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アジアと小松

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小松基地問題研究会

台湾における土地所有関係の推移

2011年07月12日 | 台湾・八田与一
台湾における土地所有関係の推移

 『台湾を愛した日本人-土木技師八田与一の生涯』(古川勝三著)には「(94P)この当時の台湾の農民は「撲耕制度」によって結びついていた。撲耕というのは小作農のことであり、…この撲耕制度は二百年以上続いていて、地主と撲耕の結びつきが固く、とても、共同経営方式などとれない状態だった(撲=貝+菐)」と書かれています。
 『台湾人四百年史』(史明著)を参考にして、台湾における土地所有関係の推移について調べてみました。

 1624年にオランダが安平(台南)に上陸し、1661年まで植民地として支配した(38年間)。大陸から漢人を移入して(10万人)、原住民の土地(原始的に共有)を開拓させオランダ皇帝所有の皇田とした。皇田に米、甘蔗を作らせ、小作料、人頭税(清朝時代も、日帝時代も)を徴収した。

 1661年に鄭氏が台湾からオランダを放逐し、1684年まで支配した(23年間)。1690年には開拓漢人は15万人に増加し、鄭氏支配末期までに7500甲の田、11000甲の畑が開墾された。土地(王田)所有関係は封建的色彩が強く、鄭氏は開拓民(小作)に税、小作料、利子を実物納付させた。

 1683年に清朝の支配が始まり、移民を送り、西部海岸から北部、東部、東北部海岸を開拓した。200年後の1870年頃には開拓民は250万人を超えた。
 清朝時代の土地所有関係は<政府-大租戸(墾戸)-小租戸(佃戸)-現耕佃戸(小作)>となっていた。小作人にとって小作料負担が大きく、一揆がくりかえし多発した。1887年「土地清丈」が計画されたが、地主(大租戸)の反撃で破産した。

 1895年から日帝の植民地支配が始まり、大租戸を廃止し、土地所有者を小租戸に統一し、近代法上の所有権を確立した。「耕地豊富ナリシカバ、従ツテ小作農者ハ各自自己ノ欲スル土地ヲ容易ニ且ツ安心シテ数十年乃至数世代ノ間永続シテ耕作ニ従事スルヲ得タリ」(『各州小作慣行調査』)とあるように、また暴風雨や天災による減収・無収穫の場合、小作料の全部または一部が無条件に減免されるなど、清朝時代から地主-小作関係は比較的に「安定」した状態だったようだ。

 しかし、『興農倡和会』(松田吉郎論文)によれば、(台南・台中州では)帝国製糖会社、明治製糖会社が耕地を占有し、水田の甘蔗園化を進めたために、小作人にとって耕地の不足をきたし、シベリア出兵時の米価高騰の影響を受けて、小作料が増額した。すなわち、製糖会社の進出が台中州農民の小作慣行を破壊し、むきだしの地主-小作関係を強制し、小作農の生活が不安定になった時期に、糖業資本のための嘉南大圳事業が強行されたのだ。

 古川さんは「撲耕制度によって…共同経営方式などとれない状態」と嘆いているが、そもそも糖業資本が台湾の農地を次々と強奪している最中、糖業資本のための嘉南大圳事業に農民が協力しないからと言って嘆くこと自体が支配者側の傲慢さの現れではないか。
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