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作:綾小路君をTSヒロイン化した作品がみたい
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28話(2025/6/10改訂)


追記:2025/6/10改訂 

借り物競争の文章を改訂し文を追加しました。ご了承ください。


チャイムが鳴ると同時に灼けつくような空の下、午後の部が静かに幕を開けた。

 

「ついに始まったか……推薦競技」

 

俺はひと息つき、水をひと口飲んだ。

午前の個人競技は予想以上に体力を消耗したが、本番はむしろここからだ。推薦競技は得点が高く、精鋭たちがぶつかり合う見せ場でもある。

 

「神楽坂くん、この後、何の競技に出るんだっけ?」

 

そう声をかけてきたのは姫野だった。柔らかな声には、午前の疲れからか少し眠たげな響きがあった。

 

「四方綱引きと、男女混合二人三脚。それと合同リレーだね」

 

「そっか。けっこう大変だね」

 

彼女は日陰で揺れる髪を耳にかけながら、手にした水を一口だけ飲む。

 

「私は、じゃんけんで勝っちゃったから……借り物競争にでるんだよね」

 

「姫野ならいい結果残せると信じてるよ」

 

「どうだろ。暑いし、体力はもうなくて自信ないけど……まあ、借り物でなにか困ったら頼っていい?」

 

「ああ、もちろん」

 

そのとき、近くの放送スピーカーが音を立てて鳴り響いた。

 

『まもなく、推薦競技・借り物競争第一レースが開始されます。該当選手はスタート位置までお越しください』

 

「頑張れ、姫野。応援してる」

 

「……うん、ありがと。なるべく頑張ってみるよ」

 

小さく笑って、姫野は立ち上がった。歩き出す足取りはゆっくりだが、どこか凛としている。

 

 

 

テントから見えるグラウンドでは、借り物競争のレースが始まったばかりだった。

生徒たちが、お題の箱から小さな紙を引いては走り出していく。

「ぬいぐるみ」「水筒」「先生」――さまざまなお題に応じて右往左往する姿は、他の競技にはない独特の賑やかさがあった。

 

 

その第二レース、ふと視界の隅に綾小路清華の姿が映った。

彼女は、お題の紙をじっと見つめていた。

 

午前中の競技でも彼女の姿を見かけたが、突出した活躍というより、常に3位から5位あたりをキープしていた印象がある。

正直、夏休みでのバレーの動きや、佐倉さん救出のときの走力を考えると、彼女の実力にしては控えめな順位に感じるが――昨日のメッセージで言っていた「ケガをしない程度に頑張る」という言葉どおりの可能性もあって改めてミステリアスな人だと思わせる。

 

そんな彼女だが、お題が悪かったのかチェンジをしたようだ。30秒のロスとなり、その間に他の参加者は動き始めている。

 

そして次のお題を引く。 

 

今度の彼女は、どこか奇妙な緊張感が漂っていたように見えた。

だが紙を握りしめ数秒だけ虚空を見つめた後、こちらの方向に走り出してくる。

 

一体何を借りるのだろうかと様子を見守っていると、なぜかこちらのテントへと向かってくる。

 

「……神楽坂創」

 

そしてクラスメイトをかき分けて俺の目の前まで来ると、綾小路さんは一言だけそう言った。

その声音には、焦りも高揚も感じられない。ただ、いつも通りの静かなトーン。

 

「どうしたの綾小路さん、何を借りるの?」

 

「その、ついてきてくれる?」

 

何の説明もなく差し出された手に一瞬だけ戸惑う。どうやら、借り物は俺らしい。そして、彼女の目は真っ直ぐでいつもより少しだけ真剣だった。 そんな様子に親しい友達として応えないとな。

 

「もちろんだよ。俺が必要なら」

 

頷いてその手を取る。すると彼女はすぐさま向きを変え、俺の手を引いて走り出した。

 

グラウンドの視線が、次第にこちらに集まってくるのを感じる。

何が起きているのかもわからず、ただ綾小路さんの背中を追って走る俺。

 

(そういえば、結局なんで俺なんだろう?)

 

そんな疑問が浮かび、俺は走りながら小さく問いかけた。

 

「ねえ綾小路さん。お題って何なの?」

 

彼女は前を向いたまま、少しだけ沈黙する。

風に靡く髪の向こうから、ぽつりと声が返ってきた。

 

「……逆に、なんのお題だと思う?」

 

「え? いや……うーん……」

 

突然の問い返しに戸惑いながらも考えてみる。

でも、思いつくのはせいぜい――

 

「他クラスの仲の良い友人……とか? どうかな、合ってる?」

 

そう尋ねると、彼女はようやくこちらを振り返った。

ほんのわずかに目を細め、表情を緩めたようにも見えたけど、それも一瞬で消える。

 

「……そうね。間違ってはいないわ」

 

どこかはぐらかしたようなその返答に俺は、なんとなく腑に落ちないものを感じたがそれ以上は何も言えなかった。

 

(……まあ、彼女の役に立つなら気にすることじゃないか)

 

彼女と並んでなんとか3位で入着したこの瞬間だけは、意味も理由もどうでもいいような気がしていた。

 

 

 

 

 

「……ありがと。助かったわ」

 

「お礼を言うほどのことじゃないよ、綾小路さんの助けになって何よりだよ」

 

そう言うと彼女は微妙にだが微笑んだように見えた。

 

「創はこのあと競技に出るの?」

 

「そうだね、以降の3種目に出るよ。 綾小路さんは?」

 

「私は……クラスでけが人が出て交代することがないなら、これで終わりのはず。

 ケガには気をつけてね創。 応援してる」

 

「ありがとう。綾小路さんも熱中症とかには気を付けてね」

 

そして、会話はほどほどに俺たちは分かれて各テントに戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

――そして、テントに戻ると第4レースが始まろうとしていた。

 

その中に姫野の姿があった。

 

よかった、何とか応援に間に合ったようだ。

 

そして程なくしてスタートが切られた。

 

そして応援している姫野はスタート地点でお題の紙を見つめて固まっていた。

しばらく眉をひそめて、それからゆっくりと走り出す。

目線はまっすぐ……こっちを見ている、ような気がした。

 

「ん? お題は俺たちに関するものか」

 

そう思いながら手伝えるよう準備をする。

姫野の足取りは近づいてくる。

真っすぐ俺たちのいるテントの前へと。

 

(…ん? この感じ、もしかして...)

 

「……神楽坂くん」

 

「姫野。どうした?」

 

姫野は紙を胸の内に隠すように軽く握ったまま、俺のすぐ目の前に立った。

 

「……神楽坂くん、ちょっとだけ来てほしいんだけど」

 

「…わかった、俺がついていけばいいの?」

 

「そう。ちょっとだけ、来て」

 

……どうやら、また借り物として抜擢されたようだ。 今日はある意味、運勢がいいのかもしれない。

 

そして姫野は言葉数は少ないけれど、なぜか妙に強引な間のなさがあった。

 

走る準備を整え、姫野と並んで走り出しながら疑問を口にする。

 

「……で、結局そのお題って何だったんだ?」

 

姫野は一瞬だけ目を逸らして、小さく息をついた。

 

「別に知る必要はないと思う」

 

「…そう言われると気になるな、俺の存在ってなんだ? しいて言えば、今体育祭の成績が良いとかかな」

 

「考えなくていいから!?」

 

…どうやらあまり刺激しないほうがいいようだ。

 

そう言って姫野は借り物の俺を置いていく勢いで走る。 

また、俺はお題を知らないまま借りられるしかないようだ……

 

 

そのときあと少しでゴールというところで、姫野の足がふらついた。

「っ、……あ、やば……」

小さく呻く声と同時に、彼女の身体が傾ぐ。

 

「姫野っ!」

とっさに手を伸ばし、支えた。 どうやら足がけいれんしているようにみえる。

 

「つったのか……?」

 

「うん……ごめん。あと少しなのに……」

 

悔しさと痛みが混じった声。その背後には、砂煙を巻き上げながら迫ってくる他の競技者の姿があった。

 

このままだと追いつかれる。

 

「……姫野、少し失礼するよ」

そう言って、俺は彼女をすくい上げるように抱えた。

 

「えっ……!? ちょ、ちょっと待って、なにして――っ!」

 

「残り50メートルほど。間に合う距離だ」

 

「い、いやそういう問題じゃ――っ! 神楽坂くんおろしてっ!」

 

「困ったら頼っていいって言ってただろ? だから、1位を取ってほしいと思ってさ」

 

だから、今はとにかく走る。ゴールへ向かって。

 

観客席からどよめきが起こる。けれど、気にする余裕はない。

 

砂を蹴り、風を切り、全力で走り抜ける。

 

そして――二人は、トップでゴールを切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

息が上がってるわけじゃないのに、胸の鼓動が落ち着かない。

ていうか、落ち着けるわけがない――お姫様抱っこされてゴールって何!?

観客のどよめき、見られてる、ざわめいてる、もうやだ。

 

「……あの、神楽坂くん。降ろして。今すぐ」

声は冷静を装ったけど、耳まで熱いのが自分で分かる。

 

「まだ足、つってるみたいだし。無理しないほうが良いと思うぞ」

 

「違う、そういうことじゃないの……っ!」

 

足の痛みより、羞恥心で頭が爆発しそうだ。

 

 

どうしてこうなったのだろうか……

 

借り物競争のお題を引いたとき『信頼できる人』というお題が出てきたとき、思考がフリーズしたのは覚えてる。

そのとき、ふと神楽坂くんが思い浮かんでテントに走ってしまったのが、このときどうかしていたのだろう。

 

無人島のあの日の会話から、よく神楽坂くんは話し相手になることが多くなった。 男女分け隔てなく交流できる彼を通してクラスメイトとの付き合い方も楽に感じることが多くなって感謝しているのは秘密だ。

 

 

……ただ、いくら信頼してるからって、お姫様抱っこは想定外すぎる。

 

「……目立つの、ほんと無理なんだけど……」

 

視線の先では、何人かのクラスメイトが手を振ってたり、口元を押さえて笑ってたり――やめて、見ないで。

神楽坂くんは悪くない。悪くないけど……これは耐えられない。

 

「ねえ……ほんとに、降ろして」

 

「…わかったよ」

 

素直に従ってくれるところも、また困る。

するすると軽やかに下ろされると、地面に足をついた瞬間、ふくらはぎに軽い痛みが走った。

 

「っ……」

 

「やっぱり、痛むのか?」

 

「……ちょっとだけ。もう歩けるから」

 

素直に寄りかかればいいのに、それができない自分が恥ずかしい。

 

でも。

 

「……その、肩、貸してくれたらありがたいかも」

 

そう呟くと、神楽坂くんはふっと優しく笑った。

その笑みが、まっすぐで、ちょっとずるい。

 

「じゃあ、保健室まで一緒に行こうか」

 

「……べつに、ついてきてもらうのは構わないけど。その...こんな大きな借り返せないよ」

 

「友達だから借りになんてなってないから気にしなくて大丈夫だよ」

 

相変わらず、落ち着くような返事をする。

 

そのまま、ゆっくり歩き出す。

神楽坂くんの肩は、あたたかくて大きいように感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

四方綱引き直前。グラウンドの隅、各クラスの代表が続々と集合し始めていた。

 

俺たちBクラスの代表チーム――柴田、渡辺、神崎、そして俺も持ち場に向かって歩く。

 

「いや〜神楽坂ァ? やってくれたなぁ、さっきのなあ」

ニヤニヤと笑いながら肩をぶつけてくる渡辺。

 

「……なんの話だ」

 

「おいおい、姫野をお姫様抱っこしてゴールイン。はい1位って、どんな漫画だよ!」

 

肩をたたいて笑う渡辺。 あのときはただ頼られたから期待に応えようと必死だった。

 

「……なあ今思うと、本気で勝つためにやったことだけど姫野には悪いことしたのかな。謝っておくべきかな」

 

 

 

その言葉に、どこか空気が止まった。

 

「……いや、今さら何言ってんの?」「あれを悪いと思ってるの? 逆に?」

 

「……なんというか、神楽坂ってバカだよな」

柴田が静かに告げると、神崎が小声で「否定はできないな……」と呟いた。

 

「え? 俺、何かおかしなこと言ったか?」

 

「すごいよ神楽坂、お前はそのままでいてくれ。そういうとこが良いところだと思うぜ」

渡辺が無理やり笑いをこらえながら背中を叩く。

 

「……とりあえず競技に意識を向けよう」

神崎が深いため息をついた。

 

そんなやり取りをしながら、俺たちはそれぞれ四方に分かれ、ロープを握った。

 

――四方綱引き、開始直前。

 

全方向から引っ張り合うこの競技は、単なる力勝負ではない。

バランス、連携、タイミング――総合力が試される。

 

(さあここからだ)

 

合図のホイッスルが響く。

全身に力を込め、ロープを引く。

 

四方向から響く掛け声。砂煙が舞い、ロープがきしむ。

 

神崎の号令に合わせて、俺たちはタイミングを合わせて力を込める。

無駄なく、焦らず、一気に――。

 

「よし……いけっ!」

 

手応えを感じた瞬間、ロープがぐぐっとこちらに動いた。

 

そして――勝敗を示すフラッグが、俺たちBクラスの方向へ倒れた。

 

「やった……!」

「マジで勝てたぞ!」「俺たち、やるじゃん!」

 

肩で息をしながら、自然と笑みがこぼれる。

 

「ふぅ……これは大きい1勝だな」

神崎も珍しく小さく頷いていた。

 

「いやーマジで腕しびれたわ」「明日は筋肉痛かもな」

そんなふうに言葉を交わしながら、互いに手を叩き合う。

 

大声を上げるでもなく、でも確かな達成感を胸に。

俺たちは誇らしく、その場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スタートライン前。二人三脚の準備が整えられたグラウンドに、選手たちがゆっくりと集まり始めていた。

 

神楽坂創は腕を回しながら、隣に立つ一之瀬帆波に軽く声をかける。

 

「準備できてるか一之瀬?」

 

「うん。神楽坂くんこそ大丈夫?」

 

一之瀬はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていたが、わずかに緊張が滲んでいた。創もそれを察し、柔らかく笑い返す。

 

「ああ大丈夫だ。…緊張しなくても大丈夫だ一之瀬。体育祭楽しもうといってたのは一之瀬だろ? なら、まずは楽しもう」

 

その言葉に、一之瀬の雰囲気が柔らかくなる。

 

そうして、出走の準備をしているときだった。

 

ザクッ...

 

一定の間隔で土を踏む足音――気づいて振り向いたその瞬間だった。

 

 

ふたりの会話に割り込むでもなく、まるで風が吹き抜けるような気配とともに、一人の生徒がスタートラインに立った。

 

「……え?」

 

最初に気づいたのは創だった。彼が目を向けると、そこには無言のまま前方を見据える―――綾小路清華の姿があった。

 

「綾小路さん……?」

 

一之瀬も驚いたように目を見開く。

 

「まさか……綾小路さんがこの競技に?」

 

俺の知っている綾小路さんは、自ら目立つことは避けたいタイプの人間だ。

その彼女が、推薦種目のこの二人三脚に現れるとは予想すらしていなかった。

 

しかし清華は二人の視線を受けても、何も答えなかった。表情は変わらず、ただ、隣に立つ相手を待っているようだった。

 

そして――

 

「おや、どうやらレディを待たせてしまうとは申し訳ないことをしたねぇ」

 

重なるように響いたのは、どこか飄々とした声。

 

遠くからゆっくりと歩いてきたのは―――高円寺六助だった。

 

彼はグラウンドの喧騒にも、ざわついた観客にもまるで興味がないかのように、悠々と歩を進める。

 

綾小路の隣に立ち、少し首を回して肩を鳴らすと、ほんのわずかに笑った。

 

「退屈を潰すには、少々走るのも悪くないと思ったのさ、神楽坂ボーイ」

 

それだけ言うと、高円寺は一度だけ、俺の方へ視線を投げかけた。

 

その瞳には、明確な意志が宿っていた。ふざけた調子もない。ただ、何かを試そうとする者の目。

 

創の心臓が、どくん、と一つ鳴る。

 

「……どうやら本気で勝負するようだな高円寺」

 

創がぽつりと呟くと、一之瀬も息を呑む。

 

「驚いたよ...まさか二人と戦うなんて」

 

創はわずかに頷いた。

前方で並ぶ清華と高円寺――二人の背中が、異質な“静けさ”を漂わせている。

 

今まで感じたことのないプレッシャーを感じるのだった。

 

「位置について――」

 

号令とともに、出走ペアがスタートラインに並ぶ。

 

創と一之瀬は互いの足をしっかりとバンドで結び、呼吸を合わせる。

 

「いくぞ、一之瀬」

 

「うん!」

 

――パァン!

 

乾いた音が響いた瞬間、創と一之瀬はまるで弾けるように飛び出した。

 

――最初の10メートル。

 

他のどのペアよりもスムーズに、正確に、スピードに乗った二人が先頭に立つ。

 

一之瀬の足取りは軽く、創のリズムにしっかりついてきていた。

声をかけずとも、呼吸が合う――それだけの信頼が築かれていた。

 

(よし、このまま逃げ切る!)

 

創は前方を見据えて走る。

 

だが――

 

後方から、妙な“気配”が迫ってくるのを感じた。

 

「さて、ここからが本番といこうか、綾小路ガール」

 

そんな声が、風の中から聞こえた気がした。

 

振り返ることなく、創は視線だけを横に投げる。

 

そこには――

 

高円寺六助と綾小路清華。

 

足並みを乱すことなく走る二人の姿があった。

 

「少々ペースを合わせすぎてしまったかな。君に合わせるのも、悪くはないがね」

 

「……問題ない。これ以上は合わせる必要もない」

 

それだけの短いやりとりのあと、二人のスピードが――変わった。

 

高円寺のフォームは確実に加速し、その横を並走する綾小路もまた、無駄のない走りを見せた。

 

「嘘……!? もう追いついてきてるの!?」

 

一之瀬の声がかすれる。

 

気づけば、並んでいたはずの距離がみるみるうちに縮まっていく。

 

創は歯を食いしばる。

 

(……速い。初めて組んだんだあの2人は。最初は合わせていたから優位をとれた。だが、今は...!)

 

そして、横を――

 

音もなく、影のように二人が抜いていく。

 

くっ、これは厳しいか…!

 

ふと横を見る。綾小路さんの同心円状のきれいな瞳と、視線が交差した――。

 

その瞬間、何かが心の奥底で脈打った。

 

―――懐かしいな。久々に清華の“あの目”を見た気がする。あの頃みたいに。

 

―――俺はあの目に――俺という存在を映したかったんだ。

 

 

 

(うっ!? 今は、走りに集中するんだ...!)

 

 

高円寺は走りながら、ちらりと創の方を見て不敵な笑みを浮かべる。

 

 

創は、追うことをやめなかった。

一之瀬とともに最後までペースを落とすことなく、必死に喰らいついた。

 

だが、ゴールのラインを先に駆け抜けたのは――

 

高円寺と綾小路、二人のペアだった。

 

二位でゴールした創は息を切らせながらも、前を見据えて茫然としていた。

 

胸の奥に残ったのは、敗北の悔しさだけじゃない。

それ以上に――どこか胸をうつ、何か強い衝動が残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

観客席にどよめきが走った。

 

「なんだ今のDクラスって……高円寺ってあんなに走れたのか?」

「ていうか、あの女の子も速すぎない……?」

 

Bクラスの仲間たちが駆け寄ってくる。

 

「一之瀬! 惜しかったよ、めっちゃ速かった!」

「神楽坂もナイス走りだったぜ!」

 

息を整えながら、一之瀬が微笑む。

 

「ふふ……いい走りだったね神楽坂くん。でも、すごかったね綾小路さんたち。 …? 神楽坂くん、大丈夫?」

 

創は返事を返さなかった。

いや――返せなかった、というべきか。

 

目の前の景色が、少しだけ遠く感じられる。

喧騒も、祝福も、仲間たちの声もまるで水の中から聞こえるようにぼやけていた。

 

「神楽坂くん……?」

 

一之瀬の声が再び届く。

そこで創は、はっとして、わずかに瞬きをした。

 

「あ、ああ……悪い。ちょっと、ぼーっとしてただけだ」

 

そう言いつつも、創の目はどこか宙をさまよっていた。

 

(――あの時、目が合った瞬間。

 ――“白い景色”が浮かんできた。これは一体...)

 

胸の奥がざわついている。

それは悔しさでも、単なる敗北感でもない。

もっと深くて、もっと古いもののような気がする。

 

(……この感覚、前にも――いや……思い出せない)

 

 

リレーまでの間、熱を冷やすために水を飲みこんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リレーを目前に控えたグラウンド脇、Bクラスの面々は円陣を組んでいた。

 

「よし、みんな! 楽しい体育祭も今日はこれで最後だよ!」

 

 一之瀬帆波の明るく、澄んだ声が輪の中心に響く。その声に背中を押されるように、生徒たちは自然と笑顔になる。

 

「勝ちたいのはもちろんだけど!でも、この瞬間――まずは思いっきり楽しもう!」

 

 拳を突き上げた帆波に続いて、クラス全員が声を合わせた。

 

「おーっ!!」

 

 小さな輪の中心に、確かな結束と希望が宿る。まるで、これから始まる試練すらも楽しみに変えてしまうような、不思議な空気がそこにはあった。

 

 神楽坂創もまた、その円陣の一員として拳を重ねていた。彼の瞳には、今はクラスメイト達が写っている。

 

 柴田と神崎が創のもとに集まる。 

 

 柴田と神崎が、笑顔で創のもとへと歩み寄ってきた。

 

「神楽坂。……アンカー、改めてお前に任せるぜ」

 

 軽く拳をぶつける柴田の顔には、どこか誇らしげな色が滲んでいる。

 

「最初はさ、……正直、悔しかったよ。でもさ――」

 

 柴田はほんの一瞬、視線を下げて、それから再び顔を上げた。

 

「……練習で頑張ってきたのを誰よりも見てきたからな。あの計測で俺より、お前のほうが速かった。だから頼んだんだ。最後、ビシッと決めてくれよな」

 

 そう言って、柴田は笑う。その笑顔には悔しさも混じっていたが、何よりも「信頼」があった。

 

 続いて神崎が、静かに創の肩に手を置いた。

 

「バトンは、必ずお前のもとに届ける。……だから頼んだぞ神楽坂」

 

 その言葉には、誇張も迷いもなかった。ただまっすぐに、信念と覚悟が込められていた。

 

 創は、しばし言葉を失ったまま、ふたりの顔を見つめていた。そして、ゆっくりと頷く。

 

「……ああ。任された」

 

 拳をぎゅっと握りしめる。その手には仲間の想いが、しっかりと重なっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 トラック脇、各クラスの代表者たちがスタート位置に立ち始めていた。

 第1走者の柴田が深呼吸をして足を軽く動かすのが見える。第2走者、第3走者と6人でつないでいく。そして神楽坂創もまた、自分のレーンへと歩みを進めた。

 

 スタートラインから離れた待機エリアで、創は静かに立ち尽くす。

 

 柴田の拳の感触。神崎の静かな声。そしてクラス全員の声援。

 

 そのすべてが胸に灯っている。けれど――

 

(……あの目が、まだ離れない)

 

 記憶の奥からふと浮かぶ。あの冷たくも、惹かれてしまう“瞳”。

 

 自分を見つめていた、あの少女――綾小路清華。

 記憶の中でなぜか、何度もその眼差しとすれ違う景色を見る。

 

 (この幻覚はいったい、何なんだ? 俺はどうしたんだろう)

 

 合図のピストルが発射した。空気が震えた気がした。 

 

 そのとき、なぜか古傷が痛んだ気がした。

 

 (...っ!? まただ)

 

 そして――創の中で“何か”が震えた。

 

 視界の端が白く染まる。

 光が揺らぎ、音が遠のいていく。

 

(……なんだ? この感覚……)

 

 

 

 身体が一瞬、浮いたような錯覚に陥る。

 

 気づけば周囲の喧騒が薄れ、音が吸い込まれるように静寂へと変わっていた。

 

 

 ――真っ白な空間だった。

 

 

 

 景色が変わった。

 スタートラインも、観客も、トラックすら存在しない。

 

 ただそこには、どこまでも続く白い床と、均一に光を放つ天井。

 隣には整然と並ぶ幼い少年少女がいて顔は見えない。

 

 

 (……これは)

 

 

 

 ただ確信があった。名前もない。表情も見えない。

 だが、その視点は“自分自身”だと、魂で理解できた。

 

 

 その世界は孤独でなく誰かがいたはずなのに、どこかみんな孤独であったような気がする。

 

 

 俺はこれに打ち勝ちたかった。 だから...

 

 

 

 (俺は……みんなを導きたかった)

 

 

 

 不意に、視界の中にもう一人の“影”が現れる。

 

 その影は、淡い茶色の髪を揺らし、じっとこちらを見つめていた。

 

 

 

 ――あの瞳が見える。

 

 

 

 あの目だった。

 創の中に焼きついて離れない、あの冷たいのに、奥底では温かく、憂いを秘めた瞳。

 

 静かに、何も言わずに、彼女は見ていた。

 

 

 

 俺を。

 誰よりも長く、その姿を。

 

 

 

 その刹那。

 

 

 

 ドンッ――!

 

 

 

 現実へ引き戻される。大きな足音。

 

 アンカーの一人が、風を切って走り出す。

 

 

 

 創は白く見える視界で現実を見る。 誰かが先頭を走っている。

 

 

 

―――追いつかなきゃ。

 

―――そして隣に並んで肩を寄せるんだ。

 

―――そして背中をみせるんだ。

 

―――1人じゃないと気付かせたいんだ。

 

 

 

 

 

 創の聴覚に、足音が聞こえてくる。

 創に託そうとバトンが迫ってくる。

 

 (――先頭を目指して)

 

 

 胸の奥が、ドクン、と鳴った。

 

 「神楽坂……!」

 

 直線を突き抜けてくる仲間である神崎の姿が見えた。

 歯を食いしばり、腕を振り、必死で次の走者へと全力でバトンを繋ごうとする姿。

 その手に、声に、想いに、応えないといけない。

 

 ――パンッ!

 

 バトンが、創の手に渡された。

 

 

 

 

 

 

「──全力で走らなきゃ」

 

 

 

 

 

 

 次の瞬間、地を蹴った。

 

 開幕から迷いはなかった。

 重力なんてなかったかのように、創の身体が風と一体になって滑り出す。

 

 ――フルスロットル。

 

 スタートの直線を突き抜け、砂の上を滑るように脚が動いた。

 足音が後ろに消える。

 歓声がどこか遠くで揺れている。

 

(世界が白い...)

 

 

 視界の端が淡く霞んでいく。

 トラックの赤も、観客席の色も、空の青さすら、何もかもが褪せていく。

 

 音も、光も、形も――すべてが白に溶けていく。

 けれど、それは恐怖じゃなかった。

 

 むしろ、懐かしかった。

 

 ただ前を向き、走った。

 ただ「前に進む」ことだけを求めた、あの時間を追いかける。

 

 

 ……追いついた。 隣に並び、そして背中を見せていく。

 

 

 ああ―――もっと加速するんだ。

 

 

 空気が脇を裂き、脚が勝手に前へ前へと突き動かされる。

 

 肉体が重力を裏切る。

 

 

 

 

 微かな2つの“影”が、後ろから追いついてくる気配がした。

 

 普通は恐怖を覚えるのだろうが、俺にはその影がうれしかった。

 

 ついてきてくれている。 だから、俺は前を走れるんだ。

 

 だから俺は、振り返らない。

 呼吸の乱れもなく、表情の変化もない。

 

 腕の振りと、足の運び。

 呼吸のリズムと、視線の固定。

 一つひとつが無駄なく、正確で、理想的な動作を獲得していく。

 

 思考は最小限。

 この瞬間に必要なのは、ただ一つ。

 

 最速で走ること。

 

 かつて、あの白い景色で幾度となく繰り返した反復動作。

 名も、意味も、朧げなあの場所で、ひたすらに叩き込まれた動作。

 

 反発する地面が、骨に、筋肉に、心臓に伝わる。

 

 あのときと同じ走りをしている。

 だが今は、なぜだか――ほんの少し、違う気がした。

 あの追いかけていた時間ももう過ぎ去った気がする。

 そして、改めて“今”を認識する。

 

 あの時には感じなかった、

 風の感触。

 肌に当たる陽の光と熱。

 足音のリズムに重なる、誰かの声。

 

 今の俺には、それがある。

 白い世界の中に、ほんの少しだけ、色が差し込んでいた。

 

(……悪くないな)

 

 影が迫る。

 世界が色づいてくる。

 

 コーナーを曲がる。

 観客席の一角に、淡い茶髪の少女が立っているのが見えた。

 

 こちらを見ていた。

 その瞳には、自分が映っていた――ような、気がした。

 

 わずかな感覚。

 胸の奥で何かが脈打ったが、それは障害にはならない。

 

 いまは、ただ一つの命令に従っている。

 

 走れ。

 

 

 脚が、空間を裂く。

 腕が、風を払う。

 肉体が、解放される。

 歓声が、粒を持って耳の奥に届く。

 

 

 

 

 ―――そして、白い境界は後ろへと過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

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