『タコピーの原罪』は鬱アニメではない。
SNSで「鬱アニメ」と話題になっていたので『タコピーの原罪』を見てみた。
しかし正直なところ、あれを単純に鬱作品として片づけるのは浅い読みだと感じる。
確かに衝撃的で重苦しい展開は多いが、それは単なる暗さを演出するためではなく、人間それぞれの「希望」とその相対性を描くための装置になっている。
登場人物はみな、自分なりの希望を抱いている。その希望は立場の違いによって歪み、あるいは他者を傷つけるものに変わっていく。
一方の希望を支持すれば、他方の希望は踏みにじられる。まさに「正義の反対はもう一つの正義」という『進撃の巨人』的な構図が物語全体に流れている。
そこに描かれているのは、人間が希望を持つがゆえに残酷さに転じてしまう姿であり、単なる鬱展開ではない。
こうした読み取りをせずに「鬱」でまとめてしまうのは、現代文として物語を鑑賞する能力が低すぎると言わざるを得ない。物語を読むとは、表面的な出来事だけに反応することではなく、登場人物の動機や背景、そこに込められたテーマをすくい上げることだ。
だからこそ提案したいのは、作品を消費的に「暗い/つらい」とラベル付けする前に、「なぜその人物はその行動をとったのか」「希望はどこにあったのか」という問いを立てて読んでみること。
そうすれば『タコピーの原罪』は、絶望を描いた鬱作品ではなく、希望を巡る人間の物語として立ち上がってくるはずだ。
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