表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第五章 『歴史を刻む星々』
347/744

第五章31 『過ちの代償』


「かぴかぴー!」


「うるッせェな、何度も言うんじゃァねェよ!」


 翌日の朝、ガーフィールはバツの悪い顔でミミと一緒に町を歩いていた。

 けらけら笑いながら、ミミは自分のローブの胸元を引っ張り、そこがガーフィールの涙と鼻水と涎と、とにかく汚いもので汚れて乾いたのを弄っている。


 その悪臭は、隣を歩いているガーフィールの鼻にも痛いぐらい届く。

 同じぐらい鼻のいいミミにとって、その間近の悪臭は耐え難いはずだが、どこかで軽く洗うことを勧めるガーフィールに彼女は、


「んー、いーんでない? 宿に戻って、んで着替えるー。昨日は帰んなかったから、お嬢にきっと怒られる! あと、ヘータローとティビーにも!」


「……悪かったなァ」


「気にしてないけどー? ミミ、ガーフをいい子いい子してただけだし、ガーフもぐーすかぴーしてただけー」


 小さい声で謝るガーフィールに、ミミは天真爛漫な笑顔でそう答えた。


 昨夜、母との再会と本当の意味でも別れ。

 その連続に打ちのめされたガーフィールは、野外の屋上でみっともなくミミに抱かれながら泣き喚いた。

 しかも情けないのは、そのまま泣き疲れて眠ってしまい、都市中に聞こえるような大きな声で目覚めたときにはミミの膝の上ですっかり朝だったことだ。


 何とか平静を保とうとするガーフィールだが、常に平常モードのミミの前ではかえって狼狽しているのが見え見えになってしまう始末。

 言い訳もままならないまま、一夜を明かした建物の持ち主に屋上にいるのを見つかり、だいぶ絞られての帰り道というわけだった。


「少しはスッキリしたのー?」


「あァ、少しァな。なんつーか、なんだ。アレだ」


「アレかー、そっかー」


「……そォだよ、アレだよ」


 礼を言い損ねて、ガーフィールは不貞腐れた顔をする。それを気にした風でもないミミの態度に、ガーフィールは何を言えばいいのかわからなくなった。

 昨夜、ミミが自分に惚れていると口走ったことが思い出される。


 自然と、ミミの姿を目で追いかけてしまう自分がいた。

 やけに引っ付いてくると思っていたが、まさか恋心を抱かれているとは思っていなかった。てっきり、飼っているライガー的な可愛がりかと思ったのだが、そうではなかったらしい。

 しかも本人はあんなことを言っておきながら、今朝から今に至るまですっかりいつもと変わらない様子でいるのだ。


 自分もラムに対しては積極的に気持ちを伝えていたくせに、受け手に回った途端に弱さが垣間見えるのがガーフィールの情けない部分だった。


「で、朝はどーするのー? お母さんのとこ、会いにいくのー?」


 そんな考え事をしていたものだから、目の前で足を止めて自分を見上げてくるミミの姿に驚き、その言葉の内容に重ねて驚いた。


「ま、待てって。なんで、また会いにいかなッきゃなんねェんだよォ」


「んー? だって、リアラはガーフのお母さんなんでしょー? それなら、ちゃんと話した方がいいんじゃないのー?」


「こいつ、本気で意味がわかっていやがらなかったのかよォ」


 本能で一番大事な部分を突いた以外、機微は察していなかったらしいミミ。彼女に自分の難しい立場と、あの一家の立場を説明すべきか悩み、ガーフィールはすぐに無駄なことだと投げ出した。それにこれは、ガーフィールの心の問題だ。


「いいんだよ。あの人は……俺様が息子だなんて、知らねェ方がいいんだ」


「そーなの?」


「そうなんだよ。……あァ、姉貴にだけは伝えるかどうか考えなッきゃいけねェな」


 理知的なフレデリカのことだ。

 きっと彼女は迷いながらも、ガーフィールと同じ結論をもっと早く出すだろう。

 ただ、たとえ結論が同じだったとしても、母の生存を知る権利が姉にはある。自分と同じ苦しみを背負わせるべきか、悩むところではあるが。


「時間かけて、決めるっきゃァねェよ」


「そーなんだー。むつかしーね。ミミ、お母さんわかんないから仲良くすればいーのにーって思っちゃうなー」


「……母ちゃん、わかんねェのか?」


 思わぬミミの言葉に、ガーフィールは耳を震わせて聞き返す。

 ミミは「そだよー」と気負いのない態度で頷いて、


「ミミもヘータローもティビーも、お父さんもお母さんもわかんないのー。ほら、三つ子でしょー? 育てるのすっげークローしそーだから、捨てられたー。で、ダンチョーが拾ってくれたのー。だからダンチョーが家族! お嬢も家族!」


「……そっかよォ。あァ、大家族じゃァねェか」


 ぽんぽんと、何となくガーフィールはミミの頭を軽い気持ちで撫でた。

 途端、


「――ひゃっ」


 ミミが、ガーフィールの手を払いのけて飛びずさる。

 その顔が真っ赤に染まっているのを見て、ガーフィールは目を丸くした。ミミはすぐに後ろを向いて、自分の顔を「うーうー」言いながらごしごし擦り、


「なんか、昨日から変。あんまし、ガーフが近付くと変になる」


「そ、そォかよ。そりゃァ、悪かったな。……離れて歩くか?」


「それはなんかやだー。だから、遠くなくて近すぎない感じがいー」


 ちょこちょこと歩み寄ってきて、手が届かないぐらいの隣にミミが並ぶ。

 ガーフィールが困惑に眉を寄せると、ミミはいつものようににへらーと笑う。ただその顔は、まだ少し赤い気がした。


「あ、そいえば、ソワリエ! ソワリエがあった! ソワリエ食べよー!」


「お、おォ」


 急に話を誤魔化すように、ミミがごそごそと懐からお菓子袋を取り出した。

 それは昨夜、リアラから別れ際にミミが受け取っていたものだ。


 一瞬、痺れる痛みが胸を過ったが、差し出す掌の上に包みに入った菓子を置かれて、その香しい匂いに小さく鼻を鳴らした。


 ソワリエは、甘い調味料を練り込んだパン生地を焼いた焼き菓子で、中にクリームやら餡子やらが入っているちょっとしたオヤツのようなものだ。

 丸々と大きいソワリエが、菓子袋の中には二つ入っていたらしい。ガーフィールとミミはそれぞれ一個ずつ、それにかぶりついて朝食の代わりにする。


「んー! あまいー! うまいー! うまし、うまし!」


「あァ、うめェなァ」


 ミミが大絶賛するように、ガーフィールもその味を堪能した。

 甘いが、甘すぎず、生地も柔らかに仕上がった絶品だ。きっと焼き立てだったならもっとおいしい。あるいはこれも、母の得意料理だったのだろうか。

 だとしたら、本当なら自分もこれを、何度も楽しむ機会があったのかもしれない。


「ガーフ?」


「女々しくッてならねェぜ、俺様はよォ。なんでもねェ。行こうぜ」


 こちらを覗き込むミミに答えて、ガーフィールは振り切るように歩き出す。

 母たちが暮らす場所に背を向けて、仲間たちが待っているはずの場所へ。ミミと同じく、ガーフィールも無断外泊だ。

 まずはそのことを、しっかりと叱られて――。


『――ええとー? これでいいんですかね? ちゃんと聞こえていやがりますかー? 聞こえたクズ肉は悲鳴を上げて、聞こえてないクズ肉は潰れて死にやがってみてくれるとアタクシ助かっちまうんですけどー。きゃはははっ』


「あァ?」

「およー?」


 踏み出そうとした直後に、その声は唐突にガーフィールとミミの鼓膜を打った。

 二人は顔を見合わせ、同時に空を見上げる。


 その声が二人には、まるで空から降ってきたように聞こえたからだ。


「今の馬鹿みてェな声は……」


『で、で、で、今ので死にやがった馬鹿はいやがりますかね? いねーならいねーで構いませんが、アタクシの言葉を無視するとかいい度胸すぎるじゃねーですかってことで、喋り始めて早々にアタクシが気分を害していやがりまーす!』


 ガーフィールの感慨も無視して、その声はやかましい音量で喋り続ける。

 見ると、朝の街並みを歩いていた他の人々も驚いた顔をしており、皆が一様にガーフィールたちと同じように空を見上げて唖然としている。


 凄まじい大声――に感じるが、違う。

 常人と異なる聴覚を持つガーフィールは、その声がどこか一ヶ所から放たれた大声などではなく、町中に反響するような形で響く声であると聴き分けていた。

 だが、それがわかったところで何がわかるわけではない。わかるのは、


『ただ息吸って吐いてるだけで、アタクシの気分を害しやがるとかてめーらって生き物は本当に価値がねークズクズクズのクズったれじゃねーですか。臭い息吐いていやらしいこと考えて涎垂らして生きてるだけなら、今すぐドブ川に頭突っ込んでぶくぶくの溺死体になってくれやがる方がずっとマシ! つーか、死にやがってくださいよー、本当にー! アタクシのお願いっ! きゃははははっ!』


 ――この声の主は、ただひたすらに邪悪で醜悪な精神の持ち主だということだ。


「なんだ、この野郎。ッざけてんじゃァねェぞ……!」


「ガーフ……なんかこれ、すごー気持ち悪い」


 苛立ちを舌に乗せるガーフィールに、不安げなミミがそうこぼす。彼女のその態度にガーフィールは額の傷をなぞり、カチカチと牙を噛み鳴らした。

 似合わない顔だ。こんな顔、させていたくはない。


『さてさて、そんなアタクシですがー、勘の鈍いクズ肉共もそろそろ気付いた頃じゃねーんですか? この放送、アタクシがしてるって意味、意味、意味ー!』


「放送だかの、意味?」


『つーまーりー、アタクシが……いえいえ、アタクシたちがこの都市の中枢を掌握してるってわけじゃねーですか。あ、ちなみになんですけどー、ここだけじゃなく都市の端っこにある制御搭とか言いやがりましたっけ? アレも掌握してまーす』


「制御搭って……オットー兄ィが言ってた奴か!?」


 声の主の真意は別にして、ガーフィールは脅威を感じて息を詰まらせる。

 都市に到着する前後、オットーの口から語られたプリステラの構造。水門都市として縦横無尽に水路の走るプリステラはかつて、強大な力を持つ敵を陥れるための罠としての役割を持った都市であり、今もその機能は生きていると。

 そしてその水路の操作を司るのが、都市の東西南北にある制御搭――それを掌握されたということは、この最悪な性格の声の主に都市を人質にされたということだ。


 ガーフィールと同じ結論に至り、周囲にも驚きと焦燥感が伝染する。

 皆が声を上げ、何事があったのかと狼狽する中、響き渡る大きな声は心底楽しそうに悪辣な高笑いを上げた。


『きゃははははっ! 今さらになって! 今頃になって! てめーらの命が消える寸前の火だって気付くとか、てめーらの能天気さに呆れて物が言えすぎちまって困っちまうってんですよ! あー、クズクズクズクズクズ共! きゃははははっ』


「――――」


『おっと、いっけなーい。そろそろ名乗っておかねーと、てめーらみたいな奴らは現実逃避とかし始めちまう頃じゃねーですかね? なんで、はっきりくっきりと優しくて慈悲深いアタクシが、わかりやすく現実を教えてやるとしやがりまーす!』


 パニックに陥りかける都市の中で、ガーフィールはミミの手を握る。

 そして、その声が何を言うのかに真剣に耳を傾けた。


『アタクシは魔女教大罪司教、『色欲』担当――』


「魔女教……っ!」


『カペラ・エメラダ・ルグニカ様ってーもんです! きゃははははっ! 敬え、崇めろ、泣いて嘆願して惨めったらしく死に腐れ! クズ肉共! きゃはははっ!』



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 放送が聞こえた直後、ガーフィールは選択を迫られた。


 魔女教を名乗った放送にパニックが広がったが、それでもプリステラ市民の行動は統率がとれていたといえる。彼らは混乱に苛まれながらも、常日頃から都市長たちの連絡が身に沁みており、すぐに最寄りの避難所へ逃げ込む段取りができていた。


 ガーフィールとミミにも、近くにいた人々が避難所までの道のりを案内してくれた。しかし、ガーフィールたちはその案内を固辞し、すぐに動くことを決断。

 ただ、ここでも選択がガーフィールを襲った。

 そしてその選択の結果――、


「ああ、ゴージャスさん!」


「――っ」


 辿り着いた避難所で、ガーフィールは駆け寄ってくるリアラを見つけた。

 知人を見つけたことに唇を綻ばせるリアラに、ガーフィールは胸の痛みを堪えながらどうにか向かい合う。


 ――選択の結果が、これだ。


 ガーフィールは近場の避難所への案内を断った時点で、選択を迫られた。

 いるべき場所である、エミリアやスバルたちの下へと戻る選択と、昨夜に別れを決断したはずの母たちの無事を確かめる選択を。


 理性では、ガーフィールは自分はエミリアたちの下へ戻るべきだとわかっていた。

 それでも足がこちらへ動いたのは、放送を聞いた地点からはこちらの方が距離が近く、先に確かめてから戻るという判断ができたから――それは、言い訳だ。


「ミミさんも無事でよかったです。あの放送で、不安になってしまって」


「んー、ダイジョブー! あ、ソワリエおいしかった、ごちそーさまー!」


「ああ、いえいえとんでもない。よかった、お口に合ったみたいで」


 そしてガーフィールの選択に、ミミは反対意見も言わずについてきてくれた。

 ミミだって本当ならば、アナスタシアや弟たちの下へ戻りたかったはずだ。彼女にとってリアラたちのことは本当の他人事で、戻る理由などないのだから。


「――――」


 自分を責める自分の声を聞きながら、ガーフィールはとにかくリアラの無事を確認したことで一つの区切りを得る。すぐにエミリアたちの下へ戻り、今後の方策を練るのに加わって、力を振るわなくてはならない。

 魔女教の名前が出たのなら、エミリアを守るために戦う。それはガーフィールがスバルと交わした、決して違えてはならない男の約束だ。


 虎であることを守り続けられなかった自分が、男であることさえ忘れるわけにはいかない。


「無事みてェでよかった。なら、俺様たちァ……」


「ええ……私は大丈夫です。その、ゴージャスさん」


 別れを告げて避難所を出ようとするガーフィールに、リアラが言いづらそうに口ごもる。珍しい態度にガーフィールが眉を寄せると、彼女はおずおずと、


「私の子どもたちを……見かけていませんか? 今日は朝から遊びに出てしまっていて……この避難所にはいないんです」


「……ッ!?」


 慌てて顔を上げ、ガーフィールは周囲を見回す。だが、求めた姿は視界のどこにも入ってこない。あの姉弟の姿は、この場所のどこにもない。


「それに夫も……いいえ、これは余計なことでした」


「な、なんだよ。今さら隠し事されても困るってんだよ。言え」


「――あの放送、都市庁舎からのものなんです。夫は今日も仕事で都市庁舎へ出勤していますから……彼に何か、あったんじゃないかって」


「――――」


 都市庁舎は、このプリステラの中心にある高い建物だ。

 都市の中枢機能を司ると聞いていた場所で、確かにあの放送でも大罪司教は自分が都市庁舎にいると宣言していた。

 ギャレクは、その場所にいるはずなのだ。


「はっ……はっ、はっ……」


 心臓が早鐘のようになり、ガーフィールはあまりのことに倒れそうになる。

 姿の見えない姉弟に、危険地帯となった場所にいるはずのギャレク。リアラの無事を確かめた代わりに、一家の危機を自分は知ってしまった。


「大将、エミリア様……」


 ガーフィールの脳裏を、スバルとエミリアが過る。ベアトリスとオットーが過る。

 すぐにでも戻って、力にならなくてはならない人たちが過る。

 だがすぐに追いかけるように、あの姉弟とギャレクの姿も脳裏を過った。


「ごめんなさい。困らせてしまって。ゴージャスさん、忘れてください」


「……ぁ」


「今のはとても私が卑怯でした。大丈夫です。あの子たちも夫も、ちゃんとこの都市の規律は知っているんですから」


 気丈に微笑んで見せるリアラだが、祈るように重なった両手が小刻みに震える。

 その姿は明らかに無理をしていて、ガーフィールに心配をかけないように必死の演技をしているのは明白だった。


「――――」


 沈黙、沈黙、沈黙。

 言葉を封じ込めて、歯を噛みしめて、ガーフィールは考える。


 ミミはそんなガーフィールに何も言わず、黙って言葉を待っていた。

 ただガーフィールの手を握って、何も言わないまま。


「……安心しろや。あんたの子どもたちも旦那も、俺様が助けてきてやらァ」


「――! ゴージャスさん!?」


 思わぬ答えを返されて、リアラが驚きに声を詰まらせた。

 そんな彼女に力強く頷きかけて、ガーフィールは手を握るミミを見下ろす。


「こっから先ァ俺様のわがままだ。お前は戻って……」


「ていや」


「痛ェッ!」


 戻るように伝えようとしたガーフィールの足を、ミミが鋭く踏みつける。痛みにガーフィールが声を上げると、ミミはその場で胸を張って、


「ガーフが格好いいこと言ったのに、ミミが逃げるわけないでしょー! いくよー、すごーついてくよー!」


「てめェ……いや、わかった。すまねェ」


「そこはあんがとー!」


「――ありがとう」


「どいたしましてー!」


 にへらーとミミが笑い、ガーフィールは救われたように笑い返した。

 それから愕然としているリアラに振り返り、


「俺様たちが探してやる。だッから、あんたァここで居残りだ。他の連中と一緒に動かずに、静かに事が終わるのを待ってろや」


「で、でも……どうしてそこまで?」


「――――」


 どうしてそこまでしてくれるのか。

 ガーフィールの決断の真意を、リアラは瞳を揺らして問いかけてくる。


 その言葉にガーフィールは歯を見せて笑い、


「それは俺様が黄金の虎! ゴージャス! タイガーだからだ!」


「そしてミミが、ゴージャス・ミミだー!」


 馬鹿でかい声でそう叫び、避難所にいた人々の驚きの視線がこちらへ集まる。

 呆気に取られるリアラに、ガーフィールとミミはポージング。それから颯爽と身を翻して、二人は避難所を素早く飛び出した。


「ガーフ、どうするー?」


「匂いを辿るッぜ。あの二人もギャレクも、匂いはきっちり覚えてらァ!」


 問題は広い都市で、おまけに水が流れている場所だということだ。

 はっきりと匂いを辿るには、条件がやや悪い。人数が多すぎる場所であり、本物の犬にまでは能力的に劣る嗅覚。それでも獣系の二人の嗅覚での追跡はそれなりの成果を出せる。


 一度、リアラたちの家まで戻り、そこから匂いを辿って姉弟の行方を捜す。

 その間、どうやら都市の市民たちの避難は順調らしく、都市はちょっとしたゴーストタウンのような人気のなさを晒していた。火事場泥棒の一つでも起きそうなものだが、そういったモラルの低い行いが見られないのは魔女教という名前が持つ力の強さというべきだろうか。


「んー、これ、これかな? この匂いだと思う、ガーフ!」


「……あァ、そうだな。この匂いに方向だと」


 ミミが見つけた匂いをガーフィールも拾い、姉弟の移動した方角に当たりを付ける。と、それはどうやら三番街の自宅から一番街の方角へ向かう道だ。

 一番街と思い至った時点で、ガーフィールの脳裏を一つの予想が過る。


「そォか。あの二人、今日も歌姫の歌を聞きに公園に……ッ」


 昨日は遅く出発して失敗したと少年は言っていた。だから今日はその代わりに朝早くから出発し、歌姫の歌を聞き逃すまいと決めたのだろう。

 今回はきっと姉も、それに付き合っている形だ。


「なら、一番街の方に行けば……ッ」


 同時にそちらへ行けば、スバルたちとの合流を急ぐこともできる。

 思いのほか、状況が自分たち有利に思えてガーフィールは少しだけ表情を明るくして顔を上げた。――途端、鼻を掠めた匂い。


「――――」


「これ、二人のお父さんの匂い……?」


 ガーフィールが気付いたものに、ミミも同時に気付いた。

 姉弟が向かった一番街、その道の途中で枝分かれする目的の匂い。一番街とは違う方角へ向かうのは、中央にある都市庁舎へ向かうギャレクの匂いだ。


 再び、選択のときがガーフィールを襲った。


 このまま真っ直ぐに一番街を目指せば、おそらく姉弟を見つけ出すことができる。歌姫の歌に間に合っていたなら、きっと避難所へ逃げ込めてもいるはずだ。

 だが、都市庁舎の方はどうだ。


 すでに魔女教が入っていることが確実の都市庁舎では、時間が経過するごとに中にいるはずの人間の命は脅かされていく。

 ギャレクは一秒ごとに、死の可能性が高くなる場所にいるのだ。


「ガーフ……どうするのー?」


「――――」


 選択を迫られるガーフィール。

 姉弟の生存を確認して、スバルたちに合流する道。ただしこれは、都市庁舎にいるギャレクを見捨てることになる可能性が高くなる。


 ギャレクは、ガーフィールにとってどう判断すればいい人物なのだろうか。


 リーシアであるリアラや、その彼女から生まれた子どもたちとは違い、ガーフィールとギャレクとの間にははっきりとした繋がりはない。

 血の繋がりが救出の根拠であるのなら、ギャレクを助ける義理はガーフィールにはないことになる。


 だが、ギャレクを失ったリアラたちはどうなる。

 悲しみに暮れて、泣き濡れる時間を過ごすことになるだろう。ひょっとしたらここでガーフィールが、都市庁舎を見捨てたことで。

 あの家族は、泣くことになるかもしれない。


「……都市庁舎にァ、大罪司教がいやッがる」


「んー、そー言ってたー」


「他の制御搭が危ねェのァわかってる。けどよ。指示してやがんのは、大罪司教ってことにァ違いねェ。ッなら、そいつをやっちまえば……」


「みんな助かるってことー? すごー! それすごー!」


 ピョンピョンとその場で跳ねて、ミミがガーフィールの意見を称賛する。

 しかし、彼女はすぐにその場で跳ねるのを止めて、


「でも、ホントーにダイジョーブ? なんか、ぞわぞわする」


「ぞわぞわ?」


「危ないーみたいな感じ。わかんない。でも、やな感じー」


 根拠はないが、嫌な予感を感じると口にするミミ。

 ここにきて尻込みするような彼女の言葉に、ガーフィールは少し苛立った。

 これまでずっと、ガーフィールの判断を尊重してくれていたミミだ。ここでもきっと、自分の決断の背中を押してくれるものと思っていたのに。


「情けねェ……八つ当たりかよ、俺様らしッくもねェ」


「ガーフ、どーする?」


「お前の嫌な予感ってのも、馬鹿になんねェ。それッに大罪司教がやべェ連中ってことも、大将に耳が痛ッくなるほど言われてらァ。けどよ……」


 それだけで芋を引いて下がっては、エミリア陣営最高戦力の名が泣く。

 それにどう足掻いても、この都市を救うためにぶつかる必要がある相手であることには違いないのだ。


「まず、都市庁舎の確認だ。見張りがいんのか、中の人間が無事か。大罪司教の首根っこを引っこ抜くかァ、そっからだ」


「テーサツってこと? ん……ん! わかった。テーサツしよ!」


 ガーフィールの安全策に、ミミが渋りながらも同意する。

 彼女がローブから愛用の杖を抜くのを見て、ガーフィールも自分の腰に備え付けていた二つの盾を腕に装着した。

 銀色の籠手のようなもので両腕を覆い、準備は万端だ。


「いくぜ」


「おー」


 ガーフィールの短い言葉に、ミミが応じて二人は都市庁舎を目指す。

 スバルから聞いた話では、彼らが戦った魔女教の『怠惰』は多数の部下を連れていたらしい。ガーフィールほどではないが、戦い慣れた魔女教徒は十分に数を揃えれば脅威になる敵だったということだ。

 道中、そういった連中が配備されていることを警戒し、慎重に慎重を重ねて二人は都市庁舎までの道を踏破していった。なのに、


「……なァんにも、いやがらねェってなァどういうこった?」


 魔女教徒の圧倒的な物量どころか、見張りの一人も見当たらない。

 見落とし――それはガーフィールたちの鼻を欺く難易度から考えて、そうそうあり得る話ではない。そうなると、


「舐め腐ってやがるって、そういうこッとかよォ」


「…………」


 放送の声を思い出し、ガーフィールは大罪司教の考えに怒りを堪え切れない。

 自分たちが攻撃されることなど、警戒もしていないというのだろうか。すでに制御搭を掌握したことで、勝ったつもりになっているのかもしれない。

 その思い上がりを、爪と牙で引き裂いて噛み砕いてやりたい。


「んー、んー」


 奥歯を噛みしめるガーフィールの隣で、ミミが小さく何度も唸っている。

 落ち着かない様子で首の裏を何度も擦り、ミミは困ったような顔で何度も何度もすんすんと鼻を鳴らしていた。


「あんだよ」


「わかんないー。でも、なんかやだー。ガーフ、この先、なんかやだー」


「ッざっけんな!」


 ガーフィールの裾を掴み、ミミが急に泣き言めいたことを口走る。

 ここまできて、撤退しようとでも言いそうなミミにガーフィールは吠えた。


 見張りの一つも立てずに、警戒もしていない魔女教の態度。

 ただ薄気味悪さを理由に引き下がるなど、できるはずがない。

 ここで引き下がってしまえば、リアラの家族が悲しむ可能性が増えるばかりだ。


「嫌ならてめェはここッにいろ。俺様ががっちり、あのふざけッた声の張本人の首を噛みちぎってきてやらァ!」


「ガーフ!」


 裾を掴むミミの指を振り切り、ガーフィールは潜伏場所を飛び出した。

 そのまま水路に沿って広場を駆け抜け、すぐ目の前に見えてきた都市庁舎の建物へなだれ込もうとする。

 距離が縮まる。周囲に気配なし。舐め腐っているのか、ふざけていやがる。


 何もこない。あと十歩。九歩。八歩。七歩。壁を駆け上がって、一気に一番上の部屋を襲撃するのもいい。六歩。五歩――。


「ガーフ――ッ!!」


「――!?」


 踏み切りのために力を膝に蓄えた瞬間、ガーフィールは前ではなく横にその体を飛ばしていた。

 その直後、音もなく走った剣閃が石畳を恐るべき切れ味で鋭角に抉る。


 柔らかな破壊は音すら伴わない。

 斜めに切り取られた石畳は、自分が切られたことにも気付かずその場に残り続けている。ふわりと揺れる白い煙は、斬撃の鋭さが生んだ摩擦の残滓だ。


「――ッ」


 ミミの声がなければ、今の斬撃をガーフィールは首に受けていた。

 鮮やかな斬撃はガーフィールの延髄を斜めに削り、首の皮一枚で切られた頭がぶら下がるという前衛芸術を広場に晒したはずだ。


 ゾッとする。

 それと同時に、着地して振り返るガーフィールは見た。


「――――」

「――――」


 ガーフィールの眼前、広場に唐突に舞い降りた二つの人影が立っている。

 一つは見上げるほど大柄な体格の巨漢。両腕に大振りの大剣を一本ずつ抱えて、悠然とこちらへ意識を向けている。もう片方は細身の女性的な体格の人影で、こちらは刀身の長い片刃の長剣を握っていた。

 どちらも頭から黒い装束を羽織っており、その顔を確認することはできない。


「……ずいッぶんな挨拶だったじゃァねェかよォ」


 ヒヤリと脂汗を首裏に掻きながら、ガーフィールは気圧されかけたのを悟られないようにふてぶてしく言い放った。

 しかし、そのガーフィールの言葉に対して、二つの影は何の言葉も返さない。


「ガーフ、あの二人……」


 その二人を大きく迂回して、ミミがガーフィールの傍へ駆け寄ってきた。

 ガーフィールはミミへ視線を向けず、二つの影を睨みつけたまま、


「あァ、強ェな……」


 ミミの声が緊張に引きつり、応じるガーフィールも肩に力が入るのを堪えられない。

 眼前に佇む二つの影からは、恐ろしいほどに禍々しい鬼気が放たれている。

 優劣をつけることが困難なほど、超次元にある二つの影の危険度は拮抗している。肌に突き刺さる凄まじい圧迫感に、急速に喉が渇くのをガーフィールは感じた。


 明らかに敵は、人域を踏み越えた超越者たちだ。

 それもたった一目で、かつて矛を交えた女殺人鬼を凌ぐとわかるほどの。


「それが、二人……かァ」


 周囲に他の人影はない。

 迎撃に出てきたのは目の前の二人だけだ。寸前までその存在をガーフィールにすら悟らせなかった以上、他の潜伏者がいたとしても気付けない可能性があるが、これほどの実力者がまだまだ隠れているなどということはあるまい。


 つまり目の前の二人こそが、都市庁舎攻略のために越えなければならない壁。

 それを理解した途端、ガーフィールは身震いして口の端を歪めた。


「ハッ、面白ェ……!」


「ガーフ?」


「超えッてやんぜ。この修羅場、ぶち抜いてやらァ……!」


 怖気づきそうになる心を奮い立たせ、拳を覆う盾を胸の前で打ち合わせる。甲高い音と火花が散り、冷え切りそうになる己に点火して猛る。

 だが、戦意剥き出しで立ち上がるガーフィールの裾を掴み、ミミが叫ぶ。


「だ、ダメ! ガーフ、ダメ! あの二人、ダメ! すごー強い! ミミとガーフだけじゃ絶対に勝てない! ダメ!」


「――っ。勝てねェかどうかは、やってみなくちゃァわからねェ。絶対だなんて言葉ァ絶対に認めてたまっかよォ。それに」


 引き止めるミミの言葉、その内容が自分の弱気を刺激した気がして、ガーフィールは舌打ちしながら敵対する二つの影を顎でしゃくる。


「あいつらァ、尻尾巻いて逃げようにも逃がしちゃくれめェよ。やるしかねェ」


「じゃ、じゃー、一回だけ! ぶつかって、どけて、逃げる。じゃなきゃダメ! ミミたちだけじゃダメ! ダンチョーとかユリウスいないとムリー!」


「――――」


 なおも弱腰のミミに、ガーフィールは唇を噛んで考え込む。

 無論、ガーフィールもミミの訴えが正論であることは理解している。エルザを超えるかもしれない戦闘力、それが二人もいるのだ。

 そんな敵を二人もいっぺんに相手取るなど、自殺行為と言われても仕方ない。


 仕方ないが、本当にここで退くのが正解なのか。

 目の前の二人は壁だ。圧倒的な力で立ち塞がる、越えなくてはならない壁。


 ラインハルトに敗れて、最強の頂の遠さを肌で実感したガーフィール。

 最強へ至る道筋、黄金の虎を名乗るために必要な行程、大切な人の盾の自覚。

 そして、願った形とは違うながらも再会した母と、その新しい家族。


 ここで引き下がれば、少なくともギャレクは――。


「――――」


 めまぐるしい思考に支配されるガーフィールの裾を、ミミがいつまでも不安そうな顔で握りしめている。ふと、その温もりに守られた一夜のことを思い出した。

 途端、凝り固まっていた頑なな感情が、氷解していく。


「……わァかった。てめェの言う通りだ。一撃ぶち込んで離脱。他の連中を連れッて戻って再襲撃。――それで、いいんだな?」


「ん! そー! それでいこー! よし、ガンバロー!」


 無謀論を引っ込めたガーフィールに、ミミがホッとした顔をする。

 意見がまとまり、その場で息を整えるガーフィールたちを、迎撃に出てきた影二つは黙ったまま待ち構えていた。

 言い合いの最中に仕掛けてくることもできたはずなのに、それをしないのは誇りか慈悲か。それとも、余裕か。


「――ッらァ!」

「とりゃーっ!」


 ――余裕なら、それをぶち壊してやる。


 合図なしに、ガーフィールとミミは同時に二つの影へと飛びかかった。

 ガーフィールが女の方、ミミが巨漢を狙う形だ。


 弾丸のような速度で飛びかかるガーフィールに、女はゆらりと上体を揺らし、次の瞬間に凄まじい速度で握る刃を振り下ろす。

 真っ直ぐに落ちてくる剣閃の美しさは、ガーフィールが時を忘れて見惚れてしまいそうなほどの鋭さが込められていた。


「――がァ!」


 だが、美しさに見惚れて斬られるほど間抜けではない。

 跳ね上げた右の盾で剣撃を受け止めて、そのまま女の胴体を目掛けて蹴りを放つ。女はそれを恐るべき軟体で避け、盾に止められた刃を身を回して再度放った。

 首を目掛けて迫る斬撃を、ガーフィールは左の盾で受け止める。そのまま前蹴りが止まった女の体に当たり、軽い体を一気に吹き飛ばす。


「なんだァ?」


 軽々と後方へ飛ぶ女の姿に、ガーフィールは肩透かしのようなものを味わう。

 ちらと背後を振り向けば、そこでは巨漢を相手に小回りを発揮するミミが、見事に大剣の攻撃を潜り抜けて魔法を一撃――広場から離脱を図るところだった。


 ミミはあのまま、無事に抜けられそうだ。

 巨漢は離脱するミミに追いつけるほどの速度はない。そして、女の方はガーフィールの追撃に対して応戦できる体勢にない。ならば、


「ここで一つ――!」


 落としておけば、あとが楽になる。

 何なら女を落とした後で、背後にいる巨漢も切り裂いてしまえばいい。


 いまだに体勢を崩したままの女に、ガーフィールは地面を強く蹴って躍りかかる。刃は今も盾に弾かれた遠い位置のまま、女の胴体はがら空きだ。

 そこにガーフィールが右の拳を叩き込めば、細い女の体など粉々になる。まさかこの女まで、エルザのような不死体質ということはあるまい。


「もら――っ」


 女の命、取った。

 ガーフィールがそう確信して声を上げた瞬間、背後から『死』がくる。


 ――巨漢とは距離があったはずなのに、一瞬で膨れ上がる『死』の気配にガーフィールの全身がバネ仕掛けのように反応した。


 即座に攻撃を中断し、左腕を背中に回しながらその場で大きく上へ飛ぶ。

 しかし、背後から迫る一撃はガーフィールの左腕の防御を一合で粉砕し、苦鳴を上げるガーフィールを地面へ叩きつけて骨を軋ませた。


「あ、がっ!?」


「――――」


 衝撃に呑み込まれるガーフィールは、理解できない一撃の重さに呻く。

 地面をバウンドし、浮かぶ体に再び横殴りの斬撃が接近し、かろうじて動いた両腕のガードがその衝撃を防御――体が恐ろしい勢いで吹っ飛ぶ。


 地面と水平に浮いたまま飛ぶ体、滑空するガーフィールを目掛け、巨漢と女が同時に蹴り足を爆発、追いついてくる。


「――――」

「――――」


「ガァァァァァッ!!」


 ガーフィールを間に挟み、左右に並走する影が同時に攻撃を仕掛けてくる。

 正面に迫る長剣の斬撃を盾で弾き、真後ろから迫る大剣の猛撃を剣の腹に蹴りをぶち込むことでかろうじて避ける。再び浮き上がる長剣に盾を合わせて火花に頬を焦がされ、直後に上下から大剣がガーフィールの体を打ちつけた。


「ごっ、ぇッ」


 腰骨と胸骨が軋み、打撃の威力にガーフィールの視界が真っ赤に染まる。

 二本の大剣の斬撃をまともに浴びたが、切れ味がないに等しい鈍器であったことがガーフィールの命をかろうじて救った。

 苦鳴と吐血を口腔から溢れさせながらも、どうにか全身のバネを駆使して挟み込まれる窮地からの離脱を図る。しかし、難敵二人はそれを許さない。


「――――」


 無言のまま、無音の斬撃がガーフィールの首を落としに迫る。

 一撃の重さは比較にならないが、女の振るう刃の鋭さは威力など度外視した美しい『死』を纏っている。刀身の長さを事も無げに扱う技量といい、先端を掠らせることは半ばまでを体に通すに等しい被害をもたらすだろう。


「――――」


 こちらも無言のままだが、巨漢の方の戦い方には荒々しさがあった。

 だが、その荒々しさは技量の未熟とは無縁の、卓越したものだけが持ち得る自身の破壊の最適化の結晶だ。常人ならば抱えるだけで精いっぱいだろう重量の得物を軽々と片手で振り回し、二振りの刃が巨人の腕のように自由に打ちつけられる。


「ご、ぉ、アォォォォ!!」


 流れる水のような斬撃と、荒れ狂う竜巻のような斬撃。

 異なった二種類の、しかし静と動の極みに匹敵する技量を真っ向から浴びて、ガーフィールは地に足をつけたまま防戦一方になるしかない。


 石畳の上で必死に後ろへ下がり、目の端を掠めるだけの斬撃を、風を殴りつけて振り下ろされる打撃を、勘と本能を頼りに両腕の盾で受け、払い、弾き、防御。


 ――このままでは、いずれ刃の物量に押し潰されて斬り殺される。


「――――」

「――――」


 目の前の影二つは、ガーフィールをこれだけ押しやりながら息も切らしていない。対する自分は呼吸の間すら見つからず、酸素不足の頭を振り絞って光明を探りながら、致命傷の回避に躍起になるのが関の山だ。


 体力が枯渇すれば集中力が乱れる。

 集中力が乱れれば手が追いつかなくなり、刃を浴びる。


 達人を越えた、超越者二人の斬撃だ。

 体の頑健さに自信のあるガーフィールの命をも、容易く奴らは奪うだろう。

 時間が過ぎれば過ぎるほどに、持てる手は少なくなり、打開策が消える。


 決断だ。決断が迫られている。

 この状態を脱して、奴らに牙を突き立てるにはこの瞬間しかない。敵にとってもガーフィールにとっても、どちらが圧倒的に優勢なのかわかりきったこの瞬間。

 今このときこそが、ガーフィールにとって起死回生の瞬間なのだ。


 一呼吸、それを求める。


「――はァッ」


 致命の刃は女の斬撃だ。それを両腕の防御で打ち払い、巨漢の打撃に対しては身をよじって最低限の回避だけで間に合わせる。

 案の定、巨漢の打撃がガーフィールの左肩を砕き、右足の膝の皿が割られた。だがその程度の被害は、この一呼吸でどうとでもなる。


「が、ァァァァァ――!」


「――――」

「――――」


 咆哮を上げ、自分の内側に滾る熱量を放出する。

 血が沸騰するような感覚に、一瞬だけ視界が真っ白になり、自分の顔面の形が音を立てて骨格を変えてゆく。口が大きく裂けて牙が伸び、鍛え上げた両腕の筋肉が膨れ上がって全身を金色の体毛が覆っていった。


 上半身限定の、半獣形態。

 血の味に理性が飛びかけるが、この状態ならば思考は死んでいない。目の前で人が獣の姿へ変わったのだ。敵対者も平静ではいられまい。


「――――」


 無言の二つの影へ対して、ガーフィールはその鼓膜を破るつもりで咆哮を浴びせ、突風を浴びたように敵が足を止めるのを確認、太くなった両腕と刃のような爪でその胴体を抉りにかかる。


 爪の先端が細い女の影を引き裂く――その寸前に、巨漢が女の前へ割り込んだ。

 構わない。分厚い筋肉の塊であろうと、今の自分の爪の前には紙の盾でしかない。それに何のつもりか、巨漢は大剣を構えた腕を伸ばして目の前に立ちはだかっており、防御でも迎撃でもなく女を庇うことを選んだ構え。

 潔い。だが、終わりだ。


 ――爪が巨漢の胴体を引き裂き、そのまま翻る爪撃が女の細身を。


「――ッ!?」


 捉えるはずだった流れが、最初の行程の段階で頓挫する。

 大虎と化したガーフィールの爪の一撃は、巨漢の男を引き裂けなかった。そうなる前にガーフィールの両腕は、巨漢が伸ばした腕に止められていたからだ。


 装束の前を開けて、そこから伸びる六本の腕。

 それがガーフィールの太い両腕を支え、握られた大剣がガーフィールの爪の先端をがっちりと食い止めて、猛撃を真っ向から受け止めていた。


 ――都合、八本の腕による完全な防御。


「――――」


 呆気に取られて、ガーフィールは言葉を見失う。

 そんなガーフィールを、巨漢はびくともさせないよう押さえ込むだけだ。

 それはつまり、ガーフィールに完全な無防備を晒させた瞬間であり、


「――――」


 巨漢の後ろから回り込み、無防備を晒す半獣の背後へと女が出現する。

 体毛に覆われて、広く大きくなったガーフィールの背中は、長剣を流れる動きで振り上げる女にとっては木偶人形を斬るのに等しい作業でしかない。


 刃の先端が走り、ガーフィールは背後から見えない『死』を感じた。だが、その動きは巨漢に食い止められたまま、迫る『死』の感覚に魅入られて――。


「ちょやさーっ!!」


「――――」


 ガーフィールが斜めに両断される寸前に、威勢のいい掛け声が割り込み、女の斬撃が青く展開される魔法の障壁に防御されていた。

 氷に刃を当てるような軋る音がして、女の斬撃が障壁の上を滑り、地を削る。

 それを成し遂げ、間一髪でガーフィールを救ったのは橙色の毛色の小猫。


「ガーフ、すぐ逃げるって言ったのに!」


 初めて、ミミの口からガーフィールを責めるような声が放たれた。

 半獣の状態で、背中越しにその声を聞いて、ガーフィールは理性が飛びそうになっていた頭で自分の愚かしさを自覚する。

 結果を焦った上に油断して、相手を甘く見たことで危険な状態に陥った。絶体絶命の瞬間をミミに救われたのだ。


 展開する障壁の強靭さに、ガーフィールは息を呑みもする。

 女の刃の見た目と裏腹の苛烈さは尋常の域になく、それを防いだミミの技量も相当なものだ。彼女がいてくれて、よかったと本当に思う。


「――ぉ、ガォォォォッ!」


「――――」


 安堵が胸に広がった直後、ガーフィールは掴まれていた腕を強引に解く。巨漢の胴体目掛けて蹴りをぶち込み、それが腕に防がれるのを見届けて、ミミの細い腰に手を回して大きく飛びずさった。

 このまま、ミミを連れてこの場を離脱する。当初の予定に従って、改めてこの場所への襲撃をやり直しだ。


「――――」


 女が逃げるこちらを追って飛びかかってくる。その目の前にミミが再び、先ほどを上回る規模の障壁を展開した。女の斬撃が弾かれるのを見て、ガーフィールは全力でここから離脱するために足に力をたわめる。

 一呼吸。女の影が足を止めて、障壁の前で軽く腕を引く。飛ぶ、寸前。


「――ぁ」


「――――」


「え?」


 掠れた小さな声と、軽い衝撃。

 何事かと口を開けながらも、ガーフィールの体は跳躍の動作を終えていた。石畳を砕いて半獣が宙を舞い、それを追いかけるように鮮血が空に赤い線を引く。

 鮮血。それが、どこから溢れていたのか。


「ちびっ子?」


 半獣形態を維持する意識が途切れて、急速にガーフィールの姿が人型へ戻る。しかし、毛が抜け落ちる感覚を忘れるほど、背筋を寒気が走るのがわかった。

 腕の中でぐったりと、ミミの体が脱力している。視線を落とす。宙を舞うガーフィールを見上げて、女の影が突き出した長剣を引くのが見えた。


 その長剣の半ばにまで、赤い血糊が付いていたのを見た。

 ガーフィールの下腹あたりを、熱い水が伝っていく。腕の中のミミはぐったりと動かないまま、彼女の手から愛用の杖が落ちていくのがわかった。


「――――」


 着地、再びの跳躍。手近な建物の上に飛び乗り、そのままガーフィールは背後を顧みずにひたすらの逃走を図る。追いつかれると厄介だが、幸いなことに先ほどの敵対者はガーフィールたちを追いかけてこない。

 広場の防衛以外に何の興味もないのか、人間味を感じられない奴らだった。否、今はそんなことはどうでもいい。四度、五度と本気の跳躍で広場から遠ざかり、ガーフィールは適当な建物の屋上を砕いて着地すると、そこで腕の中で動かなくなっているミミの体を降ろして、その姿を確認した。


 ミミは目を閉じて、その胸を貫かれた傷から大量に流血していた。

 慌てて服をめくって傷を検める。かろうじて、致命傷になりかねない急所は外れている。無論、予断が許される状態ではない。大量に失った血のこともある。すぐに治癒魔法を施して、安静にしなくてはならない。


「――――」


 傷口に手を当てて、ガーフィールはミミの体に癒しの魔力を送り込む。

 ガーフィールの治癒魔法は、『聖域』でも屈指の腕前だった。回復魔法なんて柄じゃないと嘯いていたが、いざ誰かに何事か起きたとき、危ない状態をどうにかしてやれる力が欲しかった。だからガーフィールは自分の魔法の素養の全てを回復魔法に注ぎ込んで、治癒魔法の使い手としてもそこそこのものを修めたのだ。


 致命傷でさえなければ、深手であっても治す自信がある。

 ミミの体の傷も、癒しの波動ですぐに塞がるはずだ。額に汗を浮かばせ、傷口に手を当てて溢れる血を押さえながら、切り裂かれた皮膚を、筋肉を、傷付いた内臓を、癒すための力を送り込み続ける。続ける。続ける。続ける。


 ――傷が、塞がらない。


「なん、でだ……」


 掠れた弱々しい声を誰かが呟いた。

 この状態を見ながら、そんな声を漏らす奴を殴りつけてやりたかった。顔を上げて周囲を探す。誰もいない。すぐに気付いた。今の声は、自分のものだ。


 あんな弱々しい声を、自分が出せたのか。出してしまったのか。

 それではまるで、まるで、まるで――。


「――ッ! 塞がれ! 塞がれ、塞がれッ、治れ治れ治れ治れ治れよォッ!!」


 全力で、自分の体の中を巡るマナの全てに命じて治療魔法をぶち込む。癒しの波動がミミの全身に流れ込み、その体を優しい力が満たしていく。

 それなのに、塞がらなくてはならない傷が、塞がらない。


「――うそ、だ」


 目の前の現実が受け入れられず、ガーフィールは再び弱さを呟いた。

 直後に己の頬を殴りつけて、ガーフィールは牙で唇を噛みちぎって鋭い痛みに自分の意識を覚醒させる。弱音を吐いている場合ではない。何か、方法があるはずだ。


 何か何か何か、あるはずだ。

 意味がわからない。わからないのは諦める理由にはならない。とにかく、今は、何としても、この腕の中の、少女を、助けなくてはならない。


 だってこの子は、ガーフィールを泣かせてくれた子ではないか。

 こんな子が、自分のせいで、自分を助けるために、死んでいいはずがない。


「――――」


 牙を噛み鳴らして、ガーフィールは無我夢中で飛び上がった。腕の中の少女の傷口に手を当て、止血を試みながら効果のない治癒魔法を行使し続ける。

 血の臭い、『死』の臭い。誰も見当たらない街並み、何が起きていたのかすら、今のガーフィールの脳裏からは完全に消え去っていた。


 誰か、誰でもいい。この子を助けてくれ。どこかにいる誰か、奇跡を起こしてくれ。教えてくれ。どうにかできるのなら、何もかも救ってくれるのなら。


「――――」


 藁にも縋るような気持ちで、ガーフィールは自分の嗅覚を尖らせた。

 水の臭い。いつの間にか周囲に満ちている血の臭い。高ぶる感情、焼け焦げた肉の臭い。悪臭が立ち込める中に、ガーフィールはよく知る臭いを見つけて飛び付き、その後を追いかけてひたすらに走り、走り、走り抜けた。


 そして見つけた避難所に飛び込み、血塗れの自分の姿に小さな悲鳴が上がる。それに取り合う暇がない。目を剥きながら、その姿を探す。探して、探して、


「ガーフィール!?」


 向こうから自分を見つけ出してくれた。

 暗く、冷たい地下施設の一番奥に、探し求めた人影が立っていた。


 スバルだ。ナツキ・スバルだ。

 ガーフィールにとって奇跡の象徴で、最悪の状況でも一縷の光明を見つけ出してくれるだろう、最後の頼みだ。


 足がふらつく。頭が揺れる。

 腕の中の軽い重みに喉が詰まり、ガーフィールはよろよろとひた走った。

 近寄る自分を見て、スバルと周囲にいた誰かが息を呑んだ。腕の中でぐったりとしているミミに気付いたのだ。

 目の前に辿り着いたところで、ガーフィールはスバルに頭を下げた。そのままミミを差し出して、ひたすらに己の愚かさを呪う。


「すまねェ、大将……ッ! 俺様ァ、役立たずの! 能無しだ……ッ!」


 家族も守れず、盾であると誓った役目も果たせず、独断で敵対勢力に挑んだ上に結果を出せず、挙句に優しい少女を今、死なせかけている。


「ガーフィール、何が……いや、今はそれどころじゃ! フェリス!」


「わかってる! 早く、その子を渡して!」


 差し出す腕からミミが引き取られて、スバルの隣に立っていた細い人影が彼女をベッドに寝かせるのがわかった。

 次の瞬間に溢れ出す、ガーフィールとは比較にならない圧倒的な癒しの波動。ガーフィールのものが雨の一滴ならば、その人物の力は大瀑布のようなものだ。


 失われた命の蘇生すら叶いそうなほどの癒しの力を目の当たりにしながら、ガーフィールは魂の抜けた呆けた顔でその治療を見守っていた。

 そのガーフィールの肩に、スバルがそっと手を乗せてくる。ゆるゆるとそちらを見上げると、スバルは痛々しい足のケガを押しながらこちらに頷きかけ、


「いい状況だなんて言えねぇが、それでもよくここに辿り着いた。フェリスがいる場所にきた判断は最善だ。お前のおかげで、あの子は助かるぞ」


「俺様の、おかげ……?」


 スバルは何を言っているのだろうか。

 ガーフィールのおかげで、ミミが助かる。そんな馬鹿なことがあるものか。ミミがあんな負傷を負ったのが、そもそもガーフィールのせいなのだ。

 それなのにどうして、彼女が助かるのは当然で、自分の判断なんて、何も。


 虚ろにさまよう思考と、とめどない自責の念と愚かさの自覚。

 そして、ガーフィールのそんな愚かしさを、世界は決して許しはしない。


 誤りのツケは、必ず払わされる。

 それももっとも、おぞましい形で。


「フェリス、どうした……?」


 異変を感じ取って、スバルの表情が変わった。

 足を引きずるスバルが治療が行われるベッドへ向かい、そこで懸命に魔法を行使している人物へ呼びかける。

 マナの凄まじい奔流の中、その治癒術師は首を横に振って、


「なんで……? 傷が、傷が塞がんにゃい……! これじゃ、助けられにゃい!」


 悲痛な声、地下に響き渡るその声を聞きながら、ガーフィールは空を仰ぐ。

 見えない。地下の空は、ガーフィールに何も教えてくれない。


 ――犯した過ちの代償は、血で支払われるのだということ以外は、何も。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 傷が塞がらないってもしかして…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。