【氷狐ノ章/参】氷狐遡上

第一幕 変わるなら

 氷雨ひさめ。竜胆を助けた雪女はそう名乗った。

 小さなあばら屋である。風が吹けば柱が軋みを上げるような。竜胆の傷は想像以上に悪化し、傷口から悪いものが入ったのは明白。


 福茶羽諭吉ふくさわゆきちなる人物が、海外留学で学んだことを広めたことで知られたが、どうやらその悪いものというのは不衛生な場で繁殖する「菌」という小さな小さな生物を言うらしい。


 ただ、わかってもどうしようもないのだ。入った以上はどうにか出すか殺すしかないが、方法がわからない。


 自分でもこれが非常にまずいことはわかっている。万全ならば、妖力でいくらでも弾けた。だが、気を張りすぎ、どこかで糸が切れていたのだろう。加えて、あの時は冷静を装いはしたが、悪酔いしていた。

 全て己の弱さと油断が招いた。


「やめろ!」


 竜胆は腕に触ろうとする氷雨に吠えた。

 氷雨は構わず手を取り、巻いていた包帯を解いていく。悪臭を発する、赤と黄の混じる膿が糸を引いた。血が滲んでおり、べったりと包帯が湿り、気色悪い。

 彼女はそれを平然と触り、傷口に酒精のきつい酒をかけて消毒する。竜胆は悲鳴をあげそうになるが堪えた。

 そうして湿気でグジャグジャになった傷を水で洗い、布でよく拭く。


「なんで、僕にそこまでする」

「なぜでしょう」


 氷雨は薄く笑い、薬研で薬草の類を擦り、潰し、漢方やらを粉にし、混ぜた。


「それは、毒か」

「そのような煩わしい手を使うまでもなく、あなたのような子狐、くびることは容易い」

「なんだと」

「やってみますか」


 薬を持って、近づいてきた。

 竜胆はすかさず脇に置いてある仕込み杖を抜いて、逆手に握りつつ刃を氷雨の首筋に擬した。


「できないじゃないですか」

「……できるさ」

「震えてますよ」

「……違う。僕は……」


 実質的には負けである。そんなことは己でもわかっている。だからこそ、認められぬ──そう思った。

 こんな非力な女に、なぜ。


 氷雨は薬を傷口に塗りつける。激痛は消毒の数倍。

「く──ぅ……」

「私の勝ちですね」

「うる……さい」


 なぜ助ける。なぜ──。


 健気な看病は続いた。

 飽きもせず。感謝をしない竜胆に、なぜか、ひたすらに。


 あるとき、氷雨がひどく打たれて帰ってきた。

 青あざを作り、鼻血を着物の袖で拭っている。


「……どうやって稼いでいるのかは聞かないが、客は選んだ方がいい」

「ありがとうございます。ですが、こうでもしないと生きていけませんから」

「……どこでやられた。特徴は」

「言いませんよ。斬りにいくでしょうから」


 竜胆の腕は快癒していた。万全と言っていい。

 いっそ薬師か医者にでもなれば良い。竜胆はそう言った。


「後ろ盾がありませんから。師と呼べるものもなく、医者はできません。せいぜい、たけのこ医者扱いで笑われます」

「僕もそう思って実家で暮らしていた。戦に出て身を立てた。お前も己を変えろ」

「どうやって。私は、男の顔色を伺うのでせいぜい。死人の如き肌の、雪女ゆえ」


 諦めている。相当に打ちのめされる過去があったのだろう。

 ひょっとしたら──と思う。竜胆はそのような澱を、ずっと重ねていた。故に彼女は通づるものがあると見て助けに来たのかもしれない。


「己を変えたいときは北に行くといいと聞いた。兄のような人から。

 過去に戻りたくば南にと。僕はありもしない理想像を求めて南に……こちらへ下った。氷雨、北に行こう」

「……共に、良いのですか」

「怪我を治せる者がいてくれた方が助かる」


 ぶっきらぼうに竜胆は言い、小屋にある、使えそうなものをまとめた。氷雨も準備する。時刻は夜中である。どう考えても夜逃げのそれである。


「おーう雪女あ、俺のガキ産むって話はどうしたァ」


 玄関口に気配。竜胆は無言で接近し、仕込み杖を抜いて戸板越しに貫いた。引き抜くと、また、突き刺す。

 喉を抉った手応えが返る。素早く抜くと、死んだ男が前のめりの倒れ、戸板を崩してその場に臥した。


「お前の子種は汚すぎるってさ。氷雨、行くよ」

「ふふ……おかしな方。血で遊ぶ子供のよう」

「うるさい、子供じゃない」


 竜胆はパッと仕込み刀の血を払う。

 そして懐から、短刀を鞘ごと取り出して氷雨に渡した。


「術も使えるだろうけど、護身用に。あった方がいい」

「ありがとうございます。……ところで、北の、どこへ?」

「まずは坂東を目指す。それから計画を練り直す。とにかく北上するんだ」


 竜胆はそう言って、どこか悪ガキのような微笑みを浮かべた。

 それはとうに失ってしまった──、ある雪の降る故郷でで見せていたような、無邪気なものだった。

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