Twitterで、本の書影の無断掲載についての議論を見かけた。いろいろと思うところがあったので、出版社の編集部で働く人間の感想として、また、ごく個人的な経験を共有するものとして、書くことにした。
話題になっているのは宝島社の書籍で、zineの製作者に書影の使用許可が取られていなかった、という点が問題視されている。
たしかに、少なくとも手続きや儀礼の観点から瑕疵があると思われるし、掲載にあたって一報入れておいた方がよいことは間違いない。ただ、この騒動(?)の直接の関係者ではない多くの人々が、宝島社を批判していることには不思議さを覚える。何が「不思議」なのか、この記事全体で説明したい。補足しておくと、私が目にした批判の多くは、許諾を取らないのは職業倫理上ありえないとか、無許可でもよいという業界の慣例はおかしい、というものである。
著作権は軽々しく扱ってよいものではないが、あまりに丁重に扱いすぎると文化の衰退を招く上、著作者の与り知らないところで問題を生じさせることもある。
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ごく個人的な体験について書くが、5年ほど前、友人が亡くなった葬式で、棺が運び出される前後に彼が大好きだったミュージシャンの曲を流そうとしたことがある。するとすぐに式場の職員が寄ってきて、本当に申し訳なさそうな顔でこう言った。「著作権の関係で流すことはできません」。
私たちはみんな、突然顔をぶん殴られたかのような反応で驚いた。スピーカーの近くまで交渉に行き、職員と直接話をした友人が戻ってきて言うには、「なんかJASRACがどうとかそういう話らしい」。私たちは、「え、ほんまに言ってる?」と口々に不満を漏らした。それまで考えていたことといえば故人や、故人の家族や、学生時代の思い出についてだったのが、急に「著作権」について考えなければならなくなり、頭が回らなくなっていた。
スピーカーは使わせないと式場の職員が言うので、友人一同で集まって相談した結果、亡くなった彼が作曲した音楽をiPhoneのスピーカーから流そうとしたのを覚えている。マイクを近づけたが、あまりきれいな音では流れない。死んだ男は本当にギターのうまいやつだったが、私たちはiPhoneのカスカスの音で彼のギターを聴きながら、式場を歩き回ることになった。
さて、式場の職員は何を守っていたのだろうか。
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あらゆる著作物は他の著作物との関係によって成り立っている。本がわかりやすい例だが、他の本の一節をまったく引用しない書籍の方が珍しいだろう。
引用する際、特に著作者に許可を取る必要はなく、書籍全体のうち少ない分量であれば、引用元を示せば掲載してよいことになっている。
ネットで書影を投稿したり、ページの一部を投稿することは、厳密にいえば著作権侵害にあたる可能性もある。ただ、著作権侵害は親告罪なので、侵害された側が訴え出ない限りは問題にならない。
出版社で働く人間として言い添えておくと、読者がSNSに書影やページの写真をアップロードするのは基本的にはとてもありがたいことで、それを理由に著作権侵害を訴えることはほぼありえないと思われる。また、前述のように、「引用扱い」であれば適法であるため、そもそも問題にもできない。
しかしながら、出版社には毎週のようにメールが届く。それは、「書影を使わせていただけませんか」というメールである。もちろんまったく問題ないので、「いいですよ」と返信するのだが、個人的には、このやりとりはほとんど無駄だと感じている。
なぜならこの連絡は、職業倫理の遵守──「著作権侵害を犯さないため」という大義名分──に基づく話というよりも、ごく事務的な、あくまで儀礼的なものであり、わずかながら手元を圧迫するからである。
私にとってこの種の問い合わせへの応答は、職業倫理(差別的な本を出さないとか、デザイナーに細かすぎる指示を出して小間使いのような頼み方をしないとか)の問題でないどころか、メールに書く宛名が偉い人順に並んでいるか確認するみたいな、ブルシット・ジョブなのである。
著作者が、「書籍を紹介してもらえるのはありがたい」と考えている前提に立った上での話だが、そもそも親告罪として告訴しないので著作権の侵害には当たらない。加えて、まあ、著作者は掲載にあたって「一報入れてもらいたい」と感じているかもしれないが、少なくとも、「書影の使用許可を取ってほしい」とは考えていない。
したがって、関係者でない者が著作権の問題を指摘するというのは妙な話であるし、「一報入れてほしかった」という点が問題であれば、それは著作権の問題ではなく、人間関係や儀礼の話ではないだろうか。
あるいは今回の件についていえば、zineと既存の版元との間に力学があり、軽んじられているように感じた、というような批判の筋もあるだろう。
「個人のzineが出版社の刊行物に無断で使われていた」という状況は、「出版社の本が、個人のSNS(ここではマネタイズされているとして)に無断で掲載されていた」という状況とある意味では同じだが、比較的強い立場の出版社が個人の発信に助けられる後者の例に比べて、前者では、弱い立場の個人の仕事が企業の手柄にされてしまったような感覚があるということも想像できる。これは著作権の話というより、やはりその文化圏におけるマナーや態度の問題だろう。
話題を変えるが、この種の著作権の問題に最も晒されている作品の形式は、ポップ音楽ではないかと思う。サンプリングやサブスクリプション、AI生成等のトピックが渦巻くのがポップ音楽であり、議論も盛んである。
たとえば、2022年に判決が下された、「JASRACが音楽教室で生徒たちが歌っている曲から使用料を徴収できるか」が問われた裁判は記憶に残っている(徴収できない、と最高裁は判断した)。
不思議なのは、当時多数派の人々が、作曲者や歌唱者が問題ないと認めている場合ですら、代理人として徴収を求めるJASRACの態度に反感を覚えていたにもかかわらず、また、普段からSpotifyやApple Music等で著作者よりも仲介業者にお金を払って聴くことをすんなり受け入れているにもかかわらず──つまり、厳格な著作権の保護よりも文化の広がりを望んでいるように見えたにもかかわらず──書影が無断で掲載されたときには、「著作権の番人」のような顔をしてなぜ多くの部外者が批判を始めるのか、という点である。
著作者が掲載それ自体を問題にしていないのであれば、他人があれこれ言うのは、端的に言って著作者を守りたいわけではなく、ただ手続きのための手続きをせよと言っているだけではないか。
また、本当は著作権を問題にしたいのではなく、批判する上で別の動機があり、その動機が自身の中でも明確化されていないのではないだろうか。
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最後に、JASRACの理事長が「著作権は基本的人権」と語るインタビューを載せておきたい。法曹の友人が「やや牽強付会」と評していたものだ。
葬式で故人の好きな曲をかけられなかった件では、卑小な役人のような葬儀場の態度も、権利者の保護や文化の振興という目的から離れて無為な取り立てばかりしているこの組織も、恨んでいます。この恨みは一生持ち続けるでしょう。