濱田隼雄著「技師八田氏についての覚書」
「金沢ふるさと偉人館」には『水明り』(濱田隼雄編集)、「技師八田氏についての覚書」(濱田隼雄著1942年『文芸台湾』)、『台湾の水利』(12-5)が展示されており、「技師八田氏についての覚書」(『日本統治期台湾文学日本人作家作品集』第四巻)は金沢大学図書館で読むことができた。
濱田隼雄は「文学報国」を目的とする台湾文芸協会の一員であり、台北帝国大学の教授や台湾総督府の官吏が多く所属していた。濱田は学生時代から社会主義運動や農民運動に参加していたが、台湾に行き、台湾で発表した作品は転向の傾向があり、皇民作家と評されている。代表作の『南方移民村』は台湾人や台湾社会がほとんど描かれておらず、甘蔗栽培に取り組む日本人移民が苦闘の末、「南方」に移民するという当時の政策に迎合するような展開だそうだ(「日本統治期台湾文学小辞典」より)。「技師八田氏についての覚書」もその類に漏れない。
濱田は糖業資本が「農民搾取の機関」であり、嘉南大圳建設が「農民の反感をかひ」「糖業資本にも救ひの手」「小地主、小作農にとっては…途方もない強要」と認識しながら、嘉南大圳建設(八田与一)を「島民への文化を注入」「文化の向上をめざす事業」「人間の美しい行為」として絶賛している。
植民地台湾で日本人が語る「文化の向上」「文化の注入」とは何か? それは資本主義価値観の台湾人への強制でしかない。台湾を日本の食糧基地にするために甘蔗作と稲作を推奨し、そのために嘉南大圳(ダムと灌漑施設)を建設した。台湾総督府のもとで、八田与一は体制順応型の技術官僚として、その能力を発揮したに過ぎなく、それ以上でも、以下でもない。それは八田与一が勅任官技師にまで登りつめたように、経歴そのものが如実に物語っている。
濱田によって、1942年には、八田与一の虚像が出来上がっているが、それでも1980年代以降の「八田与一物語」よりも、はるかに真実を描いている。ぜひとも、一読してほしい原資料である。
「金沢ふるさと偉人館」には『水明り』(濱田隼雄編集)、「技師八田氏についての覚書」(濱田隼雄著1942年『文芸台湾』)、『台湾の水利』(12-5)が展示されており、「技師八田氏についての覚書」(『日本統治期台湾文学日本人作家作品集』第四巻)は金沢大学図書館で読むことができた。
濱田隼雄は「文学報国」を目的とする台湾文芸協会の一員であり、台北帝国大学の教授や台湾総督府の官吏が多く所属していた。濱田は学生時代から社会主義運動や農民運動に参加していたが、台湾に行き、台湾で発表した作品は転向の傾向があり、皇民作家と評されている。代表作の『南方移民村』は台湾人や台湾社会がほとんど描かれておらず、甘蔗栽培に取り組む日本人移民が苦闘の末、「南方」に移民するという当時の政策に迎合するような展開だそうだ(「日本統治期台湾文学小辞典」より)。「技師八田氏についての覚書」もその類に漏れない。
濱田は糖業資本が「農民搾取の機関」であり、嘉南大圳建設が「農民の反感をかひ」「糖業資本にも救ひの手」「小地主、小作農にとっては…途方もない強要」と認識しながら、嘉南大圳建設(八田与一)を「島民への文化を注入」「文化の向上をめざす事業」「人間の美しい行為」として絶賛している。
植民地台湾で日本人が語る「文化の向上」「文化の注入」とは何か? それは資本主義価値観の台湾人への強制でしかない。台湾を日本の食糧基地にするために甘蔗作と稲作を推奨し、そのために嘉南大圳(ダムと灌漑施設)を建設した。台湾総督府のもとで、八田与一は体制順応型の技術官僚として、その能力を発揮したに過ぎなく、それ以上でも、以下でもない。それは八田与一が勅任官技師にまで登りつめたように、経歴そのものが如実に物語っている。
濱田によって、1942年には、八田与一の虚像が出来上がっているが、それでも1980年代以降の「八田与一物語」よりも、はるかに真実を描いている。ぜひとも、一読してほしい原資料である。