アメリカの技術者就労ビザ「H1B」制限からみるアメリカの理数系に対する文化や教育等構造的問題について
0. 初めに
筆者は親の仕事の都合でアメリカに居住し、義務教育を受けた経験を持つ帰国子女である。その立場から最も違和感を覚えたのは、日本における「アメリカの理数系教育は先進的であり、日本は遅れている」というナラティブである。日本のメディアや評論は、アメリカの成功した起業家を例に持ち出し、日本の理数系教育への批判につなげる傾向がある。
しかし、当事者としてアメリカの教育現場に身を置いた経験から言えば、その主張には同意できない。むしろ現場の空気感としては「理数系を学ぶ生徒は変わり者」という認識が強く、数理教育が社会的に高く評価されているわけではなかった。これは、日本社会が抱きがちな「アメリカは理数系教育に積極的」というイメージとは大きく乖離している。
さらに不可解なのは、日本の報道や世論、ネットがアメリカの理数系教育についてほとんど掘り下げてこなかった点である。トランプ政権下のH1-Bビザ規制が話題になるまで、STEM教育や外国人労働力政策との関連に焦点を当てる議論は乏しかった。つまり、日本におけるアメリカ教育への言及は、多くが「先進的である」という憧憬に基づいた表層的な理解にとどまってきた。
本稿は、こうした日本社会における漠然としたアメリカ礼賛に一石と投じるものである。アメリカの理数系教育は必ずしも優れているわけではなく、むしろ社会的評価や文化的文脈において軽視されている側面が存在する。日本が自らの理数系教育の課題を直視する際、海外を一方的に理想化するのではなく、現実に即した批判的比較が必要である。
1. 概要
トランプ米大統領は19日、エンジニアや研究者など高度専門職向けの「H1-B」ビザに年間10万ドル(約1,480万円)の手数料を課す大統領令に署名した。事実上の発給制限であり、外国人技術者を大量に抱えるIT企業の採用に直接的な影響を与える可能性がある。
H1-Bの実態を見ると、発給の71%がインド人労働者に集中している(出典:Al Jazeera)。日本に例えるなら、高度技能実習生の受け入れを突然打ち切るような衝撃に近い。多くの在米インド人はIT業界に従事しており、H1-B本来の目的である「様々な分野に優秀な人材を供給する」という趣旨は形骸化し、いまやシリコンバレーを中心としたテック企業の人材供給源に過ぎなくなっている。さらに、市場平均を下回る水準での労働力として活用されるケースが多い。とはいえ年収は10万ドルを超えるため、相対的に低いという意味合いにとどまるが。
インド人とシリコンバレー、そしてビザの関係性はまた別の機会に触れるとして、本題に移る。
移民依存の構造
アメリカは長らく世界中から才能を吸収し、大学、研究機関、スタートアップで外国人が主導的役割を果たしてきた。テック産業の競争力を支えているのは移民であることは疑いない。しかし疑問は残る。ITやテックの産業化は1980年代からすでに半世紀近く経過している。にもかかわらず、なぜアメリカは今もなお移民に依存しなければ人材不足を補えないのか。
理由は単純な需給ギャップではなく、文化的・教育的・歴史的な背景に根差している。
文化的に理数系を敬遠する傾向
大学進学率は高いがSTEM人材の国内供給は慢性的に不足
移民の知的資本に依存し続けてきた歴史的蓄積
この三点が重なり、結果としてアメリカの理数系不足は「構造」であり「国の在り方そのものの帰結」となっている。
日本への示唆
アメリカの姿は日本にとっての警鐘でもある。少子高齢化の進行に伴い、いずれ日本も「外部からの人材流入なしには競争力を維持できない」状況に直面する可能性がある。ただし、アメリカ型の移民依存モデルをそのままなぞることは現実的ではない。
必要なのは、国内の理数系教育強化と外国人材の受け入れをバランスさせる制度設計である。どちらか一方では不十分であり、両輪として機能させなければならない。
H1-Bの規制強化は移民政策にとどまらず、アメリカの教育・文化・産業競争力の歪みを浮き彫りにしている。日本がそこから学ぶべきは、移民依存を批判することでも模倣することでもなく、自国に合った持続可能な人材育成と活用の仕組みを作ることである。
2. アメリカの理数系受入の歴史
アメリカにおける移民と理数系発展の歴史
アメリカは建国から250年余りの歴史を持つ新興国でありながら、移民を受け入れることで発展を遂げてきた国である。移民は労働力補完にとどまらず、科学、技術、文化の発展を推し進め、国家の成長を根本から支えてきた。
象徴的な例を挙げれば、アルベルト・アインシュタインやエンリコ・フェルミ。ビジネス分野ではスコットランド移民のアンドリュー・カーネギー、近年であればソ連出身のGoogle共同創業者セルゲイ・ブリン、南アフリカ出身のイーロン・マスクなど、特にSTEM(Science, Technology, Engineering, Mathematics)分野では移民出身者の貢献が際立ってきた。
19世紀中盤には、ドイツを中心とした研究者が化学・工学分野を牽引し、鉄道・鉱業・製造業の基盤を築いた。南北戦争後の復興期、欧州からの技術者が大量に流入し、工学教育が確立。これが後の米国第2次産業の発展を支えた。
20世紀前半、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて欧州の科学者が大量にアメリカへ渡った。アインシュタイン、フェルミ、ジョン・フォン・ノイマンらが代表例であり、とりわけナチスを逃れたユダヤ系や中欧の学者がアメリカの研究水準を一気に世界最先端へ押し上げた。この流れが冷戦下におけるアメリカの科学的優位を盤石にした。
20世紀後半は冷戦の宇宙開発競争の中で、アメリカはさらに世界中から科学者・エンジニアを受け入れた。NASAのプロジェクトやシリコンバレー初期の技術基盤には、大学から民間へ移った移民研究者の力が大きく作用している。加えて大学院留学プログラムを通じ、インド、中国、台湾、韓国といったアジア諸国から学生が流入。理工系のみならず経済や経営の分野においても存在感を増し、現在に至る基盤を築いた。
現代では、インドと中国出身の大学院生が米国STEM博士号取得者の多くを占め、そのまま米国企業や研究機関に定着している。1990年創設のH-1Bビザ制度がこうした人材受け入れを制度的に下支えしてきた。サン・マイクロシステムズ(ドイツ人・アメリカ人・インド人共同設立)、Google(ソ連出身の共同創業者)、NVIDIA(台湾出身創業者)など、移民やその二世による企業は枚挙にいとまがない。
この歴史を俯瞰すれば、アメリカが長期にわたり技術的優位を保ち続けた理由は、移民の知的資本に他ならない。だが、今回のトランプ政権による事実上のビザ制限措置は、この優位性を揺るがす可能性を孕んでいる。
ここで考えるべきは単純な「移民の国アメリカ」という図式ではない。義務教育も大学も存在しながら、なぜ国内で十分な人材を育成できないのか。なぜ理数系教育は軽視され続けてきたのか。人種差別や経済構造といったデリケートな要素を抜きにしては語れない。
今回のエッセイで焦点としたいのは、アメリカの理数系不足が一時的な問題ではなく、文化的・制度的な構造の産物であるという点だ。そして日本はそこから何を学び得るのか。人口減少に直面する日本にとって、アメリカの失敗は警告であり、また制度設計のヒントでもある。
3. 教育現場においての理数系への軽視
アメリカ義務教育における理数系軽視という違和感
理数系は言うまでもなく学習強度が高い。数学だけでもI、II、III、A、B、Cと段階的に学習する範囲が広く、理科では化学、物理学、生物学、地学など多岐にわたる。暗記だけで済むものではなく、定義の理解や反復練習を通じた思考力の習得が不可欠であり、学習にかかる時間も膨大だ。一般的に理数系は文系科目に比べ難易度が高く、だからこそその分野に進む人材は尊敬に値し、国家としても優遇すべき存在である。
アメリカは科学技術の国であり、STEM教育を重視していると外部からは思われがちだ。日本でも「アメリカの教育は理数系を伸ばす仕組みがあるに違いない」と過大評価されている節がある。イーロン・マスクをはじめとする起業家や、シリコンバレーでのイノベーションの事例がその幻想を強化している。
しかし現実は異なる。マスク自身もアメリカの義務教育(Grade 1〜Grade 12、日本の小1から高3に相当)を経てはいない。現代アメリカの理数系分野で活躍している人材の多くは外国出身であり、アメリカ国内の教育システムを経ていない。NVIDIAの創業者ジェンスン・フアンも台湾出身で、基礎教育はタイのインターナショナルスクールで受けている。彼の父親が理工系だったことも影響している。
つまり、アメリカは長い歴史の中で常に移民による人材流入に依存してきた。だが、この依存は歴史的必然というよりも、国内教育、とりわけ義務教育における理数系の立ち位置そのものに問題がある。なぜアメリカでは理数系人材が育たないのか。なぜいつまでも移民に頼らざるを得ないのか。この根本的な問いに向き合わない限り、今回のトランプ大統領によるビザ制限政策を巡る議論も意味を持たない。
共和党は、小さな政府と地方自治の原則を堅持し連邦教育省の廃止を目指し、伝統的価値観を重んじ知識重視の伝統的教育実践を支持する傾向にある。そのため、新自由主義に基づき教育界に市場原理を導入する改革を推進し、私立学校も含む学校選択制度などを通して親の選択権を拡大してきた。
この教科課程基準に基づく1990 年代からの改革は「スタンダード運動(Standards-based movement) 」と呼ばれ、全米の多くの州が連邦政府からの補助金を基にスタンダードとテストによるアカウンタビリティ・システムを構築していった。州レベルの標準テストの試験的な実施時期が終った1990 年代後半から2000 年代初頭にかけて、 いくつかの州ではテストで基準点を超えないと高校を卒業できない、あるいは進級できないといった結果責任を伴う試験制度(high-stakes testing)に基づく厳しいアカウンタビリティ・システムが構築される。
アメリカ義務教育の統治構造と理数系不足の背景
アメリカの義務教育はU.S. Department of Education(アメリカ合衆国教育省)が統括している。日本の旧文部科学省に相当する組織であり、その役割は教育に関する連邦支援の方針を定め、各州や自治体との調整を行うことにある。具体的には以下の機能を担う。
教育に関する連邦資金の配分と監視に関する政策立案
学校に関する全国規模のデータ収集と教育研究の普及
教育における重要課題を国民的議論に引き上げ、改革提案を作成
差別禁止と教育への平等なアクセスを保証
ただしアメリカでは常識であるように、教育カリキュラムの実際の設計は各州の権限に属する。そのため、教育方針や学習内容は州ごとに差異が大きい。教育省は全国50州を統括する最上位機関として資金配分と監督に最も強みを持つが、州の裁量を完全に縛ることはできない。根本的な読み書きや理数教育の大枠について推奨・監視を行うことで、州間で大きく逸脱しないように調整するのが現実的な役割である。
ここで問題となるのは、なぜ人口約4億を抱えるアメリカにおいて理数系人材が慢性的に不足しているのか、という点だ。その背景には「理数系教育が州や自治体レベルに委ねられている結果、統一性を欠いている」という構造的問題がある。
さらにアメリカは世界でも有数の格差社会であり、教育も例外ではない。教育の予算は地区ごとに大きく異なり、どこで教育を受けるかによって質に大きな差が生じる。教育省が一定の方針を示しても、現場レベルでは地区の財政状況に依存してしまう。しかも予算配分の仕組み自体が新自由主義的であり、その地区の学業成績に応じて補助金が増減する。すなわち、平均成績が低ければ予算が減り、成績が高ければ予算が増える。
この仕組みは優秀層の伸長には資するが、理数教育の底上げには逆効果であり、教育格差を固定化する方向に作用する。結果として理数系人材の育成は体系的に行われず、慢性的な不足が常態化している。
アメリカ義務教育と理数教育の悪循環
アメリカの教育現場において最大の問題の一つは、2002年のブッシュ政権による教育改革、No Child Left Behind (NCLB)法に端を発する補助金制度の仕組みにある。
NCLBの枠組みでは、地区の標準テストの成績に応じて補助金が増減する。成績が下がれば補助金が削減され、教育予算も減る。その結果、教育水準がさらに下がり、再びテストの点数が下がる。この負のループが繰り返される。特に理数系教育は、文系に比べて教育コストが高く、科学実験の備品、専門知識を持つ教師の確保、設備の維持といった要素が不可欠である。したがって補助金が減らされることによる打撃を最も強く受けるのが理数系分野である。
この仕組みは一見「努力すれば報われる」ように見える。成績が上がれば補助金が増えるため、頑張るほど好循環になる。しかし現実にこの恩恵を受けられるのは、すでに教育水準が高い富裕層や中間層上位が住む地区であり、元から教育に関心と余裕のある層である。逆に、貧困層が多い地区は補助金削減と教育低下の悪循環から抜け出せない。この格差は地区ごとの教育水準を鮮明にし、富裕層は子供の教育のためにより教育環境の良い地区へ引っ越す。結果的に不動産価格が上昇し、教育にも資本主義の原理が適用される。
このシステムによって利益を得るのは人口全体の上位10%にも満たない層であり、残りの90%は教育の質が削られる。つまり、アメリカ国内で「日本水準の義務教育」に近い環境を受けられるのはごく一部の人々に限られる。理数系教育は特に費用依存度が高いため、わずかな予算変動で教育の質が目に見えて落ちる。こうした環境の中で、自分の子供に理数系の基礎教育をアメリカで受けさせたいと考える親は少なく、現実には義務教育は海外で済ませ、大学以降にアメリカへ進学させるという選択が多く見られる。
教育制度の不安定さと理数系軽視
アメリカの義務教育はこのように不安定である。さらに近年は教育省(Department of Education)の権限縮小や廃止論も大統領令レベルで取り沙汰され、制度的な安定性が失われつつある。教育制度の基盤が揺らげば、そもそもアメリカ国内で学びたいという子供や親の動機も薄れる。
理数系教育の軽視は、NCLBに代表される新自由主義的な教育システムの構造的問題に由来する。教育は国家が一定水準を保証すべきものであり、万人に均等に提供されるべき公共財である。それにもかかわらず、アメリカでは地区ごとの経済力に依存する形で教育格差が固定化されている。こうした環境では、自前で理数系人材を育てることは難しい。
さらに問題を悪化させているのが、理数系カリキュラム自体の弱さである。一般的な公立校の数学・理科の内容は、日本や韓国、中国、台湾などアジア諸国と比較して明らかに学習強度が低い。例外的にAdvanced Placement (AP)を履修する生徒もいるが、日本の進学校やアジア圏の理数教育と比較すれば、そのレベルも見劣りする。つまり制度的にも内容的にも「二重の弱さ」を抱えている。
本末転倒な教育現場
このような制度のもと、アメリカの理数教育は個人依存に陥っている。公立学校では最低限の教育しか受けられないため、アジア出身の教師が運営する理数専門の塾に通う必要が生じる。そもそも理数を教えられる教師が慢性的に不足しており、特殊な私立進学校を除けば、まともな教育を受けるには塾に頼る以外に道がない。
加えて、大学入試において理数科目は日本のように重視されないため、国内生徒が理数系を選ぶ強い動機も乏しい。こうした背景の中で「アメリカ内部から理数系人材が育つか」と問えば、答えは否定的にならざるを得ない。結局は外部からの移民に頼らざるを得ない構造が固定化されている。
外国人に対するビザ発給を制限するだけでは問題は解決しない。もし本気で移民依存を減らすのであれば、教育への投資と制度の改革を同時に行わなければならない。特に理数教育を国家が責任を持って底上げしない限り、国としての土台は脆弱化する。アメリカが今直面しているのは、単なる移民政策の問題ではなく、教育制度と理数教育への軽視という国家基盤の問題なのである。
4. 受験における理数系への冷遇
アメリカの総合型選抜受験と理数系軽視の構造
アメリカの大学受験は、基本的に総合型選抜である。SAT/ACT(共通テスト)、学校の成績GPA、課外活動、面接、自己推薦、推薦状などを総合的に評価し、学力のみならず「人物像」を多角的に判断する仕組みだ。日本の一般入試のように純粋な学力試験で勝負する制度とは根本的に異なる。この米国式を参考に導入されたのが日本のAO入試であり、今なお賛否を呼んでいる。
理数系は言うまでもなく学習負荷が重い。日本人がよく誤解するのは「アメリカの名門大学に入るには、東大理系並みの勉強をこなしつつ部活や課外活動も並行しなければならない」というイメージだ。だが現実には高校レベルの理数カリキュラム自体が日本より軽く、帰国後に受験戦争についていけないという話がしばしば聞かれる。これは半分は事実だ。アメリカの理数教育水準は日本に劣るが、帰国子女入試で名門校に進むケースも多く、必ずしも「国内受験戦争」に巻き込まれているわけではない。要するに、アメリカの受験では理数系の学力そのものは必ずしも核心ではなく、課外活動や総合的な人物像がより重視されている。
総合型選抜の二大問題
総合型選抜受験には大きく二つの問題がある。
格差の助長
課外活動やスポーツ、ボランティア経験といった「人物像形成」には多大な資金が必要になる。名門大学が求める「型」に合わせて、親はスポーツクラブやボランティア活動に投資し、子供は推薦状や受賞歴を整える。結果として、富裕層ほど有利になり、貧困層は課外活動の機会を持てずに不利に立たされる。一点集中型人材の冷遇
本来なら理数系分野は膨大な学習時間を必要とするため、スポーツや課外活動と両立するのは難しい。にもかかわらず、入試制度が「総合性」を重視する結果、学業一点集中型の人材が不利になる。理数分野に特化した学生は「個性が足りない」と判断され、弾かれてしまう。
つまり「人物像を多角的に見る」という理想は、現実には「大学が望む型に当てはめる」作業となり、結果として理数系人材を遠ざけるシステムになっている。
大学教育の延長線構造
アメリカの大学は、日本と比べて「高校の延長線」としての性格が強い。州や学区によって高校教育の水準が異なるため、本来は高校で修得すべき基礎科目を大学が肩代わりするケースが多い。
その結果、専門的な学習は修士課程以降に集中する傾向が強い。日本では学部レベルで扱う内容を、アメリカでは修士課程やポスドクで行う。よく「アメリカは修士号取得率が高いのは学習意欲が強いからだ」と言われるが、実際には高校教育の弱さを大学と大学院で補っているだけだ。言い換えれば、日本の学部卒=アメリカの修士課程、とみなした方が実態に近い。
移民依存の必然
こうした教育構造の下、国内から理数系人材を育成するのは難しい。
高校カリキュラムの学習強度は低い
入試は理数を重視せず、課外活動や推薦状に比重が置かれる
大学学部は基礎教育を引き受け、専門教育は修士以上に先送りされる
莫大な時間と費用が必要
結果として「自国で育てるより、すでに出来上がった人材を海外から受け入れた方が早い」という構造が固定化される。これがアメリカが移民に依存せざるを得ない教育的背景であり、トランプ政権のビザ制限が孕む深刻なリスクでもある。
5. 文化面における理数系の軽視
アメリカ文化における理数系軽視
入試制度において理数特化型人材が不利に扱われがちなことはすでに述べたが、アメリカでは文化面においても理数系は軽視される傾向がある。
テレビ、ハリウッド映画、ドラマ、アニメなど大衆文化の中で描かれる理数系のキャラクターは、しばしば「変人」「奇人」「冴えないオタク」といった属性を与えられる。『ビッグバン★セオリー』に代表されるように、科学者やエンジニアは社会性に欠け、コミュニケーション能力が低い人物として描かれ、ストーリー上の笑いの対象にされることが多い。これは視聴者にとっては娯楽である一方、幼少期から「理数に強い人=社会性に欠ける人」というイメージを刷り込む役割を果たしてしまう。
アメリカ社会では「スポーツで活躍する者」がヒーローであり、「リーダーシップを発揮する者」が称賛される。高校でもフットボールやチアリーディングといった活動が文化的中心に位置づけられ、理数に没頭することは「クール」ではなく「変わり者」とされる。つまり教育制度だけでなく、文化的価値観そのものが理数離れを助長している。
このステレオタイプは、理数系教育が重視されにくい現状とも連動している。学習負荷が高いにもかかわらず、社会的に称賛されるわけでもなく、むしろ「風変わり」とされる。結果として、子供が自ら理数に進もうとする動機づけは弱まる。
理数系を「尊敬すべき専門性」ではなく「社会性に欠けた人間の特徴」として描き続ける限り、教育制度改革だけでは人材不足を解消できない。文化そのものが子供たちの進路選択を方向づけるため、理数系人材を軽視するアメリカの大衆文化は、教育政策と並ぶ構造的問題と言える。
スポーツ文化とアメリカにおける価値観
アメリカは言うまでもなくスポーツ大国である。子供に「将来なりたい職業」を尋ねれば、常に上位にスポーツ選手が挙がるほどで、スポーツは生活の中に深く根付いている。特にアメリカンフットボールは国民的スポーツであり、学校でもプロでも圧倒的な人気を誇る。
筆者自身がアメリカの学校に通っていた経験からも明らかなのは、日常会話で話題になるのは常にスポーツであったという点だ。アメフト、バスケットボール、野球、アイスホッケー、いわゆる「4大メジャースポーツ」が話題の中心であり、科学や数学の話題が持ち上がることはほとんどなかった。昼休みの会話も、放課後の部活動も、常にスポーツが文化の中心にあり、理数系の学問やサイエンスに触れる機会は極端に少ない。
アメフトのパス獲得ヤード、ラン獲得ヤード、レシーブ獲得ヤードといった主要スタッツ、セイバーメトリクス等に関してはしっかり暗記しているのに、算数や数学の点数はからっきしなんて話はアメリカではごく一般的だ。
当たり前のことだが、学校という環境において周囲がスポーツの話題で盛り上がっていれば、子供がその影響を受けるのはごく自然なことである。そこで一人だけが理数系の学問やサイエンスについて語っても、周囲から浮き、相手にされずに終わってしまう。アメリカには日本でよく語られるような「空気」という概念は存在しないとしばしば言われるが、実際には確かに存在しており、子供たちはその空気感に非常に敏感な年代である。したがって、周囲がスポーツに熱心な中で自分だけ理数系を突き詰めようとするのは困難を極め、相当な図太さや強い内的動機がなければ難しい。
この状況は移民の子供たちにとっても例外ではない。彼らは結局アメリカの学校に通い、アメリカ人の同級生と同じ「空気感」を共有しながら育っていく。その中で理数系への情熱を維持することは、言うほど容易ではない。アメリカでは「スポーツ>学業」という価値観がうっすらと根付いており、スポーツに関心を持つことは自然である一方、過度に勉強熱心な生徒はいわゆる「nerd(がり勉)」として揶揄される傾向がある。日本に例えるなら、偏差値の低い公立高校で一人だけ学業に励もうとする状況に近い。そうした環境で理数系を極めるのは容易ではない。
移民親世代の子世代に対する淡い期待と世代的断絶、The American Dream、そしてスポーツ偏重文化の壁
さらに誤解を生みやすいのは、移民一世の親世代である。彼らは多くの場合、大学以降にアメリカへ渡っており、アメリカの義務教育における空気感を体験していない。そのため、「自分が理数系として成功したのだから、子供もいずれ理数系で大成するだろう」という過度な期待を抱きがちである。また、アメリカの大学が自由で多様な空気を持つため、義務教育も同様の環境だろうと楽観的に想定してしまうケースも少なくない。だが実際には、移民二世以降は明確にアメリカ的な文化圏で育ち、親世代とは大きく異なる価値観を形成していく。結果として理数系に進まないケースが多く、これは慢性的な理数系人材不足の一因ともなっている。
日本では、代々学者や医師といった職業を継承する「相伝的価値観」が一定程度存在しており、親の職業や専門分野を子が受け継ぐことは珍しくない。ところがアメリカにおいては、このような価値観は実は稀なケースである。なぜなら、アメリカ自体が歴史の浅い新興国家であり、ヨーロッパや日本のように「家業を継ぐ」「親の職業を子が引き継ぐ」といった長期的な伝統が制度や文化として十分に根付いていないからである。そのため、親と子の職業が同一、あるいは密接に近いケースはきわめて限定的である。
Exogenous factors can be conceptualised as the principal resources (or lack thereof) that immigrant families bring to the confrontation with the external challenges confronting their children. These factors are: 1) the human capital that immigrant parents possess; 2) the social context that receives them in America; and 3) the composition of the immigrant family.
外生的要因とは、移民家庭が子供たちに立ちはだかる外部的な課題に直面する際に持ち込む主要な資源(あるいはその欠如)として概念化できる。これらの要因は以下の三つである。1) 移民の親が有する人的資本 2)アメリカにおいて彼らを受け入れる社会的文脈 3) 移民家庭の構成
むしろアメリカ社会では、「親と異なる道を選ぶこと」こそが個人の自由や独立心の表れとして評価される傾向が強い。これはアメリカ的な価値観(The American Dream)、個人主義、開拓精神、社会的流動性、と深く結びついている。アメリカンドリームの文脈においては、親世代よりも高い社会的地位や収入を獲得することが理想とされ、必ずしも親の職業を受け継ぐことが「成功」とは見なされないのである。
結果として、学者家庭の二世・三世が自然に育つ日本や欧州の一部とは異なり、アメリカでは「親と子の職業的断絶」がむしろ標準的な現象となっている。こうした文化的背景は、理数系人材の継承の難しさにもつながっており、親が学者や研究者であっても、その価値観や職業選択が必ずしも子世代に引き継がれるとは限らない。
付け加えるなら、近年の研究でも「社会的文脈」や「同級生の価値観」が子供の学問的関心に与える影響は大きいことが指摘されている。つまり理数系への情熱は単に個人の資質や努力ではなく、同世代の同調圧力や文化的期待によって大きく左右される。ゆえに、理数系教育を支えるには、家庭内の期待だけでなく、コミュニティや学校文化全体をどう設計するかが重要となるのである。
政策的観点からすれば、これは「個人の適性」や「家庭の努力」だけで解決できる問題ではない。STEM教育プログラムへの積極的な投資、学業志向の生徒を支える特別奨学金やアフタースクール制度、さらには移民家庭を対象とした文化的ブリッジング施策が不可欠となる。特に低所得層や移民家庭では、スポーツ奨学金が進学の現実的な手段になりやすく、学業よりスポーツへ傾斜する傾向が強まる。したがって、STEM分野で同様の「社会的インセンティブ」を提供しなければ、構造的に人材の偏在は是正されにくい。
加えて、教育社会学の知見でも「peer pressure(同調圧力)」や「school culture」が子供の進路選択に与える影響は大きいことが指摘されている。つまり、理数系教育を支えるには、家庭内の期待だけでは不十分であり、学校や地域社会が「理数系を選んでも孤立しない」空気感を醸成することが鍵となる。移民二世以降の子供が文化的同調圧力に押しつぶされるのではなく、多様な進路を選べる環境をどう設計するかが、将来的な理数系人材不足を左右するだろう。
このような文化環境は、子供たちの価値観や進路選択に強く影響を与える。スポーツで成功すれば名声や富が得られる、というロールモデルが目の前にあり続ける一方、科学者やエンジニアは目立つ存在ではなく、社会的に称賛される場面も少ない。教育制度の弱さに加え、このようなスポーツ偏重文化もまた、理数系人材が育ちにくい背景の一つである。
スポーツ文化と理数系の社会的劣位
アメリカにおけるスポーツ文化は、理数系とは正反対の性質を持っている。いわゆる「ジョック文化」と呼ばれるそれは、アメフトを中心に国民を一つにまとめる強力なカルチャーであり、移民国家アメリカの同質性を象徴する役割を果たしてきた。国歌斉唱や国旗掲揚といった儀式と結びついたアメフトは、単なる競技を超え、愛国心の象徴そのものとされている。
一方で理数系は、その真逆の位置に置かれている。コツコツと地味に勉強を積み重ねなければならず、派手なアピール力を持たない。科学研究や数式はスタジアムを熱狂させることも、国家的イベントの中心となることもない。愛国心に直結するスポーツに比べ、理数系は社会的な存在感を持ちにくい。
メディアにおいてもこの格差は強化されている。ハリウッド映画やテレビドラマでは、理数系キャラクターはしばしば「冴えないオタク」「奇人変人」といったステレオタイプで描かれる。特にアジア系キャラクターが「計算に強いが社交性のない理数人材」として登場するケースが多く、理数系=モテない、社会性に欠ける、といった刷り込みが大衆に広まっている。脚本を手がける側も多くは文系出身であり、理数分野への理解が浅いまま物語を作るため、結果的に科学者像は歪んだまま再生産される。
たとえ「理数系に進めば将来は高い給与が保障される」と大人が説いたとしても、果たして子どもたちがその先の未来のキャッシュフローまで思い描けるだろうか。おそらく難しいだろう。むしろ、そのような未来予測ができる子どもこそ、自然と理数系に進学する資質を備えていると言える。
ところが実際には、多くの子どもたちはその想像を持たない。特にアメリカの子どもたちにおいて顕著なのは、将来の経済的リターンを基準に学問分野を選ぶ発想自体が希薄であることだ。だからこそ、日本人が「なぜアメリカの子どもたちは、給与が高いのにもかかわらず理数系に進まないのか」と不思議に思ったとしても、その問いはそもそも的外れなのかもしれない。
子どもたちは将来の賃金水準よりも、むしろ「いまの興味関心」や「周囲の価値観」から進路を選ぶ傾向が強い。アメリカにおいては、自由な自己表現や社会的承認を重視する文化的土壌が強く、給与水準と進路選択が直結しにくい。逆に言えば、「経済的合理性で進路を決める」という大人の視点を前提に疑問を抱くこと自体が、日本的な思考枠組みにとらわれた問いなのだ。
ここには、進路選択を「投資」とみなす日本的合理主義と、「自己表現」や「好きなこと」を優先するアメリカ的価値観の差が浮かび上がる。給与の多寡ではなく、アイデンティティやライフスタイルを重んじる姿勢が、アメリカの子どもたちの進学動機を形作っているのではないだろうか。それがまさに日本人が常々期待しながら語っているアメリカの自由な教育の結果だ。子供たちが憧れるロールモデルは、スタジアムを沸かせるアスリートやヒーローとして描かれる目の前の兵士であって、いつ結果がでるかわからない科学者やエンジニアではない。なぜか日本人は自由な教育の結果、子供が科学者や学者を目指すという淡い希望を抱きがちだが、現実はそうではない。科学者や学者、エンジニアは子供達から見るとただただダサい職業にしか見えず、その形成された子供の価値観を将来的な投資という考えだけで覆すのは非常に困難を極めるだろう。
この構造の中で、理数分野にヒーロー像は存在しない。教育制度の問題に加え、大衆文化そのものが理数系を劣後させる仕組みを再生産しており、子供たちが「科学者になりたい」と心から憧れる土壌は乏しい。ここにこそ、アメリカが理数系人材を国内から育てることが難しいという構造的問題の一端がある。
6. 自由な教育の弊害
単位制教育と理数系離れ
アメリカの教育は日本に比べて緩やかで、多くの中高が単位制を採用している。生徒は自分に合ったカリキュラムを構築でき、柔軟な進路選択が可能だ。理念としては魅力的だが、実際には「子供を信じすぎている」という盲点がある。自由を与えられた子供が難度の高い理数系を選ぶかといえば、そうではない。多くは負荷の軽いリベラルアーツ科目を選び、無難に卒業を目指す。
子供は大人以上に「楽な道」を選びやすい存在である。一日中数学問題を解き続けるより、簡単な授業で単位を取り遊ぶ時間を確保したいと考えるのが自然だ。これは「自由教育」の落とし穴であり、実際にフィンランド教育が直面した問題でもある。理念としての「自由と自己決定」は立派だが、自己判断が未熟な段階で選択を委ねると、多くは理数のような困難な道を避けてしまう。
理数系分野に進むには、一定の胆力や「腹を括る決意」が必要になる。学習強度の高さに耐え、将来のために敢えて困難を選ぶ姿勢だ。だが、なぜ数学を学ばなければならないのか、なぜ科学が必要なのか、こうした根源的な問いに大人が十分に答えられない限り、子供たちを説得することは難しい。アメリカでは親も教師も、その問いに明確な答えを与えられないまま「自由」に委ねるため、結果として理数離れが加速する。
日本も例外ではない。文系出身の親が「子供には理系に進んでほしい」と願うケースは多いが、実際に子供を説得できているかは疑問だ。理数分野は「一歩踏み込んで腹を括る」領域であり、単に押し付けるだけでは子供は動かない。結果として「スポーツをしてそれなりの大学に行けばいい」という選択が主流になり、わざわざ困難な理数系を選ぶ動機は生まれにくい。
移民のハングリー精神とその限界
この空白を埋めてきたのが移民である。母国で得られる以上の給与をアメリカで得られるという強烈な動機があれば、多少大変でも理数分野に進むことを厭わない。これがアメリカのSTEM人材供給を長年支えてきた。
しかし近年は事情が変わっている。世界規模で少子化が進み、労働待遇は改善。主要な供給源だったアジア諸国も先進国化し、わざわざアメリカに渡るインセンティブが薄れている。加えて、トランプ政権以降の移民冷遇政策が拍車をかけ、「無理してアメリカに行く」動機は急速に弱まった。
人材輸入の終焉とアウトソーシング議論
こうして自前の理数系育成に失敗し、移民供給も減少する中で、アメリカ国内で議論が活発化しているのが「同盟国へのアウトソーシング」である。人材がアメリカに来なくなった以上、同盟国に研究開発や製造を担わせるという発想だ。しかし、果たしてこれは本当に機能するのか。国内に理数教育基盤を持たず、国外依存を強めることは長期的に国家競争力を弱めるリスクを孕んでいる。
結局のところ、教育の自由化と理数教育軽視、移民依存とその限界、アウトソーシング依存、これらはすべて連続した構造問題である。アメリカが本気でSTEM人材を育成するには、単なる「自由」ではなく「困難に挑む必然性」を制度として組み込む必要がある。
7. 結論及び日本が学べること
結論として、世界規模の人口減少が進む中で、理数系に進もうとする人材はますます希少化している。日本にとっても、STEM人材をいかに囲い込み、育成するかは国家的な課題である。これまで多くの国々は、突出した才能を持つ一人の天才や、移民による高度人材の受け入れに依存することで産業や技術革新を支えてきた。しかし、世界的な少子化が進行し、各国が優秀な人材を囲い込む競争を激化させる中、この「移民依存システム」は限界に差しかかりつつある。
今後国家に求められるのは、外部からの「フリーエージェント」を獲得する発想ではなく、自国の教育制度と社会的基盤を通じて人材を育成する力だ。野球にたとえるならば、即戦力のFA選手に頼るのではなく、自前のドラフトで選手を発掘し、長期的に育成できる体制へと移行することが不可欠となる。この転換は単なる教育政策の問題にとどまらない。国家としていかに若者を科学技術、ものづくり、研究開発へと導き、持続的な中間層と技術基盤を形成できるかという、社会全体の生存戦略に直結している。
ここで重要なのは、単に研究予算が降りてくるのを待つ姿勢では不十分だという点だ。研究者やポスドク側からも、待遇改善の訴えやキャリアの見通しを積極的に発信し、社会とのコミュニケーションから逃げないことが求められる。理数分野が「閉じた象牙の塔」ではなく、「社会に開かれた挑戦の場」であることを示さなければならない。そのためには予算のためにプレゼンすることも勿論大事だが、それ以上に大事なのは子供たちにとって科学者や学者を目指すことはかっこいい、又は少なくともダサくはないというマイナスイメージを取っ払う必要がある。上記においても述べたが、将来的に産まれるキャッシュフローという大人の合理性で子供達は動かない。
メディアとの連携を通して、アメリカのように理数系が「変人」「冴えないオタク」として描かれるのではなく、科学者やエンジニアが憧れの対象となるような物語を、テレビドラマや映画、アニメの中で提示する必要がある。子供たちが自然に「科学者になりたい」「エンジニアとして社会を変えたい」と口にできる環境を整えることが、日本にとっての将来投資になる。
研究費や人材は、国家から「与えられる」ものではない。勝ち取るものである。そのためには、
研究者自身のアピール力と発信力
社会全体による待遇改善と制度改革
メディアを通じたロールモデルの提示
自前の人材育成と教育の底上げ
こうした総合的な取り組みが必要になる。
アメリカが歩んだ「理数教育の軽視と移民依存」という轍を、日本がそのまま踏むのであれば、同じ構造的問題に直面するのは時間の問題だ。だが逆に、今この教訓を取り込み、理数系を社会全体で支える文化を作り出すことができれば、日本は長期的な競争力を確保できる。
要は、教育や人材の未来を「受け身で待つ国」になるのか、それとも「自ら掴み取る国」になるのか。今問われているのはその選択である。



アメリカのSTEM教育の問題点はわかるが、「文系やリベラルアーツがSTEM分野に比べて学習強度が低い」という前提で議論を進めるのには文学修士として同意できない。単純にアメリカのリベラルアーツ教育のレベルが低いだけである。欧州では中等教育で学習するラテン語をアメリカでは修士で始めるほどに。…
在米日本子女が現地の小学校教師に算数教えたなんて話を90年代はよく聞きました。この調子だと今でもなのかな
このnote 1️⃣今話題のAA(アファーマティブ・アクション)制度が儲けられた本来の意味。 「学区ごとに格差と学力が固定されるクソな現実があるから」 2️⃣サンデル教授の書籍「実力も運のうち」の富裕層の大学受験(総合教育)の現実 3️⃣アメリカ留学して日本に文句言うやつが全員狂ってる…
ケネディさんがソ連に対抗するためにぶち上げたアポロ計画も ドイツから盗んできたフォンブラウンがいなければ成功しなかったわけで とはいえ、アメリカは元々外国人が国を盗んで建国した国なので 住人が白人であり続けるとも限らないのです。