呉座勇一さんの訴訟と和解についての一私見
1.呉座さんの訴訟と和解の概要およびその意味
すでに周知の事実ですが、さる2023年9月末、2021年3月に発覚した呉座勇一さんのネット上の差別的な数多の暴言をめぐる騒動と、そこから派生した訴訟について、続けざまに大きな進展というか結末が示されました。国際日本文化研究センターで内定していた准教授への昇任を撤回された呉座さんが、日文研の上位機関である人間文化研究機構に対し起こした地位確認の訴訟と、呉座さんの一件をめぐって出されたオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」が、呉座さんの名誉を毀損したものであるという訴訟が、相次いで和解したのです。
その結果は、呉座さんは助教として日文研に復帰(再度准教授承認が内定しなおしたのかどうかは分かりません)し、名誉毀損訴訟は呉座さんの側が訴えを取り下げ、オープンレターが呉座さんの名誉を傷つけるものではないとの同意をして、和解したものでした。ただし、呉座さんの件発覚後に、呉座さんを名指しはしない形で声明「歴史研究者による深刻なハラスメント行為を憂慮し、再発防止に向けて取り組みます」を発した日本歴史学協会に対する名誉毀損訴訟は和解が不調に終わり、裁判が継続中だそうです。
個人的には、呉座さんの復職は幸いなことだと思いますが、地位確認訴訟の当初の目的は「呉座さんは准教授に昇任していたはず」という地位の確認だったはずで――例えば名誉毀損訴訟の代理人(労働訴訟は別の弁護士だそうです)である吉峯耕平弁護士はしばしば「呉座准教授」という表現でツイートしているのが確認されます――その点では「勝利」とは言い難いとも思われます。もちろん単なる金銭的解決よりはいいことではありますが。
さらに、オープンレターをめぐる訴訟については、オープンレター側の代理人・神原元弁護士が「勝利的和解」を宣言しておられるように、呉座さん側のほぼ「敗北」と総括せざるを得ないと考えられます。訴訟の経緯自体が、呉座さんの代理人である吉峯弁護士がオープンレター呼びかけ人に対し、これは呉座さんへの名誉毀損だから謝罪して100万円払えといきなり請求し、それに対しオープンレター側がそんないわれはないと提訴したものだったといいます。それが、呉座さんの側が名誉毀損ではないことを認めて訴訟を取り下げたということは、最初の要求が言いがかりに近いことを認めたといわざるを得ません。
こうしてみると、対日文研(人間文化研究機構)訴訟はともかく、オープンレター呼びかけ人に対する訴訟は嫌がらせでしかなく、当然のごとく無為に終わって、理不尽にも巻き込まれたオープンレター呼びかけ人が訴訟に手間と費用をとられるという骨折り損に終わりました。とりわけ巻き込まれた津田大介さんはお気の毒としか言いようがありません。しかも呉座さんの側も、かえってオープンレターが「呉座叩き」ではない、ということを明らかにさせてしまって、「オープンレターはリンチだ !キャンセルカルチャーだ!」と騒いでいた、自称・呉座擁護派のはしごを外す結果となり、藪蛇の自爆に終わったといえなくもありません。関係者すべてが損をした、まったく愚かなことでした。
さて、この問題に関しては、私は当初から呉座さんの引き起こしたことはたしかに問題だけれども、それは彼一人の個人的な問題ではなく、「界隈」「クラスタ」と俗称されるようなネットの悪い連中との付き合いにこそ起因する、だから悪縁を断てば呉座さんはいくらでも復活できる、と主張してきました(例えば当ブログの以前の記事など)。そしてオープンレターもまた、同様の主張をしているものと理解し、賛同しました。しかるにネット上では、オープンレターが呉座攻撃であるかのような曲解が大手を振って横行し、それが「事実」のようにされてしまいました。それはおかしいと声を上げた方は当然おられ、私も微力ながらそう唱えましたが、大勢を変えるには至りませんでした。
しかし今回の和解で、先の神原弁護士の note にあるように、
反訴原告、反訴被告ら及び補助参加人(以下「本件当事者」という。)は、別紙添付「オープンレター」が、反訴原告による利害関係人に対する誹謗中傷や、反訴原告による他の女性に対する性差別的な発言の原因について、インターネットにはびこる差別的なコミュニケーション様式の影響が強いと分析した上で、中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取ることが大切であると広く呼びかけたものであることを確認する。
と、明確にオープンレターが呉座叩きでないことが確認され、問題は差別的言動を生み出す(主に)ネット文化であって、それに呉座さん側も合意したとのことです。長い時間と無駄な手間がかかりましたが、このことが確認されたのは、この件の数少ない有意義な帰結と思います――裁判するまでもなく自明に読み取れるはずだったのですが。
従ってここで、オープンレターを呉座叩きのキャンセルカルチャーだ!と主張していた人々は、自分たちの主張が誤っていたと反省しなければならない筈です。しかし――当然のことながら――彼らに反省の二文字はないようで、訴訟戦術に失敗したといわざるを得ない吉峯弁護士からして、あたかも「敗北」ではなかったかのようにツイートしているのは、いささか往生際が悪いように思われます。吉峯弁護士については訴訟での手際が必ずしも良くなかったことも傍聴者が指摘しており(例えば「地裁でひっそり/開示請求」さんのツイートや、東間嶺さんのツイート参照)、反省すべき点はあろうと思うのですが。一方的に謝罪と賠償を要求して、それに対し債務不存在確認の訴訟を起こされて負けたらあまりにみっともない、とは、呉座さんのツイッター凍結解除を支援するなど、ネット上で呉座さんと付き合いのあった、いわゆる「法クラ」の一員である高橋雄一郎弁護士も指摘するところなのです。
5ちゃんねる呉座スレ 2021年4月22日付より採取
2.本件における歴史修正主義について
以上のように、オープンレター訴訟の和解はオープンレター側の「全面的勝利」の主張に説得力を感じられますが、これに対し呉座さんは和解当初にご自身のブログでこう主張されていました。
私が和解に応じたのは、オープンレターが私を「歴史修正主義(者)」と断定するものではないとの確認が得られたことにより、本訴訟を提起した最低限の目的が達せられたと考えたためです。
このブログ記事はその後削除されてしまいました(ただしアーカイヴされていて今でも見ることができます)。削除の原因については後程考えるとして、さて呉座さんが最初に訴訟を提起した際は、どう主張していたでしょうか。
この訴訟では、オープンレターの以下の記載が名誉毀損にあたるかどうかが問題になっています(下記2項はオープンレターからそのまま引用、敬称略)。
① 「呉座氏がツイッターの非公開アカウントで過去数年にわたって一人の女性研究者(このレターの差出人の一人である北村紗衣)に中傷を続けていたこと……が明るみに出た」
② 「呉座氏自身が、専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも、そうしたコミュニケーション様式の影響力の強さを想像することができるでしょう。」
これを読む限りでは、呉座さんの訴訟目的はオープンレターが名誉毀損に当たるかどうかが眼目だったとしか考えられません。その中の一つのトピックが歴史修正主義者かどうかという話であって、しかもそのトピックは二番目であり、それが「最低限の(=もっとも守るべき重要な)目的」だったとは読み取れません。
また、呉座さんのブログを「歴史修正主義」で検索しても、上掲提訴の報告のほかは、ご著書『戦国武将、虚像と実像』の宣伝記事しか出てきません。あまり重要と考えていたようにも思われないのです。
そもそもオープンレターも、呉座さんが従軍慰安婦問題に不用意なツイートをしたり、同じく慰安婦問題について矮小化するようなツイートに「いいね」をしていたことを、「同調するかのような振る舞い」と「そのように見えてしまう」と評しているわけで、断定しているわけではありませんし、続きの文章で「そうした(引用註:ネット上の「クラスタ」「界隈」での)コミュニケーション様式の影響力の強さ」を指摘して、呉座さんの専門家としての知性がネットの悪い付き合いで曇らされたのでは、とある意味「逃げ道」を用意してくれているのです。
だからこの和解は、「最初からオープンレターは呉座さんを歴史修正主義者であると名誉毀損していない」ことを、オープンレター側の主張に沿って改めて確認しただけであり、これがオープンレター側の主張の一部を撤回させた、というわけでもないのです。つまり一方的な思い込み(誤読)で訴訟を仕掛け、それが誤りだと諭されて撤回したという、はなはだ無意味なことだったということになります。訴訟自体が誤りだったわけで、考えるに、このような案件を持ち込まれた弁護士は、謝罪と賠償をいきなり要求するより、依頼人の誤読を正して別な手段を提言するのが専門家としての責務だったのではないか、などと思いたくもなります。
ただ、私はここで、呉座さんの「歴史修正主義」に関する理解に一抹の不安を覚えるのです。前掲「拙著『戦国武将、虚像と実像』の紹介」のブログ記事でも、あるいはそこからリンクされている『戦国武将、虚像と実像』冒頭の試し読みを読んでも、歴史修正主義はどうして問題なのか、ということが読み取れないのです。単に、学問的な研究成果を無視しているから、という以上の問題を呉座さんが認識されているのか、私はそこに不安を感じます。
歴史修正主義の問題点は、それが人権問題だからなのです。そもそも「歴史修正主義 Historical revisionism」の起こりであるヨーロッパのそれを思い起こせば、ナチによるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」はなかった、という主張が大きな源流のひとつです。これはユダヤ人に対する差別や偏見につながりますし、そこからナチを正当化するようになると、さらに広範な人権への攻撃につながる恐れがあります。
日本型歴史修正主義といえば、主なものは「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦は強制されておらずただの売春婦だ」「関東大震災の朝鮮人などの虐殺はなかった」といったところです。これらが中国や朝鮮に対する差別や偏見につながることは容易に分かりますし、女性差別にも及ぶものであるといえます。歴史修正主義が問題なのは、まず何よりも他民族やマイノリティ、弱い立場の人びとへの人権侵害になるからなのです。
この点を、呉座さんは理解されているのかが、不安に思うところです。呉座さんのツイートや「いいね」には、女性差別をはじめさまざまな差別があったことは遺憾ながら事実です(具体的な事例は当ブログの以前の記事を参照)。このような差別に対する鈍感な意識こそが、個別のトピックへの対応以上に、歴史修正主義的なものと親和性が高いのです。
これについて、呉座さんの以前の共著『教養としての歴史問題』の書評で、木畑洋一さんが以下のような指摘をされています。書評本文では呉座さんたちの本をたいへん好意的に評した木畑さんですが、呉座さんの起こした騒動を知って、以下のように追記をされています。
この書評の初校を終えた段階で、本書執筆者の一人呉座勇一氏がツイッターアカウントで他者を傷つける発言を繰り返し、それを本人も認めて謝罪したとの報道に接した。氏が所属する国際日本文化研究センターも謝罪文を出している。問題となっている発言は、他者(この場合は女性研究者)に対する強い差別意識を示すものであるが、そのような差別意識は本書が批判の対象としている歴史修正主義の核心に存在する要素である。評者として呉座氏のこうした発言は絶対に看過しえないことを、付記しておきたい。研究者の倫理にもとるこうした言動が、すぐれた本に影を落としてしまったことが、残念でならない。(強調は引用者による)
これは大変重要な指摘と思います。歴史修正主義は差別意識と密接な関係があり、だから人権問題を引き起こし、時には戦争の正当化にすらなってしまいます(例えば旧ソ連の「カチンの森虐殺事件」を否定するという歴史修正主義を、プーチン政権は表明しています)。
呉座さんはネットの悪縁にはまったあまり、歴史修正主義に接近しやすいメンタリティを持ってしまったのではないか、そこが私の気になるところです。そもそも呉座さんのベストセラー『応仁の乱』について、呉座さんの事件で無茶苦茶なオープンレター攻撃を展開した(ネットの論壇と称するサイト「アゴラ」で20本!も読むに堪えない攻撃記事――その滅茶苦茶の厄は私も被りました――を書いた)與那覇潤氏が、綿野恵太さんとの対談(既に削除されていますが、アーカイヴがあります)でこう述べています。
『ニューズウィーク』日本版の昨年(引用註:2018年)一〇月三〇日号が「ケント・ギルバート現象」を特集したんです。一番売れたケント氏の本は、五〇万部を超えた『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社)だそうですが、重なる時期にほぼ同規模のベストセラーとなった『未来の年表』(河合雅司著)と読者層を比較している。結果は明白で、河合本の読者は当時の話題書を万遍なく買っているのに対し、ケント本の購買者が他に買うのは百田尚樹氏らの保守派の歴史本に偏っている。ところが、そうしたケントさんのファンに買われた書籍のリストの3位が『応仁の乱』で、2位が磯田道史さんの『日本史の内幕』という「実証史学にしてベストセラー」の二大巨頭なんです。「歴史修正主義者にも買ってもらえる」から売れているのに、データも見ず「ついに実証的な歴史観の時代が!」と言っている人は、いちばん実証性がない(苦笑)
歴史修正主義者に受け入れられやすい何かを、呉座さんの著書が持っていた可能性は、全く否定できるわけでもないのかもしれません。もっとも、こう皮肉を飛ばしていた與那覇氏が、どういう心境の変化で呉座さんを無茶苦茶に擁護する気になったのか……いや歴史学を攻撃できる機会と思ったから攻撃しまくっていたのでしょうが、「実証的な歴史学」を攻撃すればするほど、呉座さんも被弾するのではないかという気はします。まあこの話は逸れるのでこの辺で。
3.オープンレター「誤読」の原因
話をオープンレターをめぐることがらに戻します。
何度も繰り返しますが、私も賛同したオープンレターの趣旨とは、「呉座さんのやったことは確かに悪い。しかし彼一人が悪いわけじゃなく、ネットで一緒になって差別や冷笑で遊んでいた連中も同じくらい(それ以上)悪いし、そういった連中が形成したネットの空間が問題だ。そういうものには距離を取ろう」ということです。これを最初の部分だけ切り取って、やれ呉座さんの名前が何回出てきたから呉座叩きの文章だ、などと出来の悪いAIみたいな分析をしていたのが、オープンレター叩きの連中でした。彼らこそ、呉座さんを悪の空間、まあネット用語でいう「界隈」「クラスタ」に引きずり込んで道を誤らせた連中に他ならないのですが。もっとも呉座さんを中心とした「中世史クラスタ」は騒動で解体したようで、それは結果的に呉座さんにとっても良かったことのようにも思われます。
しかしながら、先に取り上げた、和解の告知直後の9月27日に呉座さんがブログに一時公開したもののすぐに削除した記事を読む限りでは、呉座さんはオープンレターの趣旨を諒解する和解をしたにもかかわらず、オープンレターは「キャンセルカルチャー」だと相変わらず主張しています。オープンレターが呉座攻撃ではない、ということで和解をしたにもかかわらずです。これはまず何より、和解条件の第1条に反するのではないかと思われ、さてこそすぐに記事は削除されてしまいました。また、オープンレター側からこの記事への抗議もなされています。
呉座さんは削除された記事で、「私を排除しようという学術界の大きな流れに抗して、私が歴史学者として再起するためには、法的措置以外に道はありませんでした」と書いていますが、まずそもそもオープンレターが呉座排除を目的としたものではないことで和解をしていますし、まして学術界にそんな流れなどあったかというと疑問です。
呉座さん自身、今年5月に出版された『列島の中世地下文書 諏訪・四国山地・肥後』という本に論文を寄稿されています。この本は17人もの研究者からなる論文集で、このような場を得ていること自体、呉座さんが排除されていないことを証しています。さらにいえば、この論文集に名を連ねている佐藤雄基さん(東大日本史研究室でも呉座さんと近い世代です)、湯浅治久さんは、オープンレターの署名者でもあります。オープンレターが呉座排除ではないことを、よく表しているといえます。しかしこの本への呉座さんの寄稿について、オープンレターについて喋々していたネット上の連中は、誰も気が付いていませんでした。そもそも彼らは中世史のみならず学問に何の関心もなく、「地下文書」を「ちかぶんしょ」と近代の反体制ビラみたいに読んでしまうような徒輩なのでしょう。
なのですが、先の削除されたブログ記事からすると、呉座さんはオープンレター叩きの連中――このような、ネットで呉座さんとつるんだ連中や、さらにそういった連中に和して女叩きをするような連中こそ、オープンレターが批判した対象なのですが――の方をいまだ自分の「味方」だと思っており、オープンレターが自分への攻撃だという誤解を、和解にもかかわらずいまだ解いていないようなのは気がかりです。何度も繰り返しますが、呉座さんのネットで起こしたトラブルの主たる要因は、こういった連中と作っていた「界隈」「クラスタ」にあったのです。その悪縁を断てば、呉座さんが再度問題を起こす懸念はなく、再起に何の支障もありません。しかし、和解にまで至ってもなおこの「界隈」「クラスタ」の論調に和するようでしたら――復帰した日文研助教の地位が再度危うくなるような事態が起こる可能性を排除できなくなってしまいます。私はそれを懸念してやみません。
さて、その問題の「界隈」「クラスタ」の中には、歴史に限らない研究者や、弁護士もいます。これははなはだ不可思議かつ憂うべきことといえます。というのも、この「界隈」「クラスタ」はオープンレターを呉座排斥だと誤読し、ネットで数を恃んでそう騒ぎ立てることでそれが「事実」であるかのように世を惑わしたのです。そして呉座さんもいまだに惑わされている恐れがあります。しかしこれは裁判所お墨付きの誤読であったわけです。いったい、こんな誤読をするようで、研究者や弁護士が務まるのでしょうか。
この点、なぜオープンレターの誤読がまかり通ったのかについては、他にも問題にしている方がおられます。例えば法華狼さんは和解後にブログ記事「オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」が排斥を目的としたものだという読解の根拠がよくわからない」 で疑問を呈されていますし、また早くは小川たまかさんが3回にわたってこの事件を論じられているヤフー記事でも取り上げられています。小川さんの記事は有料なのですが(和解を受けて一部分が無料公開されています)、私がお金を払って読んだところでは、この問題に関する大変優れた考察と感じました。とりわけ、第2回の記事で「法クラ」を論じたところは、専門家がネットでいかにして権威主義的で冷笑的な集団に堕していくかを考える良い手がかりとなっています。そこでリンクされている「女子校のプールの水になりたい」事件について説明した記事は、呉座さんも深く関係を持った挙句裁判を依頼して敗北的和解になってしまった「法クラ」の問題点をよく理解させてくれます。そして小川さんは、このオープンレター誤読の問題も取り上げて、第3回の記事でこう指摘されています。
オープンレターの文面の何がそんなにミソジニーの皆様を発奮させたのか。端的に言って女が頭良さげに真っ向から正義を言い立てたからだろうと思いますが、細かく見ると、たとえば次のような箇所。
「呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と『遊び』彼を『煽っていた』人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう」
呉座さんの件はすでに処分が終わったものと捉え、彼と一緒に「遊び」を行っていた人の言動に対して注目を向けさせるための文章だと私は理解します。
だからこそ、呉座さんと一緒に「遊んで」いた人たちは怖いでしょうね。今度、「制裁」されるのは自分たちかもしれない。そんなことはあってはいけない。いくらでも生意気な女を叩いて遊んでいたいのに。俺たちにはその権利があるはずなのに。その前にオープンレターを潰さなきゃ。そう思うんでは。
このご指摘は私もかなり頷けるところがあります。ネットで呉座さんと遊んでいた(遊んでいたような連中と同調していた)連中にしてみれば、自分たちに標的が向かったので、自己中心的な怒りを炸裂させた面はありそうです。
ただ、小川さんの説を採ると、オープンレター攻撃側は、オープンレターを一度は正確に読んだうえで、「敢えて」誤読をしてそれを宣伝した、ということになります。これはいささか疑問で、もし「界隈」「クラスタ」の一員でもあった吉峯弁護士が正確に読んだ上でわざと誤読していたのであれば、裁判になった時点で、裁判所が注文通り誤読してはくれないであろうことに思い至るはずです。であれば、あのような敗北的和解に追い込まれることなく、もうちょっとうまい訴訟を展開するか――そもそも訴訟しなかったかもしれません。やはり、素で読み違えていたとしか思えないところが残るのです。
そこで私の考えを述べれば、オープンレターに1300人もの人が署名したことの衝撃が、やはり大きかったのだろうと思うのです。ここで大事なのは、オープンレター署名者を思い返すと、その多くの人は必ずしもネット、とりわけツイッター上で積極的に活動していた人ではない、ということです。「界隈」「クラスタ」の連中は、ネット(ツイッター)上でこそ、我が物顔で振る舞っていました。でもそれは、この世界のごく限られた一部に過ぎないのです。1300人もの人がオープンレターに署名したことは、その「ネット以外の世界」の大きさを可視化しました。「界隈」「クラスタ」の虚名が実は脆いものであることを認識させられざるを得なかったのです。
そこで「界隈」「クラスタ」連中は、オープンレターに猛烈な反感を抱き、まともに読解もできないまま、とにかく叩く口実を探したのではないでしょうか。オープンレターに主導権を取られてはならない、ネット上の自分たちの楽園こそが世界なのである、あの1300人を何としても貶せ! こうしてヒステリックなオープンレター叩きが、ネット上では猖獗を極めることになったのではないか、私はそのように考えています。
このことの傍証として挙げたいのが、いまだに――呉座さんが和解した後にもなって――オープンレター叩きに精を出している研究者がどのような人かということです。その例が天羽優子さんです。呉座さんの訴訟和解を経て天羽さんは、オープンレターの署名者一覧を自分のサイトに張り出し、「社会運動させて力を持たせたら危険な人リスト、うっかり人事のテニュアトラックとかに関わらせてはいけない人リストとして活用してほしい」と呼びかけ人のみならず署名者まで誹謗しています。
誤読もここに極まれりですが、該記事末尾の記述によると天羽さんは、「水商売ウォッチング」として「○○水」と称して健康をうたったニセ科学商品を批判していたため、自分も攻撃を受けて職を失う恐れがあったのでオープンレターを批判した、としています。ここには、ニセ科学で商売をしているという学問の世界のアウトサイダーからの反発と、まがりなりにも同じ学問の世界にある人を誹謗中傷したことを混同するという、問題設定の誤りが見られます。
で、この問題ある天羽氏の記事というか「晒し上げ」を、好意的に紹介しているのが、やはりニセ科学批判で名を挙げたものの、最近は「財務省陰謀論」で自民党を迂遠に擁護するようなツイートばかり目立つ、菊池誠さんです。菊池さんは天羽さんのサイトを引用して「キャンセルカルチャーはやはりまずいと僕は考えます。安易にキャンセルに走ったオープンレターには大きな問題があったのではないでしょうか」と述べます。すでに何度も繰り返したように、オープンレターは呉座キャンセルを求めたものではないのですが、和解が示されてなお、いまだその誤読は解けていません。
どうしてニセ科学批判でネットでは知名度のある研究者二名が、揃いも揃ってオープンレターを誤読した挙句、呼びかけ人や署名者を誹謗・批難しているのでしょうか。私の考えですが、やはり「ネットで知名度ある」にその原因が潜んでいそうです。お二人とも、失礼ながら、長年ネットをされていたために、ネットを世界の中心のように思われてしまったのではないかと思うのです。その点では、呉座さんの過ちと似ているのではないかと思われます。
もう一つ、呉座さんと似ている問題点を考えれば、「ニセ科学批判」自体の問題点も考えられそうです。広い意味では歴史修正主義も人文社会系科学の「ニセ科学」といえますが、さいぜんに歴史修正主義について述べたのと同様、ニセ科学の問題点もそれが人権問題になるからではないでしょうか。その例を私たちはコロナ禍の中で、神真都Qやマスパセ(飛行機でマスク着用を拒否して緊急着陸させた人物。その後飲食店でも事件を起こした)などで目の当たりにしてきました。
しかし、かつてネットで流行ったニセ科学批判に、そのような視点は乏しかったのではないかと思うのです。天羽さんや菊池さんは「トンデモ」という言葉を定着させた「と学会」会員だったそうですが、「と学会」的な「トンデモを笑い飛ばす」スタンスは、ニセ科学が人権問題になりかねないことについて、あまりに鈍感であったのではないかと今にして思います。「と学会」主要メンバーであった唐沢俊一さんの悲惨な現況も、スタンスの誤りが「と学会」的なものをより社会に貢献する(ひいては自己形成にも資する)可能性を摘んでしまった傍証と思います。そういった人権への配慮の弱さが、呉座さんが陥った冷笑と差別の構造につながっており、いまなおオープンレターを誤読して罵倒する要因となっているのではないでしょうか。しかし、人権を尊ばないことは、自己にもはね返ってくるのです。
4.規範=目的合理性と実証=整合合理性
結局のところ、問題はどうしてネット上に冷笑と差別をこととする空間が生まれてしまうのか、それに相応の読解力なども持っているはずの弁護士や研究者などであっても泥んでしまうのか、ということになりそうです。
この問題については私が2022年に『情況』誌に寄稿した「『妄想の共同体』としてのネット空間」でも論じましたが、そこでは大塚英志さんの『大政翼賛会のメディアミックス』をひいて、戦時の精神動員に源流を辿れる技術を使って人々に「書かせる」ことで稼いでいるプラットフォーム企業の存在を指摘しました。それはそれで一定の意味はあると今でも私は思っていますが、ただネットに入れ込むのは分かるとして、そこでどうして冷笑と差別(特に女叩き)に走ってしまうのかは、その記事では十分に論じることができませんでした。ここでもう一度考えてみたいと思います。
呉座さんの問題発言や問題となった「いいね」を雑に括ってしまえば、「女叩きの冷笑系ネトウヨ」といわれて仕方ないものであったろうと思います。そこで私が想起したのは、中世を中心に幅広い歴史の研究をされている東島誠さんが、ご著書『「幕府」とは何か 武家政権の正当性』を出版するに先立って、騒動前の2020年にネットで発表されていた文章です。これは後編ですが、ぜひ前編から読んでいただきたい、たいへん力のある文章です。その一部を引用します。
大政奉還百五十周年、明治維新百五十周年の記念行事の一方で、いまふたたび中世史ブームだという。それも、よりによって室町幕府が熱い。呉座勇一『応仁の乱』を機として、いわゆる室町本が飛ぶように売れているとのことだが、ただ、なぜこれだけのブームを呼んでいるのかについて、説得力のある説明を目にすることは、いまだない。呉座自ら譬えるように、応仁の乱と第一次世界大戦に類似点がもし本当にあるのだとしても、大戦の引き金となるサラエヴォ事件から百年に一つ余る年に安保関連法を通過させてしまったこの国の〈空気感〉と、その翌年刊行された同書の売れ行きの間に、因果関係があるとは思えない。
もちろん、アカデミズムの内部事情から、いくつかの伏線を語ることは比較的容易である。一つには、この十数年の間に、大学や文書館等の所蔵史料データベースの公開が進み、史料へのアクセスが容易になったことで、それまで手薄であった室町時代の研究が一気に進んだこと。いま一つには、戦後の民主化をテーマとした「戦後歴史学」の流れが完全に終焉し、歴史学、とりわけ前近代史の若手研究者が、無思想のまま緩やかに右傾化(ネトウヨ化)していること、等々。とはいえ、こうした伏線の上に新時代の寵児たる呉座が登場したのか、と言えば、これもどこか物足りない説明だ。(引用註:強調は引用者による)
もちろん、東島さんの壮大な歴史学の見取図からすれば、「物足りない説明」の一端でしかないのですが、「若手研究者が無思想のまま緩やかに右傾化(ネトウヨ化)している」という指摘は、有体に言って騒動前の呉座さん周囲の「界隈」「クラスタ」を想起させるに十分でした。
東島さんは引用箇所に続いて、呉座さんの『応仁の乱』が「他分野に応用の利くような〈ものの見方〉を一切提示していない」のに売れたことを、「これはこの業界にとってかなりヤバい、危機的状況なのではあるまいか」と指摘されています。ものの見方、価値観や思想といったことを示さない、これまた東島さんの言葉を拝借すれば「規範の自覚なき素朴実証主義者」ということが、問題の根幹にあったのかもしれないと思うのです。
もちろん東島さんは、呉座さんが単純な実証主義者とは論じておらず、「少なくとも呉座のその後の著作からは、中世史ブームの危険性に気づいているらしいことも、じゅうぶん垣間見える」とした上で、呉座さん本人ではなく、その「追随者」を問題としています。とはいえ、その後の呉座さんが陥った「界隈」の問題点を考えれば、いみじくも東島さんが前掲引用に続けて書かれた「呉座の評価として、あまりに好意的過ぎようか」という反語が、文字通りの意味になってしまったといわざるを得ないのではないか、とも思うのです。
東島さんの議論を踏まえて私なりにまとめてみると――東島さんの理論の根底にはヴェーバーがあり、私はヴェーバーは遥か20年あまり前に訳本を斜め読みしただけで大して理解しているわけではないのですが――学問は事実をもとにすべきといっても、人は規範から抜け出すことはできない。戦後の日本の歴史学での規範はいわゆる戦後民主主義だった。学問における規範とは、ざっくりいえば何のために学問をするのかという目的であり、その目的に向かって学問をどう練り上げていくかが肝要である。といって、目的のために研究対象を捻じ曲げてはもちろんいけないのであって、実証もまた車の両輪である。実証とは、目前にある諸史料をいかに矛盾なく組み立てて世界像を示すか、その整合合理性である。しかし1990年代以降の戦後民主主義の衰退により、若い世代の研究者は自分が捉われている規範に無自覚になり、目前の整合合理性だけを見る「規範の自覚なき素朴実証主義者」の傾向を示している。そのようにまとめられると思います。
そこで私が思うには、呉座さんの作品をいくつか読むと、もちろんどれも面白いのですが、時折やや性急なマルクス主義批判が見られるような印象がありました。いまやそんな教条的なマルクス主義史観なるものはなく、仮にその影響を受けているにしても、分析ツールの一つとして使っているのであり、実証性を尊重していることには変わらないように、私には思われました。ましてや――呉座さんと私は大学院でだいたい同期でしたので――私たちが受けて来た教育は、マルクス主義の強い影響を受けているということも感じられない世代でした。そこに私は多少の違和感を覚えたのです。
ことによると、呉座さん(東島さんの口吻からすると、若い――といっても40代を含みますが――世代の前近代史研究者全般にもあてはまるようですが)は、実証性を重視するあまり、本来はそれと対立するものではない、どちらも大事な規範性の方を、過度に排斥するようになってしまったのではないか、そんな懸念を私は持ちました。そして思うに、それは呉座さんがネットで絡めとられてしまった、冷笑的ネトウヨ界隈と親和性があったのではないか、そのように疑っています。そういえば、前掲文章から呉座さんの騒動を経て2023年1月に出版された東島さんの『「幕府」とは何か』には、数か所に(あまり本論と関係なく)論文の趣旨をとんでもなく読み違える「ネット論客」らを批難する文章が差し挟まれているのですが、これはもしかしてこの事件の影響なのかもと、つい気を回してしまいます。
なお、余談に渡りますが、東島さんの本で批判されている研究者の一人が、呉座さんと中世史の「界隈」「クラスタ」を形成していた亀田俊和さんです。東島さんの批判は、突き詰めれば亀田さんが中世史の巨人である佐藤進一の学説を理解できておらず、薄弱な根拠でその学説を否定しているということなのですが、そこで想起せざるを得ないのが、そもそも呉座さんをめぐる騒動の発端は、亀田さんの網野善彦を「レフティ」とバカにしたツイートだった、ということです。こういった、今までの研究水準を作ってきた先達への冷笑的な視線もまた、規範の過度な排斥につながっているのではないでしょうか。
話を戻して、冷笑的な世界観とは、どうせ世の中変わらない、だから強いものに媚びて弱い者を叩くのが合理的なライフハックだ、と思い込むようなものといえるでしょう。あるべき規範を打ち立ててそれに少しでも近づこうとするのではなく、目の前の現実に流される自分を正当化し、規範を唱える人を冷笑することで自分の方が立派であるかのように思い込む、そういう連中はネットで嫌というほど目にします。ちょっと男女平等なんかをネットで唱えようものなら、たちまちこの手の「論客」が噛みついてくるでしょう。社会問題を唱える人間を黙らせれば、その問題もなくなるとでも思っているのでしょうか。
呉座さんもツイッターで女叩きにはまっていたのは残念ながら事実でした。なぜそんなに女叩きに人がはまるのか、それは男女平等が進んでいる摩擦といえばそうなのでしょうが、それだけで説明できるとも思えません。ある友人がこう言っていたのを思い出します。「かつてマルクスは『宗教は大衆の阿片である』といったが、アンフェ(アンチフェミニズム)はインテリの覚醒剤だ。なにせ『メタアンフェタミン』だから」
駄洒落はともかく、まさにこの、目の前の現実に流される自分を正当化する、という行動が、整合的合理性の悪しき面なのではないでしょうか。冷笑的世界観にはまってしまうことと、規範を毛嫌いして実証万能に陥ってしまうことは、同じことではないでしょうか。ここにもしかすると、呉座さんが冷笑系ネトウヨどもと狎れあってしまった、「ココロのスキマ」があったのかもしれないと思うのです。
もちろん、旧弊な学説を批判することは必要です。その心意気なくして、新進の者の前途はありません。しかしそれに急なあまり、この場合は規範的なものを攻撃するあまり、規範自体を排斥してしまっては、本末転倒です。東島さんが説かれるように、規範的な目的合理性と実証的な整合合理性は車の両輪であって、排他的なものではない筈なのです。もしかすると、そういった本末転倒に呉座さんもなりかけてしまったのではないか、そんな懸念を感じたのです。規範となる思想を排除したときに陥ってしまう、いちばん危険かもしれないイデオロギーが、「自分はイデオロギーから自由である」というイデオロギーなのではないでしょうか。
イデオロギーから自由であることはできないのです。規範的な目的合理性を見失って、目の前の辻褄合わせ=整合合理性にのみ精力を傾けることは、結局現存秩序への盲従にしかなりません。このようなイデオロギーならざるイデオロギーこそ、チェコのハヴェルが『力なき者たちの力』で説いた悪しきイデオロギーの典型ではないかと、私には思われるのです。例えばフェミニズムを冷笑するツイートなどに対し、「○○さんの悪口はやめてください!」と、パターン化したやり取りをして喜ぶようなのは、少々大げさですが、ハヴェルのいう「真実の生」からもっとも遠く隔たった言葉遣いではないでしょうか。
5ちゃんねる呉座スレ 2021年4月8日付より採取
人を人たらしめるものは、やはり冷笑ではなく情熱なのでしょう。敢えて俗っぽく言えばネタではなくガチであること。そういった情熱を本来持っていたはずの人が、ネットの「覚醒剤」に手を出して、身を損なってしまったのが畢竟呉座さんの一件であったと思います。
何度も覚醒剤に手を出してはシャバとムショを行き来している田代まさしさんがかつて語っていた言葉で、「シャブをやってムショに入ってシャバに出てくると、真っ先にやってくるのがシャブの売人だ」というのがあったと記憶しています。薬物で捕まって周りから人が離れた隙に、なお「カモ」にしようと売人がやってくるのです。呉座さんも一度、ネットの覚醒剤に手を出して社会的信用を失いましたが、和解によってようやく復帰が本格化すると思ったら、「法クラ」のようなネットの冷笑という覚醒剤の売人の如き連中との縁がいまだ切れていないようです。ツイッターこそ呉座さんはやめましたが、和解によって復帰が進んだと思ったら、さっそくブログに和解条件と相反するようなことを書いて、削除に追い込まれています。なんとしてもネットの覚醒剤と縁を断ち、学問への情熱を取り戻して、冷笑を捨ててよき規範を見つけ出してほしい、私はそう痛切に願いますが、それができなければ――薬物使用ほど再犯の多い犯罪もまたない、ということを思い起こさずにはいられません。
結局、私が何度も書いてきたことに戻るのですが、まるでシャブの売人のような悪い連中と縁を切って、ネットとの距離を置けば、呉座さんの復帰は何の問題もないのです。呉座さんは私の言うことをもはや聞く気にはなれないかもしれませんが、佐藤雄基さんの行動の行間は読み取ってほしいと思います。
どうか、ネットの冷笑と差別の空間にはまる人が一人でも少なくなってほしい、できればそのような空間をネットの中心ではなく、せめて周縁的なものにしたい。私はそう願っています。これは呉座さん一人の問題では決してありません。相応の読解力がなければその職に就けない筈の研究者や弁護士といった専門家が、ネットの冷笑に泥んで、人を傷つけて憚らないような言動をし、敢えて反論や批判をすれば仲間内で誤読をでっちあげてさらに傷つける(「女子校のプールの水になりたい」事件のように)。そういった陥穽がそこらじゅうに口を開けているのが今のネット空間なのです。
なお、周縁的な場で管を巻くことまで規制すべきではないと私は思いますが、そこで問題になるのが、本当に内輪でやり取りしているのであればご勝手に、ということを、なぜ人はネットで全世界に発信してしまうのか、ということです(呉座さんはツイッターに鍵をかけていましたが、フォロワー3000人ではほとんど意味をなしませんでした)。これはこれで大きな論点ですが、論じるのは別の機会として、今は呉座さんの復帰が本物であることを、切に祈るばかりです。
※本稿作成には親切な友人数名の助言をいただきましたが、文責はもちろん嶋にあります。