おにじと申します。
いや~、何を書いても多分批判されそうな内容を記事にするべきなのか。これは結構難しいなとも思ったんだけど、うちのようなブログがこの内容を全く触れないのは、一種の逃げに値するなとも思ったので、やっていきましょう。
なお、情勢が変わりすぎる気がするのでさっさと出したため、今週の通常記事は金曜日の一回のみにするかもです。あと、ひっさびさにブログ記事に太字を使った。
9月14日に掲載された『『ぼざろ』『虎に翼』の脚本家 吉田恵里香が語る、アニメと表現の“加害性”』という記事が、簡単に言うと炎上しているし、複雑に言うと様々な方面での議論を巻き起こしまくっている。
『ぼっち・ざ・ろっく!』は、近年のアニメ史においても随一の人気作であることは疑いようはなく、先日も二期の制作が発表されただけであり、何の進捗もほぼないのにも関わらず『ROCK IN JAPAN FES. 2025』に出演し、一定の盛況を見せたようである(実際に行ってないのでどれくらい盛況だったのかは知らん)
本作を一つの例として挙げた「原作にあるノイズ」という言葉は、多くの議論を呼び、多くの人間を色んな意味でざわつかせる言葉となった。
それは、アニメという枠組みを超えているものでもあり、なんなら海外アニメオタクの方がキレてるとか、もう収拾はつかなさそうな雰囲気。
前提として、筆者個人として吉田恵里香という脚本家は素晴らしい脚本家であると思う。
『ぼっち・ざ・ろっく!』は前提として、『前橋ウィッチーズ』もまぁアクが強い部分はあるとは言え、最終的に良いアニメにまとめ上げたと筆者としては思っているし。
別に『虎に翼』とかも、作品として悪いものではなかったと思う。思想は強すぎるけど。というか、単純に悪いだけでは話題にはならないと言うか。
ただまぁ、吉田恵里香の思想という所に関しては、前々からずーっと露呈している部分ではあり、時にポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)に抵触しかねないような表現も散見される人間ではあり、今回はまたその感じが出ちゃったね~って話でもある。
今回は単純なぼざろにおける表現とかの話ではなく、アニメ制作における「原作リスペクト」のあり方、表現の自由と規制みたいな、なんかデッカイ話になってしまっており、非常に記事にするのが難しい。
というか原作を知らんやつ、アニメすら見てないやつとかで変な解釈も増えすぎなのである。
どうやっても何かが足りない記事になることは明白であり、ツッコミどころが出来るの確定なのだが、今回は吉田恵里香の発言を題材に、この騒動について、筆者が出来る最大限考えてみる。
- 長いので、先に言いたいことは端的に
- 吉田恵里香という脚本家
- 「原作のノイズ」発言はなぜここまで炎上したのか?
- ややこしい論点を一旦整理しておく
- 『ぼざろ』大成功の要因は全体的なパッケージングと運要素等が掛け合わさった結果
- オタクは不安になる動物。表現とかポリコレにも敏感だし…この案件が今後の最大のノイズとなり得てしまう
長いので、先に言いたいことは端的に
正直記事また長いので、言いたいことは端的に先に書いておく。
なお、こういうことをすると変な解釈されて批判してくる人間もいるからあんまりなあと思う自分もいる。
ただ長い文章を読めずに変な解釈されて批判してくる人間もいて結局詰んでいるので、じゃあまぁ先に諸々言いたいことは先に書いておこうと。
・吉田恵里香がノイズって言葉使ったのがマジで悪い、原作をノイズ呼ばわりして良い理由は何においてもない
・ぼざろは原作から期待されていた作品であって、確かにアクはある部分はあるが基本的に評価されてアニメ化されてるんだからノイズとか言っちゃダメ。性的搾取という言葉を原作ありきの物で軽率に使うべきではない。
・原作のある作品で脚本家が思想に繋げて、それで良いアニメにしました!って言うのは実際脚本家ってそうだとは思うんだけど、公に言わない方がいい
・今回燃えてるのはある意味で吉田が吉田してるだけなんだけど、ぼざろが絡んだ事で海外ファンも巻き込んでいる状態。基本的にぼざろの出来がどうこうとかじゃなくて、作る上での思想や考えが批判されている。ぼざろの出来が良いのはもはや関係ない
・それはそれとしてこれを出しているメディアが性的消費が~とかでゴリゴリに言っているので、このメディアが恣意的に抜き出している部分はありそう。にしても言葉のピックとかが終わってるのに変わりはないけど。
・というかぼざろって別に吉田だから良かったってだけではないし…斎藤圭一郎とか含めて総合的に良かったからやし…
・というかこういう話が一番ノイズやから黙っといてくれへん?
あ、前述した通り、本当に吉田恵里香の脚本は割と好き側です。
では本編行ってみよ~(
吉田恵里香という脚本家
まず、改めて明示しておくが、筆者は吉田恵里香は優れた脚本家であると思っている。面白い脚本を書くと思う。普通に。有能だと思う。
やっぱり、『ぼっち・ざ・ろっく!』において、吉田恵里香の功績がないわけがない。
きららの作品という所においてやっぱりぼざろは異端ではあって、でもきららではあるっていうバランスみたいな所とか。
そもそも4コママンガであるまんがタイムきららにおいて、アニメに再編成する上でどう構築するか?という所は脚本の力が存在しないことには良いアニメにはならないだろう。
吉田恵里香が脚本してくれたから、今のぼざろがある。その要素は間違いなくあるはずである。
『前橋ウィッチーズ』に関しては、これは良くも悪くも吉田恵里香って部分はあるんだけど、筆者個人としては最終的には良い形でまとまった作品だと考えている。
前橋はめちゃくちゃスロースタートであり、一話が一番キツイアニメである。
それは、お悩み相談という所においてのスタンス、こういうものだ!というある意味での突きつけが強い部分であったり、キャラがまだ掘り下げられていない中でストレスとなる要素が多かった部分などが考えられると思う。
ただ、これが中盤になっていくとキャラクターが上手く掘り下げられていき、その謎とかストレス要素が昇華されて行く感じがあったり、キャラクターの関係性という所の変化とか、スタンスが変わっていくことによっての面白さみたいなのを上手く構築したなと。
アニメ初メインで声優陣を固めて、ドル活動もゴリゴリのアニメの割には、ある意味で脚本が硬派であり、見れるアニメとなったのは、吉田恵里香の力があったからだと思う。
まぁ、それが思想が強い部分ではあり、好き嫌いが分かれる部分はあるし、少なくとも3、4話は耐えないといけないので、それが面白いアニメと言えるのか?という人はいると思う。
それはドラマにおける『恋せぬふたり』、『虎に翼』でも傾向として大差はないとは思う。
割と社会において理解されにくいという所に対して突く部分もあったりするのは、思想の強さではあるのが、それが良いように働くといい感じにメッセージ性として伝わってくる時もあったりするし。
人間に対して、完璧じゃないという方向性、でもそれでもこんなに頑張って生きてますよみたいな方向性は、結構な作品で吉田恵里香作品はあるのかなとも。それが説教臭く・思想強く見えるときも、スッと入ってくるときもあるというかねw(だからぼざろは相性自体は良かった気はする)
基本的な脚本構築能力は高いので、単純に面白い感じには出来ることが多いと思うわけで。
今回の「ノイズ」発言は、その強い思想が言葉の選び方として一種の誤解を生んだ結果なのかもしれないが、彼女が作品に込める熱意と、脚本を構築する上での能力という所は、高く評価されるべきであると思う。
「原作のノイズ」発言はなぜここまで炎上したのか?
今回の騒動の直接的な原因は、『ぼざろ』制作時のエピソードを語る中で、「原作にあるノイズ」という表現を使ったことであると思う。
具体的には、後藤ひとりが水風呂に入浴するシーンで、原作では裸であるのだが、アニメではスクール水着を着用している描写となっており、彼女はそれを「ノイズ」と評したことにあると思われる。
『ぼっち・ざ・ろっく!』が覇権を狙うために排除したノイズ
吉田恵里香さんの名前を一躍有名にしたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』も、同じく10代の女の子たちを描いた作品だが、こうした原作のある作品でも前述の姿勢は崩さない。
「原作ではひとりちゃん(※主人公の後藤ひとり)が水風呂に入るシーンで裸になっているんですが、アニメでは水着にしてもらいました。ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです」
「現実ではそんな会話しない」と強く否定した“女の子たちが互いの胸の大きさについて言及し合う描写”なども含め、そういうシーンはアニメにおいては何気ないよくあるものと考えてしまっていたが、吉田恵里香さんは「それを売りにしている作品でない場合においてはノイズ」と言い切る。
「原作がまず素晴らしく、原作サイドもとても協力的で、監督含めスタッフも音楽チームも本気で動いてるし、けろりらさん(※キャラクターデザイン/総作画監督)もすごく良い絵を描いてくれている。制作の段階からこれなら覇権が取れるって思える作品なのに、そうしたノイズがあると多くの人に見てもらえなくなってしまいます」
アニメには長年の歴史から生まれた多くのテンプレート的な表現がある。それ自体の是非はともかく、作品や時代に合わせて適切か否かを模索する思考は、今後より重要になりそうだ。
「現実的に考えても、ギターを弾きながら胸が不自然に揺れ続けるみたいなことはないわけですし、そういう描写があったら私は幼い息子にその作品を見せるのを躊躇する。自分の子どもに見せられるかどうか、というのは大事にしている基準です」
これから何回も書くことになるが、特にこの水風呂のシーンに関しては、別に特段当時から表現としての話題が出ていたわけではなかった。
まぁ胸関連に関しては、めちゃくちゃ後藤ひとりがナーフされていることに、多くの嘆きがあったことは事実である。というかそれくらい別にいいだろみたいな感じだった。そんなに放送コード厳しいの?みたいな声もあったと思う。
ただ、こと水風呂のシーンはそんな話なかったと思う。少なくとも大きな話題に放ってない。
いやまぁ知らん人からしたら水風呂にスクール水着という描写は、一般常識からすれば違和感があるかもしれんけど。
ただ、後藤ひとりという極度の陰キャで、他者とは異なる狂人性を持ち合わせたキャラクターであれば、その奇行を補強する要素としても捉えられた部分もあったからじゃないかと思うし、筆者もそういう感じで解釈していた。
問題は、それをやった理由を「ノイズ」と表現したことにある。
仮にどれだけ業界内で日常的に使われている言葉だとしても、公の場で原作の描写を「ノイズ」と表現するのは、原作に対するリスペクトを欠いていると受け取られても仕方がない。この一言が、多くのファンに不快感を与えた最大の要因だろう。
これを世間は『無駄なもの、邪魔なもの』という強い否定的な響きを持つ言葉として捉えた感じがあるし、実際そう捉えられることは致し方ない言葉だったように思う。
そしてその要素を「性的搾取」という言葉を使っての形になっている。ここも結構デカい話な気がする。原作者とか読者が性的搾取してたってコト!?と、謎の攻撃をかまされている。まあ主に燃えてるのはノイズって言葉だけども。
この言葉が、ファンにとって「原作が否定された」「原作へのリスペクトがない」と感じる最大の要因であり、それが性的な要素であったことも含めて、現在の表現という所のデリケートな部分に抵触した感じがある。
さらに言えば、この発言によって、アニメの描写が「後藤ひとりというキャラクターの狂人性を補強する要素」ではなく、「吉田恵里香の思想によって排除されたもの」という印象を視聴者に与えてしまったことも、ファンを落胆させるポイントになった感じがある。というか、筆者はこの方向性では結構萎えてる部分はある。
胸描写とかも、「吉田恵里香の思想によって排除されたもの」になるわけで。いやまぁ、それがない方が見やすい作品だった気もしなくもないけど、でもそんなもんどっちでもええやろって感じもするしなあ…(あくまでもバンド作品だ!って気合は作中から感じたので、不必要と言われれば不必要なんかもなあとは思うけどね?)
というか、それを例え覇権アニメにおいてって前提とは言え「ノイズ」呼ばわりするのって、それを楽しんで読んでいた原作ファンも結構直接的にDisってることにもなり得るし。
それって性的搾取している人間が読者ってことなんですか?とか解釈いくらでも広げられる発言なんですけど、大丈夫そう?とは思う。そういう意図がなくても、結局そういうふうに考えてるって言われちゃう発言にはなり得るからね。
結局吉田恵里香という存在は普通にポリコレ側なのは、もう分かりきっている話だと思っていたのだが、ぼざろと絡んだことでもう一回ちゃんと燃えた形という言い方も出来る。
まぁこれは別に吉田が全部悪いわけでは多分ない。
この騒動は、吉田恵里香のトークイベントでの発言が一種切り取られた部分はあるはず。
それで、彼女が「原作から不要な要素を取り除いたことで成功した」と解釈する人間を一定数生んだとは思う。実際、X上ではその場にいたとされる人物から、「原作から変えてはいけないものはある」といった、原作をリスペクトしていると取れる発言もあったことが指摘されていたりする。
あくまでも、アニメを作るうえで、覇権を目指すうえでという話でもあるし。
マスコミの切り取り方やまとめ方に悪意があるのはつきものではあるし、そういう部分で吉田が全部悪いとは思わない。
ただそれにしても「ノイズ」発言はこれまでの吉田恵里香の強い思想と発言のある意味での「前科」を考えると、炎上するのも致し方ないと感じてしまう部分はある。
なお編集を行った人間は『記事を最後まで読んでいただけた方にはご理解していただけると信じておりますが』とゴリゴリに喧嘩を売っていた。謝罪する気がないのか。『誤解を与えてしまった』以下の表現。
テレビアニメ作品における“未成年キャラクターへの性的消費を誘因するような描写”をオタクと呼ばれる人たちがアイデンティティの依り代にしていて、その削除に傷ついていることが事実だとしたら、さすがに理解できないし、社会的にもケアしようがないと思うのですが本当にそう捉えていいのでしょうか🥲
— わいがちゃんよねや🫨 (@TYonemura) 2025年9月16日
CEOもこんな有り様。性的消費が~とか言ってる。まぁメディアも終わっている。
存在もしない性的消費とか言って、それをこのメディアは排除してほしくてたまらないからあんな記事を書いた部分はありそう。ゴミカスか?これこそ文字通りの無能な味方じゃねえか(
ま、とは言えこの記事の内容が全部大嘘ってわけではないのも確かなので、別に吉田が悪くない~になるわけではないんだけど。普通に世の中に出す言葉のピックを間違えているという所は変わりませんし。
というか覇権を目指すためっていう前提もアレな感じはする。
これも売上しか考えてません感が出るんだよな。面白い・いい作品が覇権って表現にならないじゃないですか、世間的に。どうしても売れるアニメってのを覇権っていうから。
売れるためにはお前らノイズ!って言われたら、そりゃまぁ、反発はあるんじゃないっすかね。うん。
そもそも覇権って言葉自体、ニコニコとか2ch(今は5ch)とかにおける見る側が使う言葉であって、作る側が公に使う言葉であるべきじゃないんだよな。
どうしても商業的成功という意味が強いじゃないですか、覇権って。
いい作品を作ろう、面白い作品を作ろうって要素より、一番売れたって要素が強いから。
あとまぁ『「公式がさぁ搾取してください!」と言わんばかりにばらまくのは抵抗がある』とかも大概やし、何言ってるの?みたいなの結構多いので、媒体がヤバいにしてもツッコミどころは普通に多い。
というかこう、そもそもタイトルが『加害性』やからね。
原作に加害性があんのかと。そういう言い方も出来るわけで。割と加害性って言葉もヤバいと思いますよだいぶヤバい。というか加害性みたいな話は記事内で少なくとも出てきていないので、これはメディアがヤバい。
なんというか加害性があるノイズをゾーニングしましたって言うことも出来ますからね。ほら、もうヤバいやん(これは拡大解釈では?w)
はい、メディアのカスっぷりは出てます。オールドメディアだろうがネットメディアだろうがカスメディアはカスや。
ややこしい論点を一旦整理しておく
ここでぼざろがなんで成功したのか?という所、吉田の功績はあるんじゃないの?って所の話もしていこうとは思う。
思うんだけど、今回の話をするうえでややこしいのは、吉田がなんで燃えているかっていうのは、別に今回の批判は、『ぼざろ』アニメ版の水風呂の場面でスクール水着を着ていること自体が問題なのではないことである。
当時からその改変が大きな議論とか論争になっていたかと言われると微妙なところである。というかほぼなってなかったと思う。
なので「それを掘り起こして問題化するなんて」という擁護も今回一部で見られた。しかし、今回の本質的な問題はそこではないと思う。
今回の問題の核心は、吉田恵里香の「ノイズ」発言による原作リスペクトの是非、そして現代の過敏な社会情勢による原作改変への敏感な反応、さらには表現の自由が脅かされることへの危機感にあるように思う。
コレに加えて「性的搾取」という言葉、これも大きな要素。原作もので軽率に使うべきではない。これだと、原作や原作読者が性的搾取を書いている、読んでいる事になる。
彼女の発言が、ポリコレに準拠した表現規制とも取られてしまったことが、この騒動を複雑にした。
なので、業界内で言われている単語だとか、こういう解釈でノイズって言ったんだよとか、そういうこともあんま関係ない。ノイズってなんだよって思われたし、その上での思想やべえなコイツ相変わらず。って思われただけと言えばだけ。
多分吉田恵里香が言ったから火力が2倍以上に膨れ上がっているのであって、まぁ他の人でも燃えたは燃えただろうけど、でもここまでにはなってないだろうなと。
つまり、『ぼざろ』はあくまでこの議論の「例示」に過ぎない所はある。
で、まあ売れに売れたぼざろなもんだから、話がややこしくなっている気がする。
この前提を取り違えて議論すると、見当違いなものになってしまいかねない。
ただ、今回の話をするにあたって、ぼざろがどういうふうに成功したのか?という話を完全に無視することは出来ないとも思う。
それは今回の吉田の案件を擁護する声の中でも大きい「吉田が原作をうまく改変したからこそ、『ぼざろ』はこれだけ売れた」という声があるからである。
なので、ちょっと本筋とずれる部分ではあると思うんだけど、ぼざろがなんで成功したのか。ここは考えておきたい。
『ぼざろ』大成功の要因は全体的なパッケージングと運要素等が掛け合わさった結果
前述した通り、吉田恵里香の擁護意見として、「吉田が原作をうまく改変したからこそ、『ぼざろ』はこれだけ売れた」というものがある。
まぁこれはそういう部分は確かにあると思う。それは前述もしたと思う。吉田は素晴らしい仕事をした。これは間違いない。
ただ、それ以前にまず原作が非常に強力であったことは無視されるべきではないとも思う。
前述した内容とかぶる部分もあるが、『まんがタイムきらら』という日常系4コマ漫画誌の中にあって、『ぼざろ』は異端者と言っていいと思う。そもそもロック、バンドという題材の時点で。やっぱり日常系がきららというイメージもあるし。
なので、例え多少後藤ひとりの胸がデカかろうと、水風呂が裸だろうと(風呂は普通裸だろ)、胸の話をしてようと、多少の性的描写があろうと、それを上回る強力なストーリー、魅力的なキャラクター、そしてバンドものとしての熱い描写がある。この「異端者」としての強みが、多くの読者を惹きつけていたのは間違いない。
いや、今から考えれば原作初期はまだきらら寄りではあって、山田の風貌とかを代表される通り、ブレていた部分はあったとは思う。ただ、『ぼざろ』は1巻が出た時点で、アニメ化はほぼ間違いないだろうと言われていた作品である。それだけの期待感を1巻が出た時点で寄せられていた作品である(そういうふうに筆者は当時オタクに教えてもらったし、そういう評価が世間としてあったと筆者は解釈している)
なんなら停滞していたきららアニメにおいて、ぼざろは最終兵器とアニメ放送前は言われていた程であり、世間的な大爆発とまではいかないにしても、きららアニメの枠組みでは近年の中でも相当期待されていた部類であるし、その力が原作にあったわけである。
原作自体が持つ強さを無視して、ましてや「ノイズを洗い流さなければ売れなかった」と評するのは、『ぼざろ』という作品そのものの質を貶める行為に等しい。
もし、原作に力がなかったとしたら、そもそもアニメ化の企画すら立ち上がらなかったはずであるし、そんな作品をノイズを洗い流してまでアニメ化する必要性がないだろう。
何度も繰り返すがもちろん、吉田恵里香が何も貢献しなかったわけではない。
彼女は、『ぼざろ』という作品の根幹にあるテーマを深く理解していたと思う。
そのうえで4コママンガという再編成が必要なものを、原作の持つある意味でのアクの強さや、アニメでは表現しづらい部分を適切に取捨選択することで、多くの視聴者が受け入れやすい作品としても仕上げつつ、『ぼざろ』が『ぼざろ』らしくいるという所のラインはしっかりと残していたと思う。
やっぱりはまじあきも変な人ではあるので、アクはある。
これはアニメ範囲じゃないので、実際どうなるかは知らないし、ここに挙げるのは不適当かもしれないが、一つ極端な例を挙げておこう。
結束バンドは、ASIAN KUNG-FU GENERATIONがベースである。
アジカンの後藤は結構政治的な発言もする人間であり、それによって良くも悪くも話題となる人間である。
その感じをパロって、安倍晋三のスピーチを模したものを後藤ひとりで弄るじゃないけど、一種のブラックジョークとして描写しているシーンとかも原作ではある。
これはまぁ極端な例ではあるが、アクは強いと思う。一種の「ノイズ」と呼べる要素はあるにはあると思う。なので、本作において原作と吉田恵里香の相性は良い部類だったのかなとさえ思う。うまいことやったのは間違いないと思う。
というかそうでないと、原作ファンからの評価とかがここまであるのがおかしいし、それは間違いなく功績。
放送時などの雑誌においても、原作サイドと綿密にやり取りしていたこととかも掲載されていた記憶だし、別に吉田恵里香が無能ってことはまったくないと思う。普通にぼざろの出来は良かったわけで。
吉田恵里香の脚本家としての手腕は高く評価されるべきだ。
しかし、それでも『ぼざろ』がここまでの『世間的な』大成功を収めた最大の要因は、脚本の取捨選択よりも、やはり「演奏パートの強さ」と「楽曲のクオリティ」にあるんじゃないかなあと思ってしまう。
もちろん、その前から話題性がなかったわけではない。『青春コンプレックス』などのOPの力もあったわけだし(これも話の要素じゃないけどな!)、話としても中々良い滑り出しだぞ!という感じは当時からあった。
ただ、それはあくまでも『きららアニメ』の中でそういう評価なのであって、クールの中で覇権を握れるぞとか、そういう話ではなかったはず。
世間的に大きな話題となったのは、第5話の「ギターと孤独と蒼い惑星」と、第8話の「あのバンド」の演奏シーン。ここがあまりにも大きい。
この後に『星座になれたら』という爆弾が待っている。
結局この3つ、3曲の所が強いと筆者は考えるのである。
もちろん、話としての強さ。これは間違いなくぼざろにはあった。ただあくまでも世間的に、大衆を巻き込み、覇権となるにあたって重要な要素になったのは、この楽曲と演奏描写という所に尽きると思う。それは、リアルタイムで見てれば目に見えて分かったはずである。
これらのシーンは、演出の巧みさもさることながら、楽曲そのものの素晴らしさ、声優の演技のクオリティの高さ、そしてそれを素晴らしい作画で表現したスタッフの技術力、あと、本作で突如として世間に解き放たれることになった長谷川育美の歌唱力という、作品の「核」となる部分が高く評価された結果なんじゃないかなあと。
これ以外にも、ぼざろは褒めるべき所が多くある。アニメとしての表現力も特筆すべき点が多い。
たこせんを実際にスキャンして使用するといった細かな演出、唐突に挿入される粘土造形や実写の風船を割る演出、宇宙の成り立ちの映像が異常に気合が入っていたこと、そしてBGMの使い方で印象を強める場面など、脚本だけでは表現できないアニメとしての力も非常に強かった。
声優のキャスティングに関しても、あのタイミングで青山吉能という中堅声優を引っ張り出してきて、後藤ひとりをやらせて、あの時歌の印象はまったくなかった長谷川育美に喜多郁代をやらせてという所を筆頭として、鈴代紗弓も水野朔も含めて、主要キャラのキャスティングをしっかりと腕とキャラとのマッチングを考えて選んだんだろうなという形にして、それ以外のキャストもある意味でそういう声の印象がない、歌の印象がない声優も上手く使っての並びだったのもやはり強い。
ぼざろというのは、本当に全体の総合力がバカ高い作品だった。初監督とは思えない斎藤圭一郎を頂点として、これほどまでのアニメが出来るというのは、勿論脚本も非常に大事ではある。でも、それはあくまでもこれらの要素を最大限に引き出すための土台という部分ではあって、ピースの一つという言い方が適切な感じがする。
特に楽曲や演奏シーンという、視聴者の心を直接揺さぶる部分が強力でなければ、『ぼざろ』はここまでの社会現象にはなり得なかったと思うし、覇権になった要素は何か?と言われると、やっぱりこの楽曲と演奏という所が先頭にどうやっても来てしまうと感じる。
というか、やっぱり斎藤圭一郎だろもっと言われるべきは。
なんかこの案件、吉田恵里香の話ばっかりなってるけど、やっぱり斎藤圭一郎がぼざろにおいてめっちゃデカいだろ。絶対。
『葬送のフリーレン』もぶち当ててる監督だぞ?
やっぱり吉田恵里香って世間的な名前がデカいこともあって、こういう案件でデカく扱われすぎる要素は間違いなくある。ぼざろって総合力がバカ高いんだけど、間違いなく斎藤圭一郎が作った渾身の一作なので。そこはなんかこう、忘れんで欲しい所。
あと、梅原班がそんな吉田の言いなりになるとも思えんしな(
また、『ぼざろ』の成功には、別の偶然も作用していたと考える。
同じクールで、覇権アニメと目されていた『チェンソーマン』が、視聴者の期待とは異なる方向性で制作された結果、結果的に不評を買ってしまったこともかなり大きかった。これはかなりラッキーな事であり、これがなければ恐らくは『ぼざろ』の覇権はなかったと思う。普通にやれば、『チェンソーマン』が覇権だったことは、その後の流れを見ても改めて明らかだったなと思ってしまう。
『チェンソーマン』の監督、こちらも初監督だった中山竜は、作品に合致しない演出や手法を取り、結果的に多くのファンを失望させてしまった。両方初監督だったのに、ここまで明暗がくっきり分かれて良いのかと思うくらい本当に明暗分かれていた。
なんかリアルさを取り入れたりしてしまった結果、『チェンソーマン』に求められていた勢いが削がれてしまっており、演技の方向性も全然なんか叫んでくれないなあみたいな感じで、結果的に声優の評判すら下げてしまった(まあそもそもソニー資本だからって戸谷と楠木っていうゴリゴリソニー系で固めたキャスティングサイドにも責任の一端はあるんですけどね?)
結果、中山を下ろして劇場版は制作されることになり、アニメも総集編という名の『総編集編』が登場。演出の変更や声優も新録するなどして、かなり原作ファンが求めている形となっているようで、中々評判が良い。なので、やっぱり普通にやってれば覇権は『チェンソーマン』に持っていかれていたと思う。(別に中山竜は才能がある人だと思うし、今後名声を回復出来る機会はあっていいと思う。ただ、ことチェンソーマンで自分の思想を落とし込み過ぎたことで、ファンの期待を裏切ってしまったというのは、なんというか周りももうちょっと考えてやれよというか、原作ありでそういうことすんなよという案件ではあった)
で、ここで興味深いのは、このアニメ1期について『チェンソーマン』原作者の藤本タツキは概ね満足している雰囲気だったことだ。この事例は、原作者が納得していることと、世間的な評価が必ずしも一致しないという事実を物語っているとも思う。
今回の『ぼざろ』の一件でも、「原作者のまじあきが吉田恵里香を絶賛しているから問題ない」という擁護意見があった。確かに原作者が満足してれば問題ないのでは?と考えるのは自然だし、そもそも『ぼざろ』の出来は素晴らしかったんだから、はまじあきがそういう風に言うのは当然ではある。
ただ、『チェンソーマン』の例を見れば、その擁護が必ずしも有効ではないことがわかる。原作者の満足度と視聴者の評価は、別個に考えるべき問題であるというのは、頭に入れておきたい。そういうのは、別に『チェンソーマン』に限った話でもないし。
結局人は考えていることが違うので、原作者がOKを出せばそれが絶対!とは上手く行かないのである。
オタクは不安になる動物。表現とかポリコレにも敏感だし…この案件が今後の最大のノイズとなり得てしまう
さて、そろそろまとめないと文字数ヤバいことになってる。
今回の騒動の根底には、吉田恵里香という脚本家が持つ、これまでの「前科」のようなものが大きく影響しているように思う。
彼女は以前からその強い思想で知られ、過去に特定の政治的・社会的な事案に対して署名を行うなどの行動を起こしていた。そういうのは、毎度話題となっており、バッシングされる要素となっていた。なので、吉田恵里香という存在は好き嫌いが激しい存在だったわけである。
其の上で今回の発言は、純粋な作品論争として受け止められる以上に、彼女の思想がまたしても表に出てきた、こういうこと言うからコイツは嫌なんだと捉えられてしまった。
つまり、今回の炎上は『ぼざろ』という作品の出来自体に起因するものではなく、大成功を収めた『ぼざろ』に触れた際に、その背景にある「思想」や「言葉の扱い」が、現在の過敏な社会情勢と結びついてしまった結果なのではないだろうか。
海外では、ディズニーをはじめとする大手コンテンツ企業がポリコレを過度に意識した結果、作品の魅力が失われ、興行的に失敗するケースが増えており、ついにそれに白旗を挙げたような発言すらみられるフェーズになっている。
対照的に、日本の漫画やアニメが世界で高く評価される理由の一つとして、その「表現の自由さ」が挙げられている。
こうした状況の中で、日本でも表現規制を求める声は絶えず、なんとか現状を守ろうと努力が続けられている。
このような背景があるからこそ、吉田恵里香の「ノイズ」発言は、単なる一つの見解として流されず、ポリコレや表現規制に抵触する可能性があるものとして、国内外問わず過敏に反応されてしまったわけである。
今回の問題の難しさは、吉田恵里香の脚本家としての能力ではなく、彼女の思想や、その思想に根ざした言葉の選択にある。
これは『虎に翼』の時に大きく話題となった、時代にそぐわないだろっていう夫婦の選択別姓のねじ込みを始めとした思想の強さというのが、今回改めてアニメ側でも提示されたことによって、元々から可燃性が強い吉田が燃えた形となっている。
どれだけ作品が良かろうと、スタッフが頑張って作ったものが素晴らしかろうと、スタッフや原作者が彼女を擁護しようとも、根本的な火消しにはならない。なぜなら、問題の本質は作品の「出来」ではなく、彼女の「思想」そのものにあるからだ。
今回の騒動は、待望されている『ぼざろ』第2期にとっても、大きな「ノイズ」となりかねない案件となってしまった。
ただでさえ監督の斎藤圭一郎が降板したというのは、発表時でも大きな不安要素として挙げられることになっていた。
丁寧な説明が行われたのは事実。素晴らしい引き継ぎだったと筆者も思う。
ただ変わることは事実であり、不安要素として挙げられ続けてしまうのもまた事実である。
また、アニメ第1期で扱われた範囲に比べて、原作の第2期範囲は世間的な人気との間によりギャップがあると言って良い。
世間的にはもう結束バンドは各種フェスを回るくらいの人気であり、ぼざろの人気は相当な高さなのだが、作中の結束バンドはまだまだ未熟な学生バンドに過ぎない。
だからこそ、まだ見ぬキャラクターの発言がアニメ勢にゴリゴリに嫌われるんじゃないかと心配されていたり、まだ見ぬキャラクターが喜多郁代の実力を超えるという設定の遵守が難しいんじゃないかと言われていたり、人気になりすぎたからこその歪というのは、2期制作においてもある。(それは別に今のぼざろ、結束の運用もある意味で歪ではあるんだけど)
なのである意味で、1期以上に脚本による一定の改変が求められる可能性すらある。
そんな状況で、作品の出来以外の部分で余計な論争を巻き起こしてしまったのは、それこそ大きなノイズとなり得る。
オタクというのは、言わば何も生み出さない受け身の体制であり、出てきたものを受け止めるしか基本ない。だからこそ、内情が出てきた時とかも過敏に反応するし、不安要素というのには過敏に反応してしまう。
それは出てくるものがどうなのか分からないからであって、分からないから不安になる。オタクは表に出てくる情報でしか物事を言えないからこそ、そういうことになるわけで。
だから続きものに関しては前から継続されていることを望むともいえるだろう。
やっぱりスタッフが変わるって大きいからね。例えば『ウマ娘』は3期で大コケしたのはやっぱりスタッフの入れ替えが大きかった部分もあったしね。
そういう意味で、斎藤圭一郎がいなくなっても、吉田恵里香が続投っていうのは、発表当時は間違いなくポジティブな話題であったわけで。
幾ら思想がヤバそうでも、吉田恵里香の脚本はガチではあって、その根幹は2期でも守られるのはポジティブな話だったんだけど、こういう話が出てくると、本当にいつ暴走するか分かったもんじゃないし、原作の取捨選択において「〇〇はノイズと扱われたか…」という定型文がもう誕生していることになる。インターネットですからね。
しかも斎藤圭一郎もいないので、コケたら「やっぱり斎藤圭一郎じゃないから…」って言われるのは、どれだけ丁寧に引き継ぎを使しようが結局元々から確定していたのに、これでなおのこと言われることになるだろうし(コケてほしくはないけど)
というか、前述した通り、ぼざろって総合力で強かったので、別にうまいこといかなくても誰かのせいではないと思うんだけど、斎藤圭一郎抜けて、吉田恵里香がこの発言ってなると、なんか誰かのせいになる感高まってて本当に余計だなあって思う。
前述した通り、そこまで改変で当時騒がれたわけじゃないからね。今回はその理由とプロセス、発言で脚本家が燃えてるだけと言えばだけなので。でもそれが無関係にはならないからね。というか、吉田恵里香は別にこれが初めてじゃないから尚更。
吉田はずっと思想は強い。『虎に翼』は最たる例である。それが『ぼざろ』と付随した結果、なんかめっちゃ燃えている。
吉田恵里香はずっと吉田恵里香なのである。ただ、吉田恵里香が吉田恵里香だからこそ、こんなに燃えているのである。
なので、ぼざろの出来は良いのに~とか、ノイズと言う言葉は業界内では使われていて~とか、関係ないのである。吉田の思想がやばくて、それを原作系でやっていることを功績のように語っているから、コイツヤバいじゃんって言われてるだけと言えばだけ。いつもの吉田恵里香なんだけどな、こんな思想の強さ。
今回の騒動は、クリエイターが作品に込める思想と、それをいかに言葉で表現するか、そしてその言葉が世間にどう受け取られるかというのを突きつけられた部分もあるのかもしれない。
果たしてクリエイターは、その作品の背景にある個人的な思想を、どこまで表に出すべきなのだろうか。
何にしても良い作品を作っても、性格がアレみたいなクリエイターはたくさんいるわけで。だからこそクリエイターはクリエイティブであるという部分もあるわけで。
「作品の意図」と「受け手の解釈」の恐らくちょっとした乖離が、これほどまでに大きな騒動を巻き起こすことになり、それが諸々の事象に尾を引くことになりそうなのは、まぁ本当に各所において迷惑な話だろうなとは思う。
え、筆者はは吉田恵里香どう思うか?脚本は好き。思想はキショい。
というか、そういう話をして「なんとなくの配慮」くらいに思ってたのを変な裏話で微妙な気持ちにさせられることが一番のノイズなんで、ホント黙っといてもらっていいですか?しょーもないんで。
以上。