より濃くしたいという賢明な判断
近所のお寺へお祭りに出かけた。
最近引っ越してきた街なので、この街のことを私はあまり知らない。そのお祭りもどこかで大きく宣伝していたわけではなく、住宅街の掲示板で偶然ポスターを見かけ、存在を知った。
大きなお祭りではないようで、駅にポスターを貼っているわけでもなく、たまにポストに入っているこの街の広報誌にも載っていなかった。きっと世界にはこのようなお祭りが数多くあり、地元の人だけが集うのだろう。
お祭りがある日、日が暮れてから私は家を出た。お祭り会場に近づくと、風に乗って、太鼓の音が聞こえた。そんな音を聞きながら、崖にへばりつくようにある家々の間を縦に伸びる狭い階段を登った。近づくと子供達の声が聞こえるようになった。
会場に着くと子供達が踊っていた。
マツケンサンバに合わせて踊っていた。その周りには提灯が吊るされ、夜を少しだけ明るくしていた。夜店ではそのお祭りの実行委員の方々だろうか、かき氷やフランクフルトを売っていた。片手で足りるほどの数だ。
「灯籠」も売られていた。
値段は書いていない。使い道の説明もない。このお祭りには毎年来ている人しか来ないのだろう。疎外感は全くないけれど、説明不足なところはあった。私は灯籠を買った。せっかくきたので、より濃く、そのお祭りを楽しみたいと思ったのだ。
灯籠を買う人を見ていると、千円を払い、灯籠を受け取っている。私も毎年来ていますけど、みたいな顔で千円を出して灯籠を買ったけれど、直後に「これって何に使うんですか?」と正直に聞いた。
観音様やお墓に置く、とのことだった。
「ここにお墓はありますか?」と聞かれたので、「ないです」と答えると、観音様にと教えてくれた。私は蝋燭に火をつけ、灯籠に灯りを与え、観音様にお供えした。普通にお祭りに行くだけより、より濃い体験になった気がする。
私はより濃い体験を求めているのだ。それはコーヒーポーションでコーヒーを作る時に思うようになった。
コーヒーポーションは小さなプラスチックの容器に入っている。コーヒーフレッシュにミルクではなく、濃いコーヒーが入っていると思って欲しい。薄い蓋を開けて、氷の入ったコップに注ぐ。さらに水や牛乳を注げば完成だ。
その時にやるのだ。
薄い蓋を開けて、コーヒーポーションをコップに入れると、容器に少しだけコーヒーポーションが残っている。注ぎきれなかったわずかなコーヒーだ。これがもったいないではなくて、より濃いコーヒーを飲みたいので無駄にしたくないと思う。
決して、貧乏根性ではなく、より濃いコーヒーを飲みたいのだ。そこで容器にわずかに水を入れて、ちょっと振って、濃いコーヒーの原液を水に溶かして、カップに注ぐ。その方がわずかにだけれど、本当にわずかだけれど、濃いコーヒーになる気がする。
決して、貧乏根性ではない。
濃いコーヒーを飲むための知恵と呼びたい。知恵なのだ。知恵。知らないお祭りで灯籠を買うのも、コーヒーポーションをカップに注いだ後に、小さなプラスチックの容器に水を入れて、コーヒーの原液を全て集めてカップに注ぐのも、人生を濃いものにする知恵なのだ。
コーヒーポーションに限れば物理的にも濃くなる。そういうことなのだ、全てはそういうことなのだ。そういうこと以外にないのだ。そういうことなのだ。そういうことだということが、そういうことだということだ。



コメント