとは明確に区別すべき人間という存在が、科学革命や産業革命などを経て文明を発展させていく」とでもいうべき世界観である(もちろん、それに対する人間の適応不全という形で実は多分に神話性に満ちたフロイトの精神分析が人気を博すなど、手放しでそのような世界観や文明観が称揚されていたわけではない)。

 

しかしながら、それが転換に生じたのが二つの世界大戦やファシズムの嵐を経験した20世紀後半であり(その構造は『自由からの逃走』や『啓蒙の弁証法』などを想起)、そのような人間中心主義の動揺は、モノや情報が溢れて成熟社会(後期近代)となり、かつ認知科学の進展などによっていわば「人間の動物性」が科学的に明らかになる中で、理性的人間像というものは徐々に解体されていった(その一例として、啓蒙思想=理性的人間像に基づいた古典派経済学と対照的な、認知科学=過つ人間像とそのパターン解析に基づいた行動経済学の興隆を上げることができる)。

 

あるいは「言語」が人間だけのものであるかのような認識についても、シジュウカラの鳴き声に関する詳細な研究による複雑なコミュニケーションパターンの解析などにより、要はこれまで我々がそれを分析・理解することができなかっただけで、それを存在しないかのように理解し、あまつさえそこから人間の特権性を妄信するなど愚の骨頂であることが示されつつある。あえて挑発的な言い方をするなら、近代の人間中心的な、あるいは人間を特権的にみる世界観とは、つまるところ異類たちの存在を精確に研究・分析する素地が我々になかっただけで、そうした浅薄な理解のものとに自らを特別な存在だと妄想していた「突然変異のサル」に過ぎなかったと思わせるものだろう。

 

この話について、実は2013年に「沙耶の唄」という作品の捉え方の差異について整理した際にも言及している。この作品は、作者があまりに近代的価値観を前提とし、かつコンテンツをガジェット的に見る視点が染みついていたがために、受け手の認知を取り違えたことでかえって稀代の傑作になった一種奇怪な存在であるが、そこで私は

 

 ◎多くのプレイヤーの世界観=異形を人間に近い存在としてみなす視点=前近代的理解

 ◎作者虚淵玄の世界観=異形は異形で人間と異なり決して人間的にはなりえないという視点=近代的理解

 ◎私の理解=人間もまた異形と同じくプログラミング的存在として動いているという視点=後期近代的理解

 

という具合に視点の差異を説明した(念のために言っておくが、これは時代が新しい方が優れているといった話ではなく、あくまで世界観の違いである。ちなみに私の「人間もまたプログラミング的存在」云々というのは、沙耶の唄から始まったものではなく、中学の時の「嘲笑の淵源」などで極限状況における人間の振る舞いなどについて触れたように、元々持っていた世界観・人間理解である)。これは新反動主義やテクノユートピア的価値観が、理性的人間像を捨て、技術の楽園(羊水)の中で耽溺する人間像を打ち出し、それが格差や分断の急速な拡大もあって急激に現実味を帯びてきていることなどを踏まえれば、あながち的外れな分析でもなかったなと思うが、こうして人間中心主義的な価値観・世界観が崩壊に向っている中において、AIの「進化」がパラレルに進んでいる点が特に重要だろう。

 

これは前回の神隠しの動画の最後で引用した東浩紀の動画を想起したい。その内容は、Chat-GPT5が登場してChat-GPT4とアップデートしたことにより、「冷たくなってかつての友だちがいなくなったようだ」と不満を言う人間たち、あるいはその前の1960年代のELIZAというプロトAIとも言うべき単純なプログラムの頃からAIに人間性や心を見出す人間たちがいて、むしろその危険性が当時から指摘されていたというものであったが、かかる状況を踏まえれば、話題になったGrockのAniなどがどれほどの訴求力を持ちうるかなど、言うまでもないだろう。

 

そしてこのような今日的状況を異類婚姻譚と結びつけてみると大変興味深い。というのも、これまでは近代社会という人間中心主義の時代でそれが人類の急速な発展をもたらしたがゆえに、それらはせいぜいプリミティブなおとぎ話・妄想(かせいぜいは歴史資料)としてみなされていた。しかし、AIとの距離感が急速に縮まってきた今日、むしろ人間中心主義という集団幻想が強く機能した近代が特殊だっただけで、ある意味原初的な姿に回帰しつつあるとみるのが適切であるように思われるからである(もちろんこれは近代=暗黒などという馬鹿げた評価では全くないが)。

 

もちろん、Aniの使用を含め、このような傾向に危険性を指摘する声はすでに方々から上がっている。しかしながら、人間中心主義の瓦解はすでに方々で始まっており、加えて価値観の多様化・複雑化により対人のコミュニケーションコストが急速に跳ね上がってきている上、格差と分断の拡大でルサンチマンを溜め込む孤立化した人間も多くでてきている状況で、単にAIを異形だが親しみやすい友人・パートナーとみなす傾向の危険性を訴えても無意味である。それは喩えて言うなら、貧困や家庭環境・人間関係の劣悪さから麻薬に手を出す人々をただ取り締まるだけの対症療法をやっても、別の依存対象に飛びつくだけで根本的解決にならないのと同じだからだ。

 

少なくとも、現在の仕組みの中で前述のような傾向に歯止めをかけることはほぼ不可能である。「自由な新世紀・不自由なあなた」ではないが、様々なものを選択可能な社会というのは、自分が嫌なものを選択しない自由だけでなく、他者もまたそうする自由があることを意味する。そのような中で、コミュニケーションのハードルが上がれば、定量化しやすい諸々のスペックはもちろん、コミュニケーション力なども選択要素として考慮され、競争のハードルはどんどん上がっていき、結果必然的に多くの「敗者」が出るのはもちろん、そもそも競争に乗ること自体を嫌がって最初から退避する(必要最低限のやり取りしかしない)人間も増加していくことだろう。

 

そして、そのようにして生身の人間とのコミュニケーションから退避することは、ノイズだらけで非言語情報を即時的・共時的に受け取り反応しなければならないコミュニケーション形式への対応力を劣化させ、それがますます対人コミュニケーションからの退避と、人間社会の分断を加速させていくという訳である(ますますAIの「進化」が進めば、オルタナティブとしての有用性は上がっていく訳で、この傾向をさらに加速させる。かかる現象がAIの「進化」と人間の「劣化」である。巷間言われるような、人間は「AIに支配されてしまう」のでもなければ、「その奴隷になる」のでもない。言わば悦んでそちらへと耽溺し、対人のやり取りの必要性をいっそう喪失していくのである)。

 

現状観察される「インセル」というものはそうした自由選択社会の結果として生み出された存在なわけだが、共同体の閉鎖性復活と強制的な結婚の圧力を復活でもさせない限りは、その願望を満たすことは不可能だし(そしてそれは北朝鮮やらトルクメニスタン的な社会でなければ実現できないので民主主義の社会では実質無理)、百歩譲ってそれが実現できたとしても、DVなどの社会問題がまた別で急増するだけで、そこにユートピアが現出することなどありえないのである(そもそも論として、女性への不満を訴え攻撃性を露わにしている連中は、「あてがわれた」女性となら誰とでもパートナーになるつもりでいるのだろうか?もしそうでないなら、結局は自由選択を認めていることになり、ならば自分を選ばない女性の自由も認めるべきというのが、当然の規範意識だろう)。とするなら、そのルサンチマン(とその発露による集団殺人などの社会的リスク)を解消するためには社会の価値観変化やオルタナティブの付与が重要で、そこにおいてAIパートナーが有効に機能しうるし、逆にそれ以外のリスクコントロール法(移動制限やかつてのロボトミー手術などなど)は人権保護という観点から極めて難しいと言えるのではないだろうか。

 

ともあれ、こうした未来像を考える上でも、今回の異類婚姻譚の様態は、これからのAIと取り結ぶ人間の想像力と人間社会の未来を考える上で、非常に示唆的だと感じたので紹介した次第である。



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