僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

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僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

★地球を何周も続ける幸せなバイクとオーナーの話

先日、5月に旅立ってしまった大学時代のバイク仲間を偲んで近場の神奈川県の真鶴半島までバイクの不当ともいえる高速道路料金体系是正の為に裁判闘争に打って出たRH(ライディングハイ連絡会)の昔の仲間でツーリングに行きました。

その日、大学の後輩でもある佐藤氏がGSX400F(インパルス)で駆けつけてくれました。
このちょっと前に明学大バイクサークル関係で亡くなった仲間を偲んで集まった時に「えっ、真鶴ツーリングには大津弁護士も参加予定なんですか?懐かしいなぁ~。久しぶりに会いたいなぁ~」と彼が言っていたこともあったのかもしれません。

彼は何台もバイクを所有していますが、このGSX400Fは彼が17歳の高校時代の1983年に新車購入したものですから、40年以上も彼が相棒というか殆ど分身のように大切にしている1台です。
大切にしているといってもガレージで飾っているわけではなく、取材仕事に使うこともあれば、サーキットに持ち込んだり、ツーリングや峠を攻めてみたりと「使ってなんぼ、乗って、走ってなんぼ」を実践してきました。

それは、かつてあるバイク雑誌に掲載された記事中にもこんな風に書かれていました。

「もちろん、ここで評価されるのは佐藤さんの普段の整備だろう。写真に映っているコンディションでもお判りとは思うが、レースをやっていたこともあってマシンの大半の部分に手を入れられる佐藤さんのGSX400Fは非常にきれいだ。右に佐藤さんに長寿の秘訣を書いてもらったが、毎日乗って、日々バイクのコンディションに気をつけてということが何よりバイクを長持ちさせ、大事にすることのようだ。佐藤さんは何度も転倒するほどワインディングを走り込んだり、サーキット走行までこのGSX400Fでこなしている。また、仕事のために風雨の中でもバイクに乗り続けている。決してバイクをかわいがりしているわけではない。」と記されていました。

集合場所の海老名SAに現れた彼のGSXを見て「あれ?カラーリング変えたの?」と思いました。
僕の中では随分と長いこと青の全塗装のイメージでしたが、今回は落ち着いたシルバーで登場しました。サイドカバーのインパルスのデカールもしっかり再現されていました。(実はエンジンを400Fから400FSインパルスに積み替えていたことも、雑誌に掲載された年表で思い出したというより改めて認識した次第です)

実は僕の引っ越し中の荷物整理をしていたら彼に関連する上記の雑誌コピーが出てきたのです。
掲載誌は処分してしまいましたので掲載誌の年度や月号までは不明ですが、掲載された年表によれば1993年頃と思われます。
掲載誌は正統派バイク雑誌「ライダースクラブ」(以下「RC」と略す)です。

ここに《地球7周ぶんの幸せ 28万kmを走ったGSX400Fとそのオーナー》というタイトルで6ページに渡って紹介されていました。
これが彼がGSX400F購入から10年時のカウントです。
それから既に30年以上が経過していますから現在は何十万kmになったかは今回の真鶴ツーリングで聞き逃しましたが更に走行距離は延びているはずです。

★『鈴鹿4H耐久』レースに2年連続で予選通過した明学大の佐藤選手

RCの記事には彼の年表が整理され掲載されていました。

1984年(18歳)の欄には《大学の井戸端会議と言う名のバイクサークル〈高速の料金値下げ運動で有名なライディング・ハイのルーツ〉に入部。レース活動を開始。》とありました。
「井戸端会議」名がRC誌上に出ていたなんて名誉なことです(笑)。大学名は誤植で「学院」が抜けていました(笑)

RC誌掲載の年表によれば、1987年にはFZR400Rで鈴鹿四耐予選に出るも転倒とありました。

翌1988年には今度はCBR400Rで鈴鹿四耐で予選落ち。

続く1989年も前年のマシンで四耐予選に臨むも、2分36秒で予選落ち。決勝通過タイムまで僅か0.3秒までには迫ってきた様子。

そして1990年にはCBR400RRで鈴鹿四耐予選で2分32秒を叩き出し2H耐久戦に出場。

彼はこの前には「MRC」(明治学院大学レーシングクラブ)を結成していて、僕のうろ覚えな記憶ではセカンドライダーは街乗りではGPz1100Fを転がしていたN君だったと思います。

遂に鈴鹿四耐決勝に出馬したのが1991年、25歳の時。VFR400Rで予選タイム2分30秒で決勝進出するも土砂降りの雨の中、電装系トラブルでリタイヤ。
僕も大雨の中、佐藤氏の応援で鈴鹿の観客席の中にいた記憶があるので、それはこの年のことだったのかも。

この頃、彼は鈴鹿の地元チーム「ヨシハル」(?)って名前だったような気がするけれど、鈴鹿サーキットの全スタンドの椅子設置を請け負っていた地元有力企業のチームにスカウトされていたかいないかの頃だったかな?(記憶曖昧ですが…)

鈴鹿四耐の決勝を完走したのが1992年、26歳の年。
『ウノ・ゼネラル・レーシングチーム』メンバーとしてVFR400Rで予選ウェット路面で2分46秒で予選通過。
資金力もあったようで、彼の乗るマシンも着る革ツナギやヘルメットも典型的な「モリワキカラー」の青と黄色のツートーンで、マシンも名門「モリワキ」から提供されていた気がします。

彼のフォームは綺麗だったので、その頃、レーシングチームスポンサー関係のガソリンスタンドで配布されていたパンフに彼のライディングシーンがカラー写真で掲載されていた記憶があります
恐らくは企業活動の一環とか社会的貢献として鈴鹿でのバイクレースのサポートをアピールしたパンフレットだったんだと思います。

彼の鈴鹿でのリザルト等は引っ越し等で紛失してしまいましたが、サーキットの平均速度は135~136kmくらいの数字が記されていたような曖昧な記憶があります。
僕などは「へぇ~、僕のバイクと同じ排気量の400ccのバイクで、あのテクニカルなコースで、シケイン通過で減速もあるのに、平均速で130kmってのは考えられないよな。裏のストレートやメインストレートじゃ全開で180や200Kmくらいは出ているんだろうな」と思ったものです。

それにしても当時は鈴鹿四時間耐久レースは“ノービスライダーの祭典”とか甲子園のようでもありましたから、よく冗談で「鈴鹿四時間耐久の決勝に出るって、東大に合格するより難しくない?」みたいな会話があったと思います。エントリー数や出場者のレベルの高さから決勝進出はそれくらいの難関とか狭き門だったんだと思います。その意味では、知り合いというか後輩がその難関に挑戦して決勝のスターティンググリッドに立ったということは他人事でも誇らしい気がします。

余談ですが、炎天下のスタート前に彼がバイクに跨って腕組みして、その傍らにはパラソルを手にしたチームのレーシングクイーン嬢たちが寄り添うシーンの写真を拝見したことがあります(笑)
レースには無縁な僕には、まるで映画『汚れた英雄』のような眩しい風景でした(笑)

★1987年、鈴鹿四耐挑戦直前の写真が出てきました♪

夜の白金キャンパスの学生会館(グリーンホール)前の風景です。展示マシンはFZ400Rのようです。
井戸端会議もお得意の「立て看板」にはどうやら「鈴鹿4耐エイド!井戸端マンガ市」と書いてあるようです。
佐藤くんを中心とした明学生でレース活動をやっていましたので、練習走行といっても東京から鈴鹿まで遠征を繰り返すわけで、往復のガソリン代や交通費、練習用レースタイヤの費用などなど、とにかくレースにはお金がかかります。
頑張っている仲間の為に、単純にカンパするのも有りですが、「井戸端会議の連中は、通学問題だけではなくて、レース活動もしているんだよ」と広く学友たちにアピールすることも大事なので、例え雀の涙のような金額しか集められなくても気は心、遠征資金の多少の足しにでもなればとの思いで、僕もアパートにあった250冊くらいの漫画の単行本等を提供した記憶があります。みんなで自宅から漫画本等を持ち寄ったと思います。
それを1冊10円~100円くらいで叩き売りして、せいぜい1万円前後にしかならなかったような気もしますが大切なのは額じゃなくて心意気だからいいのです(笑)

よく写真を見ると、5月に亡くなった『井戸端会議』二代目総長の上木(鬼太郎)の姿も当然ですがいました。
掲示板にはご丁寧にも革ツナギまで吊るして展示してあります(笑)サインボードや予備パーツなども散乱しています(笑)
マシンに跨っているのは第一ライダーの若かりし頃の佐藤君です。

僕のGベストに縫いつけてあったパッチに「MEIJ|GAKU ・RC」というのがありました。MFJにこんな名称で佐藤くんたちは登録して鈴鹿を目指していたんだと思います。(余談ですが、その上に縫いつけてある『ワイルド7』のバッチは当時ミリタリーショップを経営していた僕のお友達の八百さんが望月三起也先生に許可を頂いて市販していたものです)

このように随分と昔のことなので、僕はてっきり「佐藤は2年連続で鈴鹿四耐決勝完走」とばかり思っていましたが、RC掲載の彼の年表で「2年連続で鈴鹿四耐決勝進出、2年目で初完走」だったんですね(苦笑)。
失礼しました。敗者復活的な2時間耐久出場のことなど僕はすっかり忘れていました(笑)

佐藤氏が入学当時「先輩、箱根に走りに行きません?」というニコニコ顔での誘いに、「こいつバイク俺より上手そうだよな。でも、上りなら馬力だけなら数字は俺のGPzの方が上だし、マフラーもヨシムラサイクロンに変えたばかりだからそんなに引き離されることもなく済むかな」と思って箱根スカイラインに出かけました。

ところが一瞬にして彼の姿は僕の視界から消え去り、気がつくと山ふたつ先くらいを上がっていく点のような彼の姿かかすかなエンジン音がしたような記憶があります。
どうにか大観山に到着すると「あれ?先輩のバイク調子でも悪いんですか?ちょっと貸してください」といって、僕のGPz400でけたたましく下っていって、暫くして戻ってきて開口一番、嬉しそうに「先輩、このバイク調子いいですよ。乗りやすいし、僕のより速いし」と…。
圧倒的な腕の差やセンスってのを入学早々の彼に思い知らされた一コマでした(笑)

仕事でも彼のGSXと僕のGPzはよく一緒に出撃していました。
ある時、御殿場のゴルフ場からある著名人のベントレーを尾行する仕事がありました。
東名を東京方面に向かいながら「首都高で都内で降りて寄り道するか?それとも千葉の自宅に素直に帰るか?まぁ、こっちも満タンで御殿場を出たからガソリンに余裕はあるか」と思っていたら、気がつくと横浜横須賀道路を僕らバイク2台はベントレーを追って160kmくらいで巡行していました。ベントレーとの距離は尾行がバレたくないので500mとか1kmくらいとかターゲットの車が視認できる距離までわざと開けていました。

160km巡行でもじりじりと引き離されてきた気がして「もう俺の腕では限界!御殿場からノンストップで走ってきて神経もすり減ってきたし、ここは横の若手の佐藤にとりあえず先行してもらって…」と隣のバイクを見ると、佐藤氏はタンク上に伏せて、ハンドル上のスピードメーター付近で何やらしきりにジェットヘルの頭を細かく動かしていました。
「何してるんだろう?」と思いましたが、指で前方を指して「先に行ってくれ」と合図すると意味もわかったのか頷いて170kmか180Kmくらいまで加速していきました。

後で「あの時、メーター周りに顔を突っ込んで何してたの?」と質問すると「小池さんのはカウルあるからいいですけど、僕のバイクはカウルもないので、風圧も食らうし、息を吸うのにあまり風のこなそうな吸いやすい場所ってあるのかなと思ってコチョコチョ探してたんですよ。見られちゃいました?」と笑っていました。
へたれな僕には限界域のスピードでも、彼にとっては涼しい顔で遊んでいられる状態なんだと、この時もポテンシャルの差を思い知らされました(笑)

そういったことは、彼とバイクで一緒に尾行をしていると、幾度となく経験してきました。例えば信号を左折して僕やターゲットの視界から消えた彼のバイクが一瞬の後に左折した路地から再び僕の前に飛び出してきたりとかね。
「Uターン、すごく速くない?」と僕が言うと「あれは路地でアクセルターンして戻ってきたんですよ」と笑っていました。そんな技は当然ですが僕にはありましぇ~ん。手強い後輩というか、バイクに関しても頼りになる後輩でした。


埃だらけのGPz750turbo改と、フルカウルのアマゾネスカラーの1000刀は佐藤夫婦の愛車です。
北海道から青森に1100刀のAと3台で降りてきて、十和田湖で井戸端会議の仲間と10台ほどで合流した時でしょうから2000年の夏だったかな。僕は東北6県を野宿旅で廻って十和田湖で合流しました。

★とっても義理堅い佐藤くん

2001年7月21日に開催された“横浜ケンタウロス”の恒例行事サマーパーティーには佐藤君が明学大の後輩たちを引き連れて参加してくれたこともありました。
この時は“井戸端と愉快な仲間達”のような枠で10名くらいが参加してくれました。現在、様々なバイク雑誌で活躍されているライターのY田氏の姿もあります。佐藤君とはGSX1100S「刀」繋がりの大の仲良しでした。
場所は御殿場のやまぼうしキャンプ場で、この年の開催テーマは「蘖(ひこばえ)」で、全国からクラブ員等250名が集まりました。
まだ族長・飯田繁男も元気な時代で、当時ボスは60歳くらいだったかなぁ~。
快く記念撮影に応じていただきました。感謝。
そんなご縁や恩義もあってか、ケンタウロスのボスが「国替え」された時の“送る会”朝のバイク葬送パレードの際は義理堅い佐藤氏もモリワキカラーのGPz750turboで馳せ参じてくれました。
僕は「飯田繁男を送る会」の実行委員もしていたので当日はカメラを手に記録係をしていたので、パレードスタート直後の左折時の佐藤氏の写真がありました。
僕との写真はゴール後の赤レンガ倉庫を望むホテル駐車場です。

◎WEB 『Mr.Bike』ニュース(2022年11月28日付) レポート:小池延幸
ヨコハマで100台のバイクが哀悼の咆哮をした日。変わらないのがケンタウロス流
https://mr-bike.jp/mb/archives/34432

★一方、当時は僕の周囲では佐藤君たちとは別に鈴鹿を目指している方もおられました。

RH(ライディングハイ連絡会)関係では、当時、仲間のO弁護士さんも鈴鹿4耐に挑戦していましたが、セカンドライダーに恵まれなかったのか、明学大の佐藤くんのようには決勝までは行きつけなかったと記憶しています。

この「LEM RACING」とチーム名のあるMFJのパッチは、大津弁護士が命名したチームのものです。

レースには今も昔もまったく無縁な僕ですから場所が富士か筑波かの見分けもつきませんが、FZ400Rで練習にでも来た青ツナギ作業服姿の弁護士さんのセッティング中の姿をトランポから佐藤君と5月に亡くなった仲間が笑顔で見つめている写真が出てきました。
マシンはSP忠男さんに世話になったFZ400Rのようです。
その時の写真とはゼッケン番号が違うので別の場所、別の日だと思いますが1985年8月10日の日付で、そのバイクに跨らせてもらっている僕の写真もありました(笑)。サーキットには無縁な僕ですから、物珍しさで皆と一緒にサーキット見物についていったんだと思います。

(この項、続くかも)

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★追記1


僕がそのバイク乗りの弁護士さんと出会った頃は、まだ「ホークⅡ」に乗られていました。
僕は彼のエッセイを『ミスターバイク』誌の人気企画「男のジャーナル」で読んで、名前と事務所名と所有バイクのことだけはプロフィール欄でしっかり記憶していました。
そして、『ベストバイク』誌上で始まっていた高すぎるバイクの高速道路料金問題で、その時の記憶からその弁護士事務所にコンタクトを取りました。

その弁護士さんと出会った夜に港区西新橋にあった法律事務所を出て、夜の首都高を霞が関辺りから3号目黒線で戸越出口まで走ったような記憶がありますが、ホークⅡ相手に僕の腕ではZ400FXでも苦杯を舐めされました(笑)
どうやら僕はバイク乗りとしてのセンスは無さそうです(笑)免許取得者の平均以下どころではなかったのかも知れません。

でも、そのバイク弁護士さんは後に鈴鹿を意識してGSX400Rに乗り換えていましたし、鈴鹿用にSP忠男で購入したFZ400Rを用意していた記憶があります。そのレース用マシンは当時荏原に間借りしていたRH(ライディングハイ連絡会)の事務所のガレージ部に置かれていました。

一方、そのセカンドライダーだったと思われるYは街中ではRZ350やRG250ガンマといった2ストマシンばかりに乗っていたので、僕が乗っていたようなカワサキの4スト四気筒マシンにも当時はあまり興味がなかった気もします。
明け方、街中の緩やかな上り坂の左コーナーで僕の400FXを右後方からYがご自慢のRZ350で抜こうとして、そのまま派手に転倒して、僕の目の前に彼がコロコロと転がってきて危うく轢くところでした。大迷惑な奴です。いくら俺が下手で遅くても、その遅いオレを抜こうとして転倒しているようではその腕前も大したものです(笑)。

そういえば彼の鶴見のアパートの畳の上に、交通事故の慰謝料で買った中古のTZ250かなんかレーサーみたいなものがオブジェとして置かれていて、畳の上に置かれたそのマシンに跨ってご満悦だった記憶があります。今となっては懐かしい笑い話のひとつですかね。

※(この項、まだ続くかも)

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★追記2

書いていると、色々と思い出すことがある。

僕達、明治学院大・2輪通学者『井戸端会議』というバイクサークルというかバイク集団からは佐藤君という努力型の鈴鹿四時間耐久決勝完走レーサーを生んだのですが、上記の「ライダースクラブ」誌以外でも彼の記事がありました。
「新 我ら、10万kmクラブ」という連載で取り上げてもらったようです。

この「我ら、10万kmクラブ」というタイトルは「別冊モーターサイクリスト」誌の名物人気連載としてバイク界では広く知られていると思います。
書き手は松島健二さんです。松島さんといえば「ライダースクラブ」誌を立ち上げた編集長ですが、後に「別冊モーターサイクリスト」誌に移られて活躍されました。
その松島氏は“横浜ケンタウロス”の最初期メンバーとしても知られています。
道理で佐藤夫婦が“ケンタ”の松島さんとも既知の仲で年賀状のやりとりをしているので不思議に思ったら過去に松島氏から取材を受けていたという経緯があったんですね。

「新 我ら、10万kmクラブ」とも違う雑誌の別企画だったと思うけれど、佐藤家のガレージライフ取材で、僕や「井戸端会議」キャンプ隊長のAや、ハーレーY子嬢でお邪魔した時の雑誌のコピーも出てきたなぁ。

※注)この思い出しページはまだ続くかも…。

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★追記3

明学大『井戸端会議』佐藤くんによる鈴鹿四耐チャレンジへのカンパ活動の一環として実施した「井戸端古本市」のチラシが出てきました(笑)

2枚とも僕(小池)の字体ではないので、今年亡くなった上木くんと誰かの手によるチラシっぽい気がします。

鈴鹿四耐チャレンジの初期は東京目黒区育ちの佐藤君の高校時代からの地元の友人で体育会系大学の■田くんでした。思いだしましたぁ~(笑)。当時は彼ともよく会ったことありましたぁ~(笑)
彼はローソンレプリカに乗って伊豆や箱根を佐藤君と走りまわっていたと思います。


※)この思い出しページまだ続くかも…

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★追記4

1984年1月号の『ベストバイク』(以下BBと略す)です。
この号のBBジャーナルにて高すぎるバイクの高速料金体系の是正を意図して「バイク差別と闘うライディングハイ連絡会」(以下RH連絡会と略す)の結成報告がされ、即座に読売新聞の社会面に大きくスクープ記事が出ました。

このRH連絡会の結成日はBB誌の記事にもあるように1983年11月18日とあります。
読売新聞の記事は同年11月21日でした。

それに先立つといってもRH結成前日の11月17日に明治学院大『井戸端会議』とバイク乗り弁事士・大津氏とBB誌ライターの3者で話し合いが持たれました。
明学大メンバーには僕(小池)と先日亡くなった上木の顔も当然ながらありました。
その時の討論イベントのビラ(フライヤー)のコピーも出てきました。
会場の風景写真も1枚出てきました。大津弁事士、牧園ライター、明学大のバイク&音楽仲間たちの顔があります。この会場写真は後に毎日新聞から発行されていた『The Bike』誌のインタビュー記事でも使用されました。

さて、BB誌の記事が出て、暫くしてから部屋の電話がなりました。
顔見知りの他大学のYでした。
僕は夜学生なので昼間は会社員として働いてもいましたし、夜は大学にも顔を出しますし、職場では労働組合の活動もありましたし、大学では社会科学系サークルの部長、そして「井戸端会議」として大学側とバイクの通学権を巡って駐輪場の確保などを求めて交渉中と忙しい日々を送っていたので、Yのことなどすっかり忘れていました(笑)

Yが電話をかけてきた用件というのは、「俺、今、バイクで車とぶつかって入院しているんだけど、ベストバイクを読んでいたら、マルパー(小池のニックネーム)が出ていてビックリしたんだけど、なんで?それで病院の廊下にある公衆電話のところまでなんとか来て電話したわけ」という旨の電話でした。

考えてみると、RH結成の下準備もあって忙しかったので、他大学(といっても明学大がJR目黒駅が最寄りの駅とすれば、Yが通っていたR大はお隣の五反田駅が最寄りだったような気もしますが、僕はYの大学や活動には興味もないので彼のR大には1度も足を踏み入れたこともありませんでしたが…)のYのことなどすっかり忘れていましたが、気がついてみたら確かに暫く顔も見てないし、彼の噂話も近況も誰からも聞いてはいませんでした。
どうやら車とバイクの右直事故で大怪我をして、彼の電話での話では「カタヤマなんとか病院とかいう、プロのレーサーなどが入院する有名な病院」に随分と長いこと入院していたようでした。
彼の事故話も入院話も新左翼系セクトの連中からも耳にしてはいませんでした。
基本的に彼は僕に用事があっても、僕は彼に用事がないというのが昔からの凡その関係性でした。

僕がBB誌に登場してRH連絡会の事務局長になったことも「なんで君がバイク雑誌に出ているの?どうして?」といったまったく事情も何も知らない調子だったので、BB誌で何号か前から連続的に高速道路料金でキャンペーンを張ってきたのもYはまったく気がついていなかったか、興味や関心がなかったのかと思いました。

今になって振り返って考えてみると、Yが僕の姿を見たBB誌1月号の巻頭特集は「新春バリバリ大放談」と称して、Yの大好きなマンガ『あいつとララバイ』と『バリバリ伝説』の両作者である楠みちはるさんとしげの秀一さんが登場していました。両作品とも「少年マガジン」連載作品ですからここがBB誌が講談社系のバイク雑誌という強味でもありました。
恐らくですが、Yはたまたま入院中に、大好きな漫画家さんの対談(鼎談?)企画に釣られてBB誌をGFにでも頼んで買ってきてもらったらそこに僕の姿があったので驚いて入院先の病院から僕のアパートに電話をしてきたんだろうと思います。

崇高で孤高な「革命家」気取りのYからしたら、下世話な料金問題や通学問題などに明け暮れる僕達のことなど小馬鹿にしていたのかもしれません。
Yがセクトの幹部に「マルパー(小池)は、学園主義者で大学という地域に固執してサークルや民主化闘争みたいなことに明け暮れているが、あれは大衆運動に溶解していくだけだ」みたいな異議を申し立てしていた風な噂も当時耳にしていたような気もしましたが、そんな批判は僕は気にも留めてもいませんでした(笑)
逆にセクトの機関紙のようなものに「井戸端会議」のコラムやバイクネタのスペースも貰っていたくらいで、セクト幹部からは面白がられていた気がします(笑)

BB誌が連続的に高速道路問題でキャンペーンを張っている姿に「これは何か近々アクションがあるな」と思って僕は注視していました。
よく読み込めば、これを仕掛けている人物は、横浜ケンタウロスと組んで「ミスターバイク」誌で横浜新道の2人乗り禁止規制の撤廃に奔走した面子でもありました。
大津弁護士に関しては「ミスターバイク」誌でのコラムや論文などで気になっていたので、所属事務所名をおぼえていたこともあり手紙を出したら、すぐに「今日、会えるか?」と会社に電話がありました。

Yはバイク事故で入院中だったようですが、僕が大学の通学問題で『井戸端会議』を結成して、ツーリング等も含めて活動していた時も興味がなかったのか、バイクでもなかったのか今になって思うと初期の『井戸端会議』の場では顔を見た記憶がありません。そもそも他大学の生徒ですし、僕以外の明学大のバイクメンバーとの接点もなかったように思います。

※注)この思い出しページはまだ続くのかも…

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★追記5

本人から電話をもらったことで初めて顔見知りYがバイク事故入院中と知った僕ですが、彼の話を聞いていると事故の示談で相手側と揉めていて随分と旗色が悪そうで弁護士でも紹介して欲しそうな話だったので、バイク雑誌では知られた存在であった大津弁護士をYに紹介して、優秀な弁護士でもあったので無事に示談も無事成立し、相手側から慰謝料も取ってもらいました。
40年も昔の話ですし、僕は当事者でもないので慰謝料の額が500万円だったのか250万円だったかは記憶もありませんが、学生だったYにしてはかなりの大金だったと思います。額の記憶に自信はないけど500万円くらいだったのかもな。

後年、その大金の使い道を僕と先日亡くなった上木とでYに冗談半分で質したことがありました。
例えば慰謝料の半分の250万円で中古のTZ250を購入したとすれば「聞いた?こいつさぁ~乗りもしないレーサーを買って部屋の置物か飾りにしちゃってさぁ~、あとの残り半分の金は(ファミレスとかでご飯食べて)全部ウンコにしちゃったんだってよぁ~。こいつほんとバカだぜ。『全部ウンコになっちゃいましただぁ~』だってよ。面白すぎて腹痛いわ。息苦しくて死ぬわ」と大笑いしたものでした(笑)
そんなことさえも今となっては懐かしい思い出だなぁ~。


結局、僕個人は慰謝料で購入した中古のTZが走る姿は残念ながら拝見しておりません。
鶴見区の交番前のアパートの畳部屋だったと思うけれど、室内に置かれたレーサーに彼が跨って「これね、ここのスイッチを押すとね…凄いでしょ?」と、そもそもレーサーにも興味もないし、メカ音痴の僕に向かって何やらバッテリーで駆動する可変な機構を自慢していました。
彼がハンドル周りのスイッチを入れると微かに「ウィ~ン、ウィ~ン」と音がしていた気がしますが、そんなことを繰り返してバッテリーでも尽きてしまったのか作動しなくなって飽きてしまったようでした(笑)

中古購入当初からアパート室内のオブジェと化していた中古TZですが、その後の末路は1年くらい前に聞いた話ではYの知人実家で野ざらし状態で苔むしているとかいないとからしいです。
引っ越し等で部屋に置いておけなくなったのかもしれません。結婚したYが早稲田大学の大隈講堂近くのアパートに住んでいた頃は、二階の部屋だったと思うし、狭そうな階段だった印象もあり室内にTZを持ち込めない段階で実家暮らしの知人にお願いして一軒家の庭の隅に置かせてもらったのかもしれません。

全ては懐かしい笑い話です。

※注)この思い出しページはまだ続くかも…

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★追記6

僕はバイクに関しては遅れてきた1人で、初めての免許取得は田舎から上京して1979年に芝浦で働きはじめてから中型免許を品川教習所に通って取得しています。

僕はローンで25万円くらいで購入した中古のZ400FXが最初のバイクですが、Yと何時どんな場所で知り合ったのか最初の出会いの記憶はないのですが、気がつけば彼はRZ350に乗っていました。

RZ350って1981年発売でしょうし、彼のは新車っぽかった綺麗な印象があります。Yの過去のバイク車歴のことは実は知らないのです。
RZ350以前のバイクのことは学生時代には彼から聞いた記憶はありません。
そういえば、この時代は池沢さとしの「街道レーサーGO!」って少年ジャンプ掲載の漫画で“青い流れ星”とかいう主人公がRZ350で活躍していた内容だった気がするのでその影響で買ったのかなぁ?(苦笑)

そもそもYの通っていた大学は分離キャンパスとかで1~2年時は埼玉県の熊谷にキャンパスがあったそうで、田舎から上京した僕には当時は熊谷の位置も距離感もイメージさえありませんでした。

Yはよく、自分は昔はCRS連合の「スペクター」にいたと話していました。どの地域の支部なのかまでは僕はおぼえていません。「ナンパぺクター」とも表現していました。そのCRSかスペクターの1員として「ZERO」に呼ばれたとかなんとかで大井ふ頭の集会で逮捕されたか補導されたとか学生時代に話していました。
でも学生時代にYから「こいつ昔の暴走族時代の仲間な」とバイク乗りとか友人っぽいのを紹介されたことはありませんでした。

RH連絡会としては、1名でも多くの原告団を求めて活動していたので、「昔の暴走族仲間だけど、こいつら全員原告に加わってくれるからよ」と紹介してくれれば少しでも助かったと思うけれど、そんな話はなかったなぁ~。
明学大の「井戸端会議」にも元「ブラッ■■■■■■」って直管マフラーぶった切りの仲間Eはいたしね(笑)
Yが参加していたとされる大井埠頭の集会が1977年9月17日の有名な大井埠頭乱闘事件のことなのかも僕にはわかりません。

Yのブログ(パンセ?)を読んでいて不思議に思うのは、僕が知らないだけとか、僕の記憶がないだけとか、僕が完全に忘れているだけなのかもしれませんが、初めて聞くような話がやたら多いことに驚かされます。
例えば、鶴見のアパート暮らしの時にお隣に仲良しのK応大生でZ400FX乗りがいたみたいな話があった気がしますが、僕には初耳でした。
僕と同じバイクに乗ってる奴がYの友人にいれば紹介してくれても好いものをという気がします。
まして、原告団集めに奔走していた私たちですから、同じアパートに他大学であってもバイク乗りがいて話ができる関係なら、せめて原告団に参加してもらうとか、各種のRH連絡会の集会や集団走行イベントに誘うなり、そのFX乗りを起点にK応大でも仲間集めに協力してくれるような方向性の取り組みや提案があってもしかるべきだと思うのですが、少なくともYから「俺と同じアパートにK応大生でマルパーと同じFX乗りがいてさ、原告団に参加してもらおうと思うんだけど…」みたいな報告を受けた記憶が僕にはないのです。忘れているだけなのかなぁ~。
そういった意味ではYのパンセでは「バイク乗りの従兄弟」ってのも登場しますが、彼の親戚縁者でバイク乗りの方を学生時代に紹介されたり、そんな存在に触れて「こんど、従兄弟もバイクに乗ってるから話を持ちかけてみるよ」といった話題を僕は記憶していないんだよね。聞き逃したり、1人1人の原告の顔や名前までは把握できていなかったと思うけれど、集団走行やバイクデモのような勝負時のイベントの動員力として「俺の従兄弟も連れてきたぜい」なんて心強いアピールの記憶はないんだよね。いつも同棲中の小柄な女性とは一緒に顔を出していてのは記憶しているけどさ。

僕のような田舎から上京した組とは違って、Yは東京とは馴染の深い生活を子供の頃から送っていたようなのに、不思議と昔からの友達ってのを紹介してくれたケースの記憶が僕にはないんだよね。

例えば明学大「井戸端会議」では、亡くなった上木君は練馬育ちだから高校時代からのバイク仲間のHやIやYとかも明学生でもないけれど僕らは仲間として受けいれて大切な「井戸端会議」メンバーとしていつも一緒に遊んでいました。
鈴鹿四時間耐久レースを完走しきった佐藤君にしても目黒区出身で、子供の頃は野球少年としてリトルリーグで活躍していたようですし、地元にバイク乗りに限らず様々な業種の幼馴染や友達がいるのを僕はよく知っています。東京出身の子達って、東京が地元で故郷だから友達の数には圧倒的に恵まれていた印象がありますし、そういった方たちの力も僕らは借りて活動を大きくしていました。でも不思議とYの場合はGFだけしか紹介してくれなかったよなぁ~。

まぁ、全ては懐かしい昔話だな。みんな楽しかったね。

※このページ、まだ続くかも?

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★追記7

そういえば、生前の“横浜ケンタウロス”のボスから、いつだったか忘れましたが、こんな件で電話があったことがありました。

ボスからは時々「おう、小池、元気でやってるか?そうかそうか、たまには顔出せや」みたいな電話は貰ってはいました。

でも、その時に聞かれたのは「お主…2チャン?…2チャンネルとかそんなのをやってるか?」という問いかけでした。

僕も職業柄「2ちゃんねる」という匿名掲示板の存在は知ってはいましたが、匿名の世界には用事もないので閲覧したりする機会もありませんでした。
まして投稿することなどの行為は現在に至るまで一度もありません。

なので、ボスの問いに「僕は“2ちゃんねる”というサイトには一切かかわっていませんが、何かありましたか?」と切り返すと「そうか、それならいい…」とその話題はそこで終わりました。

僕もその電話は「今のボスの電話って、なんだったんだろう?」と怪訝に思っていました。

今になって色々と考えてみると、もしかして「2ちゃんねる」の世界で、ある人物が自らのことをいかにも横浜ケンタウロスの関係者のように吹聴したり装っていたとします。
そして、その人物が僕(小池)との関係に触れていたりすれば、その偽物ケンタウロスが僕の関係者と疑われる可能性はあります。
もしかすると、そんな「2ちゃんねる」上の投稿を目にした本物のケンタウロス関係者が、問題の投稿主を僕(小池)本人と勘違いして疑いが生じた可能性があります。
そうなれば、メンバーからはボスに「何やら小池と思われる奴が組織のことで適当なことを抜かしていますが…」と報告が上がるでしょうし、それでボスが確認のために僕に直電してきた理由も納得が出来ます。

今になってはボスも不在ですし、そんなささいな一件などボスも忘れているでしょうし、その後は問いかけはなかったので僕の疑いは晴れていたとは思いますしね。

僕は「2ちゃんねる」の住民ではないのですが、もう何年前か忘れたけれど、かなり前に慌てた様子でYから電話がありました。

その内容は「今ね、質の悪い連中に地元でちょっと絡まれていてさ、バイク関係なんだけど、君(小池)に迷惑はかからないとは思うんだけど、ちょっと身辺とか変な奴がいないか暫く気をつけてね」という穏やかでない内容だったので「ちょっと待てよ。それ何の話なんだよ。災いがかかるだと?俺が何かやったのか?そんな覚えないぞ。そもそも知り合いでもない誰が俺のヤサとか電話番号とかわかるんだよ。ところでお前さ、何やらかしたんだよ。こっちだって家族がいるし生活があるし、お前が何かやらかしたことで、関係ないこっちが身辺に気をつけてくれよなんて、ふざけんじゃねえぞ。何だって?今もお前の会社の前のラーメン屋にハイエースで来た人相の悪そうな奴らが何人かで様子をうかがっているから会社から出られないだと?それってお前の思い込みで、ラーメン屋に食事に来ただけのその辺の工務店の兄ちゃんたちじゃなくて?明らかに怪しいって?そんなら警察呼べよ。お前の身辺に危険があるなら警察に頼めよ。その為の警察だろ」といった旨のことを言い返したと思います。

その時、彼から話を聞いていて「これは“2ちゃんねる”とかの掲示板で何かこいつが書き込んで遊んでやがるな」と初めて気がつきました。
そこで「君さ、その“2ちゃんねる”とかで不用意に発言したり、そのネットの世界というか俺にはよくわからない世界だけどそこに安易に深くかかわらない方がいいと思うよ」と苦言を呈すると「俺、そんなことしてないよ。1回だって“2ちゃん”にカキコミなんてしてないよ。信じてくれよ。アッチの連中が勝手に絡んでくるだけでさ」と言い訳してはいましたが、「こいつ、酔っぱらって気が大きくなった拍子に得意げに何か書き込んで誰かの反感をかったな」と僕は直感的には感じました。
なんとなく彼のブログでかなりの酒飲みだとは知っていましたし、逆に僕は1年間通してアルコールの類を口にするのは正月とか特別な数回程度という生活です。下戸というわけではありませんが、酒にかなり弱い類です。

とにかく、僕は何もしたおぼえがないのに、突然電話してきて「悪いけど、身辺気をつけてね」では、たまったものではありません。大迷惑で、そんなこと言われて日は一日不愉快でなりませんでした。
てめぇがやらかした不始末なら、てめぇで自分のケツくらい拭けよという話です(笑)
もしかすると僕の名前でも出して相手側に虚勢でも張ったのかと思いました。
それこそ大迷惑な話です。

それだけではありませんが、他にも色々と彼とはありまして、もう随分と前から彼とは絶縁というか絶交状態ですし、最近も本年5月末に亡くなった大学時代の友人を偲んでの昔の仲間というかRH連絡会有志で舞鶴半島にツーリングを兼ねて出かけた際に彼からも参加を願う連絡がありましたが、丁重にお断りしたので大層と憤慨されておられました。
とはいえ、気心のしれた仲間内での小規模な飯会的な集まりですし、亡くなった仲間を偲んで気持ちよく集まり、お互い穏やかに過ごしたいだけなので、僕の判断で彼の参加はお断りして、当日に連絡のあった経緯も含めて皆にも報告もさせてもらいましたが、誰からも僕の判断への異議は出ませんでした。
「いいんじゃない。マルパー(小池)の判断で」ということでした。
その時の様子は簡単には下記に記してあります。


▼仲間の死が40年も昔のバイク仲間と引き合わせてくれました。2025年7月22日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e10050014.html


さてと、明日(13日)はやや雨模様で天候も不安定っぽいけれど神奈川県内で創設61年目となるMC『KENTAUROS』の恒例のサマーパーティー開催が先程決行とアナウンスがあったので、参加費も事前に振り込んであるので、本日(12日)の『ミスターバイクBG』10月号等を携えてボスの霊前報告だけでも顔を出してこようと思っています。
ちょうど同誌での僕の連載も20回目という節目ですし、ケンタウロスの昔から変わらぬ溜り場というかアジトのような横浜中華街のジャズ喫茶『ミントンハウス』の風景も掲載されたドイツで刊行された写真集「TOKYO JAZZ JOINT 」待望の日本語版が先日刊行されたばかりなのでそんな資料も持参しながら諸々とボスの霊前にて報告してくるつもりです。
朝から雷雨だったら危険だからバイク参加はパスかな?(笑)

まぁ、振り返ってみれば色々と昔は楽しかったよ。

※この振り返りページ、まだ続くのかも…

≪ご参考までに≫

横浜の老舗MC「ケンタウロス」とは劇画『ケンタウロスの伝説』等にも“600マイルブレンド”のシーンとしても登場するなど何かと昔から所縁の深いジャズ喫茶『ミントンハウス』の最近の話題を投稿してみました。

▼単車倶楽部 ~みんなのライダースVOICE!~
小池延幸 2025年9月11日付
https://www.facebook.com/koike.nobuyuki.92/posts/pfbid035oTZFq4PHcA9JmX2eoBXdCgAERMufVdmDnobbSr52v6rZfW1fhetK4H2uPLXie8wl

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★追記8

2019年の春、明学大『井戸端会議』の後継バイクサークル『H&L』メンバーR君を急性の病で失いました。
恐らく1番ショックを受けたのはRを弟のように可愛がっていたし、仕事も一緒だったUだと思います。

R君とのお別れの会は各地から『井戸端会議』周辺の明学生OBやR君と交友関係のあった皆さんが60名くらいは集まってくれたと思います。
挨拶に立った呼びかけ役のUは突然のようなR君の死に悔しくて涙で声が詰まって喋れないくらいで、仲間達に崩れ落ちそうな身体を支えられながらの挨拶でした。

そのUが、僕に「あのさ、マルパーさんだけには言っておくけど、一応Yにも今日の集まりのことは連絡だけはしたのよ。ところがよ、あの野郎、何を勘違いしたのか、Rが死んでコッチは辛くて辛くてしょうがねぇのに『ねぇねぇ、誰と誰が来るの?』とか久々に連絡もらって嬉しかったのか妙に調子こきやがって、頭にきたから『お前なんか来なくていい!来るな!』って腹立って電話切っちゃたのよ」と言うので「それでいいんじゃない。Yは相変わらずだな。俺も絶交してるしさ」というやりとりがありました。

どうやらYは親友の死で打ちのめされながらも幹事として連絡役をかって出て奔走していたUの気持ちを察するよりも、電話をもらった嬉しさのあまり興奮してハイになっていたとしか思えない話でした。

これ以前からも僕とUの間ではYに関して長電話でお互いの見解を突き合わせて「まぁ、Yの変貌や現状はそうゆうことなんだろうな」という意見や判断の一致をみていました。

だから、その後もYがブログ(パンセ?)上ではUと血盟の同士とか盟友として連絡を取り合っていたような発言というのは僕には少し解せない気がしてなりません。

そのUが自宅で息を引き取った際、すぐに奥さんから僕と『井戸端会議』のHには悲痛な「先程、主人が息を引き取りました」旨の連絡が入りましたし、それを受けて葬儀日程が決まった段階で僕もSNSで日時や斎場の情報をアップした記憶があります。

YにはUの葬儀日程の情報を誰も連絡はしていないはずなので、恐らく彼は僕のFacebook上から斎場を把握して弔電を送ってきたものと思われます。

僕に対する的外れで事実誤認だらけの批判にいちいち目くじらを立てる気もしないので「どうぞ気が済むまでご存分、ご自由に」なのですが、そんなに深い心の友だったのなら、葬儀にはRH連絡会の二代目事務局長S氏も参列していましたし、僕とS氏は普通に接することは出来ていますし、RH連絡会の中で僕がそんなに浮いているとも思えないのですけどね。Uを偲んでの舞鶴ツーリングでも二代目事務局長のS氏とも弁護士さんともみんな仲良く笑顔で再会を約しているんですけどね。

後輩Rの死を悼んで明学関係者が集まった時の簡易報告は下記にあります。
この時も幹事から一応は連絡をもらったものの電話中にそのチャラチャラと浮ついた態度から反感をかって「お前は来なくていい」とばかりに出席を断れたのがYです。

▼友よ 安らかに 眠れ
2019年4月30日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e8432476.html

今回、その時の幹事役のUまでをも病気で失ったのですが、葬儀と際に喪主様から僕は「マルパーさん、写真をお願いします」と頼まれたりもしましたし、撮影データーは後日、その後の“偲ぶ会”の写真も合わせて喪主様にお届けしました。
実はUの病状も家族同士で食事をした際に本人から聞いていました。亡くなる約1年前のことでした。
その時点ではとても重い病気を患っている風にも見えない相変わらずの颯爽とした格好良さと元気さで、僕も「あいつのことだからこれなら大丈夫かな」と安心した次第です。その時にUから「マルパーさんならコレ要るかなと思ってさ…」と昔の「ミスターバイク」誌のバックナンバーを段ボール1箱譲り受けました。

Yの記述では、大層と僕がUから嫌われているような感じも受けましたが、僕とUとは明学大『井戸端会議』サークルの立ち上げから、RH連絡会の準備段階から一緒にやってきた者同士ですから色々と細かい行き違いやお互いの時々の事情はあったにせよその関係性や絶対的な信頼感には揺るがないものがあったと僕は思っています。
まぁ、「まったくマルパーさんにも困ったもんだよな」くらいは常に皆に思われていたのも事実ではありますし、僕の気まぐれぶりに皆が毎回毎回振り回されてもいましたから、反感というほどではないとは思いますが皆に大迷惑をかけ続けてきたとは自覚して反省くらいはしてますけどね(苦笑)

※この振り返りページ、まだ続くのかも…

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★追記9

とあるブログ状のサイトの本年7月5日の記述で「天網恢恢、疎にして漏らさず(老子)」というものがありました。
その言葉の意味は「悪事を働いた者は、一時的には隠れていても、必ず天罰を受ける。網の目が粗くとも、天は決して見逃さない。」という教えだそうです。
これは僕への批判なのかなとは思いました。

その後の記述として「先日、40年以上前からのつきあいの今は私とは遠く離れた地に住む人と近況連絡の電話で話をしている時、この言を口にされた。天の道を説く老子の言葉だ。今も大昔と変わらぬ電話口の声の人は私の11才上の人だ。今は二輪を降りているが、元
二輪乗り。昔、苦楽を共にした仲だ。その人の子も含めて、私の妻も交じえての深いつながりの人だった。ここでも論語と対となる老子が出て来たかと、ふと懐かし
い思いがした。先日亡くなった友も、老子についても私にいろいろ熱く語っていたのを今思い出す。」と続いていました。

書き手のブログ主が「40年以上前からのつきあいのある」誰と近況連絡の電話で話をしたのかは僕にはわかりません。
でも、僕の知り合いにも、1959年生まれの僕より10歳年上で、40年程前からの知り合いで、弁護士のお子さんがいて、現在はバイクを降りている知り合いがいます。
もしかして、その方のことなのかと思いました。
そこで先日の大学時代の仲間を偲んでの舞鶴ツーリングで弁護士先生にお会いした時に「ところで、最近、Yと電話で話なんかしました?なんかソレっぽいことを彼が最近ブログで匂わせていたので…」と質問してみると「なんで俺がアイツと電話で話なんかしなくちゃいけないんだ。そもそも俺がアイツを首にしたんだぞ」と憤慨して、解雇した理由の幾つかを皆の前で話してくれました。

どうやら僕の勘違いで、渓流詩人さんが「40年以上前からのつきあいのある」方に近況報告をした相手は僕の知っている弁護士さんではなかったようです。
その弁護士さんからすれば、Yとは電話連絡など取っていないと申しておりましたので…。

実は学生時代に、僕はその弁護士さんに「マルパーよ、俺のところ(=弁護士事務所)で(秘書として)働かないか?」と誘われてことがありました。
でも僕は「Oさんとは、バイク乗りの仲間としてこれからもいたいので、弁護士と秘書という上下関係というか雇用関係になってしまうと、これまでの友達のような感じではいられなくなる気がしますので、お誘いは本当にありがたいのですが、お断りさせてください」と返事をした覚えがあります。

このページ、まだ続くかも?

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★追記10

僕は今、ある人物にかけてあげたい言葉があります。

それは「今、君の周りに昔の仲間や友達はいますか?」
という静かな問いです。

もし、今、貴方の周りに昔からのバイク遊び仲間等がいないのならば、その原因を胸に手をあてて一度考えてみて欲しいと思います。
毒ばかりあたりかまわず吐き散らしていたら、そんな風になってしまうのではないでしょうか?
身の丈に合った内容というか、実際に自らの行為(ツーリング等)を書いているだけならそんなに他人から非難されることもないと僕は思います。


現在僕らは仕事もあれば家族との生活等々もあり、学生時代のように自由に使える時間もなく、まして毎日たむろしていたような明学大学生会館の部室(サークルBOX)やRH連絡会の事務所があるわけでもないので、昔のように日常的に顔を合わす機会はありません。

皮肉なことにこの年齢になってきて「誰かの葬式とかないと改めて顔を合わさない現実ってのもちょっと悲しいよな」という言葉を学生時代からの仲間達と交わす始末です。
旧交を温め合う機会が仲間の死に伴う「偲ぶ会」的な集まりになってしまっています。
それでも、悲しいことではあるけれど、そんなことがあれば皆自主的に動いてくれます。
本年6月2日のUの告別式にしても、斎場に着いたら受付等の一切合切を明学大のHを筆頭に朝早くからご遺族の下で仕切っていてくれました。

不思議だったのは、君がどうやってUの告別式に弔電を送れたのかということです。
どなたか昔の仲間から葬儀日程の情報が届いたのでしょうか?
僕は訃報を5月28日当日に奥様からのショートメールで知り、詳細がわかった段階で30日に仲間達に向けて情報発信をしました。

▼小池のFacebook
2025年5月30日付
訃報と葬儀・告別式のお知らせ
https://www.facebook.com/koike.nobuyuki.92/posts/pfbid0ZPcGnhnwyj9LqUx16NyHT3vfTzMxK1zEGMqAusp2LAmEDYP6yUQdrD87pSes7RtNl

君は僕の発信以外の別ルートから葬儀の詳細を聞きつけて弔電を送ってくれたのでしょうか?
現段階で僕の把握している範囲では「告別式の時間や場所をあいつにも教えておいたよ」という仲間には出会っていません。
そもそも君の電話番号や、まして偽名「■崎■」でのフェイスブック登録の所在を知っているような人間は「井戸端会議」関係者では亡くなった仲間を覗けば僕くらいしか連絡ルートはないと思います。

ネット世界にはまったく疎い僕ですから、フェイスブックは実名で登録するものとばかり信じていて僕は「小池延幸」という本名で通しているので、最初「■崎■」という漢字3文字の名前のような人物(プロフィール写真はハリウッド映画主演の子役写真でした)が頻繁に僕のサイトを覗きに来ているのでずっと彼とは気がつかず「誰なんだろう?」と不審に思っていたくらいです。

本年6月28日にも、明学大「井戸端会議」系のOBで亡くなった友を偲んで集まりました。
勿論ですが、この集まりにも君への声かけはしていませんし、僕はお呼びする気もありませんでしたが、君が参加を希望しているのではないかとか、場所や開催日時を他人を使ってどうも聞き出そうとしているのではないかという話は僕にも伝わってきてはいました。

僕のような小心者には呼ばれてもいないor歓迎されてもいないような場に出向く勇気はありません。


▼小池のフェイスブック 2025年7月6日付
https://www.facebook.com/koike.nobuyuki.92/posts/pfbid0TzHU61pSeZdyZaATk3ei6c5Uxbkgyaj12MV5kNrZFe3npWYd7F95b1QCmCs1J9xrl


そういえば、僕達明学大「井戸端会議」は夜学生が中心でしたが、お隣のようなR大の君は昼間部の学生だったと思います。
夜間部の僕達は、僕にしても昼間は芝浦で会社員をしていましたし、他のメンバーもアルバイトであっても何らかの仕事を持って働いていました。
でも、学生時代に君がアルバイトをしていたような話は僕の記憶の範囲ではないんですよね。
まぁ、熊谷キャンパス時代の君の学生生活など見たことないので僕が知らないだけかもしれませんし、40年の昔のことなので僕がすっかり忘れているだけなのかもしれませんが、少なくとも僕の記憶にはアルバイトで汗を流しているイメージはなかったなぁ。

このページ、まだ続くかも?

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★追記11

話は変わりますが、とあるブログ(パンセ?)で、マスメディアで働く誰かのことを何度か「売文屋」呼ばわりしている記述があった気がします。
それはそれで僕のような大半のフリーライターなんて実体的にはそんなものですし、ジャーナリズムなりジャーナリストを心掛けたとしても現実はなかなか自分の意に沿った記事など数多のフリーライターが書かせてもらっているとは思えない厳しい現実があるので「売文屋」と言われても構わないのです。

ところが、その見下した「売文屋」の僕に昔、電話してきた奴がいます。
「あのさ、俺の知り合いの高校生(注:中学生と言ったかも…かなり昔のことなので記憶が曖昧ですいません)で、九州の子なんだけど、凄く速いレーサーなのよ。君の雑誌で取り上げてくれないかな?」という旨の内容でした。

こういったネタというのかプランというのは、長いこと週刊誌の取材記者をしていれば過去に仕事をしたことのある方や芸能事務所の方からお願い的な連絡は貰うことはあります。でも、直電前に普通はFAXやメール等でプレスリリースを貰うことが大半というか一般的です。

「親しき仲にも礼儀あり」という言葉がありますが、電話1本で「俺の知り合いで凄い奴がいるんだけど、雑誌に載せてよ」的な軽いというか雑なお願いには僕としては「随分とコッチの雑誌も軽く見られたもんだな。そりゃ、大した雑誌じゃないのはわかるけどさ、それでもなんだかなぁ~。ちょっと失礼だよな。」といった気分でした。
いきなりの電話での要請というか依頼ですから、そもそも具体的な資料もないのです。昔のようにバイクのレースや活躍するレーサーの話が週刊誌にも掲載されていたようなバイクブームの時代とは違います。僕の記憶で思い起こしても最近本誌でバイクレースの記事が掲載された記憶がないのです。ましてどうもプロではないアマチュアの方ですし、どんな成績なのかもわかりませんし、どれくらい地元の九州で人気になっていて、地元メディアで取り上げられているのかも電話してきた主の話ではわからないので「その少年の記事はうちでは無理だと思うよ」とお断りしました。

電話を切ったあとで、もしかしてこれは彼が「俺の学生時代の仲間で東京で週刊誌の記者をしている奴がいるから、電話して雑誌に載せてもらえるように電話でもしておくよ」と安請け合いした手前から電話してきたのかなぁ~とも思いました。

この頁、続くのかも…

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★追記12

僕は25歳の頃から約40年間、フリーランスとして週刊誌の取材記者経験があります。

僕がその業界に入るきっかけはRH連絡会が関係しています。
夜間部の大学に学籍を置きながら会社員をしていましたが、裁判闘争の準備で明け暮れるあまり、睡眠時間さえ満足にとれなくなり、アパートに帰る時間さえない日も続出していました。
夜中にRH連絡会の事務所や大学の学生会館から職場にバイクで向かい、ロッカー室の床の寝袋にくるまって数時間仮眠して仕事なんて日も度々ありました。

危険を伴う仕事なので、寝不足では職場の仲間に迷惑をかけますし、怪我もしたくないので、19歳からアルバイトで入った会社を辞めて、バイク用ヘルメットの下請け工場のアルバイトを経て、当時は西麻布にあった求人誌編集部の原稿運びのアルバイトをしていました。

版下屋さんに原稿を運んだり、版下を引き上げてきたり、凸版印刷に運んだり、時には「写真失敗したから、編集部のキャノンAE-1って君使えるかな?キャノンの一眼レフなら持ってるからなんとなくわかるって。そりゃいいや。急ぎで六本木のこの店に行って写真撮ってきてくれないかな。事情はオーナーに電話しておくから」と野暮用を頼まれたり、「この巻頭の2ページだけど頼んでいた奴の原稿が間に合わなくて、タイトルは僕が今から書くから、タイトルに合わせて記事は君が埋めるって明日までならできる?」とピンチヒッターに起用されたり、挙句に連載のコラム記事まで貰っていました。原稿運びバイク屋がすっかり編集部のお手伝い役になっていました。これが1986年の春のことでした。

その頃、貧乏なRH連絡会は古書業者と編集プロダクションと同居させてもらっていました。
その編プロの代表Nさんは新聞社でグラフ氏誌や週刊誌畑を歩いてこられましたが、1983年に独立して月刊誌「ぺ■■■・ク■■■■■」を創刊し、翌年自らの編プロを設立されていました。
たまたま僕はNさんが創刊されたその月刊誌の読者でもありました。

RH事務所内でリースしていたワープロ機のお隣の席がNさんだったので、ビラなどが出来上がるとN編集長に「こんなことやっているんですよ」と渡していました。

ある時、Nさんから「君、これだけ書けるなら何か仕事でも紹介しようか?そういえば、新たに創刊予定の雑誌があってスタッフを欲しがっていたはずだよ」と声をかけてもらいました。
前述したように、その頃はバイクで「週刊求人ニュース」の原稿運びをしながら、同誌のバラエティーページで「マルパー君のお江戸めぐり!」というコラム等を担当していました。

Nさんが紹介してくれたのは講談社系のスコラ社が新たにモノマガジンのような情報誌アクセル(仮)の創刊準備話でした。
ただし条件として撮影時の移動用に大型バイク免許や普通自動車免許が必要だったのでパスさせてもらいました。実は内心ではカタログ誌的なものにはあまり興味もなかった気もします。

次に出た話が創刊間もない写真週刊誌スタッフでした。
具体的なことは不明なので、アポ入れしてT編集長に面接してもらい、「タレントの尾行ってバイクで可能ですか?」と初めて僕に要求されている仕事内容を知りました。

この辺の僕が写真週刊誌のスタッフに採用されていく経緯をYのブログ(パンセ?)上で、何度か記述があったように思われます。
でも、僕が彼から写真誌の仕事を譲ってもらったような記憶が少なくとも僕にはないのです。

最近の2025年9月13日付のYの記事(?)の文中でも「私は学生の頃、某有名ジャーナルの元編集長からの斡
旋で、当時販売部数が飛躍的に伸びていた写真週刊誌に新たに参入する大手出版社編集部に就職を紹介された。だが、私は人の不幸やスキャンダルを執拗に追って暴
いて曝して晒す為に売文をしたくない、と折角の元編
集長の紹介だったが、辞退した。私への紹介斡旋の話を某編集室においてたまたま横で聴いていた私と同組織に属していた当時の学生仲間が、「今の○○(私)への話、私にいただけませんか」と私の辞退直後にその場で直に申
し入れて、その編集部に正社員として就職し、永年勤
続したようだ。」とありましたが、そもそも正社員とかの募集でもなんでもなく、あくまでフリーの記者募集でしたし、記者経験のない学生風情を最初からフリーとはいえ専属の記者採用するはずもなく、実績のない僕は最初は「特派記者」という肩書で、フルタイムではなく、スポットで仕事があったら呼ばれる感じで、暫くは求人誌の編集部にもお世話になっていました。
そして写真週刊誌の仕事を1本1本こなしていく過程で、戦力として認められ、2年後にはフルタイムの「契約記者」として採用されましたが、待遇は不安定なフリーの身であることに変わりはなく、Yが書いているような「正社員として就職し」という下りは実態とはまったく違う内容です。


それに僕は面接して初めて仕事内容がバイクによる尾行と僕も紹介者の方も知った次第です。
写真週刊誌というものは秘密のヴェールに覆われた部分も多いし、マスコミとの接触というか取材を受ける機会はRH連絡会の初代事務局長として多かったとはいえ、その世界に飛び込んでみないことにはわからないことだらけでした。

そんな最初の仕事の様子は、たまたま1985年8月頃のある日のシーンだったような気もしますが、週刊プレイボーイ誌の巻頭グラビアに僕とGPz400の姿があります。

▼単車倶楽部 ~みんなのライダースVOICE!~
小池延幸 2024年3月28日付投稿
自分探しの旅?まさかの終活か?(笑)
https://www.facebook.com/groups/2055223358044398/?multi_permalinks=3768765200023530&hoisted_section_header_type=recently_seen

この稼業は、基本的なバイクの腕前と、冷静な判断力も要求されますが、何よりも大切なのは時間や約束厳守です。取材はチームで動くことの方が多いので、決められた時間から一緒に動きださないと失敗する原因ともなります。
実は僕のよく知る人物は学生時代から時間にかなりルーズでした。
僕らの学生時代は携帯もない時代ですから約束した時間に相手が来なくてもひたすらその場で待ち続けるしかない場合もありました。アパートの部屋に黒電話さえ引いていない友達の方が多かったかもしれません。
僕のよく知る人物とお昼に渋谷で待ち合わせして、そいつが「ごめんごめんだす、二度寝してしまったどす」とやってきたのは夕方だったという笑えない話を聞いたことがあります。
僕たちは夜間部の学生なのでバイトや仕事をしていたので、遅刻とかは何かと不味いのはわかっているのでシビアに捉えていますが、仮にアルバイトもせずにダラダラと過ごしている生活だとしたら、生活態度からしてだらしなくて遅刻が常態化していても不思議ではなかったかもしれません。
実際、その人物の口癖は「自国帝国主義打倒」に引っ掛けて「時刻定刻主義打倒」と抜かしていたくらいでした。
そのギャグのセンスは認めますが、約束事が安心して出来ない相手というのは一緒に何かやろうとした際にはかなり厄介な存在です。
とても彼に務まるほどフリーの週刊誌記者の仕事や世界は甘くはないのです。
バイクサークル後輩のSがフリーの記者として同じ仕事に就き見事に成長し現在も活躍しているのは彼自身が地道にサーキットで練習を積み、自力で鈴鹿四時間耐久の決勝戦の切符を自ら手にしたくらいの奴だからです。
目的に向かっての根性や努力を継続して欠かさなかったからだと思います。
交通事故の慰謝料なのか示談金なのかも忘れましたが、臨時の大金で中古レーサーを購入して、畳の上のオブジェとして飾っていたどこかの方とはレースに対する姿勢は大違いでした。

そういえば、弁護士さんの練習走行(スポーツ走行?)で富士スピードウェイだったと思いますが見学で僕もついていった際に、折角サーキットまで来たのに弁護士と違って走ろうともしないYに「なんで?ここまで時間も使ってわざわざ練習に来たのにさ」と僕は不思議でしたが、
彼は「今日はちょっと…」と言葉を濁してコースへは入らずにいた時があったように思います。
「なんで走らないの?」とその時に強く思ったので、記憶に残っているのかもしれません。
気分や体調がすぐれなかったのかもしれませんし、レインタイヤの用意が出来ていなくて路面がウェットだっただけだったのかも知れません。
でも体調が原因なら、そういったこともレーサーとしては大切な調整のひとつなんでしょうしね。

咥えて、Yは過去のツーリングや渓流釣りの記録を丹念に大学ノートに書き留めてデーター化していたような自慢話がブログ(?)の過去記事であったようにも思います。
それだけの細かい性格なら、間違いなくサーキットやレーサーの準備の記録も克明に書き留めて保存してあるんじゃないのかなぁとふと思いました。

とにかく、Yがそのポリシーからも断ったような低俗な仕事を僕がさもしく横からかすめとったような話にはかなり腹が立ったのは事実です。
しかも過去数回は書かれた気がします(笑)


誤字脱字等や日本語表記の過ちはご勘弁ください。
思い浮かんだことをパパパッと流して書いているだけなので…。

この頁、続くかも…

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★追記13

◎鈴鹿8H取材?

以前、彼のブログ(パンセ?)で、RH連絡会の活動の一環で1985年の鈴鹿8時間耐久レース会場に月刊誌の取材で出かけたみたいな話があったような気がします。
忙しいので、何時のどの記述かまでは検索はしていませんが凡そそんな内容だったと思います。

具体的には1985年10月号の『月刊PLAYBOY 日本語版』10月号(集英社)にカラー8ページで掲載されたRH連絡会と月刊PB誌とのコラボ企画に僕達RHのお馴染みの仲間が8~9人(だったと思うけど…)でアンケート集めのアルバイトとして参加したことを彼は言っているのだと思います。

この掲載記事の一部は写メしてあるので下にスクロールしていただければご覧になれるかとは思います。
簡単に申せば、当時はバイク料金は29人乗りのマイクロバスと同一料金だったので、「このサイズのマイクロバスとオートバイが同じ料金なんてちょっと変だよね」と納得できない問題点を“可視化”させてみるというユニークな企画でした。
そんな月刊PB誌からの提案に僕らも乗っかっただけで、現地ではアルバイトとしてアンケート集めをしただけです。
とはいえ、月刊誌の切り口の面白さなど、マイクロバスのチャーター代や横断幕の製作など取材経費は随分とかかっていたと思いますし、発信力や影響力もあったとは思いますが、彼のブログ(パンセ?)だと、参加していた1人としても実態以上に本当に凄いことをやってのけた的な印象を受けました。
この時の僕らはそもそも取材というほどの立派なものではなくて、月刊誌記事のお手伝い(アンケート集めアルバイト)だったのです。
確かにお小遣いを貰って、タダで鈴鹿までバスで往復してもらって、バイク高速道路料金のアピールにもなって、お得感はありましたけどね。

時々、彼の記述を読んでいると「ちょっと大袈裟かなぁ~。盛りすぎ?」と感じる時があります。

※この頁、まだ続くかも…。

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★追記14

◎今思うと、あの頃から少し違和感を感じていたんだよな…。


随分と昔のことなので、それがいつ頃のことだったかも忘れた話で恐縮なのですが…。

ある時、彼から電話を貰ったことがありました。
内容は「ラジオライフという雑誌に、俺がブログで書いたベレー帽の正しい被り方の記事を丸ごと盗用されて腹が立つ」みたいな彼の話でした。

僕の記憶も既に曖昧なので、彼があげつらった雑誌名は「ラジオライフ」だったと思います。僕もそういった名称の無線関係雑誌があることくらいは知っていましたが、ミリタリーベレーの被り方解説の記事まで掲載しているかどうかも知りませんでしたし、彼の電話で僕がわざわざ散財して当該の雑誌を購入することもなかったと思います。

その頃、彼が法律事務所にまだ在籍中だったのか、それとも既に東京を離れて西の方へ越していたのかも記憶は定かではありません。
でも、彼が法律事務所で働いていたことは知っていたので「君がブログで書いたことを丸ごとパクっているとそこまでいうのなら、泣き寝入りが嫌だというのなら、その出版社を訴えるなりすればいいんじゃないの?訴える前にも相手編集部やライターが特定できるならばそいつと話し合って次号で謝罪文でも掲載してもらうとかさ。それに君なら弁護士とかにも伝手はあるでしょ?マスコミを使って無断盗用記事を明らかにする方法もあるんじゃないの?」みたいなアドバイスしたような気もします。

その後、彼から出版社を訴えたとか、話し合って和解したとかの続報はなかったと思います。


また別の機会に電話を彼からもらいました。
この件も電話があった時期も、問題として彼があげつらった雑誌名も、それがどんなジャンルの雑誌だったのかも申し訳ないことに僕には既に記憶はありません。

彼が怒っていた内容は、うろおぼえで申し訳ないのですが「俺が撮影して、ブログにアップした夜景が、ある雑誌の夜景とそっくりで、あれは明らかに俺のブログの写真を見た真似したものだ」みたいな電話内容だったと思います。

その時「どれどれ…どんな写真を真似されたって?」と思って、もしかすると僕は彼のブログにアップされた夜景写真を拝見したような気はします。

僕の薄~い記憶では、例えば峠の駐車場から見下ろした都市(町?)の夜景写真だったような気がします。
彼が車で夜の峠に出かけたのかバイクで出かけたのかは記憶はありません。
もしバイクで出かけていたのなら、バイク乗りなら愛車と夜景風景を絡めて撮影することが多そうな気もしますが、その辺の絵柄の記憶も僕には残っていません。
場所的には彼の住んでいる場所の近くだったんだと思います。
少なくとも神戸の六甲山とか、北海道の函館山とか、熱海とか、俗に“百万ドルの夜景”と呼ばれるような観光スポットに彼が出かけて撮影したものではなかったと思います。そんな有名撮影スポットなら、これまで数多の観光客やプロカメラマンが撮影してきたと思いますので、それを今更「俺の真似を断りもなくしやがって」といくらなんでも毒づくことはないでしょうからね。
多分、彼の地元にある峠で撮影した夜景写真を何らかの媒体(バイク雑誌?旅行雑誌?情報誌?etc…)が、撮影橋よなのか、撮影方法で真似したと怒っていたんだと思います。

その話を聞いて、彼にもフリーとはいえ雑誌関係の仕事をしている僕としては「夜景写真なんてどの写真も似たり寄ったりな気もするし、問題があるというのなら、彼が撮影し、彼のブログにアップした写真を、彼になんの断りもなくコピペして雑誌に無断で掲載したというのなら、それは問題だけどさ…でもトリミングしていても同一写真かどうかなんて白黒つきそうだし、地元の彼だけが知っている峠の夜景の素晴らしさにその雑誌の人がわざわざその場所を訪れて同じポイントで撮影したのだろうか?それでもその夜景風景や場所は公共的というか、誰でも市民がそこに行けば享受できる風景なんだろうし…彼だけが知っている貴重な地元情報と主張したところでそれの何が問題なのだろうか?」と僕は不思議に思いました。

僕は仕事柄、一眼レフカメラを使用していますし望遠レンズもよく使います。プロカメラマンというわけではなく、“写真も(一応は)撮れるライター”のような立ち位置ですからちょっと昔のニコンD500を何台も愛用していますが半ば素人カメラマンの僕にとっては必要にして十分なカメラだと思っています(笑)
バイクツーリングでも僕も女房もD500をそれぞれのバイクに積んで出かけています。
それなので、例えば望遠レンズの圧縮効果というのも知っています。
時々、彼のブログで東京のビル群と富士山の写真を見かけますが、実際には肉眼では東京から富士山はあんなに大きくは見えませんよね。
でも彼が一眼レフのような本格的なカメラを使っている印象はないといえばないので写真撮影に関する知識は薄いのかなと思っています。

その意味では、彼が地元の超極秘スポットで撮影した夜景写真にしても、そのまま雑誌での使用に耐えうる出来の写真かと考えると少し怪しい気もします。


話はまったく変わりますが、彼が渓流釣りをしているのはなんとなく知っていました。
ある時、彼から「俺、釣り雑誌に写真が出てるんだ。そうなんだよ、今さ書店に並んでいる■■■■って釣り専門誌を探して見てみてよ」といった感じの電話だったと思います。

これも、何年くらい前の話だったかとか、その釣り雑誌(今となっては本当に釣り専門誌だったのか、アウトドア系雑誌だったのか、旅系情報誌だったのかの記憶もないのが現実ですが…)を「どんな記事だろう」と書店で立ち読みまではしたんだと思います。

ところが、なかなか彼の顔写真とかには行きつきませんでした。
僕にはまったく知識はありませんが、「フライ」とか渓流釣りのイメージだったので、釣りの達人らしくてっきり大自然の緑の中で沢登りでもしながらまだ殆ど人が立ち入ったことのないような場所で大物でも狙った記事が大きく出ているものと思っていました。

結局、行きついたページは、今の僕の超アバウトな記憶では、見開き2ページで、どこかの管理釣り場というのか、長方形の釣り堀のようにしか僕には見えない施設を紹介したページでした。
その左ページの下だったか、せいぜい3~4cm四方の顔写真が彼だったような気がします。
彼の紹介も、たまたま釣り堀に来ていたお客さんか常連さんという扱いだったと思います。

東京方面でも奥多摩まで行けば管理釣場であっても実際の清流を利用して、僕のような釣りはまったくの未経験者でも釣り竿も餌もレンタルして渓流釣り気分を自然の中で楽しめる場所があるのは知っていますし、過去に何度もレジャーとしてそういった岩がゴロゴロしたようなニジマス釣り場は利用しています。
でも残念なことに彼が出ていたのは「釣り堀?写真だけだと、水…濁ってない?流れもなさそうだし…ヤマメやイワナ釣りじゃなくて…ヘラブナ釣りではないにしてもここでどんな魚が釣れるのだろう?これなら僕が行く奥多摩の日原鍾乳洞へ通じる道沿いの管理釣場の方が百倍魅力的な気がするなぁ~」と思いました。

わざわざ大騒ぎして「俺、釣り雑誌で取り上げられたから見て見て!」風に電話してきた割には「なんだかなぁ~」というのが僕の記憶です。
僕は大自然の中でフライフィッシング中の彼の全身像を勝手に想像していました。

今、ふと思ったのですが、その時の雑誌に掲載された釣り堀の客としての彼の上半身写真がもしかするとブログのプロフィール写真なんじゃないかと思えてきました。
雑誌の隅っこにあった写真は顔が写っていなかったので、最初に彼と気がつかず、あとになって写真のキャプションで「お客さんの吉□□さん」で判明したような気もします。
まぁ、かなり昔のことで、彼が取り上げられた記事のコピーも残っていないので全ては66歳半惚け小池爺のいいかげんな話ですが(笑)

誤字脱字の類はご容赦を

※この頁、まだ続くのかも?

………………………………………………………

★追記15

単なる昔語りの笑い話ですよぉ~(苦笑)

◎革命的警戒心の欠如?(笑)
交番横の道路標識に向かってパンパンパン!

彼がGFと暮らしていた鶴見区のアパートに遊びに行った時のことです。
彼のアパートと道路を隔てた反対側に派出所がありました。無人交番だったのか、常に警察官が詰めていたのかまでの記憶までは僕にはありません。
(でも、1980年代前半の時代は無人交番の数は少なかったようにも思えますね)

彼が僕に「実はこんな面白いことをやってるのよ」みたいにニヤニヤ顔で見せてくれた姿は、アパートの台所か玄関脇かどこかの窓を少しだけ開けて、そこから交番脇の道路標識を的にしてエアガンを1発だけ発射していました。
多分、命中させたのでしょうし、アパートの窓からBB弾が飛び出ていく程度の隙間からは射撃している彼しか着弾は見えなかったでしょうし、金属の道路標識に命中した「パシッ!」とか「カンッ!」といった小さな音が聞こえたかどうかの記憶も今となってはありません。

正直、僕は彼の行為に呆れました。
恐らく彼は少しだけ開けた窓から視線の角度を変えて交番前に警察官が立っているかどうかの確認くらいはした上でのことでしょうが、もしかしたら彼が射的ごっこしている瞬間に外から自転車の警官が戻ってくるかもしれませんし、彼のアパート前の歩道を徒歩や自転車の通行人が横切る可能性やその人に命中させて怪我をさせる可能性もないとはいえませんし、僕に見せたのは1発だけですが、恐らく過去に何回かは試した遊びだとも思います。
交番勤務の警察官にしても横に立つ道路標識に複数の微かな丸い窪みを発見して「なんだろう?」と思う時が来るかもしれません。(まぁ、無改造のエアガンのパワーでは、道路越しの標識を凹ませるだけの威力などないと彼は知っているのかもしれませんが…)

でも、こんな密かな愉しみをしていて、運悪くバレてしまったとしたら新左翼系の活動家である彼としては権力の介入を招く格好の材料となってしまいマイナスなことしかないと僕は思いました。
もしかしたらその時に僕は彼に「こんなこと止めなよ。見つかったらヤバいよ」と注意したのかもしれません。

日頃「革命が…」みたいな小難しいことを並べる彼ですが、本質はよく彼が口にしていたジョークの「共産趣味者」(共産主義者のもじり?)みたいな子かなとも思いました。
まぁ、僕など更にミーハーなタイプなので、彼のように「立派な」革命家では今も昔もこの先もないので偉そうなことは言えませんけどね(笑)。

なんといっても、そのセクトに於いて彼は僕より先輩だそうで、僕の加入ら反対した旨の記述も過去のブログ(パンセ?)で見かけた気がします(笑)。
僕は運動に大衆性がなければ意味がないと考えていましたから、「学生先駆性論」みたいな思い上がりや独りよがりの活動や大衆的基盤に支えられないような運動には否定的でした。

ある時、彼がガリ版刷りだと思いますが、超分厚い彼の革命理論の論文集みたいのを「どうだ」とばかりに自慢気に1冊くれたことがありました。
R大のサークル「社研」名義のパンフだったような気もします。
僕は一行も読む気もしなくて、そのままにしておいたと思います。
「アルバイトをしている風でもないし、ヒマだからこんなのセッセッと書いていたのか?自己満足?でも、これだけ立派な革命の指導書みたいのがあるのなら、さぞかし彼のR大では明学よりも革命前夜的状況にあるんだろうな。ご立派な理論だけで革命が成るなら楽なもんだわ…」と思ったような気がします。
いくらご立派なことを並べたてても、同じ大学に通う身近な仲間がついてきてくれなかったり、そもそも一緒に活動してくれる仲間がいなければ無意味な気がします。
1大学のセクトのキャップ(責任者)でもあったはずの彼が、僕の大学にちょくちょく遊びに来ているヒマなどあったのだろうかと少し不思議な気はします。


話は変わりますが、彼の本年9月1日のブログで「北海道へ」というタイトルで「かなり古き東京の友は北海道へ。何だよ。銀ヘルでなく白じゃんか」とか「俺が指揮してる梯団でトラメでコールを任せた奴」との記述がありました。
昔は「銀ヘル(メット)」だったというのでしょうから、彼と同じセクトに属する同志だったという意味だと思います。
顔写真もありませんし、彼の話が本当だとしても、僕には心当たりがありません。
「銀ヘル」被った活動家で、バイク乗りなんて、当時の明学大や「井戸端会議」、RH連絡会に参加していたR大の奴に心当たりがないのです。
R大を卒業してから、本格的にバイク免許を取得した方であるならば僕の記憶にはないので、もしかすると大卒後に乗り出した方なのかもしれません。

「俺が指揮している梯団で」ともありましたが、彼は一度、東大・早稲田・明治・中央・明学・R大の「首●共●」かなんかの学生デモ指揮中に逮捕された話は僕も当時耳にしていますからそれは事実だと思いますから、その時に拡声器(トランジスタメガホン)でコールを担当されていたのが毎年のように北海道へツーリングに出かけておられる方なんでしょうね。
「銀ヘル」なんて明学とR大くらいしかメンバーいなかったと思いますから、その意味でもR大の子かなとは思いますが、残念ながら心当たりはありません。
R大出身の彼の親友っぽい方は自転車の方にハマっている気もしたので…。

あ~、デモ指揮で彼が逮捕された時の嘘か誠かわからない後日談的な笑い話もひとつ思い出しました(笑)
とにかく当時の彼は「歩く笑い袋」というニックネームがついたくらいに、皆に愛されていたというか面白がられていた人気キャラでした。
それが…、それなのに…、二十年…いや、三十年は彼とは直接会ったことはないと思いますが、ちょっと僕には今の彼がよくわからなくなっています。

最期に彼と会ったとすれば、彼と彼女が早稲田大の近くのコーポみたいな場所に住んでいて、僕の職場が文京区音羽にあったので、3kmくらいと近かったし、編集部からの帰りにバイクで寄ったのが最期だったのかも。

僕はビックバイククルージン誌から頼まれてカワサキ専門の新雑誌(仮称『西風』で準備していましたが、『KAWASAKI MIND』名で創刊準備ゼロ号を発刊しました)を編集・ライター・カメラマン兼で手伝っていたので、週刊誌編集部~千駄ヶ谷のバイク雑誌編集部への移動コース上に早稲田(鶴巻町あたり?)の彼のアパートに寄ったのかも。
当時、僕は900NinjaにデビルGG管をつけていましたが、彼がバイクを仮に1台くらい所有していたにしても乗っていなかったような気もします。彼のアパートでバイクを見せてもらった記憶はないですね。もしかしてシートを被っていたのかもしれませんが…。
当時の彼は「居合」に夢中で、彼の部屋で何振りかの日本刀を見た気がします。

話を「北海道通信」で登場したR大OBと思われる方の話に戻すと…
R大でRH連絡会に顔を出していたのは彼とGFさんの2人だけという印象で、その小柄なGFさんが、50cc原付にしては大柄な車体だったホンダのMBX50(だったと思いますが…)に、なんとか両爪先が地面に届くギリギリのちょっと辛そう感じで頑張って提訴行動で東京地裁に来ていたのだけは記憶にあります。
普段は彼女は車の免許があったので、四輪車で何かとサポートしてくれていたと思います。でも彼女のバイク姿って、MBX50の1回だけくらいしか記憶ないんだよなぁ。250~400ccの中型バイクの仲間が圧倒的だったので、排気量の差から一緒に高速道路とかの移動も出来ませんから、普段は彼女は彼のバイクと一緒にいたんでしょうね。

その意味では、彼が過去に何回か書いていた気がしますが、本州とも違う東京からかなり外れたような場所を旅している時に眼下をGFがバイクで偶然にも通り過ぎたような話があったと思います。
まるで彼の大好きな映画『彼のオートバイ、彼女の島』にでも出てきそうな素敵なシーンというべきか、それとも片岡義男さんの小説の中のようなエピソードのような印象を受けました。

学生時代の彼と彼女を知る者としては、にわかには信じがたい2人のエピソードではありました。
彼と彼女はR大の熊谷キャンパス時代からお付き合いがあったようにも思えますが、失礼ながら彼女が自立した女性ライダーとして単独でロングツーリングをしていたイメージは僕にはないのです。
それにまだ僕も彼とは絶交もしていない時期に「彼女も自動二輪の免許を取得して俺のバイクで練習してるのよ」みたいな報告を彼から受けた記憶がないのです。
かなり小柄な印象の彼女だったので車の免許はお持ちだったので学科免除ですから小型自動二輪なら取得は容易だったと思いますし、中型自動二輪だと体格的にはかなり苦労されたかとは思いますが、そういった取得に関する苦労話も聞いたことはありません。
彼と彼女とはもう25年間くらいは会ったことはないので、その空白の期間に彼女もバイク免許を取得されたのかもしれませんが少なくとも僕は報告を受けていないと思います。
そんな素敵な出来事なら「良かったじゃん。これで彼女(奥さん)と高速道路とかも使ってツーリング行けるじゃん」とか祝福したでしょうしね。

僕の女房がVTRから現在のゼファーχに乗り換えたのは2019年10月でした。彼が四国かどこかのショップでゼファーχを購入したのとどっちが先だったのかは忘れてしまいました。
ある時、電話してきた彼が「マルパーの奥さんのゼファーもハンドルの角度を変えた方がいいよ。緩めて少し回すと、グリップの両端が下がって、前から見るとセパハンみたいで格好いいからさ。俺はそうやってるのよ」と聞いてもいないことを言ってきました。
余計なお世話にも程があります。
女房はノーマル状態で満足していますし、ハンドルの位置等は好みもあれば、体格によることもあるし、彼のようにレーサー出身(?)と違って、そもそも我が女房は“セパハン”なんて言葉も知らないし、それに興味もないと思います。教習所の車両のようなポジションの方が本人も安心して違和感がない様子ですのでね。

我が家のバイクのハンドルにあれこれ指図するなら一言言わせてもらいますが、「君のゼファーについてるマフラーって、ちょっと長すぎる気もするし、角度も僕の好みじゃないな。俺なら別の集合管を探すな」ってね(笑)






※この頁、まだ続くかも?

誤字脱字の類はご容赦を

※長いあとがき?

僕はモデルガンとか買ってもらえるほど裕福な家庭で育ったわけではないので、小学生の頃は神社の境内で「銀玉鉄砲」か巻玉火薬を使った玩具のピストルで戦争ごっこをして同級生たちと遊んでいた程度でした。
それでも中学生の頃になると、漫画『ワイルド7』の影響か戦争映画やスパイ映画などの影響なのか同級生でも金属製のモデルガン(ワルサーP38を見せてくれた友達はいました…)を持っている子も何人かいたような気がします。

学生になって、帰宅途中の目黒通りの権之助坂下りにあった深夜書店で手にしたのが『コンバットマガジン』誌でした。
たまたま初めて手にした月刊誌でしたが、そこにペイントボール弾と小型ガスボンベを使用したアメリカでのサバイバルゲームの紹介と、それをそのままの状態の遊びとしては法律的問題もあって輸入できない事情もわかりました。
でも、日本にあるエアーソフトガンという玩具で6ミリBB弾で撃ち合って遊べることは出来るし、実際に名古屋には「Ninja」というサバイバルゲームチームが存在することもその雑誌で知りました。

「これは童心に戻って楽しめそうだな」と思って、マルゼン(といったメーカー名だったような記憶が…)の「KG-9」とかいうサブマシンガンタイプのエアーコッキング式の銃と、メーカー名は忘れましたが「サイドアーム」(という言葉も専門誌で初めて知りました…ルガーP08という拳銃タイプのエアガンも購入したと思います。
まだBB弾を1発1発、銃弾状のカートリッジの頭に埋め込んでいて時代でした。

こういった遊びにレスポンスよく反応するのが大崎警察署の裏手にあるらしいR大の彼でした。
彼が漫画『ワイルド7』好きで単行本を揃えていることや部屋にモデルガンがあったことくらいの印象は僕にもあったと思います。

早速、彼に声をかけて、大井埠頭のまだ葦の原っぱのような場所へバイク(Z400FXとRZ350)で出かけた記憶があります。といってもやたら広い原っぱで、お互いが用心してジッと動かないものですから撃ち合いになるはずもなく、たまたま居合わせた地元と思われる小学生か中学生か子供2人も巻き込んで2対2で遊んだような記憶もあります。

それが、やがて僕が大学内でバイクサークル『井戸端会議』とは別にサバイバルゲームクラブの設立となります。
“戦争ごっこ”を遊びにしてよいものかとも思いましたが、世間の目はともかくとして面白い遊びなら飛びつくミーハーなところは僕の悪い点です(苦笑)。

大学で子供の遊びのようなサバイバルゲームクラブ設立なんて珍しさもあってか、受験シーズンに複数の雑誌から取材を受けました。
大学選びの雑誌で「こんなユニークなサークルがあるよ」的なグラビアページに迷彩服の上下にゴーグル、フェイス・プロテクター姿はインパクトがあったはずです。
まだまだサバイバルゲームの存在が専門誌以外ではそんなに知られていない頃ですからね。
少なくとも2誌には取り上げられた記憶がありますが、どこかで掲載誌を処分してしまったのか手許に雑誌コピーも残っていません。
機会があったら国会図書館で「週刊朝日」だったとは思うので見開きカラーページを探してみるつもりです。
大学のヘボン館前辺りの道で夜中にストロボを背後と前から焚いて撮影した記憶があります。
その時の本人だけのバストアップ切り抜き写真を彼がブログで使用していたのは見かけたことがあります。
彼はベレー帽にイギリス軍の迷彩服姿でサブマシンガンのような形の銃(ソフトエアーガン?)を持って格好良く写っていたと思います。
もう1冊は「ウイニング別冊 86進学年鑑」(教育新聞社)なのですが、表紙だけは見つかったのですが…中身というか掲載ページが見つからない!(笑)残念。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
※最初に明学のサバイバルゲームサークルを各大学の異色サークル的な切り口で取り上げてくれた受験雑誌だったと思うのでずか、
表紙だけは見つかったのですが中身の紹介記事ページは紛失(笑)

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
明学内で僕が趣味的に作っていたサバゲのミニコミの創刊号の表紙です。何号かは出していました。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
学内で僕が出していたサバゲの最初のルールブックでした。

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★追記16

懐かしい思い出の笑い話でぇ~す(苦笑)

◎カサブランカダンディな彼

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

古い学内用のチラシが出てきました。
1985年8月4日の新聞記事や同日の海老名SA内で横断幕を広げての原告団募集の広報活動報告や秋の史上初のバイクデモの予告等をしています。
書いたのは字体からして僕です。
急ぎの報告なので、写真や新聞記事の切り貼りした簡易なものです(笑)

そこにビラ撒き広報活動に参加したメンバーの集合写真がありました。
関東RH連絡会によるビラ撒き広報活動なので、事務局長の僕もいれば、先日のU追悼ツーリング参加の関東事務局長(後の二代目事務局長)、東京支部長の住職(故人)、埼玉支部長、千葉支部長の姿もあれば、他界してしまった明学メンバーや「井戸端会議」の仲間の顔もあります。
先日の追悼舞鶴ツーリング参加者が少なくとも4名(不鮮明なコピーなので5名目もいるかな)はいます。

その真ん中にパナマ帽とサングラス姿という粋な姿で、右手に水鉄砲なのか掌に入りそうなサイズのピストル状の玩具を手にポーズを決めている彼がします。
他のメンバーの大半はバイクでやってきたのかバイク姿ですが、彼は弁護士さんのレース用ハイエースロングかなにかに同乗でもしてきたのか普段着姿です。
とにかく楽しそうで微笑ましい姿です。
心からビラ撒き活動を満喫している雰囲気が写真からも伝わってきます。このキャラですから当時は皆に愛されていたと思います。皆のマスコット的な人気者でした。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

明学(MG)大で鈴鹿四耐に挑戦し始めた頃の「井戸端会議」ビラ1枚が新たに出てきました。
この文字は先日他界したUかもしれません。
慣れていない素人っぽさが好感を持てます。
まだ個人情報保護なんて発想も希薄な時代なので、MFJのライセンスのコピーもありました(笑)
でも、「俺たちの仲間のこいつらがレースに出るから応援してくれ」という熱い気持ちは伝わってきます。

彼らより本格的にレースに取り組んでいたかもしれないR大の彼なら、タテカン職人でもあり、ビラ作りなどもお手の物ですし、加えてイラストも上手ですから、自慢のTZと絡めた写真と絡めてR大学内でこんな風なビラとか配布していても不思議じゃないのかもしれませんが、僕の手許には資料はありません。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

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★追記17

懐かしい思い出話です。

◎取材とあって「はいポーズ」♪

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

写真週刊誌『FRIDAY』1985年10月11日号です。
同年9月20日に東京地裁で開かれたRH連絡会による“バイクの高速料金返還訴訟”の第1回口頭弁論当日に日比谷公園で撮影した1枚です。
カメラマンは当時CB750Fのエンジンを降ろして部屋で磨きあげることを趣味にしていた後藤さん、記者は後に芸能レポーターに転向する小泉さんだったかと思います。

おそらくカメラマンが「それでは、皆さん、お手元のヘルメットを手に“裁判頑張るぞぉ~”とか元気よく気勢をあげてもらえますか?」といった調子で“画(え)作り”をお願いしたのでしょうか、僕などはヘルメットを高く突き出している風で写っています。

その僕の傍らに彼がいます。
彼は大事そうにヘルメットを持っています。
これは彼の自慢のオリジナルペイントのヘルメットなので、その丁寧な持ち方からすると、もしかするとそのヘルメットをきちんと見せたかったのかもしれません。
いやいやこれはRH連絡会の裁判闘争の取材であって、君のオリジナルヘルメットの取材とは違うんだけどね(笑)

僕などは黒と赤のマジックでシンプソンヘルメットに乱暴に書き殴っただけですが、彼は凝っていました。
僕はやったことはありませんが、塗装をサンドペーパ―で削って剥がしたり、デザインを起こしたり、必要な色の塗料を用意したり、塗って乾かしたり、クリアーを噴いて磨いたりと大変な時間と手間がかかる作業だと思います。
彼は手先はとても器用な奴だったのと、アルバイトをしている風もなかったので凝ったことをやるような時間はたくさんあったんだと思います。

あれ?
彼はスニーカーのような靴なので、この日はバイクでは参加していないのかもな。
僕は踵のあるレッドウイングのワークブーツをバイク乗車用に流用していましたが、5万円近い大枚を叩いて横浜ケンタウロスのショップで
購入した記憶があります(笑)

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)


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★追記18

懐かしい思い出話です。

◎「おたく」止まりと、「考現学」視点との差?

投稿の日付も忘れてしまいましたが、ちょっと前に彼がブログ(パンセ?)で森伸之著の『東京女子高制服図鑑』(弓立社/1985年)を取り上げていた気がします。

それで思い出したことがあります。
この書籍が世に出た後で彼が悔しそうに言っていたことがありました。
「先を越されてしまって悔しかった」的な内容でした。
彼のR大での親友にAという人物がいたような気がします。僕も1回くらいは面識があったような気がします。
A氏のバイク姿での記憶はありません。
そのA氏が女子高の制服を集めて箪笥にしまっているという話でした。(入手方法までは僕にはわかりませんが…)
「あいつ凄いんだぜ。部屋の中の箪笥には制服がいっぱいあってさ」みたいな話でした。
僕には彼の言う「凄さ」がさっぱり理解できませんでしたが…。
どうやらAもしくは彼らも『東京女子高制服図鑑』的な企画の何かを考えていたのかもしれません。
個々の趣味や性癖的なことをとやかくいう権利も僕にはないので、確かに国学院大の森伸之氏より先にR大の仲間で出版という形に持ち込めれば大ヒットしたかもしれない企画です。実際に森氏の著作はシリーズ化したような気がします。
それに僕のよく知るR大の彼は可愛らしい女の子のイラストを描くのも得意だったはずなので、実際に画も準備していたのかもしれません。

ただし彼の親友のA氏は制服フェチではなかったとは思います。後にデザイン関係の仕事に就かれたような印象がありますので。
企画面では遜色なかったにしても、現代都市民俗学的な研究アプローチからR大グループよりも一足先に『東京女子高制服図鑑』に漕ぎつけた森氏の勝利だったんだと思います。


※この頁、まだ続くかも?

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★追記19

懐かしい思い出話です。

◎彼の単発バイトをひとつ思い出しました。

RH連絡会は『BEST BIKE』(以下BB誌と略す)とライターM氏に何かとお世話になっていました。
BB誌は親会社は講談社ですが、ベストバイク社という子会社から出していた雑誌です。
ベストバイク社は音羽通りでも親会社がある護国寺側とは逆方向の江戸川橋側に建っていました。
当時は年に1冊はヘルメットやブーツやウェア類をまとめたバイクグッズカタログ的なムック本を出版していました。
彼はM氏の声がけで、そのカタログ本を手伝っていた記憶があります。手伝いといっても、恐らく“切り貼り”がメインだったと思います。年鑑ですから、バイク用品の総掲載数がモノを言います。かなり細かい仕事です。
「また徹夜になりましたどえす」とか、編集部の近くの店でMさんにカツ丼を奢ってもらったとか申しておりました。
まぁ、写真やキャプションの“切り貼り”作業による版下作りであっても立派な編集業です。
普通はこういったアルバイトから、雑誌編集業界に入っていく例も多いのですが、彼はあまり興味はなかったのかもしれません。
雑誌業界に興味があったならラッキーな話なんですけどね。

※この頁まだ続くかも?

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★追記20

懐かしいような思い出話です。

◎何かと話を盛りすぎる傾向のありそうな彼…

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

サービス精神が旺盛なのか、それとも昔の出来事なので記憶が曖昧なのかもしれないが(ソレは僕も同様なんだけどね…)時々、彼のブログ(?)の内容に「そうだったっけ?」というのが時々ある…いや、かなりの頻度で遭遇する。

例えば、某ブログ(?)で、2023年12月31日付の「千鳥走行~オートバイの集団走行方法~」という回がありました。
そこにRH連絡会が実現した“日本初のバイクデモ”の話題がありました。
彼は「参加した一般ライダー500名のバイクは数十台のてい団ごとに区切って明治公園から都内を走行した。私は第2てい団の引率を担当した」と記していました。

500名!?つまりバイク500台!?

いやいや、そんなに多くなかったはずだと思いますよ。
ハッキリ申せば、警察への集会やデモ申請を行った責任者の僕だって今より40年も前になる1985年10月13日(土)の正確な人数だっておぼえている筈はありませんけどね(笑)

そこで翌日の「毎日新聞」のコラム雑記帳を参考にすると、そこには「オートバイ百五十台が結集」と記されています。注意しなければならないのは、デモや集会の参加人数(参加台数?)には、「主催者発表」もあれば「警察調べ」の数字もあったり、マスコミ発表もあったりしてまちまちな数字がよく登場します。

でも、僕が東京都公安委員会に提出した「集会 集団示威運動 許可申請書」には、僕の下手糞な子供っぽい字で【参加予定人員】を「集会三百人 デモ百六十人(宣伝車三台 オートバイ百五十台)で届けていました。

バイク雑誌やビラ等で不特定多数のライダーに呼びかけてはいたので、事前に参加人数を正確に計ることは不可能でしたし、もしかすると明治公園(現在は新国立競技場になっているエリアです)に200名近い方が様子を見に来たかもしれませんが、「500」という数字はいくらなんでも盛りすぎかなという気は僕でもします。

申請書を読むと、総責任者は僕で、副責任者は弁護士さん、明学大『井戸端会議』リーダーのU、RH連絡会関東事務局長(後に二代目事務職長)のS氏の名前がありました。
僕は毎日新聞の写真にもありますが第1梯団の先頭(先導)です。
第2梯団の先導が彼だったのか誰だったのかは記憶はありませんが、このバイクデモには、千葉支部、埼玉支部、東京支部、神奈川支部といった各支部長クラスが参加していたはずですし、バイクデモの実現を目指して苦労されてきた「茂木モータース」と「二輪を考える会」メンバーも参加されていましたし、過去の集団走行で先導を務めてきたメンバー達もいたでしょうし、彼に第二梯団の「引率」を任せていたのかは申し訳ないことに僕には記憶がないのです。もしかすると車に乗っての引率って意味なのかなぁ?

その梯団ですが、僕の記憶では1梯団50台による計3梯団かなとも思いました。デモ申請書に宣伝車3台とあるのは、警察との話し合いの際に条件として「各梯団に1台ずつ先導車両(街宣車)をつける」というものがあった気がします。
彼はブログで「数十台のてい団」としていましたが、仮にバイク20~30台で1梯団を編成したとすると、150台のバイクでも5~7梯団になりますし、ました彼のいう「500台」となる梯団数が増えすぎて、各梯団にリーダーやサブリーダーを配置するだけでも大変です。
新聞掲載の小さな写真からは1梯団の正確な数はよくわかりませんが、40台強はいそうな気もしました。

このように、彼のブログ記事は僕から見ても「少し大袈裟すぎない?サバ読んでない?フカしてない?」とか思ってしまうことが多々あります。
でも、思い違いや勘違い、思い込みってのは誰でもありますから、可能な限り調べて慎重に書けばいいし、そのように務めるなり、不明や曖昧な点は断定せずに濁して書けばいいと思うのにね。
元活動家だというのなら、適当なことを並べて信用を失うよりも、あまり誇張せずに可能な限り事実に沿った内容を心掛けるべきだと小心者の僕などは思うのですが…。

補足しておきますが、バイクによるデモ申請はずっと警察に拒否されてきました。
僕と弁護士の2人で警視庁本庁で警視正とこのデモ申請を巡って話し合いが持たれました。
それでも警察側が「認められない」と言い切ったので、僕は「独り言」(あくまで独り言ですヨ。愚痴っぽい内容ですが独り言のつもりだったのですが、どうも静かな会議室では相手に聞こえてしまったらしいのですが…)として「えっ、デモ…やっぱりダメなんだ…ってことは、高速料金の裁判も抱えているのに、今度はバイクデモを巡っての裁判まで抱えちゃうのか?ただでさえ忙しいのに、また裁判がひとつ増えるわけ?たまんねぇな。しかもさ、デモといえば日本国憲法21条の表現の自由じゃん…ってことは、一審でどっちが勝っても負けても憲法論争だから最高裁まで絶対に行くから長引くよなぁ~。あ~面倒くせぇ~」といった内容のことをブツブツと小さな声でつぶやいていたようです。
そうすると警視正の方が「貴様、警察を脅すつもりかっ!」とお怒りになったので「えっ、脅してなんていませんよ。またひとつ裁判が増えるんだなと思って嘆いていただけですよ。バイクデモの裁判になったら貴方にも出てもらうことになるかもしれませんのでよろしくお願いしますね」とお答えしておきました。
で、何故か結局、この日のうちに日本初のバイクでもは実行可能になりました。あとは警視庁から四谷署で実務的な打ち合わせの必要もあり僕が出向いて、公園を借りるには東京都の管轄ですから参加予定人数に合わせてスペースを借りなければならないので都庁にも行ったのかなぁ~、でも細かいことは忘れた(笑)

日本初のバイクデモに向け都内や明学大内で配布していたビラも出てきました。字体も文は書いているのは僕ですね。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)


※この頁まだ続くのかも?

誤字脱字、変換ミスの類はご容赦を


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★追記21

懐かしいようなたんなる思い出話です。

◎僕に対しても大物ぶりをアピール?

彼からまだ年に1回くらいは電話がかかってきていた頃の話です。
でも、それが何年前(20~30年前??)のことで何の用件だったかの記憶はまったくありません(笑)

僕は報道という仕事柄30歳くらいには携帯電話を個人で契約していたと思います。
でも、あの頃の携帯って電波の受信状態が不安定だと通話中によく通話が途切れてしまい、慌てて相手にかけ直すことってありましたよね。

その日も彼からの電話だったと思います。僕が彼に電話するって用事は昔も今もありませんからね。
僕は自宅北側の部屋(書斎)で携帯にて会話を受けていたと思います。
とりとめのない彼の長話になっていたと思います。
と、そこで突然電話が切れました。
バッテリー切れでもないし、どちらかの受信状態の影響かなくらいの判断でした。
恐らくすぐにかけ直してきたのは彼です。

その時再開した会話は大雑把にはこんな内容だったと思います。

彼「今のわかった?」
俺「何が?電話が切れたこと?俺の方の電波が悪かったのかな」
彼「違う、違う、マルパーは相変わらず甘いな」
僕「どっちかの電波の状態が悪かったんじゃないの?」
彼「“こうあん”だよ、こ・う・あ・ん!」
僕「“こうあん”って公安警察のこと?」
彼「そう、その公安の仕業だよ」
僕「?????その公安がさ、なんで電話が切れたことと関係してるの?」
彼「今の俺たちの会話もずっと盗聴されていて、あまりにくだらない話が続いていたので、アイツらもこっちのバカな話につきあわされて嫌気がさしたのか、あれは『盗聴してるぜ』って意思表示なんだよ」
僕「は?盗聴?」
彼「俺の電話っていつでもこんな感じよ。よくあるのよ。会話の途中で切られちゃうのってさ。おい、今も聞いてるんだろ、いい加減にしろや、この公安野郎」
僕「…………。」

僕は彼が日本の警察から日常的に監視対象になっているほどの重要人物なり国家にとって危険人物であるとは思ってもいませんし、過去にも彼がそんな立場であったとも思ってもいません。

もしかすると、彼自らが会話の途中で電話を切って、それからかけ直してきたのかとも考えたくらいです。
自分が今も公安警察に監視されているだけの人物であるという演出のためにね。
そんなことを僕に対しても仕掛けたりするとすれば、他の知り合いにも似たようなことをやっている可能性もあったのかしれません。偶然の受信状態の悪さで会話が途切れてしまった際などに、相手にそんな風に伝えれば素直で無垢な相手は彼を信じてしまうのかもしれません。

まさか、彼自身が「私は今も変わらず公安にマークされ続け、電話の盗聴をされている」と信じているとも思えなかったので、僕への大物アピールだったのかなぁ。

それとも、たまたま受信状態の問題で途切れたのを利用して彼特有のジョークとして僕をからかっただけなのに生真面目な性格の僕が「えっ!?盗聴されてたの?」とビックリして彼の話を真実と受け止めてしまったのかな
ぁ?(笑)


誤字脱字、変換ミスの類はご容赦を

※この追記はまだ続くかも…。秋は何かと忙しいので不定期ですが(苦笑)
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★追記22

懐かしいようなたんなる思い出話です。

◎彼は僕らの圧倒的な人気者でした。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)


大昔、僕が明学大で立ち上げたサバイバルゲームクラブのミニコミ誌の1ページが出てきました。
これが何年に発行したミニコミの第何号なのかも表紙や奥付も紛失していて申し訳ないことに今となってはわかりませんが、余興として僕が東京マルイ製の初の電動エアソフトガン「FA-MAS」を持ち込んで物珍しさから皆で多摩川に向けて試し打ちをして遊んだ記憶があるので1991年以降のことだとは思います。

撮影場所は二子玉川の河川敷で明学大「井戸端会議」の古参メンバーと後継サークルの「H&L」メンバーでBBQをやった時は思われます。
そこに居合の試合帰りの彼が日本刀を下げて合流したような記述です。
既に旅立ってしまった仲間のUやRの姿もあります。
鈴鹿四耐決勝完走のSの背中もあります。
三々五々で15~20名くらいは集まったような気もします。

「TZ250で国際A級レーサーを目指し」とあるのは、書き手の僕の半ばジョークだと思います(笑)
その意味でも映画『ハスラー2』の影響か、ビリヤードでハスラーとしてアメリカに渡るなんて夢をGFに熱く語っていたなんて噂を耳にした僕が触れているのも同様に半分ジョークだと思います。

気取り屋さんの彼なので、バーの片隅に置いてあるピアノにグラスを手におもむろに近寄って、素敵なレディをはべらして1曲弾いてみたくてキーボードの練習をしている風な噂も僕が聞きつけていた節も僕の記述からは窺えます。

昔の彼は「眠い・疲れた・お腹へった」の3ワードで仲間内では語られていた様子も思いだしました。
彼に頼んだ原稿がまったく仕上がっていないことへの皮肉も書いてありますね(笑)
まぁ、僕のような暇人と違って居合、ビリヤード、ピアノの練習と彼は何かとお稽古事で忙しかったのでしょう。

あっ、彼が近所の神社で居合の朝稽古中に雪だるまを切った時の事件というか笑い話を思い出したなぁ~。
彼は昔はそんな風に皆を楽しませてくれるナイスな奴だったんだけどね。

そういえば昔『山口さんちのツトム君』ってNHK『みんなのうた』からヒットした歌があったけれど「吉本さんちのツトム君/このごろ少し変よ/どうしたのかナ」と皆不思議なんだけどさ。


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※この追記はまだ続くかも…。秋は何かと忙しいので不定期ですが(苦笑)

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★追記23

懐かしいようなたんなる思い出話です。

◎僕が「コイツ、何を考えていやがるんだよっ!」と思ったひとつ

本年5月末に僕らは大学時代のバイク仲間をまた1人病気で失いました。
その時に彼との思い出話で、バイク雑誌の「悪ライダーコンテスト」的な企画に明学大「井戸端会議」メンバーで各自コスプレして、大学から獲得した駐輪場ガレージ内で写真を撮って遊んだ時のことを書きました。
その時に海賊っぽい真似をした写真を下記に投稿しました。

▼タイトル「あの頃、僕らはバカでした(笑)」
2025年6月3日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e10029645.html

暫くして、Yのブログ(パンセ?)に何処かで見た写真の一部がアップされているのに気がつきました。
現在はバツが悪くなったのか消去されている投稿です。

それは亡くなった友人の上半身をカットしたもので、ブログ(パンセ?)には亡くなった友人の下半身だけがアップされていました。
Yは亡くなった友を親友以上の仲…血盟の同志でしたっけ?…とよく書いています。
その彼の写真を、しかも亡くなったばかりの写真を切る必要が僕にはどうしても理解できませんでした。

何故、彼がそんなトリミングをしたのか理由はブログ(パンセ?)を読んでいてわかりました。

僕がブログで「奥のGSX250E?っぽいのは誰のだろう?」と書いたことへのアンサーでした。
彼は、それが「美研のK村」のバイクだと自慢気に指摘し、 K村のタイヤの減り方を「乗り士」だかなんだかよくわからない造語を使用して褒めていました。

あのさ、僕が言いたかったことは友人が亡くなったことで「あいつとは色々とバカなことやって遊んだなぁ~。それも全て今となっては懐かしい思い出だよな」という思いと、「こんなこと一緒にやってさ、俺たちってバカだったよな。でもバカなことも真剣にやるのが明学の井戸端流だよな」という話を表現したかったのであって、写真に映りこんでいたガンメタの“ザリ”(GSX250E)が誰の愛車かなんて大きな問題ではないのです。
わかるよね?

それなのに、君は永眠したばかりの彼の写真をトリミングして使用していたよね?
ど~ゆう無神経さなの?
お酒で酔っぱらっていて判断力も自制心もなかったの?
そんなことだからR君とのお別れの会でも亡くなった親友から参加を断られたんじゃなかったの?

しかもオマケがあってね。
ブログ(パンセ?)で書いた君は気がついていないけれど、あのガンメタ車はK村君のバイクじゃないよ。
君の勘違いか思い違いだと思うよ。
撮影時、彼は既に卒業して在籍していないのです。
それに彼のバイクは角目ライトのヤマハXZ400にハーフカウルを付けたものでした。色はガンメタだったけどね。
だから、明学生でもない君よりも、少なくとも僕の方が部員のことは詳しいと思うから、あまり適当なことというか、いい加減なことを言わない方がいいと思うんだけどな。

ここに1枚の集合写真があります。
通学問題から結成された「井戸端会議」の初のツーリングで三浦半島を目指した際に鎌倉街道あたりの交番前で「トイレ貸してぇ~」とお願いした時の1枚です。
君の指摘した「美研」メンバーも複数参加しています。
「美研」メンバーは最初っから「井戸端会議」と一緒ですから僕が彼のバイクを知らないとは思えません。彼は一緒に正門前でビラ撒きに参加してくれました。
その頃、他大学(R大)のセクトのキャップだった君は僕のそんな活動に批判的だったんですよね?

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)


もう1枚の写真は「井戸端会議」部員募集のために新入生歓迎シーズン用にプロモみたいのを作ろうと、皆で品川埠頭か大井埠頭にビデオ撮影に出かけた時の1枚です。
その先頭がXZ400の「美研」のK村です。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)


そういえば、僕がアップした写真も使っていましたよね。
僕は君のブログ(パンセ?)を見て、「あれ?この写真、どこかで見たことあったな」と思いました。


▼上木君と彼の愛車「鬼太郎号」(GSX250L)
2025年6月4日付
https://bunkasaikibun.hamazo.tv/e10030244.html

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)


僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

この写真は、Yが亡くなった友人の写真をトリミングした別カットです。
こんなことをやって僕らは仲良く遊んでいました。
居合、ビリヤード、ピアノと色々と多忙だったかもしれないYは、この明学大での撮影会には参加していなかったようです。

誤字脱字、変換ミスの類はご容赦を

※この追記はまだ続くかも…。秋は何かと忙しいので不定期ですが(苦笑)

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僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
RC誌で取り上げられた佐藤氏(大学のサークルの先輩後輩の関係もあるので、ついつい昔の癖で“佐藤君”と呼んでしまいます。もう僕なんかよりも立派な方だから佐藤氏なのですがごめんなさあ~い。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
RC誌に掲載された鈴鹿四時間決勝を疾走する佐藤君の雄姿。カラーでないのが残念ですが、マシンもツナギもヘルメットも青と黄色のモリワキカラーのモリワキマシンを与えられていたはずです。革ツナギの腕にもゼネラル石油の名前がありますが、スポンサーというかチームは石油会社でしたね。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
RC誌に掲載されていた佐藤君の鈴鹿4時間への挑戦の記録です。1年毎に徐々に決勝へと近づいていく努力の様がわかります。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
このパッチは後輩たちに貰った「明学大レーシングクラブ」のものです。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
鈴鹿四耐に挑戦する仲間のために資金稼ぎ(まったく大した額ではなかったけれど)部屋に会った漫画の単行本を叩き売りして、ガソリン代の足しにでもしてくれと大学の学生会館前で「井戸端マンガ市」を決行(笑)黒のTシャツを肩まで腕まくりした姿は5月に旅立ったあいつの姿だと思います。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
横浜ケンタウロスの恒例サマーキャンプに佐藤君が明学関係の仲間を連れて参加してくれた時もありました。ボスと記念撮影です。迷彩Tシャツ姿が鈴鹿四耐決勝を2年連続で駆けた「井戸端会議」最速の佐藤氏
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
カメラマンを佐藤くんに交代してもらって小池もちゃっかりと写真に納まらせてもらってます。この年は僕はバイク雑誌の取材でケンタウロスのサマーパーティーにお邪魔していました。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
この2台が佐藤夫婦の愛車。北海道ツーリングから青森に上陸して、十和田湖で仲間と合流した時なので埃だらけ(笑)なかなか存在しないフルカウルの刀です。しかも排気量がAMA用なのか1000ccで、1100刀よりもフレームも短いとか?かなりレアなマシンは佐藤嫁の愛機です。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
レーサーの点検中の大津弁護士の傍らには、5月に旅立ってしまった上木君もいます。佐藤くんの姿もあります。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
このMFJのパッチは、RHの大津弁護士のチームのものです。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
サーキットに物見遊山というか見学にやってきたとしか思えない場違いな私です。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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モリワキカラーのGPz750ターボも佐藤氏の愛機です。横浜ケンタウロスのボスを送る葬送パレードのスタート直後の1枚です。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
佐藤君のGPz750ターボの横で
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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当時は品川区荏原にあったRHの事務所の土間というかガレージで整備中の大津弁護士のチームのFZR
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
サーキットでスポーツ走行(練習?)の若かりし頃のまだ少年の面影の佐藤君。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
これもサーキット練習の明学大チームなのですが、革ツナギが佐藤君とも違う気がしますがヘルメットで顔が見えないしね、レーサーを押している方がもしかして佐藤くん?(自信ないけど…誰と誰?)
と思ったけれど、左側の革ツナギ姿は■田君だ。彼は佐藤君とは昔からの仲良しで、当時はローソンレプリカに乗ってた印象があります。体育会系の面白い青年でした。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
「鈴鹿四耐」応援の井戸端古本市ですが、みんな売り物の漫画に真剣に読み入ってるし(笑)5月に亡くなった上木の姿もあるし、手前にはレース参戦中の佐藤くんの姿もあるし。今はなくなつてしまった学生会館グリーンホール前の風景です。生協食堂の看板が見えます。僕らの部室はこの二階の生協食堂前の一等地にありました。しかも学内1の広さを誇った自慢の部室でした。東京タワーの夜景も国道1号線も眼下に見えたしね(笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
北海道ツーリングの帰りの佐藤夫婦と毎年北海道に渡っている井戸端キャンプ隊長のAと、偶然にも十和田湖畔で小池900Ninjaが出くわしたところ。「なんか、遠くからヤバそうな複数の音が近づいてくるなぁ~」と思っていたらお馴染みの顔でした(笑)
連絡も取り合っていないし、待ち合わせ時間も場所も決めてもいなかったのに、「あらららら」という感じの遭遇でした。元々、亡くなった漁野が北海道の北の果てみたいな交差点で擦れ違ったのがAで、話してみたらお互い同じ大学だったので、そのまま学校に「新しい部員を北海道から連れてきましたぁ」と帰ってきたそうです。北海道で新たな部員を見つけた漁野の功績でした。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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ガレージ内にMC「井戸端会議」のカンバンも吊るしてあるのが見える
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
佐藤くんのGPz750ターボ改と、奥様の珍しいフルカウル1000刀の雄姿も

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
この号に登場していた僕の姿に「なんで、君が雑誌に出ているの?」とYは驚いてバイク事故での入院先から電話をしてきました。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
もしかするとYは「バリバリ伝説」「あいつとララバイ」の漫画家が新春企画で登場していた号を買ったら、そこに僕が出ていて
「なんで?どうしたの?何があったの?何が起きているの?」と思ったのではないでしょうか?
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
咥え煙草の僕もいますが、これが1983年11月18日の夜に撮影されたRH結成会議の写真です。
当然Yはそんな会議の存在も知る由もなく入院中でした。彼が知るのは、この雑誌が発売されからてのことでした。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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Yが入院先で、この写真に驚いて廊下の端の公衆電話までひょこひょこ行って電話してきたようです。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
BB誌の記事にもあったRH結成前夜に明学大で開催されたミーティングのビラの一部です。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
RH連絡会結成前夜に大学で開催された討論イベント写真です。僕や亡くなった上木の姿や明学大の
バイク仲間たちの顔は揃っていますが、当然ですが他大学(お隣の駅のR大のYは「井戸端会議」メンバー
でもなく、そもそもバイク事故で入院していたらしく(僕も知りませんでした)この場には姿などあるはずもありません
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
RH連絡会の発足が1983年11月18日ですが、その前日の17日の夜には明治学院大のバイク仲間で討論イベントが催されていた時のビラ
(フライヤー)です。明学大はRH結成前夜から動きだしていました。
このビラは僕(小池)の手書きによるものです。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
その討論イベント用のチラシにあった、僕と先日亡くなった仲間の学生証の写しです(笑)実名上等で堂々と名乗りをあげて活動していました。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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セクトの機関紙っぽい新聞にもニカラグアの内戦レポートや日米安保問題と並んで「井戸端会議」のツーリング写真?
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
これも新左翼系の新聞に載せてもらっていたかも(笑)
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大学でのバイク通学問題は「ミスターバイク」誌に僕(小池)も投稿してコラム記事にしてもらいました。
ミスターバイクのコラムは1983年の12月号あたりの掲載だと思います。
東京新聞や夕刊紙かスポーツ新聞等でもこの問題は取り上げてもらったと思います。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
明学大のバイク通学問題はBB誌でも取り上げてもらいました。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
毎日新聞社の「ザバイク」誌にもRH連絡会はお世話になりましたが、その対談記事でも明学大の井戸端会議のミーテイング写真が使用されていました。
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
読売新聞のスッパ抜きとなったRH連絡会の結成報告記事ですが、明学大「井戸端会議」がこの問題でミーテイングを持ったのはこの記事の
4日前の事だったかなぁ?

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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講談社『ベストバイク』誌での連続企画に注目していた僕はかねてからマークしていた大津弁護士にコンタクトし、「明学大のバイク集団としても是非高速料金問題をお手伝いさせてください。当方は仲良しツーリングサークルというよりは戦闘的バイク集団です」とアピールしたかも(笑)

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
R君を偲んで明学大の仲間を中心に集まった会。Yの参加は幹事を怒らせてしまったことでなくなりました。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
U君を偲んでの明学大「井戸端会議」系の集まりに、Yは参加したかったのか人伝に場所や日時を遺族から聞き出そうとしていていた可能性が
ありましたが、明学生に限定した集まりだったので、遺族と面識のない方への情報提供はご遺族側から丁寧にお断りしたようにも
感じました。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)

昔のRH連絡会仲間でのツーリング参加は僕の判断である方の参加申し込みはお断りさせていただきました。
それは小池の一存なのか?それとも弁護士や第二代事務局長などのRH全体の総意による参加お断りなのかと
お怒りの様子でしたが、そもそも既にRH連絡会なんて組織は解散して存在しませんしね。
彼はどの時代を今も生きているのだろうかと少々驚きましたし、僕は彼からきついお叱りもありがたく頂きました。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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月刊プレイボーイに掲載された「スズカ宣言(アピール)」というカラー8ページ記事の部分です。
僕らは取材で乗りこんだというよりは、鈴鹿現地でのアンケート回収アルバイト約でした。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
RH連絡会の提訴日の東京地裁構内ですが、当時R大の学生でYの男友達のバイク乗りがRHに参加していた記憶が
ないんだよね。僕が細かいことは忘れているだけという可能性も高いけれど、この時もYのGFが参加していただけかな。
実際、R大学内でのYの活動や交友関係は僕はまったくといってよいほどに知らないから、知らないだけなんだとは
思います。Yの古い仲間の北海道通信に出てくる元活動家の友達って誰なんだろうな。

僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
このムック本を準備している時は週刊誌の仕事をこなしながら、それが終わると朝までバイク雑誌の
編集部別室にこもって仕事して、朝帰りという二重生活をしていたので、その移動の途中でYの早稲田大近くの
アパートに寄らせてもらったのかな。僕は正社員でもなんでもないフリーなので、支障が出ない範囲で仕事の
掛け持ちはOKだったしね。Yは僕が大手出版社の社員と勘違いしていたみたいだけど、どこの週刊誌も
記者やカメラマンはフリーが基本なんだけどね。業界の事情を知らないだけか、わざと「正社員」なんて美味しい
話を僕に譲ったと言いたいのかなぁ?(笑)


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※私は下記にてフェイスブックもやってます♪
https://www.facebook.com/koike.nobuyuki.92/

▼私の最近のバイクメディア関連露出例
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
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【2025年度】
★『ミスターバイクBG』1月号(P136~137)《不定期連載・小池が往く》(その16)掲載
★『VIBES』3月号(Vol.377)ばいぶず民風(P116~P118)掲載
★『ミスターバイクBG』3月号(P140~141)《不定期連載・小池が往く》(その17)掲載
★『単車倶楽部』4月号(P82中段)イチオシ!ライダースカフェVOICE掲載
★『ライダースクラブ』5月号(P108下段)RIDERS VOICE掲載
★『カワサキバイクマガジン』5月号(P93)掲載
★『ミスターバイクBG』6月号(P142)BG解放区(ミントンハウスとバイクチーム)
★『ミスターバイクBG』7月号(P74~76) 《不定期連載・小池が往く》(その18)掲載
★『ミスターバイクBG』8月号(P142~143) 《不定期連載・小池が往く》(その19)掲載
★『ミスターバイクBG』10月号(P142~143) 《不定期連載・小池が往く》(その20)掲載

【2024年度】
◎YouTube「コロツーちゃんねる」登場。(1月10日付)
【第9回】コロナツーリングバッグの歴史⑥光輪モータース(上野バイク街)がコロナの偽物を販売!?コロナ産業と訴訟!?
https://www.youtube.com/watch?v=oxmucgKa4Pw
◎YouTube「コロツーちゃんねる」登場。(1月3日付)
【第7回】コロナツーリングバッグの歴史⑤コロナガールズの正体とは!?そして、世界的大スターがコロナを愛用してた!?
https://www.youtube.com/watch?v=eG0VFlTlRgQ
★『ミスターバイクBG』2月号(P142~143《不定期連載・小池が往く》(その7)掲載
◎YouTube『コロツーちゃんねる』登場(1月19日付)
【第12回】コロナツーリングバッグの歴史⑦CORIN 光12輪モータースが販売した偽物の画像を入手!そしてコロナ産業は倒産へ
https://www.youtube.com/watch?v=XC1NZiIE8tw
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
★『ミスターバイクBG』3月号(P140~141)《不定期連載・小池が往く》(その8)掲載
★『単車倶楽部』4月号(P14&P31)掲載 Voiceスペシャル!青春バイク
◎コロナツーリングバッグ 3月10日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid02NueiKxNsmhMcdiCdjogS47EmtXQ5an5KeK9Pc78FH84eJHpxFqk47MJTEXdAvL8Kl&id=100061846298063
★『ミスターバイクBG』4月号(P142~143)
《不定期連載・小池が往く》(その9)掲載
◎コロナツーリングバッグ  3月27日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0rxTP4rNxi2hpz7ymNdvpM4WcW1VXXcJp5vFrhdgXHyCMcpBDY9W2HgTaDXe2vBNul&id=100061846298063
◎コロナツーリングバッグ  3月31日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0e34J15wsbKvpbG6Y74WCewLWhunAZXWP8pSqZJCc2jT1oUXAayWedUn9o6Jk2JSjl&id=100061846298063
◎YouTube『コロツーちゃんねる』紹介(4月2日付) 3分40秒頃
【第25回】コロナツーリングバッグの長所や短所、カスタム等々を、イレブンライダーさんと語り合う。
https://www.youtube.com/watch?v=bMdMZvSmeN4
◎コロナツーリングバッグ 4月4日付 ※資料提供
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0wwDDZ4J5iKGqvtPPSQRmbJbsMhEG33btKPdpdomrNJxjCTBemmTVko8rbJnRaVfjl&id=100061846298063
★『ミスターバイクBG』5月号(P140~141)《不定期連載・小池が往く》(その10)掲載
◎コロナツーリングバッグ 4月22日付 ※資料提供
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid034ajrDtqUr8Mo8BP83KQreNLUyZTY2w5yyGsbs7BSY7ipj7n3SZvYMxWD16X4vdF1l&id=100061846298063
◎コロナツーリングバッグ 5月2日付 ※資料提供
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid02QvD6YhEWqCuMVQsKwkiAQwLbZUWwNEQGVWpcaKZzFrtrgzraopcehrZm9jeJL9E8l&id=100061846298063
◎コロナツーリングバッグ Corona Touring Bag 動画登場
2024年5月4日付
https://www.facebook.com/100061846298063/videos/765937185716149
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
★『ミスターバイクBG』6月号(P144)《不定期連載・小池が往く》(その11)掲載
★『ミスターバイクBG』8月号(P64~65)《不定期連載・小池が往く》(その13)掲載
★『ミスターバイクBG』9月号(P136~137)《不定期連載・小池が往く》(その14)掲載
★『ミスターバイクBG』11月号(P136~137)《不定期連載・小池が往く》(その15)掲載

【2023年度】
★『ミスターバイクBG』2月号(P146~147)《不定期連載・小池が往く》(その2)掲載
★『ミスターバイクBG』3月号(P150~151)《不定期連載・小池が往く》(その3)掲載
★『ミスターバイクBG』4月号(P142~143)《不定期連載・小池が往く》(その4)掲載
★『単車倶楽部』5月号(P85/中段)掲載 あなたの聖地巡礼ツーリングVOICE
★『ミスターバイクBG』11月号(P140~141)《不定期連載・小池が往く》(その5)掲載
★『ミスターバイクBG』12月号(P142~143)《不定期連載・小池が往く》(その6)掲載
◎コロナツーリングバッグ  11月28日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid029mXPwkqqRf3uxWmqyPmk8XSitvPG3CVyPqErfrBcCwuGFAU3wszkGYQ1CqGRrxfWl&id=100061846298063


【2022年度】
◎コロナツーリングバッグ公式ウェブサイト 「コロナ通信」3月30日付
https://coronasangyo.ocnk.net/news-detail/221
★『オートバイ』2022年8月号(P159)旅レポート掲載
★『オートバイ』2022年9月号(P151)旅レポート掲載
★『RIDE』2022年9月号「百騎百景」(P78)掲載
★『RIDE』2022年10月号「from Readers」(P81)掲載
★『ミスターバイクBG』10月号(P152)BG解放区掲載
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
★『単車倶楽部』2022年11月号・創刊5周年記念号(P26~27)「愛車物語~君が愛車である理由」登場
★『モーターサイクリスト』11月号(P128)上段写真掲載
★『RIDE』2022年11月号「from Readers」(P80)上段掲載
★『ミスターバイクBG』11月号(P177)≪不定期連載 小池が往く≫開始
★『オートバイ』2022年12月号(P144)旅レポート掲載
★『RIDE』2022年12月号「from Readers」(P80下段~81上段)掲載
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
◎WEB 『Mr.Bike』ニュース(2022年11月28日付) レポート:小池延幸
ヨコハマで100台のバイクが哀悼の咆哮をした日。変わらないのがケンタウロス流
https://mr-bike.jp/mb/archives/34432
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
◎ミスター・バイクby東京エディターズ 11月28日付
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid02sPrKJbZKb88LMcfpRpRoCLcipa5uVXHrg2cwAuHg3uzKzZCG8jjMtF7HENUXXz4el&id=100031771256575


【2021年度】
★『単車倶楽部』2021年4月号(P94上段)投稿掲載 
◎『ストリートバイカーズ』オフィシャルサイト 2021年5月12日付
https://sutobai.com/blog/15495/
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1546406972222411&id=175003892696066

【2020年度】
★『Motorcyclist』2020年1月号(P158上段)投稿掲載 
※2020年の年賀状が『RIDERS CLUB』3月号(P123)、『BikeJIN』(培倶人)3月号(P136)、『オートバイ』3月号(P137)、『RIDE』3月号(P79)、
『タンデムスタイル』3月号(P89)、『ヤングマシン』3月号(P111)、『カワサキバイクマガジン』3月号(P142)、『ミスターバイクBG』3月号(P213)計8誌掲載
◎『ストリートバイカーズ』オフィシャルサイト 2020年4月29日付
long-tour-タンクバッグ3xl-with-カワサキ-ゼファー-χ http://sutobai.com/blog/13877/
◎『シック・デザイン』オフィシャルサイト 2020年7月28日付
マスカレードページにゼファーχアップ
http://www.chicdesign.co.jp/topics/masquerade/mq06_cyoko/mq06_cyoko.html
★『単車倶楽部』2020年10月号(P21上段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2020年11月号(P95下段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2020年12月号(P54下段)投稿掲載

【2019年度】
★『単車倶楽部』2019年1月号 みんなのライダースVOICE 投稿掲載 P29上段
★『単車倶楽部』2019年1月号 みんなのライダースVOICE特別版 投稿掲載 P39中段
※2019年の年賀状が『タンデムスタイル』3月号(P71)、『単車倶楽部』3月号(P87)、『BikeJIN』(培倶人)3月号(P123)、『カワサキバイクマガジン』3月号(P140)、『オートバイ』3月号(P145)、『RIDE』3月号(P79)、『ミスターバイクBG』3月号(P152)計7誌掲載
★『単車倶楽部』2019年4月号 特集/ツーリングの楽しいコト100 
P19下段 投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年4月号 P182~183投稿掲載
★『タンデムスタイル』2019年5月号(P61上段)投稿掲載
★『ライダースクラブ』2019年5月号(P179)投稿掲載
★『BikeJIN』2019年5月号(P164下段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2019年6月号(P62下段)投稿掲載
★『タンデムスタイル』2019年6月号(P71中段)投稿掲載
★『ライダースクラブ』2019年6月号(P139)投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年6月号(P183上段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2019年7月号(P56上段/P66下段)投稿掲載
★オートバイ別冊付録『RIDE』2019年7月号(P77上段)投稿掲載
★『カワサキバイクマガジン』2019年7月号(P99下段)投稿掲載 
★『ミスターバイクBG』2019年7月号(P182下段)「小池劇場」として掲載
★『単車倶楽部』2019年8月号(P14下段)投稿掲載&同号P24、P26にも誌面登場
★『オートバイ』2019年8月号(P161左下)「ツーのさかな」投稿掲載
★『ガールズバイカー』2019年8月号(P101下段)投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年8月号(P182上段)「小池劇場」掲載
★『モーターサイクリストCLASSIC』2019年8月号(P118~119下段)投稿掲載
★『モトツーリング』2019年9月号(P118)下段投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年9月号(P183)「小池劇場」掲載
★『ガールズバイカー』2019年10月号(P95左上)投稿掲載
★オートバイ別冊付録『RIDE』2019年10月号(P78中段)投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年10月号(P183上段)「小池劇場」掲載
★『タンデムスタイル』2019年11月号(P62上段)投稿掲載
★『単車倶楽部』2019年11月号(P62中段)投稿掲載
★『オートバイ』2019年11月号(P179右)「たびのきろく旅ログ」投稿掲載
★オートバイ別冊付録『RIDE』2019年11月号(P78~79)投稿掲載
★『ミスターバイクBG』2019年11月号(P182上段)「小池劇場」掲載
★『単車倶楽部』2019年12月号(P58上段右)投稿掲載
★『オートバイ』2019年12月号(P163右)「たびのきろく旅ログ」投稿掲載
★オートバイ別冊付録『RIDE』2019年12月号(P80~81)投稿掲載

【2018年度】
※2018年の年賀状が『オートバイ』『カワサキバイクマガジン』『ロードライダー』『Bike JIN』(培倶人) 『ヤングマシン』『ミスターバイクBG』『バイカーズステーション』『OutRider』8誌の3~4月号の読者ページに掲載
僕の記憶も随分と昔のことは曖昧になっておりまして…(苦笑)
★『単車倶楽部』Vol.4(2018年5月号 月刊化第1号  P94~P97寄稿掲載
★『道楽』No.23(2018年4月16日発売最終号)特集『道楽キャンプ 愛すべき残党達よ!』P23下段にトピック登場
★『単車倶楽部』2018年6月号 キャンプツーリング特集P25寄稿掲載
★『単車倶楽部』2018年7月号 読者投稿みんなの伊豆VOICE P25
★『MCクラシック』誌 Vol.05(2018年6月号)P139~140 読者の声TALKS投稿掲載
★『ガールズバイカー』2018年8月号 P26 最下段にVTR女房チョコさん登場
★隔月誌『昭和40年男』S40ニュース採用 2018年7月14日付
タメ年が作った「コンテナハウス」に憧れる!
https://www.s40otoko.com/archives/49403
★『単車倶楽部』2018年9月号 みんなのライダースVOICE 投稿掲載P33下段
★『単車倶楽部』2018年10月号 みんなのライダースVOICE 投稿掲載P63上段
★『エンシュージアスト』創刊第2号 2018年8月25日発行 寄稿掲載 P54下段

【2017年度】
★『道楽』No.16(2017年2月16日発売号)P100 「みちコラム」寄稿
★『カワサキバイクマガジン』vol.127(2017年9月号) P113投稿再掲
★『R★B』(レッドバロンマガジン)vol.24(2017年秋号)P22
「走れ!プロフェッショナル」特写記事掲載


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