【鬼狐ノ章/壱】侠狸転身
第一幕 稲尾狐
火の暦八七八年 二月十二日
坂東府で怒涛の事件が起こる以前、山岳郷で獣狩と神使が旅立つよりも数日前のこと。
そこは
本来の総本社たる「玄闇郷常闇之神社大総本殿」の修繕は、向こう百年は終わらないと見えた。人にとっては親、子、孫にまで渡る大仕事だが、妖怪にとってはそこまででもない。
だからと言って百年というのは、妖怪にとっても短い時ではなかった。
「〈
遷宮先の裡辺郷に戦火はない。とはいえ、狩りはある。
二十も半ばかそこら。大男が一人。骨のように白い白髪を雪風に躍らせ、右のこめかみから黒い角を伸ばしている。
相対するは、巨大な
ここは今現在、最強無頼の
裡辺の民は決して実戦を知らぬと言うわけではない。雪に閉ざされた厳しい土地には、それに適応したつわものというべき獣が息づくもの。
昼下がり。里から一里ほど北東へ行った山に、戦闘の音が響く。
草木を薙ぎ倒す突進音と、大地を揺るがす雄叫び。
一頭の、巨大なヤマアラシがいる。その体躯は、小山と言って良いほどに巨大であり、それこそ二階建ての屋敷に並ぶかそれ以上と言えるほどだった。
背中には剣山の如く鉄針が生えており、ヤマアラシ型の
「オォオオオォ」
イガラシが黒雲が唸るように吠えて、青い雷撃を走らせた。
大男は無手。白髪を靡かせ、藍色の目でまっすぐを睨み、
──雷を拳で弾いた。
正確には妖力を纏った左拳で逸らしたのである。〈石火流し〉という立派な戦闘技法であり、妖術を嗜むものが緊急時に用いる妖術防御のそれ。
大男は右のこめかみから生える漆黒の角に、藍色の脈を巡らせている。その脈が鼓動するように微かに発光、右拳に妖力が巡り光芒を発した。
そして、音に比するばかりの速度で振るわれた拳は、イガラシの鼻梁に炸裂。めり込んだ拳から怪力が伝わり、鼻骨を粉砕せしめる。
一撃。しかし、その一撃には妖力の二撃目が伴う。さらに半秒遅れで、龍気が流れ込む。
三重の打撃。
砲弾を数発炸裂させたような轟音が爆ぜ、周囲に衝撃が跳ね回る。
野山に駆け抜けた激震は木々を揺らし、梢を震わせ、驚いた鳥たちが慌てて逃げ、虫がぴたりと泣き止んだ。逃げ惑うリスが餌を放り出す。
イガラシと大男を中心に、積もっていた雪が爆ぜたように捲れ、吹き飛んで、土がむき出しになっていた。
イガラシは顔面を目も当てられないほどに損壊。たまらず昏倒して、血を吹き、沈む。
脳をやられ、完全に、命を果てさせていた。
「……」
男は合掌し、無言で命に礼を払う。
「頂くぞ」
そうして腰から大鉈を取り出して、解体してゆく。
皮、獣骨、肉。鉄針の類も根っこから抉り、蓄電器官は絶縁袋を被せてから筋を断ち、口をぎゅっと縛っておく。
「これだけ肉があれば、みんなに配っても蓄えられる。……今年は
イガラシはとても一撃で仕留められるような
この大男──鬼で相違ないだろうが、相当な妖怪だ。単に力任せなだけでなく、妖力の扱いも、かなり上手いと見える。
「
後ろから声をかけてきたのは、一人の女。人間換算で言えば、二十代半ばくらいか。実年齢は、おそらく百を数えていると見ていい。
「俺には刃物が性に合わん」
「だからってイガラシに素手で喧嘩する奴がある? しかもしっかり仕留めてるし」
言いながらも、女はイガラシの前で姿勢を正し、無言で合掌。
「お肉たくさん取れたわね。雪解けまでは持ちそう」
裡辺は、厳しい北国である。故に、その雪解けは遅く、五月、年によっては六月までずれ込むことがある。
農耕はこの土地では限定的な生産方法であった。故に山河に出て拾ったり狩りをしたり、釣ったり、網漁をして暮らすのがこの土地の常である。
そうした狩猟採取が主なやり方であり、農耕に関していえばオニガライモの寒冷種と、寒冷適応した品種の稗と粟、玄米を育てるのが、せいぜいだ。
ここまで寒いと、米は育たない。
「
「ばっか、あんたに押させるために持ってきたんでしょ」
言いながらも椿姫も大鉈を抜き放ち、解体し始めた。彼女は背中に、三尺刀を背負っており、この状況で駆けつけたことから決してただの護身用ではないように思える。
事実、鉄鞘には使い込まれた傷が大小刻まれており、年季が入っていた。
椿姫の腕は、常の妖怪より少し長い。それは、代々三尺刀を扱うが故の変化であると、椿姫は語っていた。
左肩に持ち上げた鞘を掴み、するりと両腕を使って引き抜くという抜刀法は、全身──腰の捻り、足の開きなどなど、それを持ち要らねばならない。
腕が長いと言うのは、それだけで一つ有利になるのだ。
「筋の筋の流れをしかと見て」
椿姫が、そう注意した。
「悪い。つい力任せになる」
椿姫は燈真と同じく骨のような、あるいは月のような白髪で、瞳は紫紺。狐の耳に、尾は五本ある。
身丈七尺近い燈真に比べるとずいぶん小さく見えてしまうが、その実五尺七寸と、女妖狐にしては背が高い方である。
椿姫は燈真にとっての、
「燈真……竜胆の目撃情報があった」
「本当か? どこだ?」食い気味に聞いた。
「京洛だって」
竜胆──十一……いや、十年前、あの戦に出ていった大馬鹿者。
椿姫にとっては実弟であり、燈真にとっては弟分と言える大切な少年である。
いつからか虚ろな目をするようになり、ぶつぶつと、「こんな顔じゃなきゃ良かった」とか「男らしくならないと」と自分を追い詰めるようなことを口走るようになっていた。
これはいよいよ普通じゃないと思った矢先に、「僕も戦に出る」の書き置きである。
連れ戻そう。燈真はそう言ったが、稲尾家当主の楓が、「ならぬ。あの子ももう子供じゃない」と唇を噛み締めながら言った。
椿姫たち稲尾の一族にとって、当主の声とはすなわち歴代先祖皆の声でもある。
そして、稲尾の「守護」を仰せつかる
「なんでクソ親父は竜胆を送り返さなかったんだか」
燈真の父は名を漆宮孝之と言い、十二支隊「亥の隊」の長だった。竜胆の所属は「戌」だったので直の面識はなくとも、顔を合わせる機会はあったはずだ。
「それも踏まえて、確かめる術がある」
「なんだそりゃ」
「直に会いにいく」
椿姫の案は驚くほど直裁的でわかりやすく、驚くほどにまっすぐだった。
けれど、それゆえに綻びを見つけづらい明快な案でもある。
「当主は何て言うか知らないが。……俺は椿姫のための防人だ。ついていくぞ」
「うん。母様には剣術修行と言ってある。返事はまだだけれど」
「お父上は?」
「……全部察した上で、味方についている」
椿姫は鯉のにが玉を噛んだような顔で言った。
さても、イガラシは大方解体した。残った骸は、自然が土に返すだろう。屍肉を喰らう獣、骨に住まう虫、豊かになった土壌には草花が咲く。
そのように、命は巡る。捨て置くのではない。感謝し、大地へ託すのだ。
「行こう」燈真は言った。
椿姫は顎を引くように頷く。「愚弟め。……心配かけやがって」
その日の晩。
裡辺郷の南東部、
結びつきを強固なものとした──と見るものが多いが、実際はただただ楓と靖雄の熱烈な恋愛結婚であり、そこに合理性や利益というものは一切介在していない。
が、そうは言ってもその子供である、長女の椿姫、長男竜胆、次女の菘は両家を繋ぐ重要な存在である。
そのうちの末子、稲尾菘は宵纏常闇之毘売様の姫巫女として召し抱えられ、一方、稲尾竜胆は出奔という有様。竜胆は表向きこそ討幕の英雄だが、その後の振る舞いは人斬りの真似事と、とても看過できるものではない。
それでも当主が刺客を向けないのは、母としての情だろうか。
「もう一度、椿姫。なんと?」
「竜胆を探しに参ります。手足をもがれても、這ってでも、探しにいきます故。止めるだけ無駄にございます」
──ここへきて次期当主が家を出ていくというのは、楓としては許せることではなかった。
奥座敷にピリとした空気が張り詰めていた。
何かのはずみでそれは爆裂しそうな、濃密な火薬を漂わせているような、恐ろしく煙たく剣呑なものである。
どうにか打開せねばならぬ、と燈真は思いこそすれ、自分は守護一族の防人にすぎない。稲尾の当主に対する発言権など微塵もありはしないのである。
上座に座し、脇息に肘を置いているのは稲尾楓。三十三代目稲尾家当主にして、歴代で最も美と力を兼ね備えているとされる女狐。
胃がひっくり返りそうになる。椿姫が今し方竜胆捜索を口にした──先刻こそ武芸修行と言いつつも、結局、嘘をつけずに本当のことを話した──彼女に、楓は明らかに怒っている。
「…………」
「聞こえませんか。竜胆を探しに行きます」
「聞こえている。……許すと思うか?」
「許されねば郷を脱けてでも探しに行きます」
「……聞くけれど、竜胆がもし、帰らないと言ったら」
椿姫は顔を下げたままでは覚悟が伝わらぬと思ったのだろう。
ついと顎を上げ、目を楓に向ける
「その時は、一人の男の覚悟を尊重します。ですが、帰りたいと願うのなら、共に帰ってきます。母様が竜胆を咎めるのであれば、そもそも彼の苦痛に気づけぬ姉の──」
「……もう良い」
楓はこの問答にはとうに飽いていた。
このやりとりもかれこれ都合一六六回目。
「椿姫……あんた、今自分で言った通り、覚悟を決めた一人の男と会うのよ」
楓は「当主」としてではなく、「母親」として口を開いた。
「わかってる。万が一の時は、兄弟喧嘩じゃ済まないようなことになるとも。……だとしても私は、竜胆に謝りたいの」
「……ったく。ほんっとうにうちのはいうことを聞かない腕白揃いなんだから! わかったわよ、わかった、お母さんの負けです! 大体当主なんてなんでこんな面倒臭い真似……!」
楓も、己の立場に苦しむ一人の母親だ。
重ねること一六六回。その問答で、とうとう、当主の精神は砕け散った。
「ただね、自分で言ったからにはちゃんと謝りなさい。それで……できたら、一度だけでも帰省させなさい」
「任せて。燈真と二人で、絶対に連れて──ううん、途中で万里恵とも合流するから、四人で帰ってくる」
楓の視線が、自然と顔を上げてしまっていた燈真に向けられた。
まずいと思って慌てて顔を下げるが、
「燈真君」
「はい」
「馬鹿娘をお願いね」
「……はっ」
燈真は腹の底から、了承の意思を示した。
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