大学院以降、よく耳にするセリフの1つとして、「人格の否定と意見の否定は違います。意見の否定を人格の否定だと受け取らずに、また、人格の否定ではなく、意見の否定をするようにしましょう」というのがある。
一見、非常に尤もらしいセリフではあるのだが、俺にはどこか違和感がある。その違和感の居所を探ってみようと思う。
まず、最初に思うのは、このセリフを口に出すことによって、日常的に積極的に他者の「人格の否定」をすることで(ようやく普段)正常な状態を保っている可哀想な人たちの人格を、否定していること。
この可哀想な人たちは、他者の人格否定をせずにはいられず、そのスタイルを奪われてしまっては鬱憤が溜まりすぎて、もしかしたら死んでしまうかもしれないのに、そういう人に対して、ましてや「自分とは合わない意見を言う人を、積極的に人格否定するのはどうかと思う。自分はそういう人とは相容れたくない」というような意見を平気で述べるのは、人格を否定している人とまったく原理がカワラナイのに、まるで自分のほうが考え方が上だと言わんばかりであろうとする点でタチが悪い。
すなわち、他者への攻撃(自己防衛も含む)を目的として、「人格の否定」と「意見の否定」は違う、と言っている以上は、それはどっちが先にやったか?という問題なだけであって、「意見の否定」の顔をした(より巧妙な)「人格の否定」なのだから、この主張は、そもそも論理破綻を起こしているように思う。
(*ちなみに、非常にどうでもイイことなので、ここは特に読みたい人だけ読めば良いですが、『人格の否定をしている人の人格を否定している人の人格を否定していないか?』という反論があるかもしれないんですが、彼らが用意した意見と人格の違いによって、この反論は覆されます。『・・・』に書いた最後の「人格」は間違いであり、ここは私は「意見」のつもりです。もう少し詳しく言えば、「人格の否定をしている人」というのは、もはや生き方としてのスタイルに近い性質を表現しているので、その性質を否定することは「人格」に含まれるのが適切だと考えていますが、「人格の否定をしている人」を否定するような言葉は、単なる意見の扱いが適切だと考えていますので、これを否定することは意見の否定をしているに過ぎないと思います。ただし、あくまで、「意見の否定と人格の否定は圧倒的に違う!」と思っている人が準備している定義内での話であるので、後を読めばわかりますが、私はこれすらも、人格の否定の一部になってしまう可能性があるかとは思っていますが、、少なくとも「じゃあ、人格の否定をしている人の人格を否定している人の人格を否定している人の人格を・・・(以下、n回繰り返す)」みたいにはならないと思います。そのようにモデルをデザインしてみても(別に)良いですが、回を重ねるごとに飛躍的に、「人格」の意味が「意見」の意味に転移していくと考えています。すいません、長い注ですね。以上で、想定されるくだならない反論に対するディフェンスを終えて、本題に戻ります)
じゃあ、単に「人格の否定」と「意見の否定」は違う、という言葉を、誰かへの攻撃を意図せずに発するぶんには、正しいのか?
いや、それも正しくないと俺は思っている。なぜなら、「意見の否定」は簡単に「人格の否定」を誘発する材料であり、人格とは個人が所有する多くのあらゆる意見の総和であるからだ。
具体的な例を出そう。これは俺の夢に出てきた話でつまりは架空の話なのだが、、俺がまだ大学院の修士課程1年生で研究室に入ったばかりの頃、研究室ゼミで学年が1つ上の先輩の出したデータと説明に対して、疑問を投げかけた。これは、否定の意図を含んだ疑問ではあったが、ほぼ確実に「意見の否定」の範囲内であったと思う。そして、俺の疑問に対してまともに応えられなかったその先輩は、教授から次のように「人格の否定」をされてしまうことになる。
「いま、たかはし君が指摘したように、ここの説明の仕方はまったくおかしい。君の説明のやり方は、まるで幕の内弁当のようですよ。(幕の内弁当に関する説明を10分以上入れた後に)つまり、幕の内弁当のように一貫性がない。すべてが点々としている。それでも高級な幕の内弁当なら良いのかもしれませんが、とてもそうではありません」
俺はゼミが終わった後に、すぐ、教授室に一人で向かった。それは、その先輩のためではなく、単に自分が蒔いた種であるからだ。
「先生、いくらなんでも、あの言い方はないです。研究室の雰囲気を悪くします。あれじゃあ、殆ど人を馬鹿にしているのと同じです」
そう言うと、先生は、「考え過ぎだ」と言う。そして、「よくね、この研究は大工のような仕事だ、という言い方がある」という説明を滔々と俺にし始めた(30分以上も)。
この例だと教授は、「人格の否定」ではなく、あくまで、説明の仕方の「指導」をしているだけ、と思う人もいるだろう。だが、これが「指導」だと言う意見は完全に間違っている。「指導」というのは、相手にとっての分かりやすい言葉でなければならず、「幕の内弁当」がそうなっているとは到底考えられないからだ。この教授が「幕の内弁当」を出したのは、分かりやすさの例ではなく、ただ単にそれを話したかったというカラオケ状態(=歌っている人だけが気持ちいい≒喋っている人だけが気持ちいい)なだけ。自分がカラオケをするために、幕の内弁当を使って、プレゼンのやり方を否定することは、他人の人格を否定することだと俺は思う。なので、単に「君は完全にダメだ」とか「君は馬鹿なんだから」という、誰でもわかるような人格の全否定だけが「人格の否定」ではなく、このような曖昧な表現も含め「人格の否定」だと俺は思っている。(そして、何よりも、命をかけてリーズナブルな幕の内弁当を作っている人の人格も否定しています!)
だが、その「人格の否定」を誘発しているのは、俺自身。俺が意見の否定を含んだ疑問を呈さなければ、、ひょっとすると、もっと上手に意見の否定を行っていれば、人格の否定が起きることはなかったでしょう。
かなり長くなってしまったが、俺が言いたいのは、「意見の否定」は「人格の一部の否定」でありうること。そして、そうでなかったとしても、「意見の否定」は容易に(明確な)「人格の否定」を誘発する危険性があるということだ。
こうなってしまうと、何も言えない、と思うのが普通だろうと思う。
だからこそ、渦中にいたくない、余計なことは公言したくない、という人は世の中にめちゃくちゃ多い。
それはネガティブではあるが、非常に賢い選択ではあると思う。だって、何気なく「カレーは嫌いだ」と公に対して言ってしまえば、巡り巡って、誰かにとっての「人格の否定」に簡単になりうる。
ここに、最大多数の最大幸福として、功利主義が適応されるべきだと考える意見もあるだろう。つまりは、平均値(もしくは立場のある人たち)に合わせた発言なら肯定化されるはず、という意見だ。この意見は、弱者救済の観点から、まったくもっておかしい(←「はい!意見の否定、すなわち人格否定!!」って言わないでね。許して笑)。弱者ならば人格は否定されるべきだ、というのは明らかに道徳に反するだろう。
ここに、自由を最大化する目的として、自由主義が適応されるべきだと考える意見もあるだろう。つまりは、「カレーは嫌いだ」と公言する自由を守ろう、ということだ。しかし、これも、あらゆる自由同士がインタラクションすることを加味すれば、功利主義での結論と同じで、弱者に加えて少数派をも平気で切り捨てていることになるのは明らかだろう。
社会がこのような価値観としてユニバーサル化されつつあるからこそ、少数派な事象に価値を見出し続けるためには、強くあり続けなければならない。強くなくてもサッカーや音楽が好きなことは社会から承認どころか簡単に肯定化されるが、マイナーで他者から一般に卑下されることを大好きな場合、強くあり続けないと承認さえまともに得られない。ここに不平等性が発生しているにも関わらず、功利主義も自由主義も簡単にこの不平等を無視してしまう。
だから、たいていの人は、実際に、「関わらない」「喋らない」というズルい選択を賢い選択だと読み替える。でも、自分の意見を言わずにはいられない彼ら彼女らは、誰か目立つ人に「ささやく」という手段にでる。なんとも弱く、なんとも小悪党である。
弱いは弱いのだが、このような平凡な弱者や「他者の人格を平気で否定するような人」や「人格を否定する人の人格を否定して、自分のほうが賢いと勘違いしている人」も、積極的に受け入れていくような集団形成が望ましいのは間違いないと俺は思う。これが、共同体主義を主軸に価値観を構成する趣味がある俺の、理想的な集団である。
超純水では魚は住めない。非協力者を排除し、互恵性を理解している者だけの集団形成は、実は非常にフラジャイル。
進化しきった集団とは、あらゆる主義主張を、矛盾を恐れずに、受け入れ続けることこそが重要だと悟っている集団、かつ、時に理想からの要請として必要な場合に、堂々と自分の意見を素直に主張できるような集団なのではないだろうか、と俺は思う。
よーするに、他者に対して何らかのセレクションをかけようとする時点で、「意見の否定」は「人格の否定」と殆ど変わらないだろう。逆に言えば、不寛容さを排除し、すべての人に対してより良くしようと心がけているのであれば、「意見の否定」を行うよりも前に「助ける」から、そんな暇はないのじゃないだろうか、と最近思っているのである。
18/08/24 00:28