「なぜ自殺してはいけないのか」、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問いかけても、その答えはないと、よくいわれる。
だが実は、「なぜ自殺してはいけないのか」という質問の形式自体が、不毛なのである。
そう問いかけてみたところで、カトリックは禁止だからダメだとか、無神論者ならかまわないとか、人間は死ぬことも選べるほど自由なんだとか、そういう無益な議論になる。その問いかけからは、なにも生まれないだろう。
だから問いかけを意味あるものにするべきだ。もし、そうするつもりなら、「唯物主義の立場にたったとき、なぜ自殺してはいけないのか」と問わなければならない。
だが、そう問うならまず、唯物主義とは何かを理解しなければならないだろう。
唯物主義とは、すべてを物質だと考える立場のことだ。
つまり唯物主義とは「人間の主体は脳である」とかいう考え方のことである。子供でも知っている、まったくあたりまえの考え方だ。世界中の常識といってもいい。誰でも知ってる常識なんだから、「唯物主義」という言葉を知らないし、知る必要も感じない無自覚な唯物主義者も世界中に大勢いることだろう。
しかし本当は、「人間の主体は脳である」という考え方を、素朴に受け入れるべきではない。
脳が人間の主体だということは、じつはあのグロテスクで無個性な脳ミソが、笑ったりしゃべったりしていることになる。皮膚の外に見える姿や顔の表情は、その人間の本体ではない。すべては皮膚の中の脳ミソが考え、感じ、反応し、意志して、やっていることだ。普段はあまり意識してない自分の常識をつきつめると、人間の正体が脳だということがイメージできる。そこには、身体中にはりめぐらされた神経網がつながっているだろう。
実際に誰かをそのようにイメージしてみて、一体どんな気分がするだろうか。MRIとかCGの見せる脳や神経網の映像には、驚きや、ある種の規則的な美しさを感じるかもしれない。だが、そこに尊厳や価値をも感じることは可能だろうか。
自分の愛する人が、目の前で笑ったりしゃべったりする。誰かにとってはどうでもいい笑顔であっても、自分にとっては価値のある、特別に愛を感じる笑顔である。自分はその言動に愛を感じて、求愛する。昔から人類が繰り返してきたであろう、人間にとって大切な営みである。
その愛を、唯物主義の立場にたって説明すると、次のようになる。
「私の愛する人は、まず視覚や聴覚等の感覚器官から外部の情報を受けとる。その情報は神経網から脳に伝わり、脳の中の側坐核や言語中枢といった領域を、すでに形成されている海馬等の記憶中枢にある個人的な記憶内容に従って刺激する。そこから瞬時に、もしくは時間をかけて組み合わされた反応や思考は、イオンチャネルの開閉によって生じる電気的インパルスで神経細胞間を通り、それが身体器官に伝達されることで、反射や思考内容という行為が外部に表現される。こうして、愛する人は笑ったり、しゃべったりするのである。
その現象を知覚した私(正確には、私という自己は脳機能のひとつにすぎないので、私は私を便宜上、私と呼んでいるだけであり、私は脳である)は、愛する人への思考内容を、イオンチャネルの開閉によって生じる電気的インパルスで神経細胞間を通して胸部に伝達する。そして私の胸部は、電気的インパルスに伝達された情報でみたされ熱を帯びる。私は、その電気的インパルスに対する反応や思考内容を、筋肉の動きによって表現する。
このようにして私、というより便宜上私を私と呼ぶことにしている脳ミソは、愛する人、というより愛する人という風に便宜上呼んでいる、側坐核を特別に刺激する表皮をもつ特定の脳ミソにたいして、求愛するのである」
シニカルなSFのように、唯物主義は愛すらもそのように機械的な現象に還元できる。そこでは私が愛する特定の存在も、たんなる一般的な機能の説明へとすりかわる。
唯物主義の観点からでも、遺伝子などの機能を用いてある存在の特別さを説明することは可能だろうが、しかしその方向から説明したところで事情は変わらない。すべては、合理的な機能性でしか説明されない。
その思想は、いつも機能性でのみ人間を説明する。だから上のように、徹底的に機能性で説明していくと、そこには嘲笑的な馬鹿馬鹿しさがあり、みごとに人間の営みの価値をはぎとって、突き放して見せることがわかる。まるで冗談みたいなものの見方だが、唯物主義をつきつめるとこうなることは、本当は冗談ではすまされない。
もっと単純に、「人間は蛋白質のかたまりにすぎない」と、唯物主義的に考えるとする。
あの蛋白質の画像をイメージして、そのイメージに生命の価値や尊厳を感じとることができるだろうか。「蛋白質だってかけがいのない生命だ。だから蛋白質を大切にしよう」というスローガンをかかげる人などいないだろう。
そもそも唯物主義的科学の説明によれば、すべての地上の生命の母は原初の海に理由もなく偶然発生した、たんなる蛋白質その他の化合物である。つまり現在のわれわれを存在させてくれた尊い御先祖は、記号的な形の蛋白質だというわけだ。
このような馬鹿馬鹿しい人間像や世界観をはっきり認識していないとすれば、それは自分のもつ常識の内容を、つまり唯物主義の内容をつきつめていないだけだ。ふつうは素朴に、「人間の脳の中の海馬は短期・中期的な記憶と関係していて…」などという、実験によって確かめられた「部分的」な事実を確認するだけで終わるだろう。あとは、新しく発見された脳機能のニュースなどを見て素朴に驚くだけだ。
だが、「すべては物質である」という唯物主義の考えるルールに従って、その「部分的」な事実を「全体的」なものにしようとしたとき、唯物主義は常に奇妙な、無意味な結論を導きだす。
なぜなら、唯物主義がその正当性を発揮するのは、蛋白質や脳の機能の説明という、「部分的」なものに限られるからである。それを、人間の存在や生命の起源という「全体的」なものに当てはめようとすると、唯物主義の理論は破綻する。人間の脳を模倣してつくられるロボットの人工知能が、強化学習プログラム等の発展によって未来に自我を獲得するだろう、というSFの話は、実はこの唯物主義の延長なのだが、自我が脳機能の一部にすぎないということはまったく証明されておらず、「脳が脳の意志によって脳から思考を分泌する」という唯物主義の理論の奇妙さをよく考えれば、そんなことはたんなるSFのアイデアでしかないと思わざるをえない。
唯物主義は、一般にひろく信じられている常識であるが、素朴に霊魂などの存在を信じる、唯物主義者ではない人もいるだろう。しかし、たとえば葬式で死者の霊魂を弔うとき誰かに、「霊魂なんてあるわけないし、それは脳機能のひとつにすぎないんだ」といわれたら(葬式のときにそんなことをいう人は多分いないだろうが)、その主張に対して論理的に反論することは困難だろう。だがそんな理屈がまかり通れば、葬式や死者を弔うという、人間に必要な営みもまた、完全に無意味にされてしまう。なぜ、原子レベルに還元されて霧散するだけの物質を、儀式で弔わなければならないのか。原子は原子でしかなく、他の物体や気体がもっている原子と違わない。遍在する無機質な原子を、古来の伝統的な儀式によって神妙に弔うなんて、冗談でしかないだろう。
だが実は、科学者らによって唯物主義はすでに否定されている。
迷信や幻想の曖昧な思考の宗教に対して、堅実でリアルな科学的思考であることが唯物主義の武器なのだが、その武器の扱い方、つまり還元主義が科学者に否定され、批判されているのである。たとえばポパーやエクルズのような哲学者や科学者によってである。
そもそも科学的な態度とは、事実は事実として認めるが、まだそうでない推論を事実のようにいってはならず、それは「まだわからない」といわなければならないはずだ。
誰かがある事件のうわさを聞き、それについての情報源や証拠を確認し把握してから、それを事実ということは正当だが、たんなるうわさや、その事件についての意見を事実ということは不当だろう。
そのように、確認された事実や法則は認めるが、そこから推測された「仮説」を事実のようにいうことは、本来許されないはずである。
かつて、自殺願望のある女性が、「人間は遺伝子プログラムにあやつられた乗り物にすぎず、人間は遺伝子のコピーを増やすための機械にすぎない」という唯物主義的科学の説明を信じ、生きることの無意味さや虚無感を強めていたという。
ドーキンスの著作『利己的な遺伝子』において、人間は遺伝子プログラムの必然の中にあって、しかし自由意志があることを結論部分で肯定しているとしても、その虚無的で荒廃した理論はそれを受けとる者にたいして破壊的に作用しただろう。その女性が、自由意志を肯定している結論部分まで読んでなかった可能性はあるが、人間を「遺伝子プログラムにあやつられる機械ロボット」だと、ドーキンスが著作の冒頭で明言したのは本当である。つまりその女性は、たんなる仮説にすぎないものを、真実だと思い込んでしまった。
人間の生と死は、唯物主義の還元によってすべて無意味にされる。唯物主義者であることは、同時に無神論者であり、そして死後を無だと考える立場である。「すべては物質にすぎない」という考え方のルールに従うなら、必ずそうなる。
創造主である神がいなければ、世界や宇宙や生命の出発点は、無であると考えるしかない。唯物主義の説明する生命の起源が、原初の海に偶然発生した蛋白質とか、宇宙誕生の際になぜか存在した微細な物質のように、すべて偶然か無から生じたと発想されるのは、神秘的な世界観によるのでなければ、それが無神論だからだ。
しかし、唯物主義の立場にたって、何かが無から生まれるとどうしていえるだろう?唯物主義とは合理的な因果関係なくして説明できない考え方だ。なのに、無から超微細な物質が発生したとするのは、その前提を無視していることになる。
フランチェスコ・レディ(1626―1697
)は対照実験によって、当時常識的だった自然発生説(偶然発生説)をくつがえした。レディは条件を変えた複数のビンを使って、腐肉の入った蓋をしたビンにはなにも発生せず、蓋をしてない腐肉の入ったビンにはハエが入り込み、そこからウジがわくことを観察した。そしてそのウジがハエにかわることを観察し、自然発生説の誤りを証明した。
それまでウジは、肉を腐敗させるとそこから自然に、つまり偶然に発生する、と考えられていたのである。
今、ウジが腐肉から偶然に発生すると考える人はいない。あたりまえである。レディのような科学者たちがしてきた確実な証明の積み重ねを学ぶことによって、つまり偉大な先人の恩恵によって、現代人は知性を明るくしてきた。それは、どう考えてもすばらしいことであろう。そのこと自体は、なにひとつ批判する余地はないはずである。
だが、科学に知性を明るくされた現代人も、宇宙の起源や地球生命の起源の説明となると、ウジが偶然腐肉から発生するというのと同様の考え方をしている。
地球生命の起源は、宇宙光線の影響などによって偶然発生したという。宇宙の起源は、それ以上分割できない物質が偶然無から発生したという。
だが、ありとあらゆるすべてが物質にすぎないという前提に立つなら、その物質の起源が無から発生したと考えるのは、首尾一貫していない。その物質は、無などという物質でも精神でもない、説明不可能なものからではなく、当然物質から生じなければならないはずである。
唯物主義は、生命の因果関係をその根本的な起源までたどるとき、かならず「偶然」で片付ける。突然変異とか、宇宙光線の影響とか、無から生まれたとかいう、つきつめると無意味になる説明によってである。つまり、唯物主義は原因をさかのぼると説明しきれなくなるので、無や偶然という説明不可能なものに頼るしかないのである。
だが、そういうなら神による創造も同じことになる。宇宙のありとあらゆるものは神が創造なされたという。では、万物を創造なされた神は、一体何によって創造されたのか。メビウスの輪のように、その出発点をたどることのできない無限の連鎖の中のどこかで生まれたというのだろうか。もしそうなら、無から物質が発生したとする説も、うまくいくかもしれない。
だがそのような説明が誤魔化しであることは、物語に親しんできた者ならわかるだろう。
ドラえもんは、ある時疲弊した人気漫画家の代わりに漫画を完成させるために、タイムマシンで未来の完成原稿をカンニングしてきて漫画のつづきを完成させる。しかし、その漫画のつづき描いたのは未来の漫画家のはずだが、今漫画を描いているのはドラえもんである。ドラえもんみずからがその漫画のつづきのアイデアを創造することはできない。その漫画は、漫画家が読者の人気取りのために、わざと主人公を絶体絶命のピンチにして次回につづかせてあるのだが、漫画家もその先のアイデアが思い付かなくて困り果てている。だからこそ、ドラえもんはタイムマシンでつづきの内容をカンニングしてきた。しかし漫画家は疲弊して倒れてしまい、それ以上漫画を描けない。実際につづきを描いているのはドラえもんだ。
つまりこの作品の中では、「だれもアイデアを創造していない」ことになっている。だからさいごにドラえもんは、「だれがこの漫画を描いたのか?」と悩む。
そのような説明やトリックは、だれが最初に署名したかわからないようにする連判状みたいなものだ。結局、問題をよそにずらしているにすぎない。SFにはよくある作劇上のトリック、またはジョークである。
とにかく、どの立場にせよ起源までたどることができなくなるのだが、とはいえ唯物主義の立場は明らかに矛盾している。
精神的な存在を認める神秘学のような立場であれば、神のまた神をたどれないことを説明できないことが必ずしも矛盾しているとはいえない。なぜなら神秘学は、そもそも世界を謎だとしているのだから。
しかし唯物主義は傲慢にも、謎である世界や人間の神秘を認めず、世界や人間をすべて物質として説明できるとしている。その強引さの矛盾は、ポパーらが指摘するように、いつの日か「偶然に頼るしかない部分」もきっと証明されるだろう、という、「約束」に頼るしかないのである。
死後の世界を無だと考えるのは、天国と地獄や輪廻という死生観が非科学的だからだ。「一度も死んだことのないやつの報告を、なぜ信じられるのか」という唯物主義者の疑問はまったく正当だ。
であれば、その正当な疑問は当然、「死後は無」だとする説にも向けられる。「一度も死んだことのないやつが、なぜ死後が無だと断言できるのか」といわなければならないはずである。
さらに、死後は無になるというなら、その世界の報告はおろか、観察自体が不可能だ。であれば、死後が無であることの「科学的な」証明は、永久になされないことになる。その存在を誰も観察しえないのなら、科学的に証明できるはずがない。将来的に誰かがその不可能性を打ち破るアイデアをもちこむ保証は、今のところない。このことは、唯物主義者であっても、少なくとも論理的には、納得できるだろう。
問題は、死後が無だとする死生観が、ときに人間の生を絶望的にすることにある。だが無神論者は、「宗教の死生観はそのような絶望を受け入れられない、弱い心が生み出した妄想にすぎない」と、よく反論する。だが、そのような反論は死後は無になるという死生観にも返される。「死後は無だとすることは、人生における自己の責任や課題を受け入れられない、弱い心が生み出した妄想にすぎない」と。
だがどちらにせよ、死生観などというものは観察しえない仮説にすぎない。唯物主義の立場にたてばそうなる。
であれば、人間が何を信じようと勝手であり、その確実な真実は、「死んでみなければ絶対にわからない」。
このことをはっきりと認識すれば、死後は無だと信じて、理由もなく生を放棄することは、不合理であり、そして、おそろしい賭けであることがわかるだろう。自動車が機能停止して動かなくなるように、人間もいずれ機能停止して動かなくなるのだから、人間の存在も、意識のない眠りの状態のように死後無になる、と断定するための観察内容も保証も、本当はどこにもありはしないのだから。
「自死が悪なのかどうか」という問いかけは、不十分な質問である。それが悪か善か、もしくは正か邪かを判断するには、各状況と各行為に依存する。だからそう問うならば、具体的な状況をも問わなければ意味がない。
たとえばある人が、自分が死ぬことを予想できた行為をして、救うべき誰かを救ったのだ、と客観的に判断される事実の情報があれば、それは万人によっても「正当な自死だ」と見なされるだろう。誰かを命がけで救い、結果的に救出者の生命が犠牲になったとき、その救出者の死が「しかしほとんど自殺と見なせる行為だから、無条件に悪だ」などと判断する人はいない。
しかしだからといって、たとえば「自殺したいがために」、誰かを命がけで救うエゴイズムはおそらく正当化されないだろう。動機の内容は、必ず判断の対象になるからである。
ある作家が、国を救うという理想から自決したという表面上の動機は、実は弱い自意識の埋め合わせとしてそうしただけなのではないかという、本当の動機の看破によって、その正邪が客観的に判断される。
ある人が、テロ組織に捕縛された同胞を救うべく現地に乗り込み、そして結果的に両者の生命がテロリストの犠牲になったのなら、その善悪や正邪の客観的な判断はその状況による。そして彼の動機や判断や、その影響も問われる。もちろん彼らを殺害したテロリストの善悪も問われる。
ここで確認するべきなのは、人間はそのように、あらゆる事実の情報によって状況を判断し、善悪や正邪をある程度、判断することができるということだ。だからここで、死ぬ人は他の人間の判断を気にするべきだとか言っているわけではない。誰かがそのように判断するように、自分もまた、自分の行為の欺瞞や正当性を、ある程度まで客観的に判断し、直観できるはずである。
ありきたりな善悪二元論を批判する文脈で、「善も悪も本当はないのだ、それは各自の正義を信じる立場によって変わる相対的なものだ」、などというのは現実のものではない。テロリストの蛮行が、彼らにとってどれほど歪曲された、もしくは同情の余地もある一面的な正義でも、一般市民のかけがいのない命を、自己の正義のために残忍に奪う行為が正当化されることはない。
そのように、明らかな不正は存在するし、明らかな善行もまた存在する。ただ、現実にはその判断のつきにくい、半端な中間項が無数にある。それらは各人がその都度しっかり判断する必要があるだろうし、なにが正しくなにが不正かは、時間がたたないとわからないこともあるだろう。だがそもそもその感覚なくして、なぜ法や社会貢献や行政批判や、一市民としての生活が成り立つだろうか。
ある行為の善悪が歴史の変化とともに変わることは必然であり、かつて善であったりあたりまえだったことが、今は悪になってしまうのだとしても、それは善悪が状況に依存しつつ存在することの証明である。
では、自殺者が、耐えがたい苦痛から逃れるために行う自死は、どう判断されるべきなのか。そのような常識的な善悪で判断されるのか。
いや、それを単純に善や悪、正や邪等にふりわけることなどできない。自殺者の自殺の原因になる苦痛の耐えがたさを思えば、その苦痛を実感もしくは肩代わりできない他人ごときに、客観的に善悪を判断される筋合いはない。それは硬直した宗教のドグマによってもまったく判断されない。はげしい苦痛や絶望が続いているから死にたいのに、それを共感し共苦できず、肩代わりもできない他人が、なぜ簡単にそれをダメだ、逃げだなどといえるだろう。
それは各人の本能や良心、生きたいと願う気持ちによるしかないだろう。他人としては、それでもどうか生きていて欲しいと願うしかない。
しかし輪廻転生の概念によるならば、自殺の正当性は必ずしも認められるとはいえない。
なぜなら、輪廻する人間は、あの世で携えた課題を果たしつつも、自由に自分で望むことを行為して、「この時代、この地上」でしか経験できないことを経験して、カルマの法則によって過去の不正や過ちを精算して魂の均衡をとり、精神や魂をさらに豊かにし発展させるために、輪廻し続けるからである。
自殺は、その課題や、魂の力の向上や過ちの精算の可能性を、自らの手で途中放棄することである。
だが自殺を考える者には自己を向上させようという余裕などなく、耐えがたい現在の苦痛と、未来の自己の発展や望みを秤にかけると、苦痛の方が勝っているからこそ自殺を考えるのかもしれない。そもそも輪廻思想を信じる者にすら、自己の望みやカルマの見通せなさは、重くのしかかる課題である。生きることそのものがとてもつらいなら、まさに人生を途中で放棄できることをこそ、望んでいるだろう。
自殺を考える者が、一方の秤の上に「はげしい苦痛や絶望や憂鬱さや、自殺願望」を乗せているとして、他方の秤に乗せている「生きることへの希望」を置くことが、誤った常識によってほとんど不可能にさせられているのだとしたら、己のもつ思考の常識的な枠組みを再検討し、構築し直す意味は十分にあるだろう。なぜなら、そうすることによって、一方の秤の重さ、つまり絶望を軽減し、他方の秤の重さ、つまり希望を、重く価値あるものにすることができるかもしれないからである。
われわれ日本人にとって、輪廻転生の概念は身近である。それは漫画やゲームにも取り込まれていて、それがどういうものなのか、誰でも耳にしたことがあるだろう。しかし実際のところは、「知っているけど、べつに信じてない」という場合が多いだろう。仏教によって葬式をする家庭にしても、死者が輪廻するからと思って儀式を行うわけではない。なんとなく決まっているから、もしくは悲しみと決別するために儀式を行うのであって、特に意味などありはしないし、あったとしても信じない。
いや、それどころか輪廻思想は害悪であると考えられる。
あるインドの青年は輪廻思想を信じているが、なにもせず土間で寝てばかりいる。なぜそうなのかと問うと、「どうせ生まれ変わるんだから、今回の人生は怠けてすごす」と答える。
また、ある漫画のファンたちは、その漫画で描かれた輪廻思想を信じている。ファンたちは、もしかしたら自分の容姿の平凡さ、能力のなさ、そして現世のつまらなさに失望していたのかもしれない。ファンたちは、来世で漫画の中の人物のような人間に生まれ変わるために、集団自殺する。
また、昔あるカフェにいくと、そこにはあらゆる「自称」偉人の生まれ変わりが集まっていたという。彼らは自分が、前世でホメロス、ナポレオン等の世界史的な人物だったと信じていたという。
このようなできごとから導き出される結論は、次のようになるだろう。
「輪廻思想は、人間の生をダラダラと弛緩させるものにする。幾度も幾度も永遠に生まれ変わってけじめがない思想なのだから、そうなるに決まっている。しかし、死後は無だとするなら、死後は確かに絶望的だが、それは無という絶望を歯止めにして、現在の生のかけがえのなさを輝かせうる。人間は必ず死ぬし、死んだら無になるからこそ、今を大切に生きるのである。どちらの思想が人間にとって必要な真実であるかは、明白である。さらに、輪廻思想は現在のかけがえのない一回限りの生をないがしろにする。どうせ生まれ変わるんだから今回の生はリセットしてもかまわない、と。輪廻思想が、そのような悪影響を人心に与えたことは事実だ。また、輪廻思想は己の分をわきまえず、肥大化した自意識を満足させるために、自分の前世が偉大な人物や崇高な存在だったという妄想をうえつけ、現実の自分の改善すべきみじめさから目をそらさせ、当たり前になすべき生活や義務をないがしろにさせる。
だからこそ、輪廻思想は否定されるべき死生観なのである」
また、輪廻思想はけっきょくのところ、権力者が民衆を支配するために編み出した、狡猾で人為的なシステムにすぎないという。昔のインドでは、権力者が輪廻思想の中にカースト制度をしくことで、シュードラ(奴隷)などの身分の低いものたちも、我慢してがんばって働けば、バラモン(司祭)等の上位の身分に輪廻できるのだと嘘をつき、支配につきものの民衆の暴動の怒りを巧みにガス抜きしつつ、搾取していたのだという。
だがミヒャエル・エンデらが指摘するように、輪廻思想がヒンズー教や仏教のみならず、実はキリスト教の福音書やユダヤ密教のカバラといった他の宗教にも含まれていたのだとすれば、少なくとも、それがある土地の権力者が支配の道具として生み出したものにすぎないとする上記の様な仮説は破綻する。仮にインドからギリシャに輪廻思想が伝来したのだとしても、なぜピタゴラスやプラトンが、そのたかだか権力者のあみだした道具にすぎないものを信じるというのか。ソクラテスやフィヒテやエンデが輪廻転生や魂の永続性を肯定するのは、その概念に正当性を認めるからそうするのであって、時の権力者が支配の道具として利用したかどうかは、輪廻転生の概念の正当性にはまるで関係のないことだ。
人智学の示す輪廻転生の概念は、われわれ日本人が「なんとなく知っている」輪廻の概念と同じではない。もちろん、永劫回帰などという思想と同じでもない。
その正当性を認めるためには、まずその概念を「なんとなく知っている」のではなく、よく知って、理解しなければならない。「なんとなく知っている」状態にとどまるからこそ、上述したような、歪んだ行為も成り立つのだから。
どうせまた次の人生があるからと土間で寝てばかりいるなにもしない青年も、この人生を放棄し生まれ変わったら魅力的な人間になれると思ったファンも、自分の前世が偉大な人物だという妄想にとりつかれていた者も、輪廻転生の概念を正しく理解していない。
正しく理解された輪廻転生の概念によるならば、第一に輪廻する人間は現世で努力した経験内容が来世に引き継がれるのであり、第二に前世の失敗や罪は、カルマの法則によって魂の負債を取り除くチャンスが与えられているということになる。
土間で寝てばかりいる安楽な青年は、精力的に努力する人間や、また、病にふせているため一見なにもしていなくても、苦痛と闘って必死に人生を生きようとしている人間に比較すると、来世に引き継いでいける経験内容や魂の力、つまり能力があまりにも希薄だろう。苦痛と闘いつつも、必死に自分の人生を生きようとした人だけが、魂の力を向上させる。負荷がなければ向上もない。苦痛を経験するからこそ、魂の力は強められる。
その青年はもしかすると、「なにもしなければカルマの罪がこれ以上蓄積されることもないから、怠ける」と考えていたのかもしれない。だが、カルマの帳簿に記載される罪の蓄積を恐れてなにもしなければ、彼の経験内容や能力が高まる可能性もない。傍観者的で愚鈍な生き方を是とした人間は、来世においてもその生き方を相応の形で引き継ぐことになるだろう。
特に自分を変えようという努力もせず人生を放棄し、安易に憧れの存在に生まれ変わろうとした者の来世の素質は、現世で得た能力の延長でしかないだろう。
前世で偉大な人物だったと思い込んでいる者が、しっかりと直視することを放棄した自分の凡庸さやみじめさは、来世においても本質的になにも変わりはしないだろう。
なぜなら輪廻転生の概念の核をなすカルマの法則とは、「自分のしたことが、自分に返ってくる」という法則だからである。
"高貴な人間が何百年にもわたって自らに等しいものに働きかける。
善き人間が目指すものは、人生という狭い空間の中では到達できない。
それゆえに、人間は死ののちも生きていたときと同じように働く。
善き行い、美しい言葉を求めて、死ぬほど努力したように、いまや死ぬことなく努力する。
芸術家よ、君は限りない時を貫いて生きる。不死を楽しむがよい。"
このゲーテの詩が描いたように、輪廻転生の概念は人間のたゆまぬ努力を、完全に肯定する。
現世の人間のもっている素質は前世の努力に由来するものであり、来世の人間の素質は、現世の人間の努力内容にかかっている。現在、どれほど弱く、才能にとぼしく、素質に欠ける人間であっても、必死に、ひたむきに努力し続ける価値はある。
だから自殺願望のある者が、そのはげしい苦痛や絶望と闘ってあきらめず回復をめざすことは、魂の力を強める正当な努力だ。その苦痛を知ることもできぬ他人は、むしろその努力内容と態度に敬意を払うべきだ。
自殺願望のある人間は、平凡な人間にはわからない絶望や苦痛を抱えている。完全に平和な世界がありえないように、苦痛のまったくない人間もいない。
だが仮に、ある人間の人生に、退屈や良心の呵責や危機感や反省やプレッシャーや心の痛みなどを含めた苦痛がまったくないとすれば、その人間はなにも学ばず、成長をうながされることもないだろう。彼はただ安楽に生き、怠惰で弛緩した日々をすごして、生温い幸福に浸って魂の力を萎えさせていく。
外的にしろ内的にしろ、苦痛という障壁が存在するからこそ、人間はそれを乗り越えようという欲求を、切実に持つ。そして、もしそれを乗り越えることができれば、その人間の認識力や忍耐力といった様々にある魂の力が強化されていることに、いつか気付くだろう。
だが、あまりにも絶望的な苦痛のみがあって、ひとつの希望も、慰めすらもないなら、その苦痛は正当な苦痛とはいえない。
運命が与える正当な苦痛は、「その苦痛を感じる方向」にある課題を乗り越えた時に取り除かれるはずであり、振り返ったとき、誰でも、その苦痛こそが己を成長させたと実感できるはずだ。
その苦痛はやがて取り除かれる苦痛であり、それを取り除くためには、闘うための衝動か、理由か、内的な熱エネルギーが必要だ。
だが唯物主義の立場にたてば、耐えがたい苦痛と闘い続ける意味などどこにもありはしない。それは、「唯物主義のルールの中」ではいくら考えても見つかるはずはない。
もし、苦痛に耐えてでも生きることに意味を見いだそうとするなら、少なくとも、唯物主義や還元主義ははっきりと否定できなければならない。これは大前提である。
そして、「世界には、ほんとうは意味があるともないともどちらともいえない」、というゼロからスタートするなら、自分で生きるための意味や希望を、その都度創りださなければならないだろう。
そして、輪廻転生の概念によるなら、そのルールからは、確実に生きることの意味を見いだすことができるだろう。苦痛に耐えて闘うことの意味も、努力し失敗しつつ、また努力にむかうことの意味も、才能があろうがなかろうが、誰かの役に立とうが立つまいが、必死に努力し続けることも、はっきりと肯定されるだろう。
しかし、輪廻や神といった精神的な世界観には、多くの人間にとって乗り越えがたい壁がある。
つまりある人は容易にそれを受け入れるが、ある人はたとえ頭で納得できても心がついてこない。
プラトンやソクラテスが魂の永続性を論理的に証明してみせたところで、彼らの無意識にある精神的な世界観への反発が、それを受け入れることを拒否する。なぜなら、彼らには精神的な存在への、つまり霊や魂などへの無意識の「恐怖」があり、そして彼らはその原因そのものを、受け入れられないからである。
だがそのような場合でも、すでに科学によって否定されている唯物主義を捨て去ることは論理によっても可能だろう。
輪廻転生の概念を受け入れることが不可能であっても、人心を荒廃させる、常識的な唯物主義の世界観を無力化することで、その人間は新たな立場にたつことになると思う。
その立場は、次のように要約される。
「世界や人間は、やはりすばらしく謎にみちたものであり、自然科学の部分的な説明は証明された事実であるが、その全体的な説明は証明されない仮説にすぎず、だから本当は、世界や人間にはまだ意味があるともないともどちらともいえない。
そのすばらしい謎に対して性急に判断を下すよりも、観察や、体験の強力さや、心を温めてくれる美しいものを、決まりきった概念を当てはめてすぐにわかった気になるのでなく、その内容をありのまま受けとり、自分に作用させるべきである」
その立場にたつなら、その人間の心は世界に向かって開かれ、観察や体験した内容を、抽象的な概念によらず、先入観なしの、ありのままのイメージの形で受けとる。特に自然から観察されたイメージの数々は、おそらくその人間の内面を充実させるだろう。
以上の考察をふまえ、改めて「なぜ自殺してはいけないのか」と問うなら、唯物主義の立場にたてば、人間の存在は無価値で無意味で空虚であり、死後は無であるから、そうしてはいけない理由はどこにもない。
輪廻転生の概念を信じる立場にたてば、それは流転する永遠の魂にとってかけがいのない、この一回限りの、二度と戻ることのできないこの時代でしか経験できないことを放棄することになるから、肯定されないという解答になる。
そして先程示した第三の立場によるなら、死後の世界は無を含めてすべて仮説にすぎないのだから、無に消えて楽になれると思って自殺することは、結局死んでみなければどうなるかなどわからないのだから、危険な賭けであるといえるだろう。
そして、シュタイナーの人智学(神智学)の立場によるなら、自殺する人間の霊魂(エーテル体、アストラル体、自我)は突然その身体(物質体)を失う。卒中などのように突然に自然死する場合なら、その分離はすでに準備されているから比較的容易に分離され、身体(物質体)の欠乏感は非常に少ないのだが、しかし自殺の場合、健康で、まだ固く結び付いていた身体(物質体)と、霊魂(エーテル体、アストラル体、自我)が準備なしに突然分離することになり、そして死の直後、身体(物質体)を失った喪失感に襲われ、それが恐ろしい苦しみの原因になるという。自殺者は自分がくりぬかれたように感じ、突然失われた物質体を求めて、ぞっとするような彷徨がはじまる。このものすごさに比較できるものは、なにもない、という。(ルドルフ・シュタイナー『神智学の門前にて』イザラ書房p42参照)
では、事故死の場合はどうなのか、その場合もやはり、準備なしに身体から霊魂が分離するのだろうから、欠乏感に苦しむのか、という疑問が生じるだろうが、そのことも、この著作の中で間接的に整合性がもたされている。
僕などはシュタイナーの厳密な思考能力、そして政治、経済、歴史、医学、自然科学、天文学、芸術、哲学、教育、農業といったあらゆるジャンルに渡る彼の鋭い観察力と洞察力を信頼しているので、この洞察だけをたんなる仮説にすぎないとして切り捨てることはできない。
もちろん、論理的にいえば、死後の説明はすべて仮説にすぎないのだが、シュタイナーによればそもそも認識には限界がなく、見霊能力のある人間の自然科学の方法による観察内容は、ただ肉眼や顕微鏡で観察されたものか、訓練され開発された霊眼(やその他の超感覚的な能力)によって観察されたものかという違いしかない。問題があるとすれば、どちらもその観察内容の誤った解釈や説明がありえる、ということだ。
「可能性という言葉は無制限に使用されるべきではない」という言葉がある。確かにその通りだ。
しかし、各人の思考力によって論理的にたどれる観察内容があり、その内容を検証してみて、もしそこに正当性を認めることができるなら、論理的には仮説にすぎない死後の世界の報告といえど、その可能性はある、というべきだろう。
このことは、「死後の世界は観察しえないのだから、科学的にそれを証明することは不可能である」という論理と矛盾していない。なぜなら、シュタイナーらによれば、人間には肉眼以外の感覚器官(霊眼)の発達によって認識能力を向上させて、死後の世界すらも観察可能になるからである。そして、「死後の世界は観察しえない」という前提にたてるのは、新しい観察能力を開発していない人間だけなのだ。つまり、人間や世界に意味や価値を与えることのできる可能性をもつのは、現在の科学の認識能力をこえた観察による。
そのような神秘学の観察や概念が、今、大学の学者によって公的に研究されることまでも可能になっている。一昔前なら、そのような研究など、公的にはとても不可能だったという。
それは、世界中の常識となった唯物主義の世界観が、あまりにも冷酷な、心を荒廃させるものであり、そして危機を日増しに高めている現代社会を生きるのに、これ以上そのような虚しい世界観に立脚していては、もはや耐えられなくなってきていることと無関係ではないだろう。
僕たちの生きる社会は、あまりにも冷酷であり、あまりにも心を温めてくれるものに欠けている。本来社会共同体の主体であるべき人間すらも、システムの中で時給いくらで生産させ、納税させるための労働力、そして大量に無駄に生産されるモノを買ってもらうための消費者という、ひとつの道具、数字のようなものとして扱われている。昔、商店街や地域では、互いを思いやり、声をかけ、互いの家族構成や現状に興味をもってよく知り、関係ない他人の家の子供の面倒を見、肩寄せあって生きていたと聞くが、そんなものはもうありはしない。いや、部分的にはそういう所もあるというが、それはごく一部にすぎない。
周りを見渡すと、画一的な規格の街や村の冷たい景観が全国に広がっており、それらは何も心に届かない。日々、大量に流れてくる情報の刺激は、それがないともはや生きていけないほど必要なものなのだが、それは諸刃の剣のように、僕たちの外へ向かう活力を奪い、存在を希薄にし、自分の望みを見えなくする。生産的に創造力を働かせて望みを見つけたり、生産的な行為をするなら、たんに情報の刺激をインプットしているだけではできないからである。
「昔に比較すると、生活は便利で豊かになっているはずなのに、どういうわけか魂は病んでいる」というこのジレンマは、おそらく僕たち現代人に共通の問題であるはずだ。その問題の要因である社会のシステムのほとんどは、今すぐ改善されることをまったく望めないだろう。だが、精神疾患は、この合理的な社会システムと無縁ではないという。
であれば、せめて今可能なやるべきことのひとつは、思考の枠組みを再構成し、冷たい虚無的な世界観から脱して新たな世界観を獲得することによって、魂を温めることだと思う。
なぜなら魂の温かさ、胸の熱は、生きるために、何よりも必要な、「感情のエネルギー」だからだ。たとえば人智学の示す世界観は、そのようなエネルギーの源泉になりうるだろう。
批判し、軽蔑し、憎悪することは、魂の力を奪う。社会生活で批判的能力の行使は避けられないとしても、である。だが反対に、尊敬し、賛美し、共感し、愛することは、魂に力を与える。
美しいもの、善きもの、真なるものも、それが正当であれば、それは魂に熱を生じさせる。
だがもし、支配的な憂鬱さの感情に強制されて、思考をコントロールしがたくなっているのであれば、その憂鬱さを自分の内部に向けて自虐することをあきらめて、外部の同情すべきもの、悲しむべきもの、尊敬すべきものの悲しみに憂鬱さの方向を変えるべきだろう。
たとえば、怒りの感情に支配されていれば怒りを増幅させることばかり考えてしまう。イライラしているときも、余計にイライラすることを自ら考えてしまいがちである。落ち込んでいるときは、元気なときには考えない、センチメンタルなことに思考を向けてしまう。
そのように、強力な負の感情に支配されている時に、いきなり逆の、肯定的なことを考えようとしても、感情の支配が強力であればほとんど不可能だろう。
ならば何も考えない方がそれ以上負の感情を増幅させないですむのだが、もし可能ならば、落ち着いたあとに思考の安定を目指すべきである。
思考をコントロールするということは、自らの意志によって自発的に思考のテーマを選び、そのテーマについてのみ首尾一貫して考えるということだ。もし、自分が意図したテーマにそぐわない思考が勝手に浮かんできて、それにいつのまにか夢中になっているとしたら、それは思考をコントロールしているとはいえない。
重要なのは、自発的にテーマを選び逸脱しないよう意志することなのだから、テーマはなんでもいいのだが、なるべく事実に即した単純なテーマを選ぶ方がいいだろう。なぜなら、面白いテーマなら勝手に夢中になれるから、自発性が働きにくいからである。
テーマはたとえば、「鉛筆」を選び、それについての形状、しくみ、製造過程などのイメージ、その発明者、原材料、などについて、自発的に、事実に即して思考を並べていく。そのおそろしく退屈で単純に思えるテーマは、しかし誰でも思考できることであり、それは確実な事実に即しているのだから、正しい思考の訓練になる。
集中とは、意志力のことである。そして集中する意志がなくては思考もコントロールできない。
事実に即した思考を自発的に並べていく練習は、思考をコントロールする意志を強め、思考を散漫で支離滅裂なものにすることをやめさせる訓練になるだろう。その時、練習によって生じた、安定と確実さの感情に注意し、持続的に練習を続けて支離滅裂さを克服したら、そのキープに努める。
このような自己教育、訓練を、それを実行することが可能な時に努めて続けることは、自殺したいとばかり考えてしまう、希死念慮にとって効果があると考える。なぜなら希死念慮とは、感情に支配されコントロールできない思考だと思えるからである。
以上の自己教育の方法は人智学によるものである。僕の学んできたこれらの情報が、苦悩する誰かに活かされ、その人の魂の力づけとなり、人生や世界を肯定できる世界観を持てるひとつのきっかけになることを望む。
15/09/22 04:02