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「日本戦闘的無神論者同盟(戦無)」は「進歩的文化団体」なのか?

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月 5日(土)23時59分15秒

『近代日本社会運動史人物大事典』の「参考文献」に出ていた『証言 特高警察』(新日本出版社、1981)を見たところ、二部構成の前半、Ⅰ部に32人の証言が掲載されていて、佐木は「横浜事件」の青地晨に次いで二番目に登場しています。(p11以下)

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天皇崇拝に反すると宗教まで目の敵に

 一九三四年一月、よく晴れた寒い日だったと記憶している。私は唯物論研究会のうちあわせのため、銀座の喫茶店に出かけた。店の奥にいた三人の男が特高だとは夢にも思わなかった。彼らが偶然そこにいたのか、ねらわれたのか、いまもわからない。打ち合わせを終え、たちあがりざまを捕えられ、築地署に連行された。
 築地署の二階、二畳ばかりの部屋だった。五~六人の男にとり囲まれ、いきなりなぐられ、蹴られた。彼らが「小林多喜二も殺したんだ」と口走ったのをはっきり覚えている。"しゃべらないとお前もそうなるぞ"という脅しだったのだろう。いすにすわらされ、ふとももをカシの棒でめった打ちにされたのが一番こたえた。歩けない。それが四日つづいた。
 唯物論研究会は公然とした団体だが、僕は同時に、進歩的宗教学者や文化人が集まった日本戦闘的無神論者同盟(戦無)のメンバーでもあった。共産党員ではないが、「赤旗〔せっき〕」はひそかに読んでいた。特高はしつこく「"らく"をいえ」と迫った。「戦無」の仲間たちや「赤旗」との連絡方法を教えろ、という意味だ。これは、どんなことがあっても口にできない。必死だった。
 僕が東大の宗教学科を卒業したのはその四年前の一九三〇年。日本宗教学会の一員となり、若手宗教学者として歩みはじめていた。一五年戦争の前夜でもあった。
 一九二〇年代のおわりには、三・一五、四・一六事件など、すでに共産党への弾圧はし烈だったが、まだ文化人や一般市民にたいする特高の態度には一応節度があった。
 しかしそれはながくつづかなかった。彼らはみる間に凶暴化する。僕ら進歩的文化団体におよんだ段階では、すでに歯止めはきかなくなっていた。
 特高に宗教係までつくられたのは、たしか僕がやられた翌年、一九三五年だったと思う。大本教の第二次弾圧、つづいて「ひとのみち」(PL教団の前身)、天理教系の「ほんみち」、創価教育学会(創価学会の前身)、それにキリスト教諸団体……と、弾圧の嵐はふきすさんだ。
 キリスト者は「天皇とキリストのどっちが偉いか」とせめられ、連行された。下から民衆運動的におこった新興宗教は目の敵にされた。「教義が国家神道=天皇崇拝に反する」という理由だった。そして、これが、すべて特高のしわざだったことを忘れないでほしい。
 僕は治安維持法違反で一年余り市ヶ谷の未決刑務所に放り込まれた。判決は懲役二年、執行猶予四年の判決だった。出獄後「宗教学説」、「日蓮」などの執筆をしたが、すでにそんな出版活動すらできない時代だった。治安維持法違反者には就職もむずかしい。しかも、これは戦後知ったことだが、隣組の組長は僕の行動を監視するよう特高に命令されていたという。【後略】
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佐木は1906年(明治39)11月生まれですから、逮捕されたのは27歳のときですね。
強烈な体験だったでしょうから、佐木が天皇制に恨みつらみを抱くのは仕方のないことです。
ただ、「日本戦闘的無神論者同盟」が「進歩的宗教学者や文化人が集まった」だけの、共産党とは関係のない単なる「進歩的文化団体」かというと、それはちょっと疑問です。
『証言 特高警察』には「青年に汽車賃を貸しただけで拷問」(p27以下)された同志社大学元総長・住谷悦治のような気の毒な例も多数載っていますが、「日本戦闘的無神論者同盟」は明らかに共産党の強い影響を受けた外郭団体ですね。
そもそも「戦闘的無神論」はレーニンの言葉であり、「日本戦闘的無神論者同盟」は32年テーゼが出れば直ちにそれに忠実に従った運動方針を採用するような団体ですね。
そのあたり、田中真人氏の「日本戦闘的無神論者同盟の活動」(同志社大学人文科学研究所『社会科学』27号、1981)に即して、少し見ておきたいと思います。
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