毒のある書き方になるのをご容赦いただければと思いますが。

どうも、近年の高校生(本校生)は、(不満はありながらも)親や教員の言うことを聞いて、そこそこの成長をしながら、安心・安全な生活を送ることと、その生活がずっと続くことだけを望んでいるように見えます。

言い換えると、そこで高尚な目標を持ったり、学問の深い世界に目を開いたり、部活動で心身を極限まで鍛えたり、友達とぶつかり合って和解して成長したり…というようなことには関心が薄いように見えます。そんなことよりも、何とか今日の分の勉強を終わらせて自由時間を満喫したいようです。

学校に通うことによって、やがて社会を相手に一人でたくましく戦っていくような武器を身につけ、ガッツリお金を稼いで社会にインパクトを残す…などということは、そんな発想すらありません。ほどほどの安穏とした生活が確保され、ブラックでなければいい、それ以上の考えは、なかなか持っている人がいないように見えます。

与えられた枠組みや考え方の範囲の中だけにとどまって、その外側を考えずに安定している状態って、言ってしまえば「家畜の幸せ」と言ってしまって差し支えないと思いますが、正直なところ、いまの高校生はこの「家畜の幸せ」を失うこと・「家畜の幸せ」からいずれ脱却しなければならない事実に向き合うことを一番怖がっているかもしれません。

不登校傾向を示す生徒で最近多いのが、分析すると「自分が勉強が苦手になりつつあるという事実に向かい合うこと自体がストレスだ」と言わんばかりの理由で学校から足が遠のく生徒です。いじめはありません。授業でもプレッシャーをかけるようなアプローチはあまり行われなくなっています。できないことそれ自体に傷ついて、ストレスだと言って足が遠のくのです。大学どころかその先の就職戦線や面接なんかを先回りして心配してストレスを感じるのです。

昔の感覚で言ったら、「弱すぎて話にならない」と言って終わってしまいそうです。

世間では「無理しなくていいよ」「ありのままの自分でいいよ」「がんばらなくていいよ」「差別はいけないよ(確かにいけませんが)」「パワハラやブラック企業は良くない」という、まあその通りですが、自己認識が子どもに留まっている人と自分を弱者と規定している人が自分を甘やかす言い訳にするにはまことに適した言い回しが非常に流行っています。

「何かを身につけるためには、必ず何らかの無理をしなければならない(場合がほとんど)」
「何の反省も内省も配慮もしない『生まれたまま・ありのままの自分』が受け入れられることはどのような場所でも絶対にあり得ない」
「がんばり過ぎて身体や精神を壊すのは絶対に良くないが、君はそれを言えるほどがんばったのか?」
「差別は『自分がされる』前提で考えるだけではダメで、自分が差別者に回らないための心がけにしないと意味がない」
「企業は合目的的集団である以上、しなければならない範囲や求められる成果は厳然と決まっており、そこを達成できなければ叱責だの懲戒だの免職だのがあり得る。その意味ではあらゆる企業はブラックの要素を持ち、企業からの指導にはパワハラの要素がゼロにはならない」

などという「ハードな真実」を受け入れさせられることを、高校生は一番恐れているのかも?などと勘繰ってしまいます。

40年前に高校生でしたが、親父が病で倒れ死ぬ寸前で母親は内容はどうでもいいから働いて金を稼げ(今でもそういう考え方)でした。 それでね、とある仏教系の団体でなぜか一神教的な発想をするところの教えを信じれば幸せになれるんだと刷り込みをされ(どうしても意味が分からなかった)結果として「この先の人生なんてどうでもよくなりました」。 ラジカセでFMから流れる好きな音楽を聴いて、バイト代でゲーセン行ったりして将来のことなど考えもせずにダラダラと生きていましたよ。 今の子(ウチの子も姪っ子も)は平和で便利で教育水準が高くてある程度成績を取っていれば、仕事で大成功するより個々の人生が充実していればそれで満足…
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そうかもしれないなあ・そうだったらいいなあ、と思います。
ただ、一昔前は「小さくまとまるなよ」という言い方が通用しましたが、小さくまとまろうとしているよなあ…とも思います。

善祐
会社でも「小さくまとまるなよ」は、20代にはあまり響かないし意味不明って顔されてしまうことは多いです。 かくいう私も40ですが早く管理職を辞めてしまいたいという気持ちになっているので、そんなことは言ったことはないのですが、言われたことはあり、響いた記憶もあります。 目標地点みたいなものを見つけられなくて、今がそこそこに幸せになっているから、向上心、壁に立ち向かう、みたいな話は難しいように思います。 だからそれを見つけている人とのギャップはすげーもんですね。一部の「目標がある新卒の方やベトナムやインドネシアの方たち」と接すると、同じ歳でもガツガツ感が全然違うので、まあそうだよなぁって感じます。 争わなくても皆そこそこに幸せに暮らすのが1番、というのは悪くないですね。 極端に不況になると、また変わるかもしれませんが...(ネガティブな動機付け) 会社だと差別化するために他よりも頑張るってのは当たり前で、企業は競争原理だったりするので現実はつらいですね。 30.40になってからでは遅いというかハンディキャップ戦つらたんなんですがね。高校生〜30になるまで、頑張って良かった。30から40もそこそこ頑張って良かったと、今思っています。 一方で、目標を見つけるってことにフォーカスを置くのは悪くないようにも思います。なかなか見つからんので見つかった時にやれるだけの力を蓄えておくって選択肢しかないっちゃーないんですが。

ものすごく納得の行く御考察です。自分の中にあったもやもやして整理できていなかったものがクリアになった感覚です。

私が接する機会が多いのは大学生ですが、大学生でも学年が若いとほとんど高校生みたいなもんですから、御指摘の点は彼らにも通ずるものがある気がします。

「ありのままで、国民を氷漬けにしやがって、日本なら死刑だな。」と呟くと、

「ねぇ、パパ、良く聞いて、これはファンタジーなの、作り話なの。主人公の姉妹以外は、ぶっちゃけどうでも良いの。これがアメリカなの、ディズニーなの。」

と説得されるくらいに、我が子(娘10歳)は成長しております。

いいですねえ。ちょっと暴走するオヤジを冷静にたしなめる娘。ちゃんと生きて行けそうです。

そのとおりに思うのですが、一方で高度成長期やバブルの頃(いずれも経験はしていないのですが)にあったであろう社会全体の高揚感もない時代に生きていかなければならない困難さもあるのだろうと感じています。

単純に大人に余裕がないことが、子どもに露呈しているだけ、とも。悩ましいですね。

縮小していく社会とはこういうことか、とも思っています。
本当は社会のルールや考え方の外部をどこかで知っていてほしいわけですが、学校も家庭も寄ってたかってルールを徹底する=環境の中から「外部を感知できる機会を奪う」ことばかりしているわけで、なるべくしてこうなっているんだろうな、とも思います。芸術系の大学で先生をしているしんのすけさんがこの回答に共感を寄せて頂けてしまっている時点で、結構末期症状かと。芸術なんて、本来は一番「外部」っぽい人たちが集まる場でしょうに。

しんのすけ あ
中学、高校と芸術やものづくりに接する機会がなかった子たちが、純然たる興味で入学すると同時に、「外部を知れ・外部を創れ」という学びを始めるのですから、それはそれは壮絶です。 こちらは生徒・学生の問題ではなく、芸術系大学の末期症状なのかもしれません。 とっぴんぱらりのぷぅ

ご指摘の状況は特に男子の方が多いですね。女子は生きる力があるというか、たくましくて、進路選択においても、どんどん遠方を目指していくのに、男子は家から通える範囲を選ぶものが増えました。どうも母親が息子を放したがらないのをよいことにして、そのままを続けたいと思っているようです。息子の母親を、どう子離れさせるか、それがポイントであるように思いますが、その根底には日本の文化や社会の状況(夫=父親不在)、といったものの影響が深く浸透していて、そう簡単になんとかなる状況ではないですよね。

そんな感じはします、母親も女性なんで息子を縛る理由が知りたところです。

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Martin Taitさんのプロフィール写真
どこかの公立高校の先生をしています。生徒の基礎学力向上をまじめに考えています。
公立高校の教諭1996–現在
某国立大学で教育学学士を取得卒業年:1996
東日本地方に住んでいる1973–現在
詳しい分野:ドイツ語
コンテンツの閲覧数: 2,447.1万回今月: 36.1万回
トップライター2021