作:綾小路君をTSヒロイン化した作品がみたい
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ホワイトルーム。 そこは徹底した管理のもと、選ばれた子供たちが集められる閉ざされた世界だった。
私は外の世界というものを知らない。
物心ついた頃には、すでにこの白い空間で生きることが当たり前になっていた。
ここでは他者は競争相手でしかなく、私はただ優秀であることだけを求められていた。
そのはずだった。
だが、一人だけ、この空間の中で異質な存在がいた。
神楽坂創。
彼と初めて言葉を交わしたのがいつだったか、思い出すことはできない。 それくらいに、私たちは幼い頃から共にいた。
それでも、最初の印象は鮮明に覚えている。
(……変なの)
この施設にいる他の子どもたちは皆、自分のことに精いっぱいだった。
生き残るために、競争に勝つために、余計な感情を持たず、ただ課題をこなしていく。
私も例外ではなく、優秀であることに何の疑問も抱かなかった。
だが、創だけは違った。
彼は無駄なことばかりしていた。
他人の行動を観察し、興味を持ち、話しかける。
時にはアドバイスのような言葉をかけることもあった。
この場所で、そんなことをする理由があるのか?
私は最初、それを理解できなかった。
彼がチェスを好んでいたのも、きっとその一環だったのだろう。
「今日もやるの?」
淡々とした声でそう問いかけると、創は嬉しそうに頷いた。
「うん、チェスは楽しいからね」
理解不能だった。
チェスはあくまで訓練の一環であり、知力を競うための道具に過ぎない。
楽しいかどうかなど、関係があるだろうか?
私は盤の前に座り、駒を並べ始める。 すでに何十回と繰り返している作業だ。 淡々と指し、勝敗を決し、結果を記録する。 それだけのはずだった。
しかし──。
「ふむ、その手か。清華はやっぱり攻めが得意だね」
創は対局中、無駄に話しかけてくる。
「……どういう意図?」
「いや、ただの感想だよ。君の手にはちゃんと個性があるなって」
まるで私という存在を分析し、知ろうとしているような口ぶり。
──精神攻撃か?
そう思って警戒したが、創の表情に敵意はない。 むしろ、楽しげですらあった。
わざと私を油断させる作戦?
──いや、違う。
この男は本気で楽しんでいるのだろう。勝ち負け以上に、盤の向こう側にいる「私」と対峙することそのものを。
「どうして、そんなことを言うの?」
気づけば、問いかけていた。
「うーん……なんでだろう。たぶん、僕は君のことをもっと知りたいんだと思う」
この場において、そんな発想をする人間がいること自体が異常だった。
この空間で生きる限り、他人は蹴落とすべき競争相手だ。 そうであるべきなのに──。
彼は違う。
「変なの」
思わず口に出すと、創は少し驚いた後、困ったように笑った。
「はは、そうかな」
まるで、それを気にしていないかのような顔。 いや、本当に気にしていないのかもしれない。
この時の私は、まだ知らなかった。
神楽坂創という人間が、どこまでも異質な存在であることを。
ホワイトルームの脱落者は珍しいものではなかった。どれほど優秀な子どもでも、耐えられなければ淘汰される。
ただ、それを見て落ち込む人間は、ここにはいないはずだった。
「……また、減ったな」
創はぽつりと呟いた。 その声には、聞いたことのないほどの沈痛な色が滲んでいる。
「何をそんなに気にするの?」
思わず問いかける。 この空間で脱落することは当然のことなのに、なぜ彼はそんな表情をするのか。
「……僕は、ただ……間違ってたのかな」
創は膝を抱え、珍しく視線を落とした。
「僕は、もっとやれたはずなのに。彼らに、もっと……」
創は、他のホワイトルーム生に手を差し伸べようとしていた。 だが、その試みは実らず、彼らは次々と脱落していった。
「無駄なことよ」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
創が顔を上げる。
「……そうなのかな」
弱々しい声。 こんな彼を見るのは初めてだった。
見慣れた人間の光景のはず。
それなのに、なぜか。 胸の奥が、わずかにざわついた。
(これは、なに?)
それが「哀しさ」だとは、まだ気づいていなかった。
時間が経った。
創はいつものように、静かに立ち上がった。
彼はすでに何度も傷ついているはずだった。
それでも、まるで当たり前のように前を向く。
「……まだ、残っている人がいる。僕は、諦めたくない」
私には、その意味が分からない。
なぜ、ここまでして他人のことを考えるのか。
そんなことをして、何になる?
だが、創はもう俯いてはいなかった。
ホワイトルームの食事は、決まった時間に運ばれてくる。
無機質なトレイに盛られた栄養食。
私たちはただ、それを口に運び、必要なエネルギーを摂取するだけ。
そこに感情が入り込む余地などない。
……はずだった。
「ありがとう」
創の声が、部屋に響く。
「え?」
食事を運んできたあの男の執事、松雄がわずかに動きを止める。
「いつも運んでくれてるでしょ? お疲れさま」
創は自然にそう言った。
感謝の言葉など、この場所では存在しないはずなのに。
松雄は視線を逸らし、何も言わずに部屋を出て行った。
それは、一度きりのことではなかった。
食事を運んでくるたびに、創は「ありがとう」と言った。
水を補充しに来る職員にも、訓練の記録をつける研究員にも。
「今日も記録、お疲れさま」
「お水、ありがとう」
「助かるよ」
創の声は穏やかで、作為がない。
まるで、それが当たり前のことのように。
だが、それを受け取る側の職員たちは違った。
彼らは最初、戸惑い、驚いていた。
やがて、受け流すようになり、最後には困惑の色を滲ませた。
全員、なぜが変な顔をよくするようになった。
ある日、ふと、彼は読んでいた本「変身物語」から目線をはずし天井を見つめる。
ホワイトルームには白い景色しか見えない。
それでも、まるでその先に何かがあるかのように、目を細めていた。
「清華、外ってどんな場所なんだろう?」
突然の言葉に、思考が止まる。
「……どういう意味?」
「外の世界。ここじゃない場所のこと。今まで考えたことなかったけど……最近、気になるんだ。海というものはどこまでも青いと本でかかれていたけど本当なのかな?」
「……さあ。そんなこと、考えたこともない」
清華は興味なさげに答えた。
外がどうなっていようと、ここで結果を出すことが全てなのだから。
だけど、その言葉と創の表情が頭から離れなかった。
ホワイトルームは何も変わらない。
白い壁、無機質な照明、ただ機能だけを求められた空間。
けれど、かつていた「他の誰か」はもういない。
気がつけば、この施設には、私と創の二人だけになっていた。
だが、それを寂しいとは思わなかった。
むしろ、より静かになった空間は心地よかった。
「……また考え込んでる」
創の横顔を見ながら、ぽつりと呟いた。
彼は最近、何かを考え込むことが多くなった。
トレーニングの合間、本を読んでいるとき、食事の時間。
ふとした瞬間に、彼の視線はどこか遠くを彷徨っている。
「何を考えてるの?」
私の言葉に、創は小さく笑った。
けれど、答えは返ってこなかった。
前なら、創はすぐに何かしら言い返してきたはずなのに。
最近は、そういうことも減ってきた。
「……何?」
創は、じっと私を見つめる。
創は、一瞬だけ視線を合わせたが、すぐに逸らした。
「なんでもないよ」
また、それだ。
なんでもないはずがないのに。
私は、この場所に満足している。
創と二人でいることに、何の不自由もない。
むしろ、誰かがいなくなるたびに、この空間がより「自分のもの」に思えていた。
それなのに——。
「創は、ここにいるのが嫌なの?」
気がつけば、そんな言葉が口をついていた。
創が驚いたように私を見る。
私は、彼の返答を待った。
けれど、創はすぐには答えなかった。
まるで、自分でもその答えを探しているかのように。
そして、彼は静かに目を伏せた。
「……そんなことはないよ、清華がいるからね」
その声を聞いて、私はなぜか安心した。
けれど、その感情の意味は、まだ分からなかった。
清華が創を押さえ込もうとするが、逆に体勢を入れ替えられ、密着する形になる。
創の静かな息遣いが耳元にかかる。
「……清華、一緒にここを出ないか」
訓練の中、まるで日常の一言のように呟かれるその言葉。
清華は一瞬動きを止める。
(……何を言ってるの?)
抵抗しようとするが、組み付いた体勢のまま創の体温と匂いが意識に入り込んでしまう。
心臓が、不思議と落ち着く。
「……どうして?」
清華は無意識に問いかけていた。
創の体温が温かい。
不自然にならないように拘束する体勢を変えてくるが、また彼の静かな呼吸が耳元に触れる。
妙にぽかぽかする。
だけど、それ以上に、この言葉が気にさわる。
清華の問いに、創はすぐには答えなかった。
押さえこんだまま、どこか遠くを見ているような顔をする。
そして、ぽつりと呟いた。
「ある人に言われたんだ。外に出てみないかって」
清華の眉がぴくりと動く。
「……誰?」
誰が創にそんなことを言った?
この閉ざされた世界で?
ありえない。
ここは、ホワイトルーム。
与えられた試練を乗り越え、求められる成果を出し続ける場所。
そのために作られた施設。
それなのに、ここを出ろと言った人間がいる?
清華はさらに問い詰める。
「誰がそんなことを言ったの?」
創は少しだけ目を細め、静かに答えた。
「松雄さんだよ」
その名前を聞いた瞬間、清華の指先に力が入る。
「……そんなことを言うなんて、おかしい」
松雄はあの男の執事。
彼の意向に背くような発言をするはずがない。
創は真剣な顔のまま、小さく笑った。
「……そうだね。でも、信じられると思う」
まるで、それが絶対に覆らない事実であるかのように、創は断言する。
「よく、考えてほしい。 ……また、聞くから」
拘束が解かれる。熱が冷めたはずなのに頭はなぜかぼんやりとしていた。
訓練が終わった後も、清華の頭の中に創の言葉が残り続けていた。
「外に出てみないか」 そんなこと、考えたこともない。考える必要もない。
ここで結果を出すこと、それだけが全てのはずなのに——。
——本当に? 私は、ただそれだけが全てだろうか。
もし、否定して彼だけが外に出て行ってしまったら。
(……くだらない)
私は頭を振った。
考える必要のないことを考えている。
いつも通り、私が結果を出すこと。ただ、勝つことを考えてさえいればいい。
最近、創に負け越している。対策を練らなければ。
けれど、創の言葉が、どうしてか頭の奥にこびりついて離れなかった。
盤上に並ぶ駒を見つめながら、私は指を動かした。
ナイトが静かに跳ね、創の駒を取る。
「最近、また強くなったね」
向かいに座る創が、ぽつりと呟く。
私は視線を上げずに答える。
「この前は負けたから。今度は勝たないと」
それが、ホワイトルームで求められることだから。
ただ、それだけのはずなのに——。
「清華」
駒を動かしながら、創が口を開く。
「昨日の話だけど……まだ考えてる?」
指が止まる。
……考える必要なんてない。くだらないこと。
そう言おうとした。
けれど、創の顔を見た瞬間、その言葉が喉の奥で止まる。
創の目は、昨日と同じだった。
真剣で、迷いのない目。
「……いいよ」
口をついて出た言葉に、自分で驚く。
何を言っているの? 否定するはずだったのに。
創は、一瞬驚いたように目を見開き——それから、ふっと微笑んだ。
(……なに、それは)
創が救われたような顔をしているのを見て、私はそれ以上何も言えなくなった。
ホワイトルームの無機質な空間の中で、私たちは並んで座り、それぞれ違う本を読んでいた。
ページをめくる音だけが、静かな部屋に響く。
互いに干渉することもなく、ただ隣り合っているだけ。
それなのに——妙に落ち着く。
ふと、隣から視線を感じた。
「……なに?」
本から目を離さないまま、問いかける。
創は、自分の本には目もくれず、私が読んでいるページを覗き込むように身を寄せた。
ただの興味ではない。
わずかに周囲の気配を気にしながら、ゆっくりと身を寄せてくる。
「聞いてほしい、清華」
距離が近い。
創の肩がわずかに触れ、低い声が耳元に落ちる。
「……何を?」
囁くように問い返す。
創の視線が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「ここを出る方法を、話すよ」
創の低い声が、耳元で響く。
私は無意識にページをめくろうとして——指が止まった。
創は淡々とした口調で、静かに語り始めた。
「この施設の警備体制は、基本的に完璧だ。でも、穴がないわけじゃない」
私は、何も言わずに創の言葉を待った。
「警備の交代時間。その間に、監視カメラによる監視の隙が生まれる」
ページの端を指でなぞりながら、創は続ける。
「隙が生まれるのは、ほんの数分。でも、俺たちならその間に動ける」
静かな自信。
私は、ただ黙って聞いていた。
創は一度小さく息を吐き、小さな声で続けた。
「……ホワイトルームは、広大な私有地の中にある」
私は、微かに指を動かした。
それがどうしたのか。
「けど、外がどうなっているのか、詳細を知っている人間は限られている。俺は——松雄さんから聞いた」
松雄。
創が信頼を置いている、あの男の執事。
「この施設の外は、山に囲まれている。道路もあるけど、外部との接触を防ぐために厳重に管理されてるんだ」
創は私の本の端に指を軽く触れながら、淡々と続ける。
「だから、徒歩じゃ厳しい。脱出するなら車を使うしかない」
車。
当然、私たちが自由に使えるはずがない。
「松雄さんが用意する。俺たちが施設を抜け出したあとに、指定の場所に車が置かれている」
……どこまで本気で考えているんだろう。
創の声は静かで、それでいて確信に満ちていた。
「カギは、当日俺が受け取る」
私は、本からゆっくりと視線を上げる。
「……どうやって?」
創は、小さく笑いながら、わずかに身を寄せた。
「松雄さんが用意するのは、カプセル状のケースだ」
私は、創の言葉を静かに待つ。
「それを、食事に混入させる。俺が食べるふりをして口の中に保持する。必要な時に取り出せばいい」
私は、軽く息を吐いた。
創はたまに変なことを思いつく。
でも、創ならやり遂げる気がする。
創は、少しだけ間を置いてから続けた。
「決行は……5日後の夜11時ちょうど」
私は、無意識に指を動かす。
「夜?」
創は小さく頷く。
「警備の交代がある時間帯だ。その時間帯に松雄さんがカギを開けておいてくれる」
創は、一拍置いて、私を見つめた。
「……いいかい、清華? ……今なら、まだ引き返せる。改めて聞くよ、外に出たいかい?」
私は、本の端を指でなぞりながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。行く」
創の目が、わずかに見開かれる。
驚いているのか、それとも——安堵したのか。
「ありがとう、清華」
創は静かに微笑んだ。
その表情を見て、私はまた指を動かす。
(……何?)
胸の奥が、ざわつく。
こんな感覚、今までなかった。
創が嬉しそうにすることは、別におかしくない。
私は、ただ創について行くだけ。
なのに——。
(……これは? 初めての感覚……)
理由の分からない感覚が、私の中で消えずに残っていた。
静寂に包まれた部屋。
いつもなら睡眠をとっている時間、白い天井を見上げながら時間が過ぎるのを待っていた。
——カチリ。
微かな音が響き、扉の鍵が静かに開く。
私は、ゆっくりと体を起こした。
そこに立っていたのは、創。
「……来たのね」
小声でそう言うと、創は軽く頷いた。 そして——腰のあたりに、見慣れないものを隠し持っているのが分かった。
(……ナイフ?)
わずかに布の下で光る、それは明らかに刃物だ。ホワイトルームでの格闘訓練でつかうものだ。さらに、創の服装の内側には、何かを忍ばせているように見えた。
「行こう、清華」
創は余計なことは言わず、静かに手を差し出した。
私は、一瞬だけその手を見つめ——それから、無言で立ち上がる。
(……これでいいはず)
創の背中を追いながら、心の奥に微かに残るざわつきを振り払った。
創の後ろを静かに歩く。
足音を極力立てないように、廊下の白い床を踏みしめる。
(……静かだ)
施設はいつもと変わらない。
監視カメラの位置も、警備の巡回ルートも、創はすべてを把握しているのだろう。
創は迷いなく進む。
——カチリ。
開いた。松雄が手配していたのだろう。
「……行こう」
創が扉の向こうを確認し、私を促す。
私は一瞬だけ振り返る。
(……これで、本当に終わり)
ホワイトルーム。
生まれてからずっといた場所。
ここを出たら、何が待っているのか分からない。
それでも——私は、創の背中を追った。
外気が肌をかすめる。
ホワイトルームの管理された空気とは違う、生ぬるい夜の風。
(……これが、外?)
暗闇に溶け込むように、創は迷いなく歩く。
私も、無言でその背中を追った。
「車は、この先の木々の間に停めてあるはずだ」
創の声は低いが、はっきりと聞こえた。
松雄が用意した車——そこまで辿り着けば、脱出は目の前だろう。
だが、その距離が妙に長く感じられる。
夜の闇に包まれた外の世界。
見慣れた無機質な白とは違う、不確かな空間。
(……本当に、出るんだ)
その実感が、じわりと胸を満たしていく。
風がざわめく。
その中に、違和感のある音が混じった。
(……足音?)
創の足が止まる。
私も、反射的に動きを止めた。
「……来てるな」
低く押し殺した創の声。
私は、わずかに眉をひそめる。
「このまま車に向かうのは、まずいかもしれないな」
創はカプセルを口から取り出した。そして、カプセルを開く。
鍵。例の車のものだろう。
「清華、これを持って先に行け」
創が差し出した鍵が、闇の中で小さく光る。
私は、その小さな金属片をじっと見つめた。
まるで、それを受け取った瞬間、すべてが決まってしまうような気がして——。
「……創は?」
創の表情は暗がりに隠れてよく見えない。
それでも、その声だけははっきりと届いた。
「迎撃に回る」
迎撃。
その意味を理解した瞬間、胸の奥がざわついた。
(どうして?)
だって、二人でここを出るはずだった。
なぜ、創は離れようとする?
遠くで、微かに足音が聞こえた。
複数。
こちらに向かっている。
「……創」
声に出したのは、彼の名前だけだった。
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
「清華……君には幸せでいてほしい」
創の静かな声が、夜の闇に溶けるように響いた。
彼の手の中で、鍵が小さく光る。
私は、それをただ見つめていた。
(……幸せ?)
この言葉を、創の口から聞くのは初めてだった。
違和感があるのに、どこか妙に心に引っかかる。
「……っ」
私は、何かを言おうとした。
でも、その前に——創の手が私の手を取る。
そして、鍵をそっと握らせた。
「行け」
創は、そう言って私の背中を押した。
(……っ!)
考えるより先に、体が動いた。
自分の意思ではなく、長年染みついた本能のように。
創の命令に、私は従ってしまった。
無意識に足が前に出る。
創に背を向け、夜の闇の中へと駆け出していた。
(……どうして)
何かが引っかかる。
でも、振り向くことは許されなかった。
後ろで、創が静かに動き出す気配がした。
足音だけが響く。
草を踏みしめる音、心臓の鼓動。
夜の冷たい空気が、熱を帯びた肌を撫でる。
(どうして——)
考える隙もなく、ただ前へ進む。
創の言葉に、体が反射的に従っただけ。
それなのに、胸の奥に残るこの感覚は何?
(これは、焦燥? 違う——)
ただ、創に言われた通り動いただけなのに、何かが引っかかる。
何か、大事なことを置いてきてしまったような気がしてならなかった。
けれど、振り向くことは許されない。
許されるはずがない。
(行けって、言われたから——)
——パンッ!
鋭い音が、夜の静寂を裂いた。
銃声。
次の瞬間、体が強張る。
けれど、足は止まらない。
(……創?)
分かっていた。
彼が、囮になるために迎撃に回ることは。
それでも、耳にこびりついた銃声が、足元をぐらつかせる。
——パンッ! パンッ!
連続する銃声。
反射的に振り向きそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえた。
(ダメ……振り向いちゃダメ)
行け。
創がそう言った。
だから——私は走る。
視界の先に、黒い車がぽつんと停まっていた。
松雄が用意した脱出用の車。
足を止める。
——着いた。
夜の闇に沈む車体に、震える指で鍵を差し込む。
カチリ、とロックが外れる音。
(……これで、私は逃げられる)
ドアを開け、運転席に乗り込む。
エンジンをかければ、あとは走るだけ。
創の言った通りにすれば、私は自由になれる。
創が望んだ未来に進める。
なのに——。
(……ちょっと待って)
手が、動かない。
私は、幸せになれるの?
ここから逃げて、それで?
(——私の、幸せって何?)
逃げること?
ホワイトルームを出ること?
自由になること?
(……違う)
脳裏に浮かぶのは、たった一人の存在。
ずっと隣にいた人。
いつも私の隣を歩いていた人。
「……創」
あぁ、そうだったのか。
私の幸せは、創と一緒にいることだった。
(それなのに……私は、今ここで逃げようとしている?)
自分の愚かさに嗤いがこみ上げる。
「最高傑作」と呼ばれた私が、こんな簡単なことに気づけなかったなんて。
「……私は、何をしてるの?」
ため息とともに呟き、ギアを入れる。
目的地は、最初から決まっていた。
(創のいる場所——)
アクセルを踏み込む。
車が夜を裂いて駆け出した。
そして、不穏な知らせを告げるかのように天気が荒れ、雨が降り始める。
地面に転がる無数の武装した者たち。
意識を失っている者、うめき声を上げている者。
彼らは倒されたが、誰一人として命を落としてはいない。
この惨状を作り出したのは——たった一人。
創は、荒い息を吐きながらも、まだ立っていた。
その服は裂け、拳はわずかに血を滲ませている。
足元には撃ち尽くされた銃が転がっていた。
それでも彼は、最後まで抗う意思を捨てていなかった。
——エンジン音。
遠くから、闇を切り裂くように複数の車両が近づいてくる。
黒塗りの車。
ホワイトルームの応援部隊。
創は、すでに限界だった。
肩で息をし、拳はわずかに震えている。
だが、それでも彼は立ち続けた。
目の前に現れた新手の部隊を前に、静かに拳を握りしめる。
銃はなく、ナイフも刃こぼれが激しく使い物にならなかった。
だが、まだ戦える。
創がわずかに足を引いた、その瞬間——。
「撃て」
冷たく響く命令。
——バチンッ!!!
複数の閃光が走る。
テーザー銃。
電撃が創の身体を貫いた。
足が崩れ、膝をつく。
それでも、彼は歯を食いしばる。
だが——。
——バチンッ! バチンッ!
追撃。
逃がさないという意思が込められた、複数の閃光。
創の身体が、ついに地面に倒れ込む。
静寂。
応援部隊は、倒れた創を囲むように立ち、銃口を向ける。
まるで、止めを刺すことすら厭わないかのように——。
そのときだった。
車が荒々しくとまり、人影が現れる。
「創!!!」
夜の闇を切り裂く声が響いた。
そして、駆け寄る影——清華が、傷だらけの創を抱きしめた。
目の前には、倒れた創。
荒い息を吐きながら、それでも意識を手放さない彼の姿。
テーザー銃の電撃による痙攣がまだ残っているのか、指先が微かに震えている。
私は、その身体を抱きしめた。
無意識に、強く、強く——まるで、このまま消えてしまいそうで、手放したくなかった。
「どうして……どうして……?」
自分の声が震えているのが分かった。
こんなはずじゃなかった。
外の世界に出て、創と一緒に———ただそれだけだったのに。
「創……」
彼は、ぼんやりと私を見つめた。
その目には、痛みも、苦しみも、そして——どこか、後悔すら混じっているように見えた。
ああ、そんな顔をしないで。
私は、ただ、あなたが幸せならそれでよかったのに——
車のドアが静かに開いた。
重苦しい沈黙の中、黒い革靴が地面を踏みしめ、水をはじく音だけが響く。
ゆっくりと歩みを進める男。
その背後には、応援部隊の兵士たちが控えている。
まるで、彼がこの場のすべてを支配しているかのように——。
「——くだらない」
その声は、ひどく冷たかった。
私は、創を抱きしめたまま、顔を上げる。
そこにいたのは、綾小路篤臣。
ホワイトルームの管理者にして、私の父親。
鋭い視線が、創へと向けられる。
まるで 「不良品を見つめる」 かのような目。
「……清華、お前がこのような無様を晒すとはな」
静かな声だった。
だが、その一言だけで、私の背筋は凍りつく。
「……無様?」
私は、震える声で言い返す。
この男は答えない。
ただ、無造作に創を見下ろした。
「不良品に情をかけるなど、無意味だ」
——違う。
——違う、違う。
この男は、創を見下ろしたまま、冷たく言い放った。
「——処分する」
その言葉に、私の身体が強張る。
「待って……!」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
この男は、ちらりと私を見る。
「……そんなに大事なのか?」
まるで試すような口調だった。
私は、創を抱きしめる腕に力を込める。
この男は、ふっと小さく息を吐くと、肩をすくめた。
「ならば、お前に選択肢をやろう。俺の言う通りにするなら、これの命は助けてやる」
私は、無意識に唇を噛みしめた。
「清華、お前は俺の指示に従い、これからも俺の望む通りに生きることを誓え」
「……」
「ただし、反逆の罰は受けさせる」
この男の視線が創に向けられる。
「これは、ホワイトルームから追放する。二度とここには戻さない」
それだけではない——とでも言うように、この男は続ける。
「……能力開発の研究で、副産物が生まれたことを思い出したよ」
その言葉に、私は顔を上げる。
この男の目がわずかに細められた。
「脳の覚醒を促す過程で、一部の神経伝達を遮断する技術が見つかった。応用すれば、記憶を封じることができる」
——記憶を封じる?
何を、言って——。
「これには、それを施す」
私の指先が、かすかに震えた。
「……そんな」
この男は、私の動揺を意に介さず、背後にいる男──―松雄に視線を向けた。
「松雄、お前に監視役を命じる」
松雄が息をのむ。
「清華が命令に従うかどうか、そして——これが、"二度と過ちを犯さないか" をな」
松雄は、しばらく沈黙していた。
その拳が、わずかに握りしめられるのが分かる。
しかし——やがて、彼は小さく頷いた。
「……承知しました」
静かな声。
しかし、その表情は曇っていた。
私は、震える指先を握りしめる。
この男の視線が、私の反応を見極めるようにこちらをうかがっていた。
「……選択」
私は、静かに口を開く。
喉がひどく乾いていた。
この男の目を真っ直ぐに見つめる。
「では、私からも条件を出す」
「ほう?」
この男が眉をわずかに上げる。
私は、創を抱きしめる腕に力を込めた。
「創の命を絶対に奪わないこと。それが守られないなら——」
そう言いかけて、私はスッと手を伸ばす。
この男の従者たちが、一瞬身構えるのがわかった。
私は、自分の首元へ指を添える。
「——私も死ぬ」
「……何?」
従者たちがざわめいた。
しかし、この男は表情を変えない。
ただ、静かに私を見つめる。
「私の価値は、あなたもよく知っているはず」
私は、笑った。
ひどく乾いた、自嘲めいた笑いだった。
「もし、創を処分するなら——私もその瞬間に死ぬ」
この男は、しばらく私を見つめていた。
やがて——小さく、鼻で笑う。
「脅しのつもりか」
「いいえ。私は、本気」
私の声には、迷いはなかった。
篤臣が、微かに目を細める。
「……なるほど。清華がここまで愚かとはな」
彼は小さく息を吐いた後、肩をすくめた。
「いいだろう。これの命は保証しよう」
私は、胸の奥で小さく息を吐いた。
だが——それだけでは、足りない。
私は、もう一つ、言葉を紡ぐ。
「それと——」
この男が、私を見る。
「創を、学校へ行かせてほしい」
従者たちが再びざわめく。
この男も、一瞬だけ目を細めた。
「……学校?」
私は、ゆっくりと頷く。
脳裏に、あの日の創の言葉がよみがえる。
——なあ、清華。学校って、どんなところなんだろうな?
私も、知らない。
でも——創が、それを望んでいたことだけは知っている。
「記憶を封じ、社会に放り出すというのなら……」
「せめて、創が ‘普通に生きられるか’ どうかを確かめたい」
この男は、沈黙する。
鋭い視線で、私の表情を探るように見つめてくる。
「……それはこれのためか?」
私は、一瞬だけ言葉に詰まる。
しかし、すぐに表情を整え、静かに答えた。
「……ただ、確認しておきたいだけ」
この男は、微かに笑った。
「……面白い」
そして——彼は、頷いた。
「いいだろう。これを、学校へ送ってやる」
「……そうだな、俺の知人が運営している学校があったはずだ、そこならばいいだろう」
「これと清華、お前たちに3年間猶予をやろう」
「ちょうど人員の整理を長期的にしないといけないと思っていたところだ。それも、娘の初めてのわがままだ。叶えてやるというのが親というものだろう」
そう言い捨て、この男は引き下がった。
私の胸には、安堵と不安が入り交じる。
引き裂かれるような思いとはこのようなことをこの日、初めて知った。
黒塗りの車のドアが開き、創の身体が運び込まれる。
彼はすでに意識が朦朧としているのか、抵抗する素振りも見せない。
私は、その姿をただ見つめることしかできなかった。
(創……)
追って手を伸ばしたいのに、身体が動かない。
創がいなくなる。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たい痛みが広がった。
「——申し訳ございません」
小さな声が聞こえた。
顔を上げると、そこには松雄がいた。
彼は、私の前で膝をつき——崩れるようにぬかるんだ地面へと倒れ込む。
それは、土下座などという形式的なものではなかった。
ただ、膝から崩れ落ち、地に伏すようにして。
「……創様を……私は……」
かすれた声。
苦しげに絞り出された言葉が、夜の静寂に消えていく。
(……この男が……!)
創をそそのかし、外へ導き、そして……最終的に、彼を裏切った。
すべては、この男の選択のせいだ。
もし、最初からこんなことをしなければ——。
気づけば、私は拳を握りしめていた。
一歩でも踏み出せば、私はこの男の喉を掻き切るだろう。
だが——。
(……ダメ)
あの男の従者の視線がある。あの男はこいつを監視役に命じた。
今ここで松雄に手を出せば、私も創も本当に終わる。
私は、震える拳を握りしめたまま、松雄を睨みつけた。
「……謝る相手を間違えている」
冷たい声が、自分の口から出た。
松雄は、それ以上何も言わず、ただ深く頭を伏せる。
その間にも、創を乗せた車のドアが閉まる音が響く。
そして——彼を乗せた車が、ゆっくりと走り去っていった。
病室のドアが静かに開かれる。
部屋の中は薄暗く、機械の規則的な電子音が静寂を支配していた。
私は、一歩足を踏み入れる。
——創がいる。
ベッドの上。
白いシーツに包まれ、静かに眠っていた。
顔にはまだ戦闘の名残が見える。小さな傷、包帯、そして点滴の管。
けれど——
彼の表情は、穏やかだった。
まるで、何の不安も抱えていないかのように。
まるで——すべてから解放されたかのように。
私は、そっとベッドの傍に膝をつく。
「……どうして、そんな顔をしてるの?」
問いかけても、創は答えない。
静かに、ただ呼吸を繰り返しているだけ。
私は、彼の指先を見つめた。
あんなに拳を握りしめ、抗おうとしていた手。
今は力なくシーツの上に置かれている。
(……ああ、それでも、生きていてくれてよかった)
そう思うのは、間違いじゃないはずなのに——。
胸の奥が、妙に冷えていた。
これでいいのだろう。結果としては。
創は、この世界を、私を知らないまま生きていく。
そのほうが、きっと幸せなのだろう。
——なのに、どうして。
どうして、私はこんなにも息苦しい?
気づけば、視界が滲んでいた。
これは、なんだろう。
ああ、私もあの部屋で脱落したものと変わりない存在なのだと気付いた。
ありがとう、創。私にいろんなものを与えてくれて。
それは、素敵なもので、初めて嫌いだと思えたものだった。
「——創は、無事なの?」
静かにそう問いかけると、あの男の従者は一瞬言葉に詰まった。
「ええ。すでに意識は回復しており、日常生活を送るうえでは問題ないと」
「……そう」
短く返しながら、胸の奥に小さな安堵が広がる。
彼が生きている。
それだけで、よかった。
だけど——
「ですが、記憶に関しては……」
わかっていたことなのに、その言葉が妙に遠く響いた。
創は、私を知らない。
ホワイトルームで過ごした日々も、そこで交わした言葉も、すべてが消えている。
「……そう、わかった」
そう告げて、私は踵を返した。
創には、会わない。
それが、私の選んだ答えだった。
4月。高校生というものになった私は外の世界に辟易しながらバスという乗り物に乗っていた。
何気なく窓の外を眺めていると、ふと視界の端に見覚えのある姿を見つけた。
(——創)
思わず息を呑む。
彼はバスの中央付近の座席に座りこみ、ぼんやりと外を眺めていた。
その表情は穏やかで、どこか優しい。
すると——
「どうぞ、座ってください」
柔らかい声とともに、彼は自然な仕草で老人に席を譲った。
(——ああ)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
記憶がなくても、創は変わらないのかもしれない。
どれだけ過去を失っても、彼は彼のままで——
気づけば、私は小さく微笑んでいた。
バスを降りたあと、彼の姿を目で追ってしまう。
創はゆっくりと歩きながら、誰かと話していた。
バスの車内にいたであろう茶髪の女だった。
(……そう)
胸の奥が、ちくりと痛む。
名前も、声も、知らない。
けれど、創はその女と会話をして、当たり前のように新しい関係を築いていく。
私を知らないまま、新しい世界に馴染んでいく。
それが、きっと正しい。
それが、きっと幸せ。
——なのに、どうして。
どうして、こんなにも苦しい?
ぎゅっと拳を握る。
それでも、私は自分に言い聞かせるように、静かに呟いた。
「……あなたが幸せでさえいれば、それでいい」
春の陽気というものがどこか鬱陶しかった。