客観と傍観
ゴールデンウィーク最終日だ。平日も特に他人から強制させられてやることがない私はだらだらと過ごしている。文字通りだらだら。いつもは7、8時間勉強もするけれども、そんなこともしないでこれを書いている。まあ、9月までのモットーは、「現在を現在のために消費する」なので、良しとしている。暇だといつもは考えないことを色々考え始めるわけで、思考の整理として、これを書こうと思った。
私なりの客観と傍観の違い
客観と傍観は似ているけれども、全く異なったものである。客観は自分自身も任意の事象の中にいて、その中から全体を見ているときの視点である。対して、傍観は、自分自身は任意の事象の範囲外に存在していて、任意の事象を俯瞰する視点である。つまり、客観と言っても、自分自身は任意の事象の中に存在しているのであって、決して事象の範囲外に出ることはないのである。だから、客観はその任意の事象に影響されており、真に中立なのかという点に疑問が残る。で、思う。私は傍観者であり続けられるのか、と。
例えば
常日頃、客観性があると言われてきた。進級して最初の担任との二者面談では、客観性があると言われ、クラスはどんな感じと聞かれる。「まあ、○○な感じですよね~。たぶん、現状が××なんで、今後▢▢になると思いますよ~」で終わり。基本、クラスは私が想像していたのと同じように動いていく。
この時に、私はクラスの潮流に私自身の要素を組み込めていない。私の要素を抜いて判断している。言い換えれば、私がクラスに与えている影響を考えずに予測をしているということである。それでもクラスが私が予想していたように動いていくということは、私のクラスへの影響力が少ないということだろうし、私が客観的に物事を見ることができていることの表れだろう。しかし、クラスという集合に私という要素を組み込めていない時点で、私は客観的な判断はできていても、傍観的な判断はできていないことになる。
さてさてどうしよう
私は傍観者として生きていきたい。べつに社会というものが嫌いなわけではないけれども、社会の中で、自ら客観性を保っていようとするのもなかなかの労力を要する。人と人の諍いの仲裁をしたり、集団の中での自分の立ち位置を考えたりすることがすごい手間だ。集団の、社会の動きに左右されずに、ただ、鳥のように社会を俯瞰する傍観者でありたい。
人間は一人では生きていけないため、なんかしらの社会集団の中に組み込まれることになる。だから、常に、恒常的に傍観者であり続けることは不可能なことは重々承知している。だけれども、自分が属していないコミュニティというものは少なからず存在するのであって、そういうものを見るときに自分の立ち位置に影響されず、社会的な価値観にも影響されずに、ただ静かに眺めて分析したい。
客観性をもつ人間ではなく、傍観性をもつ人間になりたい。



コメント