日常と非日常の境界
私達の暮らしには「ハレ」という非日常と、「ケ」と呼ばれる日常が存在している。
昔は 「ハレ」と「ケ」 には明確な境界があったようだが、現在はどうだろう。
二つの境界は非常に曖昧になり、それ自体を意識することも少なくなっている。
その境界が明確でなくなってきた現代では、 「ハレ」と「ケ」の区別と境界が、よりパーソナルな視点で捉えられているんじゃないだろうか。
たとえば恋愛。
とくに不倫など危険な関係であればなおさらだ。愛人とのたまの逢瀬は「ハレ」になり、「ハレの日」の印象が強烈であればあるほど、「ハレ」の存在は大きくなり、逆に「ケ」は色褪せ始めて、日常への小さな関心は薄らいでいく。
現代の「ハレ」と「ケ」は、「出来事」についてというより、その出来事に対して起こる心の 「ハレ」と「ケ」、「心の有り様」のことを指しているのではないかと思う。
これはある意味で危険な兆候だ。
大抵の人は平凡な毎日を送り、心のアップダウンもそれほど激しくない。それは言い換えると「つまらない」。
そこに突如心を動かす出会いなり出来事が起こり、日常生活に非日常が「こんにちは」と顔を出すようになる。
しかし恋愛は時が経てば、次第に日常性が高くなる。恋愛だけで心のアップダウンを満足させられなくなると、ちょっとしたニュースにも非日常性を見いだすようになり、それが「炎上」を巻き起こすのかもしれない。
「ハレ」は希少性が高いため、その価値も高いと思いがちだか、「日常にこそ価値がある」と世の中に問うたのが 大正時代に起こった「民藝運動」だ。
「民藝運動」は、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、無名の職人達による民衆的工芸品の中に真の美を見出し、世に紹介する、という柳宗悦が中心になって起こしたムーブメント。
Wikipediaより参照
日用品の中に「用の美」を見出そうとする民芸運動の姿勢、これは、心の中の「ハレ」に振り回され、そして手っ取り早くその「ハレ」を手に入れるため分かりやすいものを欲するという、単純な人間性にメスを入れるものでもあると思う。
よく作られた日用品というのは時間の経過とともに味わい深くなり、また新しい美を生み出す。平凡な中に美を見出せる智恵が、「ハレ」よりももっと高く評価されるようになる方が、人はもっと幸せになれる気がするこの頃である。
ほら、高橋ジョージも歌っていたではないか。「何でもないような日々が幸せだったと思う」って。


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