八田與一「物語」から「歴史」へ
【はじめに】
【総 論】八田與一「物語」から「歴史」へ
【論 考】①~⑯(略)
【あとがき】「與一物語」のウラには
【画像・資料】(略)
【資料リスト 1~31】(略)
【はじめに】
八田與一と烏山頭ダム建設に関する検証作業(二〇一一年)からすでに十年が過ぎた。その後も、八田與一の「偉人化」は留まるところを知らず、「雨期にはこう水、乾期には干ばつ…思うように作物が育たず」<画像ⓒ>、「嘉南平原は、米や作物を栽培しようとしても、水がなく、…不毛な土地」<画像ⓓ>、「洪水や日照りのため米作りができない土地」<画像ⓔ>、「雨期の洪水と乾期の水不足に悩まされる不毛の土地」<画像ⓕ>など、どの「與一物語」を見ても、おしなべて、台湾の嘉南平原が不毛の土地であり、八田與一が農民のためにダムを造って沃野にしたという筋書きである。
まずは、嘉南大圳完成直後の農民の声に耳を傾けよう。
『新興地の悲哀』(蔡愁洞著 一九三一年『台湾新民報』)
「水よ早く来てくれ、私たちの主人は長らく君を待ってきた。君のためにどれほど苦労を重ねてきたことか! 早く来てくれないと、すべてが徒労に終わってしまう。水よ、早く来い! 十数年祈り続けてたったコレッポチ、この程度じゃ病魔を退散させられないじゃないか?」
「大老!この給水路はおまえには使わせないぞ!」
大老が水路の土手にボンヤリ立って思い悩んでいると、この言葉が聞こえたので、彼は呆然として色を失った。
「おい、聞こえたか? おまえたちは維持費を未だ納めていない、水は欲しいくせに金は出さないんだから。もう何回か通知したじゃないか、この野郎!」
水路巡視員は、さげすむように文句を並べ立てる。
「広崎さん、怒らないで下さい。私たちが維持費を払わないのではなく、業主が払うべき金なんです」
「とにかく水は絶対にやれないよ。これは郡守大人が決めたことだから、不服なら郡役所に行ってかけ合うことだな」
この侮辱に、林大老は悲憤交々の感慨が深かった。郡役所が相手にしてくれるだろうか? 我々のような糞ったれ百姓など眼中にあるだろうか? よそう、何の役にも立たないだろう。「やめた、もうやめよう! 五月六月七月は砂糖キビを植えよう。苗植えをやめれば俺をどうにもできまい?」(略)
大老は干芋汁の入ったお椀と竹箸を持って、壁穴から風が入ってくる家の中で昼食をとっていたが、折から聞こえてくる喧騒が煩わしくて、なおさら気が沈むのだった。喉につかえて食べる気力もなく、箸とお椀を置くと、雑貨屋の入り口の掲示板の前に行ってボンヤリ見ていた。砂糖キビ指定地区以外の場所に、砂糖キビを植えてはならない…(略)役所は稲の苗を植えるのを許さないし、製糖会社は砂糖キビを植えさせてくれない…。
台湾民衆は今も
台湾から明確なメッセージが届いた。二〇一七年四月十六日、「台南市内の烏山頭ダムにある日本人土木技師・八田與一氏の銅像の頭部が何者かによって切断された」のである(4・17『北陸中日新聞』)。
数日後、李承竜元台北市議は「(台湾の一部の政治家が)日本統治時代の負の面に触れず、歴史を美化する傾向に怒りを覚え、やむなくやった」「当時、(烏山頭)ダムは大日本帝国の食糧問題解決の必要から建造されたものだし、多くの農民は日本統治による圧迫と搾取で苦し」んでいたと、その動機を語った(4・25『北国新聞』)。
これにたいして谷本石川県知事(当時)は「少数の考え方の人が起こした事件」と語っているが、台湾では、「日本屠殺台湾人史実不可忘!(日本が台湾人を殺害した歴史を忘れるな)」「強烈要求日本政府向 噍吧哖(タパニー)事件道歉賠償(日本政府に要求する。噍吧哖虐殺事件を謝罪し、賠償せよ)」という横断幕を掲げてデモ行進もおこなわれた<三八頁:論考⑭の写真>。
忘れてはならないこと
台湾の多くの人々は、今も日本による植民地支配を忘れず、謝罪も賠償もしない日本に怒りを持っているが、日本では、相変わらず<台湾植民地支配=善政>などというフェイクニュースが横行している。しかし、二〇二〇年には『水明かり 故八田與一追偲録(復刻版)』(北國新聞社刊)が発行され、発行者の意図とは別に、これこそ、八田與一の実像に迫る書籍であり、ぜひとも読んでいただきたい。
<台湾人民二万四千人の殺戮から始まる植民地支配>を<八田與一によるダム建設>で帳消しにせず、日本=石川でこそ台湾植民地支配の実態を明らかにし、記憶にとどめ、謝罪し、真の友好への道を歩まねばならない。
本小冊子では、まず「画像資料」で「與一物語」を確認し、「総論」「論考」で筆者の問題意識を提示し、「資料」でその論拠にあたっていただきたい。
二〇二二年六月
(注)噍吧哖(タパニー)虐殺事件:一九一五年の民衆蜂起に日帝(台湾総督府)は数千人を負傷・虐殺し鎮圧した。
【総 論】八田與一 「物語」 から「歴史」 へ
目次
【1】「與一物語」の執筆動機
【2】台湾の歴史概観(先住民族/オランダ植民地時代/鄭氏の時代/清朝の時代/日帝統治時代)
【3】嘉南大圳(建設の目的/計画と建設/「三年輪作」を強制/嘉南大圳をめぐる攻防/水租の減額を勝ち取る/製糖会社のわがまま/「三年輪作」は八田與一の発案か?/識者の「三年輪作」評価/まとめ)
【4】八田與一の時代認識
【5】八田與一像破壊は台湾人民の意思(屈辱を晴らす/台湾人民の意思/與一像の美化と排外主義/右翼の支援で神社再建)
【6】台湾植民地支配に正面から向き合うこと
【1】 「與一物語」 の執筆動機
古川勝三が『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』(一九八九年<資料21>)を執筆した動機は「私が高雄市の日本人学校に、赴任することになった時、かつての植民地という暗い影の部分を意識していた。しかし、八田技師の業績を取材していく中で、影ばかりでなく、明るい光の部分もあったのだと、少しだけ気が楽になった」ことにある。序文を担当した高橋裕も「良心的日本人が献身的に働いていた」「現地の一般庶民の幸せを最優先に願っていた八田與一」と「光の部分」を強調している。
古川は「八田與一」を発見して、「気が楽になった」という。「暗い影の部分」には膨大な数の個々の死があり、個々の苦痛と血涙の川が流れており、アジア人民を犠牲にした植民地支配と侵略戦争の「近代」であり、決して軽く扱ってはならないし、ましてや美談でおし隠してはならない。
「輿一物語」はこの「暗い影の部分」を覆い隠す「イチジクの葉」としての役割を演じており、歴史の重圧から逃れるための自己欺瞞ではないか。日本人は「過去」を清算しなければならず、そのためには「暗い影の部分」を対象化し、アジアの被害者に心から謝罪しなければならない。
アジアの人々は一九九〇年代から日本の戦争責任(強制連行・強制労働、軍隊慰安婦)を厳しく追求し、謝罪を求めてきたが、日本政府は未だに事実を認めず、謝罪を拒否している。戦争責任を認めず、謝罪もせずに、「輿一物語」を対置して、植民地支配を美化し、居直ることによって、はたして日本人は国際社会で信頼を勝ち取ることが出来るだろうか。それは嘉南大圳に限らず、「水豊ダム(鴨緑江)」「豊満ダム(松花江)」によって、中国侵略が正当化されたり、帳消しに出来ないのと同じである。
教科書検閲によって、どの教科書も歴史修正主義に傾斜しており、自由社版歴史教科書には、「輿一物語」が掲載され、台湾植民地支配の美化に一役買っている。金沢では、子供たちの副教科書に「輿一物語」が掲載され、「郷土愛」と結びつけて、植民地支配の美化教育がおこなわれている。
台湾植民地支配の歴史を踏まえ、「輿一物語」について検証する。
【2】 台湾の歴史概観
「輿一物語」を検証する前に、五一年間の台湾植民地支配の重さについて、史明の『台湾四百年史』<資料18>、矢内原忠雄の『帝国主義下の台湾』<資料5>、胎中千鶴の『植民地台湾を語るということ』<資料30>などを参考にして概観する。恣意的な要約であり、ぜひとも原書にあたっていただきたい。
(1)先住民族
台湾では、先史時代から二〇以上の先住民族が居住し、現在の原住民はオーストロネシア語族である。一三世紀後半に中国元朝は台湾島を確認したが領有していない。オランダが台湾島に上陸するまでは原住民の島だった。
(2)オランダ植民地時代(一六二四~一六六一年まで三八年間)
一六二四年、オランダが台湾安平に上陸し、オランダの植民地経営が始まった。原住民は土地を原始的に共有していたが、オランダは原住民の土地を収奪し「皇田」とした。中国本土から労働力(一六四八年:十万人)を投入して、米、甘蔗を作付けした。砂糖はこの時代から輸出されていた。
(3)鄭氏の時代(一六六一~一六八四年まで二三年間)
一六六一年、オランダが撤退し、鄭氏の支配が始まった。鄭氏時代末までに、開墾された土地は田=七五〇〇甲(ヘクタール)、畑=一万一千甲、人口は三万戸、一五万人に増加した。鄭氏時代の「王田」の土地所有関係は封建的色彩が強かった。
(4)清朝の時代(一六八四~一八九五年まで二一一年間)
一六八三年、清軍が鄭氏を征服し、台湾を中国の版図に編入した。一七二三年から移民を開始し、西海岸から北部、東海岸南部、東北部海岸を開拓した。『台湾人四〇〇年史』<資料18>には、「清朝二百余年のうちに、全台湾が豊穣な田園と化し、中部の濁水系を境として、南は甘藷が多く作られ、北部は米の産地として知られるようになった。米は二回とれて、開拓の進展とともに生産も急増し、島内消費を賄ってなお余剰がでた」「余剰の米は食糧不足に悩む大陸・南福建地方へさかんに積みだされたのであった」と書かれている。
台湾の清朝期までは、気候(降水)と地形(水利)によって、西南部は甘蔗、西北部は米作、山間部では烏龍茶、中央山岳地では原生する楠から樟脳を製造するなどの、合理的な土地利用がおこなわれ、一八七〇年ごろ西部平地の開拓が終了し、田畑は六〇万甲に増加し(南部=甘蔗、北部=米)、人口は二五〇万人を超えた。
支配・被支配関係は<政府/墾戸(大租戸)/佃戸(小租戸)/現耕佃人(小作人)>という階級関係を形成していた。
(5)日帝統治時代 (一八九五~一九四五年まで五一年間)
日帝統治期以前の台湾農業
元々台湾で栽培されていた米は、気温の高い地域で栽培される長粒種のインディカ種(在来米)で、二期作(一月に田植えをして六月に収穫し、七月に再び田植えして十一月に収穫)が基本的な作付け体系である。インディカ種は粘り気が少なく、日帝統治期に本土の米不足を補うために、品種改良がおこなわれ、蓬莱米が多くつくられるようになった。それはあくまでも日本本土の米需要を反映し、奨励されたり、抑制されたり、決して台湾農民の生活的安定のためではなかった。
一〇〇人に一人を虐殺して植民地化
一八九五年、日清戦争に勝利した日本は台湾を割奪し、植民地統治が始まったが、台湾人民は「台湾民主国」を宣言し、武装して戦った。日本軍は五万の兵、二万の軍夫を派兵し、半年後の十月までに一万四千人の台湾人民を殺戮し(『台湾史小辞典』)、その後一九〇二年までにさらに一万人を殺害して(『図解台湾史』)、台湾を制圧した。
台湾人民二五〇万人の内二万四千人(一〇〇人に一人)を殺害し、植民地統治が始まった。八田與一は一九一〇年にこの台湾総督府の技術官僚として就職したのである。
総督府の支配秩序
台湾総督は絶対的な台湾支配者として、二五〇万近い異民族の上に君臨し、全島を支配した。総督は包括的に政務を統理し、命令、監督の諸権利を併せて行使するばかりでなく、陸海軍の総帥権と軍政権を掌握した。律令制定権は総督の強権を生みだす産婆役として本国から付与された。法律と同等の効力を発する命令を出すことが出来た。
台湾人の集会結社が禁止され、言論出版が抑制され、台湾人の土地が併呑没収され、台湾人だけの株式会社設立が禁止抑制され、公債引き受け・郵便貯金が強制され、教育・就職の差別がおこなわれた。
土地強奪と農民支配
土地調査は本国資本の進出が目的で、土地所有権の明確化、権利移転の近代的保証、租税義務を確立するためにおこなわれた。総督府は、山間僻地に居住する貧窮農民の生活を支えていた森林原野を「確証無き山林原野はすべて官有」と定め、原住民の居住区や台湾人の森林は無主地として没収し、官有化し、ほとんど無償で製糖会社や三井、三菱の企業会社に払い下げた。更に、警察の強権を使って、台湾人の所有として認定された私有地にまで併呑の触手を伸ばした。<資料13>
土地調査によって、課税対象となる耕地が四五万甲から六〇万甲に増加した。土地所有関係を整理し、大租戸(権)を消滅させ、小租戸(権)を近代法律上の地主とした。
中小地主はたえず租税の取り立てと土地収用併呑におびやかされていた。米作に従事する農民は日帝に米価を牛耳られ、台湾人の米穀商や「トウランゲン」という台湾在来の仲買人が没落すると、米の集荷、脱穀、肥料、水利などすべて総督府の食糧局や農会あるいは三井物産や三菱商事などに支配統制されるに至った。
台湾の経済と収奪
大正末期(一九二〇年代半ば)まで台湾人のみによる株式会社の設立が禁止され、台湾人系諸銀行の経営権は乗っ取られ、大東信託株式会社の弾圧、太陽鉱業の経営権奪取、旧式製糖業の併呑、パイン栽培・製缶事業が統合され、その結果、日本統治の末期までに台湾産業はすべて日本人の手中に帰し、台湾特産の米、甘蔗(砂糖)、バナナの栽培、水利施設、肥料、加工、販売、出荷、移出など経済活動の端から端まで完全に支配されていた。
台湾人には重税が課せられ、住民一人当たりの財政負担(一九四〇年)を比較すると、台湾四五五四円、日本三三三四円で、台湾財政は一八九七年から一九四二年までの四六年間で、約三六倍の収入増となった。
一九〇七年の台湾の米産額は約四六〇万石で、一九三八年には一千万石、その約半分は日本本国に積み出し、農民たちには自家消費を減量させてまで米の供出を強制した。台湾島内では米不足がおこり、ビルマなどの割安の南洋米が台湾人の常食とされた。
総督府歳入は一八九七年の約一二倍、一億三千万円、そのうち官業収入は二八倍に達した。農業生産は二億九千万円、工業生産は一九二七年に二億円を突破して、一八九七年の七〇倍、貿易総額は一四倍になった。
同じ中学卒業者でも台湾人は日本人の半分以下の待遇だった。大工、左官などは日本人なら東京並みの一日四円だが、台湾人はその半分で、工員、筋肉労働者はすべて台湾人によって占められ、熟練工で日給一円から一円五〇銭、台南地方の甘蔗園に働く農業労働者は日雇い七〇銭程度で、女子はその半分しかなかった。
台湾の「開発」(電源、灌漑)
占領後、総督府は港湾建設、甘蔗作と米作のための水利開発、工業化のための電源開発などを台湾開発の重要方針にしていた。打狗港建設(一九〇八年着工)、日月潭電源開発(一九一九年着工)、大甲渓電源開発(一九四二年着工)、桃園埤圳(一九一六年着工)、嘉南大圳(一九二〇年着工)などがそれである。
【3】 嘉南大圳
(1)建設の目的
日本は一九八六年に台湾を割奪し、植民地にした。植民地経営の一つとして、製糖業を保護育成した。総督府は土地調査、林野調査をおこない、大部分の土地山林を「無主地」として没収し、ほとんど無償で製糖会社などに払い下げた。甘蔗の原料採取区域を制定し、製糖工場には補助金を出した。
また、一九〇五年の日露戦争では軍用米として三〇万石の台湾米が移出された。内地米が不足(一九一八年米騒動)し、外地米移入のための水稲増産が嘉南大圳建設のもうひとつの目的だった。
八田與一は一九一〇年に大学を卒業し、台湾総督府内務局土木課に就職した。一九一六年に着工した桃園埤圳建設に係わり、一九一八年からは嘉南平野の調査をおこない、一九二〇年から始まった烏山頭ダム建設の責任者として仕事をした。
(2)計画と建設
台湾総督府は水利開発を台湾開発の重要方針にしていた。濁水渓灌漑(一九二四年灌漑開始)、桃園埤圳(一九二五年竣工)によって潅漑面積を広げ、本国の要求に応じた米、甘蔗作が推進された。
一九一七年、嘉南平野の潅漑計画を立て、調査団(八田與一)を派遣し、一九一九年十二月に決定し、一九二〇年から工事が始まり、一九三〇年九月に烏山頭系統の通水が始まった。
工事は大倉土木、鹿島組、住吉組、黒板工業、太田組が請け負った。大倉土木は二二〇〇人を超える朝鮮人を強制連行して大井川電源開発工事をおこない、鹿島組は九八六人の中国人を花岡鉱山で強制労働させ、四一八人を死亡させた札付きの戦犯企業である。
烏山頭の工事現場には約七〇〇人の日本人と約一五〇〇人の台湾人が家族とともに生活していたが、これが「善政」であるかのように言われているが、ひとつは作業効率の向上のためであり、もうひとつは逃亡防止の側面も否定できない。(炭坑・鉱山では強制連行して働かせていた朝鮮人の逃亡防止を目的にして、家族を呼び寄せていた)
(3)「三年輪作」を強制
当時の台湾では、米作と甘蔗作が対抗・競合していた。米価が上がれば稲作を、甘蔗の価格が上がれば甘蔗の作付けを選択するのは農民として当然である。製糖資本はさまざまな策を講じて、稲作を抑え、甘蔗作を守り、製糖原料を確保した。
製糖会社の甘蔗原料の買収方法は①直営大農場、②小作制大農場、③一般甘蔗作農民から買い付ける三ルートがあった。①直営大農場と②小作制大農場では農場小作人にたいして、甘蔗の種類、肥料の種類・量、耕作方法、甘蔗の輪作物、甘蔗の生産責任量まで一方的に規制し、甘蔗の耕作を強制したが、①②あわせても全糖業資本が必要とする二〇%しかなく(昭和初期)、③一般甘蔗作農民に依存せざるを得なかった。
それで、製糖会社は一般農民に耕作資金を前貸しして、甘蔗作を確保したり、民有地に大規模な水利潅漑工事をおこない、その代償として、工事施工農地の三分の一ないし二分の一に、各年甘蔗の耕作を義務づける方法をとった。この方法を国家的事業としておこなったのが嘉南大圳だった。
嘉南大圳は製糖資本のための甘蔗と内地への米移出を目的として計画し、一九二〇年に着工し、一九三〇年に完成した。嘉南大圳によって灌漑が可能になったが、一五万甲の農地への給水量が不足したことと甘蔗が連作を嫌ったために、三年輪作=三年輪流潅漑(註2)を取り入れたのである。
茂野信一は「この地域内に農業を行ふものは…三年輪作を行はなければならぬやうに制約されてある…自由耕作から一つの強制耕作に転向…水の統制による所謂強制耕作」<資料10>と書き、有安龍太郎は三年輪作が台湾農業の実情に合わないことを述べた後、「①強制に依る三年輪作促進法、②経済的誘導に依る三年輪作促進法、③道徳的誘導に依る三年輪作促進法」を検討し、「三年輪作促進対策に関しては…従来計画実行上の障害たる小作問題及経営耕地の分配等に就き対策を樹立し…之等小組合(官の狗)の統制ある能動的活動に依るを最終目的」<資料9>と述べ、一般農民には三年輪作(甘蔗作、稲作、雑作)を強制した。
(4)嘉南大圳をめぐる攻防
「台湾議会設置請願理由書」<資料20>には、「日本本国では税額の負担が一人十四円余であるのに比べ、台湾人の負担が正にその倍額に当たることを一九二二年度の統計で例証している。…また不景気の時に、五千万円六カ年工事計画の下に嘉南大圳を開鑿して地方民力を一層困窮せしめた」と、書かれている。
嘉南大圳建設には、農民は用水の土地買収に反対し、水路を破壊してたたかった。建設後、関係農民四〇数万人は多額な水租の徴収に苦しみ、不合理な三年輪作<資料8の43頁>のために作物は減収し、生活が困窮した。農民は嘉南大圳組合に①水租の減額、②土地耕作権・作物選択の自由、③三年輪作の廃止などを要求してたたかった。
台湾民衆党は一九二八年第二回全島党員大会で「嘉南大圳三年輪作反対」を決議し、台湾農民組合は一九二九年のスローガンに「埤圳管理権の奪回。嘉南大圳三年輪流潅漑政策反対」を掲げた。
一九三〇年九月、烏山頭系統の通水が始まったとき、大規模な水租不納運動が始まり、業佃協和会は水租不納同盟を決議し、台南州知事に内容証明を送り、地主一二〇人が庄役場に押しかけた。台湾農民組合は嘉南大圳闘争委員会を作り、各支部へ「水租抗納同盟」を組織し、「水租抗納」のため一千人が四庄の役場を包囲した。嘉南大圳組合郡部部長は水租未納者に差し押さえ処分を断行した。
水租納入のために人身売買がおこなわれ、「典妻売子(妻を質入れし、子を売る)」と報道された。
(5)水租の減額を勝ち取る
一九三〇年に嘉南大圳は完成し、五月から三年輪流潅漑が始まった。水租を納入できない農民は家財道具や不動産を差し押さえられ、十二月には、三一三人の所有地が競売に付された。父母が残した数甲の原野を嘉南大圳潅漑区に編入され、水租を納入できず、我が子を売る農民がいるのに<資料8の34頁>、「今期の徴収に際して嘉南大圳は莫大な臨時賞与金五十万円を吏員に提供した」「老朽退職官吏…無為徒食…巨額の俸給・賞与を与へて五百七十余万円を乱費」<資料8の36頁>と、日本人官吏の腐敗が暴かれている。それらのお金の出所は全て台湾人民から収奪した税金である。
しかし、台湾農民組合は「埤圳管理権奪回」「水租の減免」「三年輪流潅漑反対」「総督独裁政治反対」のスローガンを立ててたたかいぬいた<資料3>。業佃協和会は九月二〇日、水租不納同盟を決議し、台南州知事に内容証明を送り、一二〇人の地主が庄役場に押しかけた。九月二二日、嘉南大圳闘争委員会は各支部に指令を出し、「水租抗納」のため、一千人が四庄の役場を包囲した。
一九三一年三月の嘉南大圳組合第二七回通常総会では、借入金の高利子と負担金の過重が問題になり、一九三一年度歳入出予算の修正案が提出され、紛糾したが、原案が強行可決された。六月の第二八回通常総会も紛糾したが、強権発動で散会した。
しかし、一九三一年七月、農民は「①国庫の借入金を放棄すること、②日本勧業銀行の借入金を低利借り換え、③事務費、徴収費の節約、④職員の二割整理、三割減棒→特別水租を一六円から八円、維持費を八円から六円」という改革案を提出し、その結果、嘉南大圳組合は職員四〇〇人のうち一〇〇人を淘汰すると発表し、九月には、特別水租甲一六円八〇銭を八円に、乙二一円七〇銭を一〇円に減額させた<資料31の7>。
(6)製糖会社のわがまま
他方、従来製糖会社は二年輪作で甘蔗作をおこなっており、三年に一回の収穫しかできない三年輪作には従わなかったようだ。『日本帝国主義と旧植民地地主制』<資料19>によれば、「甘蔗は二年一作を原則とし甘蔗の輪作物として緑肥又は水稲を選び九月末日までに甘蔗を植付くるものとす」と、直営大農場だけではなく、製糖会社の権力が及ぶ小作制大農場の農民にも二年に一回は甘蔗作を強制した。
中島力男は「(三年輪作が)予定どおりいかなかった原因は海岸地帯の見込み違いと製糖会社の契約栽培にあった」「製糖会社は農民と契約栽培し、直営農場をもった。これらの農場を特別に扱ったことが三年輪作どおりにいかなかった根本問題である」<資料23>と語っているし、茂野信一は「輪作区域には…製糖会社農場等輪作不能の土地」「製糖会社農場約二万甲(ヘクタール)弱は会社の原料政策に基く蔗作経営に当るを以て斯種輪作式農業の強制は出来ない」<資料10>、降矢寿は「未だ輪作行はれざる製糖会社の直営農場三千甲歩余あり。又同社有地にして、二年間に甘蔗一作を行ふ条件の下に出撲され居る土地も相当あり」<資料11>などと書かれているとおり、製糖会社は三年輪作には従わず、嘉南大圳組合も容認していた。
(7)「三年輪作」は八田與一の発案か?
「輿一物語」には、概して「三年輪作は八田與一の発案」と書かれているが、それは神話である。『台湾の水利』<資料9>を見ると、八田與一自身が「当時私は農業の智識がないので殖産局に打合わせますと甘蔗を三年に一回植える様にしてくれと云ふ事でした。真室技師から聞きました」<資料12>と書いているし、中島力男も「三年輪作は八田與一さんの独創ではなく、台北の中央研究所の研究者が考案し、その組み合わせも考え出した」<資料23の2>と述べているように、「輿一物語」の神話化の好事例である。
八田與一は「各方面の技術者が集まって案を建てていかねば自己のみの仕事では駄目です」「各職業のマネージャーは他の部門を勉強し」(『台湾の水利』十巻五号)と語っているように、ダム建設・灌漑事業は総合的な事業であり、八田輿一にとっては農業問題は専門外であり、「三年輪作を考案した」などと書かれることは本意ではないでしょう。
(8)識者の「三年輪作」評価
以上のような台湾総督府による「三年輪作」は糖業資本には甘く、農民には辛い政策であったが、識者は次のような評価を下している<資料31の1>。
①矢内原忠雄は国家の直接援助による半官半民組織の設立、台湾総督府からの天下りによる官憲的経営、投機的な事業計画などを列挙し、農民を搾取していると指摘している。
②涂照彦は三年輪作という地域潅漑管理制度がいかに精糖会社に有利だったかを実証した。
③史明、楊肇嘉らはこの事業を製糖業保護政策の一環と見なし、台湾農民を搾取するものと考えた。
④浅田喬二は嘉南大圳水租不納運動や税金物納運動を抗日農民運動と位置づけている。
⑤顧雅文は台湾における近代的水利開発はしばしばマラリア発生の原因になったと指摘している。
まとめ
一八九五年日本は台湾を割奪したが、台湾人民は「台湾民主国」を建国し、激しく抵抗した。日本は軍隊を送り台湾人一万四千人を殺害し、領有を強行した。その後、抗日運動を鎮圧(一九〇二年)するまでに一万人以上を殺害した。八田與一が台湾総督府に着任した後、一九一五年にはタパニー事件(注3)で数千人を虐殺し、一九三〇年にも抗日運動(霧社事件)がたたかわれ、日本軍は七〇〇人を虐殺した。八田與一は数万人の台湾人民の流血の上に建てられた台湾総督府の技術官僚であった。<資料15>
台湾総督府は農民の反対を暴力的におしつぶして、強制的に土地を収用し、農民から重い負担金を拠出させて、製糖資本のための嘉南大圳を作った。体制順応型の優秀な技術者にすぎない八田與一を「偉人」に仕立て上げた「輿一物語」は歴史修正主義と結びつき、日本の台湾植民地支配を美化し、免罪する作用が働いている。
八田與一はダム完成後の一九三〇年八月には烏山頭を離れ、台湾総督府(台北)に戻った。台湾農民が水租納入に苦しみ、「典妻売子」(妻や子を売らざるを得ない状況)に追い込んだ嘉南大圳建設の技術官僚・八田與一を、私たち日本人の側から「台湾の恩人」と胸を張ることができるのだろうか。
一九四五年台湾解放後、農民は作物を選択する自由を確保し、国際競争力のない甘蔗作付けから撤退し、三年輪作は破産した。三年輪作は台湾総督府の製糖業保護育成と甘蔗の強制的作付けで成立していた農法であった。
【4】八田与一の時代認識
(『水明り 故八田与一追偲録』<資料17>より)
八田與一は日清戦争が終結し、台湾を割奪した翌年(一八八六年)に生まれ、二〇歳頃に日露戦争が起こり、兄は盤竜山で戦死し、二五歳の時に韓国併合があり、自身は台湾総督府に就職している。三四歳の時に嘉南大圳建設の責任者になり、一九三〇年に完成している。
一九四二年にフィリピンに向う大洋丸(註4)で遭難し、五六歳で死ぬまで、侵略と戦争の時代を生きた八田輿一はどのように戦争と国家を考えたのか、「輿一物語」では全く触れられていない。濱田隼雄が編集した八田輿一の追悼集『水明り』のなかで、わずかだが、その一端をうかがい知ることが出来る。
一九一〇年に起きた第六潜水艇の沈没事故で殉職した佐久間大尉について、八田輿一は「(軍神広瀬中佐よりも)佐久間の方がもっと偉いと云っても好からう」<資料17・原本41頁>と感動し、日米開戦直後の一九四一年十二月二五日には「我等の希望せる戦が来ました」<資料17・原本44頁>と書き、一貫して好戦的態度を示している。
一九四二年五月、フィリピンに出発する直前に大川周明や佐藤賢了(註5)に会おうとしたのは、八田輿一は彼らが主張する「対米英戦」「南進論」を支持していたからと思われる。
八田輿一はオーストラリア占領を願望し、「豪州に南日本が出来たら家族と共に南日本人にならうではありませんか」とアジり、「自ら先鋒の一人として豪州へ行くことも考え」ていたように、根っからの好戦主義者のようで、「(軍は)現在戦争に夢中であるが、南洋各地を調査し、何時でも進出できるよう技術者が分担する必要がある」と主張している<資料17原本45頁>。すなわち、日本軍が占領した地域に、八田輿一らの「従軍技術者集団」が進出し、「開発」し、大東亜共栄圏建設に資するものとして位置づけていたようだ。台湾占領後に台湾総督府(八田輿一ら)が糖業資本のために嘉南大圳を「開発」したように、八田輿一は中国黄河流域<資料17・原本63頁>、海南島<資料17・原本64頁>、スマトラ<資料17・原本67頁>、フィリピン<資料17・原本67頁>などの「開発」を構想している。
特に、八田輿一が命を落とすことになったフィリピン行きは、民需・軍需品としての綿花のために、フィリピンの水田を潰して棉作を計画しており、そこにはフィリピン住民の生活のことなどコレッポチも考えられていない。八田輿一は、あくまでも日本国家・資本に忠実な技術官僚として、日本軍占領地に活躍の場を求めていたのである<資料17・原本60/43頁>。台湾での嘉南大圳建設も同じスタンスである。
【5】八田與一像破壊は台湾人民の意志
二〇一七年四月一七日の新聞各紙は「一六日、台湾南部の烏山頭ダムで、日本統治時代にダム建設を主導した日本人技師、八田與一氏の銅像が壊された」と報道し、一八日は「元台北市議が犯行認める/日本人技師像破壊事件」という見出しで、「男性は一七日、自分のフェイスブックに『私がやった』などと書き込んだ。その後、台北市内の警察署に出頭した。検察によると、二人は動機について『八田氏の歴史的評価を認めないから』と述べているという」<画像資料ⓑ>と続報を流している。
屈辱を晴らす
「八田氏の歴史的評価を認めない」という動機はまったく正当である。歴史的に見れば、八田與一は台湾総督府の技術官僚であり、実体的にも思想的にも日帝の尖兵以外の何ものでもなかった。
台湾人民にとって、八田與一像は屈辱の証であり、私たち日本人にとっては植民地支配の居直りの証である。なぜなら、日本は台湾植民地支配を反省せず、謝罪せず、八田與一像を賛美することによって台湾植民地支配を美化し続けているからだ。
当然台湾人によって撤去されて然るべきであり、戦後七〇年を過ぎても残されていたこと自体が問題なのだ。
台湾人民の意志
台湾の言論界は「輿一物語」など日本の植民地支配美化に、以下のような批判を加えている。
・許介麟(台湾大学教授)『日本植民統治的後遺症 台湾VS朝鮮』(二〇一一年)
「李登輝はストックホルム症候群(註6)だ、八田與一を顕彰するなんて××化(註7)した奴隷根性だ。」(註8)
・戴国煇(台湾史研究者)『台湾と台湾人 アイデンティティを求めて』
「植民地支配による『近代化』の意図は美化に値しうるものでないことは、日本人の心ある友人もまた認めてくれるであろう。」
・何義麟(台北師範学院助教授)『「日台神話」の虚像と実像』(『インパクション120号』)<資料28>
「実際に八田技師を顕彰する事跡の紹介をよく読めば、八田技師はそこが台湾であろうと日本であろうと関係なく技術者として自分の本分を完遂しようとする、自分の仕事に責任感(プロ意識)を持つ一人の技師にすぎず、民族やイデオロギーとは無縁の人だと思える。」
「現在もっとも気になるのは、一部の日本人が台湾人の心情を理解せずに八田技師顕彰の活動に積極的に加わり、世界中で最も親日的な国・台湾で今も語り継がれる感動の物語」として、これを利用・紹介する動きである」
「大戦後、台湾人の対日感情の展開によって、台湾人を二等国民として差別扱いした日本の植民地支配の過去が『国府政権の腐敗』で塗りつぶされ、無罪放免となることはないと思う。同様に、八田與一を今でも慕う台湾農民の「民情」を利用し、植民地支配を肯定することも許される行為ではない。」
「台湾人の思いやりと善意を利用し、植民地支配の過去を美化しようとするという親台派の言説は、現在の軍事情勢において台湾を日本の生命線だとみなして重視する、もう一つの親台派の主張につながっている。」
「台日の新しい関係を発展させようとするならば、今の親台派と親日派の歴史認識および現状認識を越えて新たな枠組みで台日関係を再構築しなければならないであろう。」
・陳梅卿(成功大学副教授)『「日台神話」の虚像と実像』より孫引き<資料27>
「第一にこの水利建設のプラス面は事実だが、マイナス面はなぜ一つも提起しなかったか、たとえばダムや用水路の建設のために逐われた建設用地住民の移住問題、故郷を失う悲しみなども論じるべきだろう。第二に、実際には清朝時代から漢民族の農民の間にはすでに三年輪作の習慣があり、百以上の小規模の用水路組合も作られていた。漢民族の農耕知識を生かすことがなぜできなかったか、そして国家介入による用水路の統合でどのような変化が生まれたかという歴史的視点からの考察が欠けている。第三に、なぜ日本と台湾のいわゆる『内地と外地』との植民地支配関係を『国際協力の真の姿』と解釈できるのか、まったく納得できない。」
八田與一像の美化と排外主義
四月一七日に八田與一像の損壊が報道されるや、インターネット上では「穿った見方ですがどうも他の民族が頭に浮かんで。半島…」「これは間違いなく朝鮮人か支那人の仕業です」「朝鮮人が最も疑われやすい。過去の実績からして」「犯人はおかしな人であることは間違い無い」などの書き込みがあり、差別・排外主義が満展開している。
日本で、八田與一を評価しているのは小林よしのり(『台湾論』)ら極右である。前金沢市長・山野義之もその一人である。聖戦大碑護持会・役員の一部が維新政党・新風と日本李登輝友の会の役員と重なっている(小田村四郎、小堀桂一郎、東條由布子)。山野之義は日本李登輝友の会が発行する「メルマガ日台共栄」に「八田與一の旅①、②、③」を投稿している(二〇〇五年)。
すなわち聖戦大碑護持会≒維新政党・新風≒日本李登輝友の会=山野義之が一線につながっているのだ。
右翼の支援で神社再建
最近、台湾の元神社を再建する動きがあるという。高士神社、台中神社、鹿野神社、林田神社、玉里神社などである。松島泰勝さんは「日本の神社が台湾に二〇〇以上ありました。それが…復元されているのです。その背景には日本の右翼からの支援という動きがあります」と話している(講演録『琉球の自己決定権と平和』二〇一六年十二月)。
松島さんが言う「右翼からの支援」がどのようなレベルのものかは分からないが、今回の八田與一像の破壊は台湾植民地支配にたいする怒りと反撃である。一八九五年、日清戦争に勝利した日本は台湾を割奪し、植民地統治が始まったが、台湾人民は「台湾民主国」を宣言し、武装して戦った。日本軍は五万の兵、二万の軍夫を派兵し、半年後の十月までに一万四千人の台湾人民を殺戮し(『台湾史小辞典』)、その後一九〇二年までに一万人を殺害して(『図解台湾史』二〇一六年)、台湾を制圧した。
私たちは台湾人民の怒りに触れて、自らの思想的腐敗をあらためて認識しなければならないのではないか
【6】台湾植民地支配に正面から向き合うこと
八田與一が「おらが村のよいっあん」としてなら、多少の誇張や脚色があっても、誰も気にとめないだろう。しかし、「輿一物語」が教育現場で、歴史修正主義の教材として無批判に取り上げられていることを是とするわけにはいかない。
「輿一物語」は、日清戦争の戦利品として台湾を割奪したこと、一〇〇人に一人を虐殺して台湾支配を確立したこと、台湾人民から土地を奪ったこと、投資天国として日本資本が保護されたこと、台湾農民が恣に収奪されたことなど、「暗い影の部分」を欠落させた台湾観を子供たちに植え付けている。このままでは、子供たちは「輿一物語」を通して、美化された台湾植民地支配にたどりつく。
胎中千鶴が「こうした物語を語る日本人の心中には、日本近現代史から『いいこと』を拾い上げ、それを確認することで『日本』や『日本人』の失われた自信を回復したいという欲望があるように見える」<資料30>と指摘しているが、外国である台湾をなぜ日本(総督府)が支配していたのか、八田與一がなぜ台湾で仕事をしていたのか、一九四四年になぜ郷土部隊の第九師団一万四千人が台湾に派兵されたのかなど、日本(郷土)と台湾の関係をトータルに理解できる歴史観を形成するのが教育の使命である。
ドキュメンタリー映画『怒りをうたえ』の宮島監督は「暗いところは暗く撮影すること。いたずらに光をあてて美しく撮ろうとしないこと」と言っていた。しかしながら、「輿一物語」は工事で亡くなった台湾人民の名前を記念碑に分け隔てなく刻んだとか、八田與一の銅像を地面に直接設置したなどと、八田與一が台湾人民を差別しなかったことをしきりに強調し、日本の植民地支配を美しく描こうとしている。
そもそも植民地台湾での差別とは、民族差別であり、総督府による植民地支配そのものに源があるにもかかわらず、「輿一物語」の筆者たちはその実態から顔を背けている。
二〇二二年六月
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註1)灌漑施設を埤圳といい、大きな埤圳を大圳と呼んだ。
註2)三年輪流潅漑:甘蔗(間断給水)、水稲(連続給水)、雑作(給水ゼロ)の三年輪作にあわせて、それぞれ給水量を調節する。
註3)「タパニー事件」とは一九一五年に台南庁噍吧哖(タパニー、現・玉井郷)で発生した武装蜂起。一九五七人が逮捕検挙され八六六人が死刑判決を受け、九五人を処刑し、その他は減刑した。
註4)大洋丸は一九三二年尹奉吉を乗せて上海から神戸に向かった日本郵船の商船。
註5)大川周明:五・一五事件で禁固五年、日本主義、南進論を主張、佐藤賢了:金沢今町出身の陸軍中将、対米英開戦論者
註6)立て籠もり事件の人質が犯人に抱く同情をさす精神分析用語
註7)差別的表現なので××とした
註8)『ものろぎあ・そりてえる』より孫引き
【あとがき】「與一物語」のウラには
「総論」「論考」で、台湾植民地支配と八田與一を検証してきましたが、八田與一を「偉人」と崇める愚かしさが明らかになったと思います。
八田與一は一九一〇年に植民地台湾総督府に就職した技術官僚であり、総督府の政策として、糖業資本のために嘉南大圳を建設したのであり、八田與一は日本政府=台湾総督府の仕事を忠実にこなした一役人に過ぎませんでした。
しかし、石川県内のメディアと教育行政はこぞって八田與一を持ち上げ、子どもたちの「生きる手本」とし、再び戦争の時代の人格(体制順応型)形成を準備しているようです。
金沢ふるさと偉人館の増山仁副館長は、『水明り』(復刻版)の解説で、「現在語られる八田與一の伝記においても、一部そのような傾向(誇張)が感じられなくもない」と書き、子母澤類さん(作家)に「食糧不足の日本に米を送るために、ダムが計画された」(5・15「北国新聞」)などと語り、今頃になって「與一物語」のフェイク性を指摘していますが、金沢ふるさと偉人館こそが長年にわたって「與一物語」形成の役割を果たしてきたのではないでしょうか。
二〇〇〇年に、何義麟は「一部の日本人が台湾人の心情を理解せずに八田技師顕彰の活動に積極的に加わり、『世界中で最も親日的な国・台湾で今も語り継がれる感動の物語』として、これを利用・紹介する動き」があると、「與一物語」に警戒感を抱き、「植民地支配の過去を美化しようとする親台派」、「台湾を日本の生命線だとみなして重視する、もうひとつの親台派」が、「シーレーン防衛を念頭において台湾の軍事防衛」に口を出し、「強いニッポンを目指して台湾を日本の傘下に収めようとする軍事戦略」を立てているなどと、危機感を持って書いています<資料28>。
二〇年前のこの発言に、私たちは鈍感であってはならないと思います。今日、アメリカ・バイデン政権の「国家防衛戦略」(3・28)では、中国を「最大の戦略的競合国」と位置づけ、台湾危機を煽り、F16戦闘機(六六機)や自走砲(四〇両)を台湾に売りつけています。
岸田政権もアメリカに使嗾され、沖縄・南西諸島の軍備強化をすすめ、「新防衛大綱」では、「中国=敵国」、「台湾防衛」を明記しようとしています。また、来日したバイデンにすり寄り、経済的・軍事的に中国を封じ込める新経済圏構想「インド太平洋経済枠組(IPEF)」にも率先参加し、東アジアを戦乱の地域に変えようとしています。
「親台抗中」派政治家(安倍など)は、世論を「台湾」戦争に誘導しようとしています。「與一物語」の裏には醜い戦争準備が隠されていることを認識しなければならないでしょう。
以上
【はじめに】
【総 論】八田與一「物語」から「歴史」へ
【論 考】①~⑯(略)
【あとがき】「與一物語」のウラには
【画像・資料】(略)
【資料リスト 1~31】(略)
【はじめに】
八田與一と烏山頭ダム建設に関する検証作業(二〇一一年)からすでに十年が過ぎた。その後も、八田與一の「偉人化」は留まるところを知らず、「雨期にはこう水、乾期には干ばつ…思うように作物が育たず」<画像ⓒ>、「嘉南平原は、米や作物を栽培しようとしても、水がなく、…不毛な土地」<画像ⓓ>、「洪水や日照りのため米作りができない土地」<画像ⓔ>、「雨期の洪水と乾期の水不足に悩まされる不毛の土地」<画像ⓕ>など、どの「與一物語」を見ても、おしなべて、台湾の嘉南平原が不毛の土地であり、八田與一が農民のためにダムを造って沃野にしたという筋書きである。
まずは、嘉南大圳完成直後の農民の声に耳を傾けよう。
『新興地の悲哀』(蔡愁洞著 一九三一年『台湾新民報』)
「水よ早く来てくれ、私たちの主人は長らく君を待ってきた。君のためにどれほど苦労を重ねてきたことか! 早く来てくれないと、すべてが徒労に終わってしまう。水よ、早く来い! 十数年祈り続けてたったコレッポチ、この程度じゃ病魔を退散させられないじゃないか?」
「大老!この給水路はおまえには使わせないぞ!」
大老が水路の土手にボンヤリ立って思い悩んでいると、この言葉が聞こえたので、彼は呆然として色を失った。
「おい、聞こえたか? おまえたちは維持費を未だ納めていない、水は欲しいくせに金は出さないんだから。もう何回か通知したじゃないか、この野郎!」
水路巡視員は、さげすむように文句を並べ立てる。
「広崎さん、怒らないで下さい。私たちが維持費を払わないのではなく、業主が払うべき金なんです」
「とにかく水は絶対にやれないよ。これは郡守大人が決めたことだから、不服なら郡役所に行ってかけ合うことだな」
この侮辱に、林大老は悲憤交々の感慨が深かった。郡役所が相手にしてくれるだろうか? 我々のような糞ったれ百姓など眼中にあるだろうか? よそう、何の役にも立たないだろう。「やめた、もうやめよう! 五月六月七月は砂糖キビを植えよう。苗植えをやめれば俺をどうにもできまい?」(略)
大老は干芋汁の入ったお椀と竹箸を持って、壁穴から風が入ってくる家の中で昼食をとっていたが、折から聞こえてくる喧騒が煩わしくて、なおさら気が沈むのだった。喉につかえて食べる気力もなく、箸とお椀を置くと、雑貨屋の入り口の掲示板の前に行ってボンヤリ見ていた。砂糖キビ指定地区以外の場所に、砂糖キビを植えてはならない…(略)役所は稲の苗を植えるのを許さないし、製糖会社は砂糖キビを植えさせてくれない…。
台湾民衆は今も
台湾から明確なメッセージが届いた。二〇一七年四月十六日、「台南市内の烏山頭ダムにある日本人土木技師・八田與一氏の銅像の頭部が何者かによって切断された」のである(4・17『北陸中日新聞』)。
数日後、李承竜元台北市議は「(台湾の一部の政治家が)日本統治時代の負の面に触れず、歴史を美化する傾向に怒りを覚え、やむなくやった」「当時、(烏山頭)ダムは大日本帝国の食糧問題解決の必要から建造されたものだし、多くの農民は日本統治による圧迫と搾取で苦し」んでいたと、その動機を語った(4・25『北国新聞』)。
これにたいして谷本石川県知事(当時)は「少数の考え方の人が起こした事件」と語っているが、台湾では、「日本屠殺台湾人史実不可忘!(日本が台湾人を殺害した歴史を忘れるな)」「強烈要求日本政府向 噍吧哖(タパニー)事件道歉賠償(日本政府に要求する。噍吧哖虐殺事件を謝罪し、賠償せよ)」という横断幕を掲げてデモ行進もおこなわれた<三八頁:論考⑭の写真>。
忘れてはならないこと
台湾の多くの人々は、今も日本による植民地支配を忘れず、謝罪も賠償もしない日本に怒りを持っているが、日本では、相変わらず<台湾植民地支配=善政>などというフェイクニュースが横行している。しかし、二〇二〇年には『水明かり 故八田與一追偲録(復刻版)』(北國新聞社刊)が発行され、発行者の意図とは別に、これこそ、八田與一の実像に迫る書籍であり、ぜひとも読んでいただきたい。
<台湾人民二万四千人の殺戮から始まる植民地支配>を<八田與一によるダム建設>で帳消しにせず、日本=石川でこそ台湾植民地支配の実態を明らかにし、記憶にとどめ、謝罪し、真の友好への道を歩まねばならない。
本小冊子では、まず「画像資料」で「與一物語」を確認し、「総論」「論考」で筆者の問題意識を提示し、「資料」でその論拠にあたっていただきたい。
二〇二二年六月
(注)噍吧哖(タパニー)虐殺事件:一九一五年の民衆蜂起に日帝(台湾総督府)は数千人を負傷・虐殺し鎮圧した。
【総 論】八田與一 「物語」 から「歴史」 へ
目次
【1】「與一物語」の執筆動機
【2】台湾の歴史概観(先住民族/オランダ植民地時代/鄭氏の時代/清朝の時代/日帝統治時代)
【3】嘉南大圳(建設の目的/計画と建設/「三年輪作」を強制/嘉南大圳をめぐる攻防/水租の減額を勝ち取る/製糖会社のわがまま/「三年輪作」は八田與一の発案か?/識者の「三年輪作」評価/まとめ)
【4】八田與一の時代認識
【5】八田與一像破壊は台湾人民の意思(屈辱を晴らす/台湾人民の意思/與一像の美化と排外主義/右翼の支援で神社再建)
【6】台湾植民地支配に正面から向き合うこと
【1】 「與一物語」 の執筆動機
古川勝三が『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』(一九八九年<資料21>)を執筆した動機は「私が高雄市の日本人学校に、赴任することになった時、かつての植民地という暗い影の部分を意識していた。しかし、八田技師の業績を取材していく中で、影ばかりでなく、明るい光の部分もあったのだと、少しだけ気が楽になった」ことにある。序文を担当した高橋裕も「良心的日本人が献身的に働いていた」「現地の一般庶民の幸せを最優先に願っていた八田與一」と「光の部分」を強調している。
古川は「八田與一」を発見して、「気が楽になった」という。「暗い影の部分」には膨大な数の個々の死があり、個々の苦痛と血涙の川が流れており、アジア人民を犠牲にした植民地支配と侵略戦争の「近代」であり、決して軽く扱ってはならないし、ましてや美談でおし隠してはならない。
「輿一物語」はこの「暗い影の部分」を覆い隠す「イチジクの葉」としての役割を演じており、歴史の重圧から逃れるための自己欺瞞ではないか。日本人は「過去」を清算しなければならず、そのためには「暗い影の部分」を対象化し、アジアの被害者に心から謝罪しなければならない。
アジアの人々は一九九〇年代から日本の戦争責任(強制連行・強制労働、軍隊慰安婦)を厳しく追求し、謝罪を求めてきたが、日本政府は未だに事実を認めず、謝罪を拒否している。戦争責任を認めず、謝罪もせずに、「輿一物語」を対置して、植民地支配を美化し、居直ることによって、はたして日本人は国際社会で信頼を勝ち取ることが出来るだろうか。それは嘉南大圳に限らず、「水豊ダム(鴨緑江)」「豊満ダム(松花江)」によって、中国侵略が正当化されたり、帳消しに出来ないのと同じである。
教科書検閲によって、どの教科書も歴史修正主義に傾斜しており、自由社版歴史教科書には、「輿一物語」が掲載され、台湾植民地支配の美化に一役買っている。金沢では、子供たちの副教科書に「輿一物語」が掲載され、「郷土愛」と結びつけて、植民地支配の美化教育がおこなわれている。
台湾植民地支配の歴史を踏まえ、「輿一物語」について検証する。
【2】 台湾の歴史概観
「輿一物語」を検証する前に、五一年間の台湾植民地支配の重さについて、史明の『台湾四百年史』<資料18>、矢内原忠雄の『帝国主義下の台湾』<資料5>、胎中千鶴の『植民地台湾を語るということ』<資料30>などを参考にして概観する。恣意的な要約であり、ぜひとも原書にあたっていただきたい。
(1)先住民族
台湾では、先史時代から二〇以上の先住民族が居住し、現在の原住民はオーストロネシア語族である。一三世紀後半に中国元朝は台湾島を確認したが領有していない。オランダが台湾島に上陸するまでは原住民の島だった。
(2)オランダ植民地時代(一六二四~一六六一年まで三八年間)
一六二四年、オランダが台湾安平に上陸し、オランダの植民地経営が始まった。原住民は土地を原始的に共有していたが、オランダは原住民の土地を収奪し「皇田」とした。中国本土から労働力(一六四八年:十万人)を投入して、米、甘蔗を作付けした。砂糖はこの時代から輸出されていた。
(3)鄭氏の時代(一六六一~一六八四年まで二三年間)
一六六一年、オランダが撤退し、鄭氏の支配が始まった。鄭氏時代末までに、開墾された土地は田=七五〇〇甲(ヘクタール)、畑=一万一千甲、人口は三万戸、一五万人に増加した。鄭氏時代の「王田」の土地所有関係は封建的色彩が強かった。
(4)清朝の時代(一六八四~一八九五年まで二一一年間)
一六八三年、清軍が鄭氏を征服し、台湾を中国の版図に編入した。一七二三年から移民を開始し、西海岸から北部、東海岸南部、東北部海岸を開拓した。『台湾人四〇〇年史』<資料18>には、「清朝二百余年のうちに、全台湾が豊穣な田園と化し、中部の濁水系を境として、南は甘藷が多く作られ、北部は米の産地として知られるようになった。米は二回とれて、開拓の進展とともに生産も急増し、島内消費を賄ってなお余剰がでた」「余剰の米は食糧不足に悩む大陸・南福建地方へさかんに積みだされたのであった」と書かれている。
台湾の清朝期までは、気候(降水)と地形(水利)によって、西南部は甘蔗、西北部は米作、山間部では烏龍茶、中央山岳地では原生する楠から樟脳を製造するなどの、合理的な土地利用がおこなわれ、一八七〇年ごろ西部平地の開拓が終了し、田畑は六〇万甲に増加し(南部=甘蔗、北部=米)、人口は二五〇万人を超えた。
支配・被支配関係は<政府/墾戸(大租戸)/佃戸(小租戸)/現耕佃人(小作人)>という階級関係を形成していた。
(5)日帝統治時代 (一八九五~一九四五年まで五一年間)
日帝統治期以前の台湾農業
元々台湾で栽培されていた米は、気温の高い地域で栽培される長粒種のインディカ種(在来米)で、二期作(一月に田植えをして六月に収穫し、七月に再び田植えして十一月に収穫)が基本的な作付け体系である。インディカ種は粘り気が少なく、日帝統治期に本土の米不足を補うために、品種改良がおこなわれ、蓬莱米が多くつくられるようになった。それはあくまでも日本本土の米需要を反映し、奨励されたり、抑制されたり、決して台湾農民の生活的安定のためではなかった。
一〇〇人に一人を虐殺して植民地化
一八九五年、日清戦争に勝利した日本は台湾を割奪し、植民地統治が始まったが、台湾人民は「台湾民主国」を宣言し、武装して戦った。日本軍は五万の兵、二万の軍夫を派兵し、半年後の十月までに一万四千人の台湾人民を殺戮し(『台湾史小辞典』)、その後一九〇二年までにさらに一万人を殺害して(『図解台湾史』)、台湾を制圧した。
台湾人民二五〇万人の内二万四千人(一〇〇人に一人)を殺害し、植民地統治が始まった。八田與一は一九一〇年にこの台湾総督府の技術官僚として就職したのである。
総督府の支配秩序
台湾総督は絶対的な台湾支配者として、二五〇万近い異民族の上に君臨し、全島を支配した。総督は包括的に政務を統理し、命令、監督の諸権利を併せて行使するばかりでなく、陸海軍の総帥権と軍政権を掌握した。律令制定権は総督の強権を生みだす産婆役として本国から付与された。法律と同等の効力を発する命令を出すことが出来た。
台湾人の集会結社が禁止され、言論出版が抑制され、台湾人の土地が併呑没収され、台湾人だけの株式会社設立が禁止抑制され、公債引き受け・郵便貯金が強制され、教育・就職の差別がおこなわれた。
土地強奪と農民支配
土地調査は本国資本の進出が目的で、土地所有権の明確化、権利移転の近代的保証、租税義務を確立するためにおこなわれた。総督府は、山間僻地に居住する貧窮農民の生活を支えていた森林原野を「確証無き山林原野はすべて官有」と定め、原住民の居住区や台湾人の森林は無主地として没収し、官有化し、ほとんど無償で製糖会社や三井、三菱の企業会社に払い下げた。更に、警察の強権を使って、台湾人の所有として認定された私有地にまで併呑の触手を伸ばした。<資料13>
土地調査によって、課税対象となる耕地が四五万甲から六〇万甲に増加した。土地所有関係を整理し、大租戸(権)を消滅させ、小租戸(権)を近代法律上の地主とした。
中小地主はたえず租税の取り立てと土地収用併呑におびやかされていた。米作に従事する農民は日帝に米価を牛耳られ、台湾人の米穀商や「トウランゲン」という台湾在来の仲買人が没落すると、米の集荷、脱穀、肥料、水利などすべて総督府の食糧局や農会あるいは三井物産や三菱商事などに支配統制されるに至った。
台湾の経済と収奪
大正末期(一九二〇年代半ば)まで台湾人のみによる株式会社の設立が禁止され、台湾人系諸銀行の経営権は乗っ取られ、大東信託株式会社の弾圧、太陽鉱業の経営権奪取、旧式製糖業の併呑、パイン栽培・製缶事業が統合され、その結果、日本統治の末期までに台湾産業はすべて日本人の手中に帰し、台湾特産の米、甘蔗(砂糖)、バナナの栽培、水利施設、肥料、加工、販売、出荷、移出など経済活動の端から端まで完全に支配されていた。
台湾人には重税が課せられ、住民一人当たりの財政負担(一九四〇年)を比較すると、台湾四五五四円、日本三三三四円で、台湾財政は一八九七年から一九四二年までの四六年間で、約三六倍の収入増となった。
一九〇七年の台湾の米産額は約四六〇万石で、一九三八年には一千万石、その約半分は日本本国に積み出し、農民たちには自家消費を減量させてまで米の供出を強制した。台湾島内では米不足がおこり、ビルマなどの割安の南洋米が台湾人の常食とされた。
総督府歳入は一八九七年の約一二倍、一億三千万円、そのうち官業収入は二八倍に達した。農業生産は二億九千万円、工業生産は一九二七年に二億円を突破して、一八九七年の七〇倍、貿易総額は一四倍になった。
同じ中学卒業者でも台湾人は日本人の半分以下の待遇だった。大工、左官などは日本人なら東京並みの一日四円だが、台湾人はその半分で、工員、筋肉労働者はすべて台湾人によって占められ、熟練工で日給一円から一円五〇銭、台南地方の甘蔗園に働く農業労働者は日雇い七〇銭程度で、女子はその半分しかなかった。
台湾の「開発」(電源、灌漑)
占領後、総督府は港湾建設、甘蔗作と米作のための水利開発、工業化のための電源開発などを台湾開発の重要方針にしていた。打狗港建設(一九〇八年着工)、日月潭電源開発(一九一九年着工)、大甲渓電源開発(一九四二年着工)、桃園埤圳(一九一六年着工)、嘉南大圳(一九二〇年着工)などがそれである。
【3】 嘉南大圳
(1)建設の目的
日本は一九八六年に台湾を割奪し、植民地にした。植民地経営の一つとして、製糖業を保護育成した。総督府は土地調査、林野調査をおこない、大部分の土地山林を「無主地」として没収し、ほとんど無償で製糖会社などに払い下げた。甘蔗の原料採取区域を制定し、製糖工場には補助金を出した。
また、一九〇五年の日露戦争では軍用米として三〇万石の台湾米が移出された。内地米が不足(一九一八年米騒動)し、外地米移入のための水稲増産が嘉南大圳建設のもうひとつの目的だった。
八田與一は一九一〇年に大学を卒業し、台湾総督府内務局土木課に就職した。一九一六年に着工した桃園埤圳建設に係わり、一九一八年からは嘉南平野の調査をおこない、一九二〇年から始まった烏山頭ダム建設の責任者として仕事をした。
(2)計画と建設
台湾総督府は水利開発を台湾開発の重要方針にしていた。濁水渓灌漑(一九二四年灌漑開始)、桃園埤圳(一九二五年竣工)によって潅漑面積を広げ、本国の要求に応じた米、甘蔗作が推進された。
一九一七年、嘉南平野の潅漑計画を立て、調査団(八田與一)を派遣し、一九一九年十二月に決定し、一九二〇年から工事が始まり、一九三〇年九月に烏山頭系統の通水が始まった。
工事は大倉土木、鹿島組、住吉組、黒板工業、太田組が請け負った。大倉土木は二二〇〇人を超える朝鮮人を強制連行して大井川電源開発工事をおこない、鹿島組は九八六人の中国人を花岡鉱山で強制労働させ、四一八人を死亡させた札付きの戦犯企業である。
烏山頭の工事現場には約七〇〇人の日本人と約一五〇〇人の台湾人が家族とともに生活していたが、これが「善政」であるかのように言われているが、ひとつは作業効率の向上のためであり、もうひとつは逃亡防止の側面も否定できない。(炭坑・鉱山では強制連行して働かせていた朝鮮人の逃亡防止を目的にして、家族を呼び寄せていた)
(3)「三年輪作」を強制
当時の台湾では、米作と甘蔗作が対抗・競合していた。米価が上がれば稲作を、甘蔗の価格が上がれば甘蔗の作付けを選択するのは農民として当然である。製糖資本はさまざまな策を講じて、稲作を抑え、甘蔗作を守り、製糖原料を確保した。
製糖会社の甘蔗原料の買収方法は①直営大農場、②小作制大農場、③一般甘蔗作農民から買い付ける三ルートがあった。①直営大農場と②小作制大農場では農場小作人にたいして、甘蔗の種類、肥料の種類・量、耕作方法、甘蔗の輪作物、甘蔗の生産責任量まで一方的に規制し、甘蔗の耕作を強制したが、①②あわせても全糖業資本が必要とする二〇%しかなく(昭和初期)、③一般甘蔗作農民に依存せざるを得なかった。
それで、製糖会社は一般農民に耕作資金を前貸しして、甘蔗作を確保したり、民有地に大規模な水利潅漑工事をおこない、その代償として、工事施工農地の三分の一ないし二分の一に、各年甘蔗の耕作を義務づける方法をとった。この方法を国家的事業としておこなったのが嘉南大圳だった。
嘉南大圳は製糖資本のための甘蔗と内地への米移出を目的として計画し、一九二〇年に着工し、一九三〇年に完成した。嘉南大圳によって灌漑が可能になったが、一五万甲の農地への給水量が不足したことと甘蔗が連作を嫌ったために、三年輪作=三年輪流潅漑(註2)を取り入れたのである。
茂野信一は「この地域内に農業を行ふものは…三年輪作を行はなければならぬやうに制約されてある…自由耕作から一つの強制耕作に転向…水の統制による所謂強制耕作」<資料10>と書き、有安龍太郎は三年輪作が台湾農業の実情に合わないことを述べた後、「①強制に依る三年輪作促進法、②経済的誘導に依る三年輪作促進法、③道徳的誘導に依る三年輪作促進法」を検討し、「三年輪作促進対策に関しては…従来計画実行上の障害たる小作問題及経営耕地の分配等に就き対策を樹立し…之等小組合(官の狗)の統制ある能動的活動に依るを最終目的」<資料9>と述べ、一般農民には三年輪作(甘蔗作、稲作、雑作)を強制した。
(4)嘉南大圳をめぐる攻防
「台湾議会設置請願理由書」<資料20>には、「日本本国では税額の負担が一人十四円余であるのに比べ、台湾人の負担が正にその倍額に当たることを一九二二年度の統計で例証している。…また不景気の時に、五千万円六カ年工事計画の下に嘉南大圳を開鑿して地方民力を一層困窮せしめた」と、書かれている。
嘉南大圳建設には、農民は用水の土地買収に反対し、水路を破壊してたたかった。建設後、関係農民四〇数万人は多額な水租の徴収に苦しみ、不合理な三年輪作<資料8の43頁>のために作物は減収し、生活が困窮した。農民は嘉南大圳組合に①水租の減額、②土地耕作権・作物選択の自由、③三年輪作の廃止などを要求してたたかった。
台湾民衆党は一九二八年第二回全島党員大会で「嘉南大圳三年輪作反対」を決議し、台湾農民組合は一九二九年のスローガンに「埤圳管理権の奪回。嘉南大圳三年輪流潅漑政策反対」を掲げた。
一九三〇年九月、烏山頭系統の通水が始まったとき、大規模な水租不納運動が始まり、業佃協和会は水租不納同盟を決議し、台南州知事に内容証明を送り、地主一二〇人が庄役場に押しかけた。台湾農民組合は嘉南大圳闘争委員会を作り、各支部へ「水租抗納同盟」を組織し、「水租抗納」のため一千人が四庄の役場を包囲した。嘉南大圳組合郡部部長は水租未納者に差し押さえ処分を断行した。
水租納入のために人身売買がおこなわれ、「典妻売子(妻を質入れし、子を売る)」と報道された。
(5)水租の減額を勝ち取る
一九三〇年に嘉南大圳は完成し、五月から三年輪流潅漑が始まった。水租を納入できない農民は家財道具や不動産を差し押さえられ、十二月には、三一三人の所有地が競売に付された。父母が残した数甲の原野を嘉南大圳潅漑区に編入され、水租を納入できず、我が子を売る農民がいるのに<資料8の34頁>、「今期の徴収に際して嘉南大圳は莫大な臨時賞与金五十万円を吏員に提供した」「老朽退職官吏…無為徒食…巨額の俸給・賞与を与へて五百七十余万円を乱費」<資料8の36頁>と、日本人官吏の腐敗が暴かれている。それらのお金の出所は全て台湾人民から収奪した税金である。
しかし、台湾農民組合は「埤圳管理権奪回」「水租の減免」「三年輪流潅漑反対」「総督独裁政治反対」のスローガンを立ててたたかいぬいた<資料3>。業佃協和会は九月二〇日、水租不納同盟を決議し、台南州知事に内容証明を送り、一二〇人の地主が庄役場に押しかけた。九月二二日、嘉南大圳闘争委員会は各支部に指令を出し、「水租抗納」のため、一千人が四庄の役場を包囲した。
一九三一年三月の嘉南大圳組合第二七回通常総会では、借入金の高利子と負担金の過重が問題になり、一九三一年度歳入出予算の修正案が提出され、紛糾したが、原案が強行可決された。六月の第二八回通常総会も紛糾したが、強権発動で散会した。
しかし、一九三一年七月、農民は「①国庫の借入金を放棄すること、②日本勧業銀行の借入金を低利借り換え、③事務費、徴収費の節約、④職員の二割整理、三割減棒→特別水租を一六円から八円、維持費を八円から六円」という改革案を提出し、その結果、嘉南大圳組合は職員四〇〇人のうち一〇〇人を淘汰すると発表し、九月には、特別水租甲一六円八〇銭を八円に、乙二一円七〇銭を一〇円に減額させた<資料31の7>。
(6)製糖会社のわがまま
他方、従来製糖会社は二年輪作で甘蔗作をおこなっており、三年に一回の収穫しかできない三年輪作には従わなかったようだ。『日本帝国主義と旧植民地地主制』<資料19>によれば、「甘蔗は二年一作を原則とし甘蔗の輪作物として緑肥又は水稲を選び九月末日までに甘蔗を植付くるものとす」と、直営大農場だけではなく、製糖会社の権力が及ぶ小作制大農場の農民にも二年に一回は甘蔗作を強制した。
中島力男は「(三年輪作が)予定どおりいかなかった原因は海岸地帯の見込み違いと製糖会社の契約栽培にあった」「製糖会社は農民と契約栽培し、直営農場をもった。これらの農場を特別に扱ったことが三年輪作どおりにいかなかった根本問題である」<資料23>と語っているし、茂野信一は「輪作区域には…製糖会社農場等輪作不能の土地」「製糖会社農場約二万甲(ヘクタール)弱は会社の原料政策に基く蔗作経営に当るを以て斯種輪作式農業の強制は出来ない」<資料10>、降矢寿は「未だ輪作行はれざる製糖会社の直営農場三千甲歩余あり。又同社有地にして、二年間に甘蔗一作を行ふ条件の下に出撲され居る土地も相当あり」<資料11>などと書かれているとおり、製糖会社は三年輪作には従わず、嘉南大圳組合も容認していた。
(7)「三年輪作」は八田與一の発案か?
「輿一物語」には、概して「三年輪作は八田與一の発案」と書かれているが、それは神話である。『台湾の水利』<資料9>を見ると、八田與一自身が「当時私は農業の智識がないので殖産局に打合わせますと甘蔗を三年に一回植える様にしてくれと云ふ事でした。真室技師から聞きました」<資料12>と書いているし、中島力男も「三年輪作は八田與一さんの独創ではなく、台北の中央研究所の研究者が考案し、その組み合わせも考え出した」<資料23の2>と述べているように、「輿一物語」の神話化の好事例である。
八田與一は「各方面の技術者が集まって案を建てていかねば自己のみの仕事では駄目です」「各職業のマネージャーは他の部門を勉強し」(『台湾の水利』十巻五号)と語っているように、ダム建設・灌漑事業は総合的な事業であり、八田輿一にとっては農業問題は専門外であり、「三年輪作を考案した」などと書かれることは本意ではないでしょう。
(8)識者の「三年輪作」評価
以上のような台湾総督府による「三年輪作」は糖業資本には甘く、農民には辛い政策であったが、識者は次のような評価を下している<資料31の1>。
①矢内原忠雄は国家の直接援助による半官半民組織の設立、台湾総督府からの天下りによる官憲的経営、投機的な事業計画などを列挙し、農民を搾取していると指摘している。
②涂照彦は三年輪作という地域潅漑管理制度がいかに精糖会社に有利だったかを実証した。
③史明、楊肇嘉らはこの事業を製糖業保護政策の一環と見なし、台湾農民を搾取するものと考えた。
④浅田喬二は嘉南大圳水租不納運動や税金物納運動を抗日農民運動と位置づけている。
⑤顧雅文は台湾における近代的水利開発はしばしばマラリア発生の原因になったと指摘している。
まとめ
一八九五年日本は台湾を割奪したが、台湾人民は「台湾民主国」を建国し、激しく抵抗した。日本は軍隊を送り台湾人一万四千人を殺害し、領有を強行した。その後、抗日運動を鎮圧(一九〇二年)するまでに一万人以上を殺害した。八田與一が台湾総督府に着任した後、一九一五年にはタパニー事件(注3)で数千人を虐殺し、一九三〇年にも抗日運動(霧社事件)がたたかわれ、日本軍は七〇〇人を虐殺した。八田與一は数万人の台湾人民の流血の上に建てられた台湾総督府の技術官僚であった。<資料15>
台湾総督府は農民の反対を暴力的におしつぶして、強制的に土地を収用し、農民から重い負担金を拠出させて、製糖資本のための嘉南大圳を作った。体制順応型の優秀な技術者にすぎない八田與一を「偉人」に仕立て上げた「輿一物語」は歴史修正主義と結びつき、日本の台湾植民地支配を美化し、免罪する作用が働いている。
八田與一はダム完成後の一九三〇年八月には烏山頭を離れ、台湾総督府(台北)に戻った。台湾農民が水租納入に苦しみ、「典妻売子」(妻や子を売らざるを得ない状況)に追い込んだ嘉南大圳建設の技術官僚・八田與一を、私たち日本人の側から「台湾の恩人」と胸を張ることができるのだろうか。
一九四五年台湾解放後、農民は作物を選択する自由を確保し、国際競争力のない甘蔗作付けから撤退し、三年輪作は破産した。三年輪作は台湾総督府の製糖業保護育成と甘蔗の強制的作付けで成立していた農法であった。
【4】八田与一の時代認識
(『水明り 故八田与一追偲録』<資料17>より)
八田與一は日清戦争が終結し、台湾を割奪した翌年(一八八六年)に生まれ、二〇歳頃に日露戦争が起こり、兄は盤竜山で戦死し、二五歳の時に韓国併合があり、自身は台湾総督府に就職している。三四歳の時に嘉南大圳建設の責任者になり、一九三〇年に完成している。
一九四二年にフィリピンに向う大洋丸(註4)で遭難し、五六歳で死ぬまで、侵略と戦争の時代を生きた八田輿一はどのように戦争と国家を考えたのか、「輿一物語」では全く触れられていない。濱田隼雄が編集した八田輿一の追悼集『水明り』のなかで、わずかだが、その一端をうかがい知ることが出来る。
一九一〇年に起きた第六潜水艇の沈没事故で殉職した佐久間大尉について、八田輿一は「(軍神広瀬中佐よりも)佐久間の方がもっと偉いと云っても好からう」<資料17・原本41頁>と感動し、日米開戦直後の一九四一年十二月二五日には「我等の希望せる戦が来ました」<資料17・原本44頁>と書き、一貫して好戦的態度を示している。
一九四二年五月、フィリピンに出発する直前に大川周明や佐藤賢了(註5)に会おうとしたのは、八田輿一は彼らが主張する「対米英戦」「南進論」を支持していたからと思われる。
八田輿一はオーストラリア占領を願望し、「豪州に南日本が出来たら家族と共に南日本人にならうではありませんか」とアジり、「自ら先鋒の一人として豪州へ行くことも考え」ていたように、根っからの好戦主義者のようで、「(軍は)現在戦争に夢中であるが、南洋各地を調査し、何時でも進出できるよう技術者が分担する必要がある」と主張している<資料17原本45頁>。すなわち、日本軍が占領した地域に、八田輿一らの「従軍技術者集団」が進出し、「開発」し、大東亜共栄圏建設に資するものとして位置づけていたようだ。台湾占領後に台湾総督府(八田輿一ら)が糖業資本のために嘉南大圳を「開発」したように、八田輿一は中国黄河流域<資料17・原本63頁>、海南島<資料17・原本64頁>、スマトラ<資料17・原本67頁>、フィリピン<資料17・原本67頁>などの「開発」を構想している。
特に、八田輿一が命を落とすことになったフィリピン行きは、民需・軍需品としての綿花のために、フィリピンの水田を潰して棉作を計画しており、そこにはフィリピン住民の生活のことなどコレッポチも考えられていない。八田輿一は、あくまでも日本国家・資本に忠実な技術官僚として、日本軍占領地に活躍の場を求めていたのである<資料17・原本60/43頁>。台湾での嘉南大圳建設も同じスタンスである。
【5】八田與一像破壊は台湾人民の意志
二〇一七年四月一七日の新聞各紙は「一六日、台湾南部の烏山頭ダムで、日本統治時代にダム建設を主導した日本人技師、八田與一氏の銅像が壊された」と報道し、一八日は「元台北市議が犯行認める/日本人技師像破壊事件」という見出しで、「男性は一七日、自分のフェイスブックに『私がやった』などと書き込んだ。その後、台北市内の警察署に出頭した。検察によると、二人は動機について『八田氏の歴史的評価を認めないから』と述べているという」<画像資料ⓑ>と続報を流している。
屈辱を晴らす
「八田氏の歴史的評価を認めない」という動機はまったく正当である。歴史的に見れば、八田與一は台湾総督府の技術官僚であり、実体的にも思想的にも日帝の尖兵以外の何ものでもなかった。
台湾人民にとって、八田與一像は屈辱の証であり、私たち日本人にとっては植民地支配の居直りの証である。なぜなら、日本は台湾植民地支配を反省せず、謝罪せず、八田與一像を賛美することによって台湾植民地支配を美化し続けているからだ。
当然台湾人によって撤去されて然るべきであり、戦後七〇年を過ぎても残されていたこと自体が問題なのだ。
台湾人民の意志
台湾の言論界は「輿一物語」など日本の植民地支配美化に、以下のような批判を加えている。
・許介麟(台湾大学教授)『日本植民統治的後遺症 台湾VS朝鮮』(二〇一一年)
「李登輝はストックホルム症候群(註6)だ、八田與一を顕彰するなんて××化(註7)した奴隷根性だ。」(註8)
・戴国煇(台湾史研究者)『台湾と台湾人 アイデンティティを求めて』
「植民地支配による『近代化』の意図は美化に値しうるものでないことは、日本人の心ある友人もまた認めてくれるであろう。」
・何義麟(台北師範学院助教授)『「日台神話」の虚像と実像』(『インパクション120号』)<資料28>
「実際に八田技師を顕彰する事跡の紹介をよく読めば、八田技師はそこが台湾であろうと日本であろうと関係なく技術者として自分の本分を完遂しようとする、自分の仕事に責任感(プロ意識)を持つ一人の技師にすぎず、民族やイデオロギーとは無縁の人だと思える。」
「現在もっとも気になるのは、一部の日本人が台湾人の心情を理解せずに八田技師顕彰の活動に積極的に加わり、世界中で最も親日的な国・台湾で今も語り継がれる感動の物語」として、これを利用・紹介する動きである」
「大戦後、台湾人の対日感情の展開によって、台湾人を二等国民として差別扱いした日本の植民地支配の過去が『国府政権の腐敗』で塗りつぶされ、無罪放免となることはないと思う。同様に、八田與一を今でも慕う台湾農民の「民情」を利用し、植民地支配を肯定することも許される行為ではない。」
「台湾人の思いやりと善意を利用し、植民地支配の過去を美化しようとするという親台派の言説は、現在の軍事情勢において台湾を日本の生命線だとみなして重視する、もう一つの親台派の主張につながっている。」
「台日の新しい関係を発展させようとするならば、今の親台派と親日派の歴史認識および現状認識を越えて新たな枠組みで台日関係を再構築しなければならないであろう。」
・陳梅卿(成功大学副教授)『「日台神話」の虚像と実像』より孫引き<資料27>
「第一にこの水利建設のプラス面は事実だが、マイナス面はなぜ一つも提起しなかったか、たとえばダムや用水路の建設のために逐われた建設用地住民の移住問題、故郷を失う悲しみなども論じるべきだろう。第二に、実際には清朝時代から漢民族の農民の間にはすでに三年輪作の習慣があり、百以上の小規模の用水路組合も作られていた。漢民族の農耕知識を生かすことがなぜできなかったか、そして国家介入による用水路の統合でどのような変化が生まれたかという歴史的視点からの考察が欠けている。第三に、なぜ日本と台湾のいわゆる『内地と外地』との植民地支配関係を『国際協力の真の姿』と解釈できるのか、まったく納得できない。」
八田與一像の美化と排外主義
四月一七日に八田與一像の損壊が報道されるや、インターネット上では「穿った見方ですがどうも他の民族が頭に浮かんで。半島…」「これは間違いなく朝鮮人か支那人の仕業です」「朝鮮人が最も疑われやすい。過去の実績からして」「犯人はおかしな人であることは間違い無い」などの書き込みがあり、差別・排外主義が満展開している。
日本で、八田與一を評価しているのは小林よしのり(『台湾論』)ら極右である。前金沢市長・山野義之もその一人である。聖戦大碑護持会・役員の一部が維新政党・新風と日本李登輝友の会の役員と重なっている(小田村四郎、小堀桂一郎、東條由布子)。山野之義は日本李登輝友の会が発行する「メルマガ日台共栄」に「八田與一の旅①、②、③」を投稿している(二〇〇五年)。
すなわち聖戦大碑護持会≒維新政党・新風≒日本李登輝友の会=山野義之が一線につながっているのだ。
右翼の支援で神社再建
最近、台湾の元神社を再建する動きがあるという。高士神社、台中神社、鹿野神社、林田神社、玉里神社などである。松島泰勝さんは「日本の神社が台湾に二〇〇以上ありました。それが…復元されているのです。その背景には日本の右翼からの支援という動きがあります」と話している(講演録『琉球の自己決定権と平和』二〇一六年十二月)。
松島さんが言う「右翼からの支援」がどのようなレベルのものかは分からないが、今回の八田與一像の破壊は台湾植民地支配にたいする怒りと反撃である。一八九五年、日清戦争に勝利した日本は台湾を割奪し、植民地統治が始まったが、台湾人民は「台湾民主国」を宣言し、武装して戦った。日本軍は五万の兵、二万の軍夫を派兵し、半年後の十月までに一万四千人の台湾人民を殺戮し(『台湾史小辞典』)、その後一九〇二年までに一万人を殺害して(『図解台湾史』二〇一六年)、台湾を制圧した。
私たちは台湾人民の怒りに触れて、自らの思想的腐敗をあらためて認識しなければならないのではないか
【6】台湾植民地支配に正面から向き合うこと
八田與一が「おらが村のよいっあん」としてなら、多少の誇張や脚色があっても、誰も気にとめないだろう。しかし、「輿一物語」が教育現場で、歴史修正主義の教材として無批判に取り上げられていることを是とするわけにはいかない。
「輿一物語」は、日清戦争の戦利品として台湾を割奪したこと、一〇〇人に一人を虐殺して台湾支配を確立したこと、台湾人民から土地を奪ったこと、投資天国として日本資本が保護されたこと、台湾農民が恣に収奪されたことなど、「暗い影の部分」を欠落させた台湾観を子供たちに植え付けている。このままでは、子供たちは「輿一物語」を通して、美化された台湾植民地支配にたどりつく。
胎中千鶴が「こうした物語を語る日本人の心中には、日本近現代史から『いいこと』を拾い上げ、それを確認することで『日本』や『日本人』の失われた自信を回復したいという欲望があるように見える」<資料30>と指摘しているが、外国である台湾をなぜ日本(総督府)が支配していたのか、八田與一がなぜ台湾で仕事をしていたのか、一九四四年になぜ郷土部隊の第九師団一万四千人が台湾に派兵されたのかなど、日本(郷土)と台湾の関係をトータルに理解できる歴史観を形成するのが教育の使命である。
ドキュメンタリー映画『怒りをうたえ』の宮島監督は「暗いところは暗く撮影すること。いたずらに光をあてて美しく撮ろうとしないこと」と言っていた。しかしながら、「輿一物語」は工事で亡くなった台湾人民の名前を記念碑に分け隔てなく刻んだとか、八田與一の銅像を地面に直接設置したなどと、八田與一が台湾人民を差別しなかったことをしきりに強調し、日本の植民地支配を美しく描こうとしている。
そもそも植民地台湾での差別とは、民族差別であり、総督府による植民地支配そのものに源があるにもかかわらず、「輿一物語」の筆者たちはその実態から顔を背けている。
二〇二二年六月
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註1)灌漑施設を埤圳といい、大きな埤圳を大圳と呼んだ。
註2)三年輪流潅漑:甘蔗(間断給水)、水稲(連続給水)、雑作(給水ゼロ)の三年輪作にあわせて、それぞれ給水量を調節する。
註3)「タパニー事件」とは一九一五年に台南庁噍吧哖(タパニー、現・玉井郷)で発生した武装蜂起。一九五七人が逮捕検挙され八六六人が死刑判決を受け、九五人を処刑し、その他は減刑した。
註4)大洋丸は一九三二年尹奉吉を乗せて上海から神戸に向かった日本郵船の商船。
註5)大川周明:五・一五事件で禁固五年、日本主義、南進論を主張、佐藤賢了:金沢今町出身の陸軍中将、対米英開戦論者
註6)立て籠もり事件の人質が犯人に抱く同情をさす精神分析用語
註7)差別的表現なので××とした
註8)『ものろぎあ・そりてえる』より孫引き
【あとがき】「與一物語」のウラには
「総論」「論考」で、台湾植民地支配と八田與一を検証してきましたが、八田與一を「偉人」と崇める愚かしさが明らかになったと思います。
八田與一は一九一〇年に植民地台湾総督府に就職した技術官僚であり、総督府の政策として、糖業資本のために嘉南大圳を建設したのであり、八田與一は日本政府=台湾総督府の仕事を忠実にこなした一役人に過ぎませんでした。
しかし、石川県内のメディアと教育行政はこぞって八田與一を持ち上げ、子どもたちの「生きる手本」とし、再び戦争の時代の人格(体制順応型)形成を準備しているようです。
金沢ふるさと偉人館の増山仁副館長は、『水明り』(復刻版)の解説で、「現在語られる八田與一の伝記においても、一部そのような傾向(誇張)が感じられなくもない」と書き、子母澤類さん(作家)に「食糧不足の日本に米を送るために、ダムが計画された」(5・15「北国新聞」)などと語り、今頃になって「與一物語」のフェイク性を指摘していますが、金沢ふるさと偉人館こそが長年にわたって「與一物語」形成の役割を果たしてきたのではないでしょうか。
二〇〇〇年に、何義麟は「一部の日本人が台湾人の心情を理解せずに八田技師顕彰の活動に積極的に加わり、『世界中で最も親日的な国・台湾で今も語り継がれる感動の物語』として、これを利用・紹介する動き」があると、「與一物語」に警戒感を抱き、「植民地支配の過去を美化しようとする親台派」、「台湾を日本の生命線だとみなして重視する、もうひとつの親台派」が、「シーレーン防衛を念頭において台湾の軍事防衛」に口を出し、「強いニッポンを目指して台湾を日本の傘下に収めようとする軍事戦略」を立てているなどと、危機感を持って書いています<資料28>。
二〇年前のこの発言に、私たちは鈍感であってはならないと思います。今日、アメリカ・バイデン政権の「国家防衛戦略」(3・28)では、中国を「最大の戦略的競合国」と位置づけ、台湾危機を煽り、F16戦闘機(六六機)や自走砲(四〇両)を台湾に売りつけています。
岸田政権もアメリカに使嗾され、沖縄・南西諸島の軍備強化をすすめ、「新防衛大綱」では、「中国=敵国」、「台湾防衛」を明記しようとしています。また、来日したバイデンにすり寄り、経済的・軍事的に中国を封じ込める新経済圏構想「インド太平洋経済枠組(IPEF)」にも率先参加し、東アジアを戦乱の地域に変えようとしています。
「親台抗中」派政治家(安倍など)は、世論を「台湾」戦争に誘導しようとしています。「與一物語」の裏には醜い戦争準備が隠されていることを認識しなければならないでしょう。
以上